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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

14. ケスラー・ゼクト8 ケスラーの結婚

Deutsche Sekt-Geschichte

シャンパーニュで活躍していたドイツ人たちは、自らの名前をフランス読みに変更していた。フランス人女性と結婚したり、フランスに帰化して、永住するケースも多かった。ケスラーも1819年にフランス人女性と結婚し、永住を視野に入れていた。

ケスラーの妻は、12歳年下のマルグリット=クレメンス・ジョベール。クレメンスと呼ばれていた。2人がどのように知り合ったのかはわかっていない。クレメンスの母親はセダン有数の繊維業者の娘。父親は弁護士だが、実家はやはりセダンの繊維業者で、3期にわたってセダン市長を務めたこともある。当時のランスは商業の中心地で、セダンは新興産業都市。機械化が進んだ繊維業は先端産業の一つだった。

1806年から1814年にかけての大陸封鎖令は、フランスの繊維産業にポジティブに作用したとも言われる。英国の先端技術がフランスに伝わらなかったために、フランスで独自の繊維技術が発展したのだ。ランス市長を務めたこともあるクレメンスの父方の伯父、ピエール=マリー・ジョベール=ルカスも繊維業を営み、1812年にフランス初の機械紡績工場を設立した。この会社には、マダム・クリコの実家のポンサルダン家や、クレメンスの母方の伯父ギョーム・テルノーも出資していた。

テルノーは「一貫型工場」というコンセプトを掲げ、テキスタイル製造の全行程を一つの屋根の下で可能にした男だ。チベットからカシミヤヤギをフランスに運び、フランス産カシミアを生産しようとしたこともあったが、ヤギが風土に適合せず断念。しかし、後に開発した人工カシミアである「テルノー・カシミア」が大流行した。クレメンスの姪のフェリシエは、ドレスデン出身のニコラウス・シュライダーのシャンパンメゾンを継いだ彼の甥、ルイ・ロデレールと結婚している。

ケスラーはクレメンスと結婚することで、ランスの上流階級に迎え入れられた。社交パーティーには、リュイナール家、ポンサルダン家、クリコ家、アンリオ家、テルノー家、ジョベール家など、錚々(そうそう)たる顔ぶれが揃った。

1822年にケスラーが銀行業部門に専念する決心がついたのは、ランスの上流階級の出身であるクレメンスとの結婚による安心感もあったに違いない。親戚となった繊維産業界の重鎮からは、仕事に有用な情報を得ることができたはずだ。このような背景から、ヴーヴ・クリコ=ポンサルダン社は、やがて繊維業を復活させたのである。生活に密着したテキスタイル産業は、 結局のところシャンパン産業よりも重要であり、売上もはるかに大きかったのだ。

ランスの大聖堂
ランスの大聖堂のステンドグラスには、シャンパンの醸造過程が表現されている(筆者撮影)

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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