特集


英国シルバー読解術 - 銀製品の見方

英国シルバー読解術 あなたも即席目利き

常に街のどこかでマーケットが立つ、アンティークの都、英国へひとっ飛び。
あちらこちらに佇む骨董屋では、色とりどりの陶器や古い家具、
絵画にペンにボタンまで、ありとあらゆる品物が歴史を背負って佇んで、
次のご主人様を待っている。
そんな中、雑多な品々に紛れて鈍い光を放つ、シルバー製品にご注目!
マーケットでは散(ばら)で売られていることも多く、
見方さえ心得ていれば意外な掘り出し物に出合えることも。
本特集では、英国シルバー製品の見方をご紹介。製品の背景が分かれば愛着もわくというもの。
にわか目利き気分で宝探しに出掛けよう。
(取材・文: Shoko Rudquist)

英国シルバー製品の「ホールマーク」って?

ホールマーク hallmark
シルバー製品の品質保証マークを付ける際に
使われる刻印

英国のシルバー製品は、古くから、世界に誇る品質を保っているとされる。それもこれも、数百年以上前から国単位で厳格な品質管理が行われ、厳正な審査にのっとった品質保証マークである「ホールマーク」が各製品に刻印されてきたからだ。そこでまずは、英国シルバー製品を見る上で最も重要な要素の1つと言える「ホールマーク」についてみていこう。

鍵は純度

英国ではゴールドと並び、ローマ時代から希少な貴金属としてもてはやされてきたシルバー。その価値の高さから12世紀にはすでに取引法が定められ、14世紀になると銀の含有率が92.5%を超えるものだけを正式なシルバー製品とする、という決まりもできる。日本でも耳にすることの多い「スターリング・シルバー(Sterling silver)」とは、この純度を持つシルバー製品のこと。欧州各国では、純度80%や83%のものもシルバー製品として扱われる中、英国では以来一貫してこの純度が保たれている。英国製のシルバー製品が世界にそのクオリティーを誇るのは、この厳格な制度のおかげだ。  

刻印

そしてこの頃から、各製品は生産者により品質が保証されていることを示す刻印が押されるまで出荷が許されなくなる。これが、「ホールマーク」の始まり。15世紀にはそれに日付を示す文字も加わる。つまり、この時期以降に製造された製品のうち現存する英国産シルバー製品のほとんどは、いつ誰がどこで製造したかが分かるということだ(ただ残念なことに、17世紀以前に使用されていたシルバー製品のほとんどは戦争の際に武器の原料として再利用されたため、現存しているものは少ない)。  

地域によって微妙な違いがあったホールマークの図柄が全国で統一されたのは、「ホールマーク法」が施行された1975年のこと。そしてこの法により、7.8グラム以上の重量があるすべてのシルバー製品は、ホールマークを刻印しない限りシルバー製品と呼んではいけないことに。英国内で流通するすべてのシルバー製品には、必ずホールマークが押されることになったのだ。

アセイ・オフィス

アセイ・オフィスによる刻印

厳格な分析・鑑定を行い、ホールマークを刻印することのできる機関は、国によって定められている。アセイ(試金)・オフィスと呼ばれるこの機関は現在英国内に4つ。1300年から鑑定を行い、1327年には国内初のアセイ・オフィスとして認知されたロンドン・オフィス、教会や家庭で使用される銀器が盛んに製造され、15世紀から鑑定が行われるようになったというエディンバラ・オフィス、1773年の創立時にはシルバー製造業が国内で最も栄えていたというバーミンガム・オフィス、そして燭台の製造で名を馳せ、バーミンガムと時を同じくして創立されたシェフィールド・オフィスがそれらになる。このほかにも、ヨーク、ノリッチ、エクセター、ダブリン、ニューカッスル、チェスター、グラスゴーといった町にもオフィスは存在したが、それぞれすでに閉められている。  

現存するほとんどのシルバー製品には、上記のアセイ・オフィスによる刻印が押されている。マークはオフィスによって異なり、どの街で鑑定された製品かが一目瞭然。併せて押される日付を示す文字(デート・レター)などまで読むことができれば、いつどこで生産され、品質が保証されたかがはっきりするという仕組みなのだ。

ホールマーク読解術

それでは、具体的にどうすればホールマークが読めるのだろう。1975年の法制定以降、ホールマークは、基本的に下のような形で並んでいる。左から、①メーカーズ・マーク、②スタンダード・マーク、③メタル & ファインネス・マーク、④アセイ・オフィス・マーク、⑤デート・レターだ。ここからは、これらのマークを詳しく説明していこう。

ホールマークの読み方

1メーカーズ・マーク
それぞれの生産者のマーク。通常、メーカーの名前が2、3文字のアルファベットに短縮された形で表されている。

2スタンダード・マーク
シルバー含有率92.5%を超える「英国品質」を保証するマーク。ライオンの全体像が描かれている。スターリング・シルバーと呼ばれるのはこれ(1974年頃までに製造されたものは、王冠をかぶったライオンの顔の場合も)。1975年以前のものには「ブリタニア像」と呼ばれる王冠をかぶったライオンの全体像(純度95.84%)が押されていることもある。

3メタル & ファインネス・マーク
シルバーの純度を表すマーク。
800 純度80%
925 純度92.5% スターリング・シルバー
958 純度95.84% ブリタニア・シルバー
999 純度99.9% いわゆる純銀

4アセイ・オフィス・マーク
どこのアセイ・オフィスでホールマークが押されたかが分かる。

The UK Assat Offices

● レオパード
ロンドン・アセイ・オフィス。1327年、英国で初めに分析鑑定の専門組織として承認されたオフィス。1697〜1719年は横向きのライオンが代用された。

● 錨
バーミンガム・アセイ・オフィス。シルバー製品の名産地だったことから1773年に創立。1973年の製品には創立200年を記念した特別印が押されている。ちなみに、錨マークが横向きになっていればその品はゴールドかプラチナだ。

● ヨーク・ローズ
シェフィールド・アセイ・オフィス。燭台の名産地として有名に。1974年12月までは王冠のマークを使用していた。

● 城
エディンバラ・アセイ・オフィス。シルバーの分析鑑定に関しては、15世紀半ばからの歴史がある。

5デート・レター
アルファベットと枠の組み合わせ。大文字だったり小文字だったり、ブロック体だったり飾り文字だったりと、様々なデザインで表される文字を、これまた様々な枠の形と組み合わせ、何年に刻印が押されたかを示す仕組み。ただしロンドン以外のオフィスでは、1999年以降はこの刻印付けが省略されている。

これらのホール・マークの組み合わせ次第で、いつ、どこのメーカーが作った製品か、そしてその品質までがはっきりと分かるというからくり、分かっていただけただろうか。また上記のほかにも、女王の即位記念日などがある年には「コメモレーション・マーク」が刻印される。女王が即位60周年の「ダイヤモンド・ジュビリー」を迎える今年2012年にも、もちろんこれを記念する刻印が用意されている。  

Bookただし、特にメーカーズ・マークとデート・レターに関しては、その種類が相当数に上るため、興味のある方にはオンライン・ショッピングのアマゾン(www.amazon.co.uk)などで5ポンド程度で購入できる、ホールマークの種類を図解したポケット・サイズの本がお勧め。小さめサイズなら、マーケットでの宝探しの際にも重宝する。また各地のアセイ・オフィスでも鑑定を受け付けているので、相談してみてもいいだろう。

