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特集


課題山積みのドイツで新政権発足 メルツ首相が目指すドイツの未来像

5月6日、連邦議会選挙から約2カ月を経て、フリードリヒ・メルツ氏率いる新政権が発足した。ドイツは2年連続のマイナス成長を記録し、トランプ関税でさらなる逆風が吹く一方で、ウクライナ支援でも欧州をリードすべき立場にあるなど、ほかにも課題が山積みだ。そんな危機的な状況のドイツで、新政権はどのようなビジョンを掲げているのだろうか。メルツ政権の立ち位置について、本誌「独断時評」でおなじみの熊谷徹さんに教えていただいた。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

監修:熊谷 徹さん Toru Kumagai
1959年東京生まれ。元NHKワシントン特派員。1990年からフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン在住。ドイツ、欧州の政治経済、安全保障問題など、幅広い分野で執筆している。著書は29冊。本誌では「独断時評」を連載中。
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保守本流の政治家 フリードリヒ・メルツはどんな人物か?

メルツ首相

第10代ドイツ連邦首相
フリードリヒ・メルツ
Friedrich Merz

1955年、ノルトライン=ヴェストファーレン州ザウアーラント東部の都市ブリーロンに生まれる。ボン大学で法律を学び、1989~1994年に欧州議会議員を務めた後、連邦議会議員へ転身。2009年に一度政界を離れるも、2021年に再び議席を得て政界復帰。2022年からキリスト教民主同盟(CDU)党首を務めている。私生活では、裁判官の妻シャルロッテ・メルツ氏との間に3人の子どもがいる。

2018年、バイエルン州とヘッセン州の州議会選挙でキリスト教民主・社会同盟(CDU/CSU)が大幅に得票率を減らしたことを受け、アンゲラ・メルケル元首相がCDU党首から退くことになった。その次期党首選に立候補していた12人のうちの1人が、フリードリヒ・メルツ氏だ。メルツ氏は、2002年にメルケル氏と意見が対立して院内総務から駆逐され、2009年には議員も辞めており、いわばメルケル氏の不倶戴天ふぐたいてんの敵ともいえる存在。2018年の党首選には敗れたものの、2022年に念願の党首の座を射止めた。

メルツ氏は経済界と太いパイプを持ち、社会保障サービス縮小や規制緩和を主張するネオリベラル的な姿勢で知られている保守本流の政治家。今年2月の連邦議会選挙前には企業への法人税の減税を打ち出し、経済界からも期待を集めた。しかし、所信表明演説では安全保障や軍事問題、外交に重点を置き、得意なはずの経済問題、社会保障改革、難民問題については踏み込まなかった。社会民主党(SPD)と連立を組まざるを得なかったために、メルツ氏が理想とする政策をなかなか打ち出せなかったのである。

5月6日の首相指名投票では、1回目で落選するという、戦後ドイツでは前代未聞の事態が発生。CDU・CSUまたはSPDの議員の少なくとも18人がメルツ氏への投票を拒んだことを意味する。秘密投票なので造反者は不明だが、論壇ではSPD左派が造反したと推測されている。早くもSPDとの不協和音が表面化した。その背景には、絶対に極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)と協力しないという内部規則があるにもかかわらず、メルツ氏が今年1月に難民規制決議においてそれを破ってAfDの賛成票を容認したことがある。また、選挙期間中には「債務ブレーキを修正しない」と言っていたにもかかわらず、3月に方針を転換。発言を翻したことが党内外で批判されている(詳しくは今号「独断時評」を参照)。

このようにメルツ氏は、就任早々指導力を問われており、これからの4年間は険しい道のりとなりそうだ。次の項目では、そんなメルツ氏、そして新政権が掲げる政策と課題について解説する。

参考:フリードリヒ・メルツ氏公式ホームページ、本誌1086号「独断時評:メルケル首相の後継者は誰か? 注目のCDU 党首選挙」、本誌1235号「独断時評:難民規制決議でメルツ氏がAfDの支援を容認

ポイントごとにしっかり解説メルツ新政権の政策と課題

メルツ政権がこれまでに打ち出した政策は、それぞれが「改革」ともいえる大胆なものばかりだ。ドイツが成長力を回復させるには何が必要なのか、政策によってドイツはどのように変わるのか。主要な閣僚をピックアップしながら、メルツ政権の政策と課題を探っていく。

参考:本誌1239号「独断時評:メルツ氏が公約撤回 債務ブレーキを大修正」、本誌1235号「独断時評:難民規制決議でメルツ氏がAfDの支援を容認

ポイント 1
「債務ブレーキ」の修正で財政政策の大幅転換

メルツ氏の施策で評価されている点の一つは、政権発足前の今年3月に「債務ブレーキ」を修正したことである。これは、連邦政府に国内総生産(GDP)の0.35%を超える財政赤字を禁じる憲法上の規定だが、今回の修正によって一定の支出については例外的に制限が解除された。具体的には、軍備拡張のため、防衛支出のうちGDPの1%(約440億ユーロ、7兆400億円、1ユーロ=160円換算)までは通常予算でまかない、1%を超える部分を無制限に国債でカバーすることができるようになった。さらに、インフラ特別予算として5000億ユーロ(約80兆円)を計上し、こちらも債務ブレーキの対象外とされた。メルツ氏をはじめCDUはこの修正に反対していたが、SPDと緑の党が要求。最終的にメルツ氏は公約を破って、修正に踏み切った。ドイツの経済成長率の低さは、資本ストックへの投資が不足していることが原因であると考える経済学者もいる。そうしたなか、債務ブレーキの修正によって資本を確保したことは、財政政策の根本的な転換につながり、メルツ氏の一つの英断であったと評価する声もある。一方では、公約を破ったことで「国民を欺いた」という批判の声も少なくない。

旧連邦議会3月18日、旧連邦議会で債務ブレーキ修正の採決前に演説するメルツ氏(中央)

ポイント 2
GDP成長率を2%に回復させ……られるか?

ドイツでは深刻な景気後退により、自動車産業をはじめとした企業の収益性が悪化している。こうした状況を打開すべく、メルツ氏は法人税を5年かけて、現在のおよそ30%から25%まで下げることを公約に掲げている。同時に、今年も0%と予測されているGDP成長率を2%まで回復させ、ドイツ企業の価格競争力を改善することも約束。さらに、企業の社会保険料負担も収益率を引き下げているとして、長期失業者の支援条件を厳格化するなどの社会保障改革も検討している。しかしこれらの政策全てについて、SPDの同意を得ることは困難と予想されており、メルツ氏の経済改革が成果を生むかどうかは未知数だ。

ポイント 3
政策の実行にはSPD左派のコントロールが重要

メルツ氏が首相指名投票の1回目の投票で選ばれなかった理由は、とりわけSPD左派との意見の食い違いが大きいとみられている。またラース・クリングバイルSPD共同党首が、SPD左派を掌握しきれていない表れともいえる。同氏はSPD右派に属しているが、左派を代表するサスキア・エスケン共同党首は今回の組閣においてポストを与えられなかった。この人事に対して、SPD左派の議員の不満が強まっている。今後もさまざまな政策について、SPD左派をいかにして同意させるかは、クリングバイル氏のみならず、メルツ政権にとって重要な課題となりそうだ。

