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仙台市の奥山市長が「ドイツ持続可能賞 名誉賞」を受賞

日本人初の栄誉 Deutscher Nachhaltigkeitspreis 2012 仙台市の奥山市長が
「ドイツ持続可能賞 名誉賞」を受賞

Deutscher Nachhaltigkeitspreis今を生きる我々の生活の発展だけでなく、未来を見据えることでより豊かな社会のあり方を模索する時代に突入した21世紀。環境問題やエネルギー問題を論じる際、特に重視される概念が「持続可能性」だ。そのことを象徴するように2008年に設立された「ドイツ持続可能賞」では昨年、仙台市の奥山恵美子市長が、震災復興の取り組みを評価され、日本人として初めて「名誉賞(Ehrenspreis)」を受賞した。仙台市とドイツ持続可能賞を結び付けた東日本大震災後の取り組みについて、奥山市長にお話を伺った。(Text: Megumi Takahashi)

ドイツ持続可能賞とは?
2008年から毎年、持続可能な社会の実現を促すために活動した個人や企業、団体に賞を授与している。名誉賞は国際レベルで持続可能性に多大な貢献をした人に授与され、過去には、英国のチャールズ皇太子も受賞(2008年)した。 www.nachhaltigkeitspreis.de

ドイツ持続可能賞 名誉賞
ペトラ・ロート氏(前フランクフルト市長)と
奥山市長(左から)

ドイツの国会議事堂のガラスのドームを手掛けるなど、建築によって持続可能性を実現するノーマン・フォスター、1960年代に人気女優として上り詰め、現在はユネスコ親善大使として活動しているクラウディア・カルディナーレ、政治・社会運動に積極的な取り組みを見せるスコーピオンズやディ・プリンツェンらスターに並び、ドイツ持続可能賞の名誉賞を受賞した奥山市長。

2012年12月6日、約1200人のゲストが見守る中、奥山市長が「『杜の都』と呼ばれる仙台の緑は津波によって奪われてしまいましたが、再び1本1本、木を植えています……市民が希望を持てるように復興を進めることが私の仕事」「震災を通して持続可能な都市計画の重要性を実感した」とスピーチすると、大きな拍手が会場を包んだ。


受賞の一報を受けてどのような感想をお持ちになりましたか?

奥山市長:大変名誉なことです。特に、ドイツは環境問題に関して様々な先進的な研究や試みをしている国。我々としてもドイツを目標としてきた面もあります。そのドイツから、「これからも頑張れ!」という趣旨も含めて賞をいただいたということは、大変励みになりました。

仙台市内だけでも、死者・行方不明者を合わせて約1000人、建物の被害は10万戸以上に及んだ東日本大震災後の復興計画。これまでの都市計画との決定的な違いはどこにありますか?

奥山市長:1つは、津波に対する考え方です。日本では戦後、大規模な工事を行い、あらゆるところに巨大な堤防を造りました。これによって、海岸沿いに家を建てても人命が失われるようなことはないだろうと考えられてきたのです。それは、相当に浅はかな考えだったわけですが、改めて、いくら文明が進んでも自然災害をすべて防ぐことはできない、大規模災害に際しては基本的に逃げるしかないのだと、基本的な価値観を変えたところが大きいと思います。

また、都市生活が、いかに電力や燃料に依存していたかということも実感させられました。電気がないと、エレベーターも動かないし、水道も(上の階には)供給されない。停電することが悪いのではなく、我々の生活が、潤沢なエネルギーが供給されることを前提として成り立っていたことが問題です。そのライフスタイルそのものが、甘かったのです。これからは、今よりもはるかに低いエネルギーレベルでも最低限の生活が成り立つよう、地域全体で使用するエネルギー量を下げた「スマートシティー」のような新しい街を作っていこうとしています。

新しい街づくりに、「コミュニケーション」というキーワードも掲げられていますね。

奥山市長:日本では、昔から「向こう3軒両隣」という考え方があり、人と人が交流することを前提とした社会に生きてきたはずです。この災害をきっかけに、もっとコミュニケーションを楽しむ街づくりを考えても良いのではないかと思います。今回の災害で、一番素晴らしかったのは市民の力。災害は、大規模になればなるほど、第一に人命救助、ライフラインの回復と問題が山積し、自治体や国は、すぐに市民の側に行くことができないのです。その間は被災された方同士、お互いに協力しながら暮らしてもらわなければならない。今回は、奇跡的にそれができたんです。

授賞式
(左から)シュテファン・シュルツ・ハウスマン氏(ドイツ持続可能賞ファンデーション理事長)、
ロート氏、奥山市長、通訳者、ディルク・エルバース(デュッセルドルフ市長)

暴動など、目立った混乱が起こらなかったことが、海外では注目されました。

奥山市長:そこには、日本の町内会という仕組みがあるのではないでしょうか。仙台は、大都市であるにもかかわらず、町内会組織率が約90%。ある地域に住む人が、半強制的に参加する町内会という特殊な団体が、今も一定の権威を持っていることが、初期の避難所の運営に役立ちました。色々ご不満もあったでしょうが、誰一人、暴動や空腹によって避難所で命を落とす方がおられず、10万人の被災者が支え合って、最初の1週間以上を生き延びてくださった。その間に電気が回復し、全国からも救援部隊が駆け付けて、避難所が本格的に運営されるようになったのです。

大規模な都市計画は、市民の理解を得る難しさがあると思います。「市民力」を復興の要に掲げる市長にとってはいかがですか?

奥山市長:大きなプロジェクトが動く際には、反対の利害を持つ人がいるものです。スマートシティーに反対される方もいらっしゃいますし、これからも海岸沿いに住みたいと主張される方もいます。しかし、安全に関しては当自治体としてしっかり規制する条例を作りました。海岸沿いなどの指定区域には、これ以上新しい家を建ててはいけないという内容です。一方で、多くの市民が3.11で苦労されたので、自分たちと同じように苦しむ可能性を子孫に残したくない、課題はあるけれども自分たちが新しい方向に足を踏み出し、後の世代が安心して暮らせる社会を、と願っています。そういった面では、市民間で共通の合意形成、前に進んでいこうと気持ちを同じくしていると思っています。

最後に、読者の皆さんに向けて、一言メッセージをお願いします。

奥山市長:ドイツおよび在独邦人の皆様からは、かなり早い段階から多額のご支援をいただきました。改めて、日本とドイツとの繋がりが歴史的に深いものだったことを実感し、感謝しております。また、ドイツからのご支援で特徴的なことは、目的がはっきりしたものだったということ。教育と福祉、そして文化へのご支援を多くいただき、例えば、宮城県内の被災した孤児たちの就学費用に使わせていただいたり、子どもたちが失くした楽器を補充するためにご支援をいただいたりしました。まだまだ、住宅が再建されるまでには時間が掛かると思いますが、あと2年後には、相当の数の方が新しい家に入っていると思います。そういう形で、日本も頑張っています!