英国シルバー豆知識

ホールマークについてのにわか知識は身に付けた。いざ、マーケットでお買い物! となったときに覚えておくと、もしかすると役に立つかもしれない豆知識をここではいくつかご紹介。ディーラーのおじさんやおばさんに舐められないよう、そして話を弾ませて値切りやすい雰囲気を作るため、ちょっとした物知り顔で参上しよう。

銀の燭台

銀の燭台

19世紀にガス灯が普及するまで、ほぼ唯一の照明器具だったろうそく。銀製の燭台も多く製造されたが、17世紀頃までは中心部が空洞だったため壊れやすく、今日手に入る銀製の燭台は主に17世紀以降に製造されたものがほとんどだ。蝋燭を立てる腕が2本以上ある燭台が誕生したのは17世紀後半。3本のものは18世紀後半、5本以上は19世紀になってからだ。

1853 10 Light Candelabrum, Hunt & Roskell

カトラリー

カトラリー

16〜17世紀初頭、人々は友人宅に食事に招かれると、自分専用のマイ・スプーン&ナイフを持参していたのだそう。フォークはまだ存在せず、代わりにナイフの先端が割れて、刺した物を持ち上げやすいようになっていたようだ。1660年以降に、先が2本になったフォークが登場。フォークの歯の数は3本、4本と、時代を追うごとに増していった。4本のものは基本的に1760年以降に製造されたもの。

1691 Treffid Spoon, Richard Sweet

牛のミルク差し

牛のミルク差し

英国に暮らしていれば、愛嬌のある牛の形をした、陶器製のミルク差しに一度は出会う。尻尾を持って傾けると牛の口からミルクが注がれるあの容器、元々はシルバー製品だ。1759年に、シルバー職人ジョン・シュッペによって製造された銀製のミルク差しは、19世紀になってイングランド中部ストラトフォードシャーの陶器メーカーらによってコピーされ始め、現在に至っている。

1758-1759, Creamer Jug in the Form of a Cow, John Schuppe

シノワズリ・モチーフ

シノワズリ・モチーフ

英国における紅茶の歴史は意外と浅く、17世紀後半に東洋の秘薬として売られ出したのが始まりだ。当初は高級食品だった紅茶は、貴族たちの間で大層もてはやされ、流行のデザインが施された美しい銀製の茶器が誕生する。そして、当時人気を博していたデザインと言えば東洋風のモチーフ、「シノワズリ」。初期のティー・セットは、意外にもアジアン・テイストのものがほとんどなのだ。

1747 Tea Caddy, Paul de Lamerie

アンティーク・シルバーを探しに行こう!

ホール・マークの読み方や英国シルバーの歴史がざっくり分かったら、あなたももう立派な目利き。以前はちんぷんかんぷんだったディーラーのおじさんやおばさんの説明にも、訳知り顔で頷けるはず。シルバー製品に関しては世界屈指の品質を誇るここ英国で、シルバー・アンティークを探すのに持ってこいの場をご紹介しよう。

掘り出す / 購入する

世界有数のシルバー専門店街
London Silver Vaults

London Silver Vaults本気で一生物のシルバー製品を探すなら、世界的にも有名なこちらへ。17世紀のアンティークからコンテンポラリーまで、シルバー製品だけを専門に扱うディーラーが店を構える専門店街「ロンドン・シルバー・ボルツ」だ。元大型信用金庫だった重厚な建物を再利用しており、セキュリティー万全の環境で、それぞれその道50年以上という30のディーラーがとっておきの製品をそろえている。中には、中国と日本のシルバー製品を専門に扱うディーラーなどもあり、よそではお目にかかれないセレクションが期待できる。定期的にエキシビションも開催しているので、購入はさておいても、まずは見識を高めに出掛けたい。

53-64 Chancery Lane London WC2A 1QS
Tel: +44(0)20 7242 3844
www.thesilvervaults.com
月〜金9:00-17:30 土9:00-13:00

立地最高!ハイソなマーケット
Grays

Graysロンドン市内中心、ボンド・ストリート駅のそばに位置するインドア型マーケット。元々はトイレのショールームだったという建物を、1977年、ベニー・グレイ氏なる英国人紳士が買い取り創立した。マーケットとはいうものの、各ディーラーがブースごとに店舗を構える小売店の集合体だ。2フロアに200以上のディーラーがひしめき合っており、陶器から家具、ジュエリーまで幅広い品揃え。30を超えるディーラーがシルバー製品を専門に扱っており、掘り出し物に出合える確率は高し。便利な立地を利用して、こまめに覗いてみよう。ちなみに地階では、北部ハムステッドから始まり市内の地下を貫くテムズ河の支流を見ることもできる。

58 Davies Street & 1-7 Davies Mews London W1K 5AB
Tel: 44(0)20 7629 7034
www.graysantiques.com
月〜金10:00-18:00 土11:00-17:00 日休

国内最大級インドア・マーケット
Alfies Antique Market

Alfies Antique Marketボンド・ストリート駅すぐのインドア・マーケット「グレイズ」の仕掛け人グレイ氏が、同館より先に自分の生まれ育った地区で手掛けたのがこちら。すっかり荒れ果てていた古いデパートを改造した、その規模は国内最大級というアンティーク・マーケット、「アルフィーズ」だ。「グレイズ」と同じインドア形態をとり、100以上のディーラーがブースを構える。レトロなファッション小物やインテリア小物があふれ、アンティークというよりむしろヴィンテージ色の強い品揃えながら、シルバーや真鍮(しんちゅう)製品に特化したお店も。シルバー製品目当ての訪問客が少ないからこそ、意外なお宝に遭遇する可能性に期待できそうだ。

13-25 Church Street London NW8 8DT
Tel: 020 7723 6066
www.alfiesantiques.com
火〜土 10:00-18:00

ストリート・マーケットの大御所
Portobello Road Market

Portobello Road Market言わずと知れた国内最大級の週末ストリート・マーケット。ロンドン西部のノッティング・ヒルから続くポートベロー・ロード沿いで、毎週土曜日に開催されている。19世紀後半に誕生した当時は食料を扱う露天商が中心だったというが、20世紀半ばにはアンティークの取引も行われるように。現在は、ノッティング・ヒル・ゲート駅に近い南寄りの通り沿いを中心に、平日も商いを行う骨董品店が軒を連ねるほか、土曜日にはカトラリーや食器類のアンティーク露天商も出店する。スプーンやフォークが束になって無造作に売られているのはストリート・マーケットならでは。じっくり品定めして、お気に入りを見つけよう。

Portobello Road London W11 2QB
Tel: 44(0)20 7229 8354
www.notting-hill.org
土 8:00-16:30

