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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

28. ブッサルト6 ゼクト生産再開

Deutsche Sekt-Geschichte

1955年、旧ブッサルト・ゼクトケラー ライのセラーで、約10年ぶりにゼクトの生産が再開した。新生ブッサルトはゼクトケラーライ・ブッサルト・フォイグト& Co.KGといった。パートナーには人民公社ロートケプヒェン・フライブルクなどが名を連ねていた。

ゼクトケラーライ・ブッサルト・フォイグトでは、戦前同様、瓶内二次発酵法、つまりシャンパーニュと同様の製法にこだわり、ゼクトの生産を再開した。年間生産本数は4万本。酵母は旧西独シュパイヤーのゼクトケラーライ・クアファルツから入手していたという。

1958年には、国営レスニッツ醸造所を前身とし、1950年に設立された、人民所有農場醸造所Z ラーデボイル(以下ラーデボイル醸造所)がワイン生産のほかに、ゼクトの生産を始めた。ブランド名は地名と畑名を組み合わせ「ホーフレスニッツァー・シュロスベルク」といった。

ラーデボイル醸造所は、瓶内二次発酵法ではなく、大型タンク内で二次発酵を行う「シャルマ製法」でゼクトを生産していた。19世紀後半にイタリアやフランスで開発された方法で、旧西独地域ではすでに実施されていた。ほかにも、ムンク&シュミッツの100ヘクトリットルの発酵タンク、ザイツ社のボトリング設備、ヤーゲンベルク社のエチケット貼り機など、最新の醸造設備を導入した。

ゼクト部門のマネジャー、カール= ハインツ・シュッツェ、ケラーマイスターのハンス・ヒュブラー、ホルスト・ミュラーらは、旧東独におけるシャルマ製法の先駆者となった。シャルマ製法は伝統製法である瓶内二次発酵と異なり、泡のきめ細かさなどにおいて劣る部分もあるが、手間がかからず、コストを抑えることができる。彼らは効率を重視したのである。

1958年の段階で、ラーデボイル醸造所のゼクト工場は社員188人を擁し、生産本数は年間30万本に達していた。その後も生産本数は順調に伸び、1964年には年間64万本、1970年代には年間500万本を達成した。

生産当初は、ゼクトの知名度はまだ低く、農民や労働者たちは、アルコール飲料といえばビールやシュナップスを飲んでいた。しかし公共イベント、党関連の集会などで、ソ連産のゼクトが振る舞われていたことから、ゼクトの存在が少しずつ知られるようになったのである。

1960年にブダペストで開催された国際ワインコンテストで、ラーデボイル醸造所の「ホーフレスニッツァー・シュロスベルク」のエクストラ・ドライ、ハルプトロッケン、ズース(甘口)の3点が銀賞を受賞した。旧東独産のシャルマ製法のゼクトの品質は評価され始めていた。

時代の先端を行くこのラーデボイル醸造所が、後にブッサルトを吸収し、今日のシュロス・ヴァッカーバートの基礎を作るのである。

人民所有農場醸造所 ラーデボイルの1960年代のゼクトのポスター人民所有農場醸造所 ラーデボイルの1960年代のゼクトのポスター

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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