Hanacell
独日なひと


ミヒャエル・ベッカー トーンハレ・デュッセルドルフ インテンダント

ミヒャエル・ベッカーミヒャエル・ベッカー   Michael Becker
トーンハレ・デュッセルドルフ インテンダント

1966年生まれ。少年合唱団やEUユース管弦楽団に所属し、子どもの頃から音楽に親しんだ。ケルン室内管弦楽団など多数のプロオーケストラに参加。大学では音楽とジャーナリズムで学位を取得。1993~2006年、ニーダーザクセン音楽祭のインテンダントを務め、その傍らでジャーナリストとして執筆活動やラジオ出演も。2007年、トーンハレ・デュッセルドルフのインテンダントに就任。

暖かい季節がやって来ると、デュッセルドルフ市民の週末の憩いの場はライン川沿いのプロムナードがメインとなる。ずらりと並ぶプラタナスの木漏れ日を受けながら、旧市街からさらに北上して行くと、エメラルドグリーンのドームが目に入る。この独特な美しさで存在感たっぷりの建築物が、デュッセルドルフの音楽の中枢。コンサートホール「トーンハレ」だ。

日本人が多く住む街デュッセルドルフにあって、ここ数年、日本と関連の深いプログラムが数多く企画され、在独日本人の耳を楽しませてくれている。「生活の中に音楽が溶け込む欧州での暮らしを、同地に住む日本人にも存分に楽しんでもらいたい」。そう語るのは、2007年からトーンハレのインテンダントを務めるミヒャエル・ベッカー氏。

日本に興味を持った最初のきっかけは、当時付き合っていた女性の存在です。

と、少年が秘密を打ち明けるように教えてくれた。日独ハーフの彼女の母親は岡山出身の生粋の日本人。ピアニストでもある彼女の存在が、ベッカー氏の日独音楽プロジェクトの推進を後押しした。

デュッセルドルフに来る前から、日本に関連のあるプロジェクトを多数手掛けてきました。そして、ここトーンハレのインテンダントに就任してからは、さらに多くの日本人アーティストと関わりを持つようになり、2年に1度、“Konnichiwa, Japan”という企画を開催するに至りました。これによって、飯森 範親, 佐渡 裕, 諏訪内 晶子, アリス=紗良・オット, 宮田 まゆみ, 札幌交響楽団など、たくさんの日本人音楽家をトーンハレに迎えることができました。

ちなみに、ぼくを日本と結びつけた彼女、ピアニストのサラ・コッホは、今では僕の妻です。

音楽一家に生まれた者の幸運な宿命か、ベッカーさん自身も音楽家だと言う。

私はヴィオラ奏者です。実は、ドイツにはヴィオラ奏者に関する、それはもう膨大な数のジョークがあって、笑いのネタにされやすいんですよ。でもね、私はこの美しい音色を奏でる楽器を学び、演奏することをとても誇りに思っています。1992年までは私自身、演奏家として各地のオーケストラで演奏してきました。でも、音楽ばかりやってきたわけではありません。私はジャーナリズムを学んだので、長年、新聞社やラジオ局でもジャーナリストとして働きました。

トーンハレの魅力について伺うと、彼がどれほどこのコンサートホールに魅力を感じているかが分かった。

まず、外観の美しさに関して言えば、トーンハレは確実にヨーロッパで最も美しいコンサートホールの1つに数えられるでしょう。かつて、世界最大のプラネタリウムとして作られた建造物は1978年、コンサートホールとして音楽界の宝物に生まれ変わったのです。


緑のドーム型の屋根が目印
© Düsseldorf Marketing & Tourismus GmbH

デュッセルドルフ芸術アカデミーと美術館、ラ イン川に囲まれた立地は、芸術を親しむ環境として恵まれている。最寄の地下鉄駅(Tonhalle/Ehrenhof)からトーンハレに通じる壁面も、フォトコラージュの作品で埋め尽くされており、そこへ向う人の目を楽しませてくれる。一歩一歩会場へと近付くたびに、美しいものに触れる準備ができていく。そんな感じがする。

さらにコンサートホールの中に入ると、その空 間の美しさに息を呑む。紺碧の星空のようなドームの天井。コンサートでは、そこに音が吸い込まれ、拍手がまたたく無数の星のように降り注ぐのだ。

組織的にも、トーンハレはとても強固に団結しています。独自のオーケストラ、デュッセルドルフ・シンフォニカーを抱え、彼らのコンサートがトーンハレを活気付かせているのですから。トーンハレは、小さいながらも意欲に溢れたチームとして活動しています。「美しさ」「組織力」「意欲」の3つの要素が渾然一体となってトーンハレを支えているのです。

トーンハレは、ドイツで一番若いコンサートホールです。私たちは、子ども向けにも、大人向けにも、それぞれの年代の心に響くプログラムを吟味し、多種多様なコンサートをご提供しています。生まれる前の子どもから老夫婦まで、すべての世代の文化的な共感を得るため、そしてそれぞれの心と音楽を赤い糸で結ぶため、新しいことにも意欲的に取り組んでいます。


