Hanacell
独日なひと


ルドルフ・ヴァインスハイマー チェリスト

ミヒャエル・G・ゴルドナールドルフ・ヴァインスハイマー
Rudolf Weinsheimer

チェリスト

1931年ヴィースバーデン生まれ。8歳でチェロを始める。北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・チェロ奏者を経て、1956年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のチェロ奏者に就任。1978年から84年まで楽団員代表を務めた。1996年、定年により引退。1997年にドイツ連邦政府より功労十字小綬章を、2015年に日本政府より旭日小綬章をそれぞれ受章した。

「人生を変えた日」というものがある。ベルリン在住のチェリスト、ルドルフ・ヴァインスハイマー氏にとってその日とは、紛れもなく1956年6月1日だった。氏の言葉には、60年前に味わった驚きと感動が今もほとばしる。

1955年のある日のことです。当時私が所属していたヘルフォルトの北西ドイツ・フィルの同僚から、ベルリン・フィルがチェロ奏者を一人募集していることを聞きました。私は自分への一大挑戦と決意して、その日のうちに願書を送りました。すると半年後、ベルリンからオーディションの招待状が届いたのです! 私は興奮して、すぐに猛練習を開始しました。

ベルリン・フィルのオーディションでは、芸術監督のカラヤンを始め、楽団員全員が顔を揃えます。私は誰か聴いてくれる人が欲しくて、それから3週間、毎晩台所に行って下宿先のおかみさんの前で演奏しました。彼女は熱心に聴いてくれただけでなく、毎回香りの良いコーヒーを用意してくれました。

迎えた56年6月1日のベルリンでのオーディション。いよいよ私の番になって舞台に立つと、あのカラヤンが目の前にいます。鼓動が高まり、さあ弾こうと思ったとき、後方のドアが開きました。するとその奥の食堂から、コーヒーの香りが漂ってきたのです! 突然、私は台所のおかみさんの前にいる気分になり、完全にリラックスして弾くことができました。

夕方の最終選考の後、楽団の代表者が私のところに来て、「われわれのオーケストラはあなたを選びました」と告げました。今も忘れられません。私の人生を変えた一言です。

まさに黄金時代を迎えようとしていたルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルは、翌1957年、初の来日公演を行う。その直前、ベルリンの独日協会がベルリン・フィルのメンバーを招待して、日本について紹介する機会を作った。ヴァインスハイマー氏はそのとき同じテーブルに座っていた女性に一目惚れをする。

当時、独日協会の会長を務めていた日本学のヘルベルト・ツァッヘルト教授の令嬢フリーデルさんだった。戦前、ツァッヘルト教授が旧制松本高校で教鞭をとっていた時代に信州の松本で生まれたフリーデルさんは、日本人とのハーフの母親を持つ。その2年後、ヴァインスハイマー氏はフリーデルさんと結婚。日本との関係も自然と密になってゆく。

35歳の誕生日に、私はチェロの同僚3人を招いて、自宅でチェロ・カルテットの曲を演奏しました。その演奏に感銘を受けた義理の父は、「早稲田大学の大隈講堂というところで演奏してみないか?」と私に提案したのです。彼は当時ボン大学日本学科の教授を務めており、ボン大学と早稲田大学は姉妹校だったことで、学生や教員の交流が活発に行われていました(これは現在まで続きます)。1966年、ベルリン・フィルの2度目の来日公演の際、われわれ4人は大隈講堂で演奏し、約1500人の学生たちから熱狂的な喝采を受けました。これが今日まで交流が続く早稲田大学との最初の出会いです。

面白いことに、このチェロ・アンサンブルは4人では終わらなかった。

1972年3月、12人のチェロのために書かれた珍しい曲があるというので、ザルツブルクのモーツァルテウムでベルリン・フィルのチェリスト全員で公開録音を行いました。これが後に有名になるアンサンブルグループ「ベルリン・フィル12人のチェリストたち」の誕生の瞬間で、私はそのリーダー役を務めることになりました。1974年にわれわれは本格的なデビュー公演を行いますが、その「リハーサル」として、初めて一公演のプログラムを通して演奏したのも大隈講堂だったんですよ。

これまで数々の場所で演奏してきましたが、特に忘れられない経験の一つが天皇皇后両陛下の御前で演奏したことです。私は当時、近所のシュラハテンゼーという湖の周りをジョギングするのを日課にしていましたが、ある日、走りながら「ドイツのヴァイツゼッカー大統領から、即位された天皇陛下へのお祝いとして『12人のチェリストたち』のコンサートをプレゼントするのはどうだろう?」というアイデアがひらめいたのです。

大統領に連絡を取ると、私の提案にすぐに賛同してくれて、1992年7月、われわれは皇居にて両陛下の前で演奏する光栄に浴しました。両陛下は音楽に大変理解がおありで、その後も折に触れてわれわれのコンサートを聴きに来てくださいました。