2012年のドイツ持続可能賞受賞者リスト
Deutscher Nachhaltigkeitspreis 2012

名誉賞

奥山 恵美子 ノーマン・フォスター クラウディア・カルディナーレ スコーピオンズ ディ・プリンツェン
奥山 恵美子
仙台市長
ノーマン・フォスター
Norman Foster
英国人建築家
クラウディア・
カルディナーレ

Claudia Cardinale
イタリア人女優
スコーピオンズ
SCORPIONS
ドイツのハードロックバンド
ディ・プリンツェン
Die PRINZEN
ドイツのバンド

奥山 恵美子奥山 恵美子
仙台市長

ノーマン・フォスターノーマン・フォスター
Norman Foster
英国人建築家

クラウディア・カルディナーレクラウディア・
カルディナーレ

Claudia Cardinale
イタリア人女優

スコーピオンズスコーピオンズ
SCORPIONS
ドイツのハードロックバンド

ディ・プリンツェンディ・プリンツェン
Die PRINZEN
ドイツのバンド


大都市部門
フライブルク イム ブライスガウ Stadt Freiburg im Breisgau

中規模都市部門
ノイマルクト i. d. オーバープファルツ Stadt Neumarkt i. d. Oberpfalz

小都市部門
ヴンジーデル Wunsiedel

統治&行政部門
ゾーリンゲン  Stadt Solingen

気候&資源部門
アルハイム  Gemeinde Alheim

生活の質&都市構造部門
ライプツィヒ Stadt Leipzig

ユネスコ特別賞 「持続可能な発展についての教育」
ゲルゼンキルヒェン Stadt Gelsenkirchen
最終更新 Montag, 15 Juli 2019 12:33
 

ヴァイオリニスト 塩貝みつる インタビュー

ヴァイオリニスト 塩貝 みつる

ヴァイオリニスト 塩貝 みつる

本物の音楽を求める世界中の音楽家たちが恋焦がれる国ドイツで、「まさか来るとは思っていなかった」(本人談)日本人ヴァイオリニストが活躍している。ひょんなきっかけで、ハンブルクのオーケストラに入団した塩貝みつるさん。彼女は今、東日本大震災の被災地支援団体の運営にも精を出している。偶然の導きとは言え、異国の地で演奏家として地に足を付け、さらに定期的なチャリティー活動もこなすそのパワーは、どこから来ているのだろうか。昨年の暮れ、大掛かりなチャリティーコンサートを終えたばかりの彼女に話をうかがった。(編集部:林 康子)

Mitsuru Shiogai
東京に生まれ、3歳よりヴァイオリンを始める。桐朋学園大学でソリスト・ディプロマを修了。1996年ヴィニアフスキー国際ヴァイオリン・コンクール(ポーランド)、97年パガニーニ国際コンクール(イタリア)、2000年カール・ニールセン国際音楽コンクール(デンマーク)など、数々の国際コンクールでディプロマ賞を受賞したり、ファイナリストに選出される。NHK のFM番組への出演、ソロや室内楽コンサートの ほか、ゲストコンサートミストレス、講師としての日本国内での活動を経て、2004年よりハンブルク・フィルハーモニカー並びにハンブルク国立歌劇場の第1ヴァイオリン・フォアシュピーラリン。

ヴァイオリンを始めたのは3歳のとき。世の著名な音楽家たちが初めて弓を持つのは幼少期と聞くから、きっと音楽一家に生まれ、自然な成り行きで音楽の世界に入ったのだろうと思いきや、自身が塩貝家初の音楽家だという。

母が子どもの頃、学校のオーケストラでヴァイオリンのパートを担当したことがあり、"はまった"らしいんですね。その時の楽しかった記憶から、ずっと子どもにヴァイオリンを習わせたいと思っていたようです。幼少期から始めないとヴァイオリンを弾くための筋肉が発達しないということで、3歳から習い始めましたが、当時の記憶はさすがにないです。ただ小さい頃は、厳しい練習が嫌で嫌で、ストライキしたこともありました。ご褒美のお菓子に釣られて弾いていたくらいです。  

それが、中学校に入ってからかな、自分の中で弾きたいイメージを持ち始めた頃から、音を作り出すことが楽しくなって。通っていた音楽教室で同学年の子たちが上手に弾いているのを見て、「私も!」と思うようにもなりました。音楽一家に育っていたら、弾きたいという意識が芽生える時期も早いのでしょうが、 私は一般家庭に育ったので、ほかの子たちと同じようにテレビドラマも観たし、音楽一筋という極端な方向には行かなかったですね。

音楽以外のことも自然に楽しむバランス感覚を身に付けつつ、大学でソリストの課程を修了し、ヴァイオリニストの道を着実に切り開いていった。ドイツ、スイス、フランス、デンマーク、チェコ、オーストリア、イタリア……と、コンクールで欧州中を巡ったが、それはひたすらキャリアのためというわけではなかったようだ。

私は留学経験がなかったので、コンクールの結果を意識していたというよりも、行く先々の国の文化や風習を体験するのが楽しかったのです。ホームステイをして美味しいものを食べ たり、日本とは全然違う街並みを見たり……。旅行気分だったというわけではありませんが、作曲家が実際に住んでいた場所を見て知ることも、コンクールへの気持ちや雰囲気を作るのに良い刺激になるんですよ。  

特に印象深いコンクールはなく、今振り返ると、空港で荷物が届かず焦ったり、飛行機の遅れで真夜中に到着して途方にくれたりといったことの方が強く思い出に残っています。ただ、コンクールを受けて良かったと思うのは、度胸がついたこと。コンクールって弾く曲の数が多いので、準備がすごく大変なんですよ。さらに人前で弾くということ、しかも競争相手の音がたくさん耳に入ってくる中で自分を制して演奏するというのは、相当な精神力が必要なことなのです。

KIZUNA弦楽カルテット(KIZUNA Streichquartett)
KIZUNA弦楽カルテット(KIZUNA Streichquartett)


日本のオーケストラを受けるつもりだったのに……

プロとして、日本を拠点に忙しく演奏活動に邁進していた日々。ドイツに来るなんて思いもよらなかった。運命の仕業か、師事していたNHK交響楽団のコンサートマスター、堀正文氏の勧めでこの国のオーケストラのオーディションを受けることになったのだ。

日本のオーケストラのオーディションを受けようと考えて堀さんに相談した際、彼に「これまでに多くのコンクールを受けて外国を知っているわけだし、1年だけドイツのオーケストラのオーディションを受けてみないか」と言われ、それならと思って履歴書を送ってみることにしました。ドイツのオーケストラのオーディションは、開催3週間前に招待状が届くシステムで、その段階まで日程が不明なのです。だから招待状を受け取っても予定が合わずに受けられないという状態が続き、ようやくハンブルクのオーケストラのオーディションを受けられることになりました。  

オーディションは「1年限りだから」と、わりと楽な気持ちで受け、できなかったドイツ語もできる振りをしました。演奏中に「もう少しゆっくり、小さく」という指示を受けて「Ja」と答えたものの、きっと「速く」と言っているんだなと勝手に解釈して、すごく速く弾いたことを覚えています。審査員は「この子、ドイツ語できないんだな」と思ったでしょうね。でも、私はコンクールで精神的に鍛えられていましたから(笑)。