プラネタリウムだったトーンハレが誇るホールの内装

トーンハレを監督し、運営するのが「インテンダント」の役目。ベッカーさんの任務とは。

インテンダントである私は、トーンハレとデュッセルドルフ・シンフォニカーをより広く発展させる任務を負っています。私の仕事は、従業員の教育やコンサートの回数についての実務面からコンサートの形式やアーティストの選択などを監督する役目まで多岐にわたり、常時200人の従業員と一緒に働いています。


日本人の皆さんに、音楽の魅力を
知ってもらいたいと熱弁する
ベッカーさん

CDやDVDが販売され、今やインターネット経由で、コンサート中継を聴くこともできる。現代社会は、芸術に関わるコンテンツを家から一歩も外に出ずとも気軽に体験させてくれるが、コンサートホールで生の演奏を聴くという行為が特別な理由は何か、どんなところに魅力があるのだろうか。

一度でもトーンハレに足を運んでくださった観客の皆さんは、その後もまた再び訪れてくれます。CDなどの録音媒体との違いは、2度と味わえない、1度きりの体験だということ。コンサートでは、ホールを埋めるほかのたくさんの人々と共に時間を過ごし、音を聴いて、演奏を観る。演奏者たち(場合によってはソリスト1人)が、彼らの秘密を、ここではありったけの力をもって明らかにしてくれる。つまり、音楽の魅力を。

演奏者と観客とが一体となる空間でだけ得られる、この直感的な感覚に触れたなら、それはきっと忘れられない体験となるはず。もちろんCDは最高の演奏を聴かせてくれます。でも、個人的な経験という意味では、コンサートで得られるものは、CDなどの二次的な音から得られるものとは比べ物にならないんじゃないかと思います。


コンサートの合間の休憩は、コロッセウムのような広場で

2011年は、日独交流150周年の年。このために、ドイツでは多数のイベントが企画されている。もちろん、トーンハレも例外ではない。

2011年は、ドイツと日本にとって重要な年であることは確かです。私たちも日本との関係の中でどんなことができるかと考え、いろいろとプランを立てました。3月11日の東北太平洋沖地震が起きた今、「2011年」は、日本にとってまったく違った意味を持つ年となりました。このことは、私たちにとっても大きなショックであると共に、友人である日本のため何かしたいという思いに駆られました。3月26日にチャリティーコンサートを開催しましたが、このコンサートでは、デュッセルドルフ・シンフォニカー、ケルン放送交響楽団、デュッセルドルフ市楽友協会、ケルン放送合唱団とソリスト4人が、このコンサートのために日本から緊急来独した指揮者佐渡裕氏の指揮で演奏しました。曲は、ベートーベンの「第9」。この交響曲を選んだ理由は、これがドイツと日本を橋渡しする曲として一番有名で、勇気を与える曲だからです。日本の1日も早い復興を祈っています。

今年5月に開催を予定しているデュッセルドルフの日本週間は、日本とドイツの交流を祝う様々なイベントで彩られることでしょう。トーンハレでも、再び佐渡裕氏を迎え、デッセルドルフ・シンフォニカーの演奏に宮田まゆみの笙が冴えるコンサートが予定されているほか、尾高忠明が音楽監督を務める札幌交響楽団のヨーロッパツアーが、トーンハレにも上陸。ブレーメン・ドイツ室内フィルハーモニー管弦楽団は、狂言師と一緒に狂言風オペラ「魔笛」を披露するなど、たくさんの大小のプロジェクトを用意しており、ドイツと日本の文化の繋がりを余すことなく紹介します。私自身、この記念すべき年を一緒に祝い、プロジェクトに関われることをとても嬉しく思います。

ベッカーさんにとって、音楽とは?

Musik ist für mich ein Lebesmittel. Ohne Musik würde ich leiden.

(私にとって音楽は、日々の食事のようなもの。音楽のない人生は、辛く苦しいでしょうね。)

今後の夢は?

目標やゴールという意味で、私は夢を設定していません。実は、今までの人生の中でも自分のためにゴールを決めたことはないんです。

私は、コンサートの中で夢を見ます。そのコンサートが特別素晴らしいものであったときに。

インタビュー・構成:編集部・高橋 萌

日本関連のコンサート

5月13日(金)20:00、15日(日)11:00、16日(月) 20:00
デュッセルドルフ・シンフォニカー
指揮者:佐渡裕
笙:宮田まゆみ
プログラム:武満徹「セレモニアル -An Autumn Ode-」 /
細川俊夫「ランドスケープ V」 / 黛敏郎「饗宴」 /
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン「交響曲第7番」
チケット:13~34ユーロ(学生5ユーロ)

5月26日(木)20:00
狂言風オペラ「魔笛」
演奏:ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン管楽ゾリステン
狂言:大蔵流狂言師茂山一門
チケット:16~25ユーロ(学生5ユーロ)

5月27日(金)
札幌交響楽団
指揮者:尾高忠明
ソリスト:ヴァイオリニスト 諏訪内晶子
プログラム:武満徹「How Slow the Wind」 /
セルゲイ・プロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第1番」 /
ピョートル・チャイコフスキー「交響曲第6番『悲愴』」
チケット:13~34ユーロ(学生5ユーロ)

Tonhalle Düsseldorf
Ehrenhof 1, 40479 Düsseldorf
チケット:0211-8996123
www.tonhalle.de

