独断時評


旧東ドイツをどうするのか?

ゲーテの「ファウスト」にも登場する古都、ライプツィヒ。中世以来栄えた商業都市である。社会主義時代には車の排気ガスや埃で真っ黒に汚れていた歴史的建築物は、統一後美しく修復されている。バッハが聖歌隊指揮者を務めたトーマス教会の周辺は、特に観光客で賑わっている。1718年に店を開けた世界最古の喫茶店の一つといわれる「カフェ・バウム」も、見事に蘇った。西側と全く遜色のないショッピングセンターには、寿司屋まである。

ライプツィヒの中央駅は、ベルリンの中央駅が完成するまでドイツで最も立派な駅だった。これほど巨大なホールを持つ駅は珍しい。だが駅の西側には大きなホテルの廃墟がある。1915年開業の「ホテル・アストリア」は、社会主義時代には「インターホテル」という名前で営業していたが、97年から11年間も空き家になったままである。建物を買って修復しようという投資家が現れないのだ。街では、以前来たときに比べて更地が目立つようになった。古い建物を空き家にしておくと街のイメージが悪いので、取り壊して駐車場などにしているのだ。特に市東部では、空き家となった建物が多い。

ライプツィヒから15キロ西方に位置するザクセン=アンハルト州のハレの状況は、ライプツィヒよりも気を滅入らせるものだった。ヘンデルが生まれたこの街も中世にはたいそう栄えたが、社会主義時代には建物の傷みが目立った。人々が街の中心部を去り、郊外の高層団地に住むようになったため、旧市街には空き家が非常に多くなった。私が92年に訪れた時に比べると、廃墟と化した建物の数は減っていたが、それでも中心部の聖母教会の裏にすら、今にも崩れ落ちそうな民家が残っていた。なぜこうした建物を放置しておくのだろうか。

ハレから南の方角にあるメルゼブルクに車を走らせると、窓ガラスが割れた空き家がずらりと並んでいる道もあった。火災で焼けたまま、放置されている民家もある。ゴーストタウンのような雰囲気だ。ベルリンの壁崩壊から20年近く経っているのに、今なお投資家が見つからないのである。街がこのような状態で放置されていれば、東側のイメージはさらに悪くなり、投資家は近づかない。悪循環以外の何物でもない。

旧東ドイツの人口は今も減りつつある。連邦統計局によると、同地域の人口は2001年から06年までに47万人減少した。人口が2.7%減ったことになる。同時期に西側の人口が0.5%増えていることと対照的だ。仕事を求めて、テューリンゲン州やザクセン州からバイエルン州などに移り住む人は後を絶たない。

ドイツは毎年、国内総生産の5%にあたる資金を旧東地域に注ぎ込んでいるのに、経済は独り立ちできず、人口が流出する。このままでは過疎地帯になってしまうかもしれない。連邦政府は、東側の病状があまりにも深刻なので、さじを投げたように見える。統一以来、この国を観察し続けている者としては、非常に残念である。

1 August 2008 Nr. 725

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:02
 

躍動都市ベルリン

ベルリンは今、ヨーロッパで一番面白い都市である。この街ほど、急速に変化している場所は他にない。来年は、ベルリンの壁崩壊から20年目にあたる。今、ヨーロッパの若者の間では、この街に対する関心が急激に高まっており、仕事や観光でベルリンを訪れる人の数は、ここ数年大幅に増加している。ベルリン統計局の調べによると、2006年には観光客の数が前年に比べて11%増えた。特に外国からの訪問者が13.8%増加したのが目立つ。旧東ドイツの街では人口の減少が目立つのに対し、ベルリンの人口は少しずつ増えている。

かつて壁の東側だったプレンツラウアー・ベルク地区では、幼い子どもの手を引いたり、ベビーカーを押したりする市民の姿が目立つ。ベルリンで最も人気があるこの地区では、20歳から40歳の市民の比率が飛び抜けて高くなっているのだ。同地区では100年以上前の豪壮なアパートが美しく修復され、しゃれたカフェやレストラン、ギャラリーが目白押しである。しかも、ミュンヘンのシュバーヴィング地区などに比べて気取りがなく、庶民的で気さくな雰囲気だ。住みたい人が多いのも、うなずける。

