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都市ガイドシリーズ 19

フランス文化が息づく国境の街ザールブリュッケンの魅力再発見!

16の個性豊かな州からなるドイツ。歴史や文化はもちろん、言葉も食もそれぞれ異なる。そんな魅力たっぷりのドイツ各地の都市を、一つずつスポットを当てて紹介していく「都市ガイドシリーズ」。第19回目は、フランスとの国境に位置するザールラント州の州都ザールブリュッケン。製鉄業で栄えた歴史を持ち、バロック建築や産業遺産が今も残る。ドイツとフランス、二つの文化が自然に交わる国境の街をニュースダイジェスト編集部員が訪れ、その魅力を徹底紹介する。
(文: ドイツニュースダイジェスト編集部・沖島景、取材協力:ドイツ政府観光局)

ザールブリュッケンの魅力再発見!

ザールブリュッケンってどんな街?

都市名:ザールブリュッケン(ザールラント州)
人口:約18万7000人(2025年12月31日時点 )
面積:約167.5㎢

ザールブリュッケンは、ドイツ南西部に位置するザールラント州の州都で、ザール川沿いに広がる都市。フランスとの国境に接し、市中心部から国境まではわずか数キロという近さから、古くから両国を結ぶ交通・文化の要衝として発展してきた。

ザールブリュッケンの歴史は古く、ザール川一帯にはローマ時代から集落が形成されていた。1322年には都市としての自由権が文書で確認された。現在のザールブリュッケンが一つの都市として成立したのは1909年。領主の城を中心に発展したザールブリュッケン、商人や市民の街として栄えたザンクト・ヨハン、労働者の街として成長したマルシュタット=ブルバッハという、性格の異なる三つの街が統合された。19世紀以降、豊富な石炭資源を背景に炭鉱業と鉄鋼業が発展し、ザールブリュッケンもその中心都市として成長。現在も旧鉱山管理局などが残り、地域の繁栄を支えた産業の歴史を伝えている。近郊のフェルクリンゲン製鉄所が1994年にユネスコ世界遺産に登録されたことも、ザール地方における産業遺産の重要性を物語る。

一方、ザールブリュッケンの近現代史は、ドイツとフランスの狭間で揺れ動いてきた歴史でもある。第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によってザール地域は国際連盟の管理下に置かれ、炭鉱の所有権がフランスに譲渡された。1935年の住民投票を経てドイツに復帰したが、第二次世界大戦後には再びフランスの影響下に入る。1955年の住民投票で欧州化構想が否決されると、1957年1月1日、ザールラントは西ドイツに加わった。第二次世界大戦で市街地の多くが破壊されたものの、戦後に再建され、今日も優美な面影を見ることができる。

アクセス

ザールブリュッケン中央駅
Saarbrücken Hbf

● フランクフルト中央駅から
ICEで約2時間5分

● マンハイム中央駅から
ICEで約1時間45分

● パリ東駅から
ICE/TGVで約1時間50分

www.bahnhof.de

お得なカード:ツーリスト向け ザールラント・カード
Saarland Card

Saarland Card

ザールラント州内の提携宿泊施設に2泊以上すると無料でもらえる(購入不可)観光カード。州内のバスや近距離鉄道を無料で利用できるほか、100カ所以上の観光施設や博物館、レジャー施設などを無料で楽しむことができる。ザールブリュッケン市内のガイドツアーにも利用可能。カードは提携ホテルなどでチェックイン時に発行され、宿泊期間中は有効だ。
www.urlaub.saarland/planen-buchen/saarland-card

ザールブリュッケンのおすすめスポット

ザールブリュッケンに旅行で来たり、引っ越してきたりした人はぜひ訪れるべき、おすすめスポットをご紹介。

ザールブリュッケンのおすすめスポット

St. Johanner Markt① ザンクト・ヨハン市場

ザンクト・ヨハン市場

ザールブリュッケン旧市街の中心にあるザンクト・ヨハン市場は、カフェやレストラン、ブティックが並ぶにぎやかな広場。1978年以降、周辺は歩行者専用地区となり、石畳の小路をのんびり散策できる。広場中央の噴水は、1759年に宮廷建築家フリードリヒ・ヨアヒム・シュテンゲルが設計したもの。テラス席でくつろぐ人々の姿からも、フランス国境の街らしい生活文化が感じられる。

