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ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】消えた東ドイツの足跡をたどって - DDRと出会える5つの場所 4

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】 2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年

ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)

消えた東ドイツの足跡をたどってDDRと出会える5つの場所

ベルリンの壁崩壊の翌年、1990年の東西ドイツ統一は、結果的には「西ドイツによる東ドイツの吸収合併」という形で行われた。それに伴い、社会主義を象徴するような建物は次々取り壊され、東ドイツ(ドイツ民主共和国 Deutsche Demokratische Republik、通称「DDR」)の面影も急速に失われていく。ここでは、もう消えてしまったDDR時代を知ることができるスポットをご紹介。ベルリンの街を歩きながら、東ドイツのもつ暗い歴史だけでなく、ごく当たり前に営まれていた市民生活の風景を覗いてみよう。

東ドイツ時代の生活文化に触れる DDR博物館

DDR博物館
DDR博物館

旧東ドイツの日常生活をテーマにした博物館。「歴史を触る」というコンセプトをもとに、一般的な東ドイツ市民の生活空間をまるまる再現したコーナーをはじめ、当時の学校の様子やバカンスの過ごし方、秘密警察の盗聴システムなどが、実物を使って展示されている。さらに旧東ドイツの国産車トラバントのドライブシュミレーションも体験でき、旧東ドイツ時代へのタイムトリップが味わえる。

DDR Museum
日曜~金曜 10:00~20:00 土曜 10:00~22:00
Karl-Liebknecht-Str.1, 10178 Berlin
www.ddr-museum.de

2007年オープンの「泊まれるDDR」 オステル

泊まれるDDR
泊まれるDDR
泊まれるDDR
泊まれるDDR

東ベルリンのフリードリヒスハインに位置する、本格的な東ドイツのデザインを再現したホステル。建物の外観もさることながら、1970年代の壁紙が貼られた室内には、レトロな家具、旧式のラジオ、カール・マルクスの肖像画などが並んでおり、レトロ好きにはたまらない。ホテルから徒歩2分のところには、東ドイツ時代の典型的な料理を味わうことができるレストラン「Volkskammer」も。

OSTEL - Das DDR Hostel
Wriezener Karree 5, 10243 Berlin
www.ostel.eu

監視社会としての東ドイツを知る シュタージ博物館

シュタージ博物館
シュタージ博物館

旧東ドイツの国家保安省として、諜報機関の役割を担っていた「シュタージ(Stasi)」。その本部であった建物が、現在は博物館として開放されている。当時の盗聴器や隠しカメラ、密告者の記録などが展示されており、シュタージがどのように東ドイツ市民を監視し、国内外で諜報活動を行っていたのかが分かる。また、当時の情報開示が行われているため、博物館に請求すれば自分の情報がシュタージに集められていたかどうかを知ることができる。

Stasimuseum
月曜~金曜 10:00~18:00 / 土曜・日曜・祝日 11:00~18:00
Ruschestraße 103, Haus 1, 10365 Berlin
www.stasimuseum.de

涙の別れを記憶する場所 涙の宮殿

涙の宮殿

フリードリヒ通り駅の北側にあるガラス張りの青い建物「Tränenpalast」は、東西ドイツ分断時は出国検問所の役割を果たした。西側から訪問してきた親せきや友人を駅に見送りに来た東ベルリン市民が、この建物で泣きながら彼らを見送ったことから、「涙の宮殿」という俗称で呼ばれている。現在は歴史記念館として、当時の検問施設などの再現や東西のニュース映像などが展示されている。

Tränenpalast
火曜~金曜 9:00~19:00 / 土曜・日曜 10:00~18:00
Reichstagufer 17, 10117 Berlin
www.hdg.de

生々しく残る壁と分断の歴史 ベルリンの壁記念センター

ベルリンの壁記念センター
ベルリンの壁記念センター
ベルリンの壁記念センター

ベルリンの壁の実物を眺めるなら、シュプレー川沿いのイースト・サイド・ギャラリーが定番だが、そこから北西6キロの所に約200メートルにわたって当時の壁や監視塔が残されている、ベルナウアー通りもおすすめ。壁の建設時、国境線に隣接するこの通りのアパートの窓から西側へ飛び降りて逃げた人も多くいた。この通りにある「ベルリンの壁記録センター」では、東西分断に苦しんだ人々の様子をとらえた写真や映像が展示されている。

Gedenkstätte Berliner Mauer
火曜~日曜 10:00~18:00
Bernauerstr.111, 13355 Berlin
www.berliner-mauer-gedenkstaette.de

レトロでキッチュな味わいDDR製品のデザイン

DDR製品の特徴といえば、シンプルなデザイン、チープでキッチュなつくり、そしてユーモアあふれるセンス。素材としては、プラスチックやブリキを使った製品が多い。社会主義体制のため、鋼鉄やコットン、ガラスなどが輸入できなかったことも、製品のデザインに大きく影響を与えている。現代の蚤の市などで当時の製品を見つけて喜ぶ私たちに、東ドイツ出身者はこう言うかもしれない。「一つひとつのデザインは確かにいい。でももし、生活の中にこれらの選択肢しか44なかったら?」

写真提供: DDR Museum

DDRのシンボル的存在 トラバント メーカー:VEB Sachsenring

VEB Sachsenring
VEB Sachsenring

「トラビ(Trabi)」の愛称で親しまれていた小型乗用車で、製造されていた1958年から1991年の間で、外見もエンジン性能もほとんど改良されることがなかった。ボディはプラスチック製、故障が多く、車を注文してから納品までに10年以上かかるなど、数々の逸話も。壁崩壊後、最新式のフォルクスワーゲンに混ざってトラビが走る姿に、東西ドイツ市民は互いに衝撃を受けたという。

飲めば当時を思い出す? クルプ・コーラ メーカー:Spreequell Mineralbrunnen GmbH

クルプ・コーラ

東ドイツでは米国のコカ・コーラが入手できなかったため、政府の要請により独自の開発が進められていた。1967年にはクルプ・コーラが開発され、ベルリンの国営飲料工場で生産。西側と味は異なっていたが、ウォッカやラムなどの蒸留酒が合わさった味わいは若者の間で人気だった。統一後は製造中止されていたが、1992年から再開した。

東ドイツの定番おやつ ハローレン・クーゲルン メーカー:Halloren Schokoladenfabrik AG

ハローレン・クーゲルン

ハレにあるドイツ最古のチョコレートメーカーで、もとは1804年にケーキ店として創業。1950年に工場が政府に収用され、1952年に「ハローレン(Halloren)」という名前の国営企業に。なかでも「ハローレン・クーゲルン(Halloren Kugeln)」は大人気のお菓子になった。再統一後に民営化され、現在も製造を続けている。

DDR デザインを代表するエッグスタンド Sonja Plastic製「Hühnchen」 メーカー:VEB Sonja Plastic

Hühnchen

1925年にエルツ山地のヴォルケンシュタインで設立された、プラスチックの加工会社WillibaldBöhm GmbH。1960~70年代には東ドイツの国営工場として稼働し、「ゾンヤ・プラスチック(Sonj a Plastic)」というブランド名で家庭用品やキッチン用品などを製造していた。なかでも有名なのが、ニワトリ型のエッグスタンド「Hühnchen」。その高い人気により、現在では復刻版も製造されているが、DDR時代オリジナルのものは淡い色合いが特徴だ。本来はゆで卵を乗せて食卓に出すためのものだが、小物入れなどとしてもおすすめ。

