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ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

板東俘虜収容所の奇跡 - 知っておきたい日独の歴史のお話 - 武士の情けと博愛の精神 日本にドイツ文化の種をまいた

お遍路と阿波踊り、鳴門海峡の渦潮で知られる徳島県鳴門市。その郊外に、美しい白亜の洋館がある。「ドイツ館」と呼ばれるこの館には、第1次世界大戦で俘虜(捕虜)となって日本に移送されたドイツ兵士たちと、この地が「板東」と呼ばれていた頃の町民との交流の歴史が刻まれている。本国から遠く離れた日本に連れて来られたドイツ兵捕虜は約4600人。そのうち約1000人が板東俘虜収容所に収容された。鉄条網の中で囚われの身として暮らすことになり、しかしそこで「歓喜の歌(ベートーヴェンの交響曲第九番)」を歌うにいたった彼らの数奇な運命と、そこから日本に根付いたドイツ文化に注目する。
(取材協力:ドイツ日本研究所 DIJ, Werner Schaarmann / 文:高橋 萌)

日独戦争から生まれた
ドイツ人捕虜

日本とドイツが戦争をしていたという史実は、日独関係史の中でもとかく見逃されがちだ。両国は、明治時代には法整備や医療・技術面において協力体制にあり、第2次世界大戦では同盟国であった印象が強いからかもしれない。

1914年に第1次世界大戦が勃発すると、日英同盟を結んでいた日本は、それを理由に中国・青島を拠点に極東に進出していたドイツに宣戦布告した。日独戦争は、地の利から圧倒的な兵力を持って臨んだ日本軍にドイツ軍が降伏するかたちで、3カ月もしないうちに終結。その結果、日本は4600人以上のドイツ兵捕虜を受け入れることになった。

当時の日本には、捕虜となって辱めを受けるくらいなら「自決」するのが望ましいと考える風潮が根強くあったため、これほど大勢の捕虜を受け入れることになるとは想定していなかった。そこでまずは、日本各地の公民館や寺などを仮の収容所としたが、捕虜としての正当な扱いを求めるドイツ兵からの不満は増すばかり。そういった時勢の中、1917年春、桜が舞う頃に新設されたのが「板東俘虜収容所」だった。

武士の情けを根幹として

板東俘虜収容所の所長には、当時44歳の松江豊寿が任命された。陸軍のエリート街道を進んできた彼だが、戊辰戦争に敗れた会津藩士の子として、降伏した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育った苦労人でもあった。「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けがあれば」。そうつぶやく周囲の大人たちの苦悩の表情は、幼い松江の心に深く刻み込まれていた。

「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」

ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を犯罪者のように扱うことを固く禁じた。捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解する松江の収容所運営はこうして始まったのだった。

それまでの収容所で経験した劣悪な環境から、警戒心を持って板東俘虜収容所にやって来たドイツ兵たちに、松江はまずこう語り掛けた。「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ……」

ドイツ兵との交流から生まれたもの

日本政府は、これを機にドイツの科学技術を国内に導入しようと、あらゆる分野についてドイツ兵から指導を受けるよう各収容所に指示していた。経済・政治学から、ウイスキー、ビール醸造、ソーセージやパンの製法、楽器演奏の指導まで、ドイツ兵捕虜の中には各分野の専門家がいた。兵士とは言っても、もともとは多くが一般市民であったことが、こうしたエピソードからもよく分かる。

板東俘虜収容所内にも、パン工場が建てられ、共同農場ではトマトや赤ビート、キャベツなど、それまで栽培されていなかった野菜の栽培指導が行われた。「独式牧場」と名付けられた牧場では、ドイツ兵捕虜の指導により、牛乳の生産量がそれまでの5倍増しになるという成果が上がった。しかも、指導に赴くドイツ兵捕虜には見張りが付いていなかった。捕虜の待遇としては異例のことだが、ここ板東では一定の秩序の下、捕虜に生産労働や文化活動が許可されていた。日本語教室や芸術活動、各種スポーツを楽しむ捕虜の活動は町の人々の興味・関心を引き、見学者の訪問も絶えなかったそうだ。収容所が日独交流会館のような様相を呈していくにつれ、町の人々はドイツ兵捕虜を「ドイツさん」と、親しみを込めて呼ぶようになった。

ドイツ兵捕虜たちもまた、松江所長への信頼と板東の人々に対する親愛の情を深め、1918年6月1日には、収容所で結成されたヘルマン・ハイゼン楽団によって、ベートーヴェンの交響曲第九番が合唱付きで全曲演奏された。女性がいないため、ソプラノパートを男性用に編曲し、収容所にない楽器はオルガンでカバーするなど、苦労と工夫の末の演奏だった。今では年末の恒例となっている「第九」の演奏だが、日本で最初に全曲演奏されたのは、ここ板東俘虜収容所の小さな一室での不完全な、しかし心からの「歓喜の歌」だったのだ。

