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特集


ドイツ・オペラとは?歴史や特徴、はずせない代表作から気鋭の演出家もご紹介!

初心者でもオペラの楽しみ方が分かる!ドイツ・オペラを観に行こう

ドイツに住んでいたら、一度は観てみたいオペラ。音楽の国と呼ばれるだけあって、年間6000回近いオペラ公演がドイツでは行われている。コロナ禍で中断を余儀なくされた歌劇場も、いよいよ今シーズンから本格的に再開される。特集では、そんなドイツ・オペラの歴史や特徴を徹底解説。歌劇場にまだ足を運んだことのないビギナーから、さらに作品を深掘りしたいという上級者まで、ドイツ・オペラの世界に浸ってみよう。(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

ドイツ・オペラを観に行こう

お話を聞いた人

藤野 一夫さん
芸術文化観光専門職大学副学長。日本文化政策学会副会長、日本ワーグナー協会理事、ドイツ文化政策協会会員。編著に『地域主権の国 ドイツの文化政策─人格の自由な発展と地方創生のために』(美学出版)、『ワーグナー事典』(東京書籍)、『市民がつくる社会文化 ドイツの理念・運動・政策』(水曜社)など。

ドイツでオペラを観るべき3つの理由

演目の種類が豊富!

今日、世界で行われているオペラの3分の1は、ドイツで上演されているといわれる。ドイツ国内には、オペラを制作・上演する公立劇場が80以上もあり、コロナ禍前の2018/2019シーズンでは年間5731回のオペラ公演を実施していた(日本は1034回)。またドイツの各劇場は専属の演者やオーケストラ、舞台技術者などの常勤スタッフを雇用しているため、年間を通じてさまざまなレパートリーを上演できる。多種多様な作品を楽しめるのみならず、各都市の劇場が創造の拠点として、競うように実験的・前衛的な舞台を自主制作しているのも魅力だ。

チケットが安い!

スター歌手が出演する公演などを除いて、チケット代は10ユーロ以下〜200ユーロくらいまでと比較的安い。というのも、ドイツの公立劇場(オーケストラやバレエなども含む)には、約27億ユーロという潤沢な年間予算が充てられており、総経費の82%以上は州や市町村などからの公的な補助金で賄われている。そのため平均的なチケット価格が低く抑えられ、地元住民は良質な作品を気軽に鑑賞できるのだ。さらに言えば、それによって観客の目も肥えるため、その反応は手厳しく、ドイツ・オペラのクオリティーを維持することに一役買っている。

ドイツ社会の今が分かる!

ドイツのオペラ界は、世界で起きていることに機敏に反応し、演出に取り入れたり、そのテーマについて新作を発表したりする。というのも、ドイツの劇場文化が担う社会的な役割の一つに、「Reflextion der Zivilgesellschaft」(市民社会の省察)がある。つまり作品を通して、自分たちの社会について再考し、議論するきっかけをつくろうというのだ。例えば昨今のオペラでは、資本主義がもたらす社会の分断や貧富の差、チェルノブイリや福島の原発事故、気候変動などが描かれ、語られることが多い。とはいえドイツ・オペラの持ち味は、そういった社会の問題を切り取りつつも、エンターテイメントとしてうまく昇華させていること。オペラ作品を純粋に楽しみながら、自分が生きる世界や自分の心の中が少しだけ分かったり、逆に分からなくなったり……そんな感覚をぜひ劇場で味わってみてほしい。

今年8月に発表された、ハンブルク州立劇場の新作「Playing Trump」。トランプ元米大統領によって翻弄された世界をテーマにした作品が、退任からわずか7カ月で世に送り出された今年8月に発表された、ハンブルク州立劇場の新作「Playing Trump」。トランプ元米大統領によって翻弄された世界をテーマにした作品が、退任からわずか7カ月で世に送り出された

ドイツ・オペラの歴史をたどる後進国ドイツがオペラの国になるまで

今でこそオペラといえばイタリアとドイツが二大巨頭といわれるが、実はイタリアでオペラが誕生した1600年からしばらくの間、ドイツは戦争の影響で文化的にも経済的にも大きく遅れを取っていた。そんななか、どのようにしてドイツ・オペラが発展してきたのか、代表的な作品とともに歴史を振り返ってみよう。

オペラ後進国だったドイツ

世界最古のオペラは、1600年にイタリアはフィレンツェで誕生したヤコポ・ペーリ作曲の「エウリディーチェ」といわれる。14~16世紀のフィレンツェはルネサンス芸術が最も花開いた場所であり、オペラはその勢いのなかで「ギリシャ悲劇を現代によみがえらせよう」として生まれた。

この新しい総合芸術はフランスやドイツにも渡って来たが、ドイツでは時を同じくして三十年戦争(1618~1648年)によって国土が荒廃してしまう。さらに三十年戦争が終結すると、ヴェストファリア条約によって当時約300あったドイツの領邦国家が固定され、国民国家としてのドイツ統一への道は一層遠ざけられることになった。戦乱に巻き込まれなかったハンブルクでは、例外的にドイツ語による市民のためのオペラが行われていたものの、ドイツ全体としては文化芸術だけでなく、学術や技術などあらゆる面で他国に後れを取ることになった。ましてや、最も贅沢な芸術であるオペラを普及させることは不可能だったのだ。

民衆から生まれた「ドイツ語の歌芝居」

それでも三十年戦争が終わってから80年余りの間に、ドイツの領邦国家のうち48の宮廷が歌劇場を持ち、定期的にオペラを上演するようになる。しかし18世紀までの宮廷では、イタリアやフランス的な趣味が好まれ、オペラもイタリア語の作品が上演されるのが一般的だった。

一方で、民衆レベルではドイツ語による演劇が普及し始める。当時のドイツは300余りの領邦国家に分かれており、隣の国どころか隣の街同士でも言語や文化が異なる状態。そのため啓蒙主義者たちは、当時最大の公共メディアであった演劇によって、共通言語としてのドイツ語を広め、ドイツ国民としての意識を覚醒させようと努めた。また庶民の間でも、旅回りの一座や民間の劇場が人気となり、歌芝居(ジングシュピール)や演劇を楽しんでいた。

こうした流れのなかで、いくつかの宮廷劇場が「国民劇場」を名乗るようになる。特にウィーンでは、啓蒙君主として名高いヨーゼフ二世がドイツ語圏の文化発展に努め、1776年に「宮廷劇場かつ国民劇場」(Hof- und Nationaltheater)を創設。道徳的機関としての劇場を根付かせていった。1782年には同劇場でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)によるドイツ語オペラ「後宮からの誘拐」が初演され、次第にドイツ語によるオペラが存在感を高めていく。

ドイツ・オペラ生誕の地となったドレスデン

18世紀の啓蒙主義を背景に、ウィーンやマンハイム、ベルリンなどで、いわゆる「ドイツ国民劇場」が創設されていくなかで、反ナポレオン解放戦争後のドレスデンでは、ドイツ・オペラの新たな局面が切り開かれることになる。

ドレスデンを首都とするザクセン王国は、ナポレオン戦争(1803~1815年)で最後までナポレオン側について戦い、おひざ元のライプツィヒ会戦で敗れると領土の半分を失った。プライドを著しく傷つけられたザクセン王国では、ザクセン人としてのアイデンティティーを取り戻すために大胆な文化政策を実施することを思い付く。それは、宮廷オペラに「ドイツ・オペラ部門」を創設することだった。

当時、モーツァルトの「魔笛」やベートーヴェンの「フィデリオ」などのドイツ語オペラが知られていたものの、宮廷では未だにイタリア・オペラが王侯貴族の理想であり、ステータスシンボルだった。そのためドイツ・オペラ部門の創設には宮廷内部からの強い反発もあったという。そこで白羽の矢が立てられたのが、当時プラハの歌劇場で指揮者として活躍していたカール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)だった。ドレスデン宮廷劇場の楽長に迎えられたウェーバーは、ドイツの民間伝承を題材にした「魔弾の射手」をドレスデンで作曲。1821年の初演の地にはシンケル新設のベルリン王立劇場を選び、首都の聴衆に新鮮な驚きを与えるとともに、大きな熱狂のうちに受け入れられた。そしてウェーバーには、「ドイツ国民オペラの創始者」の名が贈られたのだった。

完璧主義者ワーグナーの「楽劇」

ウェーバーの「魔弾の射手」の衝撃は非常に大きく、後に大作曲家となる多くの人物が、「魔弾の射手」をきっかけに作曲家を志したといわれる。その一人が、当時9歳だったリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)だった。ワーグナーは1840年代にドレスデンの宮廷楽長に就任すると、1843年に「さまよえるオランダ人」や1845年に「タンホイザー」を初演し、1848年には「ローエングリン」も完成させる。

作曲家として成功を収めたワーグナーだったが、宮廷劇場の改革では衝突を繰り返す。そしてドレスデンで起こったドイツ三月革命の運動に参加したことにより、全国で指名手配されることになった。その後スイスに逃れて15年間の亡命生活を送るが、その間にも数々の作品を生み出す。またワーグナーは同時期に、これまでのオペラの価値観を一転させる「楽劇」の理論を創り上げていく。ワーグナーによれば「楽劇」とは、ストーリーとなる文学やそれに付けられる音楽、舞台装置などの美術、登場人物の演技などが一つの芸術作品へと結集していく総合芸術のこと。実際、ワーグナーは自ら台本を執筆して作曲し、多くの作品において演出から指揮に至るまでを全て1人で行っていた。