西の子どもも東のおもちゃで遊んでいた Sonni製のぬいぐるみ メーカー:VEB Sonni

Sonni製のぬいぐるみ

テューリンゲン州ゾンネベルクにあった国営企業「Sonni」は、東ドイツ最大の玩具工場として、ピーク時には1日に6000体以上のペースでおもちゃをつくっていた。そのため、ほとんどの東ドイツ出身者は、子どものころに一度はSonniの人形やぬいぐるみを抱いたことがあるとか。生産されるおもちゃのうち約70%は輸出用で、半分はソ連へ、もう半分は西側諸国に届けられていた。しかし西側諸国では、おもちゃに付けられるラベルが貼り替えられていたため、東ドイツ製のおもちゃだとは知られていなかった。

東ドイツ時代にもアーティスティックな製品 シュトレーラ製のヴィンテージ陶磁器 メーカー:Strehla

シュトレーラ製のヴィンテージ陶磁器

1950~70年代に西ドイツで生産されていた陶磁器は、コレクターからも絶大な人気を誇っている。実は東ドイツでも同様のヴィンテージ陶磁器が製造され、海外向けに輸出も行われていた。その代表的なメーカーが、1828年に設立された、ザクセン州の小さな町発祥のシュトレーラ(Strehla)。当時のDDR製品は保守的なデザインが多かった一方で、シュトレーラでは装飾性が高く、アーティスティックな商品も多く見られる。

DDRを紐解くキーワード

[オスタルギー] = オスト(東)+ ノスタルジー

「オスタルギー」とは、東ドイツ時代を懐かしむ情緒的・郷愁的な思いを表す造語。東西ドイツ統一後、社会主義体制下のシュタージ(秘密警察)の存在などが明るみに出たことで、国際社会では東ドイツが否定的に捉えられる傾向に。初めは統一を喜んだ東ドイツ市民だったが、自分たちの時代や社会が否定されたという失望感と、埋まらぬ東西格差から、「東ドイツ時代も、悪いことばかりではなかった」という思いが次第に強まっていく。このオスタルギーの感情は、ベルリンの壁崩壊から30年が経った今でも、政治や経済、社会状況など、さまざまな面で表れ出ている。

[人民公社] VEB(Volkseigener Betrieb)

第二次世界大戦後、民間企業はソビエト連邦(ソ連)の占領下で次々と収用された。東ドイツの独立後に、それらの企業は「国営」という形態で返還される。東ドイツ時代の製品はほぼすべて国営企業によって生産されていたため、製品には東ドイツの国営企業を表す「人民公社(Volkseigener Betrieb)」のマーク「VEB」が刻印されている。しかし東西ドイツ統一後、実際のレートとはかけ離れた東西マルクが1対1で等価交換されたことにより、旧東ドイツの製造業は軒並み競争力を失う。倒産が相次いで失業率も増加した。現在では、旧東ドイツの企業は数えるほどしか残っていない。

最終更新 Dienstag, 05 November 2019 00:51
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】2つのドイツは本当に1つになったのか?今なお東西を分断する見えない壁 5

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【後編】 2つのドイツが迎えた
あの日とそれからの30年

ベルリンの壁崩壊からちょうど30年を迎える、2019年11月9日。前号に引き続き、今回もベルリンの壁をテーマに特集をお届けする。後編の幕開けは、社会主義体制が崩れ始めた東ドイツ。壁崩壊までのダイナミックな歴史の流れを感じながら、その後の30年について振り返る。再び1つになったドイツが歩んできた道のりは、決して平たんではなかった。私たちは過去を知ることで、現代ドイツの課題をさらに理解することができるかもしれない。(Text:編集部)

2つのドイツは本当に1つになったのか?今なお、東西を分断する見えない壁

1990年10月3日、ベルリンの壁が崩壊して約11カ月後、ドイツは再び1つとなった。当時多くの人々が再統一を喜んだが、ベルリンの壁が崩れてから30年が経った現在、見えない壁が東西の人々の間に立ちはだかっている。それは一体なぜなのだろうか。その理由を探るべく、ドイツ在住47年になるジャーナリスト・永井潤子さんにお話を聞いた。この記念特集の最後に、これまでの30年を振り返り、そしてこれからのドイツについて考えよう。

永井潤子さん ベルリン在住のフリージャーナリスト。1972~99年、西ドイツの公共国際放送ドイチェ・ヴェレの日本語放送記者を務め、東西分断時代から再統一、そして現代のドイツを見つめてきた。現在は執筆活動の傍ら、福島原発事故後に発足したブログ「みどりの1kWh」の書き手の1人として、主にドイツ政治について情報を発信する。
みどりの1kWh:https://midori1kwh.de

壁崩壊で希望に満ち溢れていたはずが……

ベルリンの壁が崩壊して間もない頃、特に東ドイツの若者たちはすごく希望に燃えていました。これからは素晴らしい生活が待ち受けているんだ、と心から喜んでいたのです。しかし、理想と現実には大きな開きがあることに人々は次第に気づいていきます。

旧東ドイツ出身の同僚の親戚に物理学者がいました。彼は社会主義統一党(SED)の党員ではなかったため、壁崩壊後、50代になってやっと教授に就任。当初は喜んでいましたが、後に彼はこう言ったのです。「壁が崩れるのが遅かった。もっと自分が若い時なら、状況は違っただろう」と。古いしきたりや予算不足により満足のいく仕事ができなかったことが原因でした。

再統一後、旧東ドイツの国有企業のほとんどがベルリンの「信託公社」によって整理され、失業者が続出。1991年の旧東独地域の失業率は10.2%だったのが、1996年には16.6%、2005年は20.6%にまで達しました(図①)。同僚のお姉さんのところでは家族全員が失業。長年慣れ親しんできた社会制度がすべてなくなって、西のやり方を受け入れなければなりませんでした。2018年には失業率は7.6%にまで下がり、西との差は縮まったとはいえ、平均収入や年金額は西に比べて低く、この30年間、旧東ドイツの人たちは不満を募らせてきたと思います(図②)。

図①:旧東西ドイツ別の失業率(年平均)

図②:旧東西ドイツ別の平均年収

東ドイツは女性が活躍できる環境だった?