現代建築に関心を持つ人にとっては、ベルリンは魅力に満ちた街に違いない。連邦議会議事堂(ライヒスターク)、連邦首相府、議員会館、中央駅、外務省など、この国の最新建築はベルリンに集中している。首都としての貫禄を少しずつ備えつつあるのだ。

だがベルリンで最も私が興味深く思うのは、「人」である。ここほど千差万別の背景を持った人々が寄り集まって生活している街はドイツでも珍しい。民族、文化、宗教のサラダボウルである。キリスト教会の尖塔がそびえているのはドイツでよく見かける光景だが、同じ街にイスラム教寺院が次々と建てられている。トルコ人が多いクロイツベルク地区だけでなく、ミナレット(モスクの尖塔)はベルリンの他の地域にも広がっている。ドイツ社会でイスラム教が存在感を強めつつあることを感じさせる光景だ。

ベルリンはミュンヘンやシュトゥットガルトほど裕福ではない。しかしここには、金だけでは測れない知性と文化の厚み、そして外国人を包含する懐の深さがある。バイエルン州の人々などに比べるとベルリン市民は外国人慣れしているし、知らない人でも気軽に話しかける傾向が強い。わずか2週間の滞在でも、そのことを強く感じた。

ドイツの政治と外交、ジャーナリズムの中心であるため、国内で最も国際的な都市だ。ラジオで、ワシントンDC、ロンドン、パリからのニュース番組が24時間にわたって原語で聴けるのも、ベルリンならではである。

そしてベルリンのもう一つの特徴は歴史である。第二次世界大戦、敗戦後の東西分割、冷戦、壁の崩壊から統一。これほど現代史のドラマが凝縮された街は、世界のどこにもない。街の至る所に、歴史を思い起こし、保存しようという試みを見つけることができる。ブランデンブルク門近くにあるユダヤ人虐殺追悼モニュメント、壁で分断されたベルナウアー・シュトラーセのベルリンの壁資料館は、ほんの一例にすぎない。ベルリンを訪れて、そのダイナミズムにぜひ触れてほしい。

25 Juli 2008 Nr. 724

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:02
 

洞爺湖サミット・ドイツの孤立

洞爺湖サミット・ドイツの孤立「温暖化防止のための努力は、原子力エネルギーについての態度だけで測られるべきではない」。洞爺湖で開かれた主要国首脳会議(G8サミット)でメルケル首相はこう語った。そこには、将来のエネルギー源をめぐる国際的な潮流の中で、ドイツが孤立している現実が浮き彫りになっている。

原油価格が1年間で2倍にはね上がるという危機的な状況の中、サミットに参加した8カ国のうち、7カ国は原子力エネルギーを現在よりも積極的に使い、石油への依存度を減らそうとしている。インドや中国などの新興国からの原油への需要は、今後もますます増えることが予想され、原油価格の高騰にいつ歯止めがかかるかは未知数である。

さらにドイツ以外の国々は、「原子力発電は二酸化炭素を出さないので、温暖化ガスの排出量を減らすという目的にもかなう」と主張している。ポーランドなど中東欧の国々も、ロシアからの石油や天然ガスに依存しなくてもすむように、原子力発電所の建設を予定している。ブッシュ米大統領は、「真剣に地球温暖化について懸念を抱く者は、原子力エネルギーの拡充に努力するべきだ」とまで語っている。つまり、シュレーダー前政権の時代に原子力発電の廃止を決定したドイツは、他の主要経済国とは全く逆の方向に歩んでいるのだ。初めて環境保護主義者たちがエネルギー政策の舵を取った、赤緑政権の遺産である。メルケル氏自身は、脱原子力政策を見直して、原子炉の稼動年数を延ばすべきだと考えている。しかし大連立政権のパートナーである社会民主党(SPD)が、原子力廃止に固執しているため、洞爺湖で他の国々に同調することはできなかったのだ。

