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特集


ベルリン黄金の20年代 - ワイマール共和国

20世紀で最も魅惑的で退廃的な時代 ベルリン黄金の20年代

第一次世界大戦後のドイツで1919年に成立し、1933年のナチスの台頭によって崩壊した「ワイマール共和国」。米国やフランスと時を同じくして、1920年代のドイツでも首都ベルリンを中心に芸術文化が栄えたことから、この時代は「黄金の20年代(Goldene Zwanziger)」とも呼ばれる。民主主義の精神や自由な思想を謳歌したワイマール共和国から、なぜナチス政権が誕生したのか。当時の文化人たちはその後、どのような運命をたどったのか……。1920年代から100年が経過した今、ワイマール共和国に思いを馳せる。(Text: 編集部)

14年間しか存在しなかった国
ワイマール共和国の夢と崩壊

ワイマール共和国の成立

1918年、第一次世界大戦に破れたドイツでは11月革命によって帝政が崩壊。翌年1919年にワイマール憲法が制定され、ワイマール共和国は成立した。この憲法は、各州による連邦制や議会制民主主義をはじめ、基本的人権の尊重、20歳以上の男女の選挙権などが盛り込まれた民主的かつ理想的なもので、現在のドイツ連邦共和国の憲法に当たる基本法もこれに倣っているという。しかし憲法第48条には、国家の緊急事態に大統領が発令できる「大統領の非常権力に関する規定」があり、後にナチス政権の樹立時に大きな役割を果たすことに。

民主的な国家が成立した一方で、1919年に敗戦国としてヴェルサイユ条約を受け入れたドイツは、領土の縮小や1320億マルクという天文学的な賠償金を課されるなどの問題に直面。政府は賠償金の支払いのために国内の工業化や技術革新を進め、ベルリンには地方からの労働者が集まってきた。また、賠償金の支払いに応じるために大量の紙幣を発行したことが原因で、通貨価値が暴落してハイパーインフレーションが起こる。さらに1923年には、ドイツが賠償金の支払いを渋ったことを理由にフランスとベルギーが、ドイツ工業の心臓ともいえるルール地方を占拠。共和制国家の権力基盤はなかなか安定せず、社会不安は次第に募っていった。

紙きれ同然となった紙幣を箱に詰め、古紙として販売する人々1918〜1923年までの約5年間で、ドイツの物価が1兆倍に。写真は、紙きれ同然となった紙幣を箱に詰め、古紙として販売する人々

退廃ムード漂うベルリンが生み出した「黄金時代」

工業化の犠牲となった労働者たちは貧困と度重なるインフレにあえぎ、ベルリンの街中では売春やドラッグが横行していた。この退廃的なムードは、キャバレーやナイトクラブを代表とする大衆文化が栄える契機ともなり、さらにラジオや映画などの新しいメディアが普及。当時最も進んだ民主憲法のもと「自由な思想」を謳歌しようと、ベルリンに数多くの芸術家や学者が集い、芸術文化が一気に花開いていった。

この時代の様子を、20年代生まれのドイツの政治思想家クルト・ゾントハイマーは「ドイツ史の中で、これほど豊かであると同時に乏しく、大胆であると同時に意気消沈し、創造的であると同時に単純で、開放的であると同時に反動的であった時代は決して存在しなかった」と語る。「黄金の20年代」には「狂騒の20年代(Die Wilden 20er Jahre)」という異名もあり、ワイマール文化は魅力と退廃が織り合わさった奇妙な時代の産物だったのだ。

ナチス政権誕生と共和国の崩壊

ワイマール憲法の理念のもと、栄華を誇ったベルリンだったが、自由な共和国の夢は長く続かなかった。1929年、ニューヨーク株式が大暴落して世界恐慌が起こると、ドイツの失業者数は300万人から倍の600万人に膨れ上がり、ハイパーインフレが深刻化。共和国政府に対する国民の不満が頂点に達していたところに、「賠償金の支払い停止」や「地代の廃止」を掲げる右翼政党のナチスが、労働者層を中心に支持を拡大していった。

1925年にワイマール共和国の第二代大統領に就任したヒンデンブルク大統領は、1934年に87歳で死去。ヒトラーは即日、大統領と首相の権限を合わせた「総統」となった1925年にワイマール共和国の第二代大統領に就任したヒンデンブルク大統領は、1934年に87歳で死去。ヒトラーは即日、大統領と首相の権限を合わせた「総統」となった

そして1933年1月30日、ワイマール共和国の大統領ヒンデンブルクによって、ナチス党の党首アドルフ・ヒトラーが首相に任命される。翌月の2月27日に国会議事堂炎上事件が起きると、これを共産主義者による国家転覆の陰謀であるとして、ワイマール憲法第48条に基づく「大統領緊急令」を発布。これによって国民の基本権が停止され、ワイマール憲法は形骸化した。さらに3月23日には、国会審議を経ずに政府が全ての法律を制定できる全権委任法が成立。ヒトラー政権発足からわずか54日で独裁への扉が開かれ、ワイマール共和国は事実上崩壊したのだった。

参考:Berliner Landeszentrale für politische Bildung「 Metropole Berlin Traum und Realität 1920|2020」、Bundesministerium für Wirtschaft und Energie「Die 20er Jahre glänzen golden 1924-1928」、田中辰明「ワイマール共和国時代(1920 年代)のベルリン」、ウォルター・ラカー「ワイマル文化を生きた人びと」

20年代に花開いた芸術文化とその後

1920年代のベルリンで一気に花開いた芸術文化。当時のベルリンに集って時代を謳歌した文化人たちは、ナチス政権の誕生よって国内で弾圧される者もいれば、国外へと亡命する者も。ワイマール共和国時代に繁栄した代表的な芸術と、時代に翻弄された文化人たちの姿を追う。

KUNST

ドイツ表現主義と「退廃芸術」

ワイマール共和国時代に最も栄えた芸術スタイルの一つに、第一次世界大戦前に始まった「表現主義(Expressionism)」がある。この様式は客観的な表現を排し、内面的な「目に見えないもの」を主観的に強調するもので、当時のドイツの画壇に衝撃を与えた。

ドイツ表現主義の起点となったのは、1905年にドレスデンで始まり、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーやエミール・ノルデなどが参加した前衛絵画グループ「ブリュッケ(橋)」。強い輪郭線や象徴的な色使いによるデフォルメ表現が特徴で、市民社会に対する批判的・挑戦的な姿勢を貫いていた。また、1911年にミュンヘンを拠点にはじまったグループ「青騎士」には、ワシリー・カンディンスキーやパウル・クレーなどが参加し、彼らはバウハウスの講師にも迎えられている。その後、ドイツ表現主義は建築や舞踊、音楽などの分野でも流行し、現代芸術の先駆となった。

しかし、古代ギリシャや中世ヨーロッパの美術を好んだヒトラー政権は、ほぼ全ての近代芸術(表現主義、印象派、ダダイスム、合理主義など)の作品を「退廃」であるとして没収。「退廃芸術家」の烙印を押された芸術家たちは、ドイツ国外への亡命に成功した者もいたが、国内にとどまった芸術家たちは絵画制作や画材の購入を厳しく制限され、ユダヤ人画家たちの中には強制収容所で最期を迎えた者もいた。

ブリュッケの設立メンバーであるキルヒナーの作品ブリュッケの設立メンバーであるキルヒナーの作品。キルヒナーは1933年にナチスにより「退廃芸術」の烙印を押され、「退廃芸術展」に自身の作品が32点出品されたことなどにショックを受け、1938年にピストルで自殺してしまう
ナチスによって没収された作品は、「退廃芸術展」に出品されてドイツ国内を巡回したほか、党の資金集めのために国外で売却されたり、一部はベルリンで焼却されたりしたナチスによって没収された作品は、「退廃芸術展」に出品されてドイツ国内を巡回したほか、党の資金集めのために国外で売却されたり、一部はベルリンで焼却されたりした

参考:www.bruecke-museum.de、www.zeitklicks.de/weimarer-republik、Lebendiges Museum Online「Weimarer Republik - Kunst und Kultur - Film und Kino」

FILM

ハリウッドに次ぐ映画大国に成長

黄金の20年代は、ドイツ映画が栄光に輝いた時代だ。ポツダムの映画会社UFAは米国ハリウッドに次いで多くの作品を世界に送り出し、ワイマール共和国は映画大国となった。1918〜1930年の間に、ドイツ国内の映画館は2300カ所から5000カ所に増え、1920年代半ばには毎日およそ200万人が映画館を訪れたという。ドイツ映画の古典作品といえば、1920年に公開された「カリガリ博士(Das Cabinet des Dr. Caligari)」。カリガリ博士と夢遊病者のチェザーレが引き起こした殺人事件を題材にした本作は、表現主義の絵画のような舞台セットが特徴的で、斬新な作風で人々を魅了した。

1927年には、ドイツ映画史に残る傑作の一つ「メトロポリス(Metropolis)」が公開された。同作は、地下で働く労働者の犠牲と引き換えに地上の人々が裕福に暮らす、という100年後のディストピアを描いたSF作品。その完成度の高さから監督のフリッツ・ラングは世界的に評価され、後にナチス宣伝相になるヨーゼフ・ゲッべルスからも気に入られていたという。しかし、後期作品は反政府的として上映が禁止され、ラングは自由な作品づくりを求めて、1934年にハリウッドへ移った。また「カリガリ博士」も退廃芸術とみなされ、同作監督のロベルト・ヴィーネもナチス政権誕生とともにドイツを去っている。

ナチス政権下の1933〜1945年の間には、1000本以上の映画が制作された。そのうち、反ユダヤ主義などを煽るプロパガンダ映画は一部ではあったものの、全ての作品が検閲され、純粋な芸術作品はなかったという。

「カリガリ博士」のワンシーン「カリガリ博士」のワンシーン。ベルリンのドイツ・キネマテークにて、展覧会「Du musst Caligari werden!」が11月2日(日)まで開催中

参考:Lebendiges Museum Online「Weimarer Republik - Kunst und Kultur - Film und Kino」、rbb「Im Rausch der Stille: "Das Cabinet des Dr. Caligari“」、Deutsche Welle「Hitler im Blick? "Das Testament des Dr. Mabuse“」、Deutsche Welle「Movies under Hitler: between propaganda and distraction」

THEATER

「民衆のための演劇」の新境地

ワイマール共和国が成立すると、それまで貴族のための場であった「宮廷劇場」は「州立劇場」に名称を変える。また、民間経営による劇場が大きな力を持っていたこともあり、政治的な内容を扱った演劇作品が多く上演され、劇場は市民階級に開かれた場へと成長していった。

劇場経営者としても名を馳せたラインハルト
劇場経営者としても名を馳せたラインハルトは、1902年にベルリンのキャバレーを買収したのにはじまり、最終的に11の劇場を所有、客席数は1万に上った

この時代に活躍した演出家たちは、観客の意識に訴えかけ、演劇の力で社会に変革をもたらそうとしていた。例えば、マックス・ラインハルトやエルヴィン・ピスカトーアは、大掛かりな舞台装置やパワフルな演出によって、観客を物理的・心理的に物語のなかに引き込もうと試みる。またベルトルト・ブレヒトは、観客が舞台上での出来事に感情移入することを妨げるような演出をあえて行い、観客に冷静で批判的な視点を与えようとした。これらのドイツ前衛演劇は、当時の欧州で最も先鋭的なものだったという。

しかし、世界的な経済危機によって劇場文化の発展は行き詰まる。人々は演劇のチケット代を払う余裕がなくなり、劇場は財政難で大掛かりな演出やスター俳優の起用ができなくなった。そしてヒトラー政権の台頭に伴い、劇場はプロパガンダの場として没個性的なものに。ユダヤ人であったラインハルトは米国に亡命し、ハリウッドで活躍。共産主義者であったブレヒトの著作は、1933年にナチスによって焚書の対象とされ、本人も亡命生活を余儀なくされた。

