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ベートーヴェン『第九』アジア初演100周年 - 音楽が繋ぐ日本とドイツの絆

ベートーヴェン『第九』アジア初演100周年
音楽が繋ぐ
日本とドイツの絆

徳島オーケストラ 徳島オーケストラのメンバー

1918年6月1日、鳴門市・大麻町(当時の板東町)にあった板東俘虜収容所でベートーヴェン交響曲第9番(通称『第九』)が、アジアで初めて全曲演奏された。現在も鳴門市では毎年6月1日を祝して演奏会を開催。その活動は日本のみに留まることなく、「『第九』里帰り公演」としてドイツでも行われた。今年、100周年を迎える『第九』アジア初演から、国境を越えて紡がれる日独の交流を探る。
(取材協力・資料提供:鳴門市ドイツ館、鳴門市役所『第九』ブランド化推進室/執筆:編集部)

『第九』初演の歴史を紐解く
板東俘虜収容所の奇跡

鳴門市とドイツの交流の起源は1917年までさかのぼる。1914年に始まった第一次世界大戦で英国と同盟を組んでいた日本がドイツに宣戦布告し、ドイツ兵が東アジアの拠点としていた中国・青島を攻略した「青島の戦い」により、約4700名ものドイツ人捕虜が日本各地の収容所に送られた。そのうちおよそ1000人が徳島県板東町にあった板東俘虜収容所に収容されることになる。

世界大戦当時、敵勢である外国人たちに対し劣悪な住環境で過酷な労働を強いるような強制収容所があった中、板東俘虜収容所は規則の範囲でドイツ人捕虜たちに自由を与え、地元民との交流も許した模範的な収容所だった。

徳島オーケストラ野外音楽堂で演奏する徳島オーケストラ

このような配慮には、板東俘虜収容所の所長を務めていた松江豊寿の存在が大きかった。彼の父親は明治維新の反乱軍であった会津藩の出身であったことから、松江所長本人も汚名を受けながら苦しい生活を送っていたというバックグラウンドを持っていたため、敗者が味わう屈辱を痛いほど理解していたのだ。そのため、施設が閉鎖されるまでの間、徹底した人道的管理の下、ドイツ兵捕虜に自由を与え、住環境の改善に尽力した。
(※板東俘虜収容所の詳しい歴史については、こちらをご覧ください)

ヘルマン・ハンゼンの略歴
1886年
11月26日
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州、グリュックスブルクで生まれる。ドイツ最北の町、フレンスブルクで育ち、シュテッティン(現在はポーランドの都市)で音楽を学ぶ
1904年
5月
18歳の時に海軍に入隊
1909年
10月
23歳の時に負傷のため一時軍を離れ、12月に原隊復帰
1914年
11月
28歳で青島「膠州海軍砲兵大隊(MAK)第3中隊」に所属、一等音楽兵曹として音楽隊の指揮を執る。その後、徳島県・板東で俘虜生活を送る中「徳島オーケストラ(後に「MAK オーケストラ」と改称)」の指揮を執る。
1918年
6月1日
32歳の時に板東俘虜収容所でアジア初となる『第九』の演奏を行った際の指揮者を務める
1919年
8月
故郷であるシュレスヴィヒ=ホルシュタインの帰属を決定する住民投票のため33歳の時にドイツに帰国
1920年 帰国後の34歳の時に市の広報係、秘書官、参事などを務める。
1925年 39歳の時に声楽クラブ「フェニックス」に参加し、この年の指揮者に選ばれる。
1927年
3月13日
病気のため死去。享年40歳。墓には楽器が刻印された(現存はしない)

*上記の略歴は、プスト博士の調査によってフレンスブルク市や教会の文書で明らかになったもの

文化活動を通じて育まれる日独の絆

松江所長の自由を重んじる方針に加え、徳島が四国88カ所霊場を巡る「遍路」の文化が根付く土地柄もあり、住民たちは「お接待」といわれるおもてなしの心を大切にする風習があったことから、地元の人々はドイツ人捕虜たちを「ドイツさん」と親しみを込めて接し、多くの場面で交流を図っていたという。畜産や製パンの技術指導、スポーツや芸術の指導など、捕虜たちは自国の技術や文化を板東町の人々に伝えた。

また、板東俘虜収容所内での活動としては、所内新聞「ディ・バラッケ」の定期発行、菓子店や商店街を営むなどの商業活動、日本ではまだ珍しかった鉄棒や鞍馬、組体操といった競技を取り入れたスポーツ活動、オーケストラや合唱団を結成し演奏会を開いたり、地元民向けの音楽教室を開くなどの音楽活動に精を出していた。

上記の活動の中でも特に活発だったのが、音楽活動だった。以前、音楽隊に所属していた捕虜たちを中心に結成されたのが、パウル・エンゲル率いるエンゲル・オーケストラと、ヘルマン・ハンゼンが指揮を執る徳島オーケストラだった。彼らは週に1度のペースで定期演奏会を開き、ここで生活をしていた約2年10カ月の間に100回以上、約300もの楽曲を演奏したという。定期的に開催される演奏会は、ドイツ人捕虜たちにとって心のよりどころでもあったようだ。

ヘルマン・ハンゼン左)『第九』アジア初演プログラム 右)若き日のヘルマン・ハンゼン

1918年6月1日、『第九』初演を迎えて

このように精力的な音楽活動を続ける中、定期演奏会の一環として1918年6月1日に行われたのがベートーヴェン『第九』のアジア初となる全曲演奏会だった。板東俘虜収容所には男性しかいなかったため、本来であれば女性パートであるソプラノ部分を男性用に編曲したり、収容所にない楽器をオルガンで代用して演奏するなど、工夫を重ねての試みとなった。