財務大臣・副首相
ラース・クリングバイル
Lars Klingbeil
SPD

1978年、ニーダーザクセン州ゾルタウ生まれ、ミュンスター育ち。学生時代にゲアハルト・シュレーダー元首相の選挙事務所で働いていた経験がある。地方議員を経て、2009年から連邦議会議員。2021年からSPDの共同党首を務めている。2029年の連邦議会選挙では首相候補になることが期待されている、次世代のSPDの担う人物の一人。 ラース・クリングバイル

ポイント 4
欧州で一番強い軍隊を目指す

ドイツを含む欧州連合(EU)加盟国にとって、2022年にウクライナに侵攻したロシアに対する抑止力を強化することが喫緊の課題だ。2024年のドイツの防衛支出はGDPの2.1%であり、北大西洋条約機構(NATO)の目標である2%を達成した。しかし、トランプ米政権はそれを5%に引き上げることを要求しており、NATOのルッテ事務総長もあらためて最低3%は必要だと主張。その意味でもドイツが債務ブレーキを修正したために、防衛予算をGDPの3%に引き上げることが可能になった点は大きな転換点だといえる。そうしたなか、メルツ氏は所信表明演説で、ドイツ連邦軍を「欧州で通常戦力では最も強い軍隊にする」と明言している。

ポイント 5
兵役義務のための準備開始

昨年、自主性に基づく兵役を2025年5月から導入することが閣議決定されたことは記憶に新しい。18歳以上の男女全員に政府が質問票を送り、健康状態や、兵役に就く用意があるかどうかを問い、健康診断などの結果から適性ありと判断された者は予備役として登録される。なお、男性は回答義務があり、応じない場合は罰金が科せられる。現在、ドイツ連邦軍は18万人いるが、少なくとも2万人の増員が必要とされている。ただし、防衛予算を大幅に引き上げたとしても、平和主義的な傾向が強いドイツの若者に対する入隊の説得は、難航が予想される。

国防大臣
ボリス・ピストリウス
Boris Pistorius
SPD

1960年、ノルトライン=ヴェストファーレン州オスナブリュック生まれ。弁護士として働いた後、オスナブリュック市長、ニーダーザクセン州議会議員を務め、ショルツ政権時に国防大臣となる。メルツ政権の閣僚の中で唯一、前政権から同ポストを引き継いでいる。同氏は兵役復活の必要性を訴えており、2011年にドイツで兵役が停止されたことは間違いだったとも述べている。 ラース・クリングバイル

ポイント 6
フランスとの関係性を再び重視

シュレーダー元首相とメルケル元首相は、EUの中ではフランスとの関係が最も重要だとして、フランスの歴代大統領と密接な関係を築いてきた。ところが、ショルツ前首相はあまりフランスとの関係を重要視しなかった。これはEUの中でも批判されてきた点の一つだ。一方のメルツ氏は、首相就任直後にフランスのマクロン大統領に会いに行くなど、関係強化をアピール。フランスの核抑止力をドイツを含むほかのEUの国々に広げるという案に対して、ショルツ首相は反対の立場だったのに対し、メルツ首相は前向きな姿勢を示している。さらに仏・英・ポーランドの首脳と共にウクライナの首都キーウまでゼレンスキー大統領を訪問するなど、欧州の結束を強めることについて努力していく姿勢も見られる。

マクロン大統領との会談首相に就任した翌日の5月7日、マクロン大統領との会談のために訪仏したメルツ氏

外務大臣
ヨハン・ヴァーデプール
Dr. Johann Wadephul
CDU

1963年、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州フーズム生まれ。法学博士号を取得した後、2000年に同州の州議会議員となった。2009年から連邦議会議員、2018年からCDU/CSU会派副院内総務を務める。対ロシア強硬派として知られる同氏が外務大臣に選出されたことは、ウクライナ支援を積極的に実施していくというメルツ政権の態度の表れともいえる。 ヨハン・ヴァーデプール

ポイント 7
寛容な難民政策から厳しい国境警備へ

ドイツ国内では昨年5月から難民による無差別殺傷事件が計6回起きており、多くの市民が治安の悪化を感じている。反移民を掲げるAfDの支持率を押し上げている理由の一つにもなっており、メルケル政権の時代は非常に寛容だった難民政策を根本的に変える必要性が指摘されている。内務大臣に就任したアレクサンダー・ドブリント氏(CSU)は、ドイツへの亡命を希望する外国人も国境で追い返すと主張。しかし、ドイツの基本法では亡命申請権が認められているほか、EU法(ダブリン協定)にも違反するとして、実行はかなり難しいとみられている。また、ドイツ国内の不法滞在移民を逮捕し、飛行機に乗せて強制退去させるには手間も費用もかかり、警察官や連邦難民移民局の係員の数を増やす必要もあるなど、課題は多い。メルツ政権の難民政策が具体的な成果を生まない場合、AfDがさらに勢力を増す可能性が懸念されている(詳しくは今号の「独断時評」)。

国境の検問所5月15日、バイエルン州のマルクス・ゼーダー州首相(左)と国境の検問所を視察するドブリント内務大臣(右)

ポイント 8
今後10年かけてインフラを整備

ドイツ連邦エネルギー水道事業連合会(BDEW)とドイツ産業連盟(BDI)は、2024年に「インフラ構築などに約1兆ユーロ規模の投資を行わなければ、ドイツは経済競争力を回復できない」とする報告書を発表していた。そのためメルツ政権は、5000億ユーロのインフラ特別予算を計上することを決定した。この予算は、2025~2034年までの10年間にわたって、送電網、水素製造設備などのエネルギー関連インフラ、鉄道、道路の新設・修理、病院や介護設備、教育機関などの整備やデジタル化の推進などに活用される。また特別予算のうち、1000億ユーロは気候保護や経済の脱炭素化に充てられる予定だ。

デジタル化・国家近代化大臣
カーステン・ヴィルトベルガー
Dr. Karsten Wildberger
CDU

1969年、ヘッセン州ギーセン生まれ。Saturnなどの家電量販店グループを経営するCeconomyのCEO。今年5月にデジタル化・国家近代化省が創設され、初代大臣に選出された。民間企業の社長を起用することで、ドイツのデジタル化が加速されることが期待されている。一方で同氏は行政経験がないため、具体的にどう政策を進めるかが今後の注目点。 カーステン・ヴィルトベルガー

ポイント 9
再エネ拡大の費用効率性を改善へ

メルツ氏は環境政策において、前政権のエコロジー重視から、エネルギーの安定供給やできるだけコストがかからない形での再エネ拡大を重視するとみられる。そのため、CDU/CSUとSPDの連立協定にも、発電設備や送電線の建設を許可するプロセスを簡素化するなど、ビューロクラシー(官僚主義)を減らす方針が盛り込まれた。また、前政権が暖房の脱炭素化のために施行させた「建物エネルギー法」についても、廃止または大幅に変更される。一方で、ドイツの環境団体はメルツ政権が二酸化炭素の削減や気候保護をおろそかにするのではないかという懸念を持っているため、今後メルツ政権を厳しく監視していくとみられる。

経済エネルギー大臣
カテリーナ・ライヒェ
Katherina Reiche
CDU

1973年、ブランデンブルク州ルッケンヴァルデ生まれ。経済気候保護省は2025年5月に経済エネルギー省に改称され、ライヒェ氏が初の大臣を務める。配電事業会社の社長を務めるなど、電力業界出身者が経済大臣となるのは初めて。エネルギー業界の改革の牽引役として、期待がかかっている。 カテリーナ・ライヒェ
 

