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特集


ヴァイオリニスト 諏訪内晶子インタビュー

諏訪内晶子

物事に捉われすぎず、自信を持ち、音楽と向き合う ヴァイオリニスト諏訪内晶子

音楽の世界で生きる者ならば誰もが羨む経歴と存在感。それゆえに生まれ持った才能に支えられた音楽家と捉えられがちなヴァイオリニスト、諏訪内晶子。しかしその足跡をたどれば、彼女がいかに人生の節目で冷徹に状況を見極め、音楽のために最良と思われる選択肢を選び取り、自らの努力でその才能の原石を磨いてきたかがうかがえる。1990年、チャイコフスキー国際コンクールで優勝した当時18歳の少女は、何を考え、どのように音楽と向き合い、世界的ヴァイオリニストとしての地位を築き上げたのだろうか。
(英国ニュースダイジェスト編集部: 村上 祥子)

諏訪内晶子(すわないあきこ) プロフィール
東京都出身、フランス・パリ在住。3歳よりヴァイオリンを始める。桐朋女子高等学校音楽科在学中の90年、チャイコフスキー国際コンクールで最年少優勝。桐朋学園大学ソリスト・ディプロマ・コース修了後、91年秋から米ニューヨークのジュリアード音楽院へ留学、本科・修士課程を修了。95年、アンドレ・プレヴィン指揮N響定期演奏会で日本における演奏活動を再開。以降、ニューヨーク・フィル、ベルリン・フィルをはじめ、世界各国の著名オーケストラとの共演を行っている。

4月末、ロンドン中心部のオフィス・ビルで行われたインタビュー。場所の準備を整えようと建物の扉を開けた瞬間、ヴァイオリン・ケースを肩にかけ、小さなスーツ・ケースを傍らに置いた女性の姿が目の前に飛び込んできた。外見は舞台やテレビで見る姿そのものなのに、一瞬、それが諏訪内晶子であったことに気付かなかったのは、一人佇む女性を取り巻く柔らかい空気が、強烈なオーラで周囲を圧倒する演奏中の彼女のイメージと重ならなかったからだ。「ロイヤル・ウエディングは今週の金曜日でした?」。インタビューの直前、こんな質問を投げ掛けてきた諏訪内は、その日購入したオイスター・カードが、ウィリアム王子とキャサリン妃の写真が印刷されたものだったと言って笑う。やはり、ときに完璧主義と言われる気鋭のヴァイオリニストのイメージとは、少々異なる。

勝負に負けた少女が考えたこと

「アキコ・スワナイ」── 1990年、当時はまだソ連と呼ばれていたロシアの首都、モスクワ。世界有数の音楽コンクール、チャイコフスキー国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で、審査員の満場一致による優勝を果たした18歳の少女、諏訪内晶子は、優勝者の名を告げられると、ほんの少し目を見開いた後、静かに立ち上がり辺りを見回した。技量、若さ、そして恵まれた容姿を備え持つ彼女は瞬く間にメディアの寵児となったが、帰国した彼女を取り巻き、興奮を隠し切れない大人たちの中で、誰よりも落ち着いて見えたのは、誰あろう、少し低めの声で淡々と優勝の喜びを語る諏訪内晶子その人だった。以降、孤高の美貌ヴァイオリニストといったイメージで語られることの多い諏訪内だが、今回のインタビューで、自らの音楽人生を、ときに笑いを含めつつ軽やかに語るその屈託のなさに、心地良い戸惑いを覚える。彼女は一体どのような道のりを歩みながら、ここまでたどり着いたのだろうか。

音楽家、諏訪内晶子の萌芽とも言える瞬間は、小学校4年生のときに訪れた。全日本学生音楽コンクール小学生の部。東日本大会で1位になった諏訪内は、全国大会で優勝を逃してしまう。その帰り道、悔し涙に暮れた。

「自分の力がうまく出せなかった。先生に何を言われようが、先生が何をしようが、舞台に立ってしまえば自分にしかやることができない。9歳ながら自分の中で煮え切らない思いがあったんだと思います。実は東日本大会の本選が終わってからけっこう遊んでしまったので、自分の反省点としてはそこかなあ、と(笑)」。

こう軽い調子で語ったものの、自らの意志の弱さで負けた、そこに納得のいかなかった9歳の少女がここで1つの決意をしたことで、その後の人生は大きく変わることになる。規則正しい毎日を送ることを決めた諏訪内は、学校の長期休暇の間、朝は塾、昼はプールで泳いだ後に昼寝、その後はヴァイオリンの練習、という毎日を厳格なまでに自らに課した。そしてその結果は、数年後、全日本学生音楽コンクール中学生の部1位という形で現れる。

「コンクールに限らず、人の前に立って表現するということは、自信がないとできない。当時は論理的に考えていたわけではなく、感覚的にきっとそうなんじゃないかという感じでしたが。ただ自信がどこからくるかというと、自分がそれまで過ごしてきた時間から生まれるものであって、急にその場になって出るものではないですから。中には出る方もいらっしゃるかもしれませんけれども、私はそういう感じではないんですね。同じことを何度も何度もやっていると、あるとき、ぱっとひらける瞬間がある。それを見付けるためにも、毎日の積み重ねというのは絶対に揺るがないですね」。

音楽家というものは、ある程度ストイックな生活をしなければ、長い意味での演奏活動はできない。習慣的に30分ならば30分だけの時間を、自分の力でベストを尽くす。その点は「ある意味テニス・プレーヤーやプロ野球選手と似ているところがある」と諏訪内は言う。音楽を唯一無二の崇高な存在と捉える人々も多い中で、音楽とスポーツの類似点をあっさり指摘する潔さが小気味良い。

コンクールは外の世界を知る手段

コンクール。それは世界中の音楽家の卵たちが、プロという狭き門への最短切符を手にするために人生を賭けて挑む大舞台だ。世界的コンクールに優勝すれば世界が注目する一方で、一度失敗すれば、音楽家としての経歴に傷が付き、その傷跡は後々まで残る。17歳でエリザベート王妃国際音楽コンクール、日本国際音楽コンクールに参加した諏訪内は、それぞれ2位を獲得。それは音楽家として世界に羽ばたくには十分過ぎるほどの勲章だった。にもかかわらず、あえてその翌年にチャイコフスキー国際コンクールに挑戦したその心の内にあったのは、何が何でも優勝する、という思いだったのだろうか。

「全然、それはなかったですね」。「全然」という言葉をはっきりと区切るようにして即答した諏訪内は、続けて当時の師、江藤俊哉にチャイコフスキーに行くと伝えた際、「僕なら行きませんよ」と言われたというエピソードをおかしそうに話してくれた。優勝を目指す悲壮なまでの覚悟、といった予想とはあまりにかけ離れた、あっけらかんとした様子に、では何が彼女を動かしたのか、興味がもたげる。

「10代後半という、ものすごく色々なことを吸収できる時期だったので、コンクールでは日本の中だけでは吸収できなかった、本当に様々なことを吸収できたと思います。80年代当時は今よりずっと情報量が少なかったですし。その頃は高校生でしたが、例えばカラヤンが日本に来て切符を買おうと電話しても、全くつながらなかったんですね。ベルリン・フィルが来たときに発売と同時に電話をしても、つながったときはもう売り切れで。海外でどんな演奏会が行われているのか、情報が入ってこなかったのと、周りにプロ活動をしている人がいなかったので、プロになるというのが一体どういうことなのかを知りたかった。あとは、言葉が話せなくても、色々な国に行って、出ていくだけで拍手をしてくれて、自分の好きな演奏をして……。そういうことがすごく楽しかったんです」。

コンクールを世界への窓口と捉え、「楽しい」経験だったと語る諏訪内。コンクール挑戦期を、「ロシアに対する憧れがあったから」行ってみたかったというチャイコフスキー・コンクールでの優勝という最高の形で締めくくった彼女を待っていたのは、意外なことに自身いわく「逆にその後の方が大変だった」、音楽家としての次の楽章だった。

諏訪内晶子

脳の総合的な部分を鍛える期間

音楽の世界への扉を開ける鍵を手にした18歳の少女は、しかし、その扉の前で立ち止まっていた。「まさか自分がプロのヴァイオリニストになれるとは思っていなかった」という「いち高校生」の諏訪内は、その時点ではプロになるという意識を明確に持ってはいなかったというのだ。当時の冷静沈着な様子からすると、にわかには信じ難いが、後に彼女の進んだ道が、その言葉の正しさを裏付けている。米ニューヨークにあるジュリアード音楽院への留学。コンクール後、ヨーロッパとアメリカでいくつかの演奏会を行った諏訪内は、自ら後者で学ぶ道を選んだ。

「アメリカの方が何でも吸収しやすいのでは、という思いがありました。オープンで自由で、やる気があれば受け入れてくれる体制になっている。ヨーロッパは、しっかり自分の行く方向が分かっていて、自分を持っていて、その上で自分の行く方向性と合えばすごく良いのだろうなとは思っていたのですけれども、当時の私は放り出されたばかりだったので」。

そしてジュリアードに進んだ諏訪内は、同時に単位互換制度のある名門コロンビア大学で政治思想史を学び始める。以前メディアで、「音楽以外の勉強をしたかったから」とその理由を語ったことがあったが、なぜ「政治思想史」だったのか。

「コロンビアの学部長に、自分は色々なことを勉強したいのだけれど、と相談したんです。その学部長から、哲学や、歴史的な背景を勉強するには政治思想史が良いのではないかとアドバイスを受けました。音楽の技術的なことはほとんど日本でできていたので、もっとアカデミックな角度で、違った視点から音楽を見るには、政治思想史の授業を受ければ良いのでは、と。実際の授業は、最初は英語と日本語、両方のテキストを読まないと頭に入っていかなくて、普通の学生の3〜4倍の時間を掛けましたが、すごく面白かったですね」。