  • 板東俘虜収容所
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終戦、そして解放へ

板東俘虜収容所が開設されてから1年も経つと、当初は異質に響いた起床と消灯を知らせるラッパの音が町の生活に溶け込み、人口約500人の町にやって来た1000人のドイツ兵たちの存在は、ごく自然のもののようになっていた。

しかし、1918年にスペイン風邪で死者を出し、追い打ちをかけるようにドイツの戦況悪化のニュースが届くと、収容所内を暗い悲しみが包んだ。1人の捕虜により、板東俘虜収容所で初めての暴行事件が起きたのは、そんな時期であった。敗戦したら祖国はどうなるのか、不安に押しつぶされ、町の人が親しんだドイツ兵捕虜たちの陽気で勤勉な姿はすっかり鳴りを潜めた。

収容所内では、『ディ・バラッケ(Die Baracke)』という新聞が捕虜によって発行されていた。ドイツの戦況、収容所内での活動報告はもちろん、日本の風土や文化についての記事も人気だった。ほぼ毎週発行され、収容所の活気を反映していたこの新聞も、敗戦の報を受けた後、発行されなくなっていた。

ある日、松江所長は『ディ・バラッケ』の編集担当者を呼び、廃刊したのかと聞いた。「こんな時期ですので……」とがっくり肩を落とす彼らに、「このようなときだからこそ」と、新聞を発行し、現実を受け止め、前を向けるよう、捕虜に呼び掛けるよう説得した。1919年6月に発行された同新聞に掲載された記事「戦友諸君に訴える」は、捕虜たちを大いに励まし、勇気付けた。そして6月28日、ついにヴェルサイユ条約が調印され、ドイツの敗戦が決まったが、捕虜たちはその知らせを受け止める心の準備ができていた。

松江所長は言った。「諸君。私はまず、今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。もとい。いま敵味方と申したが、これは誤りである。去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君はゲファンゲネ(捕虜)ではなくなった。……さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わず惨めなものである。私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。……どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭に置いて、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい。……本日ただ今より、諸君の外出は全く自由である。すなわち諸君は自由人となったのである!」

通訳が最後まで訳すと、拍手と歓声が沸き起こった。別れの日を意識し出してから、町の人と捕虜との繋がりはさらに深まり、お互いに別れを惜しんだという。何百年も残るようにと、ドイツ人捕虜が1つひとつ石を積み上げた。後に「ドイツ橋」と呼ばれるめがね橋が完成したのは7月27日だった。

12月になると、いよいよ祖国への帰還の準備が進んだ。町の人に捕虜からのプレゼントがあり、そのお返しに町の人も旬の食材でごちそうを用意し、それぞれの家で送別会も行われた。

12月23日、徳島市に家族のいる9名が、先に解放された。松江所長が、家族と一緒にクリスマスを祝えるようにと、上層部と喧嘩腰で掛け合ったのだ。翌24日夜、残る捕虜たちは収容所で最後のクリスマスを祝った。

12月25日正午、広場に整列して最後の点呼を受け、13時に解放。収容所を行進しながら出ていくドイツ兵捕虜を、町の人たちは総出で見送った。目に涙を浮かべる者もあった。

100年続く日独交流

この収容所での生活は、その後もずっと、ドイツ人の心に残っていた。ドイツでは、フランクフルトで「バンドウを偲ぶ会」が開かれ、1972年に鳴門市ドイツ館がオープンすると知った元ドイツ兵捕虜たちからは、当時の写真や手紙が多数寄せられた。  

「私は第2次世界大戦にも召集を受け、運悪くソビエト連邦(ソ連)の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲル(収容所)で冷酷と非情を嫌というほど思い知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。……私は確信を持って言えます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか」ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)  

「懐かしきバンドウの皆様。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5カ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色あせることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あの頃の仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡が取れる33人は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、はるかなる御地へ熱い思いを馳せているのです。……目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などがまぶたに浮かんできます」エドアルド・ライポルト(コーブルク市在住)  

元ドイツ兵捕虜が「バンドウ」に寄せた手紙から、彼らの鉄条網の中での青春の日々が、決して不幸なものではなかったことを確信できる。100年足らずたった今も、ビールやソーセージ、バウムクーヘンをはじめ、当時日本にもたらされたドイツの文化や技術が、しっかりと日本に根付いている。