ベルリン・フィルデビュー記念インタビュー 指揮者・山田和樹さんの呼吸から生まれる音楽

今世界中のクラシックファンをとりこにしている指揮者の山田和樹さん。今年6月12日(木)~14日(土)に行われるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の公演で、客演指揮者としてデビューを果たす。日本人指揮者では故小澤征爾さん、佐渡裕さんに続く快挙だ。山田さんはベルリン・フィルのホールでどんな音楽を生み出すのか……公演を1カ月後に控えた5月中旬、マエストロにお話を聞いた。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

山田和樹さん

山田和樹さん

1979年生まれ。2009年にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、国内外の楽団で活躍する。近年は、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団やバーミンガム市交響楽団の音楽監督を務め、2026年に東京芸術劇場の芸術監督(音楽部門)、ベルリン・ドイツ交響楽団首席指揮者兼芸術監督に就任予定。ベルリン在住。
https://kazukiyamada.com

──いよいよベルリン・フィルのデビュー公演ですね!ずばり今のご心境は?

いや、緊張していますよ……。心づもりや準備はしなければいけないものの、考えると緊張するからあまり考えないようにしているというのが正直なところです。僕は日本で指揮を勉強して、海外に出たのはちょうど30歳のときでした。海外で仕事をするようになって、ベルリン・フィルとかウィーン・フィルの名前がおぼろげながらも頭に浮かんではいました。でもあくまで僕の目標は、指揮を続けること、音楽を続けること。だからこんなに早く自分にチャンスが来るとは思っていなくて、サプライズでしたね。ベルリン・フィルの指揮台に立てるのは、年間を通しても何十人もいるわけではないですし。まさに「まな板の鯉」です。

ベルリン・フィルは、技術力やアンサンブル力、オーケストラの機能性と全てにおいて洗練されていると思います。ウィーン・フィルが伝統に重きを置く一方で、ベルリン・フィルは伝統がありつつ革新的でもある。カラヤンと長く関係を築いてきて、ずっと世界のトップオーケストラだった。それが代々バトンタッチされながら、脈々と続いてきたという流れがあります。そんななか革新的な部分で象徴的だったのが、コロナ・パンデミックのときでした。2020年3月にロックダウンになりましたが、ベルリン・フィルは「それでも何か方法を見つけるんだ」といって立ち上がり、5月1日にはネット上で無観客公演をしたんですね。自分たちがやらなければ、ほかのオーケストラが追随できないという気構えを見せてくれた。まさに、今のクラシック界をリードする存在なんです。

──今回のプログラムが組まれた背景や、各作品の聴きどころについて教えてください。

デビュー公演ではありますが、僕の意見を取り入れてくれたプログラムになっています。僕は長年フランスのテリトリーでやってきたので、フランス音楽でデビューしたいという思いがありました。それでサン=サーンスの交響曲第3番という名曲をやらせてもらうんですけど、意外なことにベルリン・フィルは10年この曲をやっていないんです。だからこれはいい機会だと思いました。サン=サーンスはとても敬虔なクリスチャンで、この曲も宗教的な面が強くオルガンが入っている。そのオルガンとベルリン・フィルのサウンドでどんな表現になるのか、というのが聴きどころですね。

それから、フランス音楽のカラフルなサウンドに似ている作品として、イタリアの作曲家レスピーギの「ローマの噴水」を選びました。ローマ3部作のうちの一つで、一番地味と思われがちなんだけれど、僕はその中で最も好きな曲です。噴水の水が散ったりしぶきが上がったり、それが光に当たって色を放ったり。朝、昼と時が経過し、最後にたそがれていく。それがすごく感動的で、僕が思い浮かべる世の中の美しい音楽の10本の指に入る曲です。ベルリン・フィルの力でその色彩の豊かさを表現できたらいいなと思います。

そして、水のテーマのつながりから武満徹の「ウォーター・ドリーミング」が決まりました。日本を象徴する作曲家であり、彼の作品を紹介できるいい機会でもある。武満さん自身もフランス音楽にすごく影響されていたから、これもまた色彩豊かな曲です。だから、今回の公演はとてもカラフルなプログラムになったと思います。

──現在、音楽監督を務めるバーミンガム市交響楽団(CBSO)の演奏会では、山田さんのお茶目な姿を目にすることも多いですが、どんな楽団ですか?

バーミンガム市は2023年に財政破綻を宣言し、実は市からCBSOへの資金援助は一切ありません。そんな状況でも英国人の気質からなのか、CBSOの楽団員たちはとてもパワフルでポジティブ。一言でいうと、僕に音楽の楽しさを教えてくれる楽団です。クラシック音楽には、例えば楽譜通りに音符を伸ばさないといけないとか、ルールがたくさんありますよね。でもCBSOは、これをやっちゃいけないというルールを忘れさせてくれて、自由に音楽を楽しめる。今日どこでも演奏が録音されたりライブ配信されたり、そういう意味ではリスクは取りづらいのですが、リスクを一緒に取ってくれる仲間ともいえます。彼らがストレートに向き合ってくれるから、僕もストレートになれて楽しくなる。そうすると彼らも楽しくなって、僕ももっと楽しくなれる。「ハイリスク・ハイリターン」ではあるのですが、今のところ心配するどころか、ますます進化していると感じています。

CBSOのコンサートで指揮台に立つ山田さんCBSOのコンサートで指揮台に立つ山田さん

──今年4月、2026/27シーズンからベルリン・ドイツ交響楽団(DSO)の首席指揮者兼芸術監督に就任することが発表されました。どのようなお気持ちですか?

大変なことになりました。もちろんベルリン・フィルのデビューもものすごく大変なことなんだけれど、それはあくまで演奏会が一つあるということ。つまり演奏会を成功させることに集中すればいいんです。でもどこかのオーケストラの指揮者になるということは、1回の演奏会を成功させるだけではなくて、長い目で関わっていくということ。家族になるということでもあり、リーダーになるということでもある。指揮者は文字通り指し示す役割をしていて、100人の楽団員を引き連れて道案内をしなければいけないんです。道が二つに分かれていたら、どちらかを選ばなければならない。選んだ先にがけがあって、みんな死んじゃうかもしれない。だから、責任も勇気も必要なんですね。

ドイツのオーケストラでの芸術監督は、初めてのポスト。恥ずかしながらドイツ語ができないので、オファーをもらったとき、率直に「ドイツ語できなきゃダメだよね?」って聞いて。そしたらDSOの方は「今のままでいい、今のあなたに来てほしいんだから」みたいに言ってくれたんです。うれしかったですね。それから自分や家族が生活しているベルリンに仕事場ができるのはとても幸運なことで、この業界では珍しいこと。かのカラヤンでさえベルリンではホテル住まいで、家はザルツブルクでしたからね。指揮者にとっても、それは新しい世界になるのかなと思います。

もちろん音楽が一番大事で、演奏会にはたくさんのお客さんに来てもらって、感動してもらうことが僕の仕事です。そのことに責任の重さを感じていて、果たして自分にできるのだろうかと……。でもこういった話を受けて頑張れるパワーは10年後にはきっともうなくて、今の40代半ばがラストチャンスだと思っています。

