Hanacell
ドイツの街角から


エアバスが誕生する街

AIRBUS

ハンブルクに住んでいると、時折、イルカの形をした巨大な飛行機が低空飛行しているのに遭遇することがある。エアバスの胴体パーツなど大型の機体部品を輸送する貨物機「ベルーガ(シロイルカ)」だ。空飛ぶイルカは、なんとも言えぬ愛嬌があり、市民にも親しまれている。1995年のベルーガ就航以前は、ライバル、ボーイング社の「スーパー・グッピー」を利用していたため、「すべてのエアバス機はボーイングの翼で届けられる」と皮肉られていたそうだ。


ベルーガ(©AIRBUS S.A.S. 2007)

本社をフランスのトゥールーズに置くエアバス社は、1970年にフランスとドイツの企業連合としてスタート、その後スペイン、英国が加わり、現在は4カ国の航空機メーカー(仏独西共同のEADS社と英のBAEシステム社)の共同出資会社だ。エアバス社は目下、「パワー8」と呼ばれるコスト削減計画に取り組み始めているが、フランスとドイツが主導する経営陣の意見が食い違い、多国籍企業の経営の難しさを露呈している。今年は、1万人の人員削減と16工場の売却、あるいは閉鎖をめぐって、ドイツ、フランス間の議論は、ますます難航することだろう。

エアバス社玄関 エアバス社玄関

それにしても、技術者たちのチームワークは大したもので、フランスがコックピット部と主翼位置にある胴体上部を、ドイツがその他の胴体部と尾翼の一部を、スペインが主翼のつく胴体下部と尾翼の一部、そして英国が主翼をそれぞれ製造し、最終的にトゥールーズとハンブルクで組み立てる、という気の遠くなりそうな連携プレーを4カ国間 で行っている。

ドイツでは、北部のハンブルク、ブレーメン、ノルデンハイム、シュターデなどにパーツ工場があり、さらにハンブルクでは、「コンピュータ化されたコックピット」として話題をふりまいたA320型ファミリーであるA321、A319、A318の最終モンタージュとキャビン内装と塗装、さらに555人収容可能な世界最大の旅客機A380型のキャビン内装および塗装も行われている。日本の航空会社 ANAとスターフライアー発注のA320型ファミリー機はハ ンブルクで組み立てられているわけだ。

2005年の夏にその威容を市民の前に披露してくれたA380は昨年、複雑な電気系統のケーブルの取り付けにミスが生じ、最終モンタージュができないというトラブルが起こったが、今年10月には、1機目をシンガポール航空向けに出荷するめどがついたという。

ところでエアバスのハンブルク工場は、14歳以上であれば誰でも見学可能。エアバス社工場見学のサイトにアクセスし、Eメールあるいは電話で申し込む。通常はドイツ語だが、希望者は英語、フランス語のコースにも参加できる。当日は専門ガイドの案内で、1万人以上のスタッフが働く広大な工場群を2時間半ほどで回る。

エアバス社玄関 見学コースに組み込まれている組み立て工場
(©AIRBUS S.A.S. 2007)

見学コースは、模型や機体のパーツなどが並ぶ小さな博物館にはじまり、ハンブルクで担当しているA320型ファミリーの胴体部の組み立て工場、さらにドイツで造られた胴体部と、フランスとスペインから運ばれた胴体部、および尾翼を繋ぐモンタージュ工場、主翼を取り付けるモンタージュ工場、キャビン内装工場と、製造工程に従って各工場を巡る。塗装工場は見学できないが、外にはカラフルに塗装された生まれたての飛行機がずらりと並んでいる。そのずっと先には、真新しいA380型の工場群が並んでいる。こちらは今年の秋以降から見学可能という。

http://airbus-werksfuehrung.de
(見学料:1人13 ユーロ)

最終更新 Donnerstag, 06 Oktober 2011 10:44
 

アラビアン・カフェ増殖中

SHISHA / NAGILE

ヨーロッパ圏内では、ポーランドとならんで喫煙者天国だったドイツだが、欧州連合(EU)のプレッシャーもあり、ようやく本格的な禁煙法を制定しようとする動きが見られるようになった。こうしたアンチ喫煙ムードが優勢な中、それとは矛盾するかのように(いやそれだからこそ?)、静かなブームとなっているのが、アラビアンスタイルの水パイプ、シーシャ(Shisha)が楽しめるアラビアン・カフェだ。最近では、ごく普通のカフェでも、シーシャを置いている店を見かけようになった。シーシャは、トルコではナギーレ(Nagile)と呼ばれ、ナギーレ・カフェと称している店もある。