要図板東俘虜収容所(縮図:1/625)
要図板東俘虜収容所(縮図:1/625)大正8年4月1日ヤコビ製図

ドイツ兵捕虜をめぐる年表

1897年(明治30年) 中国(清)でドイツ人宣教師2人が殺害されたことを受け、ドイツ軍が青島を無血占領
1898年(明治31年) 独清条約を締結し、ドイツが青島周辺その他を99年間租借する
1904年(明治37年) 2月10日
日露戦争勃発
1905年(明治38年) 9月5日
日露講和条約を締結し、日露戦争が日本の勝利で終結
1911年(明治44年) 辛亥革命が起こり、中華民国が成立
1914年(大正3年)
7月28日
第1次世界大戦が勃発
8月23日
日独国交を断絶し、日本がドイツに宣戦布告。日独戦争が勃発
11月7日
ドイツ軍が降伏し、日本軍に青島を明け渡す
11月11日
ドイツ軍捕虜が日本に移送され始め、12月末までに4462人が日本各地の収容所に収監される
1917年(大正6年) 4月9日
丸亀・松江・徳島などの収容所を統合し、新たに坂東俘虜収容所を開設
6月1日
坂東俘虜収容所で、日本で初めてベートーヴェンの「交響曲第九番」が演奏される
1919年(大正8年) 6月28日
ヴェルサイユ講和条約調印。ドイツの敗戦が決まる
7月27日
大麻比古神社境内にドイツ兵捕虜による「ドイツ橋」が完成
12月25日~1月28日
ドイツ人捕虜のドイツ本国への送還が行われる
1920年(大正9年) ヴェルサイユ講和条約発効
1921年(大正10年) ドイツ人捕虜への対応について、ドイツから感謝状と赤十字勲章が名古屋市長宛てに贈られる
1972年(昭和47年) 鳴門市に鳴門市ドイツ館創設(www.doitsukan.com
1993年(平成5年) 新ドイツ館として、同館が再オープン
2004年(平成16年) 「ドイツ橋」が徳島県の県史跡に指定される
最終更新 Donnerstag, 23 April 2015 14:48
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

青木周蔵 - 知っておきたい日独の歴史のお話 - ドイツに学び 日本を強い国に 不平等条約を押し付けられた時代の挑戦者

外務大臣当時の青木周蔵青木周蔵という人物をご存じだろうか?激動の明治時代を生き、外務大臣にまで上り詰め、不平等条約から始まった日本の国際社会における地位向上のため、先頭に立って舵取りをした政治家だ。留学時代と外交官時代に、合わせて25年をドイツで過ごしたドイツ通で、日本にドイツ文化を伝える役目も果たした。

今回、彼の子孫であるニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵に、家族だからこそ知り得るエピソードも交えて、青木周蔵の人生を語っていただいた。そこから、自分の前に道はなく、外交の前例も慣例も日本には存在しなかった時代に、国際人として毅然と振る舞った青木周蔵の大きな背中が見えてきた。(取材協力:ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵 / 文:高橋 萌)

プロフィール

ニクラス・サルム・ライファーシャイト伯爵 
Niklas Salm-Reifferscheidt

青木周蔵の子孫で、オーストリアにあるシュタイレッグ城(Schloss Steyregg)を管理するザルム家の当主。墺日協会(Österreichisch-Japanische Gesellschaft)の理事も務める。

日本開国と日独交流史の始まり

青木周蔵の歩みをたどる前に、まずは日本開国の歴史を簡単に振り返ってみよう。ペリー提督が米国から「黒船」に乗ってやって来たのが1853年。その5年後に、米国、英国、ロシア、オランダと修好通商条約(1858年)、いわゆる「不平等条約」が締結され、200年以上続いた日本の鎖国政策は終焉を迎えた。プロイセン(ドイツ)が、日本と日普修好通商条約を締結したのは1861年1月24日。この日から今日まで、日本とドイツの交流は続いている。

青木小学校の100周年記念行事
那須塩原市に青木周蔵が建てた青木小学校の100周年記念行事に参加する
ニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(右)

青木周蔵、ドイツ留学へ

青木周蔵
青木周蔵 ベルリン留学当時

日本とプロイセンの条約締結から7年後、青木周蔵は何度目かの嘆願の末に長州藩の許可を得て、ベルリンを目指して出発した。時は明治元年、明治維新のまっただ中。大きな野心と祖国への想いを胸に出国した青木だが、そもそも、なぜドイツ行きを熱望したのだろうか。

生まれは1844年。医師の家系であった三浦家の長男として團七(だんしち)と名付けられた彼は、明倫館に入門。そこの教諭であった蘭学者・青木周弼の弟・青木研蔵に才覚を見出され、養子となる。この2人から1字ずつもらい、「周蔵」と改名。医師となる道が定まったような縁組みだった。  

蘭学を通して医学を学んだ青木は、オランダがドイツの医学を参考にしていることを知り、さらに「1866年の普墺戦争でもプロイセンはオーストリアに勝利したのだから、プロイセンの科学は優れているはずだ」と、ドイツ留学を強く望むようになった。

ドイツで何を学ぶべきか

1868年夏に日本を出た青木周蔵が欧州の大地に立ったのは12月半ば。青木を乗せた船は、まずフランス・マルセイユに到着した。ここで、彼は人生を変える1つ目の体験をする。