音楽家は、幼い頃からの訓練が必要なため、ともすれば少し偏った部分が出てきてしまうことがある。それはそれで大事だけれど、芸術一般には、脳の総合的な部分が必要になってくる——こう語る諏訪内には、これまでの話からも、技術の向上という点だけでなく、音楽という世界を俯瞰(ふかん)的に捉える傾向がうかがえる。そんな彼女にとって、「音楽家であってもアカデミックなサポートが大切」というジュリアード音楽院の教育方針が肌に合っていただろうことは想像に難くない。「練習していれば良い」というそれまでの観念とは違った価値観を教えてくれたジュリアードでの日々を「すごく貴重な時間だった」と語る彼女が、もう1つ学んだこと、それが「言語化の重要性」だった。

もう何年も前のこと。某テレビ番組に出演した諏訪内が、好きな漢字を色紙に書くよう、求められた。悠々たる筆致で描かれた文字は「翔」だったのだが、印象に残ったのは、続く彼女の言葉だった。日本の文字は見ただけでイメージが喚起されるが、西洋のアルファベットは違う。同様に日本には以心伝心といった伝統があるが、西洋でははっきり言葉にしないと伝わらない——異国で生活し始めた諏訪内が、言葉で気持ちを伝える必要性を感じた、というのは理解できる。しかし、感性が重視される音楽においても言語化を重視するのはなぜだろう。こう問うと、ああ、と懐かしい思い出話を聞かされるような、少し照れくさそうな笑みを浮かべて説明してくれた。

「今思うと、自分がしたいことをはっきり明確に自覚するための方法ですね。自分は本当に何をしたいのか、それをきっちり持つための訓練だったと思います」。

「抽象的であいまいなことを美徳であると捉える部分が少しある日本から一歩出て、西洋音楽、西洋文化の表現方法と比較する」という意味で、言語化を学ぶのは「そのときの自分には必要なこと」だったと諏訪内は断言する。しかし今では、言葉だけでは表現できないこともたくさんあると認識している。「でも当時は、1回はそういうところにはまって、出ていくのも良いかな、と思って」と語る諏訪内の言葉の数々は、やはり理路整然としてはいるものの、以前とはだいぶ異なるゆとりが感じられる。

音楽に一番没頭できている時期

一学生として研鑽を積むこと4年。ジュリアード音楽院修士課程を修了した諏訪内は、本格的な演奏活動を再開した。学習期間をはさんだことで自分の音楽が変わったかと聞かれれば、「すぐには変わらない」。ただ、演奏活動をしていくうちに、「コンクールと演奏会の概念の違い」が分かってきたという。

「例えばオリンピックのように、色々な人と競って点数が出るような部分と、本当に表現しなければならない部分。コンクールではやってはいけないことがあるんですよ。ミスは絶対に許されない。そのため、そちらの方に偏ることがあるんですね。演奏活動では、違うところに気持ちを持っていくことができます」。笑いながらさらっと「技術的にできている、というのは当たり前の話なのですが」と締めくくるあたりはさすが、と思わせる一方で、自由に自身の音楽を高めていける現状に対する充実感が感じられる。

演奏活動を本格化させつつ、引き続き勉学にも励んだ。アメリカでシューマンの後期の作品を勉強しようと思ったとき、どうしても納得がいかない部分にぶち当たった諏訪内は、ベルリン芸術大学の教授に出会い、その知識の深さに驚かされる。薫陶を受けるべくその教授の下を訪ね、「じゃあ、大学に入ってください」と言われた彼女は、何と「入学試験を受けて(笑)」大学へ入学。以後、2年にわたりその教授の下で学んだ。「コンクールを獲ったのがとても若かったので、その時点でも20代半ばでしたから」と何気なく言うものの、驚くべき探究心と実行力だ。

現在はパリに拠点を置き、世界中で演奏活動を行う生活を送っている。仕事は主にイギリス経由で入ってくるため、ロンドンにはしばしば訪れるし、今でも時折、ドイツの教授の下へ向かう。

「パリは90年代後半、夏に1カ月間だけ生活してみて、すごく住みやすい場所だなと思いました。社会的にプライベートな部分とオフィシャルな部分がきっぱり分かれていたのが良かったし、生活レベル、食生活などのクオリティーが高くて、何を食べても美味しいし(笑)。社会主義的な部分もありますし、大変なことはありますけれども、自分の生活形態から見るとすごく過ごしやすいですね。イギリスは、仕事の仕方が違うというか……結構シビアじゃありませんか(笑)? フランスは最後に何となくまとまれば良い、といったところがあるんですが、イギリスの場合はこちらが一生懸命に仕事をしないと怒られるというか(笑)。ドイツは自分が勉強していた場所なので、非常に親近感がありますね。住んでいた当時は90年代、ベルリンの壁が壊れた後で落ち着いていない頃だったので住もうとは思いませんでしたけれども、自分の考え方と遠くないところにある国なんじゃないかなと感じます」。

世界を飛び回り、各地の著名オーケストラと共演する毎日。幼い頃のように、日々の生活に厳しいルールを設定しているのではないか、と思いきや、その問いへの答えは少々意外なものだった。「10代の頃の演奏の仕方は、今はできないですね。逆に必要もないですし。やっぱり体が痛くなったりすることが、昔はなくても今はあるので(笑)、その辺は自分で調整しながらですね」。「最低限守っていかなければならない部分は守って、ですが」とやはり最後に「ただし書き」が付くところは諏訪内らしいが、音楽に対する飽くなき探究心はそのままに、だがその姿勢は、年月を経て少しずつ変わりつつあるようだ。コンクールに明け暮れた時期、知識を吸収した時期を経て、今、彼女はどんなことを考えながら、演奏活動を行っているのだろうか。音色、テクニック、曲の理解——演奏する上で、最も重視していることは。

「そういうことに捉われ過ぎないこと。舞台に立ったときの演奏でしか出せないことがあるので、そうしたことをすべて後ろに置けるような状態に自分をもっていく。舞台の上で自分が一番良いコンディションであるというのを、常に心掛けています。そうした状態でないと、したいこともできないですから。技術的に怖い部分があると良い演奏ができないということもそうですし、体調的にもそうですし、自分に不明な点があると必ず表に出てしまうので、それを極力なくして、音楽に没頭できる状態にしておくというのが一番大切です」。

そしてもう1つ大事にしているのが、柔軟性。「例えば明日もそうなんですけれども、明日初めて(オケと)会ってリハをして、そのまま本番なんです。けれどもずっと一緒に周っているという感じで演奏しなければならない。だから自分がそこに飛び込んでいって、どんな状態でも柔軟に対応できるようにしておくというのは大事ですね」。

今の自分の状態を、「音楽づくりに一番没頭できている時期」と表現する。「色々なことに捉われ過ぎずに、自信を持って、音楽と向き合えている」、気負いのない口調でそう語る諏訪内に、自身の音楽を言語化するとどうなるか、尋ねてみた。「まだまだ、もっともっと変わっていきたいし、変わらなくてはいけないと思う」。あえて言葉に当てはめることを避けたような答えに続き、自らの音楽家としての最終目標をこう言い表した。「自分が今、歩んでいる道のりを経て最終的に到達するところこそが、演奏家として面白い地点。それを長い息で探していきたい」。一瞬、一瞬でベストを尽くす。そんな諏訪内晶子がその一生をかけてたどりつく場所とは、一体、どんな地平なのだろう。

インタビュー中、何度もプロ・スポーツ選手を引き合いに出した。芸術とスポーツ。異なる世界に共通するもの、それは最高の一瞬を求めて日々を切磋琢磨する、その清廉とも言える生き様ではないだろうか。その意味で言うならば、諏訪内晶子はまさにプロ・スポーツ選手のごとき演奏家だ。数々の質問に、時に笑いを含めながらよどむことなく答え続ける諏訪内の姿からは、少女の頃の張り詰めたような緊張感の中で極限を追求するストイックさはうかがえない。ただ、幼い頃にヴァイオリンに人生を捧げることを決めてしまった少女が、長い月日を経て身につけた、静謐な情熱とでも呼ぶべきものが溢れていた。

諏訪内晶子共演
札幌交響楽団 50周年記念 ヨーロッパ公演


今年、創立50周年を迎える札幌交響楽団と、ヴァイオリニスト諏訪内晶子が共演するコンサート。ドイツ・ミュンヘン公演を皮切りに、ロンドン、サレルノ、ミラノ、デュッセルドルフと3カ国5都市を周る。諏訪内にとって札幌交響楽団との共演は初となる。指揮は、英BBC ウェールズ交響楽団桂冠指揮者としても活動する札幌交響楽団音楽監督の尾高忠明。諏訪内と尾高が今回手掛けるのは、プロコフィエフの「ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調op.19」。過去20年にわたり幾度となく共演してきたという2人が、札幌交響楽団とどのような旋律を奏でるのか、興味深い。なお、チケット収入はすべて東日本大震災の被災者のための義援金として、寄付される。
ドイツ公演
【デュッセルドルフ】
5月27日(金) 20:00
13~34ユーロ
Tonhalle Düsseldorf
Ehrenhof 1, 40479 Düsseldorf
Tel: 0211-8996123
www.tonhalle.de
【ミュンヘン】
5月22日(日) 20:00
2.70~66.30ユーロ
Royal Festival Hall
Gasteig München
Rosenheimer Str. 5, 81667 München
Tel: 089-54818154
Waterloo駅
www.gasteig.de

演奏曲目
武満徹「ハウ・スロー・ザ・ウィンド」
プロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調op.19」
チャイコフスキー「交響曲第6番ロ短調op.74『悲愴』」
最終更新 Dienstag, 05 November 2024 12:59
 