St. Johanner Markt, 66111 Saarbrücken
www.saarbruecken.de

Rathaus St. Johann② ザンクト・ヨハン市庁舎

ザンクト・ヨハン市庁舎

高さ54メートルの塔が目を引くザンクト・ヨハン市庁舎は、1897~1900年にネオゴシック様式で建てられた。設計はミュンヘン新市庁舎も手掛けたゲオルク・フォン・ハウベリッサー。正面には鉱夫や製鉄労働者、農民、ビール醸造家、商人などの像が並び、かつての街を支えた職業を表している。中央の聖ゲオルク像や、塔から鳴り響くカリヨンにも注目したい。19個の鐘からなるカリヨンは、毎日15時15分と19時19分に美しい音色を街に響かせる。

Rathausplatz 1, 66111 Saarbrücken
www.saarbruecken.de

Basilika St. Johann③ 聖ヨハン・バジリカ

聖ヨハン・バジリカ

旧市街にたたずむ聖ヨハン・バジリカは、1754~58年にシュテンゲルによって建てられたバロック教会。白を基調とした優美な外観と、明るく華やかな内部が印象的だ。正面入口のブロンズ製の扉はザールブリュッケン出身の芸術家エルンスト・アルトによるもので、聖書の物語が象徴的に表現されている。三つのオルガンには合わせて4000本以上のパイプがあり、教会音楽の演奏会も定期的に開かれている。ザールブリュッケン伯領で、宗教改革導入後に初めて新築されたカトリック教会として街の宗教史でも重要な存在だ。

Gerberstraße 31, 66111 Saarbrücken
https://www.pfarrei-st-johann.de/stjohann.html

Saarländisches Staatstheater④ ザールラント州立劇場

ザールラント州立劇場

ザール川沿いに立つザールラント州立劇場は、1938年に開館した街を代表する文化施設。当時としては最先端の舞台設備を備え、現在もオペラや演劇、バレエ、コンサートなどが上演されている。しかし、その誕生にはナチス時代の政治的背景が。ナチ政権は1935年のザール住民投票を受け、劇場をヒトラーからザール地方への「贈り物」として宣伝したのである。 美しい建物の背後にある複雑な歴史にも目を向けたい。

Schillerplatz 1, 66111 Saarbrücken
www.staatstheater.saarland

Alte Brücke⑤ アルテ・ブリュッケ

Alte Brücke

ザール川に架かるアルテ・ブリュッケは、ザンクト・ヨハンと旧ザールブリュッケンを結ぶ歴史的な橋。1546年、増水した川を渡れなかった神聖ローマ皇帝カール5世の命で建設が始まったと伝えられている。当初は14のアーチがあったが、戦争や道路建設を経て現在は一部のみが残る。橋を渡ると、にぎやかな旧市街から城や官庁が集まる静かな地区へと、街の雰囲気が大きく変わるのも面白い。

Alte Brücke, 66111 Saarbrücken
www.saarbruecken.de

Saarbrücker Schloss & Schlosskirche⑥ ザールブリュッケン城&城教会

ザールブリュッケン城&城教会

街を見下ろす高台に建つザールブリュッケン城は、中世の城塞を起源とし、18世紀にシュテンゲルによってバロック様式へと改築された。現在のガラスと鉄を使った中央部分は、建築家ゴットフリート・ベームによる現代的なデザインだ。隣接する15世紀の城教会には、歴代領主の墓碑や色鮮やかなステンドグラスが残る。バロック、ゴシック、現代建築が隣り合う景観も見どころ。

Schlossplatz, 66119 Saarbrücken
www.saarbruecken.de

Ludwigskirche & Ludwigsplatz⑦ ルートヴィヒ教会&ルートヴィヒ広場

ルートヴィヒ教会&ルートヴィヒ広場

ルートヴィヒ教会は、シュテンゲルが手掛けたザールブリュッケンを代表するバロック建築。1775年に完成し、周囲の宮殿や住宅とともに左右対称の美しい広場を形成している。第二次世界大戦でほぼ完全に破壊されたが、戦後に再建された。シュテンゲルは教会だけでなく周囲の街並みまで計画し、通りの延長線上に建物が美しく見えるよう配置した。広場全体を一つの建築作品として眺めてみたい。