当時のフランスは、ナポレオン3世の時代。青木はその日、豪華絢爛なそろいの制服で行進するフランス軍を目撃し、興奮した。「我が国にも、洗練された制服を着た軍隊の整備が必要不可欠だ」

春になって、ようやくハノーファーに到着した青木は、2つ目の体験に遭遇する。

ベルリン行きの電車の出発まで、まだ1時間あるからと散歩に出た彼は、深い霧に包まれた。眼前に広がる野原には、壁のようなものが見える。いや、壁だと思っていたものが、掛け声とともに動き出すではないか。いったい何事が起きたのかと近付いてみると、それは一糸乱れずに訓練する兵士の隊列だったのだ。「服は地味だが、ドイツの軍隊は強い」。1870年に開戦する普仏戦争直前の出来事であった。

この経験を経て青木は、日本が強国と肩を並べるためにドイツから学ぶべきことがあると、医学部から政治・経済学部に専攻を変える。無断で変えたものだから、後にこのことは問題となった(山縣有朋が来独した際に解決)。

ちなみに、ドイツに初めて留学した人物は会津藩から派遣された小松済治で、1868年10月21日にハイデルベルク大学医学部に学生登録したと記録されている。続いて1870年に赤星研造(福岡藩出身)。その同年、青木はベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学医学部に入学した。

日本にもビールが必要だ

青木が日本に報告した通り、普仏戦争ではプロイセンが勝利し、日本のプロイセンへの注目度は急上昇。1872年には北ドイツ留学生総代に任命され、青木は100人を超える日本人留学生を預かる身となった。ベルリンに派遣された留学生は、医学部や法学部志望者ばかりという状況だったが、林業、地理学、繊維加工、政治学、文学など、ほかの学問を学ぶよう学生に提言した青木。方々から不平不満もあったが、中にはその重要性を理解し、青木の言葉に従った者もいた。

その1人が、黒田清隆。北海道の開拓長官である彼に、青木周蔵は1通の熱のこもった書簡を出している。「ビールは酒よりアルコール度数が低く、栄養価の高い飲み物です。労働者の飲み物として、日本人もいずれビールを飲むようになるでしょう」と記し、北海道の気候が大麦の栽培やビール製造に適し、地域経済の助けになること、ビールは健康にも良いことを伝えた。

もう1人が、中川清兵衛。青木は彼にビール醸造技術習得を勧め、ベルリンビール醸造会社で学べるように援助した。2年2カ月の修業を終え、日本へ帰国した中川は、青木の書簡を受けた黒田に抜てきされ開拓使麦酒醸造所(サッポロビールの前身)の初代醸造技師に。日本のビール造りの第一人者となった。

ドイツ人女性エリザベートとのロマンス

1873年には、岩倉使節団のドイツ視察の通訳を務め、外務省に入省。翌年には駐独公使として正式にドイツへ赴任する立場となった彼は、1人の美しいドイツ人女性と出会う。エリザベート・フォン・ラーデという貴族の娘だ。  

実らないはずの恋だった。青木は既婚者だったのだから。青木家との養子縁組の条件の1つが、養父・研蔵の娘テルとの結婚で、養子になると同時に結婚が決まったのだ。現在よりも家との繋がりが強固だった時代である。

しかし、そんな自身の境遇はどこ吹く風と、青木はエリザベートとの愛を貫こうとする。ここで、政治家としての彼の有能さを垣間見る気がするのだが、すったもんだの末、なんと青木家との養子縁組はそのままに、テルとの離婚を承諾させたのだ。

ところが1879年、妊娠中のエリザベートを連れて日本へ帰国した青木は、そこで信じがたい光景を目撃することになる。大勢の出迎えの中に、前妻テルの姿があったのだ。しかも、テルは離婚の話を聞いたこともないと言う。青木家としては、日本ではテルと、ドイツではエリザベートと暮らせば良い、これで丸く収まると考えたのだ。それでは納得しない青木がテルに新しい夫を見付け、結納金も青木が負担する形でようやく離婚が成立し、晴れてエリザベートと夫婦となり、その結婚は死が2人を分かつまで続いた。

(左)周蔵の娘、若き日の青木ハナ (右)青木周蔵、娘ハナと孫のヒサ
(左)周蔵の娘、若き日の青木ハナ (右)青木周蔵、娘ハナと孫のヒサ

エリザベート・フォン・ラーデ、アレキサンドル・フォン・ハッツフェルド・トラッヘンベルヒ伯爵
(左)ベルリンで青木周蔵と婚約した当時のエリザベート・フォン・ラーデ
(右)アレキサンドル・フォン・ハッツフェルド・トラッヘンベルヒ伯爵

不平等条約の改正に尽力

1880年、再び駐独公使としてベルリンへ向かった青木は、大日本帝国憲法の草案や、その他の法案作りに奔走する。当時、日本の法整備が急ピッチで行われた背景には、不平等条約改正という目的があった。