1864年に追放令が取り消され、晴れてドイツに戻ったワーグナーは、1868年には「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演に成功。さらに、自分自身の作品を上演する専用の劇場を必要とするに至り、バイエルン王ルートヴィヒ2世からの資金援助も一部受けてバイロイト祝祭劇場を建設した。ワーグナーによってドイツ・オペラは急速に興隆し、20世紀にはリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)がその流れを集大成していく。

ドイツ・オペラの代表作

魔笛 Die Zauberflöte

作曲家:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
初演:ヴィーデン劇場(1791年)
上演時間:約2時間40分

モーツァルトが生涯で手がけた最後のオペラ作品で、台本は当時欧州各地を巡業していた旅一座のオーナーであるエマヌエル・シカネーダーが手がけた。18世紀ドイツの民衆的なオペラ形式であるジングシュピールとして作られ、歌や会話など全てがドイツ語で書かれている。

劇中には、聴衆を楽しませるための大掛かりな見せ場も。物語は、王子タミーノが魔法の笛をもって夜の女王の娘であるパミーナを救いに行くところから始まるが、信じていた善悪が途中で逆転するなど、ストーリーも奥深い。モーツァルトやシカネーダーが所属していた思想的結社フリーメイソンのシンボルや道徳観が随所に見られ、その象徴的な内容や、豊かな音楽のアンサンブルから、ドイツ・オペラの出発点ともいわれる。

1815年にドイツの建築家シンケルが描いた「夜の女王のアリア」のシーン1815年にドイツの建築家シンケルが描いた「夜の女王のアリア」のシーン

魔弾の射手 Der Freischütz

作曲家:カール・マリア・フォン・ウェーバー
初演:ベルリン王立劇場(1821年)
上演時間:約2時間20分

「魔弾」とは、ドイツの民間伝説に登場する「意のままに命中する弾」(7発中6発は射手の望むところに必ず命中するが、残りの1発は悪魔の望むところに命中する)のこと。舞台は15世紀半ばのボヘミアの森。若い狩人のマックスは、射撃大会と恋人アガーテとの結婚を明日に控えるも、スランプに陥ったことから誘惑に負け、悪魔が潜む森へと「魔弾」を作りに行ってしまう。

深い森の中に響き渡る狩人の角笛で始まる「序曲」には、オペラ全曲の聴きどころが凝縮されているほか、全編を通して素晴らしい合唱とアリアが連続する。さらに悪魔から魔弾の作り方を教わり、一発ずつ鋳造していく「狼谷」のシーンなど、手に汗握るストーリー展開と音楽に夢中になること必至。

緊張感あふれる「狼谷」のシーンを描いた銅版画緊張感あふれる「狼谷」のシーンを描いた銅版画

ニュルンベルクのマイスタージンガー Die Meistersinger von Nürnberg

作曲家:リヒャルト・ワーグナー
初演:ミュンヘン・バイエルン宮廷歌劇場(1868年)
上演時間:約4時間20分

16世紀のニュルンベルクを舞台にした、ワーグナーには珍しい喜劇作品。ニュルンベルクに来た若い騎士のヴァルターは、そこでエーファと恋に落ちるも「歌合戦で優勝した人がエーファと婚約する」と聞かされる。ヴァルターはエーファと結婚するためマイスタージンガー(親方歌手)の資格試験に挑戦。一度は失敗するが、靴職人の親方ハンス・ザックスに助けられて、見事な歌を歌い上げるように。

作品にはドイツ芸術やドイツ精神の賛美と共に、反ユダヤ的な思想が織り込まれており、第二次世界大戦中はナチス政権に多用された。そのため戦後の演出では、ラストシーンでハンス・ザックスが讃えられるシーンが変更されたり、ユダヤ人という設定で排除されるベックメッサーとの和解のシーンが盛り込まれることも。

ニュルンベルクの街を舞台としたステージデザインニュルンベルクの街を舞台としたステージデザイン

ばらの騎士 Der Rosenkavalier

リヒャルト・シュトラウス
初演:ドレスデン宮廷歌劇場(1911年)
上演時間:約3時間20分

大胆かつ妖しさが漂う作品「サロメ」や「エレクトラ」でオペラ界を騒がせたシュトラウスが、「モーツァルト風のオペラが書きたい」と作ったオペラ。18世紀、マリア・テレジア治世下のウィーンでの貴族生活が舞台で、美しく内省的な元帥夫人、その愛人である若い貴族のオクタヴィアン、野蛮で好色なオックス男爵、裕福な商人の娘でオックスと政略結婚する予定のゾフィーの4人が登場。物語を通して、シュトラウスが得意とする明るく優雅で、そして魅惑的なアリアや重唱が奏でられる。

ワーグナー後期のオペラに匹敵する大規模な作品で、音楽も洗練された官能性が魅力。発表当時からその人気はすさまじく、観劇のために各国から聴衆が押し寄せ、「ばらの騎士」と名の付いた列車がベルリンとドレスデンの間を走ったほどだった。

第三幕、オクタヴィアンとゾフィーの二重唱「夢だわ、本当ではあり得ない」の場面第三幕、オクタヴィアンとゾフィーの二重唱「夢だわ、本当ではあり得ない」の場面

今シーズンのおすすめ作品もピックアップ!ドイツ・オペラの気鋭演出家たち

ドイツのオペラが世界一流であり続ける理由は、その重厚な歴史だけでなく、現代においてもさまざまな歌劇場が伝統を守りつつ、常に新しいオペラや演出を生み出し続けていることにある。ここでは今日ドイツ・オペラ界で活躍する演出家を切り口に、今シーズンのおすすめ作品を藤野さんに聞いた。公演日時などの詳細は、各劇場のホームページでチェックしよう。

ペーター・コンヴィチュニーPeter Konwitschny

ペーター・コンヴィチュニー Peter Konwitschny

著名な指揮者であるフランツ・コンヴィチュニーを父に持ち、2歳からオペラに親しむ。ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学で演出を学び、1971年からベルリナー・アンサンブルに所属してベルトルト・ブレヒトなどから多大な影響を受けた。特にワーグナーの作品では挑発的ともいえる演出を次々と発表し、オペラ専門誌「オぺルン・ヴェルト」で年間最優秀オペラ演出家に幾度も選出されている。

今シーズンのおすすめ

さまよえるオランダ人 Der fliegende Holländer

さまよえるオランダ人 Der fliegende Holländer

作曲:リヒャルト・ワーグナー
上演:バイエルン州立歌劇場(ミュンヘン)
www.staatsoper.de

アンドレアス・ホモキAndreas Homoki

アンドレアス・ホモキ Andreas Homoki

西ドイツの街マール生まれのハンガリー系ドイツ人。2002年から10年間、ベルリン・コーミッシェ・オーパーで芸術総監督を務め、ヒューマニスティックかつ社会批判的な演出と、独特のステージ美術が持ち味。2012年からはチューリッヒ歌劇場の芸術総監督。今シーズンは、シュトラウスの「サロメ」などをはじめ、ワーグナーの「ニーベルングの指環」の新演出を手掛けることでも注目されている。

今シーズンのおすすめ

サロメ Salome

サロメ Salome

作曲:リヒャルト・シュトラウス
上演:チューリッヒ歌劇場 
www.opernhaus.ch

バリー・コスキーBarrie Kosky

バリー・コスキー Barrie Kosky

ユダヤ系移民の孫としてメルボルンに生まれる。2012年からベルリン・コーミッシェ・オーパーの芸術総監督(2022年で退任予定)。演出家として多彩な引き出しを持ち、エンタメ性の光る演出で若いベルリン市民を劇場に呼び込むことに成功した。今シーズンも、ベルトルト・ブレヒトの「マハゴニー市の興亡」やモーツァルトの「魔笛」、さらにコスキーの十八番である「天国と地獄」など、見どころ満載。

今シーズンのおすすめ

マハゴニー市の興亡 Aufstieg und Fall der Stadt Mahagonny

マハゴニー市の興亡 Aufstieg und Fall der Stadt Mahagonny

台本:ベルトルト・ブレヒト
作曲:クルト・ヴァイル
上演:ベルリン・コーミッシェ・オーパー
www.komische-oper-berlin.de

シュテファン・ヘアハイムStefan Herheim

シュテファン・ヘアハイム Stefan Herheim

ノルウェー出身。故郷でチェロを学び、ミュージカルや人形劇の演出などで経験を積んだ後、ハンブルクでオペラの演出を学んだ。2013年に上演したザルツブルク音楽祭での「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をはじめ、ワーグナー作品では観客をあっと言わせる見応えのある演出で魅了。2022年11月からは、ベルリン・ドイツ・オペラで「ニーベルングの指環」4部作の連続上演が予定されている。

今シーズンのおすすめ

ニーベルングの指輪 Der Ring des Nibelungen

ニーベルングの指輪 Der Ring des Nibelungen

作曲:リヒャルト・ワーグナー
上演:ベルリン・ドイツ・オペラ
www.deutscheoperberlin.de

宮本 亞門Amon Miyamoto

宮本 亞門 Amon Miyamoto

東京生まれの演出家で、ミュージカルやストレートプレイ、歌舞伎など、ジャンルレスに活躍。欧州ではオペラ演出家として高く評価され、モーツァルトの「魔笛」などの演出では、テクノロジーを駆使した表現でオペラの新境地を開拓した。今シーズンは、東京二期会・ザクセン州立歌劇場・デンマーク王立歌劇場の共同制作でジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」を演出。来年4月にドイツでのプレミエを迎える。

今シーズンのおすすめ

蝶々夫人 Madama Butterfly

蝶々夫人 Madama Butterfly

作曲:ジャコモ・プッチーニ
上演:ザクセン州立歌劇場(ドレスデン)
www.semperoper.de

ドイツ・オペラの世界をもっと知りたい人に

今回お話を聞いた藤野さんが監修し、神戸大学国際文化学研究科の学生たちが中心となって制作したウェブサイト「『マイスタージンガー』で考える学びの広場」では、ドイツ・オペラをもっと深く知るためのヒントが盛りだくさん! ぜひチェックしてみて。
https://meistersingersympo.wixsite.com/website

最終更新 Dienstag, 27 September 2022 11:57
 

メルケル首相が16年間で何をした?これからドイツはどう変わる?