この1992年、ヴァインスハイマー氏はもう一つ、「途方もない」コンサートを実現していた。ベルリンのツェーレンドルフ地区が750周年を迎え、区長から「アマチュアのチェリストと一緒に演奏する特別な機会を作ってもらえないか」という依頼を受けた。ベルリン・フィルの12人のチェリストのうち9人がこの地区に住んでいる縁もあった。早速、演奏会を企画したところ実に老若男女341人のチェリストが集まり、やはり記念年を迎える隣のポツダム市の新宮殿前でハーモニーを奏でたのだ。が、話にはまだ続きがある。

その数年後、私は日本ツアーの際に神戸の串揚げ屋「串乃家」のオーナー、松本巧さんと出会いました。「ポツダムでこれだけのチェリストが集まった。日本でやったらもっと大きなチェロの祭典にならないだろうか」と自身アマチュアのチェリストである松本さんに相談したところ、「神戸でやるならぜひ協力したい」とオーガナイズを了承してくれました。

1998年、アマチュアとプロを交えた1013人による前代未聞の「1000人のチェロ・コンサート」が、阪神大震災のチャリティー公演として神戸で実現します。このコンサートはその後も数年ごとに開催され、2015年には東日本大震災への復興支援として仙台で行われました。

1998年に始まった「1000人のチェロ・コンサート」

1998年に始まった「1000人のチェロ・コンサート」
1998年に始まった「1000人のチェロ・コンサート」

4人のチェリストから1000人のチェリストへ。いずれも日本との縁を経由して生まれた友情の輪だった。2015年秋、ヴァインスハイマー氏は「日本・ドイツ間の音楽を通した交流及び相互理解の促進に寄与」したことで日本政府より旭日小綬章を授与された。85歳を迎えた今も、名誉顧問を務める早稲田大学交響楽団の海外公演の実現のためにサポートを続けている。

このアマチュア音楽家の楽団は、2018年に通算15度目となるヨーロッパツアーを計画しています。年齢的に見て、私が直接関わるのは次が最後になるでしょう。音楽は平和に貢献します。これまで信じられないほど卓越した演奏を披露してきた彼らのために、素晴らしい演奏旅行の場を作りたいと思っています。

(取材・文:中村真人)

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 11:43
 

ミヒャエル・G・ゴルドナー ツヴィリング・グループ

ミヒャエル・G・ゴルドナーミヒャエル・G・ゴルドナー 
Michael G.Gordner

ツヴィリング・グループ、 キッチン用品部門役員

1998年ツヴィリング社に入社。1998~2011年ツヴィリング J.A. ヘンケルスジャパンの社長を務める。
2012年からゾーリンゲンのツヴィリング・グループ本社に、キッチン用品部門の役員として在籍。家族は妻と息子1人。51歳。

1731年6月13日、刃物の町として知られるゾーリンゲンの刃物職人ギルド(Messermacherrolle)に、ヨハン・ペーター・ヘンケルスが双子座のマークを登録した。これが、その後284年の長きにわたって人々に愛される刃物やキッチン用品を生み出すツヴィリング J.A. ヘンケルスの始まり。「最高のものを持つ歓び」というカンパニースローガンを掲げて前進してきたキッチンメーカーは、日本とも深い関わりを持つ。「まず、『頑張ります』と言って問題に取り組む日本の職人の姿勢は素晴らしい」。そう語るのは、ツヴィリングJ.A. ヘンケルスジャパンの社長を13年間務め、現在はゾーリンゲンの本社でツヴィリングのキッチン用品の魅力を世界に発信する役目を担うゴルドナー氏。

ツヴィリング・グループは、日本にも工場をお持ちです。日本に工場を持つに至った経緯は?

私たちは世界中に工場を持っています。刃物工場を日本に持つという決断は、各国にまたがる消費者の要求を的確に、しかも十分に満たすために打ち立てられたグローバル戦略に沿ったものでした。特に日本は、とても古い、しかも独自に発展した刃物文化を持っています。それは、日本のお客様が選ぶ包丁が、ドイツや米国とは全く異なることからも明らかです。日本市場に乗り出すには、日本の職人による、日本のお客様のための、日本人に愛される包丁を造る必要があったのです。

日本とドイツ、両国の職人と共に仕事をしてこられて、感じる違いはありますか?

日独の職人に、大きな違いは感じません。ドイツの職人も日本の職人も、熱心に、そして慎重に仕事をする気質を持っていると思います。ドイツでは大量生産向けの刃物をより多く造り、日本では手仕事の割合の多い数量限定の刃物を造るという、我々ツヴィリング・グループにおける日独の工場の役割の違いはあります。我々の工場がある岐阜県関市は、ドイツのゾーリンゲンのように「刃物の町」として有名です。そのため、確かな技術力と経験を兼ね備えた職人に恵まれています。

日本の職人と一緒に製品を造り上げることの魅力は?