青木は憲法作りにも積極的に取り組み、もっとも古い私擬憲法として知られる『大日本政規』を、1872年に作っている。1882年には伊藤博文の欧州憲法調査に同行し、大日本帝国憲法の父と呼ばれるベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト教授とウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタイン教授を伊藤に紹介。1889年、ついに大日本帝国憲法が布告されたことで、青木の働きは結実した。

憲法の布告により、日本を対等に扱うべき相手として認めるよう、欧米諸国に強く働き掛けることができる体制が整った。その年の12月24日、第1次山縣内閣の外務大臣に就任し、条約改正に向けた方針を「青木覚書」として内閣に提出した。大津事件で引責辞任した後も、ドイツ公使を務めながら、イギリス公使を兼任して条約改正に関わり、1894年、ついに日英通商航海条約の改正に成功した。

ドイツ文化を色濃く残す青木邸で

その後、再び外務大臣を務め、米国大使としてワシントンの社交界で一目を置かれる存在となった青木だが、1908年に日本に帰国してからは徐々に政界との距離を置く。日露戦争で勝利(1905年)した日本は、欧米から「脅威」とみなされ、日独関係も難しい時期に差し掛かっていた。

一方で、政界から引退した青木が力を入れていたのが、那須塩原市にある青木邸を拠点にしての農業開拓。この青木邸は、ドイツで建築を学んだ松ヶ崎萬長の設計で1888年に建てられたもので、日本に残る松ヶ崎の唯一の作品。現在は、国の重要文化財に指定されている。

1913年末に風邪をこじらせた青木は、翌年2月16日、69年の生涯を閉じた。日本がドイツに対し最後通牒を行い、ドイツの植民地、青島とミクロネシアをめぐる日独戦争が勃発したのは、その約半年後の8月。愛する2国が砲弾を打ち合う事実を知らずに済んだのは、青木周蔵にとって幸運なことだったかもしれない。

旧青木家那須別邸前でニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(左)と、妹のソフィーさん(中央)
旧青木家那須別邸前で
ニクラス・サルム・ライファーシャイト氏(左)と、
妹のソフィーさん(中央)

旧青木家那須別邸 写真提供:栃木県観光物産協会
旧青木家那須別邸前のヒマワリ(那須塩原市)
写真提供:栃木県観光物産協会

ドイツ人のような日本人

それにしても、青木周蔵という人物は、強靭な精神力を持っていた人に違いない。子孫であるニクラス・サルム氏にも、「青木周蔵は、日本人としては直接的にものを言い過ぎるところがあり、ドイツ人のような日本人だった」と伝わっている。長州藩に無断で留学先の学部を変更したり、養子でありながら本家の娘に離縁を申し出たり、あの時代に国際結婚に踏み切ったり。まさに、異例のオンパレード。

そんな彼の心情についてサルム氏は続ける。「彼は、日本の将来の発展を確信しながら、そのために日本が変わらなければならないことを承知していました。だからこそ、彼は変化を恐れない人でした」。主張すべきは主張し、変化を受け入れることによって、自分の人生も、日本の未来をも切り開いた青木周蔵。目まぐるしく変化する時代の波にもまれても、決して自身の本懐を見失わなかった彼の強さに学びたい。

青木家の家系図

青木家の家系図

青木周蔵の年表

1844年3月3日
(天保15年1月15日)
長門国厚狭郡生田村(のち山口県山陽小野田市)に生まれる
1866年 蘭学者・青木周弼の弟・青木研蔵の養子となって士族となる
1868年(明治元年) 長州藩の許可を得て、ドイツへ渡る
1870年(明治2年) ベルリンで留学生活をスタート
1872年(明治5年) 北ドイツ留学生総代を務める。私擬憲法『大日本政規』作成
1873年(明治6年) 外務省に入省
1874年(明治7年) 駐独代理公使、駐独公使となってドイツに赴任
1875年(明治8年) オーストリア・ハンガリー帝国公使を兼任
1878年(明治11年) オランダ公使を兼任
1879年(明治12年) 日本に帰国。条約改正取調御用係に任命
1880年(明治13年) 駐独公使としてベルリンに再赴任
1885年(明治18年) オランダ、ノルウェー公使を兼任
1886年(明治19年) 日本に帰国し、条約改正議会副委員長に。第1次伊藤内閣の井上馨外務大臣の下で外務次官を務める
1889年(明治22年) 2月11日 大日本帝国憲法の布告。12月24日、第1次山縣内閣の外務大臣に就任
1891年(明治24年) 第1次松方内閣で外務大臣を留任するも、大津事件が発生し、引責辞任
1892年(明治25年) 駐独公使としてドイツに赴任。駐英公使を兼任
1894年(明治27年) 日英通商航海条約改正に成功
1898年(明治31年) 第2次山縣内閣で外務大臣に再就任
1900年(明治33年) 枢密顧問官を経て叙勲され、子爵となる
1906年(明治39年) 駐米大使に任命
1914年(大正3年)
2月16日
栃木県那須郡那須町にて没する。享年69歳
最終更新 Mittwoch, 22 April 2015 12:28
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