9月26日はいよいよ連邦議会選挙!メルケル首相の16年とこれからのドイツ

2021年9月26日の連邦議会選挙は、気候保護政策やコロナ政策の評価が問われ、今後のドイツの進路を決める大事な選挙だ。それと同時にメルケル首相が政界を引退する節目であり、16年という長期政権についに終止符が打たれることになる。本特集ではそんなメルケル首相の16年を振り返り、ポスト・メルケル時代のドイツがどんな道を歩もうとしているのかを考える。(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

Dr. Angela Dorothea Merkel

プロフィール

Dr. Angela Dorothea Merkel

Dr. Angela Dorothea Merkel
Dr. アンゲラ・ドロテア・メルケル
1954年7月17日 ハンブルク生まれ

政治家としての経歴

第8代ドイツ連邦共和国首相(2005年〜現在)
元キリスト教民主同盟(CDU)党首(2000〜2018年)

配偶者

1977~1982年 ウルリッヒ・メルケル
1998年~ ヨアヒム・ザウワー

言語

母国語であるドイツ語のほか、英語とフランス語、ロシア語を流暢に話す。

学歴

学校の成績は常にトップクラスだった一方、体育と美術が苦手だったという。ライプツィヒ大学で物理学を専攻し、卒業論文の評価は「Sehrgut」(とても良い)。1986年に物理学の博士号を取得している。当時、研究者から政治家への転身は異色だった。

ポーズ

お腹の前で両手をひし形に組むのが、「メルケルのひし形」(Merkel-Raute)と呼ばれるお決まりのポーズ。

アンゲラ・メルケルが首相になるまで

1954年7月17日、アンゲラ・ドロテア・カスナーがハンブルクに誕生した。父のホルスト・カスナー氏はプロテスタント神学者であり、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の牧師不足を補うため、生後数週間の娘を連れて一家で東ドイツへ移住した。

アンゲラは、いつも規則正しくあるように、と父から言い聞かせられて育った子ども時代を回想して、「私は、子どもにしては完璧主義すぎるきらいがあったようだけれど、それは父の影響ね」、「父と私が似ているのは、基本的には物分かりの良い顔をして話を聞いているけど、意見が対立すると曲げないところ」と語っている。

学校の成績が常にトップクラスだったアンゲラは、アビトゥーア(大学入学資格)では「平均1」の最高評価だったという。1973年にライプツィヒ大学に入学して物理学を修め、1978~1990年までは科学アカデミー付属物理化学中央研究所にて学術助手を務めた。また、彼女が「アンゲラ・メルケル」となったのは、1人目の夫ウルリッヒ・メルケルと学生結婚をした1977年のことだった。

そしてベルリンの壁が崩壊した1989年の12月、民主主義に目覚めたメルケル氏は新政党「Demokratischer Aufbruch」( デモクラシーの勃興=DA)へ入党。社会の情勢は混乱を極めていたが、東ドイツ市民たちは、新しい時代の到来に夢と希望を抱いていたという。その後、東西ドイツが再統一すると、当時ヘルムート・コール連邦首相が率いていたキリスト教民主同盟(CDU)に入党し、その年の連邦議会選挙で初当選を果たした。第四次コール政権では、連邦女性・青少年大臣に任命され、1994年からは連邦環境・自然保護・原子力安全大臣を務めたが、人々はまだ「東から来た灰色のネズミ」(graueMaus aus dem Osten)と、メルケル氏を見下していたようだ。

その後、1998年の連邦議会選挙でCDUは大敗。ゲルハルト・シュレーダーが率いる社会民主党(SPD)と緑の党による連立政権が樹立された。さらに翌年、コールの不正献金問題が発覚し、メルケル氏は新聞で公然とコールを批判。党員たちにも、彼から距離を置くように訴えた。さらにメルケル氏は1998年にCDU幹事長に選出され、2000年にはついにCDU党首となった。

2005年7月、国内の失業者が500万人を超え、戦後最多を記録。その責任を問うため、内閣信任案を与党に否決させ、連邦議会は解散となった。急遽9月に行われた連邦議会選挙にて、メルケル氏を首相候補に掲げたCDUは第2党となったが、39年ぶりにCDUとSPDによる大連立政権が誕生。その後2カ月間の協議を経て、最終的にシュレーダーが首相の座を退くことになった。そして同年11月、51歳のアンゲラは歴代最年少で女性初、そして東ドイツ出身者として初の首相に就任したのだった。

参考:本誌1021号「アンゲラ・メルケル首相 徹底解剖

メルケル政権をおさらいする5つの政策

さまざまな政策を通じて、功績を残してきたメルケル首相。大胆な方向転換によって支持率低下を招いたこともあったが、おおむね評価されてきたといえる。ここでは、そんなメルケル首相が率いてきた長期政権の歩みを五つのカテゴリから振り返る。

メルケル首相の仕事ぶりは

[経済政策] 経済復興からの財政黒字国へ

メルケル政権のハイライトの一つといえば、ドイツ再統一以降、最も景気の良い時期を経験したことにある。コロナ禍以前のドイツは、G7のなかでも唯一の財政黒字国家であり、ドイツの経済力は世界でも抜きん出ていた。しかしこれほど経済が回復した背景には、シュレーダー前政権による社会保障制度改革「アゲンダ2010」の存在がある。その成果が出た時期に、たまたまメルケル氏が居合わせただけと捉えることもでき、一概にメルケル氏の功績とはいえない。また2009年のリーマン・ショックを経験したにもかかわらず、ドイツが黒字回復した背景には、輸出の急成長がある。メーカーを中心に多くのドイツ企業が輸出を増やしたこと、特に中国での売上高が急増したことが大きな要因となっている。

またメルケル政権は、2011年に製造業のデジタル化計画である「インダストリー4.0」(Industrie 4.0)を打ち出した。インダストリー4.0はインターネットと人工知能(AI)の本格的な導入によって、生産・供給システムの自動化、効率化を革命的に高めようとする試みだ。いわゆるIoT(モノのインターネット)化である。メルケル政権は米国や中国に比べてデジタル化が遅れていることについての危機感を表明し、この政策によって、10年間でドイツ工業のデジタル化を大きく推し進めてきた。独大手ボッシュではインダストリー4.0関連の売上高が40億ユーロを超えたといい、少しずつその成果が見えてきている。とはいえ、途上にあるこの施策が最終的に評価されるのはまだまだ先となるだろう。

参考: 本誌977号 独断時評「インターネット産業革命がやってくる」、NRW.Global Business 「インダストリー4.0 - ドイツでは工場のデジタル化が加速」、PR TIMES「着手から10年:ボッシュ、インダストリー4.0関連の売上高が40億ユーロに到達」

[外交政策] ドイツと欧州の顔としてリード

対米国における外交

オバマ大統領(当時)とは良好な関係を築いてきたメルケル首相だったが、2016年にトランプ氏が大統領選で勝利すると独米関係も一変した。翌年1月にトランプ氏が「外国のテロリストの入国から米国を守るための大統領令」に署名し、米国は難民の受け入れのほか、シリアやイラクなどからの市民の入国を禁止。この措置に対して、メルケル首相はトランプ前大統領を厳しく糾弾した。2018年のG7サミットでは、首相宣言「コミュニケ」への署名を求めて、トランプ前大統領に詰め寄るメルケル首相の写真が話題となった。

トランプ政権時代、貿易交渉や安全保障の問題で独米の亀裂は深まったが、昨年バイデン氏が大統領に当選し、両国の関係修復に向かって歩み始めた。7月の最後の訪米では、民主主義の価値観の重要性を確認し、二国の連携を強化する「ワシントン宣言」を採択した。

2018年6月9日、ドイツ政府が撮影したG7サミットでの一場面2018年6月9日、ドイツ政府が撮影したG7サミットでの一場面

対欧州連合(EU)における外交

EUのリーダーとしても大きな役割を果たしてきたメルケル首相。2010年以降のユーロ危機では、EU各国首脳と交渉した結果、ギリシャがユーロ圏に残留することとなり、その調整能力が発揮された。フランスのマクロン首相とは激しく議論を交わすこともある一方で、友好的な関係を保ち、共にEUに蔓延する右派ポピュリズムと対立してEUのつながりの強化に務めてきた。