シーシャはもともとインドが起源だという。昔はココナッツの殻に竹筒を差し込んだだけのシンプルなものだったそうだ。16世紀になってオスマントルコで広まったほか、イラン経由でアラビア諸国にも広まった。アラビア文化圏では、シーシャで客をもてなすことがあるという。ヨーロッパにはトルコ経由で伝播し、ドイツでは 2001年頃から知られるようになった。

ノンスモーカーの私だが、嗜好品には興味があるので、先日、友人とシーシャ・カフェに出かけてみることにした。内部が暗い店が多く、ちょっと入りにくい感じがするが、店内はとても賑わっている。そして、そこはもうドイツではなかった。スタッフの話によると、利用者の9割が、トルコやイラン、北アフリカ、あるいはアラブ諸国の人たちだという。そういえばドイツ人はほとんど見当たらない。

シーシャ・カフェ

店内はさぞ煙っていることだろうと思ったが、空調が整っており、意外なことに、タバコよりも良い香りが漂っている。ゆったりした椅子席や、クッションいっぱいの床席で、賑やかな学生グループ、ビジネスマン、恋人たちがそれぞれに、シーシャを吸いながらくつろいで話をしている。私が入ったのは、ムスリム式にアルコールを一切置かないという店で、みなコーヒーやお茶、ミネラルウオーターなどを飲みながらパイプをくゆらせている。

シーシャはホースが1本のものと2本のものがあり、2本ついているものは、カップルや友人同士で一緒に吸うことができる。フレーバーもいろいろで、アップル、ピーチ、メロン、バナナ、ココナッツ、マンゴーなどのほか、カプチーノ、カラメル、といったものもある。1セッションは4ユーロほどで、30分ほど楽しめる。もちろん、ドイツの法律に従い、シーシャを楽しめるのは16歳から。24時以降は18歳以上となっている。

注文すると、店員がシーシャをセットしてくれる。フレーバーつきの湿り気の多い煙草は、直接燃やさず、アルミホイルで覆って木炭チップで加熱する。煙は長い管とボトムの底の水をくぐることで、ある程度不純物が取り除かれ、吸う時には、香りもよく、ひんやりとしている。

甘いフレーバーが心地よく、つい吸いすぎてしまいそうになるが、シーシャも、通常のタバコと同じように身体にはよくない。しかし、リラクゼーション効果は抜群で、人気の理由もうなずける。でも、空腹時に吸うのは避けた方がよいとのこと。食後に、お茶を飲みながら吸うのがいちばんだそうだ。

都市部には会員制の葉巻ラウンジなども登場しているが、将来、禁煙法がより厳しくなるにつれ、心おきなく手持ちのタバコも吸えるシーシャ・カフェは、ますます人気スポットになるかもしれない。

シーシャをセット ハンブルクのシーシャ・カフェ「KARATREN」で、スタッフのマル セルにシーシャをデモンストレーションしてもらった。
最終更新 Donnerstag, 06 Oktober 2011 10:45
 

コンクリートの墓場とつまずきの石

HOLOCAUST-MAHNMAL

2005年5月、ベルリンのブランデンブルク門から少し南に下ったところに、ナチス政権によるヨーロッパのユダヤ人大虐殺を戒める記念碑(石碑の広場)と地下情報センターが完成した。ユダヤ系米国人の建築家、ピーター・アイゼンマンがデザインした石碑群は、虐殺されたユダヤ人たちの墓場を連想させる。

ジャーナリストのレア・ロッシュらが、1980年代後半からイニシアチブをとって計画してきたこの「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」構想は1998年、コール前々首相がアイゼンマン案を支持し、99年に入ってようやく連邦議会で建設が決定し、2003年から着工となった。構想から完成まで、17年の歳月が流れている。

2万平米近い巨大な広場に、縦2.38メートル、横0.95メートルの2711基の石碑が立ち並ぶ。石碑の高さは1メートル以下のものから4メートル以上のものまで様々で、車椅子が通行できる幅の通路もある。

アイゼンマンの設計は、コンピューターを使った「偶然の産物」でもある。彼は、プログラム上で2つの平面を重ね、それらを石碑で繋ぎ、記念碑に最もふさわしいフォルムを探していったという。その結果、不規則な起伏のある地面の上に、不規則な高さと角度を持つ石碑が強い存在感を放って並ぶ、現在の形となった。