翻訳者ウルズラ・グレーフェ、
「村上春樹」を語る

村上春樹 ドイツ語翻訳
青木奈緖Ursula Gräfe
1956年、フランクフルト生まれ。作家、翻訳家。フランクフルト大学で日本学、英語学、米文学を学ぶ。川上博美、小川洋子、東野圭吾らの作品を翻訳し、特に村上春樹の訳者として知られる。出版された村上作品は15冊以上。

翻訳として正しいとか正しくないとか、そういうことではないと思います。それよりはむしろ日本語のとらえ方の問題になってくると思うんです。

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スコット・フィッツジェラルドやトルーマン・カポーティといった現代アメリカ文学の翻訳者としても知られる村上春樹。そんな彼が、自ら手掛けたサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳について、かつてこう述べていました。私も村上春樹のドイツ語訳を手掛けただけに、「日本語のとらえ方の問題」が「ドイツ語のとらえ方の問題」に置き換わるだけで、彼の言っていることは、とてもよく分かります。翻訳に当たっては、元の日本語と同じように、分かりやすいドイツ語になるよう心掛けています。それにふさわしい表現をドイツ語で探し当てるのは、とても大変なことですが、これが著者と読者に対する私の責任だと思います。それだけに、これまでアモス・オズやフィリップ・ロス、ジョナサン・フランゼンといった面々に授与されてきたドイツの全国紙「ディ・ヴェルト」の文学賞受賞に際して、彼が審査員から「現代の日本でもっとも重要な作家」と称えられたのは、大きな喜びでした。

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日本ではよく「村上現象」が取り上げられますが、国境を超えてこれほどのベストセラー作家になったのは、村上春樹が異文化を繋ぐ術に誰よりも長けているからではないか、とみています。日本の戦後世代を代表し、アメリカ文学を紹介してきた村上春樹のルーツは西洋と東洋の両方にあり、そのため登場人物が世界中で受け入れられるのです。とりわけ韓国や台湾では、最もよく読まれている作家です。

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アジアでは、登場人物たちがあらゆる束縛から逃れて、孤独でありながらどこにでもいるようなごく普通の人であるところに読者が惹かれ、新鮮に映るのでしょう。西洋では、いろいろな世界が緩やかに繋がり、架空のものや、いつも敗北すれすれ、それどころか、最初から負けが決定してしまっているような人生であっても、型にはまっていないことが、新鮮に映るのです。

彼のこうした手法は、「魔術的リアリスム」とドイツで呼ばれることがあります。もともとこれは、ラテンアメリカ文学の流れを指した言い方なのですが、村上春樹が現実の世界を魔術的に読み解いていく手法が、日本文学独自のものである、という点はあまり知られていません。日本にはほかにも、芥川龍之介のような偉大な作家がいますからね。

村上春樹の作品には、どれも独特のムードがあります。話の流れだけでなく、作品に秘められた彼ならではの雰囲気をもドイツ語で再現するのが、翻訳者としての私の使命です。ドイツにお住まいの皆様にならお分かりいただけるかと思いますが、ただ一語一句をそのまま訳すのではありません。日本語とドイツ語のように大きく異なる言語であれば、なおさらです。ですから、まずはふさわしい言葉遣いを探し当てることを念頭に置いています。もちろん、どれがふさわしいかというのは人それぞれで、決まったルールはありません。そこを感覚的につかみ取り、母語であるドイツ語に置き換えることが翻訳者としての仕事だと考えています。

村上春樹の物語のコンセプトは、彼自身の言葉を借りれば、世界と人間の存在の多層性といったような複雑なテーマであっても、分かりやすく表現し、読み手を本の世界に引き込むような書き方をすることです。ヴェルト文学賞の審査員の言葉を借りれば、「小説を通じてじっくりと考えを深めていく唯一無二の方法を確立させ、軽妙さと真面目な部分が同居したそのスタイルは、世界中の読者の心をつかんだ」のです。

最後に、村上さんと日本の読者の皆様方に、改めて受賞をお喜び申し上げます。

(訳:宇野将史

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 14:51
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

BMWデザイン部門
エクステリア・クリエイティブディレクター

永島譲二氏 インタビュー

永島譲二永島譲二
Joji Nagashima

1955年、東京生まれ。米国ウェイン州立大学工業デザイン修士課程修了。1980~86年オペル(ドイツ)、86〜88年ルノー(フランス)にてデザイン開発に携わり、88年からBMW AG(所在地ミュンヘン)デザイン部門へ。現在、同社のエクステリア・クリエイティブディレクターを務める。

世界屈指の高級車ブランドBMW デザイン部に在籍し、Z3ロードスター、5シリーズE39型(ともに1996年)、3シリーズE90型(2005年)、3シリーズGT(2013年)などのデザインを手掛けてこられた永島譲二さん。35年にわたり今日まで、カーデザイン界の第一線で活躍されていらっしゃいます。そんな永島さんの魅力に迫るべく、お仕事の話を中心にインタビューにお答えいただきました。 (インタビュー・構成 / 山口理恵)

「魅力ある自動車を造るルールは何もない。
そこがデザインのもっとも難しく、もっとも面白いところ」

5シリーズE39型 (写真提供 / BMW)
5シリーズE39型(写真提供 / BMW)

カーデザイナーを志したきっかけは?