講堂『第九』が演奏された講堂

演奏は収容所内で行われたため、板東町の人々が実際に演奏を聴くことはできなかったが、西洋音楽の発展に貢献した徳川頼貞が初演から2カ月後に第一楽章の演奏を収容所で聴き、感銘を受けたことを自身の著書「薈庭楽話(わいていがくわ)」で明かしたことから、1940年代頃に『第九』の初演について多くの人に広く知られるようになった。

世界中で争いが起こっている中、「alle Menschen werden Brüder(すべての人々は兄弟になる)」という歌詞の一説に代表されるような平和や愛という普遍的なテーマを含む『第九』が選ばれたことは異例のこと。しかし、板東俘虜収容所での生活環境や地元の人々とのふれあいによって国境を越えた繋がりを感じずにはいられない出来事ではないだろうか。

また、演奏会のプログラムには、ベートーヴェンやヨハン・シュトラウスが作曲した楽曲が多く含まれており、ベートーヴェンの音楽の精神性と、シュトラウスの音楽の娯楽性がドイツ人捕虜たちにとって必要なものだったのではないかと考えられている。

脈々と受け継がれる現在の『第九』の姿

100年の時を経た現在も鳴門市で行われている『第九』の演奏会。毎年行われるようになったのは、1982年5月15日の鳴門市制施行35周年・鳴門市文化会館落成式記念行事として、第1回目のベートーヴェン『第九』交響曲演奏会が開催されたことがきっかけだった。この演奏会後、市民からの「あの感動をもう一度」という声にこたえる形で演奏の継続が決定。以降、板東俘虜収容所で行われた『第九』のアジア初演の日にちなんで、6月1日を「『第九』の日」とし、毎年6月の第一日曜日に演奏会を行っている。また、ドイツでも定期的に「『第九』里帰り公演」が行われ、ドイツ兵捕虜の子孫も演奏会に駆けつけるなど、日本のみならずドイツでもその歴史が語り継がれている。

第36回『第九』定期演奏会の様子第36回『第九』定期演奏会の様子

2018年の100周年コンサート、
次世代へと想いを伝える

初演から100周年を迎えた2018年は記念として、「よみがえる『第九』」と名付け再演される。初演当時の様子を再現するため、当時と同じ時刻に開演し、合唱団は男性のみで構成される予定だ。オーケストラ・合唱共に1918年と同じ人数で演奏され、まさに当時の様子が現在によみがえる演奏となる。

そのほかにもジュニアオーケストラが中心となる「子どもと大人のベートーヴェン『第九』交響曲第4楽章演奏会」など、次世代を担う子供たちによる演奏会や、今年で37回目を迎える『第九』の定期演奏会は、開催日を2日間に拡大し、延べ1200名もの合唱団が日本全国だけでなく、ドイツ、中国やアメリカなど世界各国から集う。また、ドイツ兵捕虜の子孫を含む国内外からのゲストが鳴門市にやってくる予定。

鳴門市では板東俘虜収容所の史実を通して歴史的背景や友愛の心を理解し、この地が『第九』のアジア初演の地であることに誇りを持ち郷土を感じられるよう、若い世代にも受け継いでいく。――こうして100年前に始まった日独の絆は、いま、次世代へと繋がれていく。

『第九』にまつわる日・独の物語

ベートーヴェン最後の交響曲であり、世界平和への願いや博愛の精神が込められた第4楽章「歓喜の歌」に代表される『第九』。1824年の発表から200年近くの時を経た現在もなお、多くの人々に愛され続けている。世界中の誰もが知っているこの『第九』によって紡がれる4つの物語を紹介しよう。

story1.
年末コンサートの定番となった『第九』

ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団年末に『第九』を演奏するライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団

日本では冬の風物詩として、年末コンサートの定番プログラムである『第九』。その始まりは諸説あるが、戦後間もない1940年後半に日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が、12月に演奏したことで、年末の『第九』演奏会が一般的に認知されるようになった。混乱が続く世界情勢の中、当時喜びや博愛精神に満ちあふれたこの楽曲を聴いた人々から好評だったため、それ以降、年末に『第九』を演奏する習慣が根付いたといわれている。

年末に『第九』を演奏するのは日本以外には少なく、欧州ではメンデルの『メサイア』が定番だ。ただ、ドイツのライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団では、 第一次世界大戦が終結した1918年の年末に平和への願いを込めて『第九』を演奏して以来、大晦日にこの楽曲を演奏することが定番となっている。

story2.
欧州連合のシンボルとなった『第九』

ヘルベルト・フォン・カラヤン編曲を担当したヘルベルト・フォン・カラヤン(中央)

欧州連合(EU)のシンボルには、サークル状に黄金の星が12個あしらわれた欧州旗、ヨーロッパの平和と統合を祝う5月9日のヨーロッパの日、「多様性の中の統合(United in diversity)」を掲げたモットーなどがある。そしてまた世界的な平和への願いを込めたベートーヴェン『第九』の4楽章「歓喜の歌」が欧州市民のアンセムとなっている。

1972年にオーストリアの指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンによって編曲された「歓喜の歌」が、欧州評議会によって「欧州の歌」として発表され、1985年にミラノで開かれた欧州理事会(EU首脳会議)において「EUの歌」として承認された。「EUの歌」は加盟国の国歌ではなく、あくまでもEUの基本的な価値をたたえる曲という位置付けになった。

story3.
長野オリンピックで世界へと繋いだ『第九』

長野オリンピック開会式の一幕長野オリンピック開会式の一幕

いまからちょうど20年前の1998年に長野県で開催された冬季オリンピックの開会式のフィナーレを飾った『第九』。長野を中心にベルリン、中国、シドニー、ニューヨーク、ケープタウンの5つの拠点で同時に第4楽章「歓喜の歌」を合唱するという史上初となる一大プロジェクトが行われた。当日は日本国内外で活躍する小澤征爾氏が長野県市民文化館でオーケストラ、コーラス、ソリストを前に指揮を執り、その映像と音声を衛生中継で5大陸に送るという試みだった。それに合わせて計1000名もが合唱する迫力のステージは、冬季オリンピックが近づくたびに現在でも語り継がれている。