失われた旧東ドイツの文化の1つに、女性の恵まれた労働環境があります。旧西独では専業主婦が多かったのに対し、旧東独では約9割の女性が職業に就いていました。西では、子どもが3歳になるまでは家で育てるという考えが根強かったため、保育所が少なかったんですね。一方東には、子どもが生まれてすぐに預けられる保育所がたくさんあり、子育てしやすい環境が整っていたため、再統一して東の女性は「西の男女平等政策は遅れている」と感じたことでしょう。

ところが、そんな旧東ドイツでも本当の意味での男女平等は実現していませんでした。政治のトップはほとんどが男性で、国家評議会議長だったホーネッカーの妻が教育大臣を務めたぐらい。それでも、東の女性たちは男女平等の社会に生きていると信じ、東ドイツの消滅を嘆き悲しんだ人も少なくなかったようです。

それに関連して、今年行われたドイツ女性参政権行使100周年の記念式典の場で、旧東ドイツ出身のメルケル首相の発言が印象的でした。「旧西ドイツでは結婚している女性が働きたいと思った場合、夫の許可が必要でした。(中略)今日の視点から見ると、信じがたいことです」。メルケル首相はその後に続く演説の中で、自分が18年間党首を務めたキリスト教民主同盟(CDU)では女性議員が少ないことを指摘。自分が党首だった間に、旧東ドイツでは当たり前と考えられていた男女平等を党内で実現できなかった不満が、この演説に込められていたのかもしれません。

AfDの躍進で明らかになった東西の壁

私が今最も心を痛めているのは、右翼ポピュリズム政党のドイツのための選択肢(AfD)の躍進です。AfD支持層は特に旧東ドイツ地域に集中し(図③)、男性の支持者が圧倒的に多いことが明らかになっています。9月のブランデンブルク州とザクセン州の州議会選挙では、30~59歳の年齢層の男性に支持され、その支持率は50%以上。また、労働者や地方の人々のAfD支持率も高く、労働条件や過疎化への不満が反映された結果とも捉えられます。

2019年欧州議会選挙結果2019年5月に行われた欧州議会選挙でAfDの得票率がトップになった地域は、
旧東ドイツ地域に集中している

10月のハレのシナゴーグ襲撃事件を受けて、ますます懸念されるのは、AfD支持者の中にネオナチ的な考え方を持つ人が多いこと。AfDの党員も、ナチスドイツが行ったユダヤ人迫害について責任を感じていない人が多いという印象です。1968年以降ナチスドイツの責任を問う意識が高まった旧西ドイツと、そういう時代を経験しなかった旧東ドイツでの意識の違いが表面化しているのではないかと思います。

また、2015年の難民危機が一部の旧東ドイツの人々の不満と複雑に絡み合っています。東では自分たちは「二流市民」だという考えが根強く、われわれは再統一後に何もしてもらえなかったのに、難民は助けてもらえる、という妬みもあるようです。でも、旧東独地域にはずいぶんと西ドイツのお金が投資され、街がきれいになり、経済状況が改善されてきたのも事実。一方で、ドイツを代表する大企業は1つも旧東独地域に本社を置いていません。国の重要機関も、ライプツィヒの連邦行政裁判所とエアフルトの連邦労働裁判所があるのみ。 過疎化を防ぎ、旧東ドイツの人々のことを考えるのなら、もっとそういったものを西から東へ移すべきでしょう。

それから、閣僚の中にもっと旧東ドイツ出身の人を取り入れるべきだとも思います。この点で注目すべきは、東の女性たちの活躍ぶりです。例えば政界では、緑の党の国会議員団代表や左翼党の共同代表として旧東独出身の女性が活躍。東ドイツ時代、職業・家事・育児をこなした女性たちの中には優秀な人が多く、各界でその力を発揮していると感じます。さらに、「Ostfrauen(東の女性たち)」が今後のドイツを変える、という自負も彼女たちにはあるようです。

9月の東部2州の州議会選挙について、南ドイツ新聞で興味深い社説が掲載されました。「東部では、特に人々の不満に応える政治家が必要とされる。(中略)これまで以上に有権者に説明し、新しいことにも勇敢に挑戦する態度が必要で、それが実行される時、東部ドイツに新しいものが生まれる」。同社説では、両州首相が選挙中に積極的に集会に参加し、人々の不満を聞き、それを解決する具体的な政策について説明したことが、高く評価されていました。

今後もAfDは勢力を伸ばしていくことが予想されており、ドイツが本当の意味で1つになるまでの道のりは、想像以上に長いでしょう。ですから、これからますます東西の人々がお互いの相違を認識した上で、理解し合うことが必要なのではないでしょうか。そして、人々が東西の見えない壁を崩していく具体的な努力をするよう願わざるを得ません。

最終更新 Dienstag, 10 März 2020 10:59
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語 1

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語

2019年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してちょうど30年を迎えた。この節目にドイツニュースダイジェストでは、2号にわたってベルリンの壁をテーマにした特集をお届けすることにした。かつて2つに分断されていたドイツの歴史を深く掘り下げるとともに、ベルリンの壁にまつわるエピソードを取り上げ、そしてこれまでの30年を振り返る……そう遠くないドイツの過去から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。前編では、そもそもなぜベルリンの壁が建設されたのかをひも解き、分断時代を知る人々に聞いた東西の暮らしぶりを紹介。まずは、1945年まで時計の針を巻き戻してみよう。(Text:編集部)

ベルリンの壁

ベルリンの壁の基本情報

ベルリンの壁建設:1961年8月13日(日)
崩壊:1989年11月9日(木)
全長:156.4キロメートル
高さ:3.6メートル
横幅:1.2メートル
逃亡に成功した人の数:5075人以上
国境警備隊による発砲:1709件
その内のけが人の数:119人
現在分かっている死者数:138人

出典:Bundeszentrale für politische Bildung 「Die Berliner Mauer」

ベルリンの壁

こうしてドイツは分断された ベルリンの壁 建設史

1961年から1989年の28年間にわたって、ベルリンを東西に分断していた「ベルリンの壁」。この壁の崩壊は、東西冷戦の終結、そして平和と自由の象徴として、世界史上でも最も重要な出来事の1つだ。しかし、そもそもなぜドイツを2つに分断する壁が築かれてしまったのだろうか。人と人、国と国の間に境界を敷くとは、どういうことなのか。「壁の建設」は人間の負の面を表す出来事でもあり、同じ過ちを繰り返さないためには、まずはその歴史を振り返る必要がある。これからの未来を語るために、過去を学ぶことから始めてみよう。

参考文献:Bundeszentrale für politische Bildung「Die Berliner Mauer」 Bundesstiftung zur Aufarbeitung「Die Mauer. Eine Grenze durch Deutschland」 www.berliner-mauer-gedenkstaette.de

終戦からベルリンの壁建設まで

第二次世界大戦後の4分割統治

1945年5月8日、第二次世界大戦の欧州戦線は、ドイツの無条件降伏により終結。同年7月に行われたポツダム会談では、ドイツの非軍事化・非ナチ化・民主化を主眼として、戦勝国である米国、英国、フランス、ソビエト連邦(ソ連)の4カ国によってドイツを4分割して統治することが決められ、首都ベルリンについても4カ国がそれぞれ分割・管理するこになった(下図参照)。もともとはドイツの再統一を目指しての決定であったが、数カ月も経たないうちに社会主義体制を敷くソ連と、資本主義体制の米英仏の関係が悪化。第二次世界大戦後の世界平和への夢は早々に崩れ、東西冷戦の幕が開いた。