子どもの頃から自動車が好きで、自動車の絵ばかり描いていました。中学校のときに初めて自動車デザインの専門的なコンペに応募し、その頃から、将来は自動車デザイナーになろうと思うようになりました。

永島さんが現在されているお仕事について、詳しく教えてください。

自動車のデザインは一般的に、ラフなアイデアスケッチから始まり、それが次第に詳しく具体的なスケッチとなってアイデアがある程度まとめられます。次にコンピューターによる3Dデジタルのモデルが作られ、このコンピューターモデルを検討して修正を加えたところで、実際の自動車と同じ大きさのクレイモデルを製作します。これにさらに修正が加わり、最終段階まで進みます。通常、以上のプロセスはコンペによって行われ、段階ごとに審査があり、選ばれたプロポーザル(提案)のみが先に進める形となります。仮に、始めは10のプロポーザルがあったとしても、最終的には1つの案に絞られます。私の現在の仕事は、こうした各段階のすべてにおいて全プロポーザルを監督し、デザイナーたちを指導する役目です。

「デザインする」ということにおいて、一貫して貫かれてきたことはありますか?

自分のポリシーとしては、魅力のある自動車を造るということ。当たり前に聞こえるでしょうが、自動車というのは美しければそれで必ず魅力的になるかといえば、そんな単純なものではありません。また、ファッション的に新しければ必ず魅力的になるかというとそれも違うし、機能的に優れていれば間違いなく魅力ある車になるかというと、それも違います。

例えば、ロンドンタクシーは、どう見ても美しい形でも新しい形でも機能的な形でもないですが、世界中の人があの車はいつまでもあのまま変わらずにいてほしいと願っている。それは、あの車のどこかに大きな魅力があるからでしょう。しかし一方、それとはまったく違う意味で、スポーツカーやレーシングカーにも魅力を感じさせるものがある。つまり、これを満たせば魅力あるものを造れるというルールは実は何もないので、そこがデザインのもっとも難しく、もっとも面白いところなのだと私は考えています。

現在、エコカー販売市場が急拡大しています。デザインする側にとってのメリット、デメリットというのはあるのでしょうか?

エコカーと一口に言ってもいろいろありますが、電気自動車に限って言うならば、デザイン上の代表的デメリットは大量のバッテリーを限られた寸法内に収めなくてはならないことです。メリットはデザインにとってはあまりないと言ってよく、ガソリンエンジンのようには冷却気が必要とされないので、フロントの造形に多少の自由度が与えられることぐらいでしょうか。

Z3ロードスター(写真提供 / BMW)
Z3ロードスター(写真提供 / BMW)

少しプライベートなことについても教えてください。永島さんが愛用されている「お気に入りのデザイン」のものなどはありますか?

何もありません。自分で使うものは、デザインなど気にしていません。

ドイツ国内でお気に入りの場所は?

かつて住んでいたヴィースバーデンです。ヴィースバーデンは戦災を受けなかった保養地で、古く美しい町並みが今でも見られます。かつてのドイツがいかに高い文化を持ち、軍政時代にいかにそのすべてが失われたかがよく分かります。

最後になりますが、もし、自動車に限らず、工業製品をデザインする機会があるとしたら、何かデザインしてみたいものはありますか?

何でもしてみたいです。(デザインするものが)何であれ、納得できる品が市場に出てほしいですから。

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 14:59
 
ドイツニュースダイジェスト1000号記念特集

青木奈緖 特別エッセイ
過ぎてきた時

青木奈緖Nao Aoki
1963年、東京都生まれ。作家、エッセイスト、翻訳家。学習院大大学院修士課程修了。ウィーン留学後、翻訳や通訳をしながらドイツ・フライブルクに長期間滞在。98年に帰国し、『ハリネズミの道』(講談社)でエッセイストとしてデビュー。曽祖父は幸田露伴、祖母は幸田文、母は随筆家の青木玉さん。

ドイツから帰国してからの年数をずっと覚えていたのに、いつのまにか頭の中で計算して確認するようになった。それだけ歳月が流れたということなのだろう。多少の寂しさと、それを上回る懐かしさ、そして揺るぎない親しさを持って振り返ってみようと思う。