──最後に、山田さんが指揮者として大切にされていることを教えてください。

指揮者は、コミュニケーションを通じて音楽をつくっていく職業。オーケストラは指揮棒で動いているわけではなくて、棒を通じた指揮者の呼吸が伝わって動きます。何事も極度に緊張していたりすると、難しい場面ってありますよね。オーケストラは見透かす能力が高いから、取り繕うとしてもバレちゃうんです。だからこそ自分の心をオープンにして、呼吸が通っていることが大切だと思います。

一つのオーケストラに出会うということは、一度に100人の人に出会うわけで、そこから物語が始まります。どう展開されるのか全く決まっていない白紙の物語です。今回のベルリン・フィルとの物語も、どうなるのか本当に分かりません。もちろんデビューが良くなかったら、2回目はない。これまでも1回で終わってしまったオーケストラがたくさんあります。でもたとえ1回きりだとしても、あまり先を考えすぎず、精一杯今の自分で向き合っていきたいですね。

「指揮者の呼吸がみんなと共有できたとき、うまくいくんです」(山田さん)「指揮者の呼吸がみんなと共有できたとき、うまくいくんです」(山田さん)

ベルリン・フィルのコンサート情報

日時: 6月12日(木)20:00、13日(金)20:00、14日(土)19:00
※現地時間
会場: ベルリン・フィルハーモニー
指揮: 山田和樹
演奏: ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
曲目: オットリーノ・レスピーギ 交響詩「ローマの噴水」
武満徹 ウォーター・ドリーミング
エマニュエル・パユ(フルート)
カミーユ・サン=サーンス
交響曲第3番ハ短調「オルガン付き」
セバスティアン・ハインドル(オルガン)
www.berliner-philharmoniker.de 14日はデジタル・コンサートホールでライブ配信予定!
詳しくはこちらから
 

週末も休暇も!ふらっと泳ぎに出かけよう 夏に訪れたいドイツの美しい湖

夏といえば、海水浴! ここドイツにも海はあるが、北海とバルト海ははるか遠く……という読者の方も少なくないだろう。そんなドイツでの身近な水辺といえば、湖だ。エメラルドグリーンに輝く湖水、まるで海辺のような砂浜が整備された湖畔、湖をぐるりと囲む壮麗な山々など、夏の休暇にも魅力的なスポットが各地に存在している。本特集では、この夏に訪れてみたい湖とともに、湖の楽しみ方をたっぷりご紹介する。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

湖

ドイツで水辺といえば湖!

ドイツ全土には1万2000以上の自然湖があり、その多くは2万年前の氷河期の終わりに形成されたもので、主に北ドイツ平野とアルプス山脈に位置している。また、そのうち750の湖は50ヘクタール以上の大きさを誇り、ドイツ最大のボーデン湖をはじめ、リゾート地として知られる場所も少なくない。さらに、ダムや貯水池などの人工湖も多く存在する。ドイツには北海(Nordsee)とバルト海(Ostsee)があるが、どちらも北部に位置するため、海を身近に感じている人は限られるだろう。故にドイツの人々にとって、全国各地に存在する湖は最も身近な水辺の一つなのだ。

ドイツでは、近くの湖までふらっと泳ぎに行くことは日常的であり、昔ながらの休暇スタイルとして湖畔で数週間を過ごすという話もよく耳にする。実際、屋外で遊泳・水浴びをする場所としては湖が一番多いという調査結果もある。また湖では泳ぐことやウォータースポーツはもちろん、ハイキングやキャンプ、サイクリングなど、幅広いアクティビティを楽しむことができる。何より自然を愛するドイツ人たちにとって、湖は癒しと安らぎを与えてくれる場所なのである。

ドイツ人にとって身近な泳ぎ場

ドイツ人にとって身近な泳ぎ場

湖が好きな年齢層

湖が好きな年齢層

欧州連合(EU)の環境機関であるEEAの2023年の報告によれば、ドイツの海水浴場や河川、湖の96%は、水質が「優良」もしくは「良好」と評価されている。一方で、気候変動による大雨や洪水によって水質が悪化することがあるため、注意が必要だ。特にシアノバクテリアと呼ばれる藻の濃度が高い場所では感染症を起こす可能性があり、実際に海水浴や湖水浴を禁止される事例もある。各州では定期的に水質検査が行われているため、湖に行く場合は自治体のウェブサイトを確認することが望ましい。また湖を汚染しないようペットの排泄の場所(もちろん人間も!)に気を配ったり、ナノ粒子を含む日焼け止めクリームを使わないなど、美しい湖を守るための市民一人ひとりの意識も大切だ。

参考:Deutschland.de「Faszinierende Wasserwelten」、Deutschlandfunk Nova「SommerAbindenSee - dieWasserqualitätistgutgenug」、ZDFheute「Baden in Seen und Flüssen: So erkennt man die Wasserqualität in Badeseen」

訪れてみたいドイツの湖6選

魅力的な湖が多々存在するドイツ。ここではドイツでも人気のスポットを中心に、各地にある湖をご紹介する。また湖でのアクティビティのほか、楽しく安全に過ごすためのヒントも。この夏の計画にぜひ役立てて。

ドイツの湖

ドイツの湖といえばやっぱりここ! ボーデン湖
Bodensee

ボーデン湖

ドイツ、オーストリア、スイスの三つの国にまたがるボーデン湖は、536平方キロメートルの大きさを誇る。花の楽園として知られるマイナウ島、ボーデン湖最大の都市コンスタンツ、美しい港を擁するリンダウ(写真)、ツェッペリン(飛行船)の本拠地フリードリヒスハーフェンなど、各地に見どころがある。また30種類以上の魚が生息しており、白身魚のBlaufelchenなどのご当地グルメも要チェックだ。夏は文化イベントも多く、休暇で訪れる場合は早めの予約がベター。
www.bodensee.de

緑色の輝くアルプスの湖 アイプ湖
Eibsee

アイプ湖

スキー場としても名高いドイツ最高峰ツークシュピッツェの麓にあるアイプ湖は、その壮大な風景と透明度からドイツで最も美しい湖の一つとして知られる。標高1000メートルに位置し、真夏でも水温は20~22度と低めだが、遊泳やウォータースポーツを楽しめることはもちろん、飲用も可能だ。各種ハイキングコースが整備されているほか、ツークシュピッツェケーブルカーに乗れば、上から湖を眺めることもできる。緑色に輝く湖にきっと心洗われるはず。
www.eibsee.de

北ドイツに広がる湖沼地帯 ミューリッツ
Müritz

ミューリッツ

スラヴ語で「小さな海」を意味するミューリッツをはじめ、メクレンブルク湖沼地帯には大小合わせて1000以上の湖がある。湖に面したマルヒョー、プラウ・アム・ゼー、レーベル(写真)、ヴァーレンなどの街は、それぞれ美しい港や旧市街を擁し、ウォータースポーツやサイクリングなどのアクティビティが楽しめるリゾート地になっている。またオジロワシなどが生息するミューリッツ国立公園では、ユネスコ世界遺産に登録されている古代ブナ林を見ることができる。
www.mueritz.de

