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戦後に起きたドイツの民族大移動

2014年は、ナチスがドイツの全政権を掌握してから70年目の年に当たる。第2次大戦終戦後、満州や樺太からの引き上げ途中、あるいは、ようやく祖国にたどり着いたものの亡くなっていった日本人が大勢いるが、ドイツでも、終戦時に日本と同じようなことが起きていたことをご存じだろうか。今回は、ドイツと日本の戦後引き揚げについてみてみよう。

日本の戦後の引き揚げ

第2次世界大戦での敗戦により、外国に移住していた多くの日本人が帰国した。移住先となっていた場所は、台湾や朝鮮半島などの外地、外国ではあるが大勢の入植者がいた満州、内地であったがソビエト連邦(以下、ソ連)の侵攻によって支配権を奪われた南樺太などである。

「引揚者」とは、外地などから帰国した非戦闘員を指す言葉である。帰国した戦闘員は、「復員兵」と呼ばれる。

敗戦時、国外にいた日本人は、軍人、民間人合わせて660万人と言われており、敗戦の翌年までに500万人が引き揚げた。ソ連軍占領下の満州からの引き揚げは困難を極め、中国残留日本人孤児問題やシベリア抑留、強制労働の問題へとつながった。

ドイツ人の戦後の追放

ドイツ人の戦後の旧ドイツ領からの追放は、米英ソ三国の首脳が戦後ドイツの処理問題を話し合った結果によるものだった。1943年のテヘラン会談にて大枠が話し合われ、1945年のポツダム会談で決定された。その内容は、ソ連とポーランドの国境線を西へ移動し、その代わりにポーランドに対し、東はメーメル川から西はオデール、ナイセの2つの川の間にあるドイツ領、東ポンメルン(ポメラニア)、東ブランデンブルク、シュレージェン(シレジア)の3地方を暫定統治地域とし、東プロイセンはソ連とポーランドで分割することが決まった。それと同時に、これらの地方にいたドイツ人の追放が決まった。また、旧ドイツ領以外でも、チェコスロバキアのスデーテン地方やハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアにもドイツ人が住んでいたが、彼らの追放も同時に決定された。

当時、旧ドイツ領に住んでいたドイツ人は996万人、領外のドイツ人は769万人。一部は残留を許されたが、1383万人の民間人が終戦により故郷を去らなければならなくなった。そのうち、ドイツ領土に無事たどり着いたのは1073万人。実に200万人もの民間人が、移動中に命を落としたことになる。

ベルリンから現在のポーランドとの国境までは64kmしかない。ベルリンには、東方から1日に2万5000~3万人もの難民が殺到した。戦時中から安住の地を求め、ドイツ国内を移動していた人々を含めると、敗戦直後のドイツでは5人に2人が移動をしていたことになる。

厳しい持ち込み制限

この追放はソ連側からの一方的な通告であったため、携帯品に関しては持ち込みが厳しく制限された。“24時間以内に退去、携行品は30kg以内に限る”といった内容が一般的だったが、中には“3時間以内に退去、携行品は20kg以内”といった厳しいものもあった。残された財産は、ソ連とポーランド政府に接収された。

ドイツ人の「引き揚げ」?

戦後のドイツ地域への移動が「引き揚げ」ではなく「追放」と呼ばれるのは、接収された地域が植民地ではなく、元来ドイツ人が何世紀にもわたって住んでいた土地だからである。東プロイセンの都市ケーニヒスブルクは、1701年にフリードリヒ1世がプロイセン王に即位し、プロイセン王国を建国した由緒ある土地である。東ポンメルンは19世紀初頭にスウェーデンからプロイセンに割譲され、東ブランデンブルクはプロイセンの10州のうちの1つだった。

このように、日独どちらの国でも第2次世界大戦後、何百万という人々が戦争以外の理由で命を落とした。そしてその多くは非戦闘員だった。戦争の後始末の難しさを思い知らされる。

戦後に分割された旧ドイツ領


ドイツでのナチスの評価

2005年、英王室のヘンリー王子がナチス・ドイツの制服を模したスタイルで仮装パーティーに参加したところをスクープされ、大問題になった。日本でもかなり盛んに報道されていたので覚えている方も多いだろう。そのニュースを観た印象として、「仮装パーティーなんだから、そこまで目くじらを立てなくても・・・・・・」と思われた方もいるのではないだろうか。

欧州諸国はナチス・ドイツの問題にとても敏感だ。特に当該国ドイツでは、その傾向は顕著である。ナチスの紋章であるハーケンクロイツを掲げることは禁止され、ヒトラーの著作である『我が闘争(Mein Kampf)』は発禁処分となっていて、著作権が消滅する2016年以降もその措置は継続される予定である。

ナチス・ドイツ時代に、失業対策のための公共事業の1つとしてアウトバーン建設が遂行され、一定の効果をもたらしたが、プラスの評価がなされることはない。

このように、ナチスの評価が完全にマイナスに振れている理由の1つとして、ホロコーストの残虐性があるだろう。ホロコーストで殺されたユダヤ人の正確な人数は分かっていないが、およそ570万人とも言われている。当時のユダヤ人の総人口が約730万人とされていたので、まさに民族大せん滅政策であった。

第2次世界大戦中に亡くなった日本人の数は、軍人、民間人を含めて250万~300万人と言われている。もちろん単純な比較はできないが、ユダヤ人のその悲しみの深さは理解できるのではないだろうか。

戦後、ドイツは一貫して謝罪の姿勢を貫いてきた。その結果、隣国からの信頼を得られ、欧州連合(EU)を牽引する国にまでなった。現在のドイツ国内における反ユダヤ主義デモの拡大は、今までの努力を無に帰してしまうのではないかという懸念が残る。

抗議デモ
ベルリンで行われたイスラエルに対する抗議デモ

 

用語解説

自由都市
Freie Stadt

周辺地域の国家の構成に関係なく自ら統治を行い、政治的秩序を構築している自立性の高い都市のこと。中世ドイツで形成された都市の一形態。ドイツ人に馴染み深い自由都市ダンツィヒ(現在のグダニスク)は東プロイセンに隣接し、12世紀頃から、ここにはドイツ人商人が住んでいた。自由都市ダンツィヒは、ポーランド王国の庇護下の時代とナポレオン戦争後、両世界大戦の間、3度にわたって存在した。

<参考文献とURL>
■ 「現代史ベルリン」永井清彦(20.01.1984, 朝日選書)
■ 「ユダヤ人とドイツ」 大澤武男(20.12.1991, 講談社現代新書)
■ 「現代ドイツ史入門」ヴェルナー・マーザー(20.03.1995, 講談社現代新書)
www.wikipedia.org "引揚者", "Freistadt"

藤田さおり(ふじた・さおり) 法政大学経営学部経営学科卒業。スイス、ドイツ在住。日本で独大手自動車メーカーのマーケティング部に従事。その後、スイスにてマーケティングや通訳をベースとしたコンサルティング会社を設立する。ビジネス経験から、日本や海外駐在のビジネスマンにも分かりやすい記事を目指している。Facebook: funi.swiss

最終更新 Donnerstag, 14 Januar 2016 12:53  
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