日独経済産業交流の変遷と展望

日独経済産業交流の変遷と展望

デュッセルドルフ、そこは食も物品も、そして桜の木も、遠い故郷を感じさせるもので溢れる在欧日本人の憩いの場。この街の歴史的背景に目を向けると、時代の先端を担いつつ、苦境を乗り越えてきた、たくましい企業人たちの背中が見えてくる。日本とドイツ、150年の交流が繋ぐ過去と未来を、経済展を通してじっくりと感じてみませんか。
(文:編集部・高橋 萌、協力:デュッセルドルフ日本商工会議所)

開催によせて「日独交流の歴史、
それはライン川の流れのように豊か」

今日、デュッセルドルフには欧州最大規模の日本人社会が形成され、両国の経済交流が活発に行われています。「デュッセルドルフ日本デー」が象徴するように、経済・産業分野だけでなく、文化・音楽・スポーツと、あらゆる分野で両国の交流が盛んに行われている今、日独交流の大きなうねりは、まさにライン川の流れのように不変のようであります。

その始まりは1950年以降と考えておられる方が大半ではないでしょうか。今回の経済展の目的の1つは、日独交流の「ルーツ探し、源流探し」から始まりました。そして、150年前に、その源流の一端を発見するに至ったのですが、まさに歴史に人ありです。明治という近代国家黎明期に活躍した、当地と縁の深いドイツ人が2人見付かりました。日独貿易拡大のパイオニア、ルイス・クニフラーと日本の鉄鋼産業発展の礎となった鉱山技師クルト=アドルフ・ネットーです。同展では、彼らの足跡にスポットを当てます。

その後、第2次世界大戦中に地下に潜伏していた覆水は戦後再び地表に現れ、50年代に小さな流れを生み、当地日系企業の欧州販売統括拠点へと繁栄するとともに、小川から大河へと姿を変えていきました。

経済展では日独企業31社が出展、その過去・現在・未来への活動状況をご覧頂けます。150年の日独交流の歴史の流れを振り返って、現在に立ち止まり、未来へのステップに思いを馳せ、そして日本の厳しい状況を克服する勇気と希望を持って頂く機会になればと切望しております。

デュッセルドルフ日本商工会議所
事務総長 柚岡一明

1961年のインマーマン通り
1961年、インマーマン通り

経済展の見どころ
徹底分析!!

「経済展」というと、少し堅苦しいイメージを抱いてしまいがちだが、バラエティーに富んだ展示内容と体験型アトラクションが、知的好奇心を存分に満たしてくれる。大人から子どもまで楽しめる経済展の魅力の一部をご紹介します。 (展示品の解説言語はすべて日独併記)

地図

1まずは入場
来場者プレゼント&抽選会あり

ライン川沿いのプロムナードを散歩しがてら、または旧市街の観光の合間に、思い立ったらすぐに立ち寄れる絶好のロケーションにあるNRWフォーラム。入場無料の同経済展、そこで展示される資料や展示品は、ほかでは体験できない特別なものばかり。また、経済展開催中は、特製うちわや、日本製の水ヨーヨー、キッコーマンの醤油とミニレシピのセット※と、お祭り気分を盛り上げる来場者プレゼントや、デジタルカメラが4名に当たる豪華抽選会も予定されている。まずは、会場へ足を運んでみよう!

※1日につき先着100名様限定

デジタルカメラ
リコーのデジカメ「GXR P10kit」(左)を1名、「CX5」を3名に

2タッチセンサー型テーブルで情報収集

タッチセンサー展示会場の中央にある「タッチセンサー型 情報テーブル」には、年代、ジャンル、企業別に日本の文化や日独交流の歴史に関する情報が網羅されていてる。上面がタッチセンサーパネルになっているから、指で触れて、情報をまさに手繰り寄せる感覚。表示される映像や情報は、テーブル上だけでなく、左右に設置されたスクリーンにも映し出される。展示品を見ながら疑問に思ったこと、気になることが出てきたら、すぐにこの情報テーブルにタッチ!

3歴史をたどるパネル展示


ルイス・クラフニー商会のポスター

歴史の浪漫とダイナミズムを感じさせる、日独交流150年のすべてをパネルで紹介。1861年、日本とプロイセンの間で「友好通商航海条約」が締結されたことに始まり、光を当てるのは、2人のドイツ人の物語。日独貿易のパイオニアであるクニフラーと、鉄鋼産業の発展に尽力したネットー。欧米列強国に肩を並べようとする明治政府の情熱と、未知の土地に可能性を見出したドイツ人の開拓者魂が、1万キロも離れた2つの国の関係を切り開いたのだ。彼らの足跡を追うとともに、ネットーの直筆デッサンも展示される。彼の目から見た明治時代の日本の姿にご注目。

昼食会を開いての日独交流の様子(1965年)
昼食会を開いての日独交流の
様子(1965年)

もう1つの見どころは、日本企業のドイツ進出が進んだ1950年代以降。なぜ「デュッセルドルフ」だったのか?日本との通信や物資の供給が難しかった当時の苦労は? 同展は、そんな素朴な疑問に答え、発展を続けてきた日本人社会の歩みをおさらいする。

4日独企業の歩みを知る

500社を超える日本企業が活動しているNRW州だが、どんな企業が、どの分野で活躍しているか、ご存知だろうか?ここでは、当地で活躍する日本企業と日本に進出しているドイツ企業が、それぞれの歴史と日独社会に提供している自慢の一品を披露する。最新の自動車技術やロボットスーツといった未来の技術、世界初のノートパソコンやファクシミリ、カメラ技術の歴史などの歴史的遺産、そして化粧品、食品など生活に関わるものまで多岐にわたる展示品。それらには、実際に目にしなければ伝わらない、実物とともに語られるからこそ得られる説得力がある。

日独企業の歩み

5野外展示スペースには未来の自動車

未来の車

会場の外に出ると、トヨタの燃料電池ハイブリッド車「FCHV-adv」と、三菱の電気自動車「i MiEV」が待ち構えている。「FCHV-adv」は水素電池を搭載したハイブリット車で、1回の水素充填による航続距離が約830kmという性能の高さで世界から注目を集めている。また、昨年の春、一般向けの販売をスタートさせたばかりの三菱の「i MiEV」は試乗会を開催。エコ社会への変換を迫られている現代に必須のテクノロジーに触れ、遠くない未来の車社会を体感しよう。

6イベント会場も盛りだくさん

同経済展の開催中は、会場内で毎日さまざまな催し物が予定されている。こちらも、もちろん参加は無料。ドイツ人と一緒に日本文化を体験する交流の場として、または専門家の講演に耳を傾ける学びの場として、いつでも飛び入り参加して楽しもう!

5月22日(日)14:00~17:00
日本文化の紹介 (着物の試着、書道、折り紙)

5月23日(月)18:00~20:00
セミナー「ドイツで働く」※要申し込み(www.djw.de参照)

5月24日(火)14:00~17:00
日本文化の紹介(書道)

5月24日(火)18:00~20:00
講演会(ドイツ語) “Die ersten Japaner im Rheinland(1862)”
(ラインラント地方にとって初めての日本人)
※要申し込み(www.jihk.de参照)

5月25日(水)14:00~17:00
日本文化の紹介(生け花)

5月25日(水)18:00~20:00
講演会(ドイツ語) “Japanische Bergarbeiter im Ruhrgebiet”
(ルール地方の日本人炭鉱夫たち)
※要申し込み(www.djg-duesseldorf.de参照)

5月27日(金)14:00~17:00
日本文化の紹介(折り紙)

5月28日(土)14:00~17:00
日本文化の紹介(茶道)

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電子顕微鏡TM3000
子どもたちにもっと理科の楽しさを知ってもらいたいと開発された、日立の電子顕微鏡。顕微鏡で見る世界を体験しよう!
※グループ対象のデモンストレーション。
要申し込み (www.jihk.de参照)

最新のナビゲーションシステム
1981年、世界初のカーナビを本田技研工業と共同開発したアルプス電気が、最新のナビゲーションシステムのプロトタイプを展示場で披露する。実際に手に取って遊んでみよう!

マクロカメラ
リコーのマクロカメラを使って、見慣れた被写体をクローズアップ撮影。そこに広がるのは、見逃していた細部が活きる「ミニワールド」。マクロ撮影を体験し、新たな写真の魅力を発見しよう!

電気自動車の試乗会
野外の展示スペースでは、三菱の電気自動車i-MiEVに試乗するチャンス。この機会に電気自動車ならではの乗り心地を体感してみよう。試乗会、期間中11:00~18:00まで!

基本情報

日時 2011年5月21日(土)~28日(土)
開館時間 11:00~20:00 金11:00~24:00 ※21日のみ14:00~20:00
入場料 無料
会場 NRW-Forum Düsseldorf(2階)
住所 Ehrenhof 2, 40479 Düsseldorf
最寄駅 Tonhalle/Ehrenhof, Nordstraße

問い合わせ先
デュッセルドルフ日本商工会議所
Japanische IHK zu Düsseldorf e.V.
E-Mail: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください
担当者: 柚岡、リー
TEL: 0211-630760
www.jihk.de

\sl141\slmult0 団体・グループでの見学について
同経済展は、団体やグループでの見学を歓迎しています。ご希望の際は、事前に上記までご連絡ください。

主催者
デュッセルドルフ日本商工会議所、NRW.INVEST GmbH、NRW州政府
主催者

出展企業一覧

出展企業


次はベルリンへ巡回!