ドイツ4分割統治第二次世界大戦後の連合国によるドイツ4分割統治

資本主義 vs 社会主義の対立が激化

1947年6月には米国が、戦後の欧州経済の復興と再建を目的とした復興計画であるマーシャルプランを発表し、西ドイツで新しい通貨ドイツマルクを導入。これに対し、ソ連は新通貨として東ドイツマルクを発行し、西側に対抗する。同年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツをつなぐすべての陸上交通を遮断する、「ベルリン封鎖」を敢行した。交通や給水、電気が遮断され、西ベルリン市民の生活に深刻な影響を与えたが、米国が大空輸作戦で物資を大量に送って援護。ソ連は目的を果たせず、10カ月後にベルリン封鎖を中止した。

物資を運ぶ米軍輸送機に手を振る子どもたちベルリン封鎖時、物資を運ぶ米軍輸送機に手を振る子どもたち

東西間で広がる経済格差

1949年5月、米国、英国、フランスの占領地区は統一され、西ドイツは正式な独立国家となった。西ドイツは奇跡的な経済復興を遂げ、生活水準が順調に向上する一方、東ドイツではドイツ社会主義統一党(SED)が社会主義体制を構築。農業の集団化が行われ、民間事業者や職人、パン屋などの多くの個人商店は財産を没収され、生活協同組合への加入を強制された。農業生産は劇的に落ち込み、経済も低迷していく。

1952年に東ドイツと西ドイツ間の国境が閉鎖されたが、ベルリンでは東西間の移動はまだ自由で、地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(Sバーン)なども通常運行されていた。そのため東西境界を越えて通勤することも可能で、当時はドイツマルクの価値が東ドイツの約4倍だったため、西側で働いて東側に暮らす人も少なくなかった。

東側からの大量人口流出

しかし、東ドイツの生活状況はさらに悪化していき、個人の自由も厳しく制限され始める。そのため、1950年代に入ると、西ドイツへの逃亡が急増。1952年から東西ドイツの国境は有刺鉄線で遮断され、厳しい検問が行われていたため、人々は唯一往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して逃げるようになった。1949年から1961年までの13年間では、273万9000人が東から西へ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15パーセントに当たる。

50年代に東ドイツを去った人の多くは、青年、熟練労働者、専門家、知識人などの国を支える人口層であるほか、集団化を強要された農民たちも含まれていた。そのため人口とともに労働力が失われ、経済状況はさらに落ち込んでいった。

東ドイツからの逃亡者数(ベルリンの壁建設以前)
  人数 25歳以下の割合
1949年 12万9245 -
1950年 19万7788 -
1951年 16万5648 -
1952年 18万2393 -
1953年 33万1390 48.7%
1954年 18万4198 49.1%
1955年 25万2870 49.1%
1956年 27万9189 49.0%
1957年 26万1622 52.2%
1958年 20万4092 48.2%
1959年 14万3917 48.3%
1960年 19万9188 48.8%
1961年 20万7026 49.2%
出典:Bundeszentrale für politische Bildung「 Die Berliner Mauer」

ベルリンの壁建設以降の東西ドイツ

武装した警官

突如現れたベルリンの壁

1961年8月12日から13日の真夜中過ぎにかけて、ついに壁の建設が始まる。ベルリン市民が眠りについている間に、東ドイツは西ベルリンを封鎖する作業を開始。それまで使われていたおよそ80の交通路や鉄道を封鎖し、道路、空き地、公園などにも有刺鉄線を張り巡らせた。13日の午前1時45分ごろには西ベルリンの全域が封鎖され、武装した東独部隊が国境に並んだ。翌朝、目を覚ましたベルリン市民たちは、突然姿を現したベルリンの壁に衝撃を受ける。西ベルリンに通勤していた人は職を失い、国境を越えて家族や友人、恋人にも会うことが叶わなくなったのだ。

ベルリンの壁建設壁建設の作業員たちもまた、武装した警官に見張られていた

資本主義国はすぐに対応せず

壁の建設は、西側諸国にとっては全くの不意打ちだった。しかし、米英仏はすぐには対抗措置を取らなかったため、壁の中に取り残された西ベルリン市民たちは見捨てられたと感じていた。当時の西ベルリン市長のヴィリー・ブラントはワシントンに書簡を送り、「何もせずにただ受け身になっているだけでは、西側諸国に対する信頼を危機に陥れることにもなりかねない」と訴えた。当時の米大統領、ジョン・F・ケネディはこれに応え、西ベルリンの米軍守備隊を強化。また、英仏の各軍も派遣部隊を増強し、戦車を動員した。1963年6月、ケネディはベルリンを訪れ、「私はベルリンの一市民である(Ich bin ein Berliner)」というセリフで有名な演説を行い、西ベルリン市民からの信頼回復を試みた。

監視体制の強化

ベルリンの壁が建設された8月13日からの数日間は、まだ逃亡のチャンスが残っていた。東ベルリン市民たちは、窓からロープを伝って西ベルリンへと降り立ったり、運河を泳いで西側へ渡ったりした。さらには、壁建設に徴用された人々や、国境警備隊からも多数の脱走者が出た。しかし、1961年に国境警備隊は壁に沿った建物の住民の立ち退きに着手。何千もの東ベルリン市民が何の予告もなしに引っ越しを余儀なくされた。1964年からは、国境警備隊が壁近くの建物の解体をはじめ、住居だけでなく、教会すらも爆破されることに。西ベルリンおよび東西ドイツ間の国境には、広いところでは5キロメートルに及ぶ立ち入り禁止区域が設けられ、特別に訓練された犬が放された箇所は200以上、監視塔も250棟近く設置された。

1969年に建てられた東ベルリンの監視塔1969年に建てられた東ベルリンの監視塔

命がけの逃亡

1961年9月14日には、国境警備隊へ「西ドイツへ逃亡して拘束を逃れようとする者は、1回の威嚇射撃の後、銃撃して良い」という指示が出される。東ドイツから逃れようとする人には命の危険がつきまとい、両ドイツ間の国境で命を落とした東ドイツ市民は、合計1000人に上った。それでも逃亡を企てる人々の脱出ルートはさまざまで、例えば重量のある車両で直接国境の遮断棒を突破しようとしたり、長い年月をかけてトンネルを掘ったり、気球や飛行機などの空路、ゴムボートやサーフボードでバルト海を渡る人も。なかには、逃亡者としてあえて国境警備隊に捕まって数年間を刑務所で過ごし、西ドイツに政治犯として引き渡されるのを待つ人もいた。東ドイツにとって、西側が政治犯を高額で買い取ってくれる「人身取引」は外貨収入を得るための方法でもあったのだ。

日常化する壁の風景

1970年代に入ると、世界の人々、そして多くの西ドイツの人々も、ドイツが分断されている状況に慣れ始めた。1972年9月に締結された東西ドイツ基本条約では、両ドイツが「内政、外交において、両国それぞれの独立性を尊重する」ことを規定し、1973年には、西ドイツ・東ドイツそれぞれが独立して国際連合に加盟。この頃には、西側から東側へは、手続きを済ませれば比較的簡単に訪問できるようになっていた。1973年に西から東ベルリンと東ドイツに入国した旅行者数は350万人を超え、壁の存在は観光客の関心を集めた。