新劇団ベルリナー・アンサンブル1949年に亡命から帰国したブレヒトは、新劇団ベルリナー・アンサンブルを設立。現在、同劇場前の広場はベルトルト・ブレヒト広場と名付けられている

参考:www.bruecke-museum.de、www.zeitklicks.de/weimarer-republik、谷川道子「ドイツ19世紀末転換期の演劇事情とテクスト解題」

DESIGN

ものづくりの国で生まれた新しいデザイン観

1919年、建築家、芸術家、デザイナーのための総合的芸術教育機関「バウハウス」がテューリンゲン州の都市・ワイマールに誕生した。工業化され大量生産が主流となっていた時代、創設者のヴァルター・グロピウスは「手工業に立ち返らなければならない。芸術家と職人の間に本質的な違いはない。芸術家は崇高な職人なのである」と述べ、各分野のエキスパートをバウハウスの教員として招いた。

芸術的なスキルと工業的なスキルを組み合わせることに重きを置き、バウハウスでは絵画、彫刻、写真をはじめ、舞台芸術やダンス、広告や製品デザインまで、幅広い分野の授業が開講されていた。同校には世界各国から学生が集まり、グラフィックデザイナーのヘルベルト・バイヤーやテキスタイル作家のアニ・アルバースなどの著名人を輩出。またシンプルで機能美を備えたバウハウスのデザインは、家具などを中心に製品化された例も少なくなく、現在もワイマールや移転先となったデッサウに建築物が残っている。

しかし、開校からわずか14年でバウハウスは閉校という悲しい運命をたどる。1933年にナチスが政権を掌握すると、バウハウスは退廃芸術として弾圧されたのだった。閉校後、多くの芸術家たちが米国などへ亡命し、その後も活動を続けた。1996年にはワイマールにバウハウス大学ワイマールという名の総合芸術大学が設立され、バウハウスの精神は今も受け継がれている。

バウハウス校舎1925〜26年にかけてデッサウに建てられたバウハウス校舎

参考:本誌1095号「バウハウス創立100周年 ドイツ・デザインの歴史を紐解く」、Lebendiges Museum Online「Weimarer Republik - Kunst und Kultur - Bauhaus」

黄金の20年代コラム1
ワイマール共和国で活躍したユダヤ系ドイツ人たち

1920年代は、それまでの欧州の歴史において、ユダヤ人が最も活躍した時代でもあった。歴史上長らく流浪を繰り返してきたユダヤ人家庭では、蓄財よりも子弟の教育に投資を行っていたため、若い世代で次々とエリートが育っていったのだという。

政治分野では、ワイマール憲法の草案を練ったフーゴ・プロイスをはじめ、ベルサイユ条約を締結して国際社会復帰に尽力したヴァルター・ラテナウ、革命家でドイツ共産党を結成し、最後は虐殺されたローザ・ルクセンブルクなど。学問分野でも、精神分析学を確立したジークムンド・フロイト、「相対性理論」を発見したアルバート・アインシュタイン、哲学者のヴァルター・ベンヤミンやハンナ・アーレントなど、当時のユダヤ系ドイツ人の活躍には枚挙にいとまがない。

ワイマール共和国時代には表立ったユダヤ人差別は行われてはおらず、すでにドイツに定着していた人々の多くは、自らが「ユダヤ人」だという意識を持っていなかったという。しかし、不安定な情勢に対するドイツ市民たちの怒りは巧みにナチスに利用され、その矛先は次第にユダヤ人である彼らに向けられていったのだった。

アインシュタインワイマール共和国で最初にノーベル賞を受賞したのは、かの有名なアインシュタイン。この時代、ドイツでは11人がノーベル賞を受賞したが、受賞者の3分の1はユダヤ系の出自だった

参考:大澤武男「ユダヤ人 最後の楽園―ワイマール共和国の光と影」、田中辰明「ワイマール共和国時代(1920年代)のベルリン」

黄金の20年代コラム2
短いドレスにボブスタイルの「新しい女性」が登場

1918年、女性にも参政権が認められ、女性の社会進出が一気に加速した。第一次世界大戦後に労働力である男手が不足し、独身で働く女性が増えた。当時主流だった女性の職業は電話交換手やタイピスト。男性よりも給与が低かったが、女性たちは経済力をつけ、ナイトライフやスポーツを楽しむなど人生を謳歌していく。

そんな女性たちは「neue Frauen(新しい女性)」と呼ばれ、当時のファッションは彼女たちを象徴していた。コルセットから体を解放し、ストンとした短いスカートやドレス、中にはズボンを履く女性も。かかとのない靴を履き、ヘアースタイルはボブが流行。そんな新しい女性のアイコンの一人が、20世紀を代表するドイツ人俳優のマレーネ・ディートリヒだ。彼女は黄金の20年代にドイツでスターダムにのし上がり、30年代にハリウッドに進出した。

一方で、女性たちは理想像と保守的な女性像との間で苦悩したという。例えば、男性に愛されて幸せをつかむ物語に共感したり、レディーファーストを自然と望んでしまうのだ。女性たちは自由を手にしたが、それはまだ形式的だった。今もなおジェンダーの役割について議論されているが、彼女たちの葛藤はまだ続いているといえるだろう。

1930年制作の映画「嘆きの天使(Der blaue Engel)」で主演を務めたディートリヒ1930年制作の映画「嘆きの天使(Der blaue Engel)」で主演を務めたディートリヒ

参考:SWR2「Die "Neue Frau" der 1920er – Träume vom selbstbestimmten Leben」、Antiheldin「Das Frauenbild in den 20ern – die ersten unabhängigen Frauen?」

黄金の20年代を体感する

歴史を学んで想像するだけじゃ物足りない……!? ちょっと熱狂的な読者の皆さんのために、黄金の20年代の空気が肌で感じられる、おすすめのエンターテインメントをピックアップ。自由でゴージャスな100年前の世界へ旅に出よう。

SHOW

20年代のナイトライフへようこそ!
Berlin Berlin ベルリン・ベルリン

数え切れないほどのバーやカフェ、朝まで踊り続けるナイトライフ……20年代のベルリンは、まさにエンターテインメントの宝庫。2019年12月に幕を切ったこのショーは、そんな嵐のように激しい時代に観客をいざなってくれる。一世を風靡したバンド「コメディアンハルモニスト」やドイツが誇る俳優マレーネ・ディートリヒが登場し、チャールストンやリンディホップなどの当時流行したダンススタイルで出演者たちが踊り狂う。きらびやかなファッションを再現したコスチュームも見どころの一つ。眠らない街、ベルリンを五感いっぱいに体験しよう。

Berlin Berlin ベルリン・ベルリン

12月15日(火)~2021年1月3日(日) ベルリン(Admiralspalast)
2021年1月5日(火)~9日(土) フランクフルト(Alte Oper)
www.berlinberlin-show.com

BALLSAAL

100年以上現役の歴史的建造物
Ballhaus Berlin バルハウス・ベルリン

1905年に建てられたダンスホールで、黄金の20年代も社交の場として多くの人々がここに集った。当時いくつもダンスホールがあったが、バルハウス・ベルリンのように現存する建物はごくわずか。2014年にダンスフロアが全面的に改装されたが、家具や螺旋階段などはアンティーク調で、20年代の雰囲気が味わえる。新型コロナウイルスの影響で、残念ながら現在はダンスイベントなどは全て中止となっているが、コンサートなどは不定期に開催中。ちょっとおしゃれして、ドリンク片手に音楽に耳を傾ければ、100年前にタイムスリップしたかのような気分になれそう。

Ballhaus Berlin バルハウス・ベルリン

Chausseestr. 102, 10115 Berlin
030-2827575
www.ballhaus-berlin.de

TV-SERIE

ワイマール共和国時代の光と闇
Babylon Berlin バビロン・ベルリン

舞台は1929年のベルリン。ポルノ犯罪を捜査するゲレオン・ラート警部と速記タイピストのシャーロット・リッターは、ドラッグや人身売買などがはびこるこの街の闇に徐々に飲み込まれていく。第一次世界大戦のトラウマと闘うラート、夜は別の顔を持つリッター……貧困と贅沢が混在するワイマール共和国時代の舞台裏がスリリングに描かれる。ドイツのテレビ史上最大の予算をかけて制作された本シリーズは、国内外で反響を呼んでいる。シーズン3が2020年10月11日(日)20:15よりDas Ersteでスタートするほか、日本のBS12でシーズン1・2が再放送中だ。

Babylon Berlin バビロン・ベルリン

シーズン1・2(各8話)/シーズン3(12話)
製作:2017年~
監督・脚本:トム・ティクヴァ、アヒム・フォン・ボリース、ヘンドリック・ハンドレーグテン
出演:フォルカー・ブルッフ、リヴ・リサ・フリース ほか
https://babylon-berlin.com

AUSSTELLUNG

後世から見つめる20年代
Die wilden 20er – Nach(t)leben einer Epoche
狂騒の20年代

20年代に生まれた文化や価値観は、100年経った今でも多くの人々を魅了しているが、芸術家たちにも大きな影響を与えてきた。本展で展示されている作品は、当時を生きた人々ではなく、後世を生きた人々が手掛けたもの。ベルリンフォルクスバンクが所有するコレクションから、1970年代から現在にかけて、狂騒の時代にインスピレーションを受けて制作された作品が選ばれている。ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルドから現役活躍中のドイツ人アーティストまで、さまざまな視点から描く20年代が楽しめる。

Die wilden 20er – Nach(t)leben einer Epoche 狂騒の20年代

12月13日(日)まで
火曜~日曜10:00~18:00 ※月曜休館
4ユーロ(割引3ユーロ)
Kunstforum der Berliner Volksbank Kaiserdamm 105, 14057 Berlin
030-30631744
https://kunstforum.berlin

TOUR

街中に残る時代の足跡を探して
Die Wilden 20er Jahre – Goldene Zeiten
狂騒の20年代・黄金時代

「狂騒の20年代」をテーマに、ベルリンの街をめぐるバスツアー。1919年に建てられた劇場、フリードリヒシュタット・パラストをスタート地点に、当時にぎわっていたエリアや時代を象徴する名所をたっぷり2時間かけて周遊する。俳優のマレーネ・ディートリヒ、作家のエーリッヒ・ケストナー、ダンサーのアニタ・バーバーなど、当時の著名人たちのゆかりの地を訪れたいという人には特におすすめだ。最終目的地を20年代風の食事が楽しめるレストランやバーにするなど、ツアーのカスタマイズも可能。ツアーに参加しながら、当時の街の風景を想像してみて。

Die Wilden 20er Jahre – Goldene Zeiten 狂騒の20年代・黄金時代

所要時間:120分
1名29ユーロ~(6名以上より予約受付)
www.berlin-erlebnisse.de

最終更新 Freitag, 06 August 2021 09:01
 

Japan Woche 日本ウィーク - デュッセルドルフで「日本を楽しむ」4日間

JAPAN WOCHE 日本ウィーク

Japan Woche(日本ウィーク)

デュッセルドルフで「日本を楽しむ」4日間

新型コロナウイルスの感染拡大により、デュッセルドルフでも多くのイベントが中止に。想定外の事態が続くなか、デュッセルドルフで味わえる日本食や日本文化は、私たちの心のよりどころになってくれています。Japan Woche(日本ウィーク)は、そんな「デュッセルドルフの日本」を楽しむことができる、ちょっと特別な4日間のキャンペーン。10月8日(木)~11日(日)、総勢53の日系参加店舗が皆様をお待ちしています。ぜひ各店舗を訪れてみてください!