Am Ludwigsplatz, 66117 Saarbrücken
www.ludwigskirche.de

Deutsch-Französischer Garten⑧ ドイツ・フランス庭園

ドイツ・フランス庭園

ザールブリュッケン南西部に広がるドイツ・フランス庭園は、1960年に開園した約50ヘクタールの公園。第二次世界大戦後、ドイツとフランスの友好と和解を象徴する場所として整備された。園内には大きな池や花壇、バラ園、噴水などがあり、のんびり散策するのにぴったり。かつて国境を挟んで対立した両国が、協力の道を歩み始めた歴史を感じられる、ザールブリュッケンらしいスポットだ。

Deutschmühlental, 66117 Saarbrücken
www.saarbruecken.de

スタッフが現地で見つけたもの

ザールブリュッケン散策がさらに楽しくなるヒントをご紹介!

Ⓐ 旧鉱山管理局 ショッピングセンターに炭鉱の歴史

中央駅前にあるヨーロッパ・ギャラリーは、大型ショッピングセンターであると同時に、ザール地方の産業史を伝える場所でもある。その一部は1880年に建てられた旧鉱山管理局で、館内には鋳鉄製の階段やタイル床など当時の装飾が残る。外観には鉱夫や製鉄労働者の像、鉱夫のあいさつ「Glück auf」の文字も。

旧鉱山管理局

ⒷⒸ 「見えない記念碑」の広場&ラビナー=リュルフ広場 足元に刻まれた見えない記憶

ザールブリュッケン城前には、一見しただけでは気づかない「見えない記念碑」(Platz des Unsichtbaren Mahnmals)がある。1990~1993年、芸術家ヨッヘン・ゲルツと学生たちが2146個の敷石の裏に、かつてドイツに存在したユダヤ人墓地の名を刻み、文字を下にして元の場所へ戻した。また、ザール川沿いのラビナー=リュルフ広場には、ナチ時代に殺害されたザール地方のユダヤ人を追悼する「途切れた森」(Der unterbrochene Wald)がある。40本の切断されたブロンズの木の幹が、喪失と断ち切られた伝統を象徴している。

見えない記念碑途切れた森

裸のテレマコス像 裸体をめぐり大論争に

一見すると静かに佇むこの像は、ギリシャ神話の英雄テレマコス。1902年にザンクト・ヨハン市庁舎前の噴水に設置されたが、その裸体が市民の反発を招き、女性414人が撤去を求めて署名した。市議会の決定によりその後も残されたが、1936年に「場所が狭い」ことを理由に噴水と共に撤去。戦後、がれきの中から発見され、城庭園を経て、現在はフォアシュタット通りにひっそりと立っている。

裸のテレマコス像

ディッベラッベス&ゲフィルデ じゃがいもが主役の郷土料理

ザールラントの郷土料理に欠かせないのが、じゃがいも。代表格の「ディッベラッベス」(Dibbelabbes)は、すりおろした生のじゃがいもにベーコン、ネギ、卵などを混ぜ、表面がカリカリになるまで焼き上げる庶民料理だ。一方、「ゲフィルデ」(Gefillde)は、じゃがいもの団子の中にひき肉やレバーソーセージを詰めたもの。どちらもかつて鉱夫たちに親しまれた、ボリューム満点の味だ。

ディッベラッベス&ゲフィルデ

ザール地方の過去と未来をつなぐ世界遺産 フェルクリンゲン製鉄所の光と影

フェルクリンゲン製鉄所

ザールブリュッケンの歴史と街並みをたどると、その背景にザール地方を支えてきた重工業の存在が見えてくる。石炭と鉄鋼は、この地域の経済や人々の暮らしを長く形づくってきた。その象徴ともいえるのが、ザールブリュッケンからほど近いフェルクリンゲン製鉄所だ。現在はユネスコ世界文化遺産として公開されているが、その巨大な高炉群には、ザール地方の繁栄、公害、戦争、そして人々の暮らしの記憶が刻まれている。

参考:Weltkulturerbe Völklinger Hütte「Chronologie / Die Geschichte der Völklinger Hütte」「Christian Boltanski – Die Zwangsarbeiter」 、 UNESCO World Heritage Centre「Völklingen Ironworks」、Deutsche Biographie「Röchling, Hermann」