東ベルリンでは、立ち入り禁止区域などにより国境封鎖施設が市民の目にあまり触れないようになっていたが、西ベルリンでは、壁は常に生活の中に入り込んでいた。壁はスプレーの落書きで埋め尽くされ、また、壁の近くは静かな休日を過ごすのに最適だった。壁の影響下で育った西ベルリンの子どもたちは、「警察と泥棒」の代わりに「国境警備隊と脱出者」で鬼ごっこをして遊んだそう。しかし、壁の建設を経験した世代にとって、「壁」への適応は簡単なものではなかった。「分断」や「壁に囲まれている」という閉塞感に苦しむ人も数多くいたのだった。

壁の前でボール遊びをする西ベルリンの子ども壁の前でボール遊びをする西ベルリンの子ども

ベルリンの壁 4度の変貌
1 1961年8月13日
(壁が建設された日)
コンクリートの支柱に有刺鉄線を張り巡らせた、フェンスのような形態
2 1961年8月15日
(壁建設から2日後)
コンクリートやレンガのブロックを積み上げた上に有刺鉄線を張りめぐらせたより頑丈なつくり
3 1965年ごろ 鋼を骨組みに使用したコンクリート製の壁
4 1975年~1985年ごろ 高さ3.6メートル、横幅1.2メートルの鉄筋コンクリート造り
最終更新 Freitag, 13 August 2021 14:30
 

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語 2

ベルリンの壁崩壊30周年記念特集【前編】 分断された2つのドイツの物語

2019年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してちょうど30年を迎えた。この節目にドイツニュースダイジェストでは、2号にわたってベルリンの壁をテーマにした特集をお届けすることにした。かつて2つに分断されていたドイツの歴史を深く掘り下げるとともに、ベルリンの壁にまつわるエピソードを取り上げ、そしてこれまでの30年を振り返る……そう遠くないドイツの過去から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。前編では、そもそもなぜベルリンの壁が建設されたのかをひも解き、分断時代を知る人々に聞いた東西の暮らしぶりを紹介。まずは、1945年まで時計の針を巻き戻してみよう。(Text:編集部)

東西分断時代を知る人に聞いた 壁の中の暮らし・壁の外の暮らし

歴史の教科書ではなかなか知ることができない、2つのドイツの市民の暮らしぶり。28年もの間、壁で囲まれていた西ベルリンの生活はどのようなものだったのか、そして、社会主義というシステムのなかで東ベルリンや東ドイツの人々の自由はいかに制限されていたのか。東西分断時代を知る4人の方に、それぞれの経験や感じていたことを聞いた。

お話を聞いた人

  • 永井潤子さん 1934年東京都生まれ。日本短波放送(当時)に勤め、1972年にケルンに移住、ドイチェヴェレの日本語放送記者として働く。2000年よりベルリン在住フリージャーナリスト。
  • 吉岡俊司さん 1949年生まれ、和歌山県で育つ。ハンブルク、デュッセルドルフを経て、1973年に西ベルリンに移住した。2018年まで日本食レストランのオーナー。
  • アンドレアス・ガンドウさん 1950年東ベルリン生まれ。1956年、政治的な理由で両親と7人の姉とともに西ベルリンに移った。元新聞記者で、日本特派員として約20年日本に住んだ経験も。
  • ウーヴェ・ベネケさん 1970年東ベルリン生まれ。大学進学前の兵役中に壁が崩壊した。1999 年、東ベルリン出身の4人の仲間とゲーム会社を立ち上げ、現在も同社の共同経営者。

WEST 壁の中の暮らし

西ドイツの一州として、東ドイツの中にぽつねんと存在した西ベルリン。分断時代には「赤い海に浮かぶ自由の島」とも言われたが、実際には壁に囲まれた生活に窮屈さを感じる人も多かったようだ。

50~60年代 怖い思いをした西ドイツへの電車移動

西ベルリンから西ドイツへ行く時は、必ず東ドイツを通らなければならず、子どもの頃、ハンブルクやハノーファーへは電車を利用しました。今でも忘れられないのが、東ドイツの入国審査官と国境警備隊。彼らは国境地帯で電車に乗り込み、コンパートメントのドアを開けて入ってきます。審査が終わるとポンポンポンとスタンプを押してドアを閉め、次のコンパートメントに移っていきました。そのドアの開け閉めをする音は、ある意味トラウマでもあります。(ガンドウさん)

60年代 夏休み以外は西ベルリンから出られず

1960年に合唱団に所属し、61年の始めから夏にかけて月に1度、東ベルリンの教会に歌いに行っていました。その頃はまだ西と東の行き来は自由でしたが、その後すぐに壁ができてしまったため、夏休み以外は西ベルリンを出る機会がなくなってしまいました。(ガンドウさん)

60年代 年に2回だけ親戚を訪ねて東へ

クリスマスとイースターの時期だけ、東ベルリンの親戚を訪ねることが許されていました。フリードリヒ通り駅から入国することになっていたのですが、まずはビザのチェック、税関、そして西ドイツマルクから東ドイツマルクへの換金、という3段階があって。特にクリスマスは長蛇の列で、暗く雪が積もっているなか、何時間も待たされました。私にとっては、あまりいい思い出ではありません。(ガンドウさん)

西ベルリンの人々クリスマスに東ドイツの親戚を訪ねるため、入国審査に並ぶ西ベルリンの人々
(1965年12月26日撮影)

60年代 東の親戚に送ったはずの小包の中身が……

東の親戚のために母が準備した小包を郵便局へ持って行くのが、子どものころの私の役目でした。ただ、親戚の元に届く前にシュタージ(東ドイツの秘密警察)に中身を調べられてしまうため、現金や物が盗られてしまうことがよくありました。(ガンドウさん)

70年代 壁がある地域は異様な雰囲気

ベルリンに暮らし始めて、何度も壁を観に行きましたが、やはり異様な光景でした。場所にもよるのですが、壁の前にはごく最近銃殺された人のお墓があることも。国境だったブランデンブルク門に近いベルリンフィルハーモニーの辺りは何もなく、第二次世界大戦で破壊された建物が放置されていました。当時から観光スポットだったベルナウアー通りは、建物の壁がそのままベルリンの壁になっていた部分があったり、設置されていた物見台からは東ベルリンの街並みがよく見えました。(吉岡さん)

東ベルリンを一望できる物見台東ベルリンを一望できる物見台は街のいたるところにあった

70年代 ハンブルクまではアウトバーンではなく国道

西ベルリンから西ドイツへ行く方法の1つが、東ドイツを通過する自動車移動でした。特にハンブルクへのルートはある時期までアウトバーン(高速道路)がなく、最高速度60キロ程度の国道のみ。途中停車禁止のため、3時間ほど走り続けなければなりませんでした。農家のトラクターの後ろにつくとスピードが落ちるので、余計に時間がかかり気が気ではなかったです。(吉岡さん)

70~80年代 西ベルリンではクナイペが大繁盛

1979年にそれまで勤めていた会社を退職し、日本食を提供する居酒屋(クナイペ)をオープン。当時は夜中2時まで営業していたのですが、とても繁盛していました。というのも、西ベルリンは壁があるので、行く場所が限られていたんです。さらに、食料品店は基本的に平日は18時まで、土曜は13時までしか開いていなかったので、買い物をしそびれると食べるものがないんですね。だから、西ベルリンにはクナイペがものすごくたくさんありました。(吉岡さん)

OST 壁の外の暮らし

社会主義国の暮らしを想像できるだろうか。今でこそ笑えるような出来事がある一方で、信じられないほど厳しい面もあった東ドイツ。つい30年前まで存在した国の素顔をのぞいてみよう。

70~80年代 バナナ欲しさに長蛇の列

東ベルリンでは夏になると、キューバ産の緑色のバナナが店に並び、その時期は「Bananenzeit(バナナ期間)」と呼ばれていました。もちろん、店の前には購入するための長蛇の列が。スイカも時々売られていて、誰かがそれを目撃すると瞬く間に噂が広がり、やはり列ができました。買占めしないように、1人3つまでなどの制限もあったと思います。(ベネケさん)

70~80年代 牛乳のメーカーは1つだけ!

