Hanacell

地政学的リスクの増大とドイツ

西欧は現在、過去2000年間で最も平和な時代を享受している。しかし最近、欧州の頭上に黒雲が広がってきた。それは「地政学的リスク」という暗雲である。具体的にはシリアやイラクなどの中東諸国における戦争、さらにウクライナ危機によって、政治的な不確実性が経済や社会に大きな影を落としつつあるのだ。

25年間続いた「楽園」

ベルリンの壁が崩壊してから、今年はちょうど25年目に当たる。検問所に立つ国境警備兵を無視して西側へ流れ込む人々の歓喜の声は、半世紀近く続いてきたドイツの分断が終わることを知らせる序曲だった。このドラマチックな出来事は、ドイツ統一、東欧諸国の「ビロード革命」、そしてソビエト連邦の崩壊と東西冷戦の終結に繋がった。

2度の世界大戦と東西冷戦に懲りた欧州の国々は、国家権力の一部を欧州連合(EU)という国際機関に移譲して国境の垣根を減らし、ナショナリズムの克服に向けて着実に歩んできた。シェンゲン協定に調印した国家間では、税関検査だけでなくパスポートの検査すら不要になった。

かつて米国の政治学者ロバート・ケーガンは、2001年の同時多発テロ後に発表した著書の中で、「欧州は米国とは違って戦争に国力を浪費せずに済んでおり、一種のパラダイス(楽園)だ」と羨望を込めた発言をしている。この言葉に表れているように、欧州はベルリンの壁崩壊後、25年間にわたって「平和の配当」の美酒を味わってきたのだ。

ISによる大規模テロの危険

しかし、今年になって欧州を取り巻く状況は再び劇的に変わりつつある。1つは、「アラブの春」が引き金となった中東諸国の国家崩壊現象によって、欧州に隣接するこの地域全体が不安定になりつつあることだ。

中東の危機を最も端的に象徴しているのが、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」である。ISは国境を無視し、神権国家の樹立を目指している。豊富な資金を持つこのテロ組織は、イラクとシリアで破竹の進撃を続け、米英のジャーナリストらを拉致しては処刑シーンをビデオ撮影し、インターネット上で公開した。万一、ISがこれらの国で政権を奪取すれば、タリバン政権下のアフガニスタンを上回る恐怖政治を行うだろう。女性や他宗教の信者は弾圧される。ISには、欧州出身者を中心に数千人の「義勇兵」が参加しているため、ISが支配する国家は国際テロリズムの温床になる。これらの義勇兵たちは、かつてモハメド・アタらがニューヨークの世界貿易センタービルやペンタゴン(米国防総省)を破壊したような、大規模テロを実行する危険がある。ISは、欧米諸国が最も恐れている原子力発電所や核兵器施設、化学工場を目標とするかもしれない。ISのテロの最初の標的となるのは、中東に地理的に近く、入国検査が米国ほど厳しくない欧州だ。

米国のオバマ大統領は、イラクから米軍を撤退させることを公約として、大統領選挙に勝利した。中東への軍事介入に消極的だったオバマ氏が政策を180度転換して、ISに対するイラクでの空爆に踏み切らざるを得なかったのは、欧米諸国間でISの国際テロに対する警戒感がいかに強まっているかを示している。

シリアやイラクと国境を接するトルコ政府は、「空爆だけではISを撃退できない。事態がさらに悪化した場合、地上軍を派遣する」という方針を明らかにしている。私は、米英仏もISと戦うために、地上部隊を送らざるを得なくなると予想している。中東では今後、数年間にわたって局地的な戦闘が続くことになるだろう。欧州諸国の政府は、無差別テロへの警戒を強めざるを得ない。

米メリーランド州, 陸軍基地, NSA本部
9月下旬、トルコ南部シュリュジュ近くの国境ゲートを越えるシリア難民たち

蘇生したロシアの帝国主義

もう1つの地政学的リスクはロシアである。ベルリンの壁崩壊以降、25年間にわたって勢力圏が縮小されるという屈辱を味わってきたロシアは今年、クリミア半島に軍を派遣してここを併合した。さらにロシア系住民が多いウクライナ東部地域でも内戦が勃発。ウクライナ政府と独立分離勢力は停戦に合意したものの、戦闘は散発的に続いており、事態は根本的に解決していない。

プーチン大統領は、どこまで勢力範囲を広げようとしているのか。欧米は真意を測りかねている。特に、ロシア系住民の比率が高いバルト3国では不安が強まっている。北大西洋条約機構(NATO)は、ベルリンの壁崩壊後初めて、ロシアの軍事行動を前提とした戦略を検討し始めた。欧米諸国は、欧州で冬眠していた「帝国主義」が息を吹き返したことを悟ったのだ。メルケル首相の言葉を借りるまでもなく、ウクライナ危機は長期戦になるだろう。

ドイツも軍事貢献拡大へ

EUの事実上のリーダーであるドイツも、軍事貢献の割合を増やさざるを得ない。今年10月初め、フォン・デア・ライエン国防相は「イラクとウクライナに少数の地上部隊を派遣したい」と述べて政界を驚かせた。野党だけでなく与党内部でも、連邦軍の派兵には批判的な意見が強い。この発言は、ほかのEU加盟国からメルケル政権への圧力が高まっていることを示唆している。経済界や市民にとっても、再び戦争とテロが影を落とす憂うつな時代がやって来たのだ。欧州に生活する我々も、このことを常に念頭に置いておく必要がある。

17 Oktober 2014 Nr.988

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
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