日本の技術者の新商品の開発における仕事の速さと柔軟性には、目を見張りました。それがたとえ、一見かなりの難題であったとしても、ドイツでは往々にして“das geht nicht(それは無理です)”の一言であきらめてしまいそうな場面ですが、まず、「頑張ります」と言って問題に取り組むのが日本の職人なのです。

日本の職人の技が、ドイツの老舗ブランドの革新を支えている。世界最高のナイフビルダーと称されるボブ・クレイマー氏がプロデュースし、この岐阜県関市のツヴィリング日本工場で造られた「ボブ・クレイマーシリーズ」は、日本のみならず、世界で話題の一品となった。

日本では社長を務めていらっしゃいました。日本に勤務されていた際、どんなところが気に入りましたか?

静かさ、秩序、人の親切といったものに、とても感動しました。日本は古い文化的背景を持つ面白い国、何年住んでも、新しい発見の連続でした。

日本勤務でご苦労はありましたか?

もちろん。母国とは文化的な違いのある国で、しかも日本語を全く話せない状況で始まった私の日本滞在は、まさに1つの挑戦でした。その苦労は、言語の壁を克服することによって(私にとっては文字の壁の方が高かった)徐々に少なくなっていきました。仕事においても、プライベートにおいても、人は身近なところで「ワークアラウンド(応急処置)」の方法を比較的すぐに身に付けるものです。日本で暮らした日々を思い返すと、とても良い思い出ばかりで、滞在時の苦労はちっぽけなものでした。

280年以上の伝統を持つツヴィリング・グループ。時代は変われども変わらない、ツヴィリングの哲学とは?

ツヴィリングほど長い歴史を持つ企業も珍しいですが、すべての老舗といわれる企業に共通していることは、高品質な商品を目指しているということです。我々がまず第一に考えるのはお客様のこと、そして彼らの満足度。商品がお客様の期待に応えられているかどうかが、最終的に品質維持に直結します。しかも、それは今日に限ったことではなく、明日も明後日も、これまでの284年間もずっと、基本的なツヴィリングの哲学の柱であり続けます。

弊誌の読者にお勧めの商品は?

日本人のお客様に、包丁やはさみのメーカーとして知られているツヴィリングですが、そのほかにも便利で美しい製品がたくさんあります。デュッセルドルフのケーニヒスアレーをはじめ、ドイツ各地にあるツヴィリングの旗艦店(フラッグシップストア)をぜひご訪問ください。皆様の期待以上の商品をご用意してお待ちしております。

日独関係の未来について、一言お願いします。

日本とドイツには似ている面がたくさんあります。両国の関係が良好な理由は、そこにあると思っています。それをこれからも、変える必要はありませんよね?

(取材・文:編集部 高橋 萌)

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:17
 

渡辺レーグナー嘉子・DeJaK-友の会代表

渡辺・レーグナー 嘉子渡辺・レーグナー 嘉子 
Yoshiko Watanabe Rögner


公益法人文化を配慮した介護 DeJaK-友の会の代表。
2011年、"老後を考える会"の代表として、ノルトライン=ヴェストファーレン州の厚生大臣より表彰を受ける。日本語教師。「ドイツ会話と暮らしのハンドブック」(三修社)、「Bildwörterbuch zur Einführung in die japanische Kultur : Architektur und Religion」(Buske)など、日本とドイツで出版した著書多数。

仕事をリタイヤした後、60代、70代、そして80代になった自分が、どこで、どんな暮らしをしているか、考えてみたことはありますか? 「がむしゃらに海外で挑戦中の今、そんなこと想像したこともない」という人もいるかもしれません。しかし、どの国で老後を迎えるとしても、「無防備に老後に突入すると大変なことになる」と、そう警鐘を鳴らすのが、今年3月に発足した「DeJaK-友の会」の代表を務める渡辺・レーグナーさん。ドイツで老後を迎える日本人が直面する問題とは何か、そして、その解決のために動き出したDeJaK-友の会が目指す介護のあり方について伺いました。

2009年現在、ドイツに住む70歳以上の日本国籍者は600人以上。統計に含まれていない人、ドイツ国籍を取得した人も入れると、その数はもっと増えるそうですね。ドイツで老後を迎える日本人が直面する現実について、私たちはどのようなことを知っておくべきでしょうか?

老後ドイツ社会の中で、ドイツ人に紛れるように数十年間を暮らしていても、老年に差し掛かると徐々に日本人であることを思い出していく過程が皆さんにあるようです。

例えば、こんな話を聞きました。ある日、「近所の日本人の様子が変だ」というドイツ市民からの通報を受け、日本総領事館の職員がその家を訪問したそうです。日本語で声を掛けても一向にドアを開けてくれない。それから毎日、「大丈夫ですか?」と声を掛けるも応答はなく、しかも、どうやら食料も底をついた様子。その日本人の方は、認知症が進んでいて、人に対する不信感、特にドイツ人やドイツ語に対する抵抗感が強くなっていたようです。総領事館の職員が何日も通ってやっと顔を合わせることができた。その後、健康を少し回復されたその方は、結局日本へ帰国されたそうです。