「日独交流150周年記念経済展」が、ベルリンでも開催される。デュッセルドルフで展示されたパネルとタッチセンサーテーブル、そして各企業からの展示品もお披露目される予定。

日時 6月11日(土)~19日(日)
NRW州政府代表本部の営業時間内
会場 NRW Landesvertretung in Berlin
(ベルリンのNRW州政府代表本部)
住所 Hiroshimastraße 12, 10785 Berlin
入場料 無料
主催 デュッセルドルフ日本商工会議所、
NRW.INVEST GmbH、NRW州政府

※記載されている情報は予告なく変更される場合がございます。ご了承ください。

最終更新 Freitag, 09 August 2019 11:09
 

華道家元45世 池坊専永

華道家元45世 池坊専永

日本が誇る伝統文化の代表格の1つ、いけばな。美しい花を愛で、心を清める。そして豊かな心でいけられた花は、一段と美しさを増す。そんな自然賛美の心が人間の生活や文化を潤すといういけばなの精神を、およそ550年にわたり受け継いできたのが、華道家元池坊だ。45世家元池坊専永氏は、その精神を世界に広めるべく、積極的な海外活動を展開している。このたび、日独交流150周年に合わせて訪独を予定している家元に、池坊の活動といけばなの精神世界についてうかがった。

家元の「生花新風体」

【 池坊 】
池坊(いけのぼう)は、聖徳太子により587年に創建されたと伝えられる六角堂(紫雲山頂法寺)の本坊の名。池のほとりに住持の坊があったことから、その名が付いたとされる。代々の池坊の執行によって、仏前供花は観賞する花、すなわち「いけばな」へと発展した。室町時代後期、池坊専応が「専応口伝」でいけばなの理念を確立し、そこから「単に美しい花を観賞するだけでなく、草木の生命、風興を基とし、花をいけることによって悟りに至ることができる」いけばなが成立。立花、生花、自由花と、表現様式の幅も時代と共に多様化してきた。

池坊専永池坊専永
1945年、父専威の死去に伴い11歳で華道家元45世を継承し、53年に六角堂住職に就任。74年に銀座松坂屋で初の個展「こころを生ける」を開催。早くから新時代のいけばなを探求し、77年に生花新風体、99年に立花新風体を発表。62年に池坊初の海外活動を行い、以後も積極的に国内外の普及活動を展開。71年紺綬褒章、2006年旭日中綬章をはじめ、受賞歴多数。著書に『花の美とこころ』(講談社)、『麗しい生き方 たおやかな花のように』(PHP研究所)など。

まず、家元の普段のご活動について教えてください。

池坊には、国内に約400、海外に約100の支部があり、様々ないけばなの普及活動をしています。京都本部が主催するいけばな展のほか、各地の支部が主催する行事にも出席したり、作品を展示しています。海外では、いけばなデモンストレーションを披露し、実際に花をいけながら池坊を紹介しています。

また、いけばなの発祥の地である六角堂の住職でもありますので、そのお務めもあります。最近では、4月17日に池坊由紀次期家元と共に、東日本大震災で犠牲になられた方々への追悼と被災された皆様と被災地の1日も早い復興を祈願して、特別祈願と献花を行いました。執筆活動も行っていて、不定期ですが、本も出版しています。

1945年に45世を継承され、まさに戦後の池坊の一時代を築かれてきたわけですが、この激動の時代に、池坊はどのような成長・変化を遂げたのでしょうか?

いけばなは、時代に応じて少しずつ姿を変えながら継承されてきました。戦後、日本人の生活スタイルが大きく変化する中で、一般の住宅からは床の間が消えるなど、いけばながいけられる環境は大きく変化し、花材も様々な種類のものが手に入るようになりました。また、環境だけではなく精神面でも、自由なものが求められるようになり、人々の趣味も多様化していきました。このような環境の中、より華やかで、規則にとらわれず、平易にいけられるいけばなが喜ばれるようになったのです。

移りゆく時代の中では、従来の形式を尊重しつつも、新しいものを生み出していくことが大切で、池坊いけばなもその様式を少しずつ変化させて成長して参りました。作品の大きさも多様化し、現在では手のひらにのるような小さい作品、ミニチュア自由花と呼ばれるものもあります。

このように、いつも時代に合わせて変化することで、池坊いけばなは人々の生活の中に生き続けてきました。将来もまた新しいものが生み出され、形は変化していくでしょうが、いけばなの精神はいつの時代も変わりません。

家元の「自由花」
家元の「自由花」

これまで花をいけていらした中で、特に印象深い作品はありますか?

家元継承60年(2005年)の際、「お母ちゃん、一番星み~つけた」という母への思いを込めていけた作品があります。この時は会場に「見上げてごらん夜の星を」の曲を流しました。

11歳の時に父を亡くし、華道家元45世を継承して、修業のために比叡山山麓の寺に預けられました。母や兄弟姉妹と離れての生活は寂しく、夕方、一番星を見付けては「お母ちゃん、一番星み~つけた」と口ずさんでいました。そうした経験から生まれたのがこの作品です。

この比叡山での修業時代が、形ではなく目に見えない本当に大切なものを見る力を育んでくれたのだと思います。

型にとらわれず、
花への感動をそのまま作品に

家元は、「生花新風体」「立花新風体」という新たないけばな様式を発表されています。これらは、どのような考えのもとに生み出されたのですか?

規則に従って型に素材を当てはめるのではなく、花への感動をそのまま作品に表現できるようにとの思いが背景にあります。従来の生花・立花には、床の間に飾られることを念頭に置いた制約が多くありますが、現在では床の間のある家は少なくなり、いけばなを飾る場所も多様化しています。ですから、そのような制約を取り除きました。規則にとらわれ過ぎず、花をいける喜びを大切にすべきであると思うようになったのです。目に見える形のみにとらわれず、作品に精神を込めて作者の思いを表現することが大切だからです。

生活環境の変化や花材の多様化も、新たな様式を生む一因となりました。流通機関の発達により、今や外国からも様々な種類の花材が輸入されています。新風体では、そのような花材も自分の思いを表現するために自由に使用することができます。

池坊の伝統的な美感と、生花、立花の構成、品格を内包しながら、現代の環境や感性に合った様式として「新風体」を発表したのです。

米国、欧州、アジアを歴訪された初めての海外活動で、ご苦労はありませんでしたか?

最初はいろいろと苦労しました。海外への渡航そのものが日本人にとっては大変な時代でした。当時、米国の観光ビザは簡単に下りませんでしたし、現金の持ち込みも500ドルに制限されていました。海外の門弟たちにも随分助けてもらい、デモンストレーションで着用する羽織や袴も現地で準備してもらいました。また、花をいける際の剣山もまだ少なかった時代です。いけばなでは、「こみ藁」といって藁の束を花器の中に入れて使用することがあるのですが、これもほうきで代用したりしました。

この当時はまだ、「いけばな」という言葉は世界的にほとんど知られていませんでした。いけばなでは時の移り変わりを表現するため、きれいに開花した植物だけでなく、枯れた葉なども花材として使用しますが、海外ではそれが理解されず、嫌がられることもありました。

海外では日本から花材を持参して見せるのではなく、その土地にある花材を使っていけるようにしています。海外の人たちが、自分もいけてみたいという気持ちになってもらうことが大切です。身近に手に入る花を使って、誰でもいけばなができるということを分かってもらえるよう心掛けています。

1968年、米国サンフランシスコに事務所を開設しました。北米に事務所があるのは、いけばなの流派では池坊だけです。独立した非営利団体で、米国・カナダの池坊の活動を担っています。また、本部から1年に3人の講師を派遣し、北米でのいけばな普及活動と人材育成にも力を入れています。

バンコクでデモンストレーション
2009年、池坊バンコク支部20周年記念行事でのデモンストレーション

2003年にモスクワのクレムリン宮殿でデモンストレーションを行われていますが、反響はいかがでしたか?

クレムリンで、日本人の手によって花がいけられるのは初めてのことでしたので、それがきっかけで日露の文化交流がさらに広まることが期待されました。反響は良く、その時のご縁で国立特別保護区歴史文化博物館「モスクワ・クレムリン」の館長が後日、京都を訪れ、いけばなの体験などをされました。その際、館長は日本のマスコミに対し、クレムリンでのいけばな展は素晴らしかったと仰ってくださいました。

また、モスクワ市内の別の会場やサンクトペテルブルグ市のエルミタージュ美術館など、クレムリン以外でも花展が開催され、会場を訪れた現地の方からは「いけばなから不思議な素朴さと美しさを生み出す日本の秘密を知りたい」などの声も聞かれました。このデモンストレーションや花展は、現地の皆様にいけばなを通して日本文化に興味を持っていただく良い機会になったと思っています。

ドイツでの活動において、これまでに印象に残っている経験などはありますか?

1997年6月、ドイツ支部設立30周年記念行事開催の折にドイツを訪問し、ミュンヘン・ガスタイク文化センター内のカールオルフホールにてデモンストレーションを行いました。素晴らしい会場で、約500名もの方々にご来場いただきました。舞台装置や照明設備を駆使し、デモンストレーションを効果的に披露できたほか、ライラック、蒲(がま)、ひも鶏頭、夕霧草など、花材も大変豊富な美しい季節で、様々な作品をいけることができました。

デモンストレーション後の懇親会では、ハープやハックブレッドによるドイツ民謡などの演奏を楽しませていただきました。様々な国で、その土地固有の文化に触れることは大きな喜びです。

人と人とのつながりを尊ぶ心が
世界中に広まるように

海外でのいけばな普及活動の目的や、その背景にある思いを教えてください。

池坊には、海外約30カ国に約110の支部やスタディーグループがあります。各地の支部を訪問してデモンストレーションや花展、また池坊本部から講師を派遣して講習会を開催するなどの活動をしています。日本国内からツアーを組んで池坊会員が海外の支部を訪問し、親善花展や現地支部会員との交流会を開くこともあります。さらに、池坊の支部が存在しない国でも大使館や国際交流基金などと連携して、いけばなのデモンストレーションなどを披露することがあります。

いけばなは日本で生まれましたが、今では世界中に広まっています。それぞれの国の人々が自国の自然を称え、その土地の植物を用いていけばなを楽しんでいます。いけばなを通して、自然を敬い、あらゆる生命を尊重する心、人と人とのつながりを大切にする心が、どの国にも広がるようにと願っています。

このたび、再びドイツ訪問の機会を得られましたことに感謝しております。より多くの皆様に、そのようないけばなの心をお伝えできればと思っています。

インドネシア支部30周年記念行事
2010年、インドネシア支部30周年記念行事にて、
展示作品について来賓の塩尻在インドネシア日本大使夫妻に
説明する家元

海外での活動を通して、ご自身はどのような刺激を受けていらっしゃいますか?