お客様へのお願い

Japan Woche 期間中は、最新の新型コロナウイルス対策ルールを順守した上で、各店舗でお客様に楽しんでいただけるキャンペーンを実施します。ご来店の際は、マスクの着用やソーシャルディスタンスの確保など、感染拡大防止にご協力ください。
※新型コロナウイルスの感染拡大状況によっては、開催期間や内容を予告なしに変更することがあります。

Japan Woche 参加店リスト

AH-UN Japanese Yakiniku1AH-UN Japanese Yakiniku 黒毛和牛焼き肉阿吽

Hansaallee 246, 40547
TEL: 0211 53674474

限定ジャパニーズカクテルを3種類ご用意。おいしいカクテルをぜひ

Daruma-Ya2Daruma-Ya だるま屋

Birkenstr.72, 40233
TEL: 0211 69877699

3種類のお茶(緑茶、ウーロン茶、ジャスミン茶)の中から、一つプレゼント!

DON SCHADOW ARKADEN3DON SCHADOW ARKADEN

Schadowstr.11, 40212
TEL: 0211 86938727 ※10/11(日)休み

うどんを中心に各種テイクアウト&イートインメニューでお待ちしております!

dontak4dontak 屋台食堂「どんたく」

Behrenstr.3, 40233
TEL: 0159 06115241 ※10/11(日)休み

ギョーザご注文の「ダイジェストを見た」というお客様に、ギョーザ2個サービス!

eatTOKYO Immermanna5eatTOKYO Immermann

Immermannstr.40, 40210
TEL: 0211 16097813

Fresh on Table.お寿司や本格的な日本食を提供します!

eatTOKYO Nord6eatTOKYO Nord

Nordstr.28, 40477
TEL: 0211 43634001

Fresh on Table.お寿司や本格的な日本食を提供します!

4-Seasons Kaiserswerth74 Seasons Kaiserswerth

Kaiserswerther Markt 37, 40489
TEL: 0211 404061

創業1995年以来、本物の板前による本格的和食を提供しています

Furusato 故郷8Furusato 故郷

F6 Carlspl., 40213
TEL: 0160 2543123 ※10/11(日)休み

お得なキリンビールセット(コロッケ、唐揚げ、角煮、肉団子、枝豆から一つ)5€

Hakata.de9Hakata.de 博多.de

Klosterstr.34, 40211
TEL: 0211 17930959

先着30名様に当店オリジナルのチーズ豆腐を1個無料提供いたします!

Kagaya10Kagaya 加賀屋

Charlottenstr.60, 40210
TEL: 0211 83025019 ※10/11(日)休み

10€以上テイクアウト利用(夜営業のみ)で、キリンかソフトドリンク1本無料

KING FUSION11KING FUSION

Klosterstr.24, 40211
TEL: 0211 6887333

お会計の合計から10%割引き!

Kushi Tei12Kushi Tei 焼き鳥居酒屋 串亭

Immermannstr.38, 40210
TEL: 0211 360935

50ユーロ毎のご利用で、今後使える日本酒(Sake Tasting)券プレゼント

ManThei Sushibar Sushitaxi13ManThei Sushibar Sushitaxi

Bachstr.1, 40223
TEL: 0211 9661633

全てのお客様にキリンビールかジュース&枝豆をプレゼント!

MARUYASU BÜDERICH14MARUYASU BÜDERICH

Dorfstr.26, 40667 Meerbusch-Büderich
TEL: 02132 1378055 ※10/11(日)休み

大人気の日本のお惣菜、お弁当、お寿司等、テイクアウト販売!

MARUYASU IMMERMANN15MARUYASU IMMERMANN

Immermannstr.11, 40210
TEL: 0211 3677612 ※10/11(日)休み

大人気の日本のお惣菜、お弁当、お寿司等、テイクアウト販売!

MARUYASU LUEG ALLEE16MARUYASU LUEG ALLEE

Luegallee 95, 40545
TEL: 0211 5067028 ※10/11(日)休み

大人気の日本のお惣菜、お弁当、お寿司等、テイクアウト販売!

MARUYASU SCHADOW ARKADEN17MARUYASU SCHADOW ARKADEN

Schadowstr.11, 40212
TEL: 0211 8681937 ※10/11(日)休み

大人気の日本のお惣菜、お弁当、お寿司等、テイクアウト販売!

.masa japanese soulfood18.masa japanese soulfood 昌

Luegallee 130, 40545
TEL: 0211 15876651

オーバーカッセルの新たなお弁当屋です! 日本のソウルフードとお惣菜を提供します

Nagomi19Nagomi なごみ

Bismarckstr.53, 40210
TEL: 0211 41658988

30€以上ご利用のお客様に、食事券や日本のお菓子等がもれなく当たるクジ引き

Nari Sushi20Nari Sushi

Oststr.65, 40210
TEL: 0211 38839854

Nari Sushi Boxを8€で! サーモン、マグロ、エビ、野菜を使ったお寿司

RENYA21RENYA 和酒食彩 れんや

Collenbachstr.1, 40476
TEL: 0211 94680343

Happy hour 19時までキリン瓶 or 烏龍茶半額

RIKA22RIKA

Gehrtsstr.16, 40235
TEL: 0211 69549144 ※10/10(土)休み

手作り餃子とキリンビールを一緒にどうぞ! IG: @cafe_rika

Roku Japanese Dining & Wine23Roku Japanese Dining & Wine 禄

Schwerinstr.34, 40477
TEL: 0211 15812444 ※10/11(日)休み

ワイン&日本酒のテイスティング特別メニュー。枝豆サービス&うちわプレゼント

ROWAN Japanese Tapas24ROWAN Japanese Tapas ロバン

Neusser Str.84, 40219

店内でお食事される方に限り、タパスサイズのお好み焼きをプレゼント!

Sakura Bar25Sakura Bar

Immermannstr.50, 40210

9月にオープンした新店です ! 日本酒、日本ウイスキー、カクテルを提供します

SOBA-AN26SOBA-AN そば庵

Klosterstr. 68, 40211
TEL: 0211 3677 7575 ※10/11(日)休み

来店者全員にヤクルト、キリン、キッコーマン醤油、たこ焼き、いずれか一つ贈呈

Sushi Izakaya SABI & GARI27Sushi Izakaya SABI & GARI 寿司居酒屋 SABI & GARI

Luegallee 13, 40545
TEL: 0211 95598404

お会計金額により次回ご利用可能な食事券€25~50⇒€10、€50~⇒€20、€120~⇒€50

Ramen Bar Takezo28Ramen Bar Takezo 麵屋たけぞう

Immermannstr.48, 40210
TEL: 0211 39022053

4日間にわたり日替わりイベントを開催! 詳細はInstagram:ramen_bar_takezoで!

Takumi29Takumi 麺処・匠

Immermannstr.28, 40210
TEL: 0211 1793308

キリン(大)か緑茶2杯注文された方は、3杯目がそれぞれ無料に!

Takumi 2nd Tonkotsu30Takumi 2nd Tonkotsu 2代目匠 豚骨

Oststr.51, 40211
TEL: 0211 93654643

ラーメンご注文のお客様に、選べるスペシャルプレゼントをご用意!

Takumi Chicken & Veggie31Takumi Chicken & Veggie 麺処・匠3代目鶏&ベジ

Klosterstr. 72, 40211
TEL: 0211 17958110

期間中ヴィーガンタンタンメンをご提供!匠コーラもプレゼント(数量限定)

Takumi Heerdt32Takumi Heerdt 匠ヘアート

Heerdter Lohweg 230, 40549
TEL: 0211 53824901

ご来店のお客様全員に揚げ餃子(チキンor ベジ)を3個プレゼント!

Takumi Loretto33Takumi Loretto 匠ロレット

Lorettostr. 2, 40219

スペシャルお祭り焼きそばとラムネのセットメニューを限定販売!

Tokyo Ramen Takeichi34Tokyo Ramen Takeichi 麺屋武一

Immermannstr.18, 40210
TEL: 0211 15811829

ラーメンご注文でいずれか無料サービス①枝豆(半)②煮卵③麺大盛り ※売切れ終了

Tonkatsu GONTA35Tonkatsu GONTA とんかつ ごん太

Immermannstr.28, 40210
TEL: 0211 1795653

お会計30ユーロ毎にキリンビールのスペシャルグラスをプレゼント!

Umaimon36Umaimon 鶏そば屋うまいもん

Hansaallee 244, 40547
TEL: 0211 52809951

普段と一味違う「うまいもん」。お寿司と日本酒をご提供させていただきます!

Yabase37Yabase やばせ

Klosterstr.70, 40211
TEL: 0211 362677

お寿司一貫から選べるテイクアウトサイトやってます!

Dae-Yang38Dae-Yang 大洋食品

Immermannstr.21, 40210
TEL: 0211 161567 ※10/11(日)休み

Japan Woche特別セール! 緑茶・烏龍茶が破格の1€! 売り切れゴメン!

HANARO MARKT39HANARO MARKT

Immermannstr.45C, 40210
TEL: 0211 369922 ※10/11(日)休み

和菓子、清涼飲料、お弁当などの日本食品をお買い得価格で提供します!

Shochiku40Shochiku 松竹

Immermannstr.15, 40210
TEL: 0211 365959 ※10/11(日)休み

おにぎりとドリンクセットで5€! そのほかにも販促いろいろ。当日店頭にて発表!

Tains mein-asiamarkt41Tains mein-asiamarkt 大熊猫超市

Immermannstr.50-52, 40210
TEL: 0211 91736415 ※10/11(日)休み

キリンビール3本購入で、キリンビールグラス1個プレゼント

Bakery My Heart42Bakery My Heart

Marienstr.26, 40210
TEL: 0211 5504760 ※10/11(日)休み

日本ハムのあらびきソーセージを使ったパンや秋の新商品をぜひお試しください!!

Café Cerisier43Café Cerisier カフェ スリジエ

Immermannstr.51, 40210
TEL: 0211 87937311 ※10/11(日)休み

20€以上お買い上げの方に、オリジナルショッピングバックをプレゼント(個数限定)

Matcha Cafe WAKABA44Matcha Cafe WAKABA 抹茶カフェ 若葉

Hansaallee 113, 40549
※10/10(土)休み

抹茶パフェが人気! 日本から自社で直輸入したオーガニック抹茶を使用しています!

BOOKstore NIPPON45BOOKstore NIPPON

Immermannstr.53, 40210
TEL: 0211 360738 ※10/11(日)休み

雑誌/コミック/文庫/専門書ほか 店頭販売・定期購読・お取り寄せ承り中

Kyoto - Japan Art Deco46Kyoto - Japan Art Deco 京都

Immermannstr.26, 40210
TEL: 0211 352736 ※10/11(日)休み

伝統的な和雑貨・和食器はもちろん、豊富な種類の日本茶を取り扱っています。

Ambesten Düsseldorf47Ambesten Düsseldorf

Klosterstr.62, 40211
TEL: 0179 7624023 ※10/11(日)休み

カラー施術ご利用の20名様にMILBON Treatment 50gをプレゼント

atelier ICHIE48atelier ICHIE

Hohenzollernstr.15, 40211
TEL: 0211 17938090 ※10/11(日)休み

ヘアー→ミニMILBON 商品/ネイル→ストーンor パーツ5つ 来店者全員プレゼント

Club Y's Hair & Wellness49Club Y's Hair & Wellness

Charlottenstr.55, 40210
TEL: 0211 162617 ※10/11(日)休み

全身とことんケア♪ ヘアー+ マッサージ至福コース120€相当→100€!!