このように周りの助けを得られるケースは珍しいのでしょうね。

近所の日本人との付き合いが密だったり、総領事館や大使館の人の目が届くところにいらっしゃればいいですけど、大都市から遠く離れた町に住んでいると難しいでしょう。私たち、現在60歳代の世代だと日本人とのコンタクトは一応あります。でも、もう少し上の年代の方々になると、圧倒的に日本人同士の交流が少なくなります。田舎の町に日本人1人とか、そういった環境でバラバラに暮らしている方が多いんです。ドイツ人の中に入り込んで暮らしている。これは、日本人の良いところでもあるんですが……。

「郷に入れば、郷に従え」という意識で、ドイツ社会に上手く適応しているんですね。

はい。ところが、年を重ねると徐々に、まずは言葉ができなくなる。8歳以降に習った言葉は最終的に失う可能性が高いという研究結果もあります。そして、だんだん食べ物も受け付けなくなる。そういった問題が実際にあるということが分かってきました。

私自身が、身を持って体験した老後体験は、ある81歳の女性との出会いから始まりました。その方は、ドイツ社会にうまく同化して暮らしていて、お友達もドイツ人の方が多く、ドイツ語も堪能で学識も高い方。ドイツでの生活にさほど苦労せずに暮らしてこられた。ところが、ドイツ人のご主人が亡くなられてからほどなくして、認知症を発症。その後、現地の友人との付き合いが難しくなってきて……。そういう状況の中、私はその方とお付き合いさせていただくことになったのです。そして、認知症の症状がどんどんひどくなっていく過程を目の当たりにすることになりました。食べ物については、やはり日本食を強く求めるので、私が作って差し入れたりということをしていました。物忘れもひどくなり、テレビの付け方が分からなかったり。最終的には体も弱くなってしまったので、老人ホームに入所されました。

ドイツ人の後見人がいて、基本的にはその方が面倒を看てくれていたので、私は日本語の書類について協力したり、日本人としてできることをするだけという立場でした。でも、認知症が進むに従って明らかになってきたのは、あんなに堪能だったドイツ語が分からなくなってきているということ。すると本人は、不安なんですね。質問に対しては、「Ja」「Nein」で答えるんですが、不安そうで。その内に、なんで自分が老人ホームにいるのかも理解できずに、逃げ出そうとすることも。昔のことはよく分かっているに、短い間の記憶がない。「どうして? あの人は誰? ここはどこ?」と、常に警戒している。それでも、私が日本語で話し掛けると、安心して笑顔も見せてくれるんです。ホームの介護士さん達によると、その違いはまるで別人のようだと。人格が変わってしまうくらい、不安になってしまうんです。

言葉が分からない土地で、認知症が進む怖さです。認知症を発症する前は、日本人と距離を取っていらした方でも、「日本人に会いたい」と、そればっかりになる。ドイツ語やドイツ的な顔立ち、外国人である自分を見る表情、そういったもののすべてを受け入れるのが難しくなる。

たとえ50年以上ドイツに暮らしていたとしても、感覚が幼少期に過ごした故郷・日本に帰っていくんですね。

私がお付き合いしていた女性の場合、経済面で比較的余裕があったので、週に1回でも日本食レストランで外食したら良かったのにと思うんですよね。ところが、後見人がドイツ人で、しかも、お寿司を見るのも嫌だというタイプ。そうすると、日本食を求める気持ちを理解してもらえない。彼女が「お寿司が食べたい」と言うと、中華インビスや現地のスーパーで買ってきたものを差し出す。彼らに全く悪気はないんですよ。それが、日本人が求める日本食だと思っているから。

食事に関して最も問題になるのは、ドイツの老人ホームや病院では毎日ドイツ食が出されること。「ドイツの病院に入院したら病気になる」なんて言う人がいるくらい、食は心身に影響を及ぼします。

食事

文化の違い、言葉や食事、生活習慣の違い。老齢期に差し掛かり、老人ホームに入ったとき、そういったものがとても大きな問題になってくる。私はこの女性との出会いで、人生観が変わるほど痛切に、そのことを感じました。

海外で老後を迎える日本人には、日本人としての介護が必要になる。介護そのものが文化で、文化を尊重したものでなくてはならない。こういった、介護における文化的問題に対応するため、私達は「DeJaK-友の会」を立ち上げました。Deutsch-Japanischer Verein für kultursensible Pflegeという名前が示す通り、日本とドイツの文化を考慮・配慮した介護を目指すための会です。ドイツ各地に存在する邦人の老後について考える会や団体と手を組んで、地域の枠を超えて情報を共有し、専門家と共に問題解決に向けた具体的な行動を起こしていきます。

はっきりしていることは、老後の問題は個人でなんとかできる問題ではないということです。私たちはここでドイツ市民として暮らしていて、ドイツという国は、国内に住む外国人を介護することを当たり前のことだと思ってくれているんです。2009年には、「外国人のための介護」をテーマに、プロジェクトを推進するキャンペーンが全国的に行われました。ところが、現実的にはなかなか上手くいかないんです。それはなぜか。当事者の意識がまだまだ低いからです。