ブレグジットの交渉でも、英国ばかりが有利にならないよう尽力。一時はEU大統領候補としてメルケル首相の名前が挙がったが、政界を引退するという姿勢を貫いている。

対中国における外交

ドイツにとって最も重要な貿易パートナーである中国だが、昨今は香港の民主化デモや新疆ウイグル自治区の弾圧などの問題から、特にEUでは独中関係を疑問視する声が大きくなっている。昨年12月、EU議長国としてメルケル首相はEU・中国包括的投資協定(CAI)を合意に持ち込んだ。しかし今年5月、欧州議会は同協定の批准を凍結している。

また8月2日には、ドイツはフリゲート艦「バイエルン」をインド太平洋地域に向けて派遣。中国と近隣諸国に対して存在感を示す目的だが、独中関係に影響する可能性も示唆されている。

対ロシアにおける外交

ドイツや西欧諸国は、プーチン大統領とクリミア併合やウクライナ内戦をめぐって対立する一方で、エネルギーについてはロシアに依存するという矛盾に苦しんでいる。とりわけドイツとロシアを結ぶガスパイプライン「ノルドストリーム2」について、メルケル政権はEU諸国や米国と対立を続けてきた。

今年7月、独米の共同声明ではロシアがエネルギーを武器として利用したり、ウクライナを侵害したりするようなことがあれば、制裁を加えることで同意。またロシアの政治活動家ナワリヌイ氏の暗殺未遂をめぐっても、独露関係の緊張状態は続いている。

参考: 本誌1044号 独断時評「『トランプ主義』に反発するドイツ」、日本国際問題研究所「〔研究レポート〕ドイツの対中政策―ポスト・メルケル時代へ向けて」、本誌1093号 独断時評「露からのガスパイプライン - ノルドストリーム2をめぐる激論」、jiji.com「異色の首相、危機乗り越えた16年=現実主義、難民危機で失速―メルケル氏・独」

[難民政策] 賞賛から一転、支持率低下へ

2015年夏、ハンガリーとオーストリアの国境には、シリアやアフガニスタンなどから戦火を逃れてきた難民が殺到。この欧州難民危機に対し、メルケル首相は「Wir schaffen das!」(私たちはやり遂げる!)という言葉とともに、事実上国境を解放してドイツで大量の難民を受け入れることを表明した。2015年だけでも約89万人という異例の人数が、ドイツで亡命申請をしたのだった。

ドイツではナチスのユダヤ人迫害への反省から、欧州難民危機以前から難民に寛容な態度を取り続けてきた。メルケル氏のこの時の判断も、東独出身者としての経験や人道主義・民主主義に基づいた勇気ある行動だと世界中から賞賛され、同年10月2日付のビルト紙が「メルケル氏は今年のノーベル平和賞を受賞するチャンスがある」と伝えたほどだった。

2017年の連邦議会選挙で敗北し、険しい表情を見せたメルケル首相 2017年の連邦議会選挙で敗北し、険しい表情を見せたメルケル首相

しかし、ドイツでも難民による性犯罪や殺人、テロ事件が多発。さらに難民の受け入れに多額の税金が使われていることに、特に旧東独地域の市民を中心に不満が強まっていく。その結果が如実に表れたのが、2017年9月24日の連邦議会選挙だった。メルケル首相率いるCDU・CSUの得票率は33%と、1949年以来最悪の数字を記録。反対に排外主義を掲げる極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の得票率が12.6%に達して第三党に躍進し、戦後初めて極右政党の連邦議会入りを許すことに。誰もが「メルケル時代」の終わりの始まりを感じた瞬間だった。

参考:本誌1059号 独断時評「大波乱! 連邦議会選挙極右政党躍進の衝撃」、本誌1060号 独断時評「難民受け入れ数でCDU・CSU合意『上限』をめぐるメルケル首相の苦悩」、本誌1072号 独断時評「ドイツの難民問題は解決していない」、本誌1128号特集「ドイツ社会に生きる難民たち

[環境政策] 脱原発から始まったエネルギーシフト

2011年の福島第一原発事故を受け、脱原発を決めたこともメルケル政権の大きな決断の一つだ。物理学者でもあるメルケル首相はもともと原子力擁護派だった。前のシュレーダー政権が決めた最初の脱原子力合意を2010年に改正して、原子炉の稼働年数を延長させた。これは電力業界の意向を全面的に受け入れた政策だった。ところが、2011年に日本で西側世界では最悪の原子炉事故が起こると、180度方向転換して「原子力批判派」になり、2022年末までに原発を全廃することを決めた。

記録的な猛暑により市民の気候変動に対する危機感が高まった2018年は、気候変動ストライキ「Fridays for Future」(未来のための金曜日)にドイツの若者たちが積極的に参加した年でもあった。その翌年、メルケル政権はそんな市民の声に答えるような形で、2038年までに全ての褐炭・石炭火力発電所の廃止を決めた。さらにメルケル政権は、2019年10月に「 気候変動保護プログラム2030」を閣議決定。二酸化炭素(CO2)の排出量を抑えるため、風力や太陽光による発電量を大幅に増やす計画を打ち出したほか、2030年までに電気自動車(EV)台数を1000万台に引き上げるため、補助金の助成期間を延長したりするなど、さまざまな施策が盛り込まれた。

またドイツ市民の間では、今年7月に発生した洪水により、ますます気候変動への危機感が強まっている。被災地で被害を目の当たりにしたメルケル首相は、「今後は気候保護政策を加速する必要がある」と述べた。

2020年ドイツの総発電量 2020年、初めて自然エネルギーが総発電量の50%以上を占めた 2020年、初めて自然エネルギーが総発電量の50%以上を占めた

参考:本誌1141号特集「エネルギーシフトで変わりゆくドイツ

[コロナ政策] 異例のテレビ演説で再び評価

2020年2月、新型コロナウイルスの感染者が欧州各国でも急増。メルケル首相はこの混乱のなか、3月18日に異例のテレビ演説を行う。テレビの前の市民一人ひとりに「この課題は必ず克服できる」と語りかけ、「 スーパーのレジ係や、商品棚の補充担当として働く皆さん」と、パンデミック下の生活を支える人々へ感謝を述べた。そして3月22日には、最初のロックダウンに踏み切ったのだった。

しかし、経済への打撃は日に日に深刻化していく。連邦政府はコロナ・デフレに対抗しようと、6月3日に総額約1300億ユーロにも上る「景気パッケージ」を発表。その一つとして、同年末まで付加価値税を引き下げ、生活者の負担を減らそうと試みた。また小売店への資金援助や、EV車の購入補助金などの景気刺激策が行われた。コロナ直前まで20%台後半まで低迷していたCDU・CSUの支持率は、2020年5月時点では40%近くまで回復。レームダック化がささやかれたメルケル氏も、科学に基づいた適切なコロナ対策で再び評価された。

2020年3月18日、テレビ演説で市民に語りかけたメルケル首相 2020年3月18日、テレビ演説で市民に語りかけたメルケル首相

しかし感染が深刻化したコロナ第2波では、ワクチン投与の遅れや各州間での足並みの乱れが目立ち、さらにメルケル氏は特別休日をめぐる混乱を招いたことで謝罪会見を開くことに。長引くウイルスとの闘いで社会が疲弊し、市民の間で不満が募っている。CDU・CSUの支持率も再び低下し、コロナ禍も政界も先が読めない状態だ。コロナ禍が幕引きとなるのも、本当の意味でメルケル氏のコロナ政策の評価が決まるのも、彼女が引退してからずっと後になるのかもしれない。

参考:本誌1119号 独断時評「コロナ危機と闘うドイツ、史上初の接触制限令」、本誌1123号 独断時評「メルケル政権はコロナ・デフレを防げるか?」、本誌1143号 独断時評「メルケル首相が前代未聞の謝罪会見

どうなる?ポスト・メルケル時代のドイツ

ドイツだけでなく世界をリードしてきたメルケル首相。その後を担うドイツ首相は一体誰になるのだろうか? 最後に、本誌「独断時評」でおなじみの熊谷徹さんに、連邦議会選挙の予想をしていただくとともに、これからのドイツの課題についてご寄稿いただいた。

ポスト・メルケル時代のドイツ

熊谷徹 Toru Kumagai

1959年東京生まれ。1990年からフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン在住。再統一後のドイツ、欧州の政治経済、安全保障問題など、幅広い分野で執筆している。本誌では毎号「独断時評」を連載中。
www.tkumagai.de

「半分死に体で政界から去りたくない」

まもなく「メルケル時代」が終わる。興味深いことに、多くのドイツ人が同氏の仕事ぶりについて満足感を表明している。ARDが今年8月に発表した世論調査の結果によると、回答者の84%が「満足している」と答えた。実はこれまでドイツの首相の大半は、辞める時には支持率がどん底に落ちるのが常だった。

ブラントは秘書が東ドイツのスパイだった責任を取り、失意のうちに首相の座を去ることに。コールは経済状態の悪化を批判されて、SPDと緑の党の左派連立政権に駆逐された。引退後も「CDU闇献金事件」で評判を落としている。シュレーダーは社会保障・労働市場改革プログラム「アゲンダ2010」について集中砲火を浴び、選挙で敗北した。

メルケル氏は、以前から「辞める時にはみじめな運命は辿りたくない」と語っていた。メルケル氏は1998年にある本の中で「私は半分死に体のスクラップになって、政界から身を引きたくない。むしろ、『ずいぶん長い間同じことをやって、そろそろ退屈して来たので、何か違うことをやりたい』という形で政界から去りたい」と語っていた。その意味でメルケル氏の「平穏に首相の座を去る」という希望は成就する可能性が強い。アフガニスタンでのタリバン政権の誕生を早期に察知できず、ドイツ人やアフガン協力者の救出が遅れたという問題はあるが、首相が直ちに責任を問われる可能性は低い。

緑の党は政権入りを果たすか?