時差や気象状況による衛生中継の切断など、多くの不安を抱えながらも成功したこの演奏は、世界に日本の技術の進歩を発信するのにも一役買った。

story4.
ベルリンの壁崩壊と自由と祈りを込めた『第九』

レナード・バーンスタイン氏1989年のクリスマス演奏会で中心となったレナード・バーンスタイン氏(左)

1989年11月10日、冷戦の終わりを告げる歴史的な出来事であるベルリンの壁崩壊を祝すため、同年のクリスマスに著名な指揮者である米国出身のレナード・バーンスタインを筆頭に著名な音楽家たちがベルリンに集結した。オーケストラを構成したのは、ドイツのバイエルン放送交響楽団やレニングラード・キーロフ劇場、シュターツカペレ・ドレスデンを始め、ニューヨークフィルハーモニー、ロンドン交響楽団やパリ管弦楽など海外からもメンバーが集まった。第二次世界大戦時にドイツと敵国として戦ったイギリスとフランスからもオーケストラが加わるなど、世界平和の実現に向けた第一歩となった。

このコンサートでは第4楽章の歌詞にある「Freude(喜び)」を「Freiheit(自由)」に変えてうたわれた。

最終更新 Montag, 25 Juni 2018 11:58
 

香川真司インタビュー - ドイツで最も愛されている日本人

ドイツで最も愛されている日本人
香川真司選手

Shinji Kagawa

いま、ドイツで一番有名な日本人、それは疑いようもなくShinji Kagawaである。彼はドイツのサッカー史に確固と名を刻み、ボルシア・ドルトムントのファンはもちろん、ドイツサッカー好きが集まれば、みんなで「カーガーワーシンジー♪」のチャントを合唱できるほど。いつも絶好調だったわけではない。しかし、スタジアムを湧き立たせる凄まじい引力とある種の説得力を持った彼のプレーは、一度見たら忘れられない。2月某日、気温が氷点下に下がった極寒のドルトムントで、私たち取材班はそのスーパーヒーローを目撃した。今回の単独インタビュー取材では、彼がドイツで愛される理由を探る。
(Text&Interview:Megumi Takahashi / i-mim.de, Photos: C.Y.Kervin)

ブンデスリーガ二連覇、プレミアリーグ優勝、アジア選手権優勝、日本代表の10番、昨年ついにブンデスリーガ日本人最多ゴール数も更新(41ゴール)し、控えめに言って日本サッカー界の生きる伝説である。

ピッチ上で躍動する彼の姿は、スタジアムの観客席から何度も見てきた。しかし、同じ目線に立つ「香川真司」を目の前にした印象は、「めっちゃカッコイイ!」だった。浮き足立って申し訳ない。私服で登場した29歳の彼は、無邪気なサッカー少年ではなく、紳士的な大人の男性だったのだ。取材や撮影は、慣れてきたけど得意ではない、と本人は言う。しかし、静かに発せられる言葉は、しなやかな芯の強さを持つ。

どんな時も同じ気持ちで

香川真司がいかに日本、ドイツ、世界から注目されている選手であるかを証明するのに苦労はない。身近なところでは、ツイッターに約150万人、インスタグラムに120万人、フェイスブックで293万人のフォロワーを擁している。リアルな世界でも、バーチャルな世界でも絶大な影響力を持つ彼は、他者から絶えず寄せられる「期待」とどう向き合っているのだろうか。

あまり「期待」っていう言葉は使わないかな。でもまず、他者からの期待については全然気にしていないですね。もちろん、期待もあれば、逆に「期待されない」ということもあるわけで。ましてや結果が出なければ批評を受ける世界、メディアの報道も含め、そこはもう人それぞれ感じ方が違うものだと割り切っています。もちろん、メディアの皆さんが盛り上げてくれたり、ファンの皆さんに応援いただいて、ポジティブな期待を感じながらプレーできることは嬉しいことだと思っています。

1989年、兵庫県神戸市に生まれ、4歳からサッカーにはまっている。地元のユースクラブを経て、中学に進学する12歳の時に宮城県仙台市にあるFCみやぎバルセロナへのサッカー留学を決意。そこで個の能力を伸ばし、2006年セレッソ大阪に移籍して16歳でJリーガーに。高校卒業前の選手とプロ契約を結ぶというこの異例のスカウトが、若き日の香川に寄せられた期待の高さを物語っているが、本人は「子供の頃から飛び抜けた才能を持っていたわけじゃない」と言う。

別にそこまで自分自身に期待していることはありません。本当に、日頃の積み重ねというか。その日やるべきことを、試合でできることを、自分自身のストロングポイントを発揮するために日々取り組むだけだと思っているので……。

やっぱりサッカーは、すべてが上手くいくスポーツではなく、ミスがほとんどのスポーツなので、自分自身に対して変な期待感を持つのはあまり良くないことかな。一つ一つのプレーに対して失望したり、責めるのではなくて、どんなプレーに対しても同じ気持ちでやり続けないと。サッカーは90分間のスポーツで、前半と後半があり、試合の流れがあり、勝っている時間帯があり、負けている場面があり、刻一刻と状況が変わってくる。だから、どんな状況にも対応できるようにと、そういう準備をしています。