Friseur Mirage50Friseur Mirage

Kreuzstr.17, 40210
TEL: 0211 17542975 ※10/11(日)休み

ハイクオリティーの技術と極上の癒し空間で髪も心もリフレッシュ

Rina's Selection51Rina's Selection

Quirinstr.3, 40545
TEL: 0159 03037335 ※10/11(日)休み

期間中、当店Instagramにコメント記入で人気トリートメントが抽選で当たる!

Salon Ichigo52Salon Ichigo

Willstätterstr.73, 40549
TEL: 0211 41655692 ※10/11(日)休み

8・9・10日、先着6名様に会計60€以上でミニトリートメントかターバンを進呈

HAYATO GmbH53HAYATO GmbH ハヤトクリーニング

Immermannstr.33, 40210
TEL: 0211 55043693 ※10/11(日)休み

日本式ドライクリーニング、短期滞在アパートを提供。期間中は日本のグッズを販売

Japan Woche 参加店舗マップ

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JAPAN WOCHE開催に寄せた応援メッセージ

岩間 公典(いわま きみのり)様在デュッセルドルフ日本国総領事
岩間 公典(いわま きみのり)様

新型コロナウイルス感染症による影響は世界各地のさまざまな分野に及んでいますが、飲食業への影響がとりわけ深刻であると報じられています。そんななか、当地の多くの日系店舗が結束してJapan TagならぬJapan Wocheが開催され、各店舗がさまざまなサービスを提供すると聞き、大変楽しみにしております。十分感染防止策を取った上で、多くの人がお店に足を運び、少しでも日本食レストラン等が元気になってくれることを期待しています。

トマス・ガイゼル様デュッセルドルフ市長
トマス・ガイゼル様

新型コロナウイルスの影響で、当市でも数多くの催しが中止または延期となりました。特にJapan Tagの開催中止は、日本人の方や日本を愛する市民にとって大きな悲しみだったことでしょう。この困難な時代に、日本文化と日独の友好を感じられるJapan Wocheのような催しが、感染防止に配慮した分散型のスタイルで実現されることを、大変うれしく思います。それと同時に、開催のためにご尽力くださった日本企業や参加店舗の皆様に感謝申し上げます。

日本クラブ 会長
安済 靖(あんざい やすし)様

日本レストランや日系店舗の皆様に元気になってもらい、市民の方々にも改めて日本を感じてもらう催しJapan Wocheを応援しています。私自身もJapan Woche期間中は、友人や家族といくつものお店を訪れる予定です。今からとても楽しみにしています。ご尽力くださったスポンサーや参加店舗の皆様に感謝いたします。

デュッセルドルフ日本商工会議所 会頭
奥村 彰規(おくむら あきのり)様

Japan Wocheの開催を大変うれしく思います。参加店舗の皆様に十分な感染対策をしていただいているからこそ開催できるのであり、そのご尽力に感謝いたします。巣籠り生活のなかで、日本食や日本文化と接点が持てることのありがたみを痛切に感じていました。大切な資産ともいえる日系各店舗を、サポートしていきたく存じます。

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最終更新 Dienstag, 29 September 2020 16:13
 

ドイツ社会に生きる難民たち - 欧州難民危機から5年

欧州難民危機から5年 ドイツ社会に生きる難民たち

2015年8月31日、メルケル首相は「Wir schaffen das!(私たちはやり遂げる!)」という掛け声と共に、ドイツに大量の難民を受け入れることを表明した。連邦移住難民局(BAMF)によると、同年11月末までに中東や北アフリカの国々から96万5000人の庇護申請者を受け付け、そのうち42万5035人が難民として認定されたという。あれから5年、難民の人々はドイツ社会でどのように暮らしているのだろうか。難民危機を振り返るとともに、ドイツで活躍する彼らに話を聞いた。(Text:編集部)

ドイツ社会に生きる難民たち

難民を受け入れたドイツの光と影

参考:Bundeszentrale für politische Bildung(bpb)「Vor dem 5. September. Die "Flüchtlingskrise” 2015 im historischen Kontext」、石川真作「『移民国』ドイツにおける反イスラームの文化の問題」、Der Tagesspiegel「Flüchtlinge und Arbeitsmarkt „Fast die Hälfte jetzt in Arbeit“」

なぜ「欧州難民危機」が起こったのか?

ドイツにおける難民の主な出身国は、シリア、イラク、アフガニスタンだ。それぞれの国では内戦が激化し、人々は近隣諸国に庇護を求めた。しかし、トルコやギリシャをはじめとする避難先の国々が支援金不足になったことなどを理由に、彼らはより社会的権利が保障されている欧州を目指すようになる。

本来、欧州連合(EU)の「ダブリン規約」によって、最初に入国した国で庇護申請をしなければならないという決まりがある。しかし、大部分はバルカンルートと呼ばれるギリシャ、北マケドニア、セルビアなどをそのまま通過し、2015年8月中旬までにハンガリーは15万人の難民を受け入れることに。ところが、受け入れの限界を超えたハンガリーがセルビアとの国境にフェンスを築き始めてしまった。その様子をはじめ、密輸業者のトラックの中で71人の難民が亡くなる事件などの痛ましいニュースが次々と報道される。そしてついに、ドイツは大量の難民を受け入れる決意を固めたのだった。

2015年9月5日、ハンガリーからドイツを目指す難民たち2015年9月5日、ハンガリーからドイツを目指す難民たち

ドイツが大量の難民を受け入れた理由

難民危機以前もドイツは多くの難民を受け入れてきた。その背景には、第二次世界大戦後に定められた「基本法(ドイツの憲法)」の存在がある。ナチスによるユダヤ人迫害への反省から、基本法に政治難民の庇護請求権が盛り込まれたのだ。それから、西ドイツは共産圏からの難民などを受け入れてきたが、庇護申請数がピークを迎えたのは旧ユーゴスラヴィアが解体された1992年で、その数は43万人以上。このように、ドイツは長きにわたって難民に寛容な態度を取り続けてきた。

ドイツにおける庇護申請者数(1991~2019年)

ドイツにおける庇護申請者数(1991~2019年)

近年では、多様性を受け入れることを象徴する「Willkommenskultur(歓迎する文化)」という言葉が使われているドイツ。病院の付き添いやドイツ語の勉強を手助けするほか、異文化交流の場を設けたりと、連邦政府や自治体も関連事業を積極的に支援している。ドイツにやって来た人々に対するさまざまなサポートが市民の手によって行われているのも、こういったバックアップ体制があるからこそだ。

難民危機に揺さぶられたドイツ

しかし、欧州難民危機によってドイツでは情勢が大きく変化。その象徴が、極右政党「ドイツのための選 択肢(AfD)」が一気に第3党にのし上がった、2017年の連邦議会選挙である。その背景の一つに、難民に対する人々への不満がある。例えば、難民の受け入れにかかる多額の費用が税金でまかなわれていることや、難民による性犯罪や殺人事件、テロが多発したことに対し、人々はネガティブな感情を抱いた。さらに旧東ドイツ地域では、その難民問題に東西格差に対する市民の不満が加わり、反イスラム文化を主張するAfDに票が集まったとみられている。メルケル首相の支持率は低迷し、政策転換をよぎなくされた。

ところが、現実にはドイツでは人口減少が続いており、20~30代という働き盛りの年齢層が多い難民の労働力を、むしろドイツは必要としているともいえる。今年2月のドイツ労働市場・職業研究所(IAB)が発表した報告によると、2013~2016年の間にドイツに到着した難民のおよそ2人に1人が5年以内にドイツで就職を果たし、そのうちの80%が保険に加入した。つまり、難民の統合は着々と進んでいるのだ。

一方で、難民の間でもジェンダーギャップが問題に。子どものいる女性の就職はとりわけ厳しく、ドイツ社会で孤立する人々も少なくない。さらに、コロナ危機により失業者が増えているが、難民の失業率は一般のドイツ人に比べて高いという。今年に入り、欧州に流れ込む難民の数が再び増加傾向にあるが、大胆な難民政策を推し進めてきたメルケル首相の任期は残り1年ほどに迫っている。このコロナ危機下でどこまで課題をクリアできるか、今後も注目される。

戦禍からの逃避行の果てに
ドイツで見つけた私たちの場所

難民の人々は祖国を逃れ、長い旅路の末にドイツにたどり着いた。さて、そこからの人生を彼らはどうドイツで生きる・生きたいと願うのだろうか。ここでは、難民の人々が関わる三つの事例を紹介。彼らの活動を通して、未来のドイツ社会の姿が見えてくるかもしれない。

プロジェクト事例1

難民の小さな声をドイツ社会に
Flüchtling Magazin

「Flüchtling Magazin」の記事は、政治・社会的なテーマに限らず、アートや音楽、レシピなども人気が高い「Flüchtling Magazin」の記事は、政治・社会的なテーマに限らず、アートや音楽、レシピなども人気が高い

ハンブルクで2017年に創刊された「Flüchtling Magazin(難民マガジン)」は、多文化交流と相互理解を目的としたドイツ語のメディア。現在は誌面の発行(不定期)やウェブマガジン、ポッドキャストの配信などを通して、難民の人々の声をドイツ社会に届けている。記事のライターは、主に難民として祖国を逃れてドイツにやって来た人々で、ドイツ人スタッフがそのサポート役を務めている。難民の人々が自分たちの文化や考え方、祖国を逃れた経験やドイツでの生活などについて発信することで、難民とドイツとの間にある偏見や恐怖心をなくし、お互いに歩み寄ることができる社会をつくりたいという。同マガジンでは、難民としての体験や現在の生活についてドイツ語で文章を書きたい人とともに、彼らの執筆を手助けするドイツ語話者のボランティアも常に募集している。
www.fluechtling-magazin.de

働く人の声

お話ししてくれた人
Hussam Al Zaher さん(31)

「難民とドイツ人からなる編集チームの姿が、ドイツ社会にとってポジティブな例となれば」とHussamさん「難民とドイツ人からなる編集チームの姿が、ドイツ社会にとってポジティブな例となれば」とHussamさん

創刊者で編集長を務めるHussamさんは、自身も難民として2015年にシリアから逃れてきた。「難民キャンプでドイツ語を学び始めると、ドイツの難民にまつわるニュースでは、難民自身の声がほとんど取り上げられていないことに気付きました」。シリアで政治学を学び、ジャーナリストとして活動していたHussamさんは、過熱する報道が「難民」という固定観念を強め、人々の恐怖心を煽っていると感じたという。「私たちは『難民』ですが、一人ひとり違う人間です。そのことを伝えるには、難民が自分の言葉で自分を表現する場が必要だと思いました」。彼自身、流暢なドイツ語を話す一方で、記事を執筆する際にはドイツ語話者の同僚の助けを借りている。この難民とドイツ人が「一緒にドイツ語で書く」というプロセスに、お互いをより良く理解するための可能性を感じているそう。

プロジェクト事例2

難民女性の社会進出を応援
Stitch by Stitch

有機認証(GOTS、Oeko-Tex)を取得したオーガニックコットンや、100%ペットボトルからできている素材を使用した独自レーベルの洋服。特にペットボトルの再生繊維は撥水性に優れ、柔らかく発色も良い有機認証(GOTS、Oeko-Tex)を取得したオーガニックコットンや、100%ペットボトルからできている素材を使用した独自レーベルの洋服。特にペットボトルの再生繊維は撥水性に優れ、柔らかく発色も良い

フランクフルトにある「Stitch by Stitch」は、ファッションデザイナーのクラウディア・フリックさんと社会起業家のニコール・フォン・アルヴェンスレーベンさんが2015年に創立したスタートアップのB2Bの洋服店だ。ここでは現在、シリア、アフガニスタン、マダガスカル、エチオピアから逃れてきた10人の難民女性たちが働いている。Stitch by Stitchの重要な理念は、難民女性たちをドイツ社会に統合させていくこと。そのためにKfW(ドイツ復興金融公庫)と社会的企業を支援するSocial Impactからの支援を受け、ボランティアの協力も得ながら、彼女たちのドイツ語学習や仕立て屋としての職業訓練をサポートしている。また、2019年には独自のファッションレーベルを立ち上げ、サステナブルをテーマにした製品も展開。コロナ禍の現在では、マスクの生産に力を入れており、オンラインショップで購入可能だ。
www.stitchbystitch.de