老後を目前にした当事者が、「当事者意識」を持てていないと感じていらっしゃる。

そうです。あまりに辛い、暗い現実から目を背けてしまっている場合があります。仲間内で励まし合うことも大切なことだけれど、本当に深刻な状況になったとき、どうするのか。日本に帰るのか、ドイツに残るのか。その選択に必要な情報を持っているか。手続きができているか……。DeJaK-友の会ではまず、情報をどんどん集めて、皆さんに提供していくことを課題としています。自分たちが将来の当事者であることは確かです。そして、老後に入ってから、または認知症になってからでは遅いんです。そうすると自分ではもう、何もできません。当事者が動かなければ、誰も何もしてくれない。待っているだけではだめなんです。在独邦人の介護のために、ドイツや日本の制度を改正してもらう必要があるなら働き掛け、介護について現実的な話し合いをしましょう。

私達、DeJak-友の会では老人ホームなどに働き掛け、会員が見学に行って情報を集め、いずれ必要な時が来たら自分たちが入れる老人ホームを探そうとしています。そして、そこに日本人が集まって、日本人のための介護が受けられる体制を整えていけるようにしよう。それが、会の目標です。

老人ホームに入ったとき、日本人が1人ぽつんと入っているのでは、寂しいんですよね。ドイツ語で介護を受けることも、当人にとっては難しい状況ですから。だから、日本人が1人いるだけで救われる。日本人の先生や介護士がいてくれたら最高ですが、現実的には難しい。そこで、ボランティアの力を借りようと考えています。日本語で話す相手がいる、それだけでも状況は大きく改善されます。ボランティア活動を組織し、ドイツの老人ホームの中で日本人が安心して過ごせるような体制を整えていきたいのです。とにかく今、老後を目前に控えている、もしくは当事者となっている私たちから始めよう! そして、次の世代が引き継いでくれて、どんどん活動が広がれば良いなと思っています。

法律や制度を変えるためには時間が掛かるけれど、日本人の介護のあり方、こうあったら良いなという想いを形にして、経験と実績をどんどん積み重ねていこうということですね。日本でも、「老後難民」などの言葉に現れるように、老後の生活に対する不安が高まっています。

日本でさえ厳しい現実。ドイツで老後を迎えた日本人が様々な問題に直面することは、火を見るより明らかな事実です。「どのみちボケちゃうんだからいいや」と言う人もいます。でも、ボケても感情はあるんです。私達は、人生の最後の日々、辛い想いをして暮らす日本人が少しでも減るようにと願っています。ドイツでの老後について興味がある人、心配なことがある人は、私たちと一緒に考えていきませんか?

山積する老後の問題に、真正面から向き合う渡辺・レーグナーさん。人生を最後まで謳歌するために、今できることをしよう。世代を超えて手と手を取り合い、日本の文化に根差した絆を紡いでいこう。DeJaK-友の会の活動の先に、笑顔溢れる介護の現場が見えてくるかもしれない。


インタビュー・構成:高橋 萌
Illustration: ©31design / www.31design.biz


講演会 「家族とボランティアのための介護ヒント」
― 心の準備と知っておくべき初期症状 ―


日時 2012年8月7日(火)18:00~19:30
講師 鳥取大学医学部附属病院
平松喜美子特任教授
会場 Diakonie Oberkassel 1階会議室 (カフェのカウンターの左)
Dorothee-Sölle-Haus, Hansaallee 112, Düsseldorf
主催 公益法人 文化を配慮した介護 DeJaK-友の会
www.dejak-tomonokai.de
最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:17
 

眞峯紀一郎・ヴァイオリニスト

眞峯紀一郎眞峯紀一郎 まみね・きいちろう
ヴァイオリニスト

1941年東京生まれ。5歳の時から長野県松本市にて鈴木鎮一に師事(才能教育第一期生)。国立音大卒業後、69年旧西ベルリンに留学、翌年ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団に入団し、73年よりバイロイト祝祭管弦楽団のメンバーにもなる。82年以来、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会のバッハ合唱団の理事、バッハ・コレギウムの責任者を務めている。

9月9日、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会で、東日本大震災のチャリティーコンサートが開催される。ベルリンのプロオーケストラに在籍する約15人の日本人音楽家が一同に会するという初めての試みだ。このコンサートのまとめ役を引き受けているのが、ヴァイオリニストの眞峯紀一郎さん。長年、ベルリン・ドイツ・オペラとバイロイト祝祭管弦楽団で弾き、定年後は教育活動でドイツ中を奔走、また <バイロイト・フェスティバル・ヴァイオリンカルテット>のメンバーとしても演奏活動を続ける眞峯さんに、このコンサートに向けての意気込みを伺った。

ベルリンのプロオーケストラに在籍する日本人音楽家のほぼ全員が集まって、1つのコンサートをするというのは初めてのことだそうですね。どういう経緯で実現することになったのでしょう?