見事合格し、晴れてハンブルク・フィル / 国立歌劇場オーケストラのメンバーに。1年後、試用期間が明けて正式採用が決まり、当初の予定から外れて、現在に至るまで所属している。長期的に海外で活動するなど、日本にいた頃には想像もしなかった展開。しかし今は、日本に留まっていたら得られなかったであろう経験ややりがい、手応えを掴んでいる。

やはりドイツは音楽の本場。オーケストラの音の響きはとても勉強になります。また、組織面でも日本は縦社会なので、各団員はコンマスが言うことに素直に従って業務を遂行するという感じですが、ドイツではどのポジションにいる人も納得が行かないことについては、はっきりと異議を唱えます。日本と最も異なる点は、ドイツでは1人ひとりが意見を持っているところだと思います。私も意見を言いますし、ほかのメンバーからも思っていることを素直に言われる方が楽です。それでも、演奏するときは不思議とまとまるんですよね。この間も久しぶり にオーケストラの演奏を聴いてみたら、皆、内輪ではあれほど色々と意見を言い合っているのに、ちゃんとまとまった音が出るものだなと思いました。

オーケストラ内でのポジションはフォアシュピーラリン。コンサートマスターの隣に位置し、日本語では「首席奏者」や「アシスタント・コンサートマスター」などと呼ばれる立場だ。忙しくも充実した日々を送れるようになるまでには、心身を酷使した時期もあった。

コンサートがある日は、午前中にオーケストラで全体練習、夜に本番というパターンで、さらにそのための準備として家で練習したり、それ以外のコンサートや室内楽のための練習をすることもあるので、1日のうちかなりの時間、ヴァイオリンを持っていることになります。来独当初は、オフシーズンには日本へ帰国し、そこでも働いていたことが響いて、腱鞘炎に罹ってしまいました。そのとき、医師にクールダウンする時間が必要と言われ、そこでようやく休むことの大切さ実感しましたね。  

欧州の人たちって、結構まとまった休みを取りますよね。休暇に入ると、楽器屋さんに団員が預けた大量の楽器が置かれるんですよ。分刻みで動いているだろうと思われる偉大な演奏家でも、休暇中は楽器から離れて、しっかり休養していると聞きます。楽器のことを一旦すべて忘れてリセットする時間を作らないと、ハードなシーズンを乗り切れませんから。そのことを、ドイツの人々から学びました。だから休みの日は私も、ただぼーっとしています。

チャリティーコンサート
2012年12月9日に開催されたチャリティーコンサート


写真を撮るときのように、ピントが合った瞬間に弾くのがベスト

音楽家という職業は、俳優に似ていると言う。作曲家が作品に込めたメッセージを読み取り、その想いを自分が表現する。どんな曲にもカメレオン的な精神で挑む中に、好き嫌いの感情は持ち込まない。そこには、徹底したプロ意識が流れている。

1つの曲に取り組む際、学生の頃に学んだ音楽理論に沿ったり、作曲家の生まれ育った背景やほかの作品から着想を得たりしながら曲を読み解いていきます。弾いているうちに徐々に"掴める"ようになるのです。あとは勘ですね。自分がその曲に対して感じたことや抱いた印象にも頼っています。  

ただ、作品との相性が合わなかったり、どうしても作曲家が言いたいことが分からなかったりすることもあります。私は不器用なので、1つ分からないことがあるとすべて分からなくなってしまうんです。そうなると、弾けるようになるまでに結構時間が掛かります。そんなときは、寝かすのみ。もちろん、仕事で演奏する曲は無理にでも弾きますが、自分で選曲できるコンサートの場合は、一旦休ませる。そうしてしばらくするとふっと閃いたり、ほかの曲を弾いている間に「ああ、あの曲はこういう感じなのかもしれない」と思えることがあるのです。写真を撮るとき、ふとピントが合う瞬間ってありますよね。あの感覚です。ピントが合う瞬間を待ち、合った瞬間に弾くのがベストだと思います。根を詰めて弾いているときよりも、肩の力を抜いたときの方が曲を掴めることが多いんですよ。  

また、ドイツに来て良かったと思うのは、ドイツ語や文法を知り、この国の作曲家の作品への理解が深まったことです。文章でも、筆者の言いたい部分が強調されるように、曲の作り方もドイツ語の構造に沿っているような気がするんです。日本にいた頃はぼんやりとしか分からなかった曲のイメージが、ドイツに来て明確になったというか。曲の構成にちゃんと理屈があるんだと理解してから、音の出し方も変わりました。こちらでは皆、太い肉食系の音を出すんですよ!そのことへの理解が 少し深まったような気がします。

オーケストラの一員としての活動に加え、3年前に1回限りのコンサートのため、同僚と共に結成したドイツ人2人、日本人2人のメンバーによる弦楽カルテットが好評を博し、「KIZUNA弦楽カルテット」として現在まで演奏を続けている。折りしも結成3カ月後に東日本大震災が発生し、以降はチャリティーコンサートも頻繁に舞い込むようになった。

弦楽カルテットって、続けるのが難しいんですよ。非常に綿密な音作りが必要で、自由裁量で弾ける範囲が必然的に狭められるので、内輪もめなどで関係がこじれてしまうこともありますからね。だからカルテットだけで音楽活動をするのは、相当大変だろうなと思います。その点、幸いKIZUNA弦楽カルテットのメンバーは全員気の知れたオーケストラの仲間なので、お互いのスケジュールも分かっているし、わりと気楽に弾いていますね。ストレスを抱えず、自分たちが楽しんでいるからこそ、長く続いているのだと思います。ありがたいことに評判が良くて、今は月に1回ないし数回のペースでコンサートを開催させていただいています。

塩貝さんのチャリティー活動はそれだけに留まらず、さらなる広がりを見せている。震災後は、なんとか被災者を支援したいという周囲の人々の声を受け、被災地の子どもたちに楽器を提供する「こども楽器プロジェクト」を立ち上げた。設立に至る過程も、偶然の連続だった。

震災直後、ドイツの友人や知人が「ぜひ寄付をしたい」「チャリティーコンサートを開いてほしい」と日本人である私に申し出てくれて、集めた寄付金を被災地に直接届けてくれないかとお願いされるようになりました。でも、さすがに私はプレーヤーで、そういった活動経験は全くなかったため、どうしたら良いものかと思いつつ、その年の夏休み、「とにかく100%被災地に届けてほしい」と手渡された寄付金を持って、日本に一時帰国しました。そのときにたまたま会った知り合いから、宮城県亘理郡にあった彼の実家が津波に流されて避難生活を強いられているという話を聞き、私が寄付金を預かっているが、どのような団体に渡せば確実に被災地に届くのか分からないと相談を持ち掛けたところ、「じゃあここは1つ、プロジェクトを作ろうか」という話になったのです。  

このプロジェクトでは、ドイツでのチャリティーコンサートを通して集まった寄付金を、亘理郡や石巻市の小中学校に送っています。楽器は、被災地の経済復興を支援するという意味でも、ドイツから送るのではなく、現地の学校が契約している楽器屋さんで購入しています。

