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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

18. ケスラー・ゼクト12 ドイツ産「シャンパン」誕生!

Deutsche Sekt-Geschichte

1826年7月、ドイツ初の「シャンパン」醸造所G.C.ケスラー&カンパニーが、エスリンゲンの旧シトー会療養院カイスハイマー・プレーグホーフで誕生した。建物を提供したのは、ケスラーのビジネスパートナー、ゲオルギだった。

シュトゥットガルト近郊のエスリンゲンには、今日、カイスハイマー・プレーグホーフを含め、9つの旧療養院の建物が残っている。中世に複数の修道院が運営していたものだ。エスリンゲンに拠点を置いた修道院は、いずれもブドウ畑を所有し、ワインを造っていた。ほとんどの療養院に、ブドウを圧搾する設備やセラーが整い、農家、管理事務所、ワインの倉庫を兼ねていたのである。

ケスラーとゲオルギは、初年に約8000本の「シャンパン」をボトリングした。そのうち瓶内二次発酵を無事に終え、1年後に販売できたのは約4000本だけだった。二次発酵の際に生じる炭酸による内圧で、半数ものボトルが破裂してしまったからである。

1827年、地元紙は「昨秋、G.C. ケスラーはクレヴナーとエルプリングから『シャンパン』を生産した。なかでもクレヴナーは、味も色も泡も非常に良い出来だった」と報告したという。ケスラーはこの年、高品質のワインを生産した功績により、農業功労章を受けている。ファーストヴィンテージは高く評価された。

この記事内容から、ケスラーたちが、少なくともクレヴナーとエルプリングの2種類の「シャンパン」をリリースしたことが推測できる。評価が高かったクレヴナーは、バーデン地方などではシュペートブルグンダー(ピノ・ノワール)、ヴュルテンベルク地方では、フリューブルグンダー(ピノ・マドレーヌ)を指す。後者はシュペートブルグンダーの突然変異種である。このクレヴナーがブラン・ド・ノワールだったのか、ロゼのような色、あるいはより赤い色だったのかは分かっていない。

当時のシャンパン・メゾンにとって、ボトルの破裂は大問題だった。どのメゾンもそのために生産量の多くを失っていた。ケラーマイスターは、ボトルを扱う際には、顔をすっぽり覆う金網製のマスクを装着して仕事をしていた。今でも見学時に、シンボル的にプラスチック製のゴーグルを貸してくれるシャンパン・メゾンがある。

このようなハイリスクのビジネスで収益を上げるには、より丈夫なボトルを確保すると同時に、より多くの「シャンパン」をボトリングする必要があった。そのためには、より広いセラーが必要だった。ケスラーとゲオルギは、1827年に早速、隣接するセラーを購入し、3万本を生産。翌1828年には5万4000本をボトリングした。1829年は不作で生産を中止したが、1830年に再び3万本、1831年に7万2000本、1832年には4万4000本をボトリングしたという記録が残っている。

1826年のG.C. ケスラー&カンパニーの「シャンパン」のエティケット1826年のG.C. ケスラー&カンパニーの「シャンパン」のエティケット。
「G. C. ケスラー、ヴーヴ・クリコ・ポンサルダンの前パートナー」と書かれてある

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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