東ドイツでは「牛乳=牛乳」でした。牛乳のメーカーは1つしかなかったので、牛乳と言われたら、そのメーカーの商品のことを意味したのです。それから、西側諸国をまねた商品も多く売られていました。例えば、チョコレートバーなどのお菓子。ただし、味は西のものに劣っていましたし、パッケージがどれも色あせたような典型的な東ドイツ製の見た目をしていました。ちなみに、清涼飲料水のClub Colaや洗剤のSpeeは今も販売されている数少ない東ドイツのメーカーの製品です。(ベネケさん)

70~80年代 西側諸国の商品が手に入るインターショップ

何を買うわけでもなく、西側の商品が売られている免税店「インターショップ」によく行っていました。食料品から魅力的な製品までいろいろと売られていましたが、西ドイツマルクでしか購入できず、ほとんどが高額。西ドイツマルクを集めて、友人と少しずつお金を出し合い、一緒に買い物をしたこともありました。外交官は西ベルリンに行くことができたので、その子どもはこっそり西側のティーン向け雑誌「BRAVO」を手に入れられることも。付録のポスターなどを安く売ってもらったこともありましたよ。(ベネケさん)

インターショップ東ドイツの各都市にあったインターショップは1989年時点で470店舗あったという

70~80年代 子どもはとにかくピオニールに参加

東ドイツのほとんどの子どもたち(全体の約9割)が「ピオニール(先駆者)」に参加していました。ピオニールとは、社会主義教育をするための青少年のグループのことで、1~3年生までは青いスカーフのJungpionier、4~7年生までは赤いスカーフのThälmann-Pionierに所属します。レクリエーションやレジャー活動を行ったり、壁新聞を制作することもありました。(ベネケさん)

ピオニール「Seid bereit!(備えよ!)」の号令に「Immer bereit!(常に備えあり!)」と
答えるのがピオニールのお決まりの掛け声

70~80年代 初めて習う外国語はロシア語

東ドイツの子どもたちは、1〜10年生まであるPOS(Polytechnische Oberschule)と呼ばれる学校で学びました。5年生になると全員ロシア語を習い、7年生で英語かフランス語を選択可能。EOS(Erweiterte Oberschule)に進んだ子どもたちは、大学進学を目指すことができました。(ベネケさん)

80年代 休暇は東のリゾート地・リューゲン島へ

アビトゥーアのクラスにいた時、友人たちと自転車で3日間かけてバルト海のリューゲン島(メクレンブルク=フォアポンメルン州)に行きました。ほかにも、同じ社会主義国であるポーランドやハンガリーは定番の旅行先で、私も両親と一緒に旅行したことがあります。ただ、西側諸国へは旅行できないため、ドイツ国内にとどまっている人も多かったという印象です。(ベネケさん)

80年代 東ベルリン市民は西ドイツ放送を見ていた

公の場では、テレビやラジオはもちろん東ドイツの放送しか受信することができませんでした。でも、東ベルリンの人はたいてい西ベルリンからの電波を拾って、ARDやZDFなどの西ドイツの放送を見ていました。逆に東ドイツには「Der schwarze Kanal」という、西ドイツの放送を風刺したプロパガンダ番組があったのですが、今見ると滑稽な感じです。(ベネケさん)

80年代 目と鼻の先にある別世界

壁沿いに住んでいる友人のパーティーに行った時のこと。10階くらいだったと思いますが、西ベルリンが丸見えで、壁の反対側にジャンプしていけそうなくらい近い距離でした。壁という人工的な障害物があるにもかかわらず、壁の向こう側の別世界がよく見えることに、不思議な気持ちがしたのを覚えています。(ベネケさん)

70~80年代 オペラが破格の値段

当時、東ドイツには素晴らしい歌い手や指揮者がたくさんいたので、よく東ベルリンにオペラを観に行っていました。しかも、オペラのチケットは15マルク(約7.5ユーロ)、プログラムが50ペニヒ(約25セント)、ゼクトが1マルク(約50セント)と破格の値段。それでも、強制両替した東ドイツマルクが余るので、西では手に入らないロシア音楽のレコードをお土産に買って帰ったこともありました。(吉岡さん)

50~80年代 進学は労働者と農民の子が優先

東ドイツは労働者と農民の国。弁護士や医者などのエリートの子は大学に行けず、そのことは人々が西へ逃亡する理由の1つでした。私がケルンで働いていた時、ハレ(ザクセン=アンハルト州)出身の同僚がいたのですが、彼女は西側の親戚を頼って、マインツ(ラインラント=プファルツ州)の大学に進学したそうです。(永井さん)

70~80年代 赤いシビックに見物客

東ドイツ出身の同僚の里帰りに、私の運転で一緒に行ったことがありました。車種は赤いシビックだったのですが、彼女の実家の目の前に駐車したら、西の車が珍しいのでしょう、近所の人たちが皆見に来ていました。(永井さん)

70~80年代 家庭菜園で物々交換

東ドイツのお店に行っても置いてあるのはじゃがいもと玉ねぎとにんじん、それからキューバ産のレモンくらいで、新鮮な果物や野菜はほとんど売っていませんでした。でも、庭のある家の人たちはサクランボやイチゴを育てたりして、物々交換をしていたんですね。庭があるか否かで、生活水準に大きな差があったのです。私もそれに触発されて、同僚とケルンで庭を借りたことがありました。(永井さん)

70~80年代 西への出張に家族は連れていけない

東ドイツ出身の同僚のいとこの夫が物理学者でした。党員ではなかったため、大学教授にはなれませんでしたが、優秀だったため西側の国際会議に出席していました。ただし、西に逃亡しないようにと、妻子を連れてくることは許されなかったそうです。(永井さん)

70~80年代 東に西の新聞の持ち込みは厳禁

シュヴェリーン(メクレンブルク=フォアポンメルン州)出身の友人を車に乗せて、彼女の両親を訪ねに行った時、うっかりケルンの新聞を車の中に置きっぱなしにしてしまったことがありました。すると、それを見つけた友人は震えんばかりに怒りました。東ドイツで西ドイツの新聞や雑誌を持っているのが見つかると、シュタージに連行されることもあるため、友人はいつも恐怖心に捉われていたのだ思います。(永井さん)

最終更新 Freitag, 13 August 2021 14:30
 

ドイツでサステナブル生活にスイッチ!