チャリティーコンサート
チャリティーコンサート終了後、ハンブルク国立歌劇場総支配人・音楽総監督で
ハンブルク・フィルの音楽監督であるシモーネ・ヤング氏(手前左)、
司会のロジャー・ウィレムセン氏(奥中央)、
ハンブルク独日協会の橋丸榮子氏(手前右)ほか、国立歌劇場の関係者らと


チャリティーで大切なのは、寄付の額よりも心の交流

このプロジェクトの枠内で行ったチャリティーコンサートはこれまでに20回以上。昨年12月には、オーケストラを巻き込んでの大掛かりなコンサートも開いた。オーガナイズに際しては、多くの人に背中を押されている。

これもまた、まさか自分が主体となって動くとは思っていませんでした。ドイツでは、チャリティーコンサートを開く場合、経費はすべて関係者の自己負担となります。楽器を借りる費用から会場の設営、寄付金の送金手数料まで、すべて主催者 の手持ちで、出演者ももちろん無報酬。州立のオーケストラがこれほど大きなコンサートを無償で開くのは、通常ならあり得ません。皆の協力があってこそ実現したイベントです。例えば12月のコンサートでも、ハンブルク・フィルのシモーネ・ヤング音楽監督が協力したいと、色々なアイデアを出してくれましたし、宣伝活動にしても私が積極的に動くというよりも、皆に背中を押されてなるようになったという感じです。本当に不思議なのですが、いい人たちが自然に集まり、皆が繋げていってくれました。とてもありがたいことです。  

今後のプロジェクトの活動として、福島に楽器図書館のようなシステムを作ろうという計画も持ち上がっています。これは、楽器を集めて福島県いわき市へ持って行き、そこで子どもたちに楽器を貸し出すというものです。日本はドイツと異なり、音楽教育を受けるには大金が必要となりますので、それをカバーする形ですね。楽器の維持費を負担したり、内外から演奏家を呼んでレッスンを受けられるようにしたり。原発事故の影響が続く福島では、先が見えない不安で子どもたちが希望を失いかけていますから、そういう子たちに音楽を通して1つ目的を与えられればと思います。

手探り状態で始めたチャリティー活動も軌道に乗り、プロジェクトの今後の展望を語るその声からは、貫禄すら感じ取れる。ドイツの支援者と日本の被災地の間の橋渡し的存在として両国を動き回りながら、音楽家として今、何を感じているのだろうか。

12月のコンサートの中で、楽器を送った学校の子どもたちの声とその楽器を使っての演奏を収録したビデオレターを上映したのですが、そのとき子どもたちがコンサートに参加しているような気持ちになったんです。そこで初めて、被災地との繋がりを実感できました。チャリティー活動で大切なのは、寄付金の額よりも、楽器を届けるためにコンサートを開催したり、送られた楽器で子どもたちが一生懸命練習して音楽を奏でること、人と人との繋がりだと分かりました。2月には、今回のコンサートの様子やハンブルクの風景を写した写真を持って日本へ行き、現地の学校で見せて、またその様子をドイツに持ち帰ろうと思っていますが、そうった繋がりは、支援というより心の交流という感じですね。  

最近、チャリティー活動をしながら考えていたのですが、音楽は人間が作り上げた最も平和的な文化なのではないかと思います。大げさな言い方ですが、言葉よりもずっと平和的に聴く人の心に響くというか。例えば12月のコンサートで上映したビデオレターも、言葉で表現するより、子どもたちが一生懸命音楽を奏でることによって、より一層彼らの想いが伝わってきました。また、被災地で演奏すると、子どもたちの音楽を聴く姿勢に驚かされます。普通子どもって、聴いている途中で飽きてしまうものなのですが、被災地の子は皆、涙を流しながらじっと聴いている。それほど彼らは音楽を欲しているんだと感じます。音楽を通してメッセージを伝えられるってすごいことですよね。私も1人の音楽家として、少しでもそんな最高の文化の一端を担うことができればと思っています。

一般家庭に育った、ごく普通の考え方を持つヴァイオリニストが、思いもかけずドイツに拠点を移し、思いもかけずチャリティー活動に携わることになった。びっくり箱を1個ずつ開けていくかのような人生に、筋書きという言葉はふさわしくないのだろうか。人生、何が起こるか分からないからこそ面白い。将来についての質問に言葉を濁されたのは、予想外の展開に驚きつつもそれを楽しんでいる証拠なのかもしれない。ただ1つ確かなのは、ドイツでの演奏経験、チャリティー活動を通して、塩貝みつるという音楽家の裾野が大きく広がったいうこと。さて、この先、どう進んでいくのか。


ハンブルク・フィルハーモニカー
Philharmoniker Hamburg
www.philharmoniker-hamburg.de

ハンブルク国立歌劇場
Hamburgische Staatsoper
www.hamburgische-staatsoper.de

こども楽器プロジェクト
塩貝さんが所属するハンブルク・フィルハーモニカー / ハンブルク国立歌劇団のほか、ハンブルク・バレエ団も協力し、今後も年1回、同プロジェクトのためのチャリティーコンサートを開く予定。
www.instrumente-japan.de
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KIZUNA弦楽カルテット 公演情報
2013年5月5日(日)11:00  

8~18ユーロ
チケット: 040-35766666
Laeiszhalle Hamburg / Kleiner Saal J
ohannes-Brahms-Platz, 20355 Hamburg
www.elbphilharmonie.de

最終更新 Montag, 15 Juli 2019 15:25
 

現代ドイツの家族事情 - 小林 和貴子

現代ドイツの家族事情 - 小林 和貴子

2004年秋から08年春までの3年半、ゲルマニスティクの学生としてハンブルクの大学に留学した際、クリスマスを現地の友人と一緒に過ごす幸運に恵まれた。05年のことである。その前の年は欧米の友人が皆、実家に帰ってしまい、すっかり孤独だったので、このときの招待はとても嬉しかった。ドイツのクリスマスと言えば、日本のお正月のような、家族で祝う伝統行事。どんな様子なのかと、行く前から興味津々だった。12月24日から27日まで友人と過ごしたが、今思えば、それは現代ドイツの家族事情を反映した日々だった。

イラスト: ©Maki Shimizu

24日:友人の実家(ヴォルフスブルク)にて、彼女の家族(両親、友人とその妹の4人)と夕食。

25日:友人の家族に親戚一同が加わって、午後にゆっくりと時間を掛けて昼食を摂った後、一同でプレゼント交換。私はタオルとティー・カップをいただく。教会には行かなかったが、ここまでは伝統的なクリスマスのイメージに近い展開。

26日:友人の彼氏と合流し、1人暮らしをしている彼のお母様のところ(イツェホー)へ向かい、4人で夕食。同じ頃、彼氏のお兄さんたちは、少し離れたところに住むお父様のところへ。彼氏のお母様宅の居間に飾られていた、絵本の中から飛び出してきたような本物の大きなモミの木の下には、お兄さんたちからのプレゼントが置いてあった。

27日:友人とその彼氏と一緒に、今度はお父様のところへ。ドイツのクリスマスは26日までだが、 彼氏が私たちを連れて行くために、お祝いを1日待っていてくれたのである。お父様の再婚相手とその子ども(再婚相手の連れ子で私たちと同年代の学生)も一緒に、6人で夕食。