壮大なダムと大自然のコントラスト エーダー湖
Edersee

エーダー湖

ユネスコ世界遺産に登録されているケラーヴァルト・エーダー湖国立公園にある貯水湖。全長400メートルにわたるダムも観光スポットの一つで、無料のガイドツアーも(要事前予約)。無料で泳げる場所も多いが、岩場が多かったりライフガードがいなかったりするため注意しよう。湖水浴場のRehbachは浅瀬が多いため、小さな子どものいる家族にもおすすめ。木々の間に設置された全長700メートルの遊歩道「Baumkronenweg」からも湖を眺めることができるので、ぜひ足を運んでみよう。
www.edersee.com

鉱山地帯に造られた貯水湖 ビッゲ湖
Biggesee

ビッゲ湖

ザウアーラント南部にあるビッゲ湖は、ドイツで最も大きな貯水湖の一つ。さまざまなウォータースポーツが楽しめるほか、ダム建設によって水の底に沈んだ鉱山を探検できるダイビングスクールも人気だ。湖水リゾート「EuroParcs」には広々としたビーチが整備され、キャンプ場なども併設されている。各地点で乗り降りできる遊覧船も運行しており、停留地点のビッゲブリック展望台からのパノラマビュー、ドイツ最大級の鍾乳洞であるアッタ洞窟もお見逃しなく!
www.biggesee-listersee.com

ウォータースポーツ愛好家に人気 グローサープレーン湖
Großer Plöner See

グローサープレーン湖

バルト海にほど近い、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のグローサープレーン湖は、約30キロ平方メートルの広さと深い青色が特徴だ。13カ所の湖水浴場が整備され、ウィンドサーフィンなどさまざまなウォータースポーツが楽しめることで人気が高い。湖周辺には、プレーン城(写真奥)がランドマークのプレーン、田園風景が美しいボーザウやダースアウなど、魅力的な街が存在する。毎週火金に開催されるプレーンの市場では、地元の漁師が獲った新鮮な魚や燻製などが手に入るので、ぜひ訪れたい。
www.holsteinischeschweiz.de/grosserploenersee

家の近くの湖を見つける リゾート地だけではなく、もっと気軽に湖に足を運びたいという人には、湖専門の検索サイトもおすすめ。下記のウェブサイトで郵便番号を入れると、近くの湖が検索できるので、お気に入りの湖を見つけてみて。
www.seen.de/finder

湖で楽しめるアクティビティ

湖で楽しめるアクティビティ

湖ではカヌーやカヤック、カイトサーフィンなどの本格的なウォータースポーツのほか、近年SUP(スタンド・アップ・パドリング)の人気も高まっている。大きめの湖であれば、各種コースや用具のレンタルを行っているところも多いため、ぜひ試してみたい。また、山や森に囲まれた湖ではハイキングやサイクリングも王道だ。木々、岩、青空、そして湖が織りなす大自然の壮大なコントラストを楽しもう。さらに大きめの湖の近くにはスパやホテルがあることも多いため、ウェルネス休暇にもぴったり。湖畔の街では散歩を楽しんだり、博物館を訪れたりして、自分らしい湖での過ごし方を見つけてみて。

裸で泳ぐ! ?「FKK」とは

ヌーディズム(Freikörperkultur、FKK)が文化として根付くドイツ。19世紀後半に産業化によって汚染された都市で過ごす人々が、健康のために自然の中で裸になって日光浴や運動するようになったことが起源とされる。特に東ドイツ時代には、社会主義体制下の抑圧からの解放でもあり、ほとんどのビーチで裸で泳ぐ人の姿が見られた。今日もFKKの精神は続いており、YouGovの2021年の調査によるとドイツ人の4人に1人はビーチで裸になったことがあると回答している。ただし、現在はどこでも裸で泳げるわけではなく、FKK専用のエリアに行く必要がある(撮影禁止などのルールも)。一度体験すると、その開放感に魅了される人も多いが、気になる方はルールを守ってトライしてみて。

湖を安全に楽しむために

近年ドイツでは、6~10歳の子どものおよそ20%が泳げないとして大きな問題になっている。また溺死事故も増えているほか(2024年は411件)、気温差などで命を落とすケースも。湖で安全に楽しく過ごすために、ドイツ救命協会(DLRG)が提案する10の心得をしっかり確認してから水に入るようにしよう。

  • 体調が良いときだけ泳ぐこと
  • 誰かが助けてくれる状況にあるときにのみ泳ぐこと
  • もし水の中で問題が起きたら、大声で助けを求め、腕を振ること
  • 水に入ることを誰かに伝えること
  • 空腹時もしくは食後は水に入らないこと
  • 水に入る前に体を冷やすこと
  • 許可されているところでのみ入水すること
  • 思いやりを持つこと(走ったり誰かを押したりしない)
  • アームヘルパーや浮き輪などはおぼれても助けにはならない
  • 屋外で泳ぐ場合、雷や大雨になったらすぐに水から上がること

「ベルリン市民のバスタブ」と呼ばれて時代ごとに愛されてきたヴァンゼー

ベルリン西部に位置する巨大な湖「ヴァンゼー」(Wannsee)は、100年以上もの間、ベルリーナーに愛されてきた。湖水浴場は一日に最大1万人が訪れ、1キロ以上にわたる砂浜は海辺そのものだ。プロイセン、ヴァイマール共和国、ナチスドイツ、西ドイツ……それぞれの時代ごとに、市民に寄り添ってきたヴァンゼーの物語に迫る。

多くの人でにぎわうヴァンゼー湖水浴場多くの人でにぎわうヴァンゼー湖水浴場

参考:visitBerlin、DER SPIEGEL「Strandbad Wannsee: Plantschen für das Vaterland」、jungle.world「Das Strandbad Wannsee in Berlin verfällt, doch es gibt ein neues Nutzungskonzept: Die Badewanne der Berliner」、taz「„Wanna See Wannsee?“Noch gibt es Hoffnung」

ヴァンゼー湖水浴場
Strandbad Wannsee

幅80メートル、長さ1275メートルの広大なビーチを擁し、収容人数は最大3万人。日帰りリゾート地として、特に家族連れに人気がある。ウォータースライダー、FKK ゾーン、遊歩道、ビーチバレーコートが整備されているほか、ボートレンタルなどのサービスも。

Wannseebadweg 25, 14129 Berlin
2025年5月1日(木)~31日(土)10:00-19:00
2025年6月1日(日)~9月7日(日)10:00-20:00

1日券 6.50ユーロ(割引3.80ユーロ)
Badespaß チケット 12ユーロ
(最低大人1名子ども1名の3名まで、さらに子どもがいる場合は1名につき1.50ユーロ)

www.visitberlin.de/de/strandbad-wannsee

バスルームのない市民は湖へ⁉

有数の行楽地として知られるヴァンゼーの物語は、20世紀初頭のプロイセンの時代に始まる。すでに180万人以上の人口を抱えていたベルリンでは、人々は狭い家に密集して暮らしており、バスルームが備わっていた住宅はごく一部。市民にとって湖は水浴びができる貴重な場所の一つだったが、当時のプロイセンでは半裸で泳いだり水浴びをしたりすることは道徳に反するとされ、公共の場で水浴びすることが禁止されていた。しかしこれに対して抗議活動が起こり、あまりの違反者の多さに取り締まり切れなくなったため、1906年にヴァンゼーの沿岸200メートルが開放されることになった。その翌年には東岸に湖水浴場がオープンし、「ベルリン市民のバスタブ」と呼ばれて親しまれた。当時のビーチは家族、男性、女性のエリアに分かれており、水着も露出の少ないものを着用しなければならないなど、細かい規定があったという。