学ぶ / 鑑賞する

シルバーの専門家を目指すなら
The Goldsmiths’ Company

ロンドンのアセイ・オフィスを運営する「ザ・ゴールドスミスズ・カンパニー」が、現在、同組織最大の出資額を投じてロンドン東部のクラーケンウェル地区に建設中の、「ゴールドスミスズ・センター」。2012年初頭に完成予定のこの施設は、シルバーを初めゴールド、プラチナといった貴金属の専門家を目指す人たちを受け入れる学術機関となる。ワークショップやセミナー・ルームなどが完備されるのはもちろん、一般に公開されるエキシビション・エリアやカフェも備える。1872年に創立されたロンドンで最も古い寄宿学校の1つだった建物を再利用した、美しい外観も見もの。同組織のサイトで詳細をチェックして、完成後の雄姿をぜひ一目見に行きたい。

Goldsmiths’ Hall, Foster Lane London EC2V 6BN
Tel: +44(0)20 7606 7010
thegoldsmiths.co.uk
www.goldsmiths-centre.org

充実のコレクションで目を肥やす
Victoria & Albert Museum

英国屈指のシルバー・コレクションを誇るヴィクトリア & アルバート・ミュージアムでは、3階の「シルバー・ギャラリー」内で、世界各国から集めた、実に1万点以上の作品を展示している。中でも英国シルバーのコレクション数は、公的機関としては世界最大。欧州各地の作品も充実しており、希少な1400年代のものから鑑賞できる。アンティーク・シルバーの歴史を一望するには、これ以上の施設はないはず。マーケットでお気に入りの一品を見付けるまで、ここで審美眼を磨いておこう。

Cornwell Road London SW7 2RL
Tel: +44(0)20 7942 2000
月〜日10:00-17:45(金は22:00まで)
www.vam.ac.uk

カトラリーシルバー製品のお手入れ

シルバー製品と聞いて物怖じしてしまう人もいるかもしれないが、銀器は中世から日常的に使われてきた身近な道具でもある。多くのアンティーク・シルバーが出回っていることから、大切に使えば時代を超えて輝き続けるのは明らか。お気に入りのシルバー製品を長く愛でていけるよう、ここで基本的なお手入れの際の注意事項をまとめておこう。
  • 食器洗い機は避け、手洗いを厳守。その際、シルバーの変色を促すレモン成分が入った洗剤は使わないようにしよう。また洗った後は、手早く水滴をふき取ること。そのままにしておくと水滴のあとが残ってしまう。
  • 普段使いのシルバー・カトラリーは、毎回食事が終わったらすぐに洗い、水分を手早くふき取るだけで十分光沢は保たれる。あまり磨き過ぎると却って製品を痛めることになるので注意。
  • 塩は変色の最大の敵。塩用の小皿、ソルト・セラーなどに残った塩は、食事が終わったら毎回別容器に移し替えよう。セラーをきれいに洗うことも忘れずに。
  • シルバーの変色は、主に硫黄成分と空気中の水素成分によって促される。卵、タマネギ、マヨネーズといった食品は硫黄を含むため、変色を促しやすい。これらを使った料理をいただいた後は、何はともあれ即座に洗ってしまおう。
  • もし変色が進んでしまったら、シルバー専用の研磨剤を使って磨こう。シルバー製品を専門に扱うディーラーなら、手袋状になったものや布状のものなど、日常使いに適したものを扱っていることも多いので問い合わせてみて。ただし、高価なものは念のため専門家に頼むのも手だ。

英国シルバー、デザインの変遷

英国における、各年代の代表的なシルバー製品のデザインを紹介。
*カッコ内の記述は制作年と作者名

1450 銀の大杯 (1460、製作者不明) 銀の大杯

1500    
1550 1559年の戴冠式でエリザベス1世が使用したと伝えられているカップ
(1554、製作者不明)
カップ

1600    
1650 お粥用ボウル (1667、製作者不明) お粥用ボウル

1700 チョコレート用ポット(1717、Joseph Ward) チョコレート用ポット

1750 コーヒー・ポット(1796、Henry Chawner) チョコレート用ポット

1800    

1850
ティー・セット(1850、J. Angell) ティー・セット
1870 日本的な装飾が施されたトレイ(1877、Elkington & Co.) 日本的な装飾が施されたトレイ
1880 ワイン入れ (1880、Hukin & Heath) ワイン入れ

1900 ボウル(1902、C.R. Ashbee for the Guild of Handicraft) ボウル
1930 蓋付きボウル (1931、H.G. Murphy) 蓋付きボウル

1950 燭台 (1958、Robert Welch) 燭台
1960 昆虫を彷彿とさせるデザインのボウル (1962、Gerald Benney) ボウル

1990 エナメル加工された皿 (1999、Jane Short) エナメル加工された皿

2000 古代エジプトの女神、イシスの名が付けられたボウル
(2011、Abigail Brown)
エナメル加工された皿

©The Goldsmiths' Company

最終更新 Mittwoch, 07 August 2019 12:00
 

ベティー・ハイドラー - BETTY HEIDLER -ドイツ代表ハンマー投げ選手

ベティー・ハイドラー ドイツ陸上界期待の星ハンマー投げベティー・ハイドラー ドイツ陸上界期待の星ハンマー投げ

戦いの年が明けた。2012年、ロンドンで行われる夏季五輪に向けて、スポーツ界全体が盛り上がりを見せる中、ドイツでは陸上競技に熱い視線が向けられている。ロンドン五輪を占うと目された2011年大邱(韓国)での世界陸上で、金3つ、銀3つ、銅1つとメダルを量産。ドイツ陸上競技連盟(DLV)スポーツディレクター、トーマス・クアシルゲンは「ロンドンでは素晴らしい結果を残せるだろう」と胸を張った。  

2000年のシドニー五輪以来、12年も遠ざかっていたメダル獲得を目指すドイツ陸上界の、メダル候補の筆頭に挙げられるのが、先の大会で銀メダルを得たハンマー投の世界記録保持者、ベティー・ハイドラー選手。28歳と、今まさにアスリートとして旬を迎えている彼女に、ハンマー投という競技の魅力、そして五輪への想いについて語っていただいた。(編集部:高橋 萌)

BETTY HEIDLER
1983年10月14日、ベルリン生まれ。14歳のときに、友人の誘いで陸上競技の世界に入り、15歳でハンマー投を専門とすることを決める。2001、02年にユースのドイツ王者に、02~05までは、無敗のドイツ・ジュニア王者に君臨するなど、めきめきと頭角を現し、07年には世界陸上の大阪大会で優勝、10年には欧州選手権で優勝。11年5月21日に79.42メートルを投げて世界記録を更新し、世界トップの女子ハンマー投選手として、世界各国から注目されている。連邦警察官としての任務を担う一方で、ハーゲン通信大学にて法学の学士課程に在学中。現在、トレーニングと生活の拠点はフランクフルトに置いている。 www.bettyheidler.de

ハンマー投は、
心技体のすべてを必要とする種目

1983年、東ドイツ(DDR)統治下のベルリンで産声を上げたベティー・ハイドラー。東ベルリンの記憶は幼すぎたためほとんどないが、学校の体育の授業が、陸上から体操、球技まで多岐に渡り、しかも専門性が高かったことは印象に残っているという。様々なスポーツの専門教育を受けてきた中で、ハンマー投という種目に行き着いたきっかけは何だったのだろうか?