これまで、アジアやヨーロッパ、アフリカ、北・中・南米、オーストラリアなど、世界100カ国以上でいけばなを指導してきました。花を通して、世界中の共通の趣味を持つ方々と交流できることは何よりの喜びです。人と人との出会いやつながりの大切さを感じます。

どの国でも、デモンストレーションなどの際には現地で入手できる花材を使用することはすでに申し上げましたが、その土地で手に入れた器や籠などを花器として使用することもあります。日本の伝統的な「美」を紹介する一方で、日本古来の花や器の型を押し付けるのではなく、その国の自然や文化を尊重した、現地の皆さんが楽しめるいけばなの姿を提案することも大切であると、私は考えています。

テープカット
インドネシア支部30周年の花展開会式で塩尻大使、
池坊インドネシア支部長らとテープカット

命が宿るいけばなを、先達から次世代へ

家元が池坊、華道を通してこれまでに培われた経験やいけばなの魅力について、どのように次世代へと伝えていきたいと思われますか?

池坊には550年の歴史がありますが、ただ単に続いてきたのではありません。550年の間、文化と伝統を伝え続けてきたのです。教えるということは、先生の生きてきた道を弟子に伝えていくことであり、その中で心のつながりが築かれます。先生から弟子へ、さらにその弟子へと「心」を受け継いでいくことが最も大切であり、池坊はそのようにして550年続いてきました。

江戸時代に先人がいけた作品を、400年後の現代に同じ花材を使って復元しても美しいと感じます。それは形の美しさだけではなく、その背後に命を感じられるからだと思います。ただ美しい色・形の花を器に挿すのではなく、「いける」ということが大切です。そこに精神を入れ、背後にある世界観が見えるような作品にしなければなりません。花は時間が経てば枯れてしまいますが、だからこそ、そこに生命感があり、命の尊さが感じられるのです。

時代の変化に応じて新しいものを生み出しながらも、このようないけばなの精神を人から人へと次世代にも伝え続けていきたいと思っています。

2012年は池坊550周年ということで、「いけばな池坊550年祭」にて盛大に祝われるようですね。

室町時代中期、東福寺の禅僧雲泉大極の日記「碧山日録」に「池坊の生け花」が記述されてから、2012年で550年を迎えます。これは、池坊いけばなのことが書かれている、現存する最古の文書です。この長い年月にわたり、池坊華道の継承・普及に努めてこられた先達に心から感謝するとともに、このような貴重な節目の年を多くの門弟の方々と一緒に迎えられる喜びと幸せを感じています。

日本では今年11月、京都で開催する旧七夕会池坊全国華道展を皮切りに、翌年の旧七夕会までの1年を「いけばな池坊550年祭」とし、全国花展や記念式典などの行事と、池坊華道の魅力を改めて発信する様々な催しを行います。海外各支部やスタディーグループにおいても、それぞれの花展や催しの折に「いけばな池坊550年祭」を現地にて広く紹介し、共に祝っていただく予定です。

現代の社会は急速な変化を遂げており、人々の価値観も文化のあり方も大きく変わろうとしています。池坊の先達が時代の変化に対応し続けてきた努力と情熱を受け継ぎ、「今」という時代に日本国内のみならず、海外に向けても広く池坊の価値を認識して頂くため、全力を尽くしていきたいと思います。

家元の「立花新風体」
家元の「立花新風体」

これまでの海外活動の経験を踏まえ、在留日本人の方々にメッセージをお願いいたします。

いけばなは、芸術ではなく文化です。文化は人間だけが持っているもので、犬や猫にはありません。文化の中には、コンピューターを作り出したりするような頭の文化と心の文化がありますが、現代では頭の文化は栄えている一方で、心の文化は衰退しています。

心の文化には真、善、美があり、真は真実を知りたいという心、善は人助けなど良いことをしたいと思う心、美はいけばななどを通して心を磨くことです。頭と心の両方の文化が揃って一人前、立派な人間になれるのだと思います。効率を重視する現代社会では忘れられがちな心の文化を、ぜひ皆様には大切にしていただきたいと願っています。

また、花と人、人と人との和から美しいいけばなが生まれると言われます。人と人との出会いやつながりを大切に、お互いを思いやる「和」の心を皆様がお住まいの地でも伝え続けていただきたいと思います。

(インタビュー・構成:林 康子)

日独交流150周年
いけばなの根源池坊
IKENOBO, der Ursprung des Ikebana
6月17日(金) 日本とドイツの池坊会員懇親会
6月18日(土)、19日(日)10:00~17:00
池坊いけばな展とデモンストレーション 

18日の注目はこちら!
10:00 華道展オープニングセレモニー
12:00 華道家家元45世池坊専永によるデモンストレーション
ドイツ「惠光」日本文化センター
EKO-Haus der Japanischen Kultur
Brüggener Weg 6, 40547 Düsseldorf
TEL: 0211-5779180 
www.eko-haus.de
最終更新 Freitag, 09 August 2019 11:27
 

ユーロビジョン・ソング・コンテスト

Eurovision Song Contest
今年はドイツで開催!ユーロビジョン・ソング・コンテスト

悲しいときに聴けば救われ、嬉しいときに聴けばより幸せな気分になれる。たとえ詞の意味が分からなくても心に響き、言葉が通じない国の人々の相互理解を助けてくれる──それが歌の持つ力。
いつの世も、どこでも人は歌を聴き、口ずさみながら暮らしてきた。歌をこよなく愛する人々のためにヨーロッパで開かれる祭典といえば、「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」。テレビ中継され、毎回高い視聴率を記録する歌謡ショーは、日本で言う紅白歌合戦のような存在だ。長い伝統を誇るこの歌の祭典が今年、ドイツにやって来る!(編集部:林 康子)

ユーロビジョン・ソング・コンテスト(ESC)とは

ESCの歩み

トロフィー
2010年大会の
優勝トロフィー

各国を代表する歌手が集って競う”歌の欧州選手権”さながらの装いを見せる「ユーロビジョン・ソング・コンテスト(Eurovision Song Contest = ESC)」は、欧州放送連合(European Broadcasting Union = EBU)に加盟する放送局によって開催される年に一度の歌謡曲の祭典。その起源は1950年代、まだ第2次世界大戦の爪痕が残るヨーロッパで、スイスに本部を置くEBUが、「加盟国が一丸となって楽しめるプログラムを!」と考案したことにさかのぼる。EBUは、すでに51年に始まっていたイタリアの「サンレモ音楽祭」を参考に、テレビでの生中継を売りにした国際的なソング・コンテストを企画し、56年にスイスのルガーノで、同国と西ドイツ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、イタリアの7カ国が参加しての初回を開催。その様子が、加盟放送局によって全参加国に同時生中継されたのである。

それ以降、毎年開催されているこの祭典は、今年で 56回目を迎える。回を重ねるごとに参加国が増え、これまでの参加国総数は51カ国、視聴者の数も今や1億〜6億人に上る世界最大の歌番組に成長した。

ESCの仕組み

ドイツに来て、初めてESCの存在を知ったという人は多いだろう。テレビを観ていて、いろんな 国の歌手やバンドがそれぞれオリジナルの楽曲を披露し、競い合っているということは分かっても、「歌っているのは誰?」「結果発表で『8ポイント、12ポイント』と言っているけれど、優勝国ってどうやって決まるの?」など、その形式には謎が多い。そこで、まずはESCの仕組みを説明しよう。

参加資格

参加資格を持つのは、EBUに加盟している各国の放送局。ここに加盟できるのは、国際電気通信連合が定める欧州放送地域(European Broadcasting Area)内にあるか、ヨーロッパの統合に取り組む国際機関、欧州評議会に加盟しており、かつ国内の98%以上のテレビ所有世帯が受信可能な放送局と規定されている。ほとんどの国の加盟放送局は公共放送で、欧州放送地域は一部ヨーロッパ域外にも及ぶため、地理的にヨーロッパに属さない国でも参加可能。

投票・審査

各参加国は電話かSMSよる視聴者投票により、その投票順位に従って1〜8点、10点、12点を自国以外の計10カ国に与える。全参加国の発表終了後、各国とのテレビ中継で得点発表者がその国からの得点を読み上げ、最多得点国が優勝となる。このポイント制については、音楽的嗜好や文化の似通った国同士が互いに投票し合ったり、移民が祖国へ投票する、いわゆる「移民票」が毎回大きな影響を及ぼすことから、公正な結果にならないとの批判も上がっている。

準決勝と決勝

7カ国で始まったESCは、今や参加国が約50カ国に上るメガ・イベント。大会の放送時間は3時間半以内と規定されているため、時間内に全参加国が発表することは不可能だ。そこで導入されたのが「準決勝」という名の予選制度。決勝と同じ週に、2回に分けて行われ、決勝と同様の投票を経て決勝進出国が決まる。なお、2000年からEBUの主要資金拠出国であるイギリス、ドイツ、フランス、スペインは「Big4」と呼ばれ、自動的に決勝出場権が認められている。

ドイツとユーロビジョン・ソング・コンテスト

1956年の第1回大会で初出場したドイツ。その後も毎年参加し、2010年までの出場回数は全55回中54回と、参加国の中でも最多を誇る。参加しなかったのは1996年の1回のみ。当時は参加国の増加とともに予選が導入され始めた頃で、ドイツはレオンの『Planet of Blue』という曲を送り込んだが、審査員選考予選で敗退し、本戦出場は叶わなかった。EBUの最大資金拠出国であるドイツからは不満の声が多く上がり、「Big4」のシステムが導入されるきっかけになったとも言われる。