アイゼンマンの石碑の広場が、匿名の死者たちを一つの場所に集めて弔う作業であるならば、グンター・デムニッヒの仕事は、個々の死者たちのかつての住処に出向 き、その一人一人を弔う作業だ。

アイゼンマンの石碑の広場

ケルン在住の行動するアーティスト、デムニッヒが、ナチス政権下で虐殺された人たちの名前、生年月日、命日、そして死亡した場所を、一つ一つ10センチ四方の真鍮プレートに刻印してコンクリートの土台に固定し、その人がかつて住んでいた住居の前の舗道に埋める、という「つまずきの石(Stolpersteine)」と名付けられたプロジェクトにとりかかったのは92年のこと。97年には、最初の55個の「つまずきの石」がベルリンに埋められた。当時は違法と知りつつ埋めたそうだが、後に合法化された。

デムニッヒはベルリンを皮切りに、ハンブルク、フランクフルト、シュトゥットガルト、フライブルクなど、各都市に出向いて石を埋め続けた。この石を埋めると、舗道に軽いでこぼこができ、その名の通り、歩行者が「つまづいて」危険だといった理由で、市がなかなか許可をくれないこともあるそうだ。しかし現在では、国内を中心に世界186都市に、合わせて約9000個の「つまずきの石」が埋められている。ハンブルクだけで1600個が埋められているそうだ。ドイツ以外では、オーストリア、イタリア、オランダにも「つまずきの石」が埋められている。デムニッヒの仕事は、まだまだ完結しそうにない。

つまづきの石

アイゼンマンの広場を歩くと、深い墓場に迷い込んだような気持ちになり、4メートルもの石碑の谷間に身を沈めると、虐殺の非情さに対する恐怖の気持ちが起こってくる。一方デムニッヒのプレートは、街角の普段の散策コースに、まるで「踏み絵」のごとく現れるため、人々は平気でその上を歩くことができなくなる。虐殺された一人一人の命の重さを思い起こさせる仕掛けとなっているのだ。

アイゼンマンとデムニッヒのそれぞれの仕事は、あたかも互いに補完しあう供養であるように思える。

「つまずきの石」を埋めるグンター・デムニッヒ氏
ハンブルク市にて「つまずきの石」を埋めるグンター・デムニッヒ氏

 

ウオーターフロント生活圏

FLOATING HOUSE

特にこれといったことのない日曜日のドイツ、人々はまるで申し合わせたように水辺に集まってくる。ハンブルクなら、人工湖であるアルスター湖とエルベ川のほとりが、散策する人々でいっぱいになる。その賑わいようは、まるで土曜日のショッピング街のようだ。ひょっとすると、彼らは、週に一度、魂を洗い清めにやってくるのかもしれない。水のある風景は、心に安らぎを与えて くれるからだ。

とりわけ、エルベ川沿い一帯は、目下ハンブルクで最も注目すべき地域となっている。老朽化した建造物が改修され、新築のオフィスビルやアパートが立ち並び、カフェ、レストランが次々にオープンし、数年前までは人通りのなかった日曜日の倉庫街に人々があふれるようになってきている。今から15年ほど前、市議会で煉瓦造りのアンティークな倉庫街を改築し、洒落たロフトスタイルの住宅街やレストラン街にしてはどうか、というアイデアが出た時、市民がこぞって反対したのが嘘のよう。 目下、ハンブルク市はエルベ川沿いの港湾地域をハーフェンシティと名付け、開発に躍起になっている。

フローティングホーム
フローティングホーム

今年の夏、エルベ川のスポーツボート船着場で、洒落たモデルハウスが公開された。「マラン」と名付けられたこの住宅は、ハンブルクの建築事務所フェルスター&トラビッチ(Foerster&Trabitsch)の作品。例えばアムステルダムでは、運河に浮かべたハウスボート上で実際に水上生活をしている人々がいるが、ハンブルクでも、そんな暮らしができるようになれば、との夢を込めて設計されたものだ。「マラン」の場合は、ハウスボートではなく、鉄とセメントでできた180トンの「ポントン」と呼ばれる浮き橋の上に組み立てられた、れっきとした2階建ての家。運河、湖、港湾地区の船着場など、どこにでも設置することができる。