イツェホーでの2日目は、やや複雑な家族構成も手伝って緊張をはらむ場面もあった。この場に自分がいて良いものかと、気まずくなったりもしたが、ともかく場違いのような存在の私を受け入れ、オープンに議論してくれた友人の彼氏とそのご家族には感謝したものだ。

私が勤務する大学には、現代ドイツの地域事情を扱うゼミがあるが、2012年度はドイツの家族をテーマにした。日本の場合、結婚して配偶者と一緒に住み、家族を築くというのが、いまだ「幸せな人生」の王道であると、一般的には考えられている。私自身、まだ独身だった頃、お正月には大正生まれの祖母に決まって「誰かいい人はいないの?」と言われたものだが、現代のドイツの場合、結婚はもはや恋愛のゴールではなかったり、恋人以外の人と一緒に住むルームシェア(WG)という形の家族的な共同生活もあったりと、理想のあり方も含めて、家族を取り巻く状況は日本と似て非なるものである。結婚や出産、介護にいたっては、20歳そこそこの学生にはまだ遠い世界の話かもしれないが、恋愛については各々考えがあるに違いないだろうから、そこから話を膨らませれば……と思い、このテーマを選んでみた。

授業で扱った資料の中に、ドイツの未成年の子どもの観点から世帯構成を分類した表がある。あ る研究者の2006年の調査によると、共に暮らす親が実の両親である子どもの割合は72.4%(うち結婚している両親は66.1%)、ひとり親は17.1%、母親か父親とそのパートナー(義親)は 9.1%。私自身はドイツの家族事情を反映したデータとして興味深く読んだのだが、実の両親と暮らす子どもが多い点を指摘した学生が少なからずいたことには驚いた。「なんだ、フツーの家族が多いではないか」と。未婚のシングルマザーや、結婚しないまま共同生活を続けるカップル、再婚などについてばかりゼミで議論してきたため、連れ子やひとり親と暮らす子どもがもっと多そうなイメージだったのに……と言うのだ。

確かに日本でも、離婚も子連れの再婚も今や珍しいことではなくなったが、もとより肝心なのは、 義親あるいはひとり親の家庭で育つ子どもが多い少ないということではなく、親が義理であっても、それ自体が1つの家族のあり方として受け止められていることだ。要するに、現代のドイツでは家族と一口に言っても、色々な人の繋がりとして捉えられるようになっているということだ。結婚をベースにしているかもしれないし、していないかもしれない、血縁関係があるかもしれないし、ないかもしれない。ドイツでは、家族が個人単位で定義される、つまり誰が家族に含まれるかは人によって異なるという段階まできている。両親のどちらかが再婚し、義親と一緒に暮らす子どもにとっては、離れて暮らす生みの親も家族に含まれるだろうが、義親や一緒に暮らす生みの親にとってはその限りではない、といったように。

イラスト: ©Maki Shimizu

さて、ゼミの学生が興味を持った話題に、ドイツでの出会いの場がある。日本のコンパやお見合いに相当するものはドイツにはない。では、ドイツの若者たちはどこで恋人を見付けるのかと言うと、その1つがパーティーである。ドイツでは、誕生日会はもちろん、引っ越しなどのきっかけがあれば、いや、特別な理由がなくても、週末に家やバーに集まって歓談する習慣がある。そのようなパーティーの席には、例えば友人の友人といった形で参加して、自然に様々な人と知り合うことができる。自分の誕生日会に、自分が直接招いていない人が来るというのは、日本人の感覚からすると不思議だが、ドイツの場合、社交の単位はペアになっていて、彼氏や彼女を連れて行くのは日常茶飯事だ。連れは常にパートナーとは限らず、時に友人や兄弟姉妹であったりする。そのような場で共通の友人を通して何度か顔を合わせることで、意気投合して…… といったことが大いにあるのだ。  

ドイツの大晦日は、日本のクリスマスとどこか似ていて、友人同士で盛大なパーティーをするの が通例である。「良いお年を!」は「Guten Rutsch ins neue Jahr!」と言うが、まさにそうしてドンチャン騒ぎをしながら、「新年に滑り込む」 のだ。日本では、恋人とロマンティックなクリスマスを過ごせるかどうかは、それ以前の頑張りに かかっているが、ドイツの場合、年越しパーティーの席で恋人を見付けるなんていう話もあり得るから羨ましい。

もっとも、そこから家族の絆へと一足飛びにはいかないのがドイツの現状である。家族そのもの が多様化する今日、その絆は築きにくくなっているのだろうか。2011年3月の東日本大震災以来、日本では家族の絆が改めて強調されているが、かつて私がドイツのクリスマスに見たものは、家族の形がどのように変わっても、絆が途切れないよう努力する友人の姿であった。

こばやし わきこ

学習院大学文学部ドイツ語圏文化学科准教授。専門はラジオドラマを中心とする現代ドイツ文学とメディア論。著書に『Unterhaltung mit Anspruch. Das Hörspielprogramm des NWDR-Hamburg und NDR in den 1950er Jahren』(LIT Verlag、2009)、 『Reise nach Fantasia』(同学社、2011年;共著)。
最終更新 Montag, 15 Juli 2019 15:36
 

女優 原サチコ

『Die Dreigroschenoper(三文オペラ)』© David Baltzer女優 原サチコ - ドイツで舞台に立つ、私の存在自体が前衛 

「ドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための演劇」を地で行くドイツ演劇界にあって、異質な存在感を放つ女優、原サチコ。鬼才、偉才と呼ばれる演出家たちに見出され、次々に重要な役を演じてきた日本人女優のドイツでの演劇人生を辿ってみよう。カタコトのドイツ語を話す外国人が舞台に上がる、この決して一筋縄ではいかない目標を支えたものとは、何だったのだろうか。(編集部:高橋 萌)

HARA SACHIKO
1964年11月28日生まれ。東京都町田市出身。上智大学外国語学部ドイツ語学科卒。1984年、演劇舎蟷螂で演劇に足を踏み入れ、劇団ロマンチカで名を上げる。1999年、渡辺和子演出「NARAYAMA」のベルリン公演への出演のため渡独。クリストフ・シュリンゲンジーフとの出会いをきっかけにドイツに留まることを決意。2004年から5年間、オーストリア国立ウィーン・ブルク劇場の専属俳優を務め、その後2009年にドイツのハノーファー州立劇場へ移籍。2012年からはケルン市立劇場で専属俳優として活動している。2013年夏、ハンブルク・ドイツ劇場の専属俳優となる。

インタビュー当日、「日本ではアングラ小劇場で活躍し、テレビドラマ出演など活動の場を広げるも、前衛的な演劇を求めてドイツに飛び立った女優……」と、プロフィールの要点を確認しながら、どんなぶっ飛んだ女性がやってくるのかと、ちょっと身構えながらその到着を待っていた。そこへ現れた原さんは、筆者の期待(?)を一見裏切り、その上を行っていた。どういうことかと言うと、「女優」だったのである。舞台で過激に演じても、日常では別の顔。ほんわかと柔らかい笑みを浮かべながら、激動のドイツ生活をさらりと語る。