生々しく残る巨大な製鉄所

ザールブリュッケンから列車で約10~15分行くと、かつて石炭と鉄鋼で栄えたこの地域を象徴する場所、フェルクリンゲン製鉄所がある。現在はユネスコ世界文化遺産として公開されているが、敷地に足を踏み入れてまず驚くのはその規模だ。頭上には複雑に入り組んだ配管が走り、巨大な高炉やさびた鉄骨が幾重にも重なっている。その姿はかつて高度な技術を結集して築かれた巨大文明の遺構のようで、圧倒的なスケールゆえにどこか神秘的な空間にも感じられた。

操業を終えて40年近くたつというのに、機械や設備には、つい先ほどまで人が働いていたかのような生々しさが残る。かつては耳をつんざく騒音に包まれ、真っ赤に焼けた鋼塊を扱う過酷な仕事が営まれていたのだろう。だが今、聞こえてくるのは鳥のさえずりだけだ。

19世紀末、重い鉱石をかごに入れて運ぶ女性たちの白黒写真フェルクリンゲンで銑鉄生産が始まった19世紀末、30~40キログラムもの鉱石をかごに入れて運んだ女性たち

繁栄の裏側にあった戦争と強制労働

フェルクリンゲン製鉄所の発展の礎が築かれたのは19世紀末。1881年、実業家カール・レヒリングが経営難の同製鉄所を買収し、1883年に最初の高炉を稼働、ロレーヌ地方の鉱石を用いて銑鉄から鋼までを自社生産する体制を築いた。街には労働者が集まり、人口は1876年の約7000人から1907年には約2万7000人を超えた。

レヒリング家は製鉄所で働く人々の生活を豊かにしようと、労働者向けの宿舎や病院、プールなどを整備し、街の発展にも貢献した。20世紀初頭には息子ヘルマンが経営に加わり、1905年に責任者となる。技術革新と福利厚生を進める一方、第一次世界大戦以降は軍需生産の比重を高めることで、さらに繁栄していった。

ドイツが敗戦すると、ザール地方はフランスの影響下に置かれた。ドイツ本国から切り離され、フランスの影響が強まった状況に不満を抱いていたヘルマンは、1935年の住民投票を経たザール地方のドイツ復帰を積極的に支持。さらに、翌年にはヒトラー宛ての覚書で反ユダヤ主義的な主張を展開し、ナチス政権に加担していく。軍備強化を進めるナチス政権下で、製鉄所ではヘルメットや戦車、大砲などに使われる鋼材が大量生産された。

フェルクリンゲン製鉄所1942年ごろ、フェルクリンゲン製鉄所の記念行事で掲げられた鍵十字

さらに第二次世界大戦下の1942年、ヘルマンは帝国鉄鋼連合の責任者となり、占領地域の鉄鋼を担う帝国全権委員にも就任。製鉄所と関連施設では1万2393人が強制労働者として登録された。製鉄所や収容所では261人が死亡し、うち60人は強制労働者の子どもだった。敷地内には現在も追悼施設があり、身元を明らかにするための調査が続いている。ヘルマンは戦後のラシュタット裁判で戦争犯罪・人道に対する罪により禁錮10年などの判決を受け、1955年に死去した。

その後、製鉄所は戦争と強制労働の記憶を抱えながらも、再びザールラント経済の中心となった。1965年には従業員数が1万7000人を超え、史上最多を記録。ザールラントにも「経済の奇跡」と呼ばれる好景気が訪れたのだった。

製鉄所と共に生きてきた人々

20世紀のフェルクリンゲンの街は、いつも煙に覆われていた。空が青く見えることはなく、厚い雲が垂れ込めていたという。製鉄所の焼結設備から大量の粉じんが大気中に放出されていたのである。住民は目が痛くてもこすってはならず、眼科へ行かねばならなかった。目に入ったのは草原から飛んできた砂粒ではなく、鋭い鉄の破片である可能性が高かったからだ。

さらに、製鉄所における労働者の安全対策は今日と比べものにならないほどずさんだった。十分な防護装備もないまま働いていたため、真っ赤に焼けたスラグの破片が靴に入り、皮ふの一部を失い、命の危険にさらされた労働者もいたという。また、高炉から発生する無臭のガスは、時に労働者の命を奪った。

そうした公害や過酷な労働環境の一方で、製鉄所はザール地方の人々に安定収入と同時に、住宅取得支援などの手厚い福利厚生をもたらした。製鉄所で働き始めれば、すぐに人と知り合うことができた。労働者たちは退勤後にビールを飲み交わし、時には家族ぐるみで余暇を過ごすなど、長い時間をかけて共同体を育んでいった。製鉄所で働くことは彼らにとって生活そのものであり、製鉄所なしの人生など想像もできなかっただろう。