事の発端は全くの偶然でした。今年5月、路上で久し振りにヴァイオリニストの知人に会いました。彼女の子どもが通っているベルリン日本語補習校の父兄の間で、ベルリンのオーケストラに在籍する日本人音楽家が集まって、何かできないだろうかという話が出たそうです。どなたかまとめてくれる人がいないだろうかと、その役に私の名前が挙がっていたところで、ちょうど私にばったり会ったというのです。正直言いまして、最初は無理だろうと思いました。こういうことは今までベルリンで実現したことがないし、私の時代に比べたら日本人音楽家の数もずっと増えている。1つにまとめ上げるのは大変でしょう。

そこでまず、ヴァイオリニストの町田琴和さん(ベルリン・フィル)と日下紗矢子さん(コンツェルトハウス管)に御相談したところ、大変協力的で、そこからすうっと決まっていきました。会場に関しても、長年お付き合いのあるカイザー・ヴィルヘルム記念教会に問い合わせてみると、候補の9月9日が運良く空いていました。ベルリン・フィルの樫本大進さんにもお尋ねしてみたら、「この日に予定されていたコンサートがキャンセルになりそうなので、その場合は喜んで出演します」と言ってくださいました。皆さんがとても意欲的なことに加え、いくつもの幸運が重なって実現できることになりました。

「なぜ日本人じゃないといけないのか」「なぜオーケストラの団員でないといけないのか」と叱責も受けました。多くの仲間たちに声を掛けられず、残念に思っていますが、決して国粋主義でもエリート主義でもありません。今回が初めてですし、20人以上をまとめるだけでも大変。もちろん皆さんに手 伝っていただいていますが、これ以上増えると私1人では難しい。そこでベルリンのオーケストラのメンバーで固めて、足りないパートは補うというやり方にしました。間口を広げ過ぎるとキリがありません。アンサンブルの特徴も大切です。ベルリンの オーケストラの日本人メンバーが集まって何かをやるということで、対外的にアピールできるのではないかと思ったのです。

今回のコンサートのプログラム構成について教えていただけますか。

練習時間が限られているので、プログラム構成には吟味を重ねました。皆で演奏するのは、まずエルガーとアイヴズの曲。4年ほど前、ヴォルフガング・ヴァーグナーのグドルン夫人が亡くなった際、追悼式典でバイロイトの仲間がアイヴズ作曲の『答えのない質問』という曲を演奏しました。地震、津波に加えて原発問題と、どうやって対処するべきなのか、解決策が見えていない(まさに「答えのない」)状況の中、ふとこの曲のことを思い出しまして、今回絶対入れたいと思いました。この曲には管楽器が必要なのですが、これもうまい具合に編成に合うメンバーが見付かりました。

それから、親交のあるスロヴァキア人の作曲家、ラディスラフ・クプコヴィチ教授が、私たちの編成に合わせて『2011年3月11日の犠牲者のために』という新曲を書いてくださいました。彼は一時期、前衛作曲家のシュトックハウゼンとも仕事をしていましたが、「こういう音楽に将来はない」と考え、調性音楽に戻った作曲家なので、どんな曲になるのか楽しみにしています。  

それ以外に、ベルリン在住の作曲家、番場俊之さん作の < Odor of Time > というヴァイオリンのデュオ、モーツァルトのオーボエ四重奏曲、ドヴォルザー クの弦楽三重奏曲、バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲を演奏します。指揮はベルリン在住歴の長い沼尻竜典さんにお願いしました。今回のライブ録音をCDにして、売り上げを寄付する計画も決まりました。

演奏する眞峯さん
<バイロイト・フェスティバル・ヴァイオリンカルテット>の
一員として演奏する眞峯さん

集まった募金は仙台フィルに届けられるそうですね。

せっかくこれだけのメンバーが集まるのだから、募金の目的や送り先を明確にしたいと考えました。私たちはオーケストラプレーヤーなので、仙台フィルには知っている仲間もいるし、指揮者の山下一史さんや小泉和裕さんは昔ベルリンで学んだ人たち。オーケストラ同士で励まし合いたいと思ったのです。ありがたいことに、日本大使館をはじめ、ベルリン日本商工会や日独センター、独日協会、日本語補習校も全面的に後援してくださることになりました。

震災直後は、「こんな時、音楽は何の役にも立たないのでは」と感じている音楽家も私の周りにはいました。今、日本は大きな危機に直面していますが、こういう困難な時期において音楽が果たせる役割は何でしょうか。

終戦直後、私は疎開先の松本(長野県)で鈴木鎮一先生にヴァイオリンを習い始めました。「日本が戦争に負けて貧しい時に、男の子にヴァイオリンなんかやらせて何の役に立つのか」と言って石を投げる人もいたので、母は目立たぬよう、風呂敷に包んでヴァイオリンを運んだそうです。  

私は30年近くベルリンのバッハ・コレギウムのコーディネートを仰せつかっているのですが、先輩の話では、戦後間もない頃にバッハのカンタータを演奏した時、オーケストラのメンバーのギャラは(燃料の)コークス1本だけだったそうです。そういう時代でも聴衆はいっぱいだったそうで、音楽を求める心は、生きているんですよ。  