2010年、セレッソ大阪の象徴である背番号8番を背負っていた香川は、ブンデスリーガ1部のボルシア・ドルトムント(BVB)からのオファーを受け、育成補償金35万ユーロ(約4000万円)で移籍。そこからユルゲン・クロップ監督の下で、リーグ二連覇。2011年にはリーグ戦とドイツポカールのW優勝というBVBの歴史に残る快挙を成し遂げ、2012年に英国プレミアリーグの名門中の名門マンチェスター・ユナイテッド(マンU)に移籍した。移籍金は約16億円と報じられ、このシンデレラストーリーにドイツのチームは一層、日本人選手の獲得に力を入れることとなった。

英国に渡り、マンUに在籍していた間もドイツ国内では常に「香川待望論」が渦巻いていた。「どれだけ愛されているんだ香川真司……!」と、香川がドイツに刻んだ歴史の意味を、彼がドイツを旅立った後に再認識することとなった。

彼の実力を信じるクロップ監督とスポーツディレクターのミヒャエル・ツォルク、サポーターたちの想いが届き、再びShinji Kagawaがドイツに帰還したのが2014年のこと。昨年は、2020年までの契約延長が発表され、香川とBVBの特別な関係はこれからも続く。

香川真司

自分に起こることには、必ず意味がある

「挫折をしたことがない」と香川は言う。彼の半生はしかし、良くも悪くも半端なく振り幅の大きいものであったはずだ。19歳で初召集され、中心選手となった日本代表でも。プロの選手として平常心を保つため、彼の心の中ではどのような気持ちの整理が行われているのか。

「失敗したシーズン」とか「上手くいっていなかった」とか、そういうことを言われがちなんですけど、そういうものもすべて自分の経験ですし、自分に返ってくるものなので、いくら上手くいかないシーズンがあったとしても、そのシーズンがあったからこそ、今の自分がいると思っています。その過程で、「挫折」したと(周囲からは)言われることもあるかもしれない、でも結果論として、今こうやってその経験がプラスアルファとなって自分に返ってきているので、意味のないことは絶対にないです。自分に起こることには、必ず意味があるし、そういうものをどう未来に繋げていくかという前向きな考え方は、確実に必要なのかなと思います。

もちろん、僕自身も落ち込むことも、思うようにいかなくて悩むこともたくさんある。でも、それを投げ出してしまえば終わりですし、どんなに紆余曲折しながらでもやり続けることに意味があると思っています。そうすることで、答えっていうのも少なからず見えてくることもあるので。諦めないことが大事なんじゃないかなって思っています。

香川真司

ドイツ、欧州は僕にとって最高の環境

それにしても、ドラマを生む男である。ブンデスリーガで最も熾烈なライバル関係にある、ボルシア・ドルトムント対シャルケ04のレヴィアーダービーという大舞台。香川はこれまで、ダービー戦9試合に出場し、通算4ゴールを記録。ダービーヒーローとして見せる香川のプレーは、BVBサポーターの心を鷲掴みにして離さない。

特にドルトムントへの移籍から間もない2010年9月19日のシャルケ戦では、いきなり2ゴールを挙げる活躍を見せ、大げさでなく香川フィーバーが発生した。香川自身もこの試合を、「運命を変えてくれた一戦」と振り返っている。ドイツで、すでに一つの夢を叶えたと言えるのではないだろうか。

もちろん、欧州でプレーすることが昔から自分の夢でもあったので、そういう意味では、夢は叶ったんじゃないかなと思っています。

おそらく、住み慣れた場所で、友だちがいて、食事や言葉に不自由しない、そういう場所が生活する上ではベストなのかもしれません。でも、サッカー選手としては、サッカーの本場である欧州を目指したい。日本でプレーしている中で感じられるものと、欧州で感じられるものとでは幅が違いますし、日本では掴めないものがあります。

ましてや、外国人としてチームに入り、周囲には日本人もいない、そこで自分の評価を自分で高めていかなきゃいけない、そういうことをどうにか達成していく日々。少しでも達成できた時の嬉しさが自分自身を一人の人間としてさらに強くしてくれると思います。本当にやりがいしかないですし、サッカーのレベルを含めて、ここはサッカー選手としての僕にとって最高の環境。成長し、もっと上に行くために、なくてはならない環境だと思っています。

いずれにしても、厳しい環境であることは間違いなくて、サッカー選手というジャンルを問わず、欧州を始め世界中で生活している方、皆さんのことをリスペクトしています。

まだまだ上を目指すサッカー選手として、欧州と日本の一番の違いは、歴史が育んだ文化としてのサッカーが根付いているかどうかだと香川は感じている。

欧州に来て、サッカーが一つの文化として成り立っているんだなということを、肌で感じます。ここでは、サッカーやスポーツが生活の一部になっている人が本当に多くて、週末になればユニフォームを着た人たちが街に溢れ、スタジアムに来て、自分たちが生まれ育ったチームを応援しています。それがもう、代々受け継がれていく。おじいさん、おばあさん、お父さんから子供に。そんな風に良いサイクルで回って、文化として成り立っているので、サッカーの与える影響力は凄まじいです。それくらいの影響力を持ち得るスポーツなんだということを、改めて認識しました。

だから、日本のサッカーも、それくらいの影響力を持って欲しいと思っています。ただ、プロ化してからまだやっと四半世紀という現状を考えれば、いきなり欧州のように文化として根付くのは、それこそ不可能に近い。やはり地道な努力と、あとは、選手がどんどん世界に出ていって、日本サッカーのグローバル化を進め、世界というものに焦点を当てて活躍できるようになっていければ、日本でもサッカーの価値がどんどん上がっていくんじゃないかなと思います。

香川が2010年にドルトムントへの移籍を決めた理由の一つが、BVBが誇る「黄色い壁(南スタンド)」の存在だったという。初めてピッチ上から黄色い壁を見た時の印象について語ってもらうと、目が輝きを増した。