絶対にクリストフ・シュリンゲンジーフと仕事がしたい

小劇場ブームに沸いた1990年代、劇団ロマンチカの看板女優として人気を集め、舞台にドラマにラジオにと活躍し、日本でのキャリアを着実に積んでいた中、突然ドイツに拠点を移した。

いい人に恵まれて、とても充実した活動をさせていただいていました。でも、私が演劇のキャリアを積んだのは、もともと小劇場。私が芝居に携わったのは、前衛をやりたい、今までになかったお芝居を追及したいという思いからだったんです。それをずっと探していました。そこで見付けたのが、映画監督で舞台演出家のクリストフ・シュリンゲンジーフ。彼の映画を観て、ピンと来ました。私の根底にあるアングラの血が騒いだというか、とにかく絶対に彼と仕事をしたい! そう思うようになったんです。

35歳で、海外初挑戦

そんな時、新国立劇場で出演した『羅生門』の演出家・渡辺和子さんがベルリンでの仕事を控えていて、そこに出演する機会に恵まれたんです。1カ月のベルリン滞在中、口を開けば「クリストフ・シュリンゲンジーフをご存知ですか? 彼に会いたいんです!」と、ラブコール。同じベルリンにいるのなら、会わずに帰れないという気持ちでした。

その熱意が奏功し、共演者がシュリンゲンジーフ氏のアシスタントをしている友人を紹介してくれると、事態は急展開。同氏のオーディションを受け、夢にまで見た演出家から、「一緒に仕事をしよう」とオファーを受ける。

これは運命だって思いました。その時点で、35歳。でも当時、彼と仕事をすることが私の夢だったんです。東京での仕事を全部白紙にして、「ドイツに行くのでできません」って。本当に迷惑をかけたと思います。最初は皆、唖然としてましたけど、事務所の社長も「謝って許されるところには全部謝って、頑張ってきなさい」って温かく送り出してくれました。私ね、海外に行ってみたいなと思っている方には、何歳からでも遅くないのよって伝えたい……。

『Der Abend aller Tage(地球最後の日)』 © David Baltzer
『Der Abend aller Tage(地球最後の日)』

ドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための劇場での苦悩

シュリンゲンジーフ氏との最初の仕事は、1カ月半の間に16の劇場を巡るツアー。その間、劇場で出会った観客や関係者の中に、アジア人が1人もいないことに気が付いた。

だったら私にも、チャンスがあるかもって思ったんです。街の中では東洋人も珍しくないのに、劇場の中には東洋人がいない。そこに私が存在すること、それ自体が新しく、それ自体が前衛なのではないか、そんな気がしてきたんです。クリストフも、これからも一緒にやろうって言ってくれたし、ちょうどそのとき、クリストフのツアーのスタッフと結婚しようと、そういうことにもなっていて……。それで、クリストフと一緒に仕事をしながら、ドイツで役者としてやっていこう、そんな風に夢見ちゃったんですよ。

しかし、2001年に本格的にドイツへ拠点を移した原さんを待ち受けていたのは、「暗黒の時代」だった。「きっと原サチコという俳優の需要があるはず」という期待は裏切られ、全く仕事が来ない。子どもが生まれたことから、子育てに奮闘する日々。

クリストフは私を受け入れてくれたけど、ほかの演出家、劇場は、外国人を受け入れる感じじゃない。入り込む隙間が見えなかったんです。そのうち、主婦として家に落ち着いてしまったら、もう役者として復活できないんじゃないかと不安でした。ベルリンに来て、俳優が有り余っている現実を目の当たりにしたショックも大きかったです。

限られたチャンスを掴み、精一杯演じる中で、原サチコという役者の魅力を引き出す、新たな演出家との出会いがあった。ニコラス・シュテーマンその人だ。ハノーファー州立劇場で彼が演出する「三文オペラ」でポリー役を射止めたのだ。この三文オペラは、結局足掛け10年演じる当たり役となる。

『Die Dreigroschenoper(三文オペラ)』
『Die Dreigroschenoper(三文オペラ)』 

ウィーンのブルク劇場で開花

徐々に脚光を浴び始めた原さんだったが、2004年には離婚を決意。息子と2人の生活を支える必要に迫られた。そんな彼女を救ったのが、シュリンゲンジーフとシュテーマン、2人の演出家だった。彼らが新作を予定していたウィーン・ブルク劇場に専属俳優として推薦してくれたのだ。

ドイツ語も流暢じゃないし、まずはお試しで1年だけという契約。でも、私にしたら、ここで何年かは働かせてもらわなくちゃ生活できないわけですから、そりゃもう毎作、命懸けでやりました。

すると、彼女を推薦した2人以外からも次々と声が掛かるように。結局、ウィーンで5年を過ごし、合計16作品に出演した。

途切れることなく、色々な作品に出させていただきました。稽古が忙しくて、初日の公演の打ち上げでも、「明日稽古だから、あんまり飲めないんだよね」なんて。ベルリン時代に夢見ていたセリフです(笑)。

ここでも、出会いに恵まれた。中でも演出家ルネ・ポレシュは、原さんの外国人としての内面の葛藤をもとにセリフを紡いだ。演じることを越えた、本音を舞台で発する機会を得て、原さんはドイツの舞台に立つ自分自身と、もう一度向き合うことができたという。

日本とドイツを繋ぐ伝書鳩として

『Kein Licht(光のない)』
『Kein Licht(光のない)』 

2009年、ウィーン・ブルク劇場のインテンダント交替に伴い、原さんもウィーンを去ることとなった。再びドイツで挑戦したいという想いを抱いていた彼女が次に掴んだのは、ハノーファー州立劇場の専属俳優の座。ハノーファーに新任するインテンダントが、息子の幼稚園の父兄仲間だったというから、原さんの人脈には脱帽する。

ハノーファーと広島が姉妹都市なんですが、これがなかなか知られていなくて、しかも、まだ人は住んでいるの? なんて聞いてくるんですよ。まずはハノーファーで広島の演劇作品をやろうと、井上ひさしさんの「少年口伝隊1945」をドイツ人と共同翻訳して上演しました。でも、それだけでは不十分、今の広島の姿も伝えなくてはと、2010年から始めたのが、「ヒロシマ・サロン」というイベントです。2011年3月11日の東日本大震災以降は、どうしても福島のことに興味が向きましたので、内容を変更し、私も福島に住む人の声を聞きに取材に行きました。

ヒロシマ・サロンを始めたことで、ドイツにいる日本人として、やるべきことを見付けました。やらなくてもいいかもしれないんですけどね。ただ、日本で今、何が起きてるのかを、伝書鳩のように伝えたい。問題意識のある方々だけじゃなく、コスプレやマンガを通して日本を好きになってくれた若い人たちにも、一緒に考えてほしいなという想いでサロンを開いています。

信念を持って

原さんが、ドイツに拠点を移すことを決意した頃に描いていた目標は、ほぼ達成したのではないだろうか?