心を潤す、豊かにする。動物と人間との違いはそこにあるように思います。心の豊かさというのは、私たちが人間として誇りに思っていいこと。音楽が人間の活力に、と言わないまでも、何か心に温かさや喜びを与えるものであれば、それで良いのではないでしょうか。それは、秤にかけてプラスマイナスで計算できるものではありませんよね。  

日本では、有名な曲をやらないとコンサートにお客さんが入らないとよく言われます。でも、皆さんの心に安らぎを与えられるのならば、それでもいいじゃないですか。音楽や芸術というのは、目に見えないところで人々にとってプラスになると私は信じています。今度の僕らのコンサートは、ポピュラーな曲ばかりではありません。でも、新作だからといって耳をふさがなくてはならない曲はないと思います。ですから、1人でも多くの方に聴きにいらしていただきたいです。

チャリティーコンサート東日本大震災
チャリティーコンサート


カイザー・ヴィルヘルム記念教会
2011年9月9日(金)20時〜
入場無料

Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche
Breitscheidplatz, 10789 Berlin
gedaechtniskirche-berlin.de

インタビュー・構成:中村 真人

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:18
 

清水 陽一・ベルリン日独センター副事務総長

清水 陽一 清水 陽一   Yoichi Shimizu
ベルリン日独センター 副事務総長

1943年北京生まれ。国際基督教大学(政治学)、マールブルク大学(ドイツ史)で学んだ後、1964年外務省入省。ケルン日本文化会館館長、在ミュンヘン日本国総領事などを経て2009年より現職

8月26日から10月24日まで、日独交流150周年の1つのハイライトとも言うべき、北斎展(Hokusai - Retrospektive)がベルリンのマルティン・グロピウス・バウで開催される。計441作品という、海外では過去最大規模となる北斎展を約30年前から夢見て、実現に漕ぎ着けた人物がいる。ベルリン日独センターの清水陽一副事務総長その人だ。清水さんに、今回の展覧会に至るまでの経緯、そしてその見どころをたっぷり伺った。

長年、日本とヨーロッパの文化交流に携わってこられた清水さんにとっても、今回の北斎展は特別思い入れが深い展覧会だそうですね。

私は、30代半ばで葛飾北斎の作品に魅せられて以来、北斎が日本のみならず世界で最も優れた画家の1人であると信じてきました。彼が生きた18世紀後半から19世紀前半にかけて、ヨーロッパのほかの画家と比較した場合、匹敵する人がいません。かろうじてゴヤが挙げられるかなというぐらい。それほどのインパクトと天才性を持っていて、70年に及ぶ画業であらゆる作風の作品を残している。

その北斎が、ドイツでは「富士山の北斎」、「漫画の北斎」としか受け止められていません。もちろん、すごい画家だと感じている人は多いと思いますが、例えば「富士山の北斎」というのは、彼が70歳を過ぎてからたった1年半ぐらいで描いた仕事です。私は、20代から90歳までの北斎の全貌をドイツ人にぜひ紹介したいと長年思っていました。

ただ、ドイツは連邦制ですから、イギリス(ロンドン)やフランス(パリ)のように大きな展覧会場がなく、潤沢な予算を持っている州も少ないんです。私の職場がケルン、日本、ミュンへンと移り変わる中、結局実現できないまま年金生活に入ったのですが、2008年秋に国際交流基金の本部からもう一度ベルリンに行ってほしいと依頼が入りました。正直、最初は乗り気ではなかったのですが、しばらく考えて、2011年が日独交流150周年だということ、そして30年来の友人であるマルティン・グロピウス・バウのジーバニッヒ館長の存在が頭に浮かび、「彼ならやってくれるかもしれない」と思いました。「よし、ベルリンで北斎展をやろう!」と決意したものの、その段階ではまだ夢ですよね。ベルリンに行くと返事をした後、日本の北斎研究の第一人者である永田生慈さんにお会いし、お力を貸していただけないかと相談しました。「私はオーガナイズと予算面の面倒を見るから、内容は永田さんに全部お任せしたい」と伝え、ご快諾いただいた次第です。2009年4月に私がベルリンに来てからは、予算の問題をクリアするのに時間が掛かりましたが、昨年6月に国際交流基金とマルティン・グロピウス・バウの関係者が集まって、開催が正式に決まりました。ただ、準備期間が1年しかなかったので、そこからがまた大変でした。これだけの規模の展覧会となると、通常は準備に4、5年掛かりますから。


葛飾 北斎、諸国瀧廻り木曽海道小野ノ瀑布、1833年頃、
写真提供:墨田区

まさに、清水さんの長年の思いが結実した展覧会なのですね。今回の北斎展の内容の特色は何でしょうか?