「マラン」のプレゼンテーションと前後して、ハンブルク市は、ハウスボートや浮かぶ家の設営を、初めて一般市民に許可することにした。最初に許可が下りたのは、ハマーブロック区のビレ運河に繋がる貯水池で18軒分のスペースがある。近い将来には、他地区でも認可し、合計75軒分のスペースを確保することになっている。やがてハンブルクの港湾地区を縦横する運河は、カラフルな家々で彩られるようになることだろう。

ところでハンブルクには、すでに50年以上前から、水辺に浮かぶ家があった。現在、ハンブルクの倉庫街を背にするツォル運河に停泊している「浮かぶ教会」 (Flussschifferkirche / 河川用船舶教会)だ。1906年に建造されたこの船は、もともとヴェーゼル川で使用されていた水上コンテナ船だったのだが、その後しばらく、病院船として活躍したのち、1952年にプロテスタント教会に改築された。このような浮かぶ教会はドイツでもただ一つしかないという。毎日曜日の午後には礼拝が行われており、誰でも参加することができる。この浮かぶ教会で誕生したカップルも沢山いるそうだ。

マランと船の教会
マランと船の教会

最終更新 Donnerstag, 06 Oktober 2011 10:47
 

現代の文学カフェ

LITERATUR HAUS

かつて、カフェは、文学カフェなどと名乗りをあげなくとも、おのずと作家や画家、音楽家、俳優など芸術家たち、そして学者たちの溜まり場となっていた。

ヨーロッパ大陸初のカフェはイスタンブール(旧コンスタンチノープル)で、開業は1554年。その後、1647年にはベネチアに、1652年にはロンドンにもカフェが店開きした。パリ最古のカフェ「プロコープ」(Le Procope)は創業1686年で、現在も営業中。ドイツ最古のカフェはブレーメンにあったそうで、1697年創業 だったという。

暖房設備がまだ発達していなかった一昔前、人々は暖かさと快適さを求めてカフェに集まった。そして、人が集まることでカフェからは様々なものが誕生した。例えばロンドンでは、カフェに郵便ポストを設置したのがきっかけで郵便制度が始まったほか、カフェに集まった商人たちが、植民地から輸送される船荷の損害リスクを避けるために保険制度を立ち上げたという。ロンドンでは新聞もカフェから発生している。フランス革命が産声を上げたのもパレ・ロワイアルにあったカフェだった。

ヨーロッパ各地には、由緒ある伝統的なカフェがいくつか残っている。サルトルとボーボワールの「仕事部屋」でもあったパリのカフェ・ド・フロール(Café de Flore)、フロイトやトロツキーの通ったウイーンのカフェ・セントラル(Cafe Central)、ディケンズ、プルーストらの訪れたベネチアのカフェ・フロリアン(Cafe Florian)、イタリア滞在中のゲーテが通ったというローマのカフェ・グレコ(Antico Caffe Greco)などだ。ドイツでは、1720年創業のライプツィヒのカフェ・バウム(Zum Arabischen Coffe Baum)が現在も営業している。ここには、ゲーテのほか、ワグナー、シューマン などが集った。

現在のドイツの街角からは、このカフェ・バウムのような歴史の重みを感じさせるカフェは、ほとんど姿を消してしまったが、1980年代後半、ベルリンにリテラトゥーアハウス(文学ハウス)という有志団体が誕生し、作家を招いての読書会といったイべントを行うようになった。設立当初は無名の団体だったというが、90年代に入ってから、その活動が評価されるようになり、徐々に各都市に伝播した。今では、ハンブルク、ケルン、ミュンヘン、フランクフルト、シュトゥットガルト、そしてマグデブルクにもリテラトゥーアハウスがある。

リテラトゥーアハウス
ハンブルクのリテラトゥーアハウス外観

リテラトゥーアハウスには大抵、書店やカフェが併設されており、イベントはそのカフェで行うところがほとんど。いわば、現代版文学カフェといった趣きだ。

自然発生的な、かつての文学カフェとは異なるが、リテラトゥーアハウスでは、世界各地の著名作家から地元の新人作家にいたるまで、あらゆる書き手が、代わる代わる講演や読書会、パフォーマンスなどを行っており、造り手と読み手との新しい出会いの場となっている。

リテラトゥーアハウスのカフェ
高校生を対象とした ラップ・ポエトリー の集い。ハンブルクのリテラトゥーアハウスのカフェで

最終更新 Donnerstag, 06 Oktober 2011 10:48
 

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