しかし「経済の奇跡」もつかの間、1970年代半ばには、オイルショック後の景気後退や国際競争の激化によって、欧州の鉄鋼業は深刻な不況に陥った。フェルクリンゲン製鉄所も次第にその流れに飲まれていき、再建策も実らず、1986年7月4日に最後の高炉が停止したのだった。

終わりから始まった再生

製鉄所が閉鎖され、街の空気はきれいになった。だが人々は仕事だけでなく、自分たちの人生そのものだった製鉄所を失い、それを単純には喜べなかった。製鉄所の元労働者を含めて、この工場を残そうとする人々が集まり、1987年にフェルクリンゲン製鉄所イニシアチブが生まれる。 そして1994年、フェルクリンゲン製鉄所は将来の世代のために、卓越した技術的・文化的遺産として世界遺産に登録された。一方で、それまでのユネスコ世界文化遺産といえば大聖堂や城、墓所などが中心で工業遺産として画期的な世界遺産登録は賛否両論を呼んだのだった。

ミツバチの巣箱広大な敷地のあちこちで、動植物が少しずつ生息地を取り戻している。手前に見えるのは、フェルクリンゲン養蜂協会が管理するミツバチの巣箱

工業遺産として何ができるのか。フェルクリンゲン製鉄所は、生産のための空間から産業の歴史を伝える場所へと少しずつ生まれ変わっていった。現在は、巨大な高炉群や機械をたどる見学ルートに加え、焼結設備内のユネスコ・ビジターセンターや強制労働の記憶を伝える展示、現代美術などの企画展が設けられている。元労働者や専門ガイドによるツアーも定期的に開かれ、旧給水塔にはカフェも設置。かつて働く人々だけが行き交った場所に、今は歴史を学ぶ人、アートを楽しむ人、地域を訪れる人が交差している。

実際に歩いてみると、さびた鉄骨や配管のすき間から草木が伸び、ところどころに緑が広がっている。とりわけ大気の質の指標とされるコケや地衣類の繁殖は、汚染された空気が大きく改善したことを物語る。人間が鉄を生産するために作り変えた土地を、今度は自然がゆっくりと取り戻している。その変化は、この場所の意味そのものが変わったこととも重なる。

現在の製鉄所を象徴するのが、2年に一度開催される国際展「アーバンアート・ビエンナーレ」だ。世界各地のアーティストが巨大な高炉や配管、さびた鉄骨と向き合い、この場所の歴史や現在に呼応する作品を発表する。世界最大級のアーバンアート展の一つとされ、今年も11月まで開催している。

今回のビエンナーレを訪れてみて最も印象に残ったのは、スペイン人アーティスト、アンパリートの作品。かつて鉄鉱石やコークスなど、高炉に送る原料を保管していた、幅約140メートルあるメラー・ホールの屋根に、巨大な文字で「この中には価値のあるものは何もない」と記されている。スペインでは車上荒らしを避けるために車内に掲げる言葉だというが、世界遺産の製鉄所に置かれると意味は反転する。鉄を生産しなくなった建物に価値はないのか。そこで働いた人々の記憶や繁栄、公害、戦争、強制労働、そして戻ってきた自然まで含め、この場所そのものが守るべき「宝」ではないのか。作品はそう問いかける。

『NO HAY NADA DE VALOR』メラー・ホールの屋根に描かれたアンパリートの作品『NO HAY NADA DE VALOR』

世界遺産としてその場所を保存することは、建物を凍結し過去の姿のまま残すことだけではない。巨大な産業建築を単なる「タイムカプセル」にせず、歴史を消さずに抱えながら、新しい人や表現を迎え入れることで、 過去を現在の問題とからめて新しい価値を生み出す。フェルクリンゲン製鉄所が世界遺産として残されている意味も、まさにそこにあるのだろう。そんなことを考えながら、静かな製鉄所を後にした。

Völklinger Hütte
世界文化遺産フェルクリンゲン製鉄所

Rathausstr. 75-79, 66333 Völklingen
https://voelklinger-huette.org

■ オープン:10:00〜19:00
(2026年11月2日~2027年3月31日は18:00まで)
■ 入場料:17ユーロ(割引15ユーロ)

アーバンアート・ビエンナーレ2026
2026年11月15日(日)まで開催中

 
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