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Fr. 19. Jan. 2018

ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

8. ケスラー・ゼクト 2

Deutsche Sekt-Geschichte

ケスラー青年は、ノイヴィートの小売商での職業訓練を終えると、フランス領だったマインツの皮革商にまず就職し、その後、シャンパーニュの名門クリコ社に転職した。その経緯は想像の域を出ないが、予てからのフランス移住の夢は実現した。

1801年、14歳のケスラーは、フランクフルトの北西120キロ、ライン川畔の町ノイヴィートで職業訓練生となった。ラインの対岸は当時フランスに併合されていた。訓練先は父親の知己が斡旋してくれた染料、香辛料、革製品を扱う小売商だった。当時は子弟に職業訓練を受けさせる場合、親が受け入れ先に訓練料を支払うのが慣習だったという。

フランス移住の夢を叶えるため、ケスラーは語学の勉強にも力を入れ、革命の渦中にドイツに移住したフランス人聖職者のもとでフランス語を習った。彼は優秀な訓練生だったようで、4年の訓練期間を約3年半で終了し、フランス領だったマインツの皮革商に就職した。フランス領とはいえ、マインツはドイツの地方都市色を濃く残していた。フランスとドイツの交差点として、可能性を秘めた街だったが、ケスラーは本当のフランスで働きたかった。やがてケスラーはフランス行きのチャンスを掴む。1772年にランスに創業したシャンパン・メゾン、クリコ社(当時はヴーヴ・クリコ・フォルノー社) の社員に抜擢されるのだ。

歴史家ナイゲンフィントは、ケスラー転職の経緯には以下の3通りの可能性があると述べている。1つ目。1806年秋、クリコ社はワイン商、カール=フリードリヒ・バーンマイヤーをシャンパン受注のためドイツ経由で北欧へ送り込んだ。バーンマイヤーはケスラーと同じシュヴァーベン人。ケスラーはこのバーンマイヤーに出会ったかもしれない。

2つ目。ランスのワイン商、ルードヴィヒ・ボーネと出会った可能性もある。マンハイム出身のボーネは、一時的にクリコ社の経営パートナーとなったワイン商、フェルノー社の幹部だった。ボーネ家は1802年にハイルブロンに移住しており、ケスラー家と交流があったかもしれない。3つ目。1787年、オルガニストだったケスラーの父親は、教会のパイプオルガンのメンテナンスの手配を任された。その際、17世紀末からオルガン製造業を営んでいたランス出身のクリコ家にコンタクトしていたかもしれない。

いずれにせよ、ケスラーはクリコ社への転職を決意し、1807年にランスに移住した。クリコ社では、2 代目フランソワ・クリコが亡くなり、未亡人のバーブ=ニコル・クリコ= ポンサルダンが経営を引き継ぎ、アレクサンドレ・フォルノーを共同経営者として迎えたばかりだった。

ケスラー・ゼクト創業者
ケスラー・ゼクト創業者、ゲオルク=クリスチャン・フォン・ケスラー

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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