洞爺湖サミットがきっかけとなって、ドイツ国内でも脱原子力政策をめぐる議論が激しくなっている。特にSPDの「元老」ともいうべきエアハルト・エップラー氏が、ニュース雑誌とのインタビューの中で、「憲法の中に、原子炉の新規建設を禁止することを明記するならば、原子炉の稼動年数を延長してもよいのではないか」と発言したことは注目を集めた。この発言は、原子力推進派によって「SPDも脱原子力合意の変更を検討し始めた兆し」と解釈されている。だがインタビューをよく読むと、同氏は脱原子力政策の変更を求めているわけではない。むしろ原子炉の新規建設を憲法違反とすることは、脱原子力をより恒久化することを意味している。だがあるアンケート調査によると、脱原子力政策に賛成している市民の比率は、2005年には70%だったが、今では56%に減っている。人々は、原子力発電の比率を減らし、再生可能エネルギーを拡充するためのコストの重みを徐々に感じ始めているのだ。

ドイツの原子力推進派は、洞爺湖サミットでの議論に勢いを得て、脱原子力政策を変更させるために、必死のロビイングと広報活動を繰り広げている。主要経済国として初めて原子力発電に終止符を打ち、再生可能エネルギーを積極的に振興する政策を選んだドイツは、「独自の道」を貫くことができるのだろうか。経済史上でも例のない実験の行方が、極めて注目される。

18 Juli 2008 Nr. 723

最終更新 Mittwoch, 06 März 2013 02:05
 

ドイツを覆うインフレの懸念

バカンスの季節になったが、経済については悪いニュースが山積している。昨年から回復の兆しを見せていたドイツの景気に、警戒信号が点滅し始めた。最大の理由はインフレの懸念である。5月には3.1%だった物価上昇率は、6月末には3.4%に伸びた。物価を押し上げている元凶は、原油価格の高騰だ。車を運転されている方ならば、ガソリンスタンドに立ち寄るたびに燃料の価格が高くなることに気づかれるだろう。

6月末には1バレルあたりの原油価格が140ドル台を突破し、史上最高値を記録。1年間で原油価格がほぼ2倍になった。産油国関係者からは、「今年の夏には原油価格が1バレルあたり150ドルから170ドルに達する」という声すら聞かれる。新興国の石油への需要が増えているだけではなく、投機的な動きも値段を押し上げているのだろう。新たな石油危機の到来である。

原油だけではなく、食料品や非鉄金属の価格も上昇している。インフレは生産コストの上昇につながるので、経済活動を停滞させる。ドイツの今年の経済成長率は2%前後になると予想されているが、経済学者の間では来年の成長率が半分、つまり1%に落ち込むという見方が強まっている。

物価の上昇は通貨の価値を減らす。ドイツは、第1次世界大戦後の大恐慌の際に超インフレに襲われた。このため、当時使われていたライヒスマルクが紙くず同然になり、パン1個を買うのに紙幣をトランクいっぱいに詰めて行ったり、壁紙の代わりに紙幣を壁に貼ったりするという、恐るべき事態を経験した。それだけにドイツ人は、インフレについて他の国民に比べて神経質である。

フランクフルトの欧州中央銀行は、ユーロの通貨価値がインフレによって侵されるのを防ぐために、政策金利(公定歩合)を4%から4.25%に引き上げる方針だ。インフレ・ファイターである中央銀行としては当然の措置だが、ドイツ経済にとって悪い面もある。政策金利が引き上げられると、国際的な機関投資家たちはドルや円を売り、ユーロ建ての投資を増やすので、ユーロのドルや円に対する為替レートは今後さらに上昇するだろう。現地生産を行わず、ユーロ圏で製品を作って日米に輸出する企業にとっては、ユーロ高は製品価格を釣り上げる。ドイツにとって重要な市場である米国では、サブプライム危機が収束しておらず、今後の景気の動向によっては、消費意欲が減退して輸入に悪影響を及ぼす恐れもある。燃料の高騰によって、米国での自動車に対する需要は激減し ている。