働く人の声

お話ししてくれた人
Reyhane Heidari さん(28)/ Foruzan Ghaffari さん(26)
Saida Nawabi さん(21)/ Neda Kazimi さん(22)

ドイツ人スタッフも含め、現在15人の女性が働くアトリエの様子。全員オリジナルマスクを着用中ドイツ人スタッフも含め、現在15人の女性が働くアトリエの様子。全員オリジナルマスクを着用中

アフガニスタン出身の彼女たちは、それぞれ家族と一緒に車やボート、徒歩……などあらゆる手段を使ってドイツまでたどり着いた。Stitch by Stitchについては、国際NGOのカリタスやインテグレーションコースを通じて知ったという。「アフガ ニスタンでは、仕立て屋だった父を手伝っていました」というReyhaneさんは、ドイツでゲゼレ(ドイツにおける職人・商業人としての国家資格を持つ人のこと)を取得。ほかの3人は子育てをしていたり、学生だったため、ドイツに来てから 仕立ての技術を学んだそう。「難民の女性がドイツで仕事に就 くことは簡単ではなく、掃除の仕事くらいしか見つかりません。 私たちにとって、ここで働くことは心の支えですし、Stitch by Stitchはまるで小さな家族のよう」と明るく話してくれた4人。将来は仕立てマイスターやソーシャルワーカー、料理人になりたいなど、各々が目標を持って頑張っている。

プロジェクト事例3

難民ガイドが案内する博物館
Multaka: Treffpunkt Museum

ツアーは基本的にアラビア語で開催されるが、予約すればドイツ語・英語・アラビア語による特別ツアーに参加できるツアーは基本的にアラビア語で開催されるが、予約すればドイツ語・英語・アラビア語による特別ツアーに参加できる

ベルリンにあるイスラム美術館、ベルリン中東博物館、ビザンティン彫刻コレクション・美術館、ドイツ歴史博物館との協力のもと、シリアとイラクからの難民に博物館ガイドとしての職業教育を提供するプロジェクト。「Multaka」はアラビア語で「合流地点(Treffpunkt)」の意味であり、ガイドとしてのトレーニングを受けた難民が、ドイツやシリア、イラクとの歴史的・文化的・宗教的な繋がりなどに焦点を当てたツアーを各博物館で実施している。ドイツ歴史博物館の「第二次世界大戦後のドイツの復興」をテーマにしたツアーでは、戦争によって破壊されたシリアやイラクもいつの日か復興できると、訪れる人々に希望を与えているそうだ。これらのツアーの目的は、ドイツに暮らす難民の人々とドイツ社会とのつながりを育むだけでなく、美術館や博物館をあらゆる文化や歴史が交差する魅力的な場所へと成長させることにあるという。
https://multaka.de

働く人の声

お話ししてくれた人
Yasser Almaamoun さん/ Sandy Albahri さん

Multakaにはほかにも、美術史家や小説家、考古学者などの才能あふれるメンバーがそろっているMultakaにはほかにも、美術史家や小説家、考古学者などの才能あふれるメンバーがそろっている

「Multakaは、人々の間に立ちはだかる国境や紛争、困難を一時的に遠ざけ、他者の文化と親密になることができるプロジェクトです」。そう話すYasserさんは2013年、Sandyさんは2014年にシリアからやって来た。「Multakaのメンバーは、モザイクタイルのように多彩。それぞれが異なる経験や関心を持っているので、彼らとの議論はいつも刺激的です」と語るYasserさん。彼はシリアで建築を学び、現在は建築やアクティヴィズムの研究を行っている。Sandyさんも現在、大学でソーシャルワークを学んでおり、卒業後は難民支援団体を立ち上げるのが目標。「私たちは、特定の理由で祖国を去り、新しい文化の中で積極的に生きるために努力する、普通の人間です。そんな私たちが歴史や文化についてどんな考えを持っているか、多くの人と意見交換できれば」。

ドイツ入国から新生活スタートまで
難民認定のプロセス

参考:Bundesamt für Migration und Flüchlinge「Ablauf des deutschen Asylverfahrens」、本間浩「ドイツにおける難民保護と難民庇護手続法」
※2020年8月時点。手続きの順番や方法は、各州で若干異なる

❶ ドイツ入国と個人データの登録

まずはドイツ領域に入った際に、国境警備局に難民認定の願い出を行う。そして、指紋を使って個人データと身元を確認し、それらの情報は中央の管理システムに記録される。

❷ 難民受け入れ施設へ

個人データの登録が完了すると、各州に設置されている難民庇護希望者の受け入れ施設へ移動する。居住地や宿泊場所は州によって決定。この施設での滞在中は、日常生活に必要な現金や現物が支給される。難民は最初の受け入れ施設に6カ月まで滞在できる。

❸ 難民認定のための申請

受け入れ施設に入居後、速やかに連邦移民難民局で難民庇護申請を提出する。申請が完了すると、手続き期間中に限って有効な在留許可が与えられる。

❹ ダブリン規約に基づく認定責任国の決定

ダブリン規約とは、規約適用国の領域内で難民庇護申請が申し立てられた際に、申請を優先的に審査する国を決定するための規則。基本的に「最初に難民が到着した国が、難民の扱いに責任を持つ」ことが定められている。シェンゲン領域内が出入国審査なしで移動できることから、申請者がより良い条件を求めて複数国で申請を行わないよう、不正を防ぐ目的がある。

❺ 連邦移民難民局による面接審査

ダブリン規約の審査を通過すると、面接審査が行われる。ここで申請者は、祖国から逃れなければならなかった理由や事実関係、ドイツ入国までの経路や他国での滞在歴についての説明を行う。およそ2〜7日以内に決定が下される。

❻ 難民認定

審査の結果、難民認定されるとドイツでの正式な滞在許可証が得られる。庇護手続きにかかる期間は、2016年の平均で6カ月以上。難民認定が不許可になった場合は、出身国に戻るか、行政裁判所に異議を申し立てて再審査を行う。

❼ 新しい生活のスタート

難民認定されると、連邦移民・難民局が主導して移民・難民を対象に行っている、ドイツ語やドイツの歴史・文化などを学ぶ「インテグレーションコース」の受講資格が得られる(一部の州では、難民申請中から受講可能)。それと並行して、大学入学や就職支援などの制度を利用しながら、少しずつドイツでの生活基盤をつくっていく。

最終更新 Freitag, 06 August 2021 09:00
 

ヒロシマから世界へ平和の種をまき続けて - 広島・長崎原爆投下から75年

広島・長崎原爆投下から75年 特別インタビュー
ヒロシマから世界へ
平和の種をまき続けて

第二次世界大戦の集結から75年を迎えた今年。戦争体験者の声を伝える記事やテレビ番組も多く見かけるが、5年後や10年後にはその機会は一体どれほどあるのだろうか。平均年齢83歳となった広島・長崎の被爆者のおひとりである森下弘さんは、世界平和巡礼などに参加し、ドイツでも平和活動を行ってきた。NHKBSプレミアムのドキュメンタリードラマ「Akiko’s Piano~被爆したピアノが奏でる和音」の被爆ピアノを救ったことでも知られる森下さんが、その体験と平和への思いを語ってくれた。 (Text:中村真人、取材協力:一般社団法人HOPE プロジェクト)

森下弘さん 森下弘さん Hiromu Morishitao 1930年広島県生まれ。旧制広島県立広島第一中学、広島高等師範学校、広島大学文学部国文学科で学ぶ。大学卒業後、広島の県立高校の書道科の教諭に。後に島根大学、広島文教女子大学でも教鞭を執った。米国人の故バーバラ・レイノルズが立ち上げたワールド・フレンドシップ・センターに1965年の設立当初から関わり、1985年から2012年まで理事長を務めた。

広島が修羅場となったあの日のこと

1945年8月6日の朝、広島第一中学3年だった森下弘さんは比治山(ひじやま)のたもと、鶴見橋の西側にいた。広島は近いうちに空襲を受けるだろうという予測から建物疎開(空襲時の被害を広げないために家屋を取り壊す作業)を急いでいた。

その日は2回目の建物疎開で、すでに倒した家の柱や瓦をどこに運ぶといった仕事の指示を受けていました。その時です。ものすごい爆風に襲われ、煮えたぎった巨大な溶鉱炉に投げ込まれたかのようでした。爆心地から1.5キロの地点です。私は気を失い、顔や手足に大火傷を負いましたが、同じ班の70人は結果的に全員助かった。もし仕事が始まって、裸になって作業をしていたら、みんな死んでいただろうと思います。

空は真っ暗で、不気味な静けさでした。しばらくして皆で連れられ、ゾロゾロと比治山に登りました。山の上から市内を見ると、街全体がなくなっていた。別の世界、次元に飛び込んだような感覚でした。やがて向こうから兵隊の群れがやって来ました。みんな申し合わせたように帽子の下から皮膚がずるっとむけて、手をもたげていて……。何事か分からないけれども、全く奇妙なことが起こったと思った。周りのお年寄りや女性たちは、みんな腰を抜かしたように「ナンマイダ、ナンマイダ」と言いながら怯えていました。

河原にはたくさんの死体がころがり、至るところで修羅場がありました。広島駅まで行って、自宅のあるその先の白島(はくしま)に入ろうとしましたが、熱風の壁に弾き返された。火が収まるまで駅裏の山の上で待って、ようやく夕方になってから鉄橋の枕木を渡って家へたどり着きました。しかし家はもうそこにはなく、郊外の知人の家を頼りにとぼとぼ歩いて、とっくに日が暮れたなかでたどり着き、そこで気を失いました。

数日後、父親が自宅の焼け跡を掘りに行くと、母親の骨を見つけました。頭の上から下まで押しつぶされて即死のような感じで骨になっていたそうです。あの日の朝、家の格子戸から母が私を見送っていたのを覚えています。それがさえない、どこかつまらなそうな表情だったのです。何かを予感していたのかもしれません。父と2人の妹は助かりました。

半年間、知人の家でお世話になりました。包帯を替えると傷口から膿がドロドロ出て、「痛いよ、痛いよ」と苦しみました。毎日死体を河原で焼くという噂を聞いて、「自分はいつ死ぬのだろうか」と思った。見舞いに来てくれた叔母は、火傷も傷も負っておらず元気そうに見えたのに、しばらく経って口から黒い泡を吐いて亡くなった。放射線障害のことなど当時は誰も知らず、「原爆の毒」といって皆が恐れていました。

半年後にバラックの校舎でやっと学校が始まりましたが、みんな「生き残って良かった」ではなく、「わー!」と叫び出したいような感じでした。先生方も含めて親しい人が亡くなり、1クラスが全滅した例もありました。自分たちはけがをして、食べるものもない。それまでは「天皇陛下のために」と信じ込まされ、歯を食いしばって作業に励んでいたのに、精神的なバックボーンを失ったことも苦しかったです。

大学で文学を学ぼうと思ったのは、すべてが崩壊するという寂寥(せきりょう)感にとらわれて、滅びないもの、ロマンの世界を求めていたからかもしれません。母親への愛情、そういうものへの憧れもありました。でも、途中で結核を患って死にかけ、卒業後も就職は難しい時期。父が書道の先生だったこともあり、途中から書道の単位を取って、この科目の教員になりました。

写真左)6歳の時に自宅の中庭で撮った家族写真、写真右)広島高等師範学校時代に。旧陸軍被服支廠校舎にて写真左)6歳の時に自宅の中庭で撮った家族写真、写真右)広島高等師範学校時代に。旧陸軍被服支廠校舎にて