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:37
 

水間 博明・ファゴット奏者、指揮者、作曲家

水間 博明水間 博明   HIROAKI MIZUMA
ファゴット奏者、指揮者、作曲家

1982年に京都市立芸術大学卒業後、渡独。83年、デトモルト音楽大学卒業。同年から2年間、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の「カラヤン・アカデミー」で研鑽を積み、同団と数多くの共演をこなす。96年、マーストリヒト音楽大学大学院指揮科を首席で卒業。88年からケルン放送管弦楽団の首席ファゴット奏者。98年から作曲活動を開始。現在は同団の首席オーボエ奏者、吉田智晴、首席クラリネット奏者アンディ・マイルスと共に木管トリオ「トリオ・ダンシュ・デ・コロン(TRIO D'ANCHES DE COLOGNE)」の活動も展開中。www.triodecologne.com

これまでに挑戦したことのない楽器はホルンとオーボエくらいのもの、という無類の楽器愛好家の水間さん。音楽の道に入られたきっかけは何ですか?

実家の5件隣りの郵便屋さんが趣味でハーモニカを教えていて、そこに6歳頃から習いに行っていたんです。その方がすごく丁寧に教えてくれたので、音楽が大好きになりました。その後、小学4年生で地元の合唱団に入り、中学ではそれまでなかった吹奏楽部を立ち上げてトランペットを吹きました。高校に入ってからはクラリネットを始めたのですが、1年も経たないうちに先輩より上達してしまってね。それでも先輩は威張っているから、面白くないなと思って辞めました。そうしたらある日、廊下で吹奏楽部の先生とすれ違い、「ファゴットを吹かせてやるから戻ってこい」と言われて。それで始めたら、病み付きになってしまったんです。

クラリネットは吹けば大体当たりの音が出るけれど、ファゴットは全然当たらない。ちょっとした口のバランスと呼吸の使い方が音を左右する。これは難しいけれどやりがいのある、面白い楽器だと思いました。

大学卒業後、ドイツで音楽を続けようと思われたのはなぜですか?

元々、芸術大学に入った理由は音楽の先生になりたかったからなんです。それまで情熱的な良い先生ばかりに恵まれていたので、自分もそんな先生たちに憧れて。しかし大学2 年生の頃から、やはり芸大に入ったからにはプロになりたいという野心が出てきましてね。そこで、やはりオーケストラ数が多く就職率も高い、さらにはクラシック音楽の本場でもあるという理由で、ドイツに決めました。

世界最高峰のオーケストラの1つ、ベルリン・フィルとの出会いは?

デトモルトでの教育があまり納得できるものではなかったので、ベルリン・フィルのコンサートを聴きに行き、その場でレッスンを申し込みました。そうしたら翌日来るよう指示され、当日、試しに10分ほど演奏すると、その場で「ベルリンで練習する気はあるかね?」と聞かれました。その翌日にベルリン・フィルの首席演奏者たちが見守る中でテストを受け、5分も演奏しないうちに合格を言い渡されたんです。本当に良いチャンスをいただきました。

ベルリン・フィルとの共演、そしてカラヤンの印象はいかがでしたか?

ベルリン・フィルでは、すべてが別格です。一般のオーケストラでは、団員が集まるとざわついてしまうのですが、ベルリン・フィルの人々が集まると、場の空気が精妙になります。さらにカラヤンが来るとみんな学校の生徒になったようにびしっと姿勢を正し、彼が小言を言うと「ヤ-(Ja)!」と元気に返事をします。さらにカラヤンが指揮棒を振る時、そこから出てくる音は本当に重厚です。地響きがして、鳥肌が立つほどです。感動で涙が出てきて、楽譜が読めなくなるんですよ。彼とは、一緒にブラームスの交響曲第3 番やローエングリンなどの楽曲を演奏しましたが、その度に「生きてて良かった!」と思いました。

プロのファゴット奏者になった後、指揮、作曲と、さらに活動の幅を広げられていますね。

音楽を追求すればするほど、大きなことをやりたくなり、指揮者はオーケストラの中で最もやりがいのあるポジションだと思ってね。まずはファゴット奏者として自立し、時間に余裕ができたら指揮を勉強してみようと考えました。そしてプロの楽団に所属し、30歳になった頃から真剣に学校を探しました。その当時、所属するケルンの楽団に、マーストリヒト音楽大学のヤン・ストゥーレン学長が指揮を振りに来ていたので、彼に頼んで試験をしてもらい、見事合格。そこでのレッスンはとても楽しく、最後にはプロの楽団も振らせてもらいました。

でもその後、実は指揮より作曲の方が楽しいということを発見してしまったのです。指揮は完成した楽曲を基に振るけれど、作曲はすべて自分の心の中から出るものを表現するので、その時の心の状態がそのまま反映されるところが面白くて。

日本の民謡や祭りのお囃子を想起させる曲を手掛けていらっしゃいますが、作曲する際には日本を意識していますか?