時代に翻弄された行楽地

ヴァイマール共和国時代(1919-1933)に入ると、労働者が休日は屋外で過ごし、運動や体操によって健康を維持することを理想に掲げた身体文化運動が盛んになった。その流れのなかで公園、スポーツ施設、プールなどが次々と建設され、ヴァンゼー湖水浴場も新しいレジャー施設として再建されることが決定する。プロジェクトを担当したのは、都市計画家のマルティン・ヴァグナーと建築家のリヒャルト・エルミッシュ。レストラン、スパ、スポーツ施設などが入ったノイエザッハリヒカイト(新即物主義)様式の長さ1000メートルにわたる複合施設の建設を計画したのだった。

1929~1930年にかけて建設が進んだものの、世界恐慌によって財源不足となり、さらには1933年にヒトラー政権が樹立し、計画そのものが中止されてしまう。同年、湖水浴場の支配人だったヘルマン・クラユスが反ファシズムの思想を貫き、自らの解雇を悟ってオフィスで自殺するという悲しい事件も起きた。そして1935年にはユダヤ人の遊泳禁止の標識が立てられ、1938年には法律によって禁止された。その一方で、第二次世界大戦中の1942年も、およそ85万人がヴァンゼー湖水浴場を訪れていたという。

ナチス時代のヴァンゼー湖水浴場ナチス時代のヴァンゼー湖水浴場

第二次世界大戦後、ヴァンゼーは東西ドイツの国境を挟むことになり、東岸の湖水浴場は西ベルリンに属することになった。戦争による被害は比較的少なく、1956年にはバルト海から砂が運ばれ、日帰りのリゾート地としてますます人気となった。特にベルリンの壁に囲まれた後の西ベルリンの人々にとって、ヴァンゼー湖水浴場はすぐに足を運ぶことができる貴重な行楽地の一つだった。

未来のヴァンゼーの姿は?

東西ドイツ再統一後の現在も、ヴァンゼーは国内でも人気の高い湖で在り続けている。しかし、利用者は年々減少傾向にある。その一因が施設の老朽化だ。ヴァイマール時代に建設途中のままとなった500メートルにわたるレンガ造りの建物は、現在も残っている。2007年の創立100周年を機に一部は改装されたものの、かつてのレストラン「リド」をはじめとした施設は改修が叶わず、一部は立ち入ることができない。

ダルムシュタット専門大学の建築学教授であるカーステン・ゲルハルズ教授によると、「あと5年でこの建物は修復不可能になる」(2024年時点)という。同氏は建築を歴史的に価値あるものとして保存し、持続可能な形で利用していくことを目指して、2024年に学生たちと共に、レストラン「リド」があった空間で展覧会「Wanna See Wannsee?」を開催。施設を修復し、さまざまな職業訓練の場として再利用することを提案した。時代ごとに人々に利用されてきたヴァンゼー湖水浴場は、次の世代にも愛され続けるために、今まさに正念場を迎えている。

老朽化のため一部が使用できなくなっている建物老朽化のため一部が使用できなくなっている建物

展覧会「Wanna See Wannsee?」で展示されたヴァンゼー湖水浴場の未来展覧会「Wanna See Wannsee?」で展示されたヴァンゼー湖水浴場の未来像

最終更新 Freitag, 16 Mai 2025 13:23
 

日本映画&日本文化を堪能する6日間 第25回ニッポン・コネクション
日本映画祭
2025年5月27日(火)〜6月1日(日)

Nippon Connection

2025年も、5月27日(火)〜6月1日(日)の6日間にわたって、日本映画と日本文化の祭典「ニッポン・コネクション」がフランクフルトで開催される。日本映画祭として世界最大規模を誇る同映画祭は、初開催から今年で25周年を迎える。およそ2万人が訪れるニッポン・コネクションの見どころをしっかりチェックして映画祭を楽しもう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

日本映画100本の上映、テーマは「執着」

第25回ニッポン・コネクション日本映画祭の重点テーマは、「Obsessions – From Passion To Madness」(執着 - 情熱から狂気まで)。執着には、工芸や音楽、料理の分野に見られる「完璧さの追求」、並外れた成果を生み出す「情熱」がある一方で、「こだわりすぎ」や「自制心の喪失」などネガティブな側面もある。強迫的な愛、欲望、魅惑、復讐、そしてもちろん映画への情熱など、多様な側面を持つ作品が選ばれている。

期間中はおよそ100本に上る長編・短編映画を上映。劇映画のほか、ドキュメンタリーやアニメとジャンルは多岐にわたり、多くの作品がドイツをはじめ、日本国外で初公開となる。メイン会場であるMousonturmとNAXOSのほか、フランクフルト市内にある六つの施設で開催される。

また、一部作品には監督や俳優、映画関係者がゲストとして登壇。日本映画界の優れた若い才能に贈る「ニッポン・ライジングスター・アワード」には、片渕須直監督のアニメ作品「この世界の片隅に」や、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」などの制作に携わってきた背景美術、美術監督の林孝輔氏に授与される。Mousonturmの玄関ホールでは、同氏の作品が展示されるので、こちらもお見逃しなく。

美術監督の林孝輔氏の作品

2025年の注目映画

ドラマ、コメディ、アニメ、ドキュメンタリーと、幅広いジャンルが楽しめるニッポン・コネクション。ふだんドイツではなかなか見られない作品を中心に、今年の注目映画をピックアップ!

前田哲九十歳。何がめでたい

今年のオープニングを飾るのは、直木賞作家・佐藤愛子のベストセラーエッセイ『九十歳。何がめでたい』『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』の映画化作品。90歳となった俳優の草笛光子が佐藤愛子を熱演する。断筆宣言をした愛子は、中年編集者の吉川(唐沢寿明)に口説かれて連載エッセイを執筆することに……。人生100年時代に見るべき、痛快エンターテイメント。

呉美保ぼくが生きてる、ふたつの世界

「そこのみにて光輝く」や 「きみはいい子」で知られる呉美保監督の最新作。コーダ(きこえない、またはきこえにくい親を持つ聴者の子ども)として生まれ育った、五十嵐大氏の自伝的エッセイを原作とする。きこえる世界ときこえない世界を行き来する主人公を吉沢亮が、母親役はろう者俳優として活躍する忍足亜希子が演じる。居場所を探す若者と、その母の思いが心に響く物語。

伊藤詩織Black Box Diaries

映像ジャーナリストの伊藤詩織氏による初監督作品。自身が被害にあった性的暴行について、勇気をもって調査に乗り出していく姿を自ら記録した。第20回チューリッヒ映画祭でドキュメンタリー賞を受賞したほか、第97回アカデミー賞でノミネートされるなど世界から注目を集めている。5月30日の上映日には、映画プロデューサーのエリック・ニヤリ氏が登壇予定。

押山清高ルックバック

「このマンガがすごい!2022」オトコ編第1位に輝いた読み切り漫画「ルックバック」を原作とするアニメ作品。原作者は「チェンソーマン」で知られる藤本タツキだ。学年新聞で四コマ漫画を描き続ける藤本と、不登校で密かに藤本に憧れを抱く京本の二人の少女の、漫画へのひたむきな思いを描く。ところがある日、全てを打ち砕く事件が起きる……。第48回日本アカデミー賞では、最優秀アニメーション作品賞を受賞。