1年前には8000ポイントを記録したドイツ株式指数DAXは、すでに6500ポイントを割った。投資家たちはドイツ経済の先行きに暗雲を見ているのだ。これまで減少傾向にあった失業者数も、再び増える恐れがある。実際、ドイツ最大の電機・電子メーカー、ジーメンスは、世界中で従業員の数を1万7000人も減らす方針を明らかにした。景気の失速は、「社会保障を削減する」というシュレーダー流の改革派にとって逆風になるだろう。

11 Juli 2008 Nr. 722

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:00
 

社会的市場経済誕生から60年

「Wohlstand für alle(全ての国民に繁栄を)!」。この言葉をスローガンに、西ドイツの経済大臣だったルートヴィヒ・エアハルトが通貨・経済改革を実行してから、今年はちょうど60年目にあたる。戦争で瓦礫の山となった西ドイツは、そのあと急速に復興して不死鳥のようによみがえった。この時エアハルトは「社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)」という原則を提唱したが、この言葉は今日に至るまで、ドイツの経済モデルを象徴するものとして世界的に有名である。

社会的市場経済とは、一言でいえば競争と平等を同時に実現しようとするものだ。企業は競争を行うが、それは政府が定めた一定の枠の中で行われなければならない。勤労者が搾取されないように、労働時間や休暇についても法律で厳しく規定する。市民の間の格差が広がらないように、政府が企業の自由を制限したのである。競争に敗れた人、病気になったり失業したりした人には、政府が社会保障制度によって安全ネットを提供する。社会保障サービスが非常に少ない米国や英国とは対照的だ。

つまり西ドイツは、自由放任主義を基本とする、米英型の市場経済とは一線を画する資本主義を採用したのだ。このため私は、ドイツの社会的市場経済を「人間の顔を持った資本主義」と呼んでいる。アングロサクソン型の資本主義と区別するために、西ドイツの首都ボンがライン河畔にあったことにちなみ、「ライン型資本主義」と言われることもある。

ところが、いま社会的市場経済は大きく揺さぶられている。経済成長率が鈍化したのに、医療費や年金、失業保険の給付金など、社会保障サービスにかかるコストは急激に伸びている。社会保険料が高いためにドイツは労働コストが世界でトップクラスになってしまい、国際競争力が低下。工場が中東欧に移される原因の一つとなっている。

米国の経営学者らの間では、「社会的市場経済はコストがかかりすぎて、グローバル化の時代には適していない」という批判が出ている。また市民の間でも、社会的市場経済に対する不信感が強まっている。特に、シュレーダー前首相が財界の立場を代弁して、社会保障を削る改革を実行し始めてからは、庶民の間で「政府は自分を守ってくれないではないか」という不満が募っている。

1960年代の高度経済成長期に行われた世論調査では、「社会的市場経済ではもっと自由な分野を拡大するべきだ」という意見が強かった。しかし今では、将来に対する不安を訴え、「もっと生活の安全を保障してほしい」という声が大勢を占めるようになった。

ドイツ人が社会的市場経済を廃止して、米国型の経済に切り替えることはありえない。しかし、60年前の経済モデルをそのままグローバル化の時代に適用するのも無理がある。ドイツ人たちは、社会的市場経済を修正して、エアハルトの理想だった「平等と自由のバランス」を保つことに成功するだろうか?この問題は来年の連邦議会選挙でも重要な争点になる。世界中で幅を利かせる米国式経済モデルに対抗するためにも、「人間の顔を持つ資本主義」はぜひ存続させてほしいものだ。

4 Juli 2008 Nr. 721

最終更新 Donnerstag, 20 April 2017 14:00
 

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