そうですね。日本の曲が好きですし、和の旋律とハーモニーを使ってヨーロッパで演奏することで、日本の文化をヨーロッパに紹介したいという思いもありますから。ただ今は木管トリオを中心に活動しているので、作曲はお休みして編曲に重点を置いています。


木管トリオ「トリオ・ダンシュ・デ・コロン」。
左から吉田さん、水間さん、マイルスさん

その「木管トリオ」について教えてください。

まず、所属オーケストラの中でアンサンブルをしてみたいと思い、木管五重奏を考え付きました。ただ、オーボエとクラリネットはすぐに決まったのですが、ホルンとフルートは適当な奏者が見付からなくて、結局3人でトリオを組むことにしたんです。レベルが高い仲間なので、完璧なハーモニーができるのではないかと期待し、一度録音してみることに。そして自分たちの音楽と世界的に有名なトリオのものを聴き比べてみると、自分で言うのもおかしいですが、彼らより上手かったんです! それでCDを作り始めました。

トリオの演奏会をすると、3分の1くらいのお客さんがCD を買ってくれます。普通は観客数の10分の1程度売れたら良い方と言われるので、皆さんが私たちの音楽に満足してくださっているんだな、ということがよくわかりました。それで活動の幅を広げようという話になり、今では毎年、日本で演奏旅行をしています。でも、トリオの主な活動はCD制作。この先4、5年くらいはトリオの活動を続け、CDをあと10枚くらい作りたいと思っています。

水間さんにとって、音楽の醍醐味とは何ですか?

音楽にはゴールがありません。追求すれば必ず答えが見付かり、そこからさらに疑問が沸いてきて、また追求する。これが醍醐味ですね。常に自分の音楽に批判的に、妥協を許さず、反省と努力を重ねて自分の心を磨いていけば、必ず良い音楽が生まれると思います。そこで大切なのは、どれだけ純粋な気持ちで音楽を愛し続けられるかということです。

将来的には、音楽を介して聴く人と幸せを分かち合いたいと思います。自分の音楽でいかに多くの人を幸せにできるか、それが目標です。

これからも愛情たっぷりの音楽を通して、幸せの輪を広げていってください! ありがとうございました。

インタビュー・構成:編集部 林 康子

「トリオ・ダンシュ・デ・コロン」コンサート情報

日時:2010年11月19日(金)19:30~
曲目:モーツァルト「キラキラ星変奏曲」、
   バッハ「インヴェンション・シンフォニア」、
   三上次郎「秋の序奏」など
料金:12ユーロ
場所:Palais Wittgenstein
   Bilker Straße 7-9, 40213 Düsseldorf
問い合わせ: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:38
 

外林 秀人・工学博士

外林 秀人 工学博士 外林 秀人  そとばやし・ひでと
工学博士

1929年長崎市生まれ。16歳の時に広島で被爆。京都大学工学部を経て、マックス・プランク研究所教授、ベルリン工科大学非常勤教授(高分子物理化学)を歴任。1994年定年退職、ベルリン在住。

ポツダム会談の会期中の1945年7月25日、トルーマン米大統領は、当時滞在していたポツダム市郊外のグリープニッツ湖畔の邸宅で、日本への原爆投下命令を下したと言われている。あれから65年が経った今年7月25日、歴史的な邸宅の前の「ヒロシマ広場」にて、新しい記念碑の除幕式が行われた。この「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の中心メンバーの1人として記念碑設立に尽力してきたのが、外林さんである。

外林さんは、1957年にフンボルト財団の奨学生として海を渡って以来、科学者としてほぼ途切れることなくベルリンに住んでいる。壁の建設、東西冷戦の実情、そして壁の崩壊に至るまで、直に体験してきたベルリンの昔の話からインタビューは始まった。途中ふと、こんな話になった。

これだけ長く住んでいますから、やはりベルリンが好きなのでしょうね。フリッツ・ハーバー研究室の雰囲気も大好きで、昔からの伝統があり、やりたいことが自由にできる最高の環境でした。もう1 つ、ベルリンに長く住んでいる理由は、ベルリンほど原子爆弾に対して安全な場所は世界になかったからです。アメリカもソ連もここには決して原爆を落とせなかったでしょう。ソ連が西ベルリンに攻めて来るなんて言われていましたが、進撃にだって時間は掛かる。一番恐いのは原爆ですよ。ここにいれば二度と原爆には遭遇しないだろうと信じていましたから。

外林さんはヒロシマの被爆者である。16歳の時、広島高等師範学校の化学の授業中に爆風を受けた。爆心地から南にわずか1.7 キロの距離だった。奇跡的に生き延びたものの、原爆で母親、そして多くの親戚や知人を亡くしている。この体験を、外林さんは数年前まで公にすることはなかった。半世紀以上もの間、被爆体験を胸の奥に秘めてきた背景は何だったのだろうか。

「見ません、聞きません、しゃべりません」という猿のことわざではないですが、言い出すと思い出すし、思い出すと嫌になる。別にそれで何か得があるわけでもない。もちろん原爆について何かを伝えなければという思いはあります。ただ、被爆者ということで疎外される現実があるのです。例えば、今回のヒロシマ広場の原爆記念碑に広島と長崎からの被爆石が埋め込まれましたが、「被爆した石というと、ドイツ人が嫌がるからあえて書かない方が良いのではないか」という反応がありました。冗談ではないと。被爆者の悲劇が疎外されている。「触らない方が良いだろう。何が起こるかわからないから」ということですが、こういったことは被爆者に対しても当てはまります。科学的には全く意味のないことですが、かといって科学的には意味がないと言って削るわけにもいかないんです。実際わからないですから。被爆した人に何らかの影響が出るのは、10年後なのか20 年後なのか、あるいは次の世代なのか。恐いのはそこです。原爆というのは実験なんです。そして、その実験はまだ完了していない。