すごく圧倒されました。そして、それは何も初めての時だけのことではなくて、まったく見慣れることはありません。試合をやるたびに、素晴らしいサポーターと雰囲気を生み出してくれるスタジアムだなと感じています。

やっぱりね、サポーター無くして、これだけの歴史は生まれてこないんですよ。彼らのつくるスタジアムの雰囲気、応援があるからこそ、素晴らしい試合が生まれる。黄色い壁の前に立つ時は、本当にサポーターあってのチームなんだなっていうことを再確認できる瞬間でもあり、サッカー選手として幸せだなと思います。

1909年に創設されたボルシア・ドルトムントの100年以上の歴史で、ブンデスリーガ制覇は8度、ドイツポカール優勝が4度。そのうちリーグ優勝2回、ポカール優勝2回に香川は貢献した。

昨年はドイツポカールで久しぶりに優勝して、やはり素晴らしいものだなと感じ入りました。リーグ連覇して、ポカールも優勝してW優勝した2011/12年。あの頃、僕たちはまだまだ若くて、加入してから2年連続で優勝できてしまった。逆に言ったら、あんまり苦労もせずに勝ち取れたものだった。

でも、それから自分自身のキャリアを積んで行く中で、優勝する、勝ち続けることの難しさを経験して、あの時の二連覇の価値というものが、今さらに、年が経てば経つほどに、感じられる部分があります。やっぱり、すごいことを僕らはやり遂げたんだなと。もちろん、まだまだ現役なので、そこまで浸るつもりはないですけど(笑)。だからこそ、もう一度チャレンジしたいです。

浸りすぎてはいけないかもしれないが、ブンデスリーガの歴史をまとめた一冊『50 JAHRE BUNDESLIGA 1963-2013』の2011/12年のページからも、一言引用したい。

Die Titelstory des BVB wär nicht
komplett ohne Shinji Kagawa.
by Carsten Germann

香川真司なくして、
BVBの連覇は成し得なかっただろう

香川真司から発せられる言葉は、想像していた以上に自然体でシンプルだ。しかしその裏には、2017年の欧州CLモナコ戦直前の選手バス襲撃事件があり、度重なる監督の交代とポジション争いがあり、今年のW杯出場の有無があると思うと、計り知れないものを感じ、ひれ伏したくなる。飽くなき挑戦者、それが香川真司の真髄だった。

あっという間に取材の持ち時間をオーバーし、直接伝えられなかったので、この場をお借りして香川選手に「ありがとう!」と伝えたい。

彼は、私たちに夢を見せてくれた。ドルトムントでの優勝パレードに参加した日、日本人はみんな「香川の兄弟姉妹か?お父さんか?」とジョークを飛ばすドルトムントサポーターに暖かく迎え入れられ、香川チャントを歌いながら肩を組み合った。黄色と黒とビール臭さに埋もれながら、サッカーは人を繋ぐことに長けたスポーツだと知り、筆者は大げさでなく、世界平和の夢を見た。

サポーターはスタジアムに何を見に来ているのか。勝ち負けだけでは計れない人生の不条理と喜びがそこにはあり、観衆は選手たちに夢を託す。香川真司はその夢のきらめきを見せるプレーヤーだ。ドイツで日本で世界中で彼が愛される理由もきっとそこにあるに違いない。

※敬称は省略させていただいています。

最終更新 Montag, 07 Mai 2018 15:04
 

日本映画祭 第18回ニッポン・コネクション

日本映画祭 - 約100作品が集結!
第18回
ニッポン・コネクション
2018年5月29日(火)〜6月3日(日)

5月29日(火)から6月3日(日)まで、6日間にわたって日本映画と日本文化の祭典、「ニッポン・コネクション」が開催される。今年も幅広いジャンルの日本映画や伝統的な日本カルチャーがフランクフルトに集結。

ニッポン・コネクション

今年のハイライトは是枝裕和監督作が手掛けたサスペンス映画『三度目の殺人』や今年のベルリン国際映画際で国際批評家連盟賞を受賞した行定勲監督による青春映画『リバース・エッジ』など、日本でも高い人気を誇る監督たちによる作品が集結。

三度目の殺人是枝裕和監督作が手掛けたサスペンス映画『三度目の殺人』

リバース・エッジ行定勲監督による青春映画『リバース・エッジ』

アニメーションファンにおすすめなのが、独特の世界観を表現する湯浅政明監督による『夜明け告げるルーのうた』と『夜は短し、歩けよ乙女』。両作品とも今回がドイツでのプレミア上映となる。また、ドキュメンタリー映画では、2017年の東京国際映画祭で上映された戸田ひかる監督による『Of Love & Law』や、日系アメリカ人の禅僧、ヘンリ・ミトワ氏の一代記となる中村高寛監督作『禅と骨』がラインナップ。

日本文化のセクションでは、パフォーマンスやコンサートを通してさらに日本を掘り下げていく。キッズプログラムでは、こいのぼりのワークショップが行われたりと、日本映画と共に日本の伝統的なカルチャーが楽しめるのもニッポン・コネクションならではの魅力だ。

開催場所

Künstlerhaus Mousonturm、Theater Willy Praml in der Naxoshalle, Mal Seh’n Kino, Kino im Deutschen Filmmuseum, Atelier Naxoshalle, Ausstellungsraum Eulengasse

チケット・詳細

詳細やチケットに関する情報は、下記の公式サイトをチェック!
www.NipponConnection.com

ニッポン・コネクション

ニッポン・コネクション

最終更新 Freitag, 04 Mai 2018 05:46
 

ドイツでの学校選び - 日・独間で育つ子供の未来を考える

日・独間で育つ子供の未来を考える ドイツでの学校選び

日本とドイツ、2つの国を行き来する子供たちには無限の可能性がある。デジタル化によって変化が加速する時代を生き抜き、人生の苦楽を知り、心身共に健康に……と、子を思う親の悩みは深い。ドイツでの教育の機会やそれぞれの学校の特色を知り、十人十色の子供たちと向き合いながら一歩ずつ進んで行こう。学校を選ぶということは、人生に何が必要かを親と子が一緒に考えていくことだと信じて。(Text&Interview:Megumi Takahashi / i-mim.de)

ドイツの教育を知る基礎知識

「ドイツの教育システム」というものは存在しない。16の州からなる連邦国家ドイツには、16の異なる教育システムがある。ここでは、一番人口の多いノルトライン= ヴェストファーレン州の学校制度を例に上げ、ドイツの教育制度のベースとなっている考え方を掴もう!