14歳で陸上競技のクラブに入りました。きっかけは仲の良い友達に誘われたことです。中でも投擲(とうてき)のグループが一番楽しそうだったので、そこに所属し、投擲種目全般に親しむようになりました。ハンマー投との出会いは15歳のとき。ベルリンでの競技会の後に、ハンマー投のコーチが「一度、私のところにトレーニングに来ないかい?」と誘ってくれたのです。その誘いを受けて、私はハンマー投の世界に入っていきました。

ハンマー投げ15歳にしてハンマー投の才能を見出されたベティー。ハンマー投の、どんなところに魅力を感じているのだろうか?

この種目の、心技体のすべてを必要とする複合性と、技術面での難易度の高さに魅力を感じています。自分を高めるためには、相当ハードに肉体を酷使する必要があり、技術面では正確性とリズミカルでダイナミックな動きを生み出す勘が求められるのです。そのため、トレーニングは多岐に渡ります。

そんなハードなトレーニングを楽しみながら、ハンマー投を始めて3年後には、ユースやジュニアの大会で好成績を連発。その後もとんとん拍子に国内トップに上り詰め、28歳の今、世界記録保持者として女子ハンマー投のトップに君臨する。トップレベルの結果を出し続けることの難しさは、想像を絶するものがあるだろう。そのモチベーションの源は?

自分のこれまでの実績や成功が、モチベーションの源です。また、トレーニングによって自分の可能性が広がっているという実感を持つことができれば、自分はまだまだやれる、もっと上を目指せると、自ずと闘志が湧いてきます。私にとっては、トレーニングも競技会も、アスリートとしての生活がもたらしてくれるすべてのことが楽しく、苦には感じないのです。

喜びと苦しみ、その経験と共に
ハンマーを投げる

ハンマー投の競技人口は、ドイツ国内でおよそ100人を数えるのみと言われる。高度な技術と成熟した肉体が必要な競技ゆえ、トレーニングの厳しさも折り紙付き。彼女はそれこそが魅力だと言うが、それでもハンマー投の競技者として苦悩もあるのでは?

もっとも難しいことは、トレーニングで培ったことのすべてを競技会で余すことなく発揮し、最高の記録を引き出すことです。日々のトレーニングは本当に楽しいものです。投げることに繋がる一連の動作のすべてが、私に喜びを与えるのですから。でも、結果が出なければだめです。技術なしには、この競技は成り立ちませんが、それだけでもありません。そこにダイナミックな肉体の力と、喜びや苦しみなど経験したすべての要素を加えてようやく、人より遠くまでハンマーを投げることができると思っています。

技術力のほかに大切にしていることは?

肉体的に、さらに作り込むこと。健康を維持すること。そして、自分の目標を見失わないこと! また、私を支えてくれる人たちの声によく耳を傾けること。彼らはいつも、私に大切なことを気付かせてくれ、重要なヒントを与えてくれるのです。

アスリートとしての顔のほかに、警察官としての身分を持つベティー。仕事と競技との両立は難しい?

連邦警察官の職に就きながらも、私はアスリートとして活動することを認められ、任務の一部を免除されているので、全く問題なくトレーニングに励むことができます。年に一度、自分が選んだ部署にて、1つの研修プログラムを修了しなければなりませんが、トレーニングの予定が空いている秋に行うなど、スケジュールを自分で管理できることも利点です。

アスリートとしての活動だけでは、経済的に不安が尽きないと言う彼女にとって、競技に集中させてくれる職業は、まさに天職。一方で、仕事からも、トレーニングからも離れたときは、どんな顔を見せるのか?

オフのときは、たくさん寝て、たくさんの本を読んでいますね。ショッピングに行くのも好きだし、友人や家族と時間を過ごすことも私の楽しみです。

昨年夏にヴェルト紙に掲載されたインタビューは、ドイツのカリスマモデル、ハイディ・クルムが司会を務めるテレビ番組“ Germany's Next Topmodel ”について聞かれるユニークなものだった。それによると、彼女はトレンドにも敏感な28歳。競技に臨むときは、ばっちりアイメイクを決め、カメラ映りだって気にする。ハンマー投の競技者として、普通の女の子よりも逞しい体つきをしている自覚はあるが、モデル体型には憧れない。その理由は、競技を通して精神的な満足感を得て、人生に必要なあらゆることを学んでいるから。

そんな彼女は、ハンマー投の選手としては小柄な175cmの身長に、バランスの取れた体型を誇るが、オフシーズンには筋肉が落ちて8キロも体重が減るという。今はまさに、冬のトレーニング期間の真っ只中。

私にとって、オフシーズンとなる冬の期間が一番ハードです。長い冬の期間、限られた環境の中でトレーニングに没頭しなければならず、ストレスが溜まります。でも、来るべき夏に、表彰台の一番高い場所に立つため、そして自分の目標を達成するため、自分を鼓舞激励し、トレーニングに打ち込んでいます。

一番に立つ、
それは本当に素晴らしい感覚

メダル我慢の冬を越え、表彰台のてっぺんに立つ。経験した者にしか分からない感動があるだろう。

「79.42メートル」。これが、昨年5月に私が叩き出した世界新記録です。この記録を樹立できたことを私は誇りに思うし、それによって、その試技で全力を出し切ったことを証明できました。表彰台に立つことは、自分がこれまでにやってきたすべてのことが正しかったことを示し、これまでのトレーニング、苦しみ、ひた向きさが、意味のあることだったと教えてくれるのです!

ベティーが記録を塗り替える前の世界記録はアニタ・ウォダルチク(ポーランド)の78.30メートル。これに1メートル以上も差を付け、夢の80メートルを目前にした大記録。日本記録が室伏由佳の67.77メートルであることからも、彼女のパフォーマンスがどれほどのレベルかが分かる。アスリート人生において、特に思い出に残っている瞬間は?

思い出に残るシーンは多々あります。その中でも最高の瞬間は、2007年の世界陸上での優勝です! そしてもちろん、世界新記録を生み出した瞬間。また、4位ではありましたが、2004年のアテネ五輪も深く印象に残っています。

2007年の世界陸上は日本・大阪での開催。彼女の目に、日本はどのように移ったのか?

日本は、ただただ素晴らしかった!そこでは、すべてが完璧。大会の進行も、人々の友好的な対応も。日本での競技会は文句なしに素晴らしい雰囲気でした。

世界陸上のほか、数々の世界大会で表彰台の常連である彼女も、オリンピックでは、まだメダルなし。今回のロンドン五輪に懸ける想いは?そして、そこで勝つために必要なこととは?

まず、77メートル以上の投擲は必須だと思います。昨年の世界記録の更新により、女子ハンマー投選手として、初の80メートル台という快挙も近付いていますが、私の今の一番の目標は、ロンドン五輪でメダルを勝ち取ることです!ドイツ代表のユニフォームを着ることを許される。そのことが私にとって大きな名誉であり、また、連邦警察官としても、ドイツという国を代表する立場で、競技に臨めることを誇りに思います。

ハンマー投げ

五輪では誰がライバルになる?

近年、ロシア、ポーランド、中国、キューバは強豪が揃っています。彼らが私の最大のライバルです。

アスリートとしての目標、そして、その先にあるものは?