例えば、私の弟に息子と娘がいるのですが、「縁談に影響するから、(被爆のことは)あまり大っぴらに話さないでほしい」と言われたことがあります。エイズのように、いろいろな噂が流れ、それが疎外につながっていく。また、私は亡くなった母の慰霊を広島の国立の記念碑に登録したかったのですが、それも「ちょっと待ってほしい」と周りから止められました。自分の親族が原爆の被害者だということを知られるのを嫌がるのですね。被爆者への疎外というのは、広島の中でも外でも、いまだに根強くあるんです。そういうことがあるから私も口を控えて、人が嫌がることを敢えてやる必要もないだろうと思っていました。

転機は2006年に訪れた。愛知万博の最終日に、『ドイツの原子力物語』(総合工学出版社)の共著者である科学者の外山茂樹氏、そして仁科浩二郎氏に後押しされ、3人で講演会を名古屋で行った。日本で被爆体験を語った最初の機会だったという。

反響は大きく、同じことをドイツでもやったらどうかということになったんです。特にその後押しをしたのが、私の妹でした。終戦の年、当時10歳以下だった妹は広島の郊外に強制疎開しており、母がその様子を定期的に見に行っていました。子どもたちにとっては母親と一緒に寝るのが楽しみだったのですね。8月の初頭、恋しがる妹の希望で、母は滞在を少し延ばしました。ところが、そのために、8月6日が勤労奉仕(空襲の際、火の回りを遅らせるために、建物を壊して道路を拡張する作業。町内ごとに分担が決まっていた)の分担の日に当たってしまった・・・・・・。もし母がそのまま帰って、前の日に勤労奉仕をしていたら、助かっていたかもしれない。妹はそのことに対して責任を感じていて、原爆の反対運動に対して熱心でした。それだけに、私が名古屋で話したことも喜んでくれて、「お兄さん、しっかりね」とドイツでの講演も応援してくれたのです。


旧カイザー・ヴィルヘルム化学研究所の建物。
当時のままの外観を保っている

2007年にベルリンの日独センターで講演を行って以来、ドイツはもちろん、ヨーロッパの諸都市で原爆の体験を語り続けてきた。そこで集まった募金は、記念碑設立の資金に回された。現地の人々の反応はどうだったのだろうか。

反応はとても良いです。私が原爆を受けた時と同じ、15、6歳ぐらいの若い皆さんの前で話す機会もありますが、後でいただいた手紙を読むと、アメリカを憎むとか、責任者は誰々だとか、そういうことではなくて、「人間が、こんなことをして良いのですか?」という純真な反応を示してくれます。



ノルウェー在住の彫刻家・藤原信氏が制作した記念碑には、
「1945年7月25日に大統領の同意の下、原爆投下命令が下された」
などの碑文が日英独の3カ国語で記されている

今回のポツダムの原爆記念碑に関して、現地在住のアメリカ人による投稿が地元紙に掲載された。「この記念碑を作ることによって日本人は被害者の立場に立ち、戦争責任から目を反らそうとしている」という趣旨の投稿に対して紙面上で議論が交わされ、ちょっとした話題となった。

広島と長崎に原爆が落とされて、被害を受けたのはもちろん日本人です。でも私は、原爆というのは神が人類全体に対して行った行為だと思っています。私がいろいろ意見を言っているのも、日本人としてではなく、こういう悲劇は二度と人類に起きてはいけないという意味で、多くの人間の1人としてお話ししています。核の危険性が増す中で、ボタン1 つ押せば原子爆弾は飛ぶんですから。すると、相手も自動的にボタンを押すでしょう。それによって人類は滅亡するんです。最後なんです。人類全体の問題として私は話をしているのに、議論の程度が低くなると、誰々が殺した、だからこちらも誰々を殺した、ということになってしまう。原爆の悲劇はわれわれだけでいい。その望みをこれからの人々に託したいという思いから、私は今いろいろな場所でお話ししているのです。


ホテル・ヒルトン内のカフェで2 時間にわたり、
ご自身の体験をお話ししてくれた外林博士

外林さんが長年勤めたマックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所は、奇しくも核をめぐるもう1 つの原点の場所と向かい合っていた。問われる政治家と科学者のモラル。

私のダーレムの研究所の近くに、旧カイザー・ヴィルヘルム化学研究所があって、1938 年にオットー・ハーン、フリッツ・ストラスマン、リーゼ・マイトナーたちはそこでウランの核分裂を発見しました。原子核のエネルギー利用が人間の手に渡ったのです。その7年後の1945 年7月16 日、トルーマンがポツダム滞在中、原爆完成の報告を受け、25日に原爆投下の命令が出されました。そこから言えるのは、科学者の彼らは、原爆のことなどもちろん頭になく、ただ科学的な好奇心から研究を突き進めたわけです。ところが7 年経って、その成果が爆弾という形になって現れてしまった。ここです。面白いと思ったら何をやっても良いのだろうか? 例えば、アインシュタインは最初原爆開発の提案をしましたが、その破壊力に恐ろしくなり、実際の開発には関わりませんでしたよね。そういう人間的なところがある。ところが、原爆は実際に生まれ、実行へと移されてしまった。私はここに科学者と政治家の道徳や倫理の不足を感じます。

それゆえ、私はこの記念碑の最後の文章にこう付け加えたかったのです。「われわれはよく考えなければならない。政治的、科学的な好奇心には限界がないのか? そこに道徳的、倫理的な障害物があるべきではないだろうか?」と。ベルリンのダーレムで核分裂が発見され、紆余曲折を経て7 年後、ポツダムのこの館での命令によって原爆投下が実行に移された。両者は20 キロと離れていません。原子爆弾の歴史でこれほど意義のある場所はないと思うのです。私が提案した一節は、ポツダムの州議会での議論の末、残念ながら削除されてしまいましたが、この記念碑はそのような問いかけ、思索の場所になればと願っています。


原爆記念碑と、後ろに写っているのがトルーマン・ハウス

倫理なき科学の進歩、そして原子力エネルギーの利用にも警告を唱える一方、核廃絶を目指すオバマ大統領の存在や、この夏米国駐日大使が広島の追悼式典に初めて参列したことなどは、希望と感じている。最後にこんなことを語ってくれた。

この前、完成した原爆記念碑を改めて1人で見に行ったのですが、ノルウェーから運ばれて来た大きな石が、太陽を浴びてぴかぴか光っていたのです。私にはその光がどこか精霊のように見えてきました。ひょっとしたらほかにもいらっしゃるのかもしれませんが、このベルリン・ブランデンブルク周辺の被爆者といえば、長い間私1 人でした。でも、この慰霊碑ができてからは、何となくたくさんの慰霊が来てくれたような気がするんです。ずっと1 人で叫んでいたのが、今は多くの人が後ろに付いて立ってくれている。とても心強い思いがします。

インタビュー・構成:中村 真人

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:38
 

マルティン・レーア・欧州司法裁判所儀典長

マルティン・レーア・欧州司法裁判所儀典長 マルティン・レーア  Martin Löer
欧州司法裁判所儀典長

1948年ヴェルル生まれ。少年期を6年間東京で過ごす。ミュンスター大学とローザンヌ大学で法学を学んだ後、78年国家試験に合格。ベルリン市、ブランデンブルク州、連邦大統領府の儀典長を歴任し、2010年4月より現職。

Photo: Thilo Rückeis

2001年から今年3月まで、ほぼ10年間に及ぶドイツの連邦大統領府儀典長としての重責を終えられた、今のお気持ちはいかがでしょうか?

連邦大統領のもとで働くことを許されたのは幸運でした。今は感謝の気持ちと同時に誇らしくもあります。わくわくするような素敵な時間にたくさん恵まれましたが、一方では、困難な、悲しい状況に置かれたこともありました。例えば、2004年末のスマトラ島沖地震の時です。ケーラー大統領がドイツの犠牲者のための国家追悼行事を開催するよう指示したところ、多くの犠牲者の家族が参加し、その場は悲しみに包まれました。また、2006年にラウ元大統領が亡くなった時も、とても悲しい気持ちでしたね。

日本人の読者に、連邦大統領府の儀典長の任務について少しご説明いただけますか?

公式行事の準備を行ったり、大統領のスケジュールを調整することです。そうしたオーガナイズを一手に引き受けています。そして特に大事なのが、政治的な事柄を考慮することです。大統領というのは、政治的なポジションにいるわけですから、大統領のやることなすことすべてがドイツという国家に帰せられます。また、食事や歓迎セレモニーなどは、大統領が個人として行うのではなく、ドイツの国家元首として執り行います。ですから、連邦議会や連邦参議院、政府、連邦憲法裁判所などとの関係にも配慮しなくてはなりません。これを踏まえて、「大統領が」何をなすべきなのか、と考えます。大統領が国家の代表たるにふさわしい、尊厳と気品のある行事となるよう、入念に準備をしなくてはなりません。

レーアさんは、ヨハネス・ラウ氏、ホルスト・ケーラー氏という2人の連邦大統領の間近で働いてこられたわけですが、この2人の個性についてはどのようにお感じになっていましたか?

ラウ氏は根っからの政治家でした。政党での長いキャリアがあり、そのことが彼を強く方向付けていました。一方、ケーラー氏は官僚として素晴らしいキャリアを持っている人物ですが、もともと政治家だったわけではありません。それゆえ、人生の大分後になって国家元首として政治的役割を担うようになったケーラー氏は、手法も考え方も、ラウ氏とは非常に対照的でした。


テオ・ヴァイゲル元連邦財務相を労うために開催された
夕食会にて。大統領に迎えられるゲストの名前を1人1人
読み上げるのも儀典長の仕事
©Presse- und Informationsamt der Bundesregierung

公式晩餐会の準備や進行にあたる上で、外国からの多くの国賓を見てこられたと思いますが、興味深いエピソードや出来事があれば教えていただけないでしょうか?

公式晩餐会は、常に外務省と一緒に準備を進めていましたが、私の専門分野で、また特別に関心を持っていたのが、晩餐会にふさわしい音楽を選び出すことです。お客さんとホスト側、外国の来賓とドイツ連邦大統領との間の橋渡しをしようと、私は常に務めていました。例えば、アイルランドのマッカリース大統領がベルリンを訪問した際、私はベルリン芸術大学とコンタクトを取り、ホルン科のある教授と話をしました。彼は自分のクラスの生徒たちとホルンのアンサンブルをすることを提案し、メンデルスゾーンの作品とアイルランドの民族音楽を晩餐会で演奏することになりました。アイルランドには地域によって多種多様の民族音楽があるのですが、その時は大統領の出身地の、いかにもアイルランドという感じの歌を選んで演奏してもらったんです。マッカリース大統領は涙を流して聴き入っていました。その後、彼女は連邦大統領に、この「音楽による心のこもった挨拶」に対して謝意を伝えていました。

ポルトガルの大統領が公式訪問した際は、リアス室内合唱団がブラームスなどのドイツ音楽、その後ポルトガルの音楽を歌ったのですが、大統領夫妻はとても興奮して、合唱がダ・カーポでもう一度メロディーを繰り返した時、一緒に歌い出したのです。ポルトガルの大統領が公の場で歌うことなど初めてだったそうで、晩餐会はとても良い雰囲気に包まれました。

大統領のもとを訪れるのは、もちろん外国からのお客さんだけに限りません。また、ベルビュー宮殿以外の場所で催しが執り行われることもありました。例えば2004年には、ラウ大統領が、高松宮殿下記念世界文化賞の晩餐会をペルガモン博物館の祭壇で開催しました。2005年にイギリスのエリザベス女王がドイツを公式訪問した際には、ドイツ歴史博物館のツォイクハウスで晩餐会を催しました。どちらも思い出深いですね。

一般の人には、なかなか想像しにくい華やかな世界ですね。

晩餐会というのは確かに華やかな場ですが、儀典長の仕事で大事なことは、常に背後にいるということです。私が何かをして喜ばれたとしても、対外上は大統領のしたこと。私はあくまで背後から、その都度適切なアイデアを練って大統領をサポートするだけですから。


国際通貨会議での一場面。ケーラー大統領夫妻のすぐ横で

お父様のお仕事の関係で、6歳から12歳までを日本で過ごされていますが、この経験はレーアさんに影響を及ぼしましたか? また、レーアさんにとって日本とは?

私は日本でとても幸せな少年時代を送ることができました。その時からドイツと日本が互いに尊敬し合っていることを子どもながらに感じていました。日本学を専攻した私の父は、留学経験もあって日本語が堪能でした。私も当時は周りの子どもたちと日本語で直接コンタクトを取って、よく一緒に遊んだものです。日独の間にある様々な違いを越えて、私は水を得た魚のようにのびのびとしていました。今でも日本とは多くの接点があり、また定期的に訪れていますが、感心したり驚いたりすることは少なからずあります。例えば、静寂に満ちたお寺がある一方で、騒音にあふれたパチンコ屋がある。それはあまり美しいものではありませんが、そんな両極端なものが、すぐ隣合わせにあることも珍しくない。このコントラストにはわくわくします。

この4月からはルクセンブルクの欧州司法裁判所に活動の場が移りましたが、どういう任務にあたられるのでしょう?

欧州連合の最高裁判所にあたる欧州司法裁判所で、儀典長として大きな会議や式典などを取り仕切ることが任務となります。また、EU27カ国、日本や韓国、米国といった国々の最高裁との交流も私の仕事と関わっています。欧州司法裁判所は多国間主義の組織なので、EUのすべての加盟国のメンバーから構成される65人の裁判官と法務官がいます。今までは1人のシェフ(上司)だったのが、今度からは65人。また、裁判所での作業原語はフランス語になるので、これも私にとっては大きな挑戦です。

新天地でのご活躍を心より願っています。どうもありがとうございました。

インタビュー・構成:中村 真人

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:38
 

オッテス徳岡 史子・ワイン醸造工学士

オッテス徳岡 史子 オッテス徳岡 史子  FUMIKO OTTES-TOKUOKA
ワイン醸造工学士

1994年、立命館大学・理工学部卒業。同年に渡独し、ライヒスラート・フォン・ブール醸造所で1年間の実習。95年ガイセンハイム大学ワイン生産学部入学し、99年に卒業。日本に帰国し、アサヒビール株式会社に務める。2001年、再び渡独し、ガイセンハイム大学付属微生物学研究所に入社、オッテス醸造所で夫であるゲーラルト・オッテスと共にワイン生産を始める。07年のドイツ・ワインコンクールにて、リースリングの部16位、シュペートブルグンダーの部8位入選
©Ai Aochi

醸造家として、また研究者として、ラインガウ地方の家族経営のワイン醸造所でワイン生産に携わっているオッテス徳岡史子さん。そもそもワインの造り手になろうと思ったきっかけは?

小さい頃からモノを作るのが好きだったことが根底にあると思います。それがドイツ・ワインに結びついたきっかけは、父がワインの輸入の仕事をしていたこと、そして、ひょんなことからドイツのライヒスラート・フォン・ブール醸造所の経営に携わるようになったこと。学生だった私は、その醸造所をちょくちょく訪れては、その街の雰囲気や風景、ワイン造りに携わっている人たちにすっかり魅了されていました。大学卒業後すぐ、そこで実習をさせていただけることになり、1年間の予定で渡独したのです。

1年間の実習を終えたとき地元の醸造所の人たちが、もっとワインのことを勉強したいなら良い大学があるよと教えてくれた。それがドイツで唯一、醸造学を教えているラインガウのガイゼンハイム大学だったんです。

現在の活動拠点であるラインガウ地方に来たきっかけですね。

ガイゼンハイム大学では、一緒に勉強する友人がおりまして・・・・・・後に夫となるゲーラルトなんですが。その出会いがあって、大学を卒業してから1年半ほど日本に帰って仕事をしていたものの、ドイツに再び渡り、ガイゼンハイム大学の研究所に入社しました。今現在もそうですが、研究者と醸造家という2つの仕事を持っています。

ワイン醸造家になるには、どのような勉強が必要ですか?

専門の教育機関で勉強することが早道です。そして経験がモノをいう職業ですから、実地で学ぶということが大切。専門的な知識と経験の両方が必要なのです。


1959年創業のオッテス醸造所3代目のゲーラルトさんと史子さん。
史子さんは2児の母でもある
©Weingut Ottes

オッテス徳岡さんにとって、ワイン造りの仕事とは?そしてその魅力は?

家族経営の醸造所なので、すべてを自分たちでこなさなければいけません。私たちは農業のプロであると同時に、衛生に関する学術的な知識や、トラクター、プレス機などの操作技術を持つことも必要です。さらに、コスト計算やマーケティング活動、レストランでの直販、イベント、料理についても常にアイデアを練っています。また、ワインは造り手の個性が表れる商品。造っている自分自身をアピールすることも大切ですね。

農家であり、研究者、経営者、芸術家でもある。これってすごく大変なことですよね?

仕事量が多く、すべて自分たちで決めていかなければならない。それが、苦労といえば苦労ですね。でも、ワイン造りで良いなと思うのは、自然と一体になって仕事をしているということ。毎年が新たなスタートなのです。収穫をして、醸造が終わって、春が来るとまた新しいヴィンテージ(年)が始まる。また新しいことにどんどん挑戦していける。こういう仕事のサイクルが、私はとても気に入っています。

オッテスさんが作るワインの特徴は?

 私たちが目指しているワインは、地域の特徴を生かしたワイン。ここラインガウ西北の地域は、ライン川地域の中でも特殊な土壌と気候条件を持った地域です。ラインガウ全体のワインの特徴として、しっかりした酸味、果実味豊かな味わいというのがあります。それに加えて、この辺りの石から出るミネラリティ溢れる味。石の味ってどんな味ですかと聞かれると困るんですが(笑)。まったりとしていなくて、後味がさわやか。「キレがあるタイプ」と私は表現しています。また、丁寧な造り方で、雑味のないきれいなワインにしようと心掛けています。


ラインガウ地方、ロルヒ。土壌はシーファーと呼ばれる黒色の粘板岩
©Weingut Ottes

ドイツでワインを造る日本人醸造家として、ドイツ・ワインと日本食を一緒に楽しめるイベントを行っていますよね。ワインに日本食を合わせようと思ったきっかけは?

オッテス醸造所でワイン生産を始めた当時、漠然と日本食とワインって合うなあと考えていました。そこでまず、「お好み焼き」を醸造所のレストランで出してみたんです。すると、それが大好評!

料理に対するお客さんの反応を見るのが楽しくて、いろいろな日本食を出しているうちに、日本食とワインが楽しめるレストランとしてマスコミに取り上げられるようになりました。そこで4年前から、「日本食とワインの夕べ」というイベントを開催しています。これは、茶碗蒸しやお寿司など日本食6品のコースメニューとワインを一緒に味わえるトークショーの形式をとっていて、日本料理の食材や歴史、ワインの説明などを交えながら18:30~24:00くらいまで、時間をかけてゆっくりと堪能していただくもの。

お客様の大半はドイツ人ですが、たまに日本人の方が混ざって参加されることがあります。そうすると、美味しいものは万国共通と申しますか、味覚を通してドイツ人と日本人が目と目で「これ美味しいね」「これ合うね」と確認しあっている光景を見ることができます。それが、とても嬉しいです。今年は、11月7日(土)に日本語でのトークショーも企画しています。

明日から実践できる、ドイツ・ワインの楽しみかたを教えてください。

ドイツ・ワインを飲むときに、ドイツ料理と合わせる必要はないんです。ドイツ・ワインには和食を合わせてみてください。

みりんや砂糖の甘みがある、まろやかな味付けの日本食には、フルーティなリースリングとのコンビネーションが美しいです。辛口が好きだという方は、ソースにしょうがを入れてみてください。酸がしっかりしている辛口は、日本人の舌には酸っぱいと感じられるかもしれませんが、しょうがのアクセントを加えることによって、ワインのフルーティさが一層引き立ちます。

ドイツ・ワインの味を引き立てる力が日本食材の中に隠れているんですね。週末の献立は、豚のしょうが焼きにリースリング(中辛口)を試してみます!ありがとうございました。

オッテス醸造所 WEINGUT OTTES
Binger Weg 1A, 65391 Lorch im Rheingau
製造: リースリング80%, シュペートブルグンダー18%, ヴァイスブルグンダー2%
TEL: 06726-830083
www.weingut-ottes.de

イベント情報
2009年11月7日(土)
日本語によるワインと日本食に関するトーク・ショー
(Japanischer Gourmet Abend)
コース料理(6品)+各種ワイン
参加費66ユーロ

インタビュー・構成:編集部 高橋 萌

最終更新 Mittwoch, 22 Mai 2019 12:38
 

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