一人ひとりの行動で持続可能な社会へ ドイツで
サステナブル生活 にスイッチ!

最近、メディアでもたびたび耳にする「サステナブル」という言葉。「サステナブル(=持続可能)な社会」とは、地球の環境を守り、資源をセーブし、人間や動物が地球上でこれからも平和で豊かな生活を続けていける社会のことだ。その実現に向けて、今日世界中でさまざまな取り組みが行われる一方、人間の活動は地球温暖化や生態系の変化をもたらし、現在進行形で地球に負荷をかけ続けている。安全な地球上でこれからも生きていくために、私たち一人ひとりに何ができるだろう?「サステナブル」という言葉をヒントに、地球と私たちの新しい関係性を探る。(Text:編集部)

参考資料:「Sustainable Development Report 2019」(Sustainable Development Solutions Net work)「Climate Action in Figures(2019)」(Umweltbundesamt)「Deut sche Na chhaltigk eit sstra tegie Neuauflage 2016」(Die Bundesregierung)『小さな地球の大きな世界 プラネタリー・バウンダリーと持続可能な開発』(丸善出版)『『みんなのごみ』副読本~ごみを減らすための80のアクション』(NPO法人 環境安全センター)

地球の限界はすぐそこに

私たちの暮らしは、経済発展や技術開発により、物理的にはとても便利で豊かになった。通信手段の発達によって、世界中の人と簡単に連絡を取り合えるようになり、飛行機に乗れば、次の日には地球の裏側にまで行くことができる。都市では電気や水道などのインフラが整備され、人々は何不自由ない生活を送っている。しかしこの豊かな生活の代償として、地球環境は今、限界を迎えつつあるのだ。

特に20世紀半ば以降、まるで人間の繁栄が永久であるかのように、考えなしに地球資源を消費してきた私たちの社会。しかし、産業開発によって急増した温室効果ガスは気候変動を引き起こし、途上国での人口急増や、さらなる豊かさの追求により、自然環境に深刻な影響が出ている。また、石油などのエネルギー資源を無計画に使用することは、環境破壊につながるだけでなく、時には奪い合いのために争いを引き起こしてきた。

このような消費型社会や経済を続けていけば、地球環境はまもなく壊滅的な状況に陥り、それと同時に私たちの幸せな未来も失われてしまう……。そんな危機意識から2015年に国連で採択されたのが、「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals、通称「SDGs」)」だ。

世界を変えるための17の目標

世界を変えるためのSDGs

SDGsとは、持続可能な世界の発展のために、2030年までに達成すべき国際社会共通の目標。貧困や飢餓、環境問題、生物多様性、経済成長、ジェンダー平等など、17のゴールと169のターゲットを設定した。SDGsの前身となる「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals)」では途上国の貧困など限定された課題を対象としていたが、SDGsでは、先進国の暮らしが貧困や環境問題に与えてきた影響を反省し、すべての国や地域が目標達成に向けた政策を行うよう求める。

ドイツ連邦政府は2017年に、これらの目標を達成するための具体的な政策手段をまとめた「ドイツ持続可能性戦略2016年版」を承認。今後15年間で、水質および大気汚染の改善、持続可能な製品の供給促進、また政府の持続可能性政策と市民、ビジネス、科学界との連携を強化することを目指している。国連の持続可能な開発ソリューション・ネットワーク(SDSN)が毎年発表するSDGsの達成度ランキングでは、2019年には6位。しかし、「12.つくる責任使う責任」「13.気候変動に具体的な対策を」「14.海の豊かさを守ろう」の3項目では、いずれも大きな課題が残っているとの指摘を受けた。

「人間の社会や経済が発展すること」と「地球環境を守ること」は、相反することのように思われがちかもしれない。確かにこれまでは、経済や開発を優先することで自然保護は後回しとなり、環境汚染を悪化させてしまった。しかし、SDGsが目指す「サステナブルな社会」とは、「環境・社会・経済」の3つがバランスよく成り立っている状態のこと。大量生産、大量消費といった一方通行の経済をやめ、エネルギーシステム、食糧生産、リサイクルなどに関する技術革新や、環境に対する責任ある管理など、社会と私たち自身の変革が必要なのだ。

SDGs達成度ランキング2019

  スコア
1 デンマーク 85.2
2 スウェーデン 85.0
3 フィンランド 82.8
4 フランス 81.5
5 オーストリア 81.1
6 ドイツ 81.1
7 チェコ共和国 80.7
8 ノルウェー 80.7

出典:SUSTAINABLE DEVELOPMENT REPORT 2019

私たちにできることは?

世界の貧困の撲滅や、温室効果ガスの削減などは、日々進歩する技術によって成果が上がりつつある。一方で、SDGsの目標を達成するには、私たち一人ひとりが「環境や社会に負荷をかけない」行動を考え、実践していくことが重要だ。

ドイツでのサステナブル生活は、日々の目線を少し変えてみれば、実はそれほど難しくない。例えば日本語に「もったいない」という言葉があるように、ドイツでは「物を大切にする」文化が根付いている。ドイツには、この考え方を基盤にしたシステムや工夫が昔からたくさんあり、最近では科学技術とクリエイティブなアイデアを組み合わせた製品やサービスも増えている。また、再生可能エネルギーを使った電力会社と契約することや、農薬や化学物質を使わないビオ製品を買うことは、消費者としての私たちの意思表示にもなるのだ。

私たちが「本当に必要なこと」を常に考えて選択すれば、企業は「本当に必要なものとして選ばれること」を目指して生産を行うようになる。このように消費が変われば経済が変わり、経済が変われば政治も変えていくことができる。サステナブルな生活は、決して環境や社会のために自分が無理をすることではない。むしろ本当に気持ちよく生きられる方法を実践することで、心身ともに豊かになっていくことなのだ。そうした先にはどんな未来があるだろうか? 想像してみてワクワクしたなら、今こそサステナブル生活へスイッチするとき。

サステナブル生活のすすめ
REから始まる5つのアクション

サステナブルな社会を実現するために、一人ひとりはどんなことができるだろう? そんな疑問にお答えして、RETHINK / REFUS / REDUCE / REUSE / RECYCLEという5つのステップで、地球にも人にも優しいアクションやグッズを紹介する。ちょっとしたアイデアや工夫を生活に取り入れることで、環境に負荷をかけず、自分も無理せず、生活をもっと楽しく豊かに。より良い未来のために、今日から始めてみよう。

1消費のあり方について考え直す RETHINK サステナブル生活への第1ステップ

シェアリングエコノミーを利用してみる

シェアリングエコノミーとは、物・サービス・場所などを、人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。作りすぎてしまった晩ご飯のおかずをはじめ、着なくなった洋服、使っていない空き家など、所有している人が、それを必要とする人に必要なタイミングでシェアするという考え方で、最近はインターネットを活用した個人間の貸し借りを仲介するシェアリングサービスも登場している。今回は「食べ物」と「物」のシェアに関する取り組みをご紹介。

