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福沢諭吉の心を開いたビール

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉は、世界に目を向けた教育者、啓蒙思想家として数多くの名言を残しています。海外でも「一万円札の人」として有名でしょう。諭吉には、こんな名言(?)もあります。

「『ビール』と云ふ酒あり。これは麦酒にて、其味至って苦けれど、胸隔を開く為に妙なり。亦人々の性分により其苦き味を賞翫(しょうがん)して飲むものも多し。(ビールという酒がある。これは麦の酒でその味は至って苦いけれど、胸の内を開くのに妙なるものだ。またその苦い味を楽しんで飲む人も多い)」

大英博物館前のMuseum Tavern。カール・マルクスはここで『資本論』を書き上げた
諭吉は、「ビールはアルコールではない」と言って
断酒中もビールは飲んでいました。これも名言!

欧米で見聞きしたものを図解入りで説明した『西洋衣食住』からの一文です。ビールには人の心を開く効果があると、諭吉も感じたのですね。お堅いイメージのある彼ですが、実は幼少の頃からアルコールを嗜んでおり、欧米渡航後は大のビール好きとして知られていました。諭吉が飲んだ「胸隔(胸の内)を開く」ビールとは、どのようなものだったのでしょうか?

諭吉は幕末に下級藩士の子として生まれ、早くから海外に目を向けていました。1860年に幕府が初めて米国に使節団を送ることを決めると、従者として船に乗り込みます。衣食に興味があった彼は、米国でビールに出会い、その味わいに衝撃を受けました。19世紀半ばの米国は、エールビールからラガービールへの転換期にありました。それまでビールと言えば、常温に近い温度で発酵、熟成させるエールビールでしたが、1840年代以降ドイツからの移民と共に低温で造られるすっきりとしたラガービールが入ってくると、ドイツ系移民の多い地域を中心にラガービールが広まっていきました。

2年後の1862年、諭吉は文久遣欧使節団の正式な通訳として、日本人で初めてヨーロッパに渡航します。当時、ヨーロッパではいち早く産業革命に成功した英国がビール醸造の中心地で、ラガービールはドイツの田舎町のビールに過ぎませんでした。一行は、もちろんドイツにも来ています! デュッセルドルフは2時間程の短い滞在でしたが、駅の食堂にてアルトビールとワインで昼食をとり、ケルンではケルシュビールとワインを楽しんでケルン大聖堂の塔にも登っています。ベルリンではラガービールとシャンパンを飲み、フンボルト大学や議事堂を見学しました。

諭吉たち使節団にとってヨーロッパは、何もかもが珍しく驚きの連続でした。ヨーロッパ人にとっても、彼らは初めて目にする日本人。そのエキゾチックなチョンマゲや着物を見ようと、見物人が殺到し、至るところで熱烈な歓迎を受けました。きっと食事やビールを堪能し、欧米の文化に胸隔を開いたことでしょう。そして諭吉の啓蒙思想を開き、その言論は日本の近代化に影響を与えます。諭吉たち一行から始まった日独交流は大輪の花となり、渡独から150年後の今日、ドイツにこれほど多くの日本人がいようとは、さすがの諭吉も想像していなかったでしょうね。

最終更新 Donnerstag, 09 Februar 2012 13:00  
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