まずは、より良いパフォーマンスを目指して日々努力し、様々な名立たる選手権大会で成果を挙げること。世界一になること。トップに立つ、それは本当に素晴らしい感覚です。そのためにトレーニングをしているといっても過言ではありません。職業の面では、まだまだやるべきことがあります。連邦警察官という職に就けて、私は幸せです。その傍らで法学を学んでいるので、大学を卒業することも目標です。

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くせのある赤毛を頭のてっぺんで1つにまとめたベティーが、サークルの中でトルネードのようにパワフルに4回転し、ハンマーを天に向けて放つ。その一連の動作は、まさに一寸の隙も、迷いもなく美しい。サークルを出れば、天真爛漫な笑顔を周囲に向ける余裕を持てるのは、彼女が成熟した精神力を持ち合わせているから。ハンマー投という競技に向ける、純粋過ぎるほど一途な姿勢を貫き、ベティーは今、ひたすらにロンドン五輪を目指し戦っている。

競技解説
陸上競技の投擲競技に属する種目ハンマー投は、アイルランド発祥のスポーツと伝えられている。ハンマーは、ワイヤーの先に砲丸が付いているもので、ワイヤーの長さは男子で1.175~1.215メートル、女子で1.160~1.195メートル、ハンマーの総重量は、男子で7.260キロ、女子が4キロと定められている。直径2.135メートルのサークルから回転しながら投げ、角度34.92度に広がるラインの内側に入ったものが有効となる。日本人選手としては、室伏広治が2004年のアテネ五輪で優勝、11年世界陸上で優勝するなど活躍している。

最終更新 Dienstag, 06 August 2019 16:29
 

正月なのに:暗いドイツから、暗い日本へ - 神尾 達之

©Maki Shimizu

正月なのに:暗いドイツから、暗い日本へ

作曲家シューベルトの『冬の旅』に収められた「三つの太陽」は、「Im Dunkeln wird mir wohlersein.(暗闇のほうが気分もいいだろう)」で結ばれている。ひょっとすると、ここにはドイツ人の美意識が端的に表れているのではないかと思ったのが、初めてドイツで冬を過ごした時のことだった。ドイツの冬は本当に暗いから、暗さそのものを逆転の発想で快感の原理にしなければならないという倒錯が起こるのかもしれないと考えたのだ。ドイツに留学したのは1980年代半ばのことだったが、教室や図書館が暗いのに驚いた。アジアから来た留学生の中には、ドイツに来てから視力が落ちたと嘆く人もいた。帰国後、私も眼鏡の度数が上がった。レストランや居酒屋だけでなく、自宅に招待された時でも、室内の照明はおおむねロウソクによるものだった。だが、その暗さは決して不快なものではなく、むしろお互いの距離が縮まる心地良い雰囲気を醸し出してくれた。これこそドイツ語で言う“gemütlich”な空間だと実感した。その暗さの中では、人と人は外見によってではなく、声によってつながる。言葉によってつながる。昼間のゼミで、すべてを正確に言葉にすることが求められたのと同じように、晩の憩いの時間にも言葉が人と人とをつないだ。『魔笛』のパパゲーノは黙っていることを罰として命じられたが、沈黙が罰であるのはこの暗い空間の中では当然なのかもしれない。いずれにしても、ロウソクの明かりを挟んで向き合う空間の暗さは、日本人の私にとっても心が落ち着くものだった。

2011年は、日本でも照明が暗くなった。3月11日以降、節電が必要になり、私の研究室の前の廊下も暗くなった。蛍光灯が1つおきに点灯されるようになったからだ。場所によっては町全体が計画停電で暗くなったところもあった。この暗さは、東日本大震災がもたらした日本の未来の危うさを象徴していた。閉店法(Ladenschlussgesetz)がない日本では、それまで幸いにして(?)四六時中、コンビニエンスストアだけでなく、いたるところで人工的な明るさを維持することが可能だった。それが「3.11」以降、不可能になった。電力消費量が上昇する冬には、日本は再び暗さを受け入れなければならない。

©Maki Shimizu

 

新年早々、暗い話になったことをお許しいただきたい。だが、本稿を執筆中の2011年11月現在、2012年に向けた年賀状には、例年のようにほぼ自動的に「明けましておめでとうございます」と書く気持ちになれない。確かに、新しい年が始まることそのものを無邪気に喜ぶことは悪くない習慣だ。去る年をいわば「ちゃらにする」ことで、新年は心機一転、新たな気持ちで出直そうという心意気そのものは、決して責められるべきものではない。そのようなオプティミズムこそが、未来に向かう原動力になることは否定できない。しかしながら、「明けましておめでとうございます」は、字義通りに理解すれば、去る年の記憶を洗い流すことを前提にしているように思われる。

ドイツ語では、新年の挨拶は「Ich wünscheIhnen ein glückliches neues Jahr!(幸せな新年をお祈りいたします)」だろう。ここでは、去年がようやく終わり、新しい年になったというニュアンスは強くない。ドイツでは過去を忘却することは、最も戒められるべき姿勢の1つである。「ちゃらにする」ことはできないのだ。直近の例を挙げよう。シュピーゲル誌の2010年第37号には、日本を代表するアニメーション作家の宮崎駿監督を紹介する記事が掲載されていた。その時点での宮崎監督の最新作は『崖の上のポニョ』だった。その記事の中で彼は、この作品において「大きな波」というモチーフがポジティブな意味を持っていると語っている。同誌の2011年第12号の表紙には、“FUKUSHIMA”というアルファベットの背後に、福島第1原子力発電所の忌まわしい姿が浮かび上がっているが、この号でも前年の宮崎監督の「大きな波」についての発言が再び引用されている。そこには主張の一貫性を求めるような強い調子はないし、宮崎監督の発言が批判されているわけでもない。しかし、私はこの記事を読んで、ドイツ人にとって忘却がいかに困難であるかをひしひしと感じた。過去を忘れることはできないのだ。だから、年が替わっても明けない。これがドイツ人の、少なくとも第2次世界大戦後の時間感覚なのかもしれない。

1995年の阪神・淡路大震災を経験したノンフィクションライターの松本創氏は、目下、東日本大震災の被災地を取材している。『G2』vol.8に掲載された記事によれば、かつての大震災で彼が感じた「最大の敵」である「風化」が、東日本大震災に関しては、すでに始まっているという。

このところ、私の研究室の前の廊下では蛍光灯の明かりが再びこうこうと照らされるようになった。明るさは忘却の証なのかもしれない。しかし21世紀の日本は、忘却が許されない暗い国ドイツから、明るさと暗さについて、そして忘却と記憶について、多くのことを学ばなければならないだろう。それは、必ずしもドイツを模範とすべきということではない。しかしながら、日本が「忘れない暗い国ドイツ」から持続可能な明るさの条件を学び取った時にこそ、後ろめたさを感じずに「明けましておめでとうございます」と書くことができるはずだ。そう言えば、2011年、なでしこジャパンはドイツから日本に、希望の光をおみやげに持って帰ってきてくれたではないか。2012年にはブンデスリーガで活躍する香川選手や長谷部選手らが、新たな光をドイツから日本に運んでくれることを期待しつつ、新年を迎えることにしたい。