積極的な参加を続け、その放送は国内で最も高い視聴率を誇るほど注目度の高い大会だが、成績はいまひとつ。2009年の時点で、7回の最多優勝を記録するアイルランド、5回優勝のイギリス、フランス、アイルランドに比べ、ドイツの優勝は1982年の1回のみである。曲は、東西に分裂していたドイツで両国の人々の気持ちを歌ったニコールの『Ein bißchen Frieden』だった。その他、2位に4回、3位に5回選ばれているが、最下位も5回経験しており、64年、65年に至っては2年連続で0点という散々な成績を残している。

ニコール
1982年大会を制したニコール

同コンテストでの優勝により、その後歌手として華々しい成功を収めた例に、『Waterloo』を歌って優勝したABBA(74年、スウェーデン)や、『Ne Partez Pas Sans Moi』を歌って優勝したセリーヌ・ディオン(88年、スイス)が挙げられるが、ドイツでもESCの結果は国内外の音楽市場に影響を与えている。60年以降の代表曲の内、6曲が国内ヒットチャートで1位を獲得。中でも62年の代表曲、コーネリア・フロベスの『Zwei kleine Italiener』は最も売れた代表曲、『Ein bißchen Frieden』はドイツ以外の国々でも大ヒットを飛ばした曲として知られている。

またドイツは、曲に使われる言語に外国語を取り入れたパイオニア的存在でもある。60年に初めてフランス語のタイトルを持つ歌『Bonne nuit, ma chérie』を披露、翌年には『Einmal sehen wir uns wieder』という曲のリフレイン部分がフランス語で歌われた。以降はポップ音楽界における世界的な傾向も相まって、歌詞を英語にすることが多くなったが、トルコ語やヘブライ語など、様々な 言語の歌に果敢に挑戦している。また、ドイツ語のヒット曲が他言語に訳されるケースも多く、56年の『So geht das jede Nacht』や70年の『Wunder geht es immer wieder』は、日本語版も作られている。

2011年のユーロビジョン・ソング・コンテスト

”我らがレナ”の大快挙!

2010年のノルウェー大会、それまで最多出場数を誇りながら成績の冴えなかったドイツに異変が起きた!人気エンターテイナーで、楽曲プロデュースも手掛けるシュテファン・ラープが企画制作に携わった国内選考大会「Unser Star für Oslo」を制した若干18歳(当時)のレナ・マイヤー=ラントルート。彼女が、なんとESC決勝で246点の最高点を獲得し、ドイツに28年ぶりの優勝をもたらしたのだ。

幼い頃からダンスは習っていたものの、歌のレッスンは受けたことがないというレナが成し遂げた快挙は、ドイツ中を歓喜の渦に包んだ。このとき歌った勝負曲『Satellite』 は国内をはじめ、スイスや北欧など欧州5カ国でヒットチャート1位を記録し、まさに時のポップ音楽界はレナ一色に。その余韻覚めやらぬまま彼女は今年、エレクトロ・ポップと80年代サウンドが混じった妖艶な雰囲気漂う新曲『Taken by A Stranger』で王座防衛に挑む。

レナ
2011年大会の開催国がドイツになったのはレナのおかげ

開催地はデュッセルドルフ

大会規定により、優勝国はその翌年の大会の主催国となり、自動的に決勝出場権を獲得する。つまり、昨年優勝したドイツは今年、大会のホスト役を務めるわけだ。昨年8月、レナの出身地であるハノーファーとベルリン、ハンブルク、デュッセルドルフの4都市が開催候補地に上がり、選考の結果、最終的にデュッセルドルフに決定した。ドイツでの開催は、1957年(フランクフルト)、83年(ミュンヘン)に次いで3回目。今回は「Feel Your Heart Beat!」をモットーに、43カ国の代表アーティストが熱唱を繰り広げる!

会場となるのは、「エスプリ・アレーナ(ESPRIT arena)」。サッカークラブ、フォルトゥナ・デュッセルドルフ(現ブンデスリーガ2部)の本拠地だ。デュッセルドルフ国際空港に近いことも選考の際、有利に働いたとか。なお、これ に伴い、大会期間中、フォルトゥナのホームは市内のパウル・ヤネス・スタジアム(Paul-Janes-Stadion)に移されることになった。

エスプリ・アレーナ
デュッセルドルフのESPRIT arena

2011年 第56回大会の概要

ルール

  • 参加国は大会規定の期日までに自国から代表曲を選定し、EBUに提出する。代表曲の選考方法は自由で、国内選考大会を開催する国もある。
  • 2011年は「Big4」に新たにイタリアが加わり、「Big5」となった。この5カ国は、準決勝に参加せず決勝に出場でき、2回の準決勝の内、いずれかで投票権を持つ。
  • 審査は視聴者による電話投票と、各国を代表する審査員による投票の2つの結果を組み合わせて行われる。審査員は、参加国がそれぞれ派遣する5人の専門家。音楽業界に精通していること、発表する歌手と業務上のつながりを持たないことが条件となる。
  • 審査員投票と視聴者投票は、それぞれ50%ずつの割合で結果に反映されるが、2つ以上の国が同点で並んだ場合は、視聴者投票で多くの票を得た国が上位となる(視聴者票の優位)。
  • 決勝での発表順は、くじ引きで決められる。
  • 参加歌手の出場資格は14歳以上で、自国のみを代表し、他国もしくは複数国の代表としての参加はできない。
  • 各国は代表曲を開催前年(2010年)の9月1日以前に公表してはならない。
  • 大会では、事前に録音しておいたバック・トラックに生の歌唱という形で発表されなければならない。
  • 楽曲に使われる歌詞の言語は、各国が自由に選択できる。
  • 舞台上に立つことができる最多人数は6人。
  • 発表する楽曲の長さ、すなわち1国の持ち時間は最大3分。
  • 政治的な内容を含む歌詞や呼び掛け、ジェスチャー、大会全般の信用を貶める行為は禁止される。

ドイツ国内の中継局

  • 民放ProSieben : 準決勝第1回目を放送。
  • 公共放送ARD : 準決勝2回目、決勝を放送。
  • ※ラジオ放送は公共放送WDRが担当

司会

  • シュテファン・ラープ(Stefan Raab)
  • ユディット・ラケアス(Judith Rakers)
  • アンケ・エンゲルケ(Anke Engelke)

司会者お祭りごとには欠かせない存在のラープと、数々のドイツのテレビ番組やヨーロッパの映画賞の司会を務め、近年はコメディアンとしても才能を発揮しているエンゲルケ、ニュース番組「Tagesschau」の顔として知られる公共放送NDRのキャスター、ラケアスの3人が、英語とフランス語で司会を務める

準決勝 1回目 5月10日(火)21:00〜

全準決勝出場国に加え、Big5の内、スペイン、イギリスが投票に参加。

発表順 国名 アーティスト 曲名
1 ポーランド Magdalena Tul Jestem
2 ノルウェー Stella Mwangi Haba haba
3 アルバニア Aurela Gaçe Feel the Passion
4 アルメニア Emmy Boom Boom
5 トルコ Yüksek Sadakat Live It Up
6 セルビア Nina Čaroban
7 ロシア Alexei Worobjow Get You
8 スイス Anna Rossinelli In Love for a While
9 グルジア Eldrine One More Day
10 フィンランド Paradise Oskar Da Da Dam
11 マルタ Glen Vella One Life
12 サン・マリノ Senit Stand By
13 クロアチア Daria Kinzer Celebrate
14 アイスランド Sigurón's Friends Coming home
15 ハンガリー Kati Wolf What About My Dreams
16 ポルトガル Homens da Luta A luta é alegria
17 リトアニア Evelina Sašenko C'est ma vie
18 アゼルバイジャン Ell & Nikki Running Scared
19 ギリシャ Loukas Yorkas feat. Stereo Mike Watch My Dance

準決勝 2回目 5月12日(木)21:00〜

全準決勝出場国に加え、Big5 の内、フランス、ドイツ、イタリアが投票に参加。

発表順 国名 アーティスト 曲名
1 ボスニア・ヘツェゴビナ Dino Merlin Love in Rewind
2 オーストリア Nadine Beiler The Secret Is Love
3 オランダ 3JS Never Alone
4 ベルギー Witloof Bay With Love Baby
5 スロヴァキア Twiins I'm Still Alive
6 ウクライナ Mika Newton Angel
7 モルドバ Zdob şi Zdub So Lucky
8 スウェーデン Eric Saade Popular
9 キプロス Christos Mylordos San angelos s’agapisa
10 ブルガリア Poli Genova Na inat
11 マケドニア Vlatko Ilievski Rusinka
12 イスラエル Dana International Ding Dong
13 スロヴェニア Maja Keuc No One
14 ルーマニア Hotel FM Change
15 エストニア Getter Jaani Rockefeller Street
16 ベラルーシ Anastassija Winnikawa I Love Belarus
17 リトアニア Musiqq Angel in Disguise
18 デンマーク A Friend in London New Tomorrow
19 アイルランド Jedward Lipstick

決勝 5月14日(土)21:00〜

2回の準決勝で、それぞれベスト10 に選ばれた国と「Big5」の計25カ国が出場。

発表順 国名 アーティスト 曲名
11 フランス Amaury Vassili Sognu
12 イタリア Raphael Gualazzi Madness of Love
14 イギリス Blue I Can
16 ドイツ Lena Taken by A Stranger
22 スペイン Lucía Pérez Que me quiten lo bailao

ESCを楽しもう!