片渕須直この世界の(さらにいくつもの)片隅に

昭和19年に広島県呉に嫁いだすずの日々の暮らし、そして広島の原爆投下を描く漫画「この世界の片隅に」を原作とする長編アニメ。「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は、2016年の映画版からさらに250カットを超える新エピソードが追加されており、終戦80周年を機にあらためて見たい作品だ。美術監督は、今年のニッポン・ライジングスター・アワードに選ばれた林孝輔氏が務めた。

日本を体験できるニッポン・カルチャー部門

ニッポン・コネクションに足を運ぶなら、さまざまな日本文化を体験できる「ニッポン・カルチャー部門」もお忘れなく。茶道、料理教室、パフォーマンス、展覧会、ワークショップ、レクチャー、パネルディスカッション、コンサートなど、70以上のプログラムが用意されている。

ニッポン・カルチャー部門で日本を体験

さらにMousonturmとNAXOSでは、屋台やバーで日本料理が提供されるほか、雑貨や工芸品、映画祭オリジナルグッズなどの販売ブースなど、40以上の出展者が集まる。無料で出入りできるので、映画やイベントの合間にぜひ立ち寄ってみて。

毎年日本から豪華ゲストがやってくるコンサート(5月28日)では、人気ガールズロックバンドのЯeaLが登場。テレビアニメ「銀魂」「ポケットモンスター サン&ムーン」「BORUTO-ボルト-」などのアニソンで知られ、アニメファンはもちろん、観客を盛り上げてくれること間違いなし!

人気ガールズロックバンドのЯeaL

そのほか上映作品やニッポン・カルチャー部門のプログラム、チケット情報などは、映画祭ウェブサイトからチェック!

イベント情報
ニッポン・コネクション

ニッポン・コネクション Nippon Connection 開催期間: 2025年5月27日(火)〜6月1日(日) メイン会場: Künstler*innenhaus Mousonturm Waldschmidtstr. 4, Frankfurt am Main
NAXOS Waldschmidtstr. 19, Frankfurt am Main
https://nipponconnection.com/ja

最終更新 Montag, 12 Mai 2025 15:54
 

終戦80周年記念特集 犠牲者としてのドイツの歴史
「追放」はどう語られてきたか?

ポーランドのヴロツワフ西部を歩いて移動する被追放者たちの列(1945年撮影)ポーランドのヴロツワフ西部を歩いて移動する被追放者たちの列(1945年撮影)

ドイツおよび欧州が第二次世界大戦の終わりを迎えた1945年5月8日から、今年で80周年を迎える。ドイツでは、ホロコーストをはじめ加害者としての歴史に触れる機会は多い一方で、犠牲者としての歴史を知る機会は少ない。本特集では、あまり知られてこなかった歴史の一つ「追放」に焦点を当てることにした。タブー視されていた時期もあったこの歴史が、どのように語り継がれてきたのかを探る。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

佐藤成基「ドイツ人の『追放』,日本人の『引揚げ』—その戦後における語られ方をめぐって—」、bpb.de「Kollektive Erinnerung im Wandel」、NDR「Flucht und Vertreibung überschatten 1945 das Kriegsende」、NHK映像の世紀バタフライエフェクト「ふたつの敗戦国 ドイツ さまよえる人々」

取材協力・監修

佐藤成基さん Shigeki Sato

法政大学社会学部教授。ナショナリズムと国家についての理論と歴史の研究に従事する。著書に『ナショナル・アイデンティティと領 土ー戦後ドイツの東方国境をめぐる論争』(新曜社)、『国家の社会学』(青弓社)、『国民とは誰のことかードイツ近現代における国籍法の形成と展開』(花伝社)などがある。
www.t.hosei.ac.jp/~ssbasis

1400万人が故郷を追われた「追放」

第二次世界大戦の敗戦で、ドイツは戦前の領土の4分の1に相当する東方領土(オーデル・ナイセ線以東の領土)を失った。これには、米国・英国・ソ連の首脳が1945年のポツダム会談で、ソ連とポーランド、ポーランドとドイツの国境をそれぞれ西へと移動させることを決めたという背景がある。それに伴い、ソ連とポーランドのみならず、チェコスロヴァキア(当時)、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラヴィアなどに住んでいたドイツ人が故郷から追放されることになる。追放の対象となったのはドイツ国籍を持つ者はもちろん、民族的にドイツ人とされる人々も含まれていた。なかには、12世紀頃から東欧に定住していたドイツ系民族もいたという。

ドイツ人の避難と追放の内訳(1950年)

1944年秋、ソ連軍がすでに到達していた地域では、ドイツ人の避難が始まっていた。家を追われ、財産を没収された人々は、持てるだけの荷物を持って、徒歩や列車で西を目指した。その途上では、寒さや飢えで病気や栄養失調となって命を落とした者がいれば、バルト海上で移送船がソ連軍の魚雷によって撃沈されたり、爆撃などの戦闘に巻き込まれたりして犠牲となった者もいた。さらにドイツ人への報復として、解放された強制収容所に今度はドイツ人が収容されるなど、民間人による暴力や虐殺もあった。こうした非人道的なドイツ人の追放は1945年の終戦後も続いた。

「ドイツ人の秩序ある移送」と呼ばれる組織的な追放は1946年1月から行われた。ホロコーストの移送で使われた貨物列車にドイツ人が隙間なく詰め込まれ、劣悪な環境のなかドイツへ向かったという証言も残されている。最終的には1944~1950年の間に1200万~1400万人のドイツ人が東方からドイツへと追放され、そのうち60万~100万人、あるいはそれ以上が命を落としたといわれている(連邦政治教育センター参考)。

1945年10月、ベルリンのアンハルター駅で電車を待つ被追放者たち1945年10月、ベルリンのアンハルター駅で電車を待つ被追放者たち

ドイツの「追放」と日本の「引揚げ」

「追放」はドイツ語で「Vertreibung」といい、強制移住させられた人々を「被追放者」(Vertriebene)と呼ぶ。日本でも敗戦に伴い外地で生活していた人々が日本へと帰る「引揚げ」があったが、その意味は大きく違う。そもそも「引揚げ」は「もとにいた場所に戻る」ことを意味し、被強制性が含意されていない。一方で「追放」は「故郷から強制的に追放された」ことを意味し、明らかな被強制性が示唆されている。

東西ドイツで違った「追放」の扱い

追放がほぼ終了した1950年時点では、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に約800万人、ドイツ民主共和国(東ドイツ)に約400万人の被追放者が流入していた。西ドイツでは総人口の約16%、東ドイツでは約25%に当たる数である。そもそも戦争で街が破壊され、さらに東西に分断されたドイツにとって、被追放者を受け入れることは大きな負担となった。西ドイツでは被追放者は人口比で偏りが生じないよう各州に振り分けられ、東西それぞれの形で社会に統合されていくことになるが、「追放」の扱われ方は東西で大きく異なっていた(詳しくは下記)。

東西で被追放者の扱われ方に違いはあるが、いずれの場合も表面上の統合にすぎず、実際には故郷を奪われた喪失感、差別や賃金格差などに苦しんだ人が少なくなかった。西ドイツにおける1949年の調査では、被追放者の82%が故郷に帰ることを望んでおり、1959年時点でも57%が帰還を望んでいたという。