お芝居ができている、しかも毎作私のことを面白く、効果的に使ってくれる演出家と仕事ができていることはありがたいですね。ただ、2010年8月21日、クリストフが肺がんで亡くなったんです。あれほど偉大な前衛芸術家には私の人生で、あと1人会えるかどうか。もっともっと彼と一緒に色々なこと、やりたかったな。でも、私が生きている限りは、思いっきり前衛(演劇)をやろう。今までの常識に囚われないで、自分をめいっぱい使ってやろうって思っています。夢の実現に大切なことは、信念を持つこと。そして、それを言葉に出すことだと思います。

最後に、野暮な質問とは思いつつ聞いてみた。「生活のためにほかの仕事をしようと思ったことはないんですか?」原さんは、「ほかに、何もできないんです」と困った顔をした。女であることと同じくらい、運命的に「女優」なんだと感じた。「舞台での存在自体が前衛」、と自分の役を遮二無二演じる。そんな彼女の舞台を観に、私たち日本人がドイツの劇場に足を踏み入れたら、彼女の目指す前衛作品の一部になれそうな気がする。


Information

DIE TROERINNEN(トロイアの女たち)
2013年1月11日(金)から 不定期公演

ギリシャ三大悲劇詩人の1人、エウリピデスの代表作と言われる「トロイアの女たち」。国家単位の戦争に人生を翻弄されるトロイアの女のうちの1人を原さんが演じる。

GABE / GIFT(ギフト)
2013年3月7日(木)から 不定期公演

Der Abend aller Tage(地球最後の日)
出演中。公演は不定期。

SCHAUSPIEL KÖLN
IN DER EXPO XXI Gladbacher Wall 5, 50670 Köln
TEL: 0221-221 28400
www.schauspielkoeln.de

ハノーファー州立劇場でも『Der Silbersee(ジルバー湖)』、『Kollateralschlager』に出演中。

最終更新 Montag, 15 Juli 2019 11:44
 

建築家ペーター・クルカ氏 インタビュー

新春号 仏・英・独 3国特集 街並みに新たな息吹をもたらす建築家にインタビュー

ペーター・クルカ - 建築は「第3の肌」。長い人生をその中で生きるのだから

建築家ペーター・クルカ氏 インタビュー 日本人が憧れを抱く、ドイツを含む欧州各国の古い街並み。
だが、その風景も 日々変化している。
そこで本誌新春号では、ドイツ、英国、フランスの
街並みに新たな息吹を吹き込む建築物を
生み出した建築家にインタビュー。
ドイツからは東西統一後、芸術と文化の都ドレスデンの
都市再生の一翼を担ってきた現代建築家
ペーター・クルカ氏に話をうかがった。

Peter Kulka ペーター・クルカ
1937年7月20日、ドレスデン生まれ。建築工学の職業訓練を積んだ後、59~64年にベルリン・ヴァンゼーの造形美術大学で建築学を学ぶ。ドイツ民主共和国(DDR)時代の65年にケルンへ亡命し、69年に建築事務所を設立。東西ドイツ統一後、91年にドレスデンにも事務所を構える。86~92年、アーヘン工科大学建築学部教授。2004年、ノルトライン=ヴェストファーレン州メシェデにあるケーニッヒスミュンスター修道院のゲストハウス「Haus der Stille(静寂の家)」で同州建築賞受賞。そのほかの代表作に、ザクセン州議会やドレスデン・レジデンツ城の一部の再建・修復、ベルリン・コンツェルトハウスの室内楽ホールなど多数。 www.peterkulka.de

現代建築における修復とは、新たな絵を生み出すこと

あなたが手掛けた文化財修復・再建の代表例に、ドレスデン・レジデンツ城中庭の、アーチ型をいくつか組み合わせたクッションのようなドーム屋根が挙げられると思います。新旧の建築様式を融合させる目的で、現代建築においては典型的なガラスの屋根を歴史的建築物に被せたのでしょうか。

ここで使用した素材はガラスではなく、「メンブラン」と呼ばれる人工フィルムです。曲がりやすい素材で、正方形に見えますが、直線やエッジはなく、通常ガラス建築に使われる剛性スチール・フレームも一切使っていません。当初はガラスではなくプラスチックを使うなんて……という非難の声も上がりました。昨今はこのような建築にガラスを使うことが通例ですが、ガラスを曲げるには大変な費用が掛かります。そもそも、ただでさえ不均衡な造りの城の中庭に、人々を雨風から守る丈夫な屋根を被せることは並大抵の作業ではありません。しかも、それが完成するか否かの頃に、当時、米大統領に就任したばかりのオバマ氏とメルケル独首相がこの場所で会見することになったのです。もう、こうなったら現代建築がどうこう言っている場合ではない!とにかく屋根を城に合わせて作らなければと思いました。

ドレスデン・レジデンツ城
2010年、ドレスデン・レジデンツ城の中庭に加わったドーム型の屋根

古い建物の修復・再建においては「何を残し、何を新しくするか」という点が課題になると思います。設計の際にはその点をどのように判断していますか。

レジデンツ城の中庭の展示部屋を再建するに当たって、城の地下に眠っていた貴重なコレクションの見せ方についての議論がなされました。ザクセン選帝侯モーリッツ公が権力誇示のためにイタリア人画家を呼んで描かせた絵はすべて戦中に焼失してしまいましたが、文化財保護の提唱者らは原画に似せた絵を描こうとしました。私はこういうやり方には反対です。そんなものは歴史の偽装でしょう。観る人はそれが本当に存在したのだと誤解してしまう。一度壊れてしまったものを元の状態よりも良く復活させることなんて無理なのです。  

一方、私はもともと絵が描かれていた展示スペースの天井にアーチを掛け、左右の壁にガラスのショーケースを並べて、その中に金張りの騎士のモデルなどの展示品を入れる案を思い付きました。中世の馬術競技場のような空間を演出したかったのです。城本体のドーム屋根の景観を損なわずに展示品に照明を当てるために、現代のハイテクを駆使しましたよ。  

そうすることで、現代建築という手法によって邪魔されることなく、もう何百年も前に消滅した神秘的な空間がよみがえりました。現代建築における修復というのは、かつて飾られていた絵を復刻して飾るのではなく、現代的な素材と手法で新たに美しい絵を生み出すことなのです。

レジデンツ城内部の展示スペース
レジデンツ城内部の展示スペース。
ザクセン王国の秘宝が現代建築の空間で息を吹き返した

建物を美しく修復・再建することが、都市再生の鍵と言えるのでしょうか。

もちろん、何かを建てる際には、外見の美しさやバランス、周囲との調和といった概念が重要になります。ただ、そうした美しさに関わるもの以外の要素を排除することもできない。醜さの力というものもあるのです。例えばロンドンや東京などの世界都市は、建築的に整った美しい都市とはとても言えないにもかかわらず、人々を魅了し続けていますよね。  

芸術作品として1つの都市を作り上げることは不可能です。美しい街区を作って奇麗な柵で囲うことはできますが、その外側には新たなスラムが形成されてしまいます。街全体を1つの作品として完成させようとすると、必ず見逃し、放置される部分が出てくるのです。美しい都市というのは、多くの人々の様々な貢献、功績の積み重ねによって成り立つ、混沌としたものです。その中で暮らしながら、人は本当に欲しいものが何かを考え、世代を超えて実現していくのだと思います。