子どもたちが平和巡礼を決意させた

高校の教師になった森下さんだが、さまざまな苦しみから、被爆体験を封印していた時期が続いたという。その心境に変化が生まれたのは、原爆を体験していない戦後生まれの世代が高校生になったぐらいの頃だった。

生徒の引率で平和記念資料館に行ったら、ケロイドのアルコール漬けなどの展示品を見た生徒が、私のそばで怖いと言っていた。私も顔にケロイドが残っていますから、授業中に生徒たちが自分の顔を時々注視しているのをふっと思い出し、それから教壇に立つのが怖くなって原爆の話を避けていました。そんな頃、東京の友人から「戦後生まれの高校生は、原爆についてどう感じているのか」という質問をされました。体験者であり、生徒たちと日常を過ごしている自分が彼らの思いを何も知らなかった。私はそれを恥じて、生徒たちの意識を調べてみようと思いました。

もう一つ、森下さんにとって重要な転機となるのは、1963年に長女が生まれたことだった。

原爆のあの日、広島駅の裏から鉄道のガード下を通って自宅に帰る途中に、真っ黒焦げの幼児の死体が転がっていました。泥まみれでミミズのように。自分の子どもの安らかな寝顔を見ていた時に、ふとあの真っ黒焦げの幼児がオーバーラップしたのです。「これはいけん」と。前向きに語っていかなければというきっかけになりました。

そんな時期、森下さんのもとに平和巡礼の話が届く。広島在住のバーバラ・レイノルズという米国出身でクエーカー教徒の女性が、1964年に「広島・長崎世界平和巡礼団」を組織して、核保有国を中心に8カ国、150の都市を訪れて核廃絶を訴える巡礼の旅を企画したのだった。

実はその少し前に高教組(高等学校教職員組合)を通じて「東ドイツの病院でケロイドを直す手術を受けてみないか」という招待を受けていたのですが、いくつかの理由から断念していました。外国に行くチャンスを逃して残念に思っていたこともあって、平和巡礼にぜひ参加しようと決意しました。

トルーマン元大統領と面会を果たす

参加した25人の被爆者(広島から19人、長崎から6人)は、医師、主婦、新聞記者などさまざまな立場の人から成り、森下さんは教員として参加。さらに学生の通訳が付いて総勢約40人の大所帯となった。最初に向かったのは米国。そこでは、原爆投下を決定したハリー・トルーマン元大統領と面会する機会も。

トルーマン氏と面会したのは、ミズーリ州のカンザスシティにあるトルーマン・ライブラリーの講堂でした。いろいろと話したかったのですが、氏には被爆者と会うことへの恥じらいや躊躇があったようです。それでバーバラさんが向こうの人と計らって、壇上には団長の松本卓夫先生だけが上がり、私たちはその下で様子を見ていました。「なぜ原爆を投下したのか」という質問には、「数十万の若い兵士を救うためだ。本土決戦になったらさらに多くの犠牲者が出ただろう」という説明を繰り返すだけ。私たちとしては「すまなかった」の一言が欲しかったですが、そういうやりとりはなかった。「戦争を終わらせるために仕方がなかった」と。面会はごく短時間で終わり、みんな悔しがっていました。でも、バーバラさんは、「(元大統領が)あの場に出てきただけでも成功だった」と話していましたね。

この時、森下さんのメモ書きには、トルーマンが語った言葉や居合わせた人の声が記されている。「日本と米国はひょんなことから戦うことになったが……二度とああいうことにならないように……」、「原爆投下を決定した時、幼い命の(原文ママ)たくさんあることを考えなかったのか」、「『あんな会見、やらない方がましだ』と」。ニューヨークでは国連を訪れ、ウ・タント事務総長(当時)と面会。原爆被害について科学的な調査をしてほしい旨を伝えた。その後、欧州に渡り、フランスや東西ドイツ、ソ連などを訪問する。

1964年、広島・長崎世界平和巡礼でトルーマン元米大統領に面会した際に記したメモ書き1964年、広島・長崎世界平和巡礼でトルーマン元米大統領に面会した際に記したメモ書き

熱心に耳を傾けていたドイツ人たち

検問所を何度か往復して、東西ベルリンを行き来しました。西側から東ドイツの親戚を訪ねてきた家族がいて、短時間滞在してまた向こうに帰らなければならない。そこで別れを惜しんでいる姿を見たのを覚えています。私たちは学校や教会、ライオンズクラブなどで被爆体験をお話しました。受け入れてくれたのが進歩的な考えの人たちだったこともあり、熱心に耳を傾けてくれました。西ベルリンでは学生会館で大きな集会が開かれ、そこで庄野直美さんという広島女学院大の物理学の先生が放射能の被害や核の無意味さについて語りました。現地のNPOなどが、被爆者が訴える場を準備してくれたのでしょう。西の教会には銃弾の跡がたくさん残っていました。連合軍の空爆であれほど壊されたのに、後年ドイツを再び訪れた時、建物がきれいに再建されているのには驚きましたね。

1964年、西ベルリンを訪れた時にホームステイをしたリヒテルさんと1964年、西ベルリンを訪れた時にホームステイをしたリヒテルさんと

最後にもう一度西から東ベルリンに入り、そこから列車でモスクワに行きました。途中農民が大きな鎌で草や麦を刈っている風景が印象に残っています。モスクワではゴーリキー公園で新聞社が主催した大集会に参加し、約2000人を前に被爆体験や核兵器廃絶を訴えました。バーバラさんは各地で、医師は医師同士、学校の先生は先生同士というように、現地の人との交流の場をアレンジしてくださった。私は詩を書くので、マモノフさんという詩人に会わせてもらったのですが、峠三吉(『原爆詩集』で知られる)のことを話していたので驚きました。

広島と長崎の声を世界に届けたレイノルズさん

シベリア鉄道と飛行機でユーラシア大陸を横断し、最後は船で横浜へ。1カ月半に及ぶ大旅行だった。帰国後、バーバラ・レイノルズさんは広島に「ワールド・フレンドシップ・センター(WFC)」を設立。森下さんも1965年の設立当初から携わることになる。インタビュー中に何度も名前が出たレイノルズさんとは、どういう人だったのだろう。

戦後、ご主人がABCC(原爆傷害調査委員会)の研究員として広島に来られ、最初は呉の進駐軍の宿舎で優雅なご婦人生活を送っていたようです。原爆を落とした側のアメリカ人ですから、広島に行くのを怖がっていたのですが、たまたま被爆した女性に会って話をしている時に、「私たちは大変な目に遭ったけれども、憎しみではなく、平和のために一緒に頑張りましょう」と言われて、心を動かされたそうです。やがて夫婦 でヨットに乗って核実験への抗議のための航海に出 た。実験区域に入って、捕らえられたことも。強い、 激しい行動を取ることもあるけれど、会った感じは優 しく、「森下さーん」と話しかけてくるような親しみの 持てる方でした。そのような抗議行動の末、しっか りした活動をするには広島と長崎の被爆者の声を世 界中に届けないといけない。それで募金を集め私財 を投げ打って平和巡礼を企画した。それを一回限り ではなく、持続的な活動にしたいとWFCをつくった のです。さまざまな国の人々が集まって、世界中で吹 き荒れている戦争の嵐の中で思いを静かに語り合う。 そういう場にしたいと。そこで被爆者の援護もしまし た。ベトナムの孤児や傷ついた子どもたちを初代理 事長の原田東岷(とうみん)先生と一緒に受け入れ、アメリカに帰ってからもそういう人たちの世話をしていました。 後年はウィルミントン大学に原爆の資料や本を集め て、アメリカでの平和教育のライブラリー「Hiroshima Nagasaki Memorial Collection」を設立しました。

広島平和記念公園にあるレイノルズさんの記念碑には、「私もまた被爆者です」という彼女の言葉が刻まれている。後に森下さんはWFCの理事長を長きに渡って務め、現在に至るまで平和巡礼はさまざまな形で続いている。森下さん自身、海外からの人々と交流するなかで、再びドイツとの縁も生まれた。

1999年にエッセンで障がい者施設のスタッフとして働いているベアーテ・ブルーダーさんという方が数人で広島に来られ、それをきっかけに、2001年に今度はわれわれがドイツを訪ねました。エッセンでは小学校の子どもたちの前で被爆体験をお話ししたり、現地のグループと書道による交流をしたりしました。ベアーテさんは今も毎年のように広島に来られます。一緒に桜を見たり、お好み焼きを食べに行ったり。私よりも広島のことをよく知っているほど。片言の日本語を話され、お名前のBeateから手紙には「熊の手」と書いてきます(笑)。

2001年にエッセンを訪問して現地の学校で平和授業をした2001年にエッセンを訪問して現地の学校で平和授業をした
現地の女性グループと書道で交流をした時の様子現地の女性グループと書道で交流をした時の様子

広島を訪れた2人のローマ法王のメッセージ

広島平和記念資料館の入口ロビーに、「ローマ法王平和アピール碑」が飾られている。1981年2月、ヨハネ・パウロ2世が広島を訪問した際にスピーチで述べた言葉が刻まれており、実はその碑文を筆文字で書いたのが森下さんだ。昨年は、フランシスコ法王がローマ法王として38年ぶりに広島を訪れた。

広島平和記念資料館に展示されている「ローマ法王平和アピール碑」。碑文に刻まれた筆文字は森下さんが書いた広島平和記念資料館に展示されている「ローマ法王平和アピール碑」。碑文に刻まれた筆文字は森下さんが書いた

ヨハネ・パウロ2世も今回のフランシスコ法王も、「核兵器は悪。それを保有するだけでも悪である」と言い切っている。被爆者としては後ろ盾をいただいた気持ちになりました。新型コロナウイルスで大変な今の世界ですが、核兵器もなくなっていないでしょう。どちらも人類にとっての敵なんです。皆が一致して立ち向かわないといけないのに、今またアメリカと中国が対立したり……。糾弾していかなければなりません。

原爆の記憶をどう伝えていくのか

森下さんが平和教育に力を注ぐようになったのは、高校の教科書に原爆についての記述が少ないことに疑問を持ったからでもあった。その森下さんもこの10月で90歳を迎える。被爆者の平均年齢は、今年83歳を超えた。私たちは原爆の記憶をどう語り継ぐべきだろうか。

これまでは修学旅行で広島に来る生徒たちに毎週のように自分の体験を話しに行っていましたが、そのような直接の交流はいつかなくなる時が来ます。生徒たちに意識調査をすると、「原爆の悲惨さはよく分かったが、実感できない」という答えが返ってきて、年を経るにつれてそれが増えてくる。

若い方たちによくこういうお話をするんです。「私たちが被爆してこのような悲惨な目に遭ったのは、戦争だったから。戦争がなければ核兵器は使われなかったはずだし、多くの人が空襲などで亡くなることもなかった。ではどうして戦争が起こるのか。そこにはさまざまな要素がある。人種差別、経済的な問題、あるいは軍需産業が膨大になって兵器で人殺しをしていくようになる。そういった戦争がなぜ起こるのかを自分たちで一生懸命調べたり、考えたりしてほしい。私たちも悲惨な目に遭ったからといって、戦争について全てを知っているわけではないし、それを止められるわけでもない。だから一緒に学び、考えよう。あなたたちが自発的にそのことに取り組んでほしい」と。

戦争や原爆について考えたり、調べたりしていると資料が必要になりますよね。今それがより大事になってきているので、コロナ禍で外に出られない時期、自宅の資料の整理をするなど、次の世代にバトンタッチをすべくできる限り頑張っているところです。