さて、今年の連邦議会選挙の最大の争点は気候変動対策だ。ポイントは、2019年以来上昇気流に乗っていた緑の党が、2度目の政権入りに成功するかどうかである。各党の選挙マニフェストを読み比べると、緑の党ほど気候保護政策に力を入れている党はない。同党はこの国をエコロジー社会に変革することを目指している。

そのために同党は脱石炭を8年前倒しして2030年に実行すること、ディーゼルエンジンやガソリンエンジンを積んだ新車の販売を2030年に禁止することを公約している。さらに高速道路の全区間で最高速度を時速130キロに制限するほか、国内の旅客機の短距離便を禁じることも約束している。新築される全ての建物の屋根に太陽光発電パネルの設置を義務付け、燃料にかかる炭素税を2023年から大幅に引き上げる。7月にドイツ西部を襲った過去59年間で最悪の水害は、気候変動対策の重要性を有権者の心に刻み込んだ。その意味で、緑の党の政策は人々の共感を呼ぶかもしれない。

だが問題は、緑の党のべアボック首相候補の人気の低さだ。新著に他人の記事を無断で引用した問題で批判された際に、同氏は初めの内無断引用を正当化するような態度を示し、1カ月にわたってミスを認めなかった。特別収入の申告漏れや経歴の記入ミスも指摘された。このことは、州首相はおろか地方自治体の首長すら務めたことのないべアボック氏の未熟さを暴露した。この結果、ARDの世論調査で今年5月には28%だったべアボック氏の支持率は、8月には16%となった。

だが5月には21%だったCDU・CSUのラシェット首相候補の支持率も、8月には20%に下がった。同氏に対しては党内からも「優柔不断」という批判が出ているほか、被災地を訪問した大統領の背後で笑っていた映像も、有権者の反感を買った。ほかの2人に比べて失点が少ないSPDのショルツ首相候補が、8月には35%と最高の支持率を記録した。

8月の時点で政党の支持率を見ても、CDU・CSUと緑の党が下降し、SPDと自由民主党(FDP)が増える傾向にある。これらの数字は世論調査の回答者たちの反応が、報道に応じて敏感に変化することを示唆している。したがって投票結果が、世論調査機関が想定していないような番狂わせになる可能性もゼロではない。

主要政党の首相候補の支持率の変化 主要政党の首相候補の支持率の変化

選挙後の連立交渉は難航か

現時点では、2党が連立しても連邦議会の議席の半数は確保できない。少なくとも3党の連立が必要になり、交渉は複雑化するに違いない。

例えばどの党が政権に就いても、国民の期待に応えて二酸化炭素(CO2)削減策と洪水による被害を軽減するための対策に力を入れざるを得ない。しかし各党の気候保護政策の細部には、隔たりがある。経済非炭素化の加速の法制化を要求する緑の党と、法律ではなく市場メカニズムによってCO2削減を目指すCDU・CSUおよびFDPの間で、意見が対立するだろう。またドイツでは2019年以来、鳥獣保護団体や住民の訴訟のために、陸上風力発電設備の新設にブレーキがかかっている。新政権はこうした困難を克服して、陸上風力の設備容量を大幅に拡大する必要がある。

新政権にとってもう一つ重要な課題は、米国と中国に比べて遅れているデジタル化の推進だ。コロナ危機はドイツの行政機関、教育機関、医療機関、生産現場などでデジタル化が遅れていることを白日の下に曝した。社会の耐性(レジリエンス)を高める上でも、デジタル化の加速は喫緊の課題だ。さらに人工知能や量子コンピューターなどの社会・経済での活用にも力を入れる必要がある。

昨年メルケル政権は、「気候保護政策とデジタル化を、コロナ危機による経済的ダメージを克服する対策の柱とする」という方針を打ち出していた。次期政権は、この目標を受け継いで、社会経済のグリーン化とデジタル化によって新しい雇用を創出し、経済成長率の回復を実現しなくてはならない。

人権・民主主義の擁護を最も重視したメルケル

メルケル首相は、欧州連合(EU)で最も経験豊かな指導者だった。リーマン・ショック、ユーロ危機、ウクライナ危機、難民危機、ブレグジットなどさまざまな緊急事態への対応を経験してきた。彼女が最も重視してきたのは人権と自由、民主主義を守ることだった。東ドイツで社会主義国家の非人間性を経験したからだ。現在、米国の指導力が弱まり、中国やロシアなどでは政府が民主主義勢力を抑圧し、強権的な姿勢を強めている。世界の不安定性は増すばかりだ。アフガニスタンでの政変は、米国の弱体化を象徴している。

メルケル氏は、トランプ前大統領が北大西洋条約機構(NATO)からの脱退の可能性まで示唆して、ドイツなど西欧諸国に圧力をかけた経験から、「われわれは自分の運命を自分の手で切り開かなければならない」と述べ、米国に依存することの危険性を指摘した。欧州は米国の手を借りずに、局地紛争などに対応できる態勢を早急に整える必要がある。ドイツそして欧州諸国は、メルケル氏の哲学を継承して、「海図なき未知の海域」で民主主義の灯を守りながら、慎重な航海を続けなくてはならない。

最終更新 Freitag, 01 Oktober 2021 16:41
 

ドイツの名車は?歴史は?ベンツやポルシェ、アウディなど6社を紹介。

ガソリン車の誕生からEVシフトまで自動車大国ドイツの過去・現在・未来

自動車大国として、数々の世界的な自動車ブランドを生み出してきたドイツ。ガソリン自動車を発明し、二度の世界大戦を経て疲弊したドイツ経済が車産業によって復興したように、自動車の歴史はまさにドイツの歴史と重なっている。さらに今日では、気候変動や少子高齢化など、時代の変化とともに自動車業界も大きなターニングポイントを迎えつつある。そんなドイツの自動車の歴史を名車とともにたどりつつ、来るべき自動車の未来について考えてみよう。
(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

自動車大国ドイツの過去・現在・未来

二人のパイオニアがつくり上げたドイツ車の黎明期

参考:メルセデス・ベンツ日本公式サイト、www.bertha-benz.de、WebCG「第39回:進撃のシルバーアローグランプリで磨かれた技術力」、ドイツニュースダイジェスト「ベンツから紡がれる車物語」

ガソリン車の誕生

ほぼ同時期にガソリン車を発明したダイムラー(上)とベンツ(下) ほぼ同時期にガソリン車を発明したダイムラー(上)とベンツ(下)

1886年1月29日、マンハイムを拠点とするドイツの技術者カール・ベンツは、当時のドイツ帝国特許庁から、自身が考案・設計・組み立てを行ったガソリンエンジン搭載の三輪車の特許を取得した。一般的にこの日が、自動車の誕生日だといわれている。発明者のベンツは、自動車ブランドでおなじみのメルセデス・ベンツの創業者の一人。1871年にドイツの国土が統一されてから、18世紀末に英国で始まった産業革命がようやく波及し、急速な近代化が進んでいる最中のことだった。蒸気機関や機械の導入が進み、交通もまた変革の時期を迎えていたのだ。

ほぼ時を同じくして、シュトゥットガルト近郊の街カンシュタットでは、ゴットリープ・ダイムラーが、ガソリンエンジンを取り付けた二輪車の開発を進めて特許を取得。さらにダイムラーは、駅馬車にガソリンエンジンを搭載することにも成功し、「世界初の四輪自動車の発明者」となった。

ベンツ夫人の冒険

しかし自動車の誕生は、必ずしも最初から受け入れられたわけではなかった。ベンツの三輪自動車も、ダイムラーの四輪自動車も、最高速度は毎時20キロ程度。この新時代の発明に飛び付く人は多くなく、売れ行きも思わしくなかった。そこで一役買ったのが、カール・ベンツの妻であるベルタ・ベンツだった。彼女は自動車のプロモーションのため、1888年に夫に内緒で息子二人を連れて、マンハイムからプフォルツハイムの実家まで、106キロの自動車旅行に出発。ガソリンの供給には、薬局で販売されているシミ抜き用のベンジンを買った。この世界初の長距離自動車旅行によって、ベンツの発明は世に知られることになる。

ARDのテレビ映画『Carl & Bertha』(2011)より、ベルタの運転シーンARDのテレビ映画『Carl & Bertha』(2011)より、ベルタの運転シーン

さらにベルタは、長距離を走行するなかでさまざまな問題点に気づき、夫に提案を行った。例えば、急な坂道を上がれないため、変速ギアの追加を提案したり、ブレーキの利きが悪いため、ブレーキに摩擦材を取り付けたり。ベンツ夫人が行った世界初の長距離自動車旅行は、ただの広報にとどまらず、自動車の改良そのものに大いに貢献したのだった。やがてベンツとダイムラー、二人の自動車開発のパイオニアが創業した二つの自動車メーカーは合併し、1926年にはダイムラー・ベンツ社が誕生することになる。

レースへの熱狂と戦争

技術者たちは絶えず改良を加えながら、自動車のモデルチェンジを繰り返していった。馬車の代わり程度の存在だった自動車は、いつしか高性能な工業製品へと生まれ変わる。自動車の誕生当時は時速20キロ程度であったが、20年の時を経て平均時速100キロに到達するなど、目覚ましい技術の進歩がみられた。1906年には初めてグランプリと名の付くレースがフランスで行われ、その後もドイツをはじめフランスやイタリアなどの自動車メーカーは、莫大な資金をかけてレースに参加。第一次世界大戦により1915~1920年には一時中断されるが、1921年に再開されると、戦時中に培った航空機の技術が自動車エンジンにも取り入れられるなど、さらに磨かれていった。