1. Elementarbereich 幼児教育

就学前の児童が通う幼稚園や保育園。通園は義務ではないが、3歳から6歳の児童の90%以上が通う。

2. Primarbereich 初等教育

ドイツの義務教育の開始年齢は6歳前後。NRW州では9月末に6歳になる生徒を基礎学校(Grundschule)に入学させる義務がある(言語発達によって1年遅らせることも)。入学する学校の選択は保護者に委ねられており、学区による指定校はない。英語教育は1年生から、成績がつくのは3〜4年生。卒業後の進路は、成績や学習への取り組みをもとに小学校から推薦書を受け、保護者の希望を加味して決定する。

  • ベルリンとブランデンブルク州では6年制を採用
  • 英語など外国語の学習が始まる時期、採点が始まる時期も州によって異なる

3. Sekundarbereich I 中等教育1

伝統的なハウプトシューレ、レアルシューレ、ギムナジウムに加え、ゲザムトシューレやゼクンダーシューレなど、統合学校も増えてきている。学習内容や在籍期間、卒業資格などが各学校で異なる。全日制の義務教育は、中等教育1まで。ハウプトシューレ、レアルシューレ、ギムナジウムは試験に合格すれば編入することも可能。

  • ハウプトシューレ(基幹学校):9年生修了で基幹学校の卒業資格。10年生まで修了すると、中等教育修了資格が得られる
  • レアルシューレ(実科学校):10年生修了で基幹学校の卒業資格と中等教育修了 資格が得られる
  • ギムナジウム:8年制(州により9年制)で、9年生までが中等教育1に当たる。 進級してギムナジウム上級へ
  • ゲザムトシューレ(統合学校):入学に際して、小学校からの推薦書の内容は問 われず、すべての生徒が入学を希望できる。10年生までが中等教育1、進級し てギムナジウム上級へ
  • ゼクンダーシューレ:2011年から統合教育システムとしてスタート。10年生 修了後は、ギムナジウムかゲザムトシューレのギムナジウム上級へ進級するこ とができる

4. Sekundarbereich II 中等教育2

中等教育の後期で、日本の高等学校に当たるギムナジウム上級(Gymnasiale Oberstufe)と、職業訓練や専門教育に重きを置いた専門学校がある。ギムナジウム上級は、中等教育修了(Mittlerer Schulabschluss)の成績が規定以上の者に認められている。ハウプトシューレの10年生を終えた生徒でも、約10%前後が編入している。

5. Tertiärbereich 高等教育

大学に進学できるのは原則、アビトゥアを取得した生徒のみ。アビトゥアを取得すれば、いつでも、どこでも、何度でも大学に通うことができるが、医学、法学、建築学など人気の学科は、アビトゥアの成績がトップレベルに良くないと入れない。また、芸術やスポーツなど入学試験がある学部や大学もある。専門学校や職業カレッジでは、実務と並行しながら専門職の道を目指す。職人業の場合は、マイスター学校へ進むこともできる。

ドイツの教育を知るためのキーワード

Kulturhoheit(文化高権)

なぜ州によって、教育システムが違うの?
ナチスドイツ時代に教育現場や文化施設がプロパガンダに利用されたことへの反省から戦後、西ドイツが採用した各州の文化高権。文化や教育に関わる立法、行政については16ある各州がそれぞれ強い権限を持ち、国は原則として口もお金も出さない! もちろん、ドイツ全国共通の学習指導要領や年齢別の目標があり、州はこれを参考に教育政策を行っている。

Abitur(アビトゥア)

10歳で将来が決まるって本当?
伝統的なドイツの教育制度では、大学への入学に必須の資格アビトゥアの受験資格はギムナジウムの生徒にしかなかった。しかし教育改革が進み、統合学校などアビトゥアの受験資格を得られる学校が増え、大学進学への道は確実に広がっている。つまり、必ずしも10歳の学校選択ですべてが決まってしまうわけではない。高学歴思考は高まってきているが、ドイツの教育で最も重要とされているのが職業教育。

PISA-Shock(ピサ・ショック)

ドイツの国際的な学力水準は?
経済協力開発機構(OECD)が2000年から3年ごとに実施している学習到達度調査(PISA)。32カ国が参加した第1回調査の結果、ドイツは読解で21位(日本8位)、数学と科学で20位(日本1位・2位)と不本意な結果に。その後、移民の子供を対象とした就学前教育の強化、伝統的な学校制度の見直しなどの改革が進み、2015年調査では読解11位(8位)、数学・科学16位(5位・2位)に上昇!

Inklusion( インクルージョン教育)
Integration(統合教育)
Digitalisierung(デジタル化)

ドイツの教育現場の課題とは?
障害を持つ子供たちを普通学級で教育するインクルージョン教育、難民や移民の増加に伴って重要性の高まる統合教育、教育現場のデジタル化などが課題。問題は、それらに対応する教師が不足していること。現在、教職に就いている教師の4割が50歳以上。その割合がテューリンゲン州では63%に上る。教師の育成がドイツ教育の最重要課題だ!