私が森下さんと出会ったのは、7月に刊行した拙著 『明子のピアノ 被爆をこえて奏で継ぐ』(岩波ブックレット)がきっかけだった。原爆で亡くなった河本明子さんが弾いていたピアノを救った、命の恩人ともいえるのが森下さんだった。

2002年に広島大の山岳部時代の仲間が実家の家を解体するというので手伝いに行ったら、そのピアノが置いてありました。きれいな音ではないけれども、原爆であれだけ大変な目に遭ったピアノが傷つきながらも残っている。「そのまま処分されるのは忍びない。残してあげたい」という気持ちでした。妻がピアノを弾くので、毎年1回坂井原浩さんという調律師の方に来てもらっていました。それである時、「実は三滝にこういうピアノがあるんじゃ」と坂井原さんに話をしたのです。たまたま引き継ぎができた感じですね。

森下さんの取った行動は小さなものだったかもしれない。しかし、そこからまた新たな平和を求める人々の輪が生まれた。私たちができることも、案外身近なところにたくさんあるのではないだろうか。最後に「これまでの人生で大切にしてきたことは何ですか」と尋ねると、少し間を置いてから、こんな答えが返ってきた。「原爆であれだけの悲惨なことがあった。平和というのは大事だということです。小さい子どもの命まで奪うんですから。一人ひとりの命、誰の命も大事にしたい。そういう思いですね」。

関連書籍

書籍:明子のピアノ明子のピアノ
被爆をこえて奏で継ぐ

広島の原爆により19歳でその生涯を閉じた河本明子さん。残された家族たち、周囲の人々の交流から、彼女が奏でていたピアノが数十年の時を経て甦った。無邪気な子ども時代から戦争体験までが綴られている彼女の日記、そして被爆ピアノを奏で継ぐ人々が、平和への思いを紡ぎ出す。

著者:中村真人
発行元:岩波書店
刊行:2020年7月3日
ISBN:9784002710280

最終更新 Freitag, 14 August 2020 13:55
 

映画でめぐるドイツ - おうちで旅気分を味わおう

おうちで旅気分を味わおう 「映画でめぐる」ドイツ

コロナ禍でだいぶ規制が緩和されたものの、今年の夏の旅行はあきらめた、という人が多いかもしれない。長いステイホームが続くなか、何をしたら? そんな方のために、映画でドイツを旅するプランをご提案。言わずと知れた名作揃いのドイツ映画の中から、各都市を訪れたり、タイムトラベルが味わえる作品を紹介する。好きなドリンクを用意して、ソファに座ったら準備万端。物語の世界へ出発しよう。(Text:編集部、沖島景)

「ベルリンを旅する」映画

ドイツ人の間でも「ベルリンはドイツじゃない」といわれるほど、独特の魅力がある首都。壁崩壊前と後、そして現代の三つの時代から、それぞれ違う雰囲気のベルリンが味わえる作品を紹介しよう。

ベルリンの壁の上空から見る景色
ベルリン・天使の詩
Der Himmel über Berlin

あらすじ

天使のダミエルは同僚で親友のカシエルと共に、壁に隔てられたベルリンの街を歩く。彼らの仕事は、地上の人々の心の声に耳を傾け、優しく寄り添って見守ること。大人は天使を見ることができないが、子どもは天使を見つけると微笑みかけてくるのだった。ある日、ダミエルはサーカスの舞姫マリオンに恋をする。マリオンが呟いた「愛したい」という言葉に動揺するダミエル。天使の世界はモノクロで、死が訪れることはない。しかし、憧れや情熱などの想いを求め、永遠の命を放棄して人間になることを決断。そこで新しい「色」の世界を体験することになる。

作品をもっと知る

中年男性たちが演じる天使は、一般的な「天使」のイメージとはかけ離れているが、彼らの存在がまさに物語に深みを与えている。物語の所々に織り込まれた詩「Lied vom Kindsein」は、本作のために詩人のペーター・ハントケが書き下ろしたもので、物語全体を優しく包み込むかのよう。また、ダミエルが天使をやめて人間になった時、映像はモノクロからカラーに。色以外にも、音や味、寒さなど、人間になって世界を初めて感じるダミエルの姿が印象的だ。壁が崩壊する直前のベルリンの様子が映されているため、歴史的にも貴重な作品といえるだろう。

ベルリン・天使の詩

公開年:1987年
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ペーター・ハントケ、ヴィム・ヴェンダース
主演:ブルーノ・ガンツ
上映時間:125分
言語:ドイツ語
DVD販売元:STUDIOCANAL

壁崩壊後のベルリンを疾走する
ラン・ローラ・ラン
Lola rennt

あらすじ

午前11時40分、主人公ローラのもとに恋人のマニから電話がかかってくる。裏金の運び屋をしているマニは、大金を電車の中に置き忘れ、12時までに取り戻さなければボスに殺されてしまうという。窮地の恋人を救うために家を飛び出したローラは、真っ赤な髪を振り乱しながらベルリンの街を東奔西走。なんとかお金を工面してマニのもとへ行こうとするローラの疾走が、テクノポップに合わせて3パターンのストーリーで描かれる。ローラの性格や行動は、無計画かつ無鉄砲で、あるのはマニへの愛だけ。そんな彼女がベルリンを走り抜ける姿はひたすら爽快だ。

作品をもっと知る

映画が公開された1998年は、1989年のベルリンの壁崩壊から9年後。東西の行き来が可能になったベルリンの90年代は、アートやアナーキズム、サブカルチャーやテクノなど、激しいながらも自由奔放な空気が漂っていた。映画の中には当時の街並みや建築などが登場するが、特に印象的なのは、ローラが「オーバーバウム橋」を渡るシーン。ここは1961〜1989年までは東西ベルリンをつなぐ場所で、西側には国境検問所が設置されていた。東西国境が撤廃され、ローラが脇目も振らず橋を駆け抜ける姿に、当時のベルリン市民たちは心踊ったことだろう。

ラン・ローラ・ラン

公開年:1998年
監督・脚本:トム・ティクヴァ
主演:フランカ・ポテンテ
上映時間:76分
言語:ドイツ語

ベルリンと人生をさまよう1日の物語
コーヒーをめぐる冒険
Oh Boy

あらすじ

朝、コーヒーを飲むかと彼女から尋ねられるが、断ってしまったニコ。そうして、ことあるごとにコーヒーを飲み損ねる、というツイてない1日が始まった。クセのある隣人カールに、親友で自称俳優のマッツェ、偶然再会した同級生のユリカ……大学を中退して何もする気が起きなくなっていたニコは、この日ベルリンをさまよいながらたくさんの人に出会い、何かが少しずつ変わっていく。役所のアポイントメントに無賃乗車のコントローラーなど、極めてドイツ的な日常風景に思わずくすりとしてしまう一方、誰しも経験するような人生に対する不安が細やかに描かれている。軽快でときにメランコリックなジャズをバックに、ニコの長い1日を追いかける。

作品をもっと知る

ニコが住んでいるのは、ベルリンでも特に人気の高いプレンツラウアー・ベルク地区。かつて東ベルリンだったこのエリアは東西再統一後に再開発され、雰囲気のいいお店やカフェが建ち並ぶ。さらにニコのアパートはアルトバウ(戦前の建物)で、窓からはレトロなUバーンの線路が見え、人々が憧れる場所であるのも納得がいく。また本作では、ベルリンの混沌とした風景が要所要所に映し出される。観光客の多い近代的なエリアや戦後に建てられた団地、かつてサブカルチャーの聖地だったタヘレスなど、ベルリンが東西の面影を残しながら発展してきたことが伝わってくるシーンが満載。時の重みも感じるベルリンの複雑な魅力が、たっぷりと詰まった作品だ。

コーヒーをめぐる冒険

公開年:2012年
監督・脚本:ヤン・オーレ・ゲルスター
主演:トム・シリング
上映時間:85分
言語:ドイツ語

「東西分断時代を旅する」映画

今年はドイツが再統一して30年を迎える記念年。東西分断時代のことを知るには、ぴったりな節目だ。東と西、それぞれの観点からドイツを見つめるタイムトラベルを楽しもう。

壁建設前の旧東ドイツの光景
僕たちは希望という名の列車に乗った
Das schweigende Klassenzimmer

あらすじ

東西ドイツ分断時代の1956年、東ドイツのトップ大学を目指す高校生のテオと親友のクルトは、列車に乗って西ベルリンの映画館を訪れる。そこでハンガリー動乱のニュースの映像を見て、自由を求める多数の市民がソビエト連邦軍に殺害された事実を知った。東ドイツに戻った2人は級友たちに対し、亡くなったハンガリー市民のために2分間の黙祷を捧げることを提案。純粋な哀悼を意図していたものの、ソ連の影響下に置かれた東ドイツ当局からは反逆行為とみなされてしまう。

作品をもっと知る

原作は、冷戦下の東ドイツで実際に起きた出来事を、当事者の一人であるディートリッヒ・ガルスカが描いたノンフィクション小説『沈黙する教室』。舞台は1956年で、第二次世界対戦から約10年後のこと。東西ドイツの対立は始まっていたものの、ベルリンの壁はまだ建設されておらず、東ドイツと西ドイツを列車で行き来することができた。敗戦体験や社会主義体制の影響で、どこか暗い影を落としている大人たちとは対照的に、若者たちは生き生きと描かれている。

僕たちは希望という名の列車に乗った

公開年:2018年
監督:ラース・クラウメ
脚本:ラース・クラウメ
(原作:ディートリッヒ・ガルスカ「沈黙する教室」)
主演:レオナルド・シャイヒャー
上映時間:107分
言語:ドイツ語
DVD販売元:STUDIOCANAL

自由の聖地だった80年代の西ベルリン
Herr Lehmann

あらすじ

西ベルリンのクロイツベルク地区に暮らす29歳のフランク・レーマンは、なぜか「Herr Lehmann(レーマン氏)」と呼ばれている。親友で芸術家のカール、気の強い恋人カトリン、ブレーメンから息子を訪ねてきた両親……個性あふれる人々が、レーマン氏の自由気ままな生活を振り回す。やがて、カールは心を病み、カトリンとはケンカして、レーマン氏の周囲が急激に変化していく。そして30歳になった晩、ちょうどベルリンで歴史的瞬間が訪れる。

作品をもっと知る

東西分断時代、西ベルリンには兵役がなく、ほかの西ドイツ地域と違って営業時間に制限がなかったため、「自由の島」と呼ばれていた。そのため、西ドイツの多くの若い男性がこの街に移り住み、レーマン氏もその若者の1人として描かれている。特に1980年代のナイトライフは自由の象徴で、人々は踊りながら夜を明かし、そのまま朝食を取り、仕事に向かったとか。そんな西ベルリンの破天荒な暮らしぶりが描かれているのも、本作の魅力の一つだ。
参考:Goethe-Institut e.V.「Westberlin - Die Insel der Freiheit」

Herr Lehmann

公開年:2003年(日本未公開)
監督:レアンダー・ハウスマン
脚本:スヴェン・レーゲナー
主演:クリスティアン・ウルメン
上映時間:113分
言語:ドイツ語

「ドイツ各地を旅する」映画

16州からなるドイツには、それぞれ特徴を持った魅力的な都市が多々存在する。ここでは、映画の舞台となった街の様子や歴史が垣間見える作品を集めた。

西ドイツの新たな出発Essen エッセン
ベルンの奇蹟
Das Wunder von Bern

あらすじ

舞台は、第二次世界大戦後の工業都市エッセン。11歳のサッカー少年・マティアスは、鉱山労働者の家庭で育ったサッカー選手のヘルムート・ラーンの荷物持ちをするのが誇らしくて仕方ない。マティアスは母親と兄姉と慎ましく暮らしていたが、そこへ戦死したはずの父親が戻ってきた。戦争のトラウマを抱えた父親は、家族に厳しく当たり、マティアスにもサッカーを禁じてしまう。一方、ヘルムートはワールドカップのドイツ代表に選ばれ、スイスへと旅立った。そんなヘルムートの勇姿を見ようと、マティアスは独りでスイス行きを計画し、夜中にこっそり家を飛び出すが……。