1933年に政権を握ったアドルフ・ヒトラーは、 グランプリでドイツ車が優勝すれば、国力を世界に向けてアピールできると考え、最も優れた成績を上げたチームには50万マルクの賞金を与えることを発表。エンジニアたちはさまざまな試行錯誤を行い、実験データを集めていった。特に、1934年に登場したメルセデス・ベンツのレーシングカーW25は圧倒的な速さを誇り、「シルバー・アロー」という異名が付いた。その後、第二次世界大戦によってグランプリは終了。不幸にも自動車は軍用車へと姿を変え、自動車メーカーは暗黒期を迎える。二度の世界大戦の狭間、モータースポーツへの熱狂によって培われたこの自動車技術が、やがて敗戦国となったドイツが経済復興を遂げるための糧となることを、この時はまだ誰も知らなかった。

伝説的なレーシングカー「シルバー・アロー」に熱狂する人々(1935年)伝説的なレーシングカー「シルバー・アロー」に熱狂する人々(1935年)

夢とロマンに溢れた自動車ブランドヒストリー 一時代を築いたドイツの名車たち

メルセデス・ベンツ、ポルシェ、アウディ……車好きでなくとも、これらのドイツを代表する自動車ブランド名を聞いたことはあるだろう。各社の企業精神やテクノロジー、デザインは、第二次世界大戦後のドイツ経済の立て直しに大いに貢献してきた。そんなドイツの六つの自動車ブランドについて、今なお伝説的な人気を誇る名車と共にご紹介する。

お話を聞いた人

守屋 健さん
ベルリン在住のライター。幼い頃、歯医者の待合室で手に取った自動車図鑑に載っていたポルシェ911ターボに衝撃を受け、「将来必ずこの車に乗る」と決意するも、今日まで実現には至らず。自他共に認めるドイツ好きだが、現在までの愛車はフランス車ばかり。本誌では「私の街のレポーター」に隔月で寄稿中。

フォルクスワーゲン

フォルクスワーゲン

創業年:1937年
創業者:-
本拠地:ウォルフスブルク

「一家に一台自家用車を所有し、休日にアウトバーンを通って行楽地に出かける」……ヒトラーは、そんな強い経済を持った国家を実現するために国民車構想を打ち立てる。そうして1937年に国策企業として創業されたのが、ドイツ語で「国民車」を意味するフォルクスワーゲン(VW)だった。戦後は会社として再出発し、ビートルやゴルフ、ポロなど数々のヒットを生み出した。

注目すべき名車

タイプ1 (ビートル)

タイプ1 (ビートル)
販売期間: 1941-2003年

ヒトラーが国民車の設計を依頼したのは、ポルシェの創業者であるフェルディナント・ポルシェだ。大人2人と子ども3人が乗れ、時速100キロで巡行できること、壊れにくく維持費がかからないようになどの厳しい条件が課された。1936年には何とか試作段階に至るも、戦争により中断される。

戦後、連合国軍に研究成果を盗られないようにと、職人たちはウォルフスブルクの工場を自ら爆破した。それを見た英国軍の将校が工場の再建を進め、ようやく本来の国民車として、1945年から本格的に生産が開始。流線形のボディーから「ビートル」(英語でカブトムシの意味)の愛称で親しまれ、2000万台以上が生産された。

ポルシェ

ポルシェ

創業年:1931年
創業者:フェルディナント・ポルシェ
本拠地:シュトゥットガルト

フェルディナント・ポルシェにより、自動車デザイン事務所としてスタート。高級自動車メーカーとして、スポーツカーとレーシングカーを中心に生産している。戦時中は戦車のデザイン等も手掛けた。1948年から再び自社で自動車の製造・販売を開始。1964年に発表された「ポルシェ911」は、高級スポーツカーの代表格として、改良を重ねながら今なお販売され続けている。

注目すべき名車

ポルシェ356

ポルシェ356
販売期間: 1948-1965年

ポルシェ博士は、第二次世界大戦中にナチスに協力した軍事責任を問われ、戦後は連合国軍に捕まっていた。戦後、ポルシェを再出発させようと創業者の息子がデザインしたのが、ポルシェ356だ。ポルシェは戦時中、戦火を逃れてオーストリアに疎開しており、さらに戦後になると、シュトゥットガルトの本拠は連合国によって接収される。そのため資材や部品の調達もままならないなかで、ポルシェ356の試作は始まった。エンジンはフォルクスワーゲンのビートルのものを使用し、ボディーは職人がハンマーを叩いて造ったという。そうして完成したポルシェ356を原型として、後に創業者の孫が名車ポルシェ911を生み出すことになる。

メルセデス・ベンツ

メルセデス・ベンツ

創業年:1886年
創業者:カール・ベンツ
本拠地:シュトゥットガルト

ベンツとダイムラーが1926年に合併したことにより、正式に「メルセデス・ベンツ」がブランドとしてスタート。「メルセデス」とは、当時ダイムラー社のディーラーをしていたオーストリア=ハンガリー帝国の領事の娘の名前にちなむ。日本では高級車メーカーとしてのイメージが強いが、大型バスやバンなどの商用車をはじめ、救急車や軍用車両など、幅広い車種を製造している。

注目すべき名車

300SL

300SL
販売期間: 1954-1963年

ベンツがモータースポーツに熱心だった1950年代に作った市販車で、レーシングカーを原型としている。美しいデザインと強力なエンジンが特徴。ベンツの集大成として売り出され、発売当時は世界最速の車の一つだった。

上に跳ね上げて開けるタイプのドアは、カモメの翼のような形から「ガルウィングドア」と呼ばれるが、これはもともとデザイン目的ではなく、レーシングカーの軽量化と強度確保のため、構造上横開きのドアを付けることができなかったことに由来する。そこからガルウィングドアの流行が生まれたが、乗降性や乗車中の快適さは重視されていないこともあり、後に横開きのドアが付いたオープンカーのバージョンも造られた。

オペル

オペル

創業年:1862年
創業者:アダム・オペル
本拠地:リュッセルスハイム

1862年にアダム・オペルがリュッセルスハイムで創業したミシン製造会社をもとに、息子たちが1899年に自動車の生産を開始。1929年には米国ゼネラルモーターズの子会社となる。創業当初から「あらゆる人にイノベーションを民主化して届ける」という企業精神のもと、社会的なステータスを示すための高級車よりも、一般の人々の生活に寄り添った大衆車をメインとしている。

注目すべき名車

カデットB

カデットB
販売期間: 1965-1973年

もともとは、1930年代にナチス政権がフォルクスワーゲンのビートル(左)を開発するなか、それに対抗できるモデルをつくろうと考えられた車だった。1936年に初代カデットが発売されるも、戦争による混乱で生産も打ち切りに。戦後、1962年に22年ぶりに「カデット」の名前が付いたカデットAを発売。その3年後にはカデットBの生産が始まる。

当時のドイツ車は2ドアが一般的だったため、カデットBで4ドア式を採用したことも注目を集めた。それまでフォルクスワーゲンのビートルの一強状態が続いていたが、1972年、ついにカデットBがビートルの販売台数を上回り、旧西ドイツのベストセラーになったのだった。

BMW

BMW

創業年:1916年
創業者:グスタフ・オットー
本拠地:ミュンヘン

航空機用のエンジンメーカーとして創業し、1922年から自動車やオートバイの開発を本格的に開始。第二次世界大戦中は、軍需産業として航空機を中心に製造し、敗戦後に3年間の操業停止処分となる。さらに東西ドイツ分断によって、東ドイツの主力工場を国営企業として吸い上げられた。幾多の苦難を経験したが、高い技術力によって高級自動車メーカーとしての地位を確立した。

注目すべき名車

2002ターボ

2002ターボ
販売期間: 1973-1975年

BMWの2002ターボは、1973年のフランクフルトモーターショーで、世界初のターボエンジンを搭載した車として発表された。当時、市販車を用いたツーリングカー選手権では、BMWとポルシェがターボエンジンを実用化しようと競っていた。「ターボ」とは、航空機などが上空を飛ぶ時に、空気中の酸素濃度を圧縮してエンジンに送り込むことによってエンジンの出力を高める技術。BMWは航空機エンジンの開発で培ったこの技術を一般車にも応用することで、ポルシェを打ち負かしたのだった。より燃費の高い車を作るため、現在でもBMWのエンジンにはターボ技術が搭載されていることがほとんど。

アウディ

アウディ

創業年:1901年
創業者:アウグスト・ホルヒ
本拠地:インゴルシュタット

ベンツ社で工場長を務めていたアウグスト・ホルヒが1901年に独立したのが始まり。もとは「ホルヒ」という社名だったが、ホルヒは自動車技術と品質を重視するあまり、経営陣と衝突。独立するも「ホルヒ」という社名・車名の使用を差し止められたため、社名を「アウディ」(ドイツ語の「ホルヒ=聞く」と同義のラテン語)に変更した。モータースポーツ業界でも活躍。

