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水彩画からのぞく芸術の世界 寄り道 小貫恒夫

114. モネと印象派

モンマルトルのシャンソニエモンマルトルのシャンソニエ

ある時、キリコが「最も印象派らしい画家は誰ですか?」とピサロに尋ねたところ、彼は「そりゃシスレーだよ!」と答えたそうです。穏やかな画風の英国人で、私も尊敬する大好きな画家です。もちろん、印象派らしく移ろいゆく光の中の情景を見事に捉えています。

ただ、最も印象派らしい画家といえば、私はモネではないかと思います。この「印象派」という名称を生んだのもモネの絵からです。モネが仲間たちと開いた展覧会に出品した初期の作品「印象・日の出」を観た風刺新聞の記者が、「何たるボーッとした表現、これを印象(Impression)というのか……」と、ネガティブに取り上げました。ところがこの皮肉たっぷりな表現を気に入ったモネたち画家グループは、自分たちの流派を表す名称として受け入れてしまいます。

当時、フランスの画壇の主流はアングルを中心とするアカデミー画家が担っており、サロンで入賞しなければ画壇に入ることができませんでした。伝統的な写実表現が好まれ、印象派のように自然の光に近い明るい絵画を模索していた画家たちは、落選を余儀なくされる状態でした。

画壇に入れなかった人たちは、モンマルトル墓地の近くにあったグレールの画塾に通っていましたが、そこにはすごい画家たちが集っていました。マネ(彼自身は印象派とは違う路線へと進みますが)をはじめ、カリブ海のセント・トーマス島からやってきたお父さんがフランス人のピサロ、親が銀行家のドガ、両親がパリで商店を営んでいた英国人のシスレー。そして青年時代に北フランスのル・アーブルにいたモネがやってきます。モネの1歳下にはルノワールもいました。

グレールの画塾では伝統的な描法を押し付けず、彼らに自由に描かせていたそうです。印象派の画家たちは、なるべく絵の具をパレット上で混ぜず、キャンバス上で一つひとつの筆触が隣り合うように配置する「筆触分割」という技法を用いました。また画塾に近いカフェ・ゲルボアに集まっては芸術論に花を咲かせ、ほかに類を見ないほど仲の良いグループでした。

そしてドガ以外はサロンに縁がなかった彼らは、オペラ座前を横切る大通りにあるナダールの写真館で、いよいよ自分たち第1回目の展覧会を開催します。これが、先に述べた「印象派」という名前の由来となる展覧会なのでした。

 
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小貫 恒夫

小貫 恒夫 Tsuneo Onuki

1950年大阪生まれ、武蔵野美術大学舞台美術専攻。在学中より舞台美術および舞台監督としてオペラやバレエの公演に多数参加。85年より博報堂ドイツにクリエイティブ・ディレクターとして勤務。各種大規模イベント、展示会のデザインおよび総合プロデュースを手掛ける傍ら、欧州各地で風景画を制作。その他、講演、執筆などの活動も行っている。
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