ヨーロッパ中から観覧客が押し寄せる一大イベントとあり、3万2000枚分の決勝チケットは昨年12月12日、販売開始わずか6時間で完売となった。しかし、まだ準決勝には残席があるようだ。各国が満を持して送り出すアーティストによる華麗なショーを楽しめるまたとないチャンス!毎年テレビで観ているという ESCファンの方、今年は実際に足を運び、ライブで味わってみてはいかがだろう。

チケット購入はこちらから!
www2.dticket.de
29 〜119 ユーロ
※ 10~16歳は、保護者同伴で入場可。

各国から観覧客が押し寄せる大会前後は、市内のホテルの多くが満室に。今から宿泊予定を立てる人には、プライベートで提供されている部屋を予約できる下記のウェブサイトがオススメ。
www.esc-privaterooms.de

関連イベントで盛り上がりは最高潮に!

デュッセルドルフのエルバース市長準決勝、決勝が行われる週は「ユーロビジョン・ウィーク」と呼ばれ、開催地ではESC を盛り上げるためのイベントが催される。デュッセルドルフも、当週に限らず、観光地としての魅力を最大限にアピールすべく、開催に合わせて様々な関連プログラムを企画。この街に住んでいる人も、ESCを目的に訪れる人も、皆思い思いにお祭りムードを楽しもう!
右写真)2011年の開催地に決定後、ESCの“ホームの鍵”を受け取るデュッセルドルフのエルバース市長

ESC フェスティバル
ESC Festival Bühne
5月1日(日)〜6日(金)15:00 ~
(1日は12:00 ~、5日は10:00 ~)
Marktplatz


特設舞台上で合唱やゴスペル、ドラム、ポップバンド、オーケストラなどの音楽ライブが催される。家族全員で音楽に親しめるよう、子ども向けのプログラムも用意されている。
ESC フェスティバル&パブリック・ビューイング
ESC Festival Bühne
5月10日(火)~ 14日(土)18:00 ~ (14日は12:00 ~)
Johannes-Rau-Platz


特設舞台上で音楽ライブやカルチャー・プログラムが催される。14日には、街の伝統カーニバルの山車がここからライン川プロムナーデを経て 旧市街へと練り歩く。決勝では、ここが市内最大のパブリック・ビューイングに。
プリマヴェーラ イタリア・フェスティバル
La Primavera – Gerresheim und sein italienischer Süden
5月6日(金)16:00 ~ 23:00
Gymnasium Gerresheim, Am Poth 60


今年、14年ぶりに決勝に出場するイタリア。市内最大のイタリアン・コミュニティーを抱えるゲレスハイム地区が、住民のイニシアティブにより、ライブあり、料理ありのイタリア・フェスティバルを開催する。ESCのゲストも大歓迎。
ニューカマー・音楽フェスティバル
Tontalente – Düsseldorfer Newcomer Festival
5月6日(金)18:30 ~
Tonhalle, Ehrenhof 1


ESCの開催に合わせ、今年デュッセルドルフ市が新たに開催を企画した新人発掘イベント。事前選考を経て選ばれた13~35歳までの若きミュージシャン10組が、ロックやポップ、ラップなどのオリジナル曲を熱唱する。
www.tontalente.com
ヨーロッパ・デー
Europatag
5月7日(土)11:00 ~ 18:00
Marktplatz


欧州連合(EU)加盟国のことを詳しく知ろうというコンセプトで毎年開催されているイベント。現加盟27カ国の風習や名産、人々の生活、言語などが紹介される。様々な国が集まるESCに向けた予習に最適のプログラム。
エレクトロ・ミュージック・ライブ
ElectriCity
5月11日(水)19:00 ~
Turbinenhalle der Stadtwerke, Höherweg 100


デュッセルドルフは、今回レナが歌う曲のトーンでもあるエレクトロ・ミュージックの発祥地。このジャンルを代表する当地出身の バンド、クラフトワークやPropagandaのメンバーが、80年代のヒット曲を披露する。
ユーロ・ボート・パーティー
EuroBoat Party
5月13日(金)19:30 ~翌3:00頃
MS RheinFantasie


ドイツ・ユーロビジョン・ファンクラブが、すべてのESCファンへ贈るスペシャル・イベント。イギリス、ドイツ、クロアチアの過去の出場者のライブを聴きながら、幻想的な夜のライン川クルーズを楽しむ贅沢な船上パーティー。
www.eventqube.de/euroboat

その他のイベントも盛りだくさん!
イベントのリスト、詳細はこちらから

ユーロビジョン・ソング・コンテスト
デュッセルドルフ大会記念グッズ


Mugデュッセルドルフ大会を思い出に残すために、おみやげはいかが?マウスパッド(5.95ユーロ)やマグカップ(7.50ユーロ)、Tシャツ(24.95ユーロ)など、大会のロゴやモットー入りのグッズは、市内2カ所のツーリスト・インフォメーションで購入可。

Tourist-Information Altstadt Marktstr./ Ecke Rheinstr.
Tourist-Information Hauptbahnhof Immermannstr. 65b

最終更新 Montag, 12 August 2019 12:38
 

岡崎慎司選手インタビュー

岡崎慎司限界を超える挑戦 サッカー選手 岡崎慎司

頭から突っ込んでいく執念のダイビングヘッド。
日本代表として戦った国際試合では、
得点を挙げた試合は負け知らずという勝負強さ。
倒されては起き上がり、ゴールのために身を投げ出す、
その情熱を称えて「泥臭い」と表現されるプレーで
観る者の心を熱くさせるサッカー選手岡崎慎司。
ピッチを戦場と決めたサムライが、
アジア杯の優勝直後に海を越えてやって来た。
その心に秘めた、ドイツでの挑戦に掛ける想いを聞いてみた。

(編集部:高橋 萌)

Shinji Okazaki
1986年、兵庫県宝塚市生まれ。小学2年生の頃からサッカーを始め、サッカーの強豪として知られる滝川第二高校に入学。3年連続で全国高校サッカー選手権出場を果たす。2005年、高校卒業と同時に清水エスパルスに入団。2008年からは日本代表に選ばれ、3試合でのハットトリック達成を含む、21得点を決めた。2011年AFCアジアカップで優勝。その直後、同年1月に渡独。現在、VfBシュトゥットガルトに所属。
血液型 O 型
身長/ 体重 174cm / 76kg
現所属 VfBシュトゥットガルト
ポジション FW / MF
背番号 31
所属チームHP http://ad.vfb.de/n2l/
オフの過ごし方 外にでることが多い。ショッピングやパリまで散歩へ行くことも
ドイツ料理も気に入った。今後は自炊を頑張りたい

インタビューのその前に

3月初旬、春の陽気に包まれた南ドイツの産業経済都市シュトゥットガルトに足を踏み入れた。この日、「練習後にインタビューのための時間を確保してあるが、練習も見学したいなら、もちろん歓迎」と言ってくれた広報担当者の言葉を受け、15時から行われる練習を観るために練習場へ向う。中央駅からSバーンに乗り、オクトーバーフェストと並ぶビールの祭典「カンシュタッター・フォルクフェスト」の会場の最寄駅「Bad Cannstatt」を越え、「Neckarpark」で下車。駅からメルセデス・ベンツ・アレーナの姿を確認できるが、目指すは練習場。メルセデス・ベンツ・ミュージアムを横目にその場所を目指していくと、どんどん子ども連れの家族やおじいさんグループと合流していく。もしや、みんな練習を見に来ているの? 予想は大当たり。練習が始まる30分前から、すでに大勢のファンが待ち構えている。学校帰りの少年達はお目当ての選手や、チームの行く末について一人前のサポーター然として語っている。

練習を観に集まったサポーター
練習を観に集まったサポーター

ざっと100人以上の観客を迎えて練習が始まる。実戦的な練習も多く、思わず観客からも声が上がる。「こらぁ!あっちにいる日本人がフリーだぞ!ボール回せよ~!!」と叫ぶベテランサポーターのおじいさんの姿も。私を日本人と見ると、「Okazakiは日本ではかなり有名な選手なんだろ?」「日本代表としても大量に得点してるよな」と話し掛けてくる。新しく加わったVfBシュトゥットガルト初の日本人選手は、早くもサポーターたちに受け入れられている様子だ。

伝統あるチームだ。創設されたのは1893年と古く、ドイツのプロサッカーリーグとして1963年にブンデスリーガが立ち上がった際の設立メンバー。74/75年からの2シーズンは、2部リーグで苦汁を舐めたが、それ以来一度も2部降格を経験せず、常に1部に君臨。国内タイトルは、ブンデスリーガ優勝5回、DFBポカール優勝3回、チャンピオンズリーグ出場も果たしている。シュトゥットガルトが才能を見出した選手には、現在ドイツ代表として活躍する選手も多い。ドイツ代表監督のヨギ(ヨアヒム・レーヴ)もシュトゥットガルトで手腕を発揮していた。

今シーズンは、監督が2度も交代するなどチーム状況は揺れていた。現在、監督を務めるブルーノ・ラッバディア監督の下、「NIEMALS 2. LIGA!」(絶対に2部には落ちない!)をスローガンにブンデスリーガを戦っている。目下、降格争いが異例の大混迷を極めている中で、シュトゥットガルトにもまだまだ1部残留のチャンスはあり、また、油断もできない厳しい状況にあると言える。

全体練習が終わってもシュート練習を続け、最後の1人となっても練習場から離れない岡崎選手。期待とプレッシャーをその背に受け、ドイツで武者修行中のサムライは前だけを向いている。

練習場

練習場

メルセデス・ベンツ・アレーナ
メルセデス・ベンツ・アレーナは現在、6万人収容のサッカー専用スタジアムに改装中。

このままじゃいけない、「世界」を意識

現在、日本からブンデスリーガに移籍してきた選手は1部だけで6人、これだけ日本人選手に注目が集まったことは、過去に例を見ません。日本を出る決意の裏には、それぞれの理由があると思います。岡崎選手が、海外でのプレーを考えたのはいつ頃からですか?