ドイツでの学校選び

日本人学校、インターナショナルスクール、現地校……どの学校を選ぶべきか、ポイントとなる部分を、それぞれの学校を選んだ保護者の声や学校関係者のインタビューからご紹介しよう。

A 日本人学校

  • 数年以内に日本に帰国する予定
  • 日本での進学・受験の準備をしっかり進めたい
  • 母国語である日本語の教育を重視している
  • 日本の教育方法や内容を評価している

Bインターナショナルスクール

  • 海外を含む転勤が多い
  • 国際感覚、国際言語としての英語力を養いたい
  • 英語圏の大学進学を目指している
  • 教育費が高額であっても子供のために投資したい

C現地の公立学校

  • ドイツに永住、または長期滞在する予定
  • ドイツ語の学習、ドイツ社会への参加を重視している
  • 公立の学校の場合、大学まで授業料が無料
  • ドイツの職業と密着した教育システムを評価

D現地の私立学校

  • ドイツに永住、または長期滞在する予定
  • 学力のみを重視せず、その子に合った教育法を探してみたい
  • ドイツ語の学習を重視している
  • エリート教育が子供の未来に役立つと考える

A日本に帰国する予定がある生徒の進路候補No.1
日本人学校

学期:4月始まり
費用の目安:年間約5000ユーロ(国や地域、学校によって異なる)

日本国内の小・中学校と同等の教育を行う目的で設置されている全日制の学校で、文部科学大臣が認定した学校。ドイツ国内には、デュッセルドルフ、ハンブルク、フランクフルト、ベルリン、ミュンヘンの5カ所に設置されている。日本に帰国後、スムーズに転校や進学ができる。

「生徒の安全、安心、健康のため」
デュッセルドルフ日本人学校 
Japanische Internationale Schule e.V. in Düsseldorf

全日制の学校としては欧州北米地域で一番古い歴史を持つ日本人学校が、ここデュッセルドルフ日本人学校。小中学部を合わせた生徒数は500人弱。欧州のリトルトーキョーとして知られる当地には日系企業が集積し、大多数の生徒が現地に駐在することになった家族の都合でドイツに引っ越してきている。小中学校合わせて9年間通い、卒業する生徒は非常に少なく、平均で3年ほど在籍した後、各地へ転校していく。ドイツで生まれ育った生徒も、ギムナジウムに進級する前に現地の学校へ進むことが多い。

デュッセルドルフ日本人学校デュッセルドルフ日本人学校

「ここでは、生徒みんなが転校生の経験があるので、新しい仲間を温かく受け入れる土壌ができています」と、事務局長として11年間この学校を見つめてきた木田宏海さんは言う。異国での不慣れな生活の中で、日本人学校が生徒と保護者の心の拠り所となっている。

事務局長の木田宏海さん事務局長の木田宏海さん

日本人学校の教員の8割が日本の公立学校から派遣されてきており、運営母体は私立だが、教育は日本の教育指導要領に従い、公立から派遣された教師から受ける。NRW州によって補充校(Ergänzungsschule)に認定されており、同校に通う生徒はドイツの義務教育を満たしていると認められる。

国語の授業のほか、小学校1年生からドイツ語の授業がスタート、英語は3年生から。ドイツ社会との接点を持つ課外活動にも熱心だ。「もちろん、日本人学校に通うだけでドイツ語も英語もペラペラになるということではありません。だけど、せっかくドイツに住む機会を得たのですから、生徒の記憶に残る経験を」と、現地の学校やコミュニティーとの交流も盛んだ。日系企業での職業体験や、スポーツ選手や宇宙飛行士など、第一線で活躍するプロフェッショナルを招待しての講演会など、デュッセルドルフという立地を活かしたイベントにも力を入れている。

卒業生の進路には名門国立、私立学校がずらりと並び、海外での経験を糧に卒業生に研究者やアナウンサー、国際的に活躍する人物が多数出ていることも、在校生に夢を与えている。

卒業生の活躍卒業生の活躍

B英語力を養い、多国間を行き来する国際的な生徒に
インターナショナルスクール

学期:夏学期からスタート
費用の目安:年間約2万ユーロ(国や地域、学校によって異なる)

いくつもの国の出身者が在籍し、英語で授業が行われる。国際バカロレア資格などを持つ国際的な教育機関。ドイツ各地に約20カ所ある。英語、ドイツ語のほかにも、日本語など外国語科目の選択肢が多い学校もあり、言語学習の面のみならず、手厚いサポートが受けられる学校が多い。

「アットホームなハイテクキャンパスへようこそ」
ISRインターナショナルスクール・オン・ザ・ライン 
ISR International School on the Rhine

2002年に創業したISRインターナショナルスクールは、デュッセルドルフやケルンに近いノイスという街にモダンでハイテクなキャンパスを構えている。デュッセルドルフ西部のオーバーカッセル地区と学校を行き来するスクールバスもあり、片道15分の距離。

ISRインターナショナルスクール・オン・ザ・ラインモダンでハイテクなキャンパス

現在、幼稚園児から12年生まで世界40カ国出身の約760名の生徒が学ぶ全日制の学校生活の共通言語は英語。ドイツ語も必修科目だ。初級から上級まであらゆるレベルの英語学習を受けられ、英語力に課題がある生徒にはブースターレッスン(無料の英語レッスン)で、言語習得を促す。

多彩な教師、講師陣も魅力の一つ。元プロのサッカー選手カーステン・バウマンなど、各分野のトップランナーを迎えている。

日本人の生徒との結びつきも強い。日本人教師が、全学年の生徒にハイレベルな日本語教育を提供(1〜5年生は週に1度、6〜10年生は3回、11・12年生は3〜5回)。エッセイとプレゼン能力の向上に焦点を当て、言語能力と理解力を磨く。