注目すべき名車

アウディ・クワトロ

アウディ・クワトロ
販売期間: 1980-1991年

アウディ・クワトロは、それまで山道などのオフロードを走るために使われていた四輪駆動(4WD)のシステムを、一般道などのオンロードにも応用した世界最初の車。アウディが採用したフルタイム式四輪駆動とは、文字通り四つの車輪全てにエンジンの動力を送り続ける技術のこと。アウディはクワトロで世界ラリー選手権に参加し、出場からわずか2年目に年間チャンピオンを獲得した。クワトロに当時のほかの車が追いつくのは非常に難しく、その後のラリー選手権に出場する車のほとんどが四輪駆動に代わっていったほど、自動車業界に衝撃を与えた。アウディは現在でも、4WD車に「クワトロ」の名前を使用し続けている。

自動車産業は持続可能な社会をつくれるか?ドイツと自動車の未来予想図

自他共に認める自動車大国として成長を遂げてきたドイツ。日本や世界でもドイツ車に憧れを抱く人は少なくないが、EV転換や自動運転技術など、ドイツの自動車メーカーもまた、時代の変化への対応が求められている。引き続き、守屋さんにドイツ車の魅力、そしてこれからの自動車業界についてお話を聞いた。

伝統と革新が支える車づくり

ドイツが長年クオリティーの高い車をつくり続けて来られた理由の一つには、マイスターやアウスビルドゥングなどの教育制度があります。まずアウスビルドゥングの制度があることで、研修を受けた人なら、ある程度の精度の車を組み立てられるような設計になっている。さらにその車を、熟練のマイスターがワンランク上に仕上げるのです。その両方によって、ドイツの自動車メーカーは他国をリードする存在になったと思います。

また、例えばメルセデス・ベンツのスポーツ部門であるAMGでは、今でも一人の職人が1台のエンジンを全て組み立てています。熟練の手の感覚を大切にしている一方、ネジを留める機械が工場内のネットワークに接続されていて、職人が何時何分にどれくらいの強さでネジを締めたかが記録されていて、製品に問題が起これば、どの時点のどの行動が原因かをたどれるのです。これはあくまで一例ですが、伝統的な職人気質なところもあれば、ものすごく合理的にやっているところもある。その絶妙なバランス感覚もドイツ車の魅力の一つです

ドイツのEV転換とその課題

そんなドイツの自動車メーカーも、電気自動車(EV)への転換という大きな挑戦の真っ只中。ドイツ政府は2030年までにEV台数を1000万台に引き上げるため、新車購入補助金の助成期間を2025年まで延長しました。またドイツ自動車工業会(VDA)は、2050年までにモビリティーのカーボンニュートラルを達成することを目標としています。現時点の各メーカーのラインナップでいうと、純粋なEVは20%程度で、プラグインハイブリット(PHV)を含めると5~6割くらいです。さらに少数ではありますが、EV車を開発するスタートアップも登場しており、例えばボディーにバイオプラスチックを使用した環境に負荷の少ない車など、持続可能な車づくりを模索しています。

ただし、本格的なEV転換を達成するためには大きな課題も。一つは、EVの充電ステーションが足りていないこと。ドイツには今年7月時点で4万1751カ所の公共の充電ステーションがありますが、ドイツ政府は2023年までにこれを100万カ所に増やそうと考えています。もう一つは、バッテリーの性能のアップ。今の性能では長く走れないし、充電の時間がかかりすぎるのが難点です。そんななか注目されているのが、電解液を使わない「全固体電池」の開発。実用化に成功すれば、バッテリーのサイズが縮小され、充電時間の短縮や、航続距離の問題も解決されるなど、自動車の未来を大きく変えることになります。開発競争を制した企業は、言わずもがな巨額の富を得ることになるため、世界中のメーカーが躍起になって取り組んでいます。

自動運転技術が高齢化社会を支える?

現在のドイツの自動車業界にとって、EVと同じくらい大きなテーマが自動運転技術です。特にアウディ、BMW、メルセデス・ベンツが力を入れていて、ドイツでは今年5月にレベル4の自動運転にも対応した道路交通関係の法改正案が可決されました。ドイツでは高齢化が進んでいますが、高齢者が一人で地方に住んでいる場合、その人が車を運転できなければ移動手段が絶たれてしまう。しかし自動運転があれば、自分で病院や買い物にも行くことができます。つまりドイツでは自動運転技術を発達させることで、将来どんどん増えていく高齢者が、地方であっても自分らしい生活をしながら余生を過ごせる、という未来を描いているのです。もちろんAIや、常時インターネットに接続している状態に対して懐疑的な声もありますが、自動運転技術はこれからも推し進められていくと考えられます。

誰も予想できない未来の「車」

マーク・リヒテ氏が率いるアウディのデザインチームは、異口同音に「これからは車を『外側』ではなく『内側』からデザインする時代になる」と言っています。馬車の時代から今日まで、自動車はステータスシンボルでもあり、外見や大きさなど、私たちは車を外側から見ていたんですね。ところが自動運転技術が実用化されれば、そもそも運転手が運転席に座る必要はなくなり、お客さんを前の席に乗せて景色を楽しんでもらうこともできる。もしくは、運転する人・乗る人という役割分担すらなくなるかもしれません。車は単なる移動手段ではなく、移動の時間そのものを心地よく過ごせる空間になっていく……そのような意味で、「車を『内側』からデザインする」時代が到来するかもしれません。

メルセデス・ベンツによる自動運転が搭載されたEV車のプロトタイプメルセデス・ベンツによる自動運転が搭載されたEV車のプロトタイプ

そうなると、各メーカーも新しい移動の仕方やコンセプトを考えていくことになります。これから先、私たちが今まで見てきたような形の車は走っていないかもしれません。一方で車好きとしては、純粋に「運転を楽しむこと」が無くなってしまうとも思えなくて。自分でハンドルを切って運転したい人、自動運転を選ばない人たちのための電気自動車も生まれるかもしれないし、自動運転の人たちと折り合いを付けながら道路を走れるようなシステムも登場するかもしれません。そういう意味で、今までの車のあり方にとらわれず、新しい移動の仕方を考えられた人が、次の時代をつくっていくのだと思います。

ドイツ車の世界をもっと知りたい人へ

今回お話を聞いた守屋さんが、「外車王 SOKEN/Webマガジン」にて記事を執筆中! ドイツの名車やEV転換をはじめ、ドイツの交通ルールやカーシェアリング、キャンピングカーなど、さまざまなテーマでドイツ車の魅力を掘り下げている。
www.gaisha-oh.com/soken/writer/moriya

最終更新 Freitag, 27 August 2021 10:18
 

ドイツの国民的コメディアン、ロリオとはどんな人?彼の人生や作品を紐解く

ヴィッコ・フォン・ビューロー没後10年ドイツ人に愛されたコメディ王ロリオ

ドイツ人にはユーモアのセンスがない……といわれるが、果たして本当にそうなのだろうか? かつて、ドイツ中のテレビの前で人々を笑わせていたコメディアンがいる。それが「ロリオ」の名で知られる、ヴィッコ・フォン・ビューローだ。ドイツコメディを確立させたロリオが亡くなって、今年の8月でちょうど10年を迎える。この節目に、今なお人々に愛され続けているロリオの魅力をその人生や作品から紐解いた。
(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)
参考:loriot.de、Dieter Lobenbrett『Loriot: Biographie』(riva)

ドイツ人に愛されたコメディ王ロリオ ロリオの2作目の映画「Pappa ante Portas」より

ヴィッコ・フォン・ビューローVicco von Bülow

本名 ベルンハルト=ヴィクター・クリストフ=カール・フォン・ビューロー
1923年11月12日~2011年8月22日(享年87歳)

貴族の家に生まれたコメディアン

1923年11月12日、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに、ヴィッコ・フォン・ビューローは生まれた。後に、ロリオ(Loriot)というペンネームで知られることになる。フォン・ビューロー家は何世代にもわたるプロイセンの貴族で、ヴィッコの父親であるヨハン=アルブレヒトは非常に厳格な人物だったが、ユーモアのセンスを兼ね備えていたという。ヴィッコが4歳のとき、母親のシャルロッテの健康上の理由から、弟とベルリンの祖母の家に預けられた。その後両親は離婚し、6歳のときに母親を亡くしている。10歳の頃に父親が再婚すると、また家族で暮らすようになった。来客時は、ヴィッコはちょっとした演劇や詩の暗唱を披露し、その才能をすでに発揮していたという。

フォン・ビューロー家の紋章。「ロリオ」とは、フランス語でニシコウライウグイスのことで、紋章の一番上にニシコウライウグイスが乗っていることにちなむ フォン・ビューロー家の紋章。「ロリオ」とは、フランス語でニシコウライウグイスのことで、紋章の一番上にニシコウライウグイスが乗っていることにちなむ

ギムナジウムでは、ドイツ語と絵が得意で、スポーツマンでもあった。1938年に一家はシュトゥットガルトに引っ越したが、戦争の気配をヴィッコは感じ取っていたという。一方で、オペラが好きだったヴィッコは歌劇場でエキストラとして出演しており、この経験はその後のキャリアに活かされることになる。1942年3月、緊急アビトゥア(戦争のため簡潔化した大学入学資格試験)を受けると、ヴィッコはその数週間後に東部戦線に送られることになった。19歳になる前の夏のことだった。

貧乏生活からスタートしたキャリア

戦争が終わった1945年夏、ヴィッコはニーダーザクセン州のマルコルデンドルフという小さな村で森林局の仕事をしていた。その1年後に再びギムナジウムに通い、父親のすすめでハンブルク州立美術大学に進学することになった。ヴィッコは、そこで画家のヴィレム・グリムに師事する。グリムは学生たちに絵画だけではなく、文学と音楽も教えたという。また、ヴィッコは生涯のパートナーとなるローズ=マリー(ロミ)とも、この時期に出会っている。ロミもまた美術大学の学生だった。

1949年に大学を卒業すると、ヴィッコは週刊誌や新聞向けのグラフィックを描いて生計を立てていた。しかし、収入は決して十分な額ではなく、8平米のアパートに住み続けていたという。ロリオというペンネームを使い始めたのも、この頃からだった。そして1950年8月、週刊誌「シュテルン」(Stern)にロリオによる五つのコミックが掲載され、ついに日の目を見ることになった。

問題作で週刊誌へ抗議の手紙!?