ジーバニッヒ館長と永田さんと話し合って決めたのは、すでによく知られ、それゆえ幾分手垢のついたヨーロッパのコレクションではなく、原則として日本から状態の良いものを持ってくるということです。今回出展する441点のうち、429点は日本から持って来ます。残り12点について申しますと、まず10点はベルリンのアジア美術館のコレクションです。昨年、永田さんと同美術館を訪れたところ、『北斎漫画』の初編から10編までの初版本に出会いました。何と美術館側は、それが初版本だということに気付いていなかったんです。日本でも珍しい初版本が、ベルリンにきれいそっくり残っていたという驚き。これをお借りすることができました。それから、北斎83歳の時の自画像。これはオランダ・ライデンの美術館が所蔵するもので、世界に1つしかありません。自画像というのは、ヨーロッパの人が非常に関心を持つジャンルですよね。あとは、ヨーロッパに初めて北斎を紹介したと言われるシーボルトの著書『日本』。これはボン大学からお借りします。これら12点はヨーロッパのコレクションで、残りはすべて日本からです。

清水さんからご覧になって、特に思い入れのある絵、じっくり観てほしいという作品は?

1つは、先ほど触れた83歳の自画像ですね。北斎は、「70歳までの自分の絵は取るに足りない。私は100歳まで生きて絵画の奥義を極める」と尋常ではない意気込みを持っていた人。そういう人が83歳の時にどんな顔をしていたのか、見ていただきたいです。それと並行して、北斎がやはり80歳ぐらいの時に書いた手紙が残っているのですが、そこからは彼のユーモアな人柄が偲ばれます。


葛飾北斎、富嶽三十六景 甲州石班沢・1831
年頃、写真提供:墨田区

それからやはり『富嶽三十六景』。36作品全部ではありませんが28点、私がこれはと思う絵は全部出していただいています。私が好きなのは、松の山の形が美しい「青山円座松」、礫川の雪の情景を描いた「礫川雪の旦」、桶で有名な「尾州不二見原」だとか、木が真ん中にある構図が面白い「甲州三島越」、「遠江山中」などですね。有名な「神奈川沖浪裏」など、北斎生誕の地である墨田区からお貸しいただく約50点の作品も、今回の目玉といえる素晴らしいものです。


葛飾北斎、鬼児島弥太郎 西法院赤坊主、1830~34年頃、
写真提供:葛飾北斎美術館


葛飾 北斎、百物語 こはだ小平二)、1831~32年頃、
写真提供:葛飾北斎美術館

また、これはあまり知られていませんが、滝沢馬琴の小説『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』で、北斎が挿絵を描いています。お岩さんなど、お化けの絵もあります。ほかにも、蘭学をもとに描いた骸骨の絵。カラフルな武者絵。水の表情を描いた『諸国滝廻り』。北斎自身はそれほどたくさん描いていませんが、美人画。それから、掛け軸など貴重な一点ものも。長さが7メートル近くの大きな『山水図巻』という肉筆画もあり、それに合わせて特別に展示ケースを作ってもらいました。


葛飾 北斎、肉筆画帖(10図のうちの1図)、1834~39年頃、
写真提供:葛飾北斎美術館

展示の仕方にも工夫を凝らしているそうですね。

 ええ、『北斎漫画』を電子書籍のように読める「北斎漫画の部屋」を設けましたし、オーディオガイド(英語とドイツ語)にも面白い小話が盛り込まれているので、作品の理解を深めるのにご活用いただきたいです。

ほかにも、アダチ版画研究所の摺師の方がいらして「神奈川沖浪裏」の実演が行われたり(8月27、28日、9月3、4日)、永田生慈さんの講演会(8月26日)や子ども向けのプログラムなど、関連行事も充実しています。10月14、15日には、北斎とその時代に関するシンポジウムが日独センターで行われます。

本当に盛りだくさんですね。あとはオープニングを待つばかりとなりましたが、最後に読者の皆さんにメッセージをお願いします。

昨年、マルティン・グロピウス・バウで入場者数が一番多かったのがフリーダ・カーロ展(3カ月で約20万人)でしたが、今回の北斎展にジーバニッヒ館長は10万人、私は20万人入ると賭けをしているんです(笑)。私はそれだけの魅力が詰まった展覧会だと思っています。

ドイツにおける従来の北斎のイメージを打破して、18世紀後半から19世紀前半にこれだけすごい作家がいたこと、同時にその北斎を生んだ江戸という時代の面白さも存分にお見せしたいと思います。ドイツの方はもちろん、日本の皆さんにもたくさん来ていただいて、北斎を、そして日本を再発見していただきたいですね。

インタビュー・構成:中村真人

日独交流150周年記念 北斎展  Hokusai - Retrospektive

会期:2011年8月26日(金)〜 10月24日(月)
会場:Martin-Gropius-Bau
住所:Niederkirchnerstr.7, 10963 Berlin
開館時間:10:00〜20:00 ※火曜休館
入場料: 9ユーロ(割引6ユーロ)、
    団体(10人以上)6ユーロ、
    16歳以下無料
www.gropiusbau.de
最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:18
 

<< 最初 < 1 2 3 > 最後 >>
1 / 3 ページ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


Nippon Express SWISS ドイツ・デュッセルドルフのオートジャパン 車のことなら任せて安心 習い事&スクールガイド

デザイン制作
ウェブ制作