ドレスデンは戦後、DDRという独裁政権下に置かれたにもかかわらず、その後見事な復興を遂げました。何が街の復興を支えたのでしょうか。

私が子どもの頃、この街で目の当たりにした破壊の様子は、今も心に深く刻まれています。破壊される以前の美しい街並みや発展の様子を知っていましたからね。戦後、この街は大きく変わりました。過去の封建制を想起させるもの、資本主義的なものを敵視していたDDRは、「社会主義の未来のために!」と称して戦禍を免れたものまですべて取っ払い、全く新たな都市を造ろうとしました。そして、中世から発展してきた小さな道や林道を取り壊し、無理やり広い道を敷いたのです。  

しかし、都市計画はそれほど簡単ではありません。東西ドイツ再統一後、このような無造作な都市計画から取り残され劣化していく建物や、そのほかの失われたものとどう向き合うかという問題が生じました。平和革命や西側の影響で人々は自発的に問題提起をし、都市計画について議論できるようになったのです。私たち建築家もその流れを把握するようになりました。

大きなプロジェクトにおいて、民意を汲むというのは難しいのではないでしょうか。

現在、私が取り組んでいるプロジェクトの1つに、ブランデンブルク州議会議事堂があります。これはプロイセン時代の建築家ゲオルク・ヴェンツェラウス・フォン・クノーベルスドルフが建てたポツダムの城を再建し、その中に州議会の会議場を置くというものです。このプロジェクトのコンペの最中、当時の城に思い入れのある人々や政治家の意見が対立し、議論が中断したことがあります。  

複数の当事者が様々な意見を持つ民主主義社会では、特に歴史的な場所に新たに何かを建てたり、再建することは大変な困難を伴います。大げさに言えば、「王を復活させたい!」と主張する人もいるわけですから。現代建築家は、こういった場面で戦わなければならないのです。

ブランデンブルク州議会議事堂
格調高い城の中に、省エネ対策を施したモダンな会議場が入る
ブランデンブルク州議会議事堂は今年完成予定

政治的な要因が建築計画に影響することはありますか。

ザクセン州議会の建設に当たって、私は本会議場をエルベ川沿いに設置したのですが、ボンでドイツ連邦共和国(BRD)の連邦議会議事堂を手掛けた建築家ギュンター・ベーニッシュがこれを見て私に言いました。「君は何てことをしてくれたんだ!私がずっとやりたいと思いながらできなかったことをやってのけるなんて!」と。彼は、連邦議会議事堂の本会議場を川沿いに置いたところ、首相がその目の前に事務局の建物を建ててしまったのです。  

過去の世代が欲してできなかったことを、次の世代が実現するというのが世の常だと思います。それが誰の功績であるかは関係ない。突然機が熟して実現する、そしてまた変化が求められるのです。

街の復興に際しての建築家の役割をどう捉えていますか。

各都市の発展、社会の変化を無視して建築を語ることはできません。その意味で、私たち建築家は社会の奉仕者と言えます。政治家に言われるがまま任務を受けているようでは駄目。ときに政治に批判的に、ときにその方向性を後押しするような形で、社会の声を代表しながら建てていかなければ。  

私はアーヘン工科大学の講義で、いつも学生たちに言っていました。「社会という枠組みの中で建てなさい」と。建築家と聞くと、天才だと崇める人がいますが、建築家だって間違いをすることはあります。神ではありませんからね。私は、建築とは長い道だと考えています。険しいけれど、進まなければならない道。社会は様々な問題を抱えていますが、その中から学び、できることを実行に移す。失敗しても成功しても、そこから何かしらを得て先へ進む。そうして道は続いていくのです。

建物のコンセプト策定で大事にしていることは何ですか。

ブランデンブルク州議会議事堂となる城の再建に際し、条件の1つに「省エネ建築」がありました。しかし、当時城を建てたクノーベルスドルフの設計図には、もちろん省エネ対策なんて組み込まれていません。つまり、省エネ対策は城を全く新たに建てることによってのみ可能なのです。一方、ドレスデンのレジデンツ城の屋根は、建物が残っている状態での取り付けでしたので、既存のものに合わせたコンセプトが必要でした。 

つまり、同じ城が2つとないように、同じ課題は2つとありません。建築の基本は、建物が建つ場所、用途、利用対象者を考えること。それらを土台にコンセプトを決め、後はそれを可能な限り実現させていくだけです。

シンプルな素材で建物に息を吹き込み、意味を持たせる

過去のあなたの作品は、すっきりとした外観が目立ちますね。

高価な建材を使って美しさを追求した建築の中には、結果的に何の意味もなしていないものがありますが、私にとってそれは悪趣味でしかありません。美しさ自体が目的と化してしまっては建築家にとって致命的です。むしろシンプルな素材でシンプルな建物に息を吹き込み、意味を持たせること、シンプルな手段で広い空間を作るというのが私のやり方です。現代人は聴覚的にも視覚的にも、逃れられない騒音の中で生きていますから、ストレスを軽減できる静かな場所が必要ですよね。  

もっとも、電気・通信ケーブルやスイッチなどもどこかへ設置しなければならず、今の世の中ではそれらは増える一方なので、実はこれが最大の難点でもあります。そこで、問題解決のヒントとなるのが「削減」という考え方、つまり極力無駄を省くということです。これは単純なことに思えるかもしれませんが、待っているだけでは実現しませんから、削減を積極的に求め、促進していく必要があります。ときには無駄を省く行為が、ほかの誰かを挑発することになったとしてもね。

メシェデの修道院内
メシェデの修道院内。ガラスとコンクリートから成る建物は、
周囲の自然に溶け込み、静寂を生み出している

将来は、どのような建築物を手掛けたいと思っていますか。

その質問に答えるには、もう時期が遅すぎますよ。私が初めてコンペに勝ったのは30歳のときです。その後、修道院も、学校も、もう大方の建物は建てました。私が草案を提出し、どんな結果に転ぶかを待つ。コンペで勝ち取った仕事が、やりがいのあるプロジェクトであれば嬉しい。過去20年はそんなことを繰り返していて、「さて、次は何を建てようか」などと考えたことはありません。  

ただ唯一、今でも建てたかったなと思うのは、ケムニッツの陸上競技場です。東西統一直後の時期に草案したもので、実現はしませんでしたが、後のスタジアム建設に着想を与えたプロジェクトとして、今ではあらゆるスタジアム・ガイドブックにも載っているほどなんですよ。

建築家として、今の社会に何を望みますか。

衣服が人間の「第2の肌」なら、建築は「第3の肌」です。これから生まれる人は皆、長い人生をその中で生きていくわけですから。社会や人々には、もっとこの「第3の肌」に興味を持ち、建築文化を発展させていってほしいと思います。ドイツは高度に発達した民主主義国家ではありますが、本当の意味での現代建築の文化は未成熟です。人々は買い物をし、より良いサービスを求め、贅沢をして……と、消費にしか目が行っていない。しかし、すべてを手に入れる必要などあるのでしょうか。城だって、要らないですよね。少なくとも私は欲しくない(笑)。


最終更新 Montag, 15 Juli 2019 14:18
 

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