1953年、ヴィッコに大きなチャンスが巡ってきた。シュテルン誌で「Auf den Hund gekommen」(ドイツ語のことわざで「落ちぶれる」の意)のコミック連載が始まったのだ。だんご鼻の小さな男と大きなイヌが描かれており、人間がリードにつながれていたり、イヌが人間の世話に手を焼いたりと、その役割が逆転している。しかし、一見ユーモラスなこのシリーズも、見方によってはグロテスクに捉えられ、戦後でまだ余裕のなかった人々には受け入れがたいものだった。シュテルン編集部には抗議の手紙が殺到し、雑誌の不買運動に走る読者もいたという。

だんご鼻の男はロリオを象徴するイラストとなった『Auf den Hund gekommen 38 lieblose Zeichnungen von Loriot』発行元:Diogenes だんご鼻の男はロリオを象徴するイラストとなった
『Auf den Hund gekommen 38 lieblose Zeichnungen von Loriot』
発行元:Diogenes

この騒動によってシュテルンから一度は追い出されたものの、ロリオが全国的に注目を集めるきっかけとなった。それに目を付けたのが、スイスの出版社ディオゲネスだった。そして、1954年にロリオの最初の本『Auf den Hund gekommen』が同社から出版。またロリオは妻のロミと二人の娘と一緒に、1963年にミュンジングへと引っ越し、生涯その地で暮らすことになった。

ブレーメンのロリオ広場(Loriotplatz)のベンチに座るだんご鼻の男のモニュメント ブレーメンのロリオ広場(Loriotplatz)のベンチに座るだんご鼻の男のモニュメント

テレビ業界にドイツコメディ王が誕生

ロリオは、シュテルン誌、週刊誌クイック(Quick)のほか、大手出版社のヴェルトビルト(Weltbild)からも注文を受けるようになり、コミックアーティストとしてその存在感を示した。1970年代初頭には、およそ100万冊もの本を売り上げたという。同時期にロリオは、テレビ業界にも目を向け始めていた。1967年から1972年までSDRで放送された夜のコミック番組「Cartoon」には、自ら司会者として登場し、アニメーションのスケッチ(数分の短いシーンのこと。日本のコントのイメージに近い)が放送された。

テレビスターとなったイヌのヴムとゾウのヴェンデリン テレビスターとなったイヌのヴムとゾウのヴェンデリン

1972年にはZDFの番組「Drei mal Neun」からの依頼で、マスコットキャラクターのイヌのWum(ヴム)をデザインした。ヴムはたちまち人気者になり、ぬいぐるみやマグカップなど次々とグッズが登場。著作権はテレビ局からロリオに返還されたという。さらに人気を博したロリオは、1974年にSDRで自らが実写のスケッチに出演するコメディ番組「Loriot's Telecabinet」を制作。そして1976~1978年に、ロリオを代表するテレビシリーズ「Loriot」がラジオブレーメンで放送された。このシリーズには、イヴリン・ハマンが出演している。イヴリンはドイツの典型的な女性として選ばれ、ロリオの妻からメイドまでさまざまな役をこなした。こうしてロリオとイヴリンは、ドイツのテレビ業界で最も人気のあるカップルになった。

緑のソファに座るロリオとイヴリン(1989年撮影) 緑のソファに座るロリオとイヴリン(1989年撮影)

芸術家として歩み続けたロリオ

テレビ業界で成功を収めたロリオは、子どもの頃から好きだったクラシック音楽やオペラなど、より芸術的な分野で活動するようになった。1982年には、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の創立100周年を記念して、室内楽アンサンブルで「動物の謝肉祭」を指揮。また、1986年にはシュトゥットガルト州立劇場でオペラ「マルタ」の演出や舞台美術を担当したほか、いくつかのオペラ作品をアレンジしている。

1984年、テレビ番組「Ein Star in der Manege」の企画でオーケストラの指揮をしたロリオ 1984年、テレビ番組「Ein Star in der Manege」の企画でオーケストラの指揮をしたロリオ

1988年には、初の長編映画「Ödipussi」(エディプッシー)の監督および主演を果たす。東西ドイツで上映され、460万人を動員したヒット作となった。また、2作目の映画「Pappa ante Portas(パパ・アンテ・ポルタス)」は、東西ドイツ再統一後の1991年に上演され、350万人を動員。69歳になったロリオの最後の偉業となった。

2004年、80歳となったロリオは、最後の仕事としてベルリン芸術大学の名誉教授に就任した。講堂は毎回満員となり、ロリオを知らない世代でも彼のユーモアあふれる講義を楽しんだという。2007年には、ZDFの番組「わたしたちのベスト」でドイツ史上最高のコメディアンに選ばれ、ドイツ人からの愛されぶりが改めて確認された。そして、ミュンジングの自宅で2011年8月22日に亡くなるまで、だんご鼻の男とイヌのヴムを描き続けたという。

映画「Ödipussi」の主人公は、ロリオ扮する中年独身男性のパウル。イヴリンが演じる意中の(?)女性・マルガレーテと、母親との関係を中心に描くコメディ。タイトルは、エディプスコンプレックス(男子が母親に性愛感情を抱き、父親に嫉妬する無意識の感情)とパウルの呼び名「プッシー」をかけ合わせている 映画「Ödipussi」の主人公は、ロリオ扮する中年独身男性のパウル。イヴリンが演じる意中の(?)女性・マルガレーテと、母親との関係を中心に描くコメディ。タイトルは、エディプスコンプレックス(男子が母親に性愛感情を抱き、父親に嫉妬する無意識の感情)とパウルの呼び名「プッシー」をかけ合わせている

ロリオが光を当てたドイツ人のユーモアとは?

ロリオは自らを「ユーモリスト」と呼び、ドイツ人にもユーモアがあることを生涯にわたって証明してきた。なかなか理解されてこなかった「ドイツ式ユーモア」とは何か、ロリオの作品から考えてみよう。
参考:loriot.de、nordbayern「Loriot und wie er die Welt verändert」、Deutschlandfunk「Claudia Hillebrandt über Loriot „So harmlos war Loriot gar nicht!“」、Zeit Online「Humor-Analyse: "Loriot war ein Dichter"」

ドイツ人の性質を「笑い」に変えた

コミックから映画までロリオの作品はドイツ人の「自虐的笑い」を含むが、ドイツ人に広く受け入れられてきた。それは、きわめて日常的な風景の中にユーモアのエッセンスがあることが関係しているのかもしれない。

ロリオは、とりわけドイツ人の「秩序への愛」を好み、よく自身のスケッチでも描いている。それをよく表しているのが、有名な実写のスケッチの一つ「Das Bild hängt schief」(この絵は曲がっている)。壁にかかった絵が曲がっていることに気づいたロリオは、それを直そうとして立ち上がり手を伸ばすが、ほかの絵が曲がってしまったり、机の上のものをひっくり返したり、最終的には部屋がめちゃくちゃの状態になってしまう。このスケッチは、セリフはほぼないため、ドイツ語が分からなくても楽しめる内容だ。

また、ロリオはしばしば「コミュニケーションの失敗」をテーマに取り上げている。ロリオのスケッチでは、登場人物たちは一見「普通」に見え、正しい言葉遣いをしているにもかかわらず、人々の間に誤解が生じてしまう。ロリオはそんなコミュニケーションを誇張して描き、それを笑いに変えたのだ。常に正しさを求める傾向にある真面目なドイツ人の性質を表しているともいえるだろう。

これまたよく知られているアニメーションのスケッチの「Feierabend」(仕事帰り)では、夫婦間のコミュニケーションを描いている。リビングの椅子に座っている夫に、キッチンで忙しくする妻が話しかけているシーンを想像してほしい。

妻「ヘルマン?」
夫「うん?」
妻「そこで何をしているの?」
夫「何も」
妻「何も? 何もって?」
夫「何もしていないんだ」
妻「本当に何も?」
夫「何にも」
妻「本当に何もしていないの?」
夫「何も……ここに座っているよ……」
妻「そこに座っているのね?」
夫「そうだよ」
妻「でもやっぱり何かしているでしょう?」
夫「いや……」
妻「何か考えているの?」
夫「別に特別なことじゃないよ」
『Männer & Frauen passen einfach nicht zusammen』の「Feierabend」より

スケッチはここで終わりではなく、こうしたやり取りが延々3分半も続く。この「繰り返し」もロリオの作風の特徴といえ、話が永遠にかみ合わないというパターンが多く見られる。

「Feierabend」のアニメーションはロリオ公式サイトでも公開されているので、ぜひチェックしてみよう。

男性と女性の日常風景を描いