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ニュースのかお


ギュンター・ベックシュタイン

ギュンター・ベックシュタイン Dr. Günther Beckstein
1943年11月23日バイエルン州ヘアスブルック生まれ。ニュルンベルク在住。10月9日からバイエルン州首相。

バイエルン州の長期単独政権党キリスト教社会同盟(CSU)の党大会で96.6%の支持を獲得。9日の議会承認を経てシュトイバー氏から州首相の座を受け継いだが、すでに全国的に知られる政治家である。

1993年に州内相に就任後、外国人不法滞在者への取り締まりを強化し、98年には犯罪を繰り返すトルコ国籍の14歳少年を強制送還。同時期に外国人問題とテロ対策で大ナタをふるい始めた前連邦政府のシリー内相(SPD)を助け、“単なる”1州の内相でありながら「シリーの双子の兄弟」と呼ばれてもいた。

バイエルンに生まれ、バイエルンで学び、バイエルンだけの政党に入ったが、同州で少数派のルター派プロテスタントである。エアランゲン=ニュルンベルク大学で法学を学び、弁護士事務所を開設。と同時に政界に打って出て、74年から現在まで州議会議員を務めている。

ニュースになった語録は多い。昨年はテレビのトーク番組で「パソコンソフトのキラーゲーム売買を、児童ポルノのカテゴリーに入れて犯罪にしたい」と述べ、視聴者の一人から民衆扇動として訴えられた。党首に立候補した美人郡長パウリ氏には、「彼女は精神科医 にかかるケースだ」と述べたとして謝罪を求められ、「心理的なと言っただけ」と必死に言い逃れている。また先ごろは「船からの無差別テロにも警戒が必要」と発言。超法規措置を検討する連邦のショイブレ内相に、強力なサポーターが現われたようだ。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:23
 

ベルント・シュースター

ベルント・シュースター Bernd Schuster
1959年12月22日アウグスブルク生まれ。80年代を代表するMF。現レアル・マドリッド監督。

1980年にFCバルセロナへ移籍して以来、数々の外国チームで働いてきたが、メーンはスペインだった。そして今季、スペインリーグの昨シーズン覇者レアル・マドリッドと監督契約を結び、サッカーファンとドイツのメディアを熱くしている。

1978年に18歳でFCケルンの選手になり、2シーズン中に10ゴールを記録。80年のヨーロッパカップでは最優秀選手に選ばれた。しかし自主性の強さが災いして監督と衝突。6歳年上の妻と息子を車に乗せてバルセロナへと突っ走ったのは、「恐れを知らない21歳だったから」。スペイン初のドイツ人選手は“El angel rubio”(金髪の天使)のニックネームでスターとなり、レアル、アスレティコ(西)、レバークーゼン(独)、ピューマス(メキシコ)と渡って引退。96年に古巣のケルンで監督デビューを果たした。

ドイツでは皮肉まじりに、「サッカー史で唯一ワールドカップに1度も出場しなかったトップ・プレイヤー」と言われる。本人はいずれの大会でもナショナルチームへの協力を表明していたが、扱いにくい一匹狼を起用する監督はいなかった。

「たしかに私のような選手を好む監督は少ないだろう」と言いつつ、「そうしたタイプの中に不確実だが天才的なプレーをする選手がいるもので、彼らの自発力を押さえつけるのはよくない」とも。レアルが年俸350万ユーロで雇った新監督に求めるのも、そうした“気まぐれ選手”たちから非日常の能力を引き出すこと。手腕が問われている。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:23
 

アンドレア・マリア・シェンケル

アンドレア・マリア・シェンケル Andrea Maria Schenkel
1962年レーゲンスブルク生まれ。デビュー作 『Tannöd』でドイツ推理小説賞ほかを受賞した。

処女作『Tannöd』で文壇にデビューしたのは昨年の春。ビギナーズラックだと言われながら、数カ月間で売り上げを30万部にまで伸ばし、それまで外国物が主流だった推理小説界にドイツ語作家ブームを巻き起こした。そして先ごろは2作目の『Kalteis』をたちまちベストセラー入りさせ、批評家たちに確かな才能の裏づけを示している。

2年前、「ストーリーを終章まで書けるかどうか試したくて」ラップトップを開くまでは、開業医である夫の診療所を助け、3人の子どもを育てる主婦だった。幼いころから本の虫だったが、親の方針に従ってレアルシューレ(実科高校)へ行き、郵便局に就職。結婚し、母になり、不満はないと思いながらも、他人の人生を生きているような感覚があったという。その“傍観者的な視線”が、犯罪小説の冷めた描写に力を発揮したようだ。