北京オリンピック(2008年)での3連敗。それがめちゃくちゃ悔しくて。どこでも良いから出たい、このままじゃいけないって強く思ったんです。そこからっすね。「世界」を意識し始めたのは。

念願叶っての海外移籍。とは言え、現在は2部降格も危ぶまれる難しい状況にあるチームです。ここシュトゥットガルトに来ることに迷いはありませんでしたか?

それはなかったです。ギリギリまでオファーが来ていることを知らなかったこともあり、むしろ行かせてくれるんだっていう驚きの方が先でした。チーム(清水エスパルス)にはずっと(海外に出たいと)言ってましたから。ボビッチさん(シュトゥットガルトのスポーツディレクター、フレディ・ボビッチ)が日本に来てくれて、そのときに初めて可能性があると聞いて、そこからは「オレ、ドイツかぁ」って。それはもう、希望が湧いてきたっていうか、いつ海外に行っても良いぞっていう準備はずっとできていて、オファーさえ来ればと願っていた期間が長かっただけに、「やっと、やっと出れる」っていうのが、正直な気持ちでした。

チームに関しては、伝統あるチームだということは知っていたし、ドイツに来てからも実際に、その伝統というものを感じる場面があります。そんなチームでプレーできるのは、とても光栄なこと。しかもそのチームが戦力として呼んでくれているんですから、選手としては嬉しい限りだし、このチームでチャンスもあるだろうと思いました。だから、こっちに来る不安っていうのは全くなかったんです。でも、現地に来て、こんなに期待されて良いのか? という別の不安がちょっとだけ・・・・・・。初めてブンデスリーガに挑戦する日本人に対して、現地の人がこんなに希望を抱いてくれている。結果を出さなきゃだめだな、と強く感じています。

インタビュー中の岡崎選手
インタビュー中に見せる笑顔も、試合で見せる鬼神のような迫力も、
岡崎選手の芯の強さを感じさせる。

予想以上の期待に、喜びとプレッシャーを一身に受けている岡崎選手。その中で、突如として国際移籍証明の発行問題が、ドイツ・デビューの前に立ちふさがりました。

自分は、マイナスなことが起こったときに、逆にプラスなことを探すのが得意な方なんです。こういう上手くいかないことは、これまでもたくさんあったわけだから。今回も、チームと合流してすぐに試合に出るより、少し時間を掛けて「自分はこういうプレーをしますよ」っていうことをほかの選手にアピールして、自分がどういう選手か分かってもらった上で試合に出場した方が良いじゃないかとか、例えばそういうことを考えたり。これは良い方向に進むための悪いことなんだ。そのために、ちょっと移籍が遅れただけなんだと考えていました。もちろん、周りの人がいろいろ元気付けてくれて、その支えが自分のモチベーションを上げる要因になっていましたね。

ようやく試合への出場が認められてのデビュー戦は2月17日、ヨーロッパリーグのベンフィカ(ポルトガル)戦でした。どんなお気持ちでしたか?

正直、慌し過ぎて・・・・・・。試合開始3時間前くらいに、証明書が来て、試合に出られるっていう状況になった。通訳をしてくれているタカさんが電話で知らせてくれたんです。自分はチームからの連絡より先に、Yahooニュースで見て知ってたんですけどね。(国際移籍証明が)いつ頃届きそうかとか、そういう情報は全部Yahooニュースを頼ってました(笑)。

VfBシュトゥットガルトU10のコーチ・河岸貴さん(タカさん)が、岡崎選手の通訳も務めています。河岸さんがボビッチ氏から「今日、慎司いけるから!」と一報を受けたのが15時のこと。試合は18時から。「出れるかもしれない」から「先発で出場」へと、大きく状況が変わりました。

逆にそれが良かった。待ってた分、喜びも大きかったし、慌しいっていうのもあって、あまり緊張せずに入れた。やることは1つ、自分の運動量でかき乱していこうって。今のチームに足りないのは、そういう所だと試合を観てて思っていたので。結果として、それはできたけど負けてしまった。でも、終始自分の喜びを表現できたんじゃないかな。試合が終わってようやく、ヨーロッパリーグ出たんやぁって実感しました。このデビューに関しては、チームに感謝しているし、何と言っても監督がね。この状況で使ってくれるっていうのは普通ありえないと思うんですよ。

第25節シャルケ戦
第25節シャルケ戦、先制したクズマノビッチ(中央)を称える岡崎選手。

満足できていないことが今は楽しい

壮絶なデビュー戦までの経緯ですね。ドイツでの試合を通して、Jリーグとの違いは感じていますか?

まずは芝とかグランド自体が違う。それに、サポーターの声の太さとか、スタジアムの雰囲気も違う。それから、ブンデスリーガでは(ボールを)とにかく前に出す。何回か繋いでゴールまで行くよりも、行けるなら前へ出して、ドリブルで仕掛けていくという、そういうことを大切にしている。違いを挙げたらきりがないんですけど、ドイツがすごいなっていう所もあるし、日本も負けてないぞって感じる部分もあって、その発見が嬉しいです。でもね、まだ自分の力を存分には出せていないんで。そういう意味では満足できてないというか、その満足できていないことが今は楽しい。そんなうまいこと、ブンデスリーガで点が取れて、すぐに活躍できたら面白くない!

ブンデスリーガでの初めての日本人対決はシャルケの内田篤人選手との対戦でしたね。

不思議な経験でした。代表でも仲が良くて、同じ右サイドでプレーしてきたウッチーと、対面してやるっていうのは。ウッチーの速さとか、中に切り返す時のうまさとかを、よく知っているので、気にすることが多かった。「初めてのドイツでの日本人対決」。これは、自分としてはやりきれなかった。相手を知ってる分考え過ぎちゃって。次にやったら、もっとできると思ってます。もちろん楽しかったですけどね。

チームの精神的支柱に。
まずは必死にやることが一番

このシャルケ戦は、ホームでの初勝利でもありましたしね。

そうですね。でも、この点でもポジティブ思考なんですけど、レヴァークーゼン戦でも僕が出ていたときは2-2だったし、「負けてない!」っていう気持ち。「自分をあの時間に替えてなかったら・・・・・・」と、強気に思っています。僕は今のチームの中ではベテラン組みに入るんですよ。若い選手がいっぱいいるんで。そう思ったら、新しく入ってきたからといって遠慮するんじゃなく、堂々とやろうと。自分の意識さえ変えたらチームの精神的支柱にだってなれる、このチームを自分がプレーで支えて行こうっていう想いでやっています。すると、やりがいありますし、すっごい楽しいですよ。

先発のスタメンとして出場回数を重ねています。どんなプレーでシュトゥットガルトに貢献できると思いますか?

僕の気持ちとしては、もっとゴール前で、と思いながらやっているんですけど、実際に貢献できているのは運動量の方ですね。冷静な目で見て、どうしてこのチームは失点が多いのかなって考えると、問題はすぐにバランスが乱れるところ。早く切り替えができなかったり、サイドが絞れなかったりするので、そこで自分がしっかり守備に返ってあげて、そこから攻撃に移る。その反復ですね。今はまだ点を決められていないにもかかわらず、「良いプレーだったよ」って言ってもらえるのは、求められているプレーができているからだと思っています。まず必死にやることが一番。自分の必死さが選手に伝わっていけば良い。これからです。

「これほどまでに受け入れられるものなのかというくらい、チームに受け入れられている。素晴らしい!」(河岸さん談)と周囲が驚愕する岡崎選手の人柄。笑顔がコミュニケーションツールになっているようですが、チーム内での意思疎通についてはどうですか?

通訳をしてくれるタカさんが、ただの通訳じゃなくてサッカーを知ってる人なので、すごく助かっています。ドイツサッカーのことも教えてくれるし。そのすぐ側で会話を聞くことで、ドイツ語の勉強にもなっています。僕自身は、簡単な単語だけを使ってなんとなく選手たちとコミュニケーションが取れているというのが現状。チームの皆とは仲良くやれるようになってきていますが、今後は僕自身でしゃべれるようにしたい。筆記とか嫌いなので、しゃべりの方を伸ばしたていきたいです。

ラッバディア監督はどんな人ですか?

若くて(45歳)、選手と一緒にミニゲームに参加することもあるんですけど、選手以上に本気です。それに、最初はびっくりしてしまって。40過ぎのプレーとは思えないくらい。筋トレも一緒にやるし、気持ちは選手みたいなものなんだと思います。ベンチでも相当熱いですからね。かっこいい監督ですよ。ドイツでは、ケンカがコミュンケーションみたいな世界。日本人としては、それについていくのがちょっと大変です。

夢に向かって成長を続ける岡崎選手

岡崎選手小学生の頃の夢は?
サッカー選手としてプロになろうと思ったのはいつ頃ですか?

小学校の頃には漠然と、プロになって、日本代表になりたいって言っていたと思います。僕らの時代には目標にできるプロもありましたからね。小・中学生の頃は、「こいつより上手くなりたい」とか、その時のことで精一杯で、実際に、プロの世界っていう夢が見えてきたのは、高校の頃です。

今の夢、目標は?

目標は残留。ブンデスリーガに来たからには、このチームでブンデスリーガ優勝を果たすこと、そしてチャンピオンズリーグに出ることです!


岡崎選手がデビューした第23節から第28節まで、彼が出場した時間帯は今だ負けなし(黒星を喫したレヴァークーゼン戦も前述の通り)。岡崎選手加入前までは、今季通算13敗と苦戦していたシュトゥットガルトにとって、彼の存在がポジティブに作用していることは間違いない。ボールを求め、前傾姿勢で鋭く走りこむ執念が、ゴールを求める闘志が、チームに新たな勝利を呼び込む活力となる。あと一歩のところで日本ではJリーグ制覇の夢に届かなかった岡崎選手が、日本での成長の限界を超える新たな挑戦に今、挑んでいる。

最終更新 Freitag, 09 August 2019 11:38
 

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