作品をもっと知る

1954年にスイスで開催された第5回ワールドカップ(W杯)で、実際に起こった「ベルンの奇蹟」が題材となっている。敗戦による鬱々とした雰囲気が残る西ドイツがW杯に出場するのは初めてだったが、人々の予想に反して決勝戦へと勝ち進んだ。そして、本作にも登場するエッセン出身のヘルムート・ラーンがゴールを決め、3対2でハンガリーを下し、初優勝を果たしたのだった。トロフィーが渡されると西ドイツ国歌が演奏され、狂喜するドイツ人サポーターたちが合唱したという。この優勝は、西ドイツに再び自信を取り戻させる出来事となった。
参考:ドイツニュースダイジェスト「そのとき時代が変わった - ベルンの奇蹟 Wunder von Bern」

ベルンの奇蹟

公開年:2003年
監督:ゼーンケ・ヴォルトマン
脚本:ゼーンケ・ヴォルトマン、ロッフス・ハーン
主演:ルーイ・クラムロート
上映時間:118分
言語:ドイツ語

大都市のさまざまな顔をのぞくHamburg ハンブルク
ソウル・キッチン
Soul Kitchen

あらすじ

ジノスは、レストラン「ソウル・キッチン」のオーナー。彼の不幸は、恋人と遠距離恋愛になったことから始まり、税務署からは税金の支払いを迫られる。さらに衛生局の検査に引っかかり、食器洗浄機を移動させようとして腰を痛める始末。動けないジノスは、腕は良いが変わり者のシェフを雇い、段々と店が繁盛してくる。そんな折、刑務所から仮出所した兄のイリアスがやってきた。イリアスが盗んできたDJセットで軽快な音楽をかけ始めると、瞬く間に人気店に。ところが、今度はソウル・キッチンの土地を狙う者が現れた。

作品をもっと知る

ハンブルク生まれのアキン監督は、高級住宅街から赤レンガ倉庫など、街のさまざまな魅力を表現している。同時にソウル・キッチンの土地を狙う不動産屋のように、経済中心に街が変化することにも、作品を通じて抵抗する。実際に2000年代、撮影に使われた歴史あるゲンゲ地区も土地が売却されるなど再開発計画が進んだが、反対派の芸術家がこの地区を占領し、監督も支援した。一方、ベルリンに移住する芸術家も多かったため、ハンブルク市が危機を感じて土地を買い戻し、現在では芸術の拠点として守られている。

ソウル・キッチン

公開年:2010年
監督:ファティ・アキン
脚本:ファティ・アキン、アダム・ボウスドウコス
主演:アダム・ボウスドウコス
上映時間:99分
言語:ドイツ語
年齢制限:12歳以上
DVD販売元:Pandora Film

異国からの来客が教える「家族」München ミュンヘン
はじめてのおもてなし
Willkommen bei den Hartmanns

あらすじ

ミュンヘンの閑静な住宅街で暮らすハルトマン家。一見何不自由ない生活をしている彼らだが、母アンゲリカは教師を引退して生きがいを失い、夫リヒャルトは老いへの恐怖からシワ取り注射を打ち、弁護士の息子や大学生の娘もそれぞれ問題を抱えていた。ある日アンゲリカは、難民を1人受け入れることを宣言。ナイジェリア出身の心優しい青年ディアロとの共同生活に心癒される一家だったが、難民受け入れに対する近隣住民の抗議が極右デモに発展したり、テロリストの容疑をかけられたりと大騒動へと発展していく。

作品をもっと知る

舞台であるミュンヘンは、2015年の欧州難民危機の際に「難民の玄関口」となった場所。当時の中央駅では、祖国の戦火を逃れて到着した難民の人々を多くのドイツ人が温かく迎えた。しかし難民受け入れをめぐっては、現在も賛成派と反対派の対立が続いている。とはいえ、映画で描かれるのはあくまで「人」と「人」の関係。「人助け」や「移民統合」というもっともらしい言葉で難民を受け入れたハルトマン家だったが、ディアロの存在によってむしろ自分たちの傷ついた心が救われ、家族として再生していくのだった。

はじめてのおもてなし

公開年:2016年
監督・脚本:サイモン・ヴァーホーヴェン
主演:センタ・バーガー
上映時間:116分
言語:ドイツ語

バルト海の保養地で起きた襲撃事件Rostock ロストック
ロストックの長い夜
Wir sind jung. Wir sind stark.

あらすじ

1992年に旧東ドイツ地域の街ロストックで実際に起きた、ベトナム難民住宅「ひまわりハウス」への大規模な襲撃事件。そこに至るまでの24時間が、ネオナチの青年シュテファン、その父親で市議会議員のマルティン、ベトナム難民の女性リエンの三者の視点で描かれる。日々を無為に過ごすシュテファンたち若者グループは、そのやるせなさをシンティ・ロマやベトナム難民の存在に当てつけ、怒りを増幅させていく。

作品をもっと知る

ロストックは旧東ドイツでは最大の湾岸都市として栄えたが、東西ドイツの再統一後はその座をハンブルクに奪われ、失業者も増えていった。この襲撃事件が実際に起きたのは1992年のことだが、現在の欧州やドイツが抱える難民問題や人種差別に置き換えずには観られないだろう。監督であるブルハン・クルバニはドイツ出身だが、両親は政治的な理由でアフガニスタンからドイツに亡命してきた。

ロストックの長い夜

公開年:2014年
監督:ブルハン・クルバニ
脚本:マルティン・ベーンケ、ブルハン・クルバニ
主演:ヨナス・ナイ、トラン・ル・ホン
上映時間:128分
言語:ドイツ語

21世紀のドイツを「ヒトラー」が周遊!?Deutschland 全国
帰ってきたヒトラー
Er ist wieder da

あらすじ

アドルフ・ヒトラーが、70年後のベルリンにタイムスリップ!? 記憶を失ったヒトラーが出会ったのは、リストラされたテレビマン。テレビマンはヒトラーの「そっくりさん」に期待をかけ、テレビ出演を持ちかける。テレビ番組では、ヒトラーは過激でユーモラスな演説を展開。視聴者の心をガッチリ捉え、一躍スターダムにのし上がった。世間はモノマネ芸人だと認識し、誰も本物だと気づかないままに物語は進む。

作品をもっと知る

劇中ではハンブルクやドレスデンなど、全国各所を訪れている。俳優が演じるヒトラーが街の人々に実際にインタビューをしたり、社会民主党(SPD)と話し合あったりと、セミドキュメンタリー・スタイルで現実問題を浮き彫りにしていく。コメディではあるが、一種の恐怖を覚える場面も。もし今ヒトラーのような指導者が現れたら、不況や失業など現代社会に不満がある人はどう思うか、考えさせられる作品だ。

帰ってきたヒトラー

公開年:2016年(日本)
監督:デヴィッド・ヴェンド
脚本:デヴィッド・ヴェンド、ミッツィ・マイヤー
主演:オリヴァー・マスッチ
上映時間:116分
言語:ドイツ語
(日本語吹き替え、日本語字幕)
DVD販売元:ギャガ
価格:¥1,143(税抜)発売中

心のケアのために思い出の場所へItalien イタリア
Honig im Kopf

あらすじ

妻を亡くしたアマンドゥスは、アルツハイマー病が進行していた。息子のニコの家に住み始めるが、トラブルばかりで、ニコはアマンドゥスを施設に入れるようと計画する。孫のティルダはこれを阻止しようと、医師に祖父の病気について尋ね、思い出の場所に行くことがアルツハイマー病の患者にとって良いことを知った。そしてティルダは、祖父母が新婚旅行で訪れたヴェネツィアへ、アマンドゥスを連れて旅立つことを決意するのだった。

作品をもっと知る

少子高齢化が進むドイツでも、アルツハイマー病は社会問題の一つだ。ドイツ・アルツハイマー協会によると、約170万人(2018年6月現在)がこの病による認知症に苦しんでいるという。本作では、物忘れや信じがたい行動をするアマンドゥスから病気のリアルを知ることができ、孫のティルダを通じて周囲の人々に何ができるのかを示してくれる。昨今身近なテーマだけに、2014年にドイツで最もヒットした作品となった。

Honig im Kopf

公開年:2014年(日本未公開)
監督:ティル・シュヴァイガー
脚本:ヒリー・マルティネク、
ティル・シュヴァイガー
主演:ディーター・ハレル
上映時間:133分
言語:ドイツ語

僕と彼女の生きる意味を探してJapan 日本
命みじかし、恋せよ乙女
Kirschblüten & Dämonen

あらすじ

酒に溺れて家族も仕事も失ったカール。そんな彼のもとに、ある日ユウと名乗る風変わりな日本人女性が訪ねてくる。カールはユウと共に、ミュンヘンの片田舎にある実家を訪れ、そこで幽霊となって現れる両親の姿に苦悩。やがて自分の人生を見つめ直すカールだったが、その矢先にユウは忽然と姿を消してしまう。彼女を追って日本へ向かったカールは、神奈川県茅ヶ崎市の旅館でユウの祖母に会い、そこで驚きの真実を知る。

作品をもっと知る

監督のドーリス・デリエは日本文化をこよなく愛し、これまでも日本を舞台にした映画を制作してきた。今作では、デリエ監督は日本の女優である樹木希林の出演を熱望し、老女将のセリフは彼女に当て書きしたという。「あなた、生きてるんだから、幸せになんなきゃダメね」とカールに浴衣を着せながら背中を優しく叩く老女将の言葉は、公開前に急逝した樹木希林からのメッセージのようにも感じられる。

命みじかし、恋せよ乙女

公開年:2019年
監督・脚本:ドーリス・デリエ
主演:ゴロ・オイラー、入月絢
上映時間:117分
言語:ドイツ語、日本語、英語
発売中『命みじかし、恋せよ乙女』
価格:¥3,800(税抜) 
発売・販売元:ギャガ

異国の地で奮闘する娘を追いかけてRumänien ルーマニア
ありがとう、トニ・エルドマン
Toni Erdmann

あらすじ

音楽教師のヴィンフリートは悪ふざけが大好き。一方、娘のイネスはコンサル会社で働く仕事人間。二人の関係はうまくいっていない。そんななか、イネスが働くブカレストに突然やって来たヴィンフリート。父をドイツへ帰したものの、イネスの前に「トニ・エルドマン」と名乗る男が現れた。カツラに不気味な入れ歯……なんと別人に変身したヴィンフリートだった! 神出鬼没のトニ・エルドマンにイネスは振り回されるも、少しずつ二人の距離は縮んでいく。

作品をもっと知る

ここ数年、東欧地域のハブとして注目されるのが、イネスも働くルーマニアだ。アデ監督は映画製作に当たり、現地の多国籍企業で働く女性を取材したという。話せば人間らしいのに、仕事に身を捧げて自分を押し殺して生きる彼女たちの姿は、イネスにも重なる。役柄を演じることで自分を解放するヴィンフリートと、役柄(仕事)を放棄することで自分を解放していくイネス。生の声を聞いたからこそ生まれたこのアイデアは、監督自身も気に入っているそう。

Toni Erdmann

公開年:2016年
監督・脚本:マーレン・アデ
主演:ペーター・ジモニシェック
上映時間:162分
言語:ドイツ語、英語
DVD&Blu-ray発売中
価格:DVD ¥3,900/Blu-ray ¥4,800(いずれも税抜)


最終更新 Mittwoch, 22 Juli 2020 17:07
 

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