1、2作目とも実在の事件をモデルにしてい る。『Tannöd』で描いた一家6人の未解決殺人事件は、1922年にバイエルン州の人里離れた 農家で発生。殺人者と証言者の目で語る方法をとったのは、「刑事警察の視点に個人的に飽きている」からだった。1939年に女性4人を殺し、内密に処刑された鉄道員を描いた『Kalteis』では、アーリア人に性犯罪はないとするナチスのイデオロギー、カトリック教会、村落共同体の内側を鋭くえぐった。

バイエルンの物書き主婦と呼ばれるようになった今、問題は家族である。手抜きの食事に長男はふくれっつら。仰天している夫の方は、まだ作品を読めない状態だとか。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:23
 

ビビアナ・シュタインハウス

ビビアナ・シュタインハウス Bibiana Steinhaus
1979年3月24日ニーダーザクセン州バート・ラウターベルク生まれ。今季からドイツサッカー初のプロリーグ主審。

サッカーのブンデスリーガ2部で今季から主審に抜擢され、男子プロリーグにおけるドイツ初の女性主審として話題をさらっている。

本職である警察官の仕事と、サッカーの審判には「法とルールを守る執行機関としての共通点がある」と言う。子どものころから女子サッカーの選手として活躍し、審判員である父から持久力と判断力を鍛えられた。

審判を始めたのは15歳のとき。その4年後にドイツサッカー連盟(DFB)の正式審判員になり、03年に女子サッカーのドイツカップ決勝戦を審判。04年からは男子ブンデスリーガ2部に進出し、副審を務めていた。

DFBによると、女性の審判員は、全国に8万人弱いる審判員のうちわずか2%。激しくぶつかり合うプロリーグを審判するには相応の体格と体力が求められるため、女性審判への特別枠は存在しない。

ちなみに、彼女の身長は1メートル81センチ。「選手と同じ目線に立てるので女性ゆえの不利はない」し、「むしろ選手たちは女性審判が相手だと、言葉の暴力を控える傾向にある」とのこと。事実、02年から務めた男子地方リーグでの45試合中、彼女が出したレッドカードは2枚だけだった。

しかし反面、審判ミスをするとすぐさま女性だからだと言われ、ファンからは下品なヤジが飛ぶ。今回の抜擢でも「ブロンディーヌ (金髪女)が男の尻を追いかける」と書かれた。が、それも勲章。女性を軽視する男性プレーヤーへの不安は全くないそうだ。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:24
 

カタリーナ・ワーグナー

カタリーナ・ワーグナー Katharina Wagner
1978年5月21日生まれ。祝祭劇場監督を継ぎたいと発言した。

祝祭劇場の総監督ヴォルフガング・ワーグナー(87)の秘蔵の末娘として、毎年バイロイト音楽祭でゲストを迎える父親の隣に立ってきた。しかし今年の音楽祭では演出家として、7月25日のオープニングに「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を公演。折しも9月には、祝祭劇場財団により後任監督が決定されるとあって、ワーグナー一族のライバル候補2人とともに華々しい注目を集めている。

音楽舞台芸術のサラブレッドとして生まれたことは間違いない。作曲家フランツ・リストの玄孫、祝祭劇場の始祖リヒャルト・ワーグナーと2代目監督コジマの曾孫、3代目監督ジークフリートの孫にあたる。ベルリン自由大学で演劇学を学び、ベルリン国立歌劇場で研修。以後ヴュルツブルク、ブダペストなどでワーグナー、プッチーニの作品を演出し、偉大な名前がもたらす周囲の過剰な期待と批判にさらされてきた。

一方、祝祭劇場の監督継承問題でも注目の人だ。劇場の所有がワーグナー家から市と州とバイロイト友の会による財団法人に移行したのは1973年。その見返りとして終身制の監督職を得た父ヴォルフガングも今は高齢となり、財団は01年に彼の前妻の娘エファ・ワーグナー=パスキエルを後任に選んだが、唯一反対したのは父だった。

それから6年。今回の票決でもエファと従姉妹ニーケ・ワーグナーが候補に並んでいる。2人は国際的な演出批評家だが、もう62歳。末娘が巣立つまでと粘ってきた老父の愛に勝利はあるだろうか。

最終更新 Freitag, 02 September 2011 11:24
 

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