ベルリン発!
フードシェアリングのスタートアップ「SirPlus」

SirPlus

2017年9月にベルリンでオープンしたのが、廃棄食品だけを売るお店「SirPlus」だ。賞味期限ギリギリのものだけでなく、製造ラインから外された食品、輸送時に傷がついた缶詰、規格外の野菜など、まだまだ食べられる食品が格安の値段で店頭に並ぶ。創業者の1人、ラファエル・フェルマーさんは、フードシェアリングの活動家としても有名。

Rettermarkt Berlin-Steglitz
月曜~土曜 9:00~20:30
Schloßstr. 94, 12163 Berlin
https://sirplus.de

Pumpipumpe のステッカーであらゆる物をシェア

Pumpipumpe

頻繁に使わないけれど、これがあったら便利なのに……。そんな時は、スイスとドイツで利用されている「Pumpipumpe」というシステムがおすすめ。ウェブサイトからステッカーセットを注文し、自分の家にある貸出可能なグッズが描かれたステッカーを郵便ポストに貼っておく。ステッカーの種類は、自転車の空気入れやミシン、ディスコのミラーボールなど多岐にわたり、ご近所同士の気軽な貸し借りを手助け。無駄を減らすことは、「人との交流」という新たな楽しみへと繋がっている。
https://www.pumpipumpe.ch/sticker/

「Grüne Knopf」マークの洋服を買ってみる

Grüne Knopf

「Grüne Knopf(緑のボタン)」は今年9月に使用開始されたドイツ政府公認の洋服タグで、2013年にバングラデシュの縫製工場で発生した崩落事故をきっかけに考案された。先進国で衣料品が驚くほど安価で購入できる裏には、その生産を行う途上国での劣悪な労働環境や、効率を上げるために必要以上に使用される化学物質の存在がある。「Grüne Knopf」のタグは、製造者が労働者の人権を守り、社会や環境に対して責任を負っていることの証明だ。これからの洋服選びの基準に、このマークをチェックしてみては。


2不要なものは買わない、もらわない REFUSE No ! の一言で資源をセーブ

Kauf-nix-Tag(無買日)に参加して、物を買わない日をつくってみる

Kauf-nix-Tag(無買日 むばいび)とは、カナダのアーティストらによって1992年に始められた活動で、1年に1度、不要なものを買わずに消費について考え、代わりに友人や家族と時間を分かち合おうという非公式の記念日。アメリカやカナダでは11月の感謝祭の翌日の金曜日、日本や欧州などでは11月の最終土曜日が開催日として設定されている。この日は、実はアメリカ発祥の「ブラックフライデー」と同日。感謝祭のプレゼントの売れ残り一掃セールとして大規模な安売りが行われる「ブラックフライデー」に抗議しようと、Kauf-nix-Tagの参加者たちはデモを行う。

国内での移動には、飛行機ではなく鉄道を使う

「Flugscham(飛び恥)」とは、飛行機よりも環境負荷の少ない鉄道での移動を呼びかけ、温室効果ガスの排出量を減らそうという運動のこと。環境保護のための学生ストライキ「Fridays For Future」がドイツでも広まったことにより、注目されている。この運動を始めたスウェーデンの環境保護活動家の少女グレタ・トゥンベリさんは、今年1月にスイスのダボスで開かれた世界経済フォーラム*に参加。出席者の多くが総計約1500機にも及ぶプライベートジェットで来場したのに対し、彼女は鉄道で32時間かけて到着したことが話題となった。

*ダボス会議とも。世界を代表する政治家や実業家が一堂に会し、世界情勢についての議論を行う

3環境負荷を最小限に REDUCE 代替品で無駄を減らす

使い捨てラップの代わりに蜜ろうラップを使ってみる

残り物を冷蔵庫にしまう時など、ついつい使ってしまう使い捨てラップ。その代替製品として注目されているのが、洗って何度も使用できる蜜ろうラップだ。蜜ろうラップとは、コットンに蜜ろうワックスや植物性オイル、天然樹脂を染み込ませたもので、抗菌効果があり、包んだものを紫外線からガードするというメリットも。使用目安は2年ほどだが、もう一度蜜ろうワックスを塗ったり、古くなったら雑巾にするなど、最後まで使い切れるのもうれしい。ただし、高温になると蜜ろうが溶けてしまうため、電子レンジでの使用は避けて。

Gaia

Gaia

ハンブルクで生まれた蜜ろうラップのメーカー。材料にフェアトレードのオーガニックコットン、ビオの蜜ろう、ホホバオイル、天然樹脂を使用。蜜ろうラップの販売のほか、ラップ作りやサステナビリティについて学ぶワークショップなども開催している。
www.gaiastore.de

歯ブラシや綿棒をプラスチック製から竹製に変えてみる

プラスチックに代わる優れた素材として注目されている「竹」。竹が優れている理由は3つある。1つ目はその成長スピードで、速いもので1日1.6メートルも伸びるため、大量に伐採できる。2つ目は切ってもまた生えてくるため、再生可能な資源であること。そして3つ目は、プラスチックと違って竹は100%生分解されるという点だ。森林伐採が問題となっている今日、竹は紙の原料としても利用され、森を守るという側面でも将来有望。まずは歯ブラシや綿棒など、毎日使うものを竹製に変えてみるのはいかがだろうか。

Pandoo

Pandoo

マレーシアの熱帯雨林を守りたいという思いから生まれた、コンスタンツを本拠地とする竹製品メーカー。歯ブラシや綿棒のほか、竹の繊維でつくられたキッチンペーパーやティッシュペーパーなどのオリジナル商品を販売する。
https://gopandoo.de

4そのままの形で再利用する REUSE 捨てる前にもう一度生かそう

アップサイクリングのグッズを贈り物に選んでみる

リサイクリングする前の段階として、使わなくなったものから新しいものを生み出すことを「アップサイクリング」という。近年、日本でも注目されているが、ドイツでは多種多様で魅力的なアップサイクリング商品が各地で販売されている。例えば、セメント袋から作られたポーチ、キッカーの人形でできた栓抜き……はっと驚くようなものや、くすっと笑えるものなど、思わず誰かにプレゼントしたくなるものが見つかるはず。贈り物選びに悩んだら、近くのアップサイクリングの専門店やネット通販を利用してみよう。

PLUP - Planet Upcycling

PLUP

デュッセルドルフのエコな通りAckerstr.にある工房付きのアップサイクリング専門店。オリジナルグッズのほか、厳選された商品が並ぶ。写真は、サッカー好きの友人にぴったりなキッカーの栓抜き。

火曜・水曜14:00~19:00 / 木曜・金曜11:00~19:00 / 土曜11:00~16:00
Ackerstr. 168b, 40233 Düsseldorf
https://www.planet-upcycling.de

5分別すれば再び資源に RECYCLE 循環利用で地球への負担を減らす

資源として使えるものは、きちんとリサイクルルートに乗せよう

RETHINKからREUSEまでの4段階を経て、最後に私たちができること。紙は紙、プラスチックはプラスチック、瓶は瓶の回収ボックスへ分別しよう。ゴミになるか、再び資源となって製品に生まれ変わるかは、私たち次第だ。

最終更新 Montag, 07 Oktober 2019 17:00
 

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