西ドイツ
  • 戦後直後から1960年代まで、追放は非人道的で国際法に反する「不正」と認識され、敗戦により東方領土を奪われたことは「不当」と訴えていた
  • 基本法で、1937年の段階で「ドイツ帝国」の範囲でドイツ国籍を持つ人々、ドイツ国籍を持たない民族的にドイツ人とされた人を、配偶者・子孫を含めて「ドイツ人」と規定した。なお1950年以降の被追放者は「アウスジードラー」(Aussiedler)と呼ばれ、現在も民族的にドイツ人と認められれば、一定の条件のもとドイツ国籍を取得することができる
  • 戦争被害の損失を国民全体で負担することを目指した「負担均衡法」(1952年制定)により、被追放者たちも援助の対象となった(ただし、償還された財産は2割程度)
  • 1950年に「故郷被追放者・権利被はく奪者のブロック」(BHE)という政党も結成され、一時期は連邦議会に27議席を持っていた
  • 1957年には「被追放者連盟」(BdV)が創設され、内政・外交両面で政党や行政に影響力を行使した

東ドイツ
  • 東方からの避難民を「移住者」(Umsiedler)と呼んだ
  • ソ連の同盟国として東欧の社会主義諸国と友好な関係を維持するため、西ドイツのように不正の告発を行おうとしなかった
  • 地主から没収した農地を東方からの移住者にも配分することで、新生の社会主義国家に「新市民」(Neubürger)として同化させようとした
  • 1950年の時点で400万人が東ドイツに流入したが、ベルリンの壁建設前にその多くが西ドイツに移住したといわれている

タブー化された「追放」の歴史が認められるまで

東ドイツでは「追放」について公式に言及してこなかったため、ここでは西ドイツの歴史を振り返る。戦後の西ドイツでは「難民・被追放者・戦争被害者省」を設置し、1969年まで被追放者の受け入れを担ったほか、追放の当事者の体験談や目撃談を700以上収めた公式記録(全5巻8冊)の制作も行っている。一方で追放に関する言論は反共主義と強く共鳴し、西ドイツの国是であった「再統一」には被追放者の故郷回復の意味も込められていた。

ところが、1968年にブラント政権が成立し、東欧社会主義諸国との融和を目指す「新東方政策」が開始されたことが、被追放者にとって逆風となった。当時、ナチスの罪を自覚することが「和解と平和」に貢献するとした公共的規範が西ドイツに根付いていった。その結果、追放を公然と語ることが難しくなり、タブー化されていったのである。追放の不正について語ることは、東方政策を妨害し、報復主義や歴史修正主義であるとみなされるようになった。被追放者団体やその支援者たちは追放の不正を訴え続けたが、そうした発言は批判され、ネオナチのレッテルさえも貼られたという。

転機が訪れたのは、1990年の東西ドイツの再統一だった。それまで未解決だったドイツとポーランドの国境が確定し、ドイツは東方領土への要求を正式に放棄。領土問題から解放され、追放の歴史を公然と語りやすくなる状況が生まれた。2000年代に入ると、追放の歴史に関連するドキュメンタリー放送、書籍の出版、展示などが相次ぎ、「追放のルネッサンス」のようなブームが訪れる。2005年にボンの歴史の家で開催された展示「避難・追放・統合」は、非難する声もあったものの、その後ベルリンとライプツィヒを巡回するほど注目された。こうして公共でのプレゼンスが高まるにつれ、追放はドイツ史の一部と認識されるようになったのである。

追放を描いた小説『蟹の横歩き』

ドイツを代表する作家であり、ノーベル文学賞受賞者のギュンター・グラスの『蟹の横歩き』は、1945年1月に大勢の被追放者を載せた豪華客船ヴィルヘルム・グストロフ号がソ連の攻撃で沈没した実際の事故を題材とする小説。グラス自身もダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)出身の被追放者として知られ、「追放」ブームが始まった2002年に出版された。翌年には日本語訳も出版されている(現在は絶版)。


KrebsgangIm Krebsgang
(蟹の横歩き)
Günter Grass


発行元:dtv Verlagsgesellschaft mbH & Co. KG
定価:13ユーロ

「追放」をめぐる今とこれから

1998年に被追放者連盟の会長に就任したエリカ・シュタインバッハ氏は、追放の問題を国民的なテーマへと復権させることを目指す取り組みを始めた。追放の歴史を語ることは、ナチスの犯罪やドイツ人の責任を相対化するものだという批判もあったが、同氏はこの歴史を加害の歴史と同時に語っていくスタンスを取り、前述の「追放」ブームを後押しした。一方で、シュタインバッハ氏は長らくキリスト教民主同盟(CDU)の議員だったが、右翼的な発言をすることでも知られていた。2017年にはメルケル元首相の難民政策に失望して、CDUを離党。さらに現在は、極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の党員となって活動している。かつて被追放者は領土問題の流れから、右翼を支持する人が多かったという背景がある。被追放者やその子孫がAfDに共感を示す例もあり、記憶文化や政治的アイデンティティーをめぐる議論のなかで、慎重に扱われるべきテーマの一つである。

また、現在の被追放者連盟にとって、政治的主張とは距離を置く形で追放の歴史や文化をどう記録していくかは、大きなテーマだ。その取り組みの一つとして、追放の歴史や連盟の活動を紹介する機関誌の隔月発行を続けている。しかし、その機関誌では、例えば2015年の難民危機には一切触れられていない。被追放者と難民とでは置かれた状況や歴史的背景が大きく異なるとはいえ、こうした出来事を完全に切り離して扱う姿勢は一面的にも映る。連盟がこうした現代的な問題にどのようにアプローチしていくのか、今後も注目していくべきだろう。

さらに2021年、ベルリンに「避難・追放・和解資料センター」がオープンした。もともとはシュタインバッハ氏の構想からスタートし、2005年に首相に就任したメルケル氏も、就任演説で「ベルリンに追放の不正を記憶する目に見える目印を置く」ことに賛意を表明、2008年の連邦議会で承認を経て創設されることが決まった。実に10年以上の歳月がかかったが、最終的には「ナチズムと第二次世界大戦の結果としての『追放』」という視点を持った場所として開館が実現した。

今年2月、ロシアがウクライナに侵攻してから3年が経過したが、和平交渉が進もうとしている。交渉の末、もしロシア系住民が多く暮らすウクライナ東部がロシアの領土になった場合、そこに住むウクライナ人たちが追放される可能性もある。かつてのドイツ人の追放と類似した状況が、再び現実になるかもしれないのだ。こうした可能性を前に、ドイツが語り継いできた「追放」の歴史は、今後どのように生かされるのだろうか。21世紀になっても世界各地で戦争が起きている今、あらためて「追放」を学び、考えるべきときが来ているのかもしれない。

避難・追放・和解資料センター

Dokumentationszentrum Flucht, Vertreibung, Versöhnung


20~21世紀における避難・追放・強制移住をテーマにする資料センター。かつて被追放者たちがたどり着いたアンハルター駅近くに位置する。展示室のほか、当事者の声をアーカイブした図書室があり、ツアーやワークショップなども。入場無料。


Stresemannstr. 90, 10963 Berlin
www.flucht-vertreibung-versoehnung.de


避難・追放・和解資料センター

最終更新 Mittwoch, 07 Mai 2025 17:53
 

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