神尾 達之(かみお たつゆき) 早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門は身体表象論と文化学。著書に『ヴェール/ファロス 真理への欲望をめぐる物語』(ブリュッケ、2005)『纏う 表層の戯れの彼方に』(水声社、2007;共著)『Schriftlichkeit und Bildlichkeit』(Wilhelm Fink、2007;共著)など。

最終更新 Freitag, 06 Januar 2012 14:31
 

永里優季インタビュー

永里優季インタビューYuki Nagasato

「インタビューの前に少し筋トレをしたいのですが」。チーム練習の後、初めてお会いした永里優季選手は、そう言って奥から大きな鉄アレイを取り出して来た。ほかのチームメートが帰った後も、広いグランドの脇で1人黙々と肉体強化に励む姿がとても印象的だ。やがて、晴れやかな表情で現れた彼女。2010年1月より女子ブンデスリーガ1部の強豪トゥルビネ・ポツダム(1. FFC Turbine Potsdam)でプレーし、11年に女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で優勝を果たした「なでしこジャパン」のメンバーでもある永里選手に、ドイツでの生活からサッカー観まで、たっぷり話を伺った。 (インタビュー・構成:中村真人)

ながさと ゆうき
ながさとゆうき1987年7月15日生まれ。神奈川県の厚木東高校出身。2000年、13歳で日テレ・メニーナに入団。 2004年には日本女子代表に初選出。16歳で日テレ・ベレーザに昇格。 2011年9月までに75試合に出場、32得点を挙げている。2010年、ドイツのトゥルビネ・ポツダムに移籍。ここで、日本人として初の欧州CL優勝を果たした。2011年W杯ドイツ大会では全試合出場、1得点を挙げ、日本の優勝に貢献した。
トゥルビネ・ポツダム: www.ffc-turbine.de

トゥルビネ・ポツダムと女子ブンデスリーガ

「感覚でプレーしないとフットボールが成り立たない」

2010年からドイツでプレーされていますが、どんな思いがあってドイツに来ることになったのですか?

中学生の頃から海外でプレーしたいという思いを持っていました。サッカーが文化として根付いているヨーロッパ、その中でも一番レベルが高いのがドイツで、そこで自分を成長させたいと思ったんです。

トゥルビネ・ポツダムを選んだ理由は?

もう1つ別のチームからもオファーはあったのですが、単純にポツダムのレベルの方が高かったので、こちらを選びました。

永里優季選手先ほどトレーニングを見学させていただいて、素晴らしい環境の中でプレーされているなと感じました。チームの下部組織の10代の女の子たちも同じフィールド内で練習していましたね。サッカーを取り巻く環境は、日本とは大分違いますか?

ドイツに来る前、日本で所属していた日テレ・ベレーザの環境がとても良かったので、正直そこまで大きな違いは感じなかったというか……。環境によってそれぞれの良さを見出せばいいので、(日本とドイツを)比較して見てはいないですね。ただ、ドイツでは1つの文化として女子サッカーが根付いていることは間違いありません。サッカー人口にしても、確か日本は2万5000人、ドイツは20万人だったかな?そのくらいの大きな違いがあります。

では、日本とドイツのプレースタイルの違いはどうでしょうか。求められるものに違いはありましたか?

ありました。最近感じるのは、ドイツのサッカーはシンプルで、前(の方向)に速いサッカー。日本にいた時は、ボールを持ってから多少考える時間があって、スペースにも余裕を持った状態でプレーできてしまう。ドイツでは、そこで考え たりするとチームのリズムが狂ってしまいます。判断、パス、ランニングなど、すべてにおいてスピードが求められるし、動きながらプレーしなければならない。感覚でプレーしないとフットボールが成り立たないんです。

選手同士の意思疎通も感覚によるものが大きい?

試合中も、その場その場で感じたままにプレーをしています。言葉よりもピッチ上で感覚的に分かる部分が大きいですね。むしろ、言葉を使わないでコンビネーションが取れてこそ、フットボールだと私は思っています。

この2年の中で成長したと感じる点は?やはりプレーのスピードでしょうか?

その部分は大きいですし、プレーがシンプルなだけに、得点を奪う感覚がより引き出された気がします。もともと持っていたものがより洗練され、自分の意図した形で、意識して点を取れるようになりました。だから、ゴールが生まれた理由は全部説明が付けられます。

女子チャンピオンズリーグの対グラスゴー(英国)戦をスタジアムで観戦したのですが、そこでも2得点を決めましたね。

チームメートのFW(6番のアノンマ選手)が純粋な点取り屋タイプなので、彼女のコンディションによって自分の役割も変えざるを得ない。得点も狙いたいけれど、その役割だけに徹してしまうとほかが成り立たないので、バランスを取りながら、守備に回る場合もあります。「チームメートに点を 取らせる一方で、自分もいかにして点を取れるか」が、今の自分のテーマ。そして、流れを生み出すプレーをしたい。例えば、縦パスを一本受けたり、サイドで起点になったり。そういったプレーがあると、周りの選手も流れに乗って、チームの状況が変わってきますから。

ポツダムでの生活

「勉強するのは好き」

永里選手のブログをよく拝見していますが、内容が哲学的であったり、詩のようであったり、ほかのスポーツ選手とは少し違うなと感じました。

自分で「考える」ことがもともと好きなんです。ただ、本はほとんど読みません。自分の経験したこと、感じていることをそのまま言葉にしているだけですね。ブログとツイッター、あと自分のノートを組み合わせて思考の整理をしています。

移籍してから間もなく2年が経ちます。ポツダムでの生活は満喫されていますか?

日本よりもこちらのほうが住みやすいです。サッカーの環境も抜群だし、ポツダムはとても静かで、街の人もやさしい。サッカーに集中できる環境ですね。住まいもトレーニング場から歩ける距離にありますし。

オフの日はどう過ごされていますか?

試合の前日がオフなのですが、過ごし方は大体いつも同じで、午前は家、午後はブランデンブルク通りにあるお気に入りのカフェに行きます。

サッカーは、お兄さんの影響で始められたとか?

実を言うと、小学校1年生の時、父に説得されていやいや始めました。兄(永里源気)はFC東京、妹(永里亜紗乃)も日テレ・ベレーザに所属するサッカー選手です。

ドイツ語の勉強はどのようにされていますか?語学学校などに通われたのですか?

はい、ドイツ語の学校には週3回、今でも通っていて、毎回4時間の授業を受けています。私の場合、例えばピッチの上で話されていることが分かればいいと思っていて、言葉を理解するためにドイツ語を勉強している感じですね。あとは日常生活で困らないために。基本的に勉強するのは好きなので、語学の勉強も苦ではないんです。ピッチ上で話されるドイツ語は、ほぼ理解できます。

語学のセンスに優れているのでしょうね。

うーん、どうでしょう。耳がいいのかな。4歳からピアノを11年間ぐらいやっていたので、それが生きているのかもしれません。サッカーよりピアノを先に始めたんです。

ワールドカップ優勝

永里優季の2011年とサッカー観

「1つ信念を持って挑んだ」

昨年、トゥルビネ・ポツダムが女子ブンデスリーガで優勝を決めたのは、東日本大震災の直後だったと聞いています。

優勝を決める試合が行われたのが、震災の2日後だったんです。日本代表のポルトガル遠征から帰って来た次の日でした。

あの試合には、特別な思いがあったのでは?

そうならざるを得ない状況だったし、試合前にスタジアムの全員が黙とうをしてくれて、感慨深かったです。自分のチームと日本のためにプレーをしようと思いました。表彰式の時に、ヴルフ大統領に励ましの言葉をかけていただいたことも印象に残っています。

なでしこジャパンのW杯優勝は、日本の国民に大きな力を与えるものでした。振り返ってみて、個人的にはどのような大会でしたか?

チームとしての目標とは別に、自分の目標を持って挑んだ部分があって、大会を通して(目標に向かって)やり抜くことができた。それによって、新たな目標を見付けられたのが一番大きかったです。自分の中で1つ信念を持って挑み抜けたことがW杯での収穫です。

自分の目標だったものとは?

ドイツのサッカーを経験して、自分のサッカー観がガラっと変わりました。「フットボールとは何か」について、考えるようになったんです。正直、ここでプレーしている自分のすべてを日本のサッカーで出すことはできない。サッカーの考え方、戦術、システム、チームメートのプレーが、みんな違うからです。でも、日本のサッカーに合わせて個を消すのではなく、ドイツで見付けた自分の力を日本のサッカーで表現し続けたい、というチャレンジでした。結果的に、現段階でそれは難しいということが分かりました。それをやり続けたことによって、ドイツ戦(準々決勝)の前半で交替させられ、最後の2試合はベンチスタートになってしまった。でも、そこには自分として貫いた部分があったので、後悔はしていません。

自分が出したいものとチームの求めるものとの間で、せめぎ合いがあったのですね。

守備に回る時間の方が長くなり、結果、攻撃の部分で力を発揮できなかったのは確かです。日本のサッカーでは、FWに求めるのもまずは守備。もちろん、守備をしなければならないのは当然ですが、その方法が違います。日本では、数的優位を作ってボールを奪いにいく。ポツダムの守備は1対1を重視し、相手をどれだけ上回れるかということの連続。それだけ攻撃に掛けられる割合も多くなります。むしろ「下がってくるな!」と言われるほど。つまり、1人ひとりの責任が明確なのです。

永里選手が目指す理想のサッカーとは?

私は、自分でやっていても、見ていても楽しいサッカー、観客を「フットボール」として魅了できるサッカーをしたいと思っています。サッカー選手は表現者だから、フットボールの本当の魅力を表現すべき。守備的なサッカーには魅力を感じません。攻撃的でアグレッシブなサッカーが人を惹き付けるし、やっていても面白い。

新年に向けて

「継続して積み重ねていくこと」

2012年はロンドン五輪の年。多くの日本人がW杯の再来を期待していると思います。

トゥルビネ・ポツダム

出場国も全部決まっていない段階ですし、五輪のことはまだほとんど考えていません。もちろん、やるからには優勝を目指しますよ。チームのタイトルは後から付いてくるので、自分の目指すものがチームの目標につながっていけばいいですね。

永里選手の今年の抱負をお聞かせください。

リーグ戦は年をまたぐものなので、年が変わっても、大事なのはいつでも「継続して積み重ねていくこと」です。先ほどお話ししたように、今の私の課題は「中盤をサポートする時間帯が増える中でも、自分が得点を奪う時間を見付ける」ということですが、シーズンを通して目標、課題は変わっていきます。ピッチ内で起きている現象に対して、その時々で課題を見付けて取り組む。目標は1つではないし、いくつかの目標を同時進行していくものです。あとは単純にゴールを積み重ねることですね。今季は30ゴールが目標。それを目指す過程でいろんな感覚、経験を手にしていければいいなと思います。そして、確信できることを増やしたい。自分のゴール、ピッチで起きている現象をすべて言葉で説明できるようになりたいです。

感覚でサッカーをするという話が先ほど出ましたが、一方で「言葉にする」ことにも強い熱意を持っているのですね。

そうですね。自分が経験したことを言葉にできないと、社会に対して還元していくことはできませんから。

インタビュー中、20代前半の女性アスリートと話しているとはとても思えないと感じる瞬間が多々あった。とにかく徹底的に考える人だ。自分が感じたこと、考えたことだけを正直に話そうとする。そのまっすぐさ、潔さには感銘さえ受けた。最後に読者向けの新春のメッセージをお願いしようとしたが、ありきたりの言葉は彼女の口から出てきそうになかったし、すでに大事なメッセージは発せられていたのかもしれない。「年が変わっても、その時々で課題を見付けて、継続して積み重ねていくこと」。1人で黙々と筋トレをしている様子が脳裏に浮かぶ。永里選手の2012年の進化が楽しみだ。

最終更新 Dienstag, 06 August 2019 16:39
 

ロンドン五輪 近代五種競技代表候補 レナ・シェーネボル選手インタビュー

ロンドン五輪代表候補にインタビュー

レナ・シェーネボル近代五種競技・ドイツ代表候補  レナ・シェーネボルン

Lena Schöneborn
1986年4月11日生まれ、ノルトライン=ヴェストファーレン州トロイスドルフ出身。幼少時から体操、陸上、テニス、水泳など様々なスポーツに挑戦し、14歳のときに近代五種競技 を始める。2008年北京五輪で優勝を果たし、同年、各界の活躍者に贈られるゴルデネ・ヘネ賞の「出世者賞」を受賞。10年欧州選手権2位、11年欧州選手権優勝。現在、世界ランキング1位。所属クラブはSSFボン05。ベルリン経済・法科大学でインターナショナル・マーケティング・マネージメントの修士課程に在籍中。好物はコーヒー。北京五輪前2週間はコーヒーを絶ち、競技当日の朝に飲んで 気合いを入れたというエピソードも。 www.lena-schoeneborn.com

「近代五種競技」というのは、文字通り5種目をこなすスポーツです。競技を始めたとき、「これはちょっと負荷が大きいかも」というような思いはありませんでしたか。

それは考えなかったですね。むしろ、「こんなに多くの種目を一度にできるなんてクール!」という思いでした。私は10歳の頃から地元のスポーツ・クラブで水泳を習っていたのですが、そのときのコーチが近代五種のトレーナーでもあったのです。そこで「ちょっと試してみるか」という話になり、ランニングや射撃、フェンシングと徐々に競技の幅を広げていきました。どれもすごく楽しくて。水泳を重点的に続けてはいたものの、1つの競技を徹底してやるという才能は自分にはないのかもしれないと思い始めていた時期だったので、近代五種をやろうと決意しました。

5種目の中で得意、不得意はありますか。

得意な種目はフェンシングです。習い始めた当初から左手を使い、しかも多くの選手のように柄の部分がピストル状になったベルギアンやヴィスコンチなどではなく、棒状のフレンチ剣を使用していますが、これだと剣 の後方を持ち、相手より素早く突くことができるのです。逆に言えば、グリップの安定感に欠け、ディフェンス面では劣るという弱点はあるのですが。いずれにせよ、この方法で相手より先に得点する技を学んできました。

不得意な種目は特にありません。5種目すべてにおいてバランスが取れているということが、私の長所だと思っています。得意なフェンシングを除き、ほかの種目では首位に立ったこともなければ、下位についたこともありません。

競技馬の抽選後に味わう
むずがゆいような緊張感が好きです

乗馬では、競技馬は大会当日に割り当てられるそうですね。

そう。どんな馬に当たるか分からないからこそ、抽選から実際に馬の背中にまたがるまでの間に味わう、むずがゆいような緊張感が好きです。そして、乗った瞬間に静かなタイプか、それともあまり落ち着きのないタイプかなど、馬の特徴を見極めなければいけないのですが、障害を越える過程で馬の性格が変わることがあります。また、すべての馬が一様に私の命令に従ってくれるわけでもなく、馬との意思疎通が図れないこともあるので、馬のスタイルを瞬時に把握し、適応することが重要になってきます。

2009年に射撃とランニングが複合形式となり、10年には射撃がエアピストルからレーザーへ変更されるなど、ルール改定が盛んな競技ですが、そうした動きに順応するのは大変ですか。

射撃とランニングが複合形式で行われることが決まったときは、「なんて意地悪な……」と思いました。やっと競技への取り組み方を見付けたと思っていたところだったので。あっという間に新ルールが導入され、気持ちも技術も追い付かず、ここで競技生活を辞めようかとも考えました。でも、やはりこのスポーツが大好きだし、それまでに多くの時間と労力を費やしてきた競技なので、気持ちを切り替え、「新たな挑戦」と捉えることにしました。そんな折に、今度は射撃の様式変更。それを聞かされたのが、昨年のワールドカップ開催の3週間前ですよ! 大会前は通常、熟知したルールをいかに上手く利用し、記録を出すかを考えながら練習するので、そのときはかなり不満を覚えましたね。私の場合、それまでランニングを終えて射撃の姿勢に入るまでに2回深呼吸する時間があったのですが、エアからレーザーになったことでその時間が持てなくなり、呼吸困難になるかと思いました。そのくらい大きな違いです。

今ようやくオフシーズンに入り、練習に集中できる時期なので、新方式に慣れるために色々試しています。

2008年、五輪初出場にして見事金メダルを獲得されました。

北京五輪で金メダル
2008年8月、北京五輪の競技後、表彰台にて。左は2位のヘザー・フェル(英国)、右は3位のヴィクトリア・テレシュク(ウクライナ)

北京五輪には、出場することに意義があると思って参加しました。特に印象的だったのが開幕式。ドイツ選手団が、大観衆が迎えるスタジアムへと行進していく中、気分が高揚して、とにかく感激しました。そんなに大きなイベントとは想像していなかったものですから。その感動が大き過ぎて、自分の競技自体はあまり重要ではないと思ったくらい(笑)。でも、最終種目のランニングを1位でスタートしたとき、「これはいける」と思いました。それまでトップでスタートした経験がなかったので。優勝を実感したのは、結果が出て表彰台に立ち、ドイツ国歌を聴き、家族や友人、大勢の報道陣に囲まれたときです。あんなに注目されたのは、スポーツ人生の中で初めてでした。

ロンドン五輪でも、目指すのはやはり「金」ですか。

「優勝したい」と、簡単には言えません。トレーニングで積み重ねてきたことを、最大限発揮するのみです。すべての種目で自己ベストを出して4位になったとしても、悔いはないと思います。経験上、全種目でベストを尽くせば、自ずとそれなりの結果が付いてくることは分かっています。

周囲からのプレッシャーも感じますが、それにとらわれ過ぎないようにしています。「結果を出さなきゃ」などと考えていると、国の代表として出場する栄誉も、重荷になってしまいますから。個々の種目に集中さえできれば、失敗することはないと信じています。

最小のエネルギーで
最大の効果を出すための計算は、一種の芸術

普段、どんなトレーニングをしていますか。

基礎体力を付けるため、ジョギングを週6回、水泳を週5回行っています。あとは、五輪に向け、現在は乗馬と射撃に注力しています。2月には、米コロラド・スプリングスで集中合宿を行う予定です。

何が最適な技術なのかを自分で把握しているので、トレーニングはその技術を身に付け、理想の状態に近付くための手段と捉えています。どこで何を改善できるのか、何が可能なのか、どんな練習が有益なのかを突き詰めるのです。例えば、水泳の記録を1秒縮めるために今より4時間長く泳ぐこともできますが、本当にそこに意味があるのかを考えます。だったら、その時間を射撃の練習に費やした方がより効果的なのではないかと。どの種目において最小のエネルギーで最大の効果を出せるか、そこを上手く計算する。それは一種の芸術のようなものです。

近代五種の知名度は高いとは言えず、競技人口も多くありません。この状況が変わる余地はあると思いますか。

世界選手権・射撃
2009年8月、ロンドンで行われた世界選手権、射撃に挑む瞬間。同大会では3位に輝いた

近代五種の競技人口がほかのスポーツに比べて少ないのは事実です。原因の1つは、膨大な時間とコストが掛かるという点にあると思います。ドイツ代表に選ばれて初めて、用具やトレーニング、大会遠征費が支給されるという状況です。また、各種目を週1回練習したとしても、それだけで5日掛かってしまうので、特にやりたいことがたくさんある若い世代には不人気なのかもしれません。私は両親の理解と支援のおかげで続けてこられましたが、「そこまでこのスポーツに肩入れできるか?」と考えるのは無理のないことだと思います。

ただ、私が北京五輪で優勝した後、ドイツでは近代五種をやりたいと地元のクラブに申し出る小さな子どもたちが増えたようです。特に女の子が多かったとか。この人気を維持し、後継者を育てるためには、五輪種目であり続けることが大事だと思います。五輪種目であるか否かは、そのスポーツの人気を左右しますから。そして、学業と両立できる支援体制が整えば、近代五種の未来はきっと明るいでしょう。

現在、大学の修士課程でマーケティングを専攻されています。将来の目標は。

「スポーツをやっていたら、いつけがをするか分からない。そうなったとき、ほかに選択肢がなかったら?」。両親が常に私にそう言い、勉強するよう鼓舞してくれました。だから、大学進学は当然の成り行きだったのです。マーケティングを専攻したのは、単に興味があったから。英語を使って何か国際的な学問を学びたいと考えて決めました。今の大学は、自分のトレーニング・プランに合わせて授業や試験のスケジュールを立てられるのがメリットです。

将来のことは……これまでオリンピック開催周期に合わせて計画を立ててきたので、今のところはロンドン五輪以降のことは考えていません。でも、もし将来、近代五種がテレビ中継されるようになったら、私はキャスターとして解説しているかもしれませんね(笑)。

競技解説
5種目/馬術フェンシング、水泳、馬術、バイアスロン形式の射撃とランニングを合わせた計5種目の複合競技。フェンシングは1分1本勝負の総当たり戦。水泳は200メートル自由形。馬術では15の障害を越え、ランニング & 射撃は、馬術の時点で最も記録が良かった選手からスタートするハンディキャップ制。19世紀、ナポレオン統治時代のフランスで、急使が馬を操り敵陣に乗り込んだものの、敵軍に突き落とされて剣とピストルで戦うことを余儀なくされ、川を泳いで渡り、最後は走って自陣にたどり着いたという故事が競技の由縁とされる。


最終更新 Dienstag, 06 August 2019 16:43
 

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