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大学でドイツ文学を学び始めた頃の私は、典型的な日本の学生らしく文法は多少理解していたが、会話はまったくできなかった。語学力のなさというより、口を開く勇気を持たなかったということかもしれない。

それから間もなく、知り合いがドイツ人留学生を紹介してくれた。私と同じくらいの歳の女性で、彼女はドイツ語を教えるアルバイトを探しているという。引っ込み思案の矯正のような感覚で私は時おり彼女に会って、たどたどしいドイツ語のおしゃべりをした。

それが縁で、彼女がドイツへ帰国してからも間遠な文通を続けた。メールではなく、文通という響きがなんともクラシカルだが、30年以上前はそれが普通だから仕方ない。

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大学卒業後の私は居残りのようなかたちで大学院へ進み、奨学金を得てドイツとオーストリアへ留学した。この頃の空路はまだ南回りの欧州便が残っており、アンカレッジ経由が人気だった時代。街角の電話ボックスから硬貨を握り締めてかける国際電話は、いくら早口で話しても、気が急いて無事を伝えるのが精一杯だった。

ドイツへ渡ったばかりの私を、友人は遠くの街から気に掛けてくれ、クリスマス休暇には実家へと呼んでくれた。それまで模造品のクリスマスツリーとアイスクリームのケーキしか知らなかった私に、ろうそくを灯した本物のツリーはきらきらとまばゆく、ほの暗い教会で開かれるコンサートやクリスマス市から漂うグリューワインのかぐわしさにドイツのクリスマスを実感した。

ところが、友人の実家に泊めてもらった私は日本にいたときの感覚そのままで、コーヒーか紅茶かという選択にも「どちらでも」と答えて友人の家族を困らせた。彼女は何度私に「それは自分で決めて」と言っただろう。これまでの自分がどれほど他人任せに生きてきたかを思い知る出来事だった。

それからようやく、質問されたときには何らかの答えをしようと心掛けたが、意見は日頃から努めて持つようにしなければ自然にわいて出てくるものではなかった。何も言わないことはゼロではなくて、むしろマイナスの評価が下されるということを身にしみて学んだ。

やがてドイツの暮らしにもすっかり慣れ、私はフライブルクで学生を続けながら翻訳のアルバイトを始めた。一方、友人は日本でかねてから興味を持っていた歌舞伎の研究をしながら家庭を持っていた。互いに話すときはドイツ語でも日本語でも、そのとき思いついた言葉を使って障りなく、次に会うのはドイツか、日本か、それともどこか別の国でも構わないけれど、という気楽さだった。

そんな日々で、はっきり記憶に残っているのは1995年の阪神淡路大震災である。私が日本の出身というだけで周囲の人たちは心配して声を掛けてくれたが、ドイツにいては実際には何が起きているのかよく分からず、一日中、ニュースをつけっ放しにしていた。そのテレビからふいに友の声が聞こえた。後から聞けば、当時、日本滞在中のドイツ人で手分けをして、ドイツからの急な取材に応えていたのだそうだが、画面には高速道路が倒壊し、煙を上げる神戸の街の静止画が映し出されていた。限られた情報がもどかしく、私は日本を遠く思った。どんなに交通や通信が発達しても、それなりの距離と時差が存在することを改めて感じずにはいられなかった。

それから3年余り経って、私は日本での出版を機に帰国した。ドイツでの暮らしは足掛け12年になり、自分の努力で身に付けたドイツ語で生計を立ててゆこうと思えば、それなりに可能かもしれなかった。問題はむしろ、気持ちの上で遠くなる一方の日本との距離で、このあたりで何か行動を起こさなければ、私は日本にはもはや精神的に属さず、ドイツ人にもなりきれない根なし草になりそうな感覚があった。

友人は日本で子育てに奮闘しながら歌舞伎の研究を続けていた。帰国した私は時おり会っておしゃべりをしたり、彼女が催す食事会に参加したり。お互いに忙しいけれど、穏やかな日々がずっと続くように思われていた中で、私は思い掛けなく結婚し、そうこうするうちに彼女は長い日本生活を切り上げて家族全員でドイツに戻ることになった。

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今、私は日本でもの書きをし、彼女はドイツで大学に勤め、それぞれ充実した日々を送っている。2つの国に別れてはいるが、どちらかと言えば互いに不在になっているドイツと日本の暮らしを補い合っているような感覚だろうか。そしてどちらの国で再会しても、「ただいま」「おかえり」と挨拶ひとつ交わすだけで、それが1年ぶりであろうと、もっと長い間のご無沙汰であろうと、まるで昨日からの続きのようにお互いに受け入れて違和感はない。

振り返れば35年が経とうとしている。おそらく私たちはこのまま歳を重ねて、いつの日かしみじみとドイツと日本の長い友情を語るのだろう。

ドイツ

最終更新 Dienstag, 25 Juni 2019 13:16
 

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