ISRインターナショナルスクール・オン・ザ・ライン日本人教師がハイレベルな日本語教育を提供

大学進学に向けた教育システムSABIS®のライセンス校。生徒一人一人に対する充実した個別サポート、希望するキャリアに応じた多様なカリキュラム・プログラムを提供できるのが強みだ。卒業生は大学入学資格として世界的に認知されているIBプログラムで優秀な成績を残しており、世界各国の名門と呼ばれる大学に進学をしている。ドイツ国内の大学進学を希望する生徒には、「Allgemeine Hochschulreife」としてIBディプロマを授与される。

また、デジタル化に向けても積極的に設備を整えており、電子ブック、バーチャルリアリティーゴーグル、3Dプリンター、インタラクティブホワイトボードなどを授業に取り入れている。

ISRインターナショナルスクール・オン・ザ・ラインデジタル化に向けても整った設備

学問と並び、人格形成も大切なテーマ。リーダーシップや責任感を養う機会としてのサマースクールや休暇キャンプなど、夏休みのプログラムも多数。在籍平均年数は7.5年間と長く、同級生とインターナショナルな友情を育むことができる。

Cドイツ社会の中で生きる力を身に付けるなら
現地の公立学校

学期:夏学期からスタート
費用:無料(教材費、実費は別)

ドイツでの生活が長くなる予定で、親もドイツ語でのコミュニケーションに抵抗がなければ、ドイツの公立学校への進学を検討してみよう。ドイツの学校は基本的に学費が無料。

「10歳で将来が決まる」「義務教育から大学まで授業料無料」「マイスター制度が根付く国」と、ドイツの教育制度についてのイメージはいろいろあるが、上記で解説した通り、ドイツは複線型の教育制度となっている点が、日本の単線型(6・3・3制)との一番の違い。教育改革により、進路選択は柔軟になってきているが、学校内での競争は激しい。希望する進路先に入学するには、良い成績を残さなければならない。入学試験のないドイツには一発勝負の受験勉強のプレッシャーこそないものの、毎日の取り組みが問われるシビアな学校生活がある。

ドイツの教育が最も重視していることは、すべての生徒が将来、経済的に自立できるようになることだと考えると理解しやすい。教育のテーマとして自己肯定力も大切にされている。どの学歴を経るにせよ、新卒採用のないドイツでは就職の際には即戦力と専門性を求められるため、学生のうちからインターンなどを通して職業体験を積んでいく必要がある。  

一方で、数年後、数十年後には今ある職業の多くがなくなるともいわれる時代に、既存の職業教育では立ち行かないとの危機感も高まっている。新しい時代に必要な力を育てる教育とは。ドイツ経済を支えてきた教育システムは今、まさに岐路に立たされている。

D子供の個性や能力を伸ばす教育を
現地の私立学校

学期:夏学期からスタート
費用の目安:年間約6000ユーロ(学校によって方針に大きな違いがある)

シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、自然教育、エリート・インターナート、教会系、職業訓練に力を入れているところなど、いろいろ。いま、ドイツでは私立の学校が増えてきている。

経済的な理由によって教育機会の平等が奪われないようにと公立学校が充実しているドイツにおいて、私立学校はまだ少なく、私立学校に通う生徒は全体の約1割。とはいえ、その数は急増しており2000年から2016年の増加率は43%に上る。

移民問題や教師不足などを背景に公立学校の教育の質が疑問視されている中で、少人数制の質の良い教育をうたう学校もあれば、成績重視の教育のあり方に疑問を持ち、もっと伸び伸びと子供を育成したいという願いの下に作られた学校もある。

ドイツで一番有名な私立学校は、日本ではシュタイナー教育として知られる、オーストリアの思想家ルドルフ・シュタイナーの「教育芸術」を実践するヴァルドルフ学校。教科書を使わない、成績をつけない、子供の全人格を成長を促す教育に取り組んでいる。

モンテッソーリ教育を実践するモンテッソーリ学校は、「感覚教育」を重視。自主性や個性の尊重、自分で学ぶ力を育む。伝統的なカトリック学校、プロテスタント学校、インターナートと呼ばれる寄宿舎での寮制の学校も存在する。

私立学校の増加と共に、教育の質が必ずしも高くない学校があることや、高所得家庭や、ドイツ人家庭の割合が多いなど生徒の多様性に欠けることなども指摘されている。

最終更新 Montag, 13 September 2021 15:51
 

香川真司選手も登場!ボルシア・ドルトムントと日本企業交流会

香川真司選手も参加! ボルシア・ドルトムントと
日本企業交流会レポート

2018年4月17日デュッセルドルフにあるMAZAK Technology Centerにて、ブンデスリーガ一部のボルシア・ドルトムント及び、マーケティング会社「ラガルデール・スポーツ」主催の日本企業との交流会が開催されました。

チーム代表のカルステン・クラマー氏はジョークを交えながら場を和ませる進行で会場を盛り上げる中、在デュッセルドルフ日本国総領事館の水内龍太総領事も駆けつけられ、チームへ応援のメッセージを述べられました。

左からカルステン・クラマー氏、水内龍太総領事、香川真司選手左からカルステン・クラマー氏、水内龍太総領事、香川真司選手

そんな折にチームの「期待の星」、香川真司選手が登場し、会場は一層盛り上がりをみせます。チームから総領事にユニフォームのプレゼンする場面があったり、ボルシア・ドルトムントのファンである小さな子供やその家族も参加しての写真撮影やサイン会、抽選会などが行なわれました。終始リラックスした雰囲気でイベントは幕を閉じました。

最終更新 Montag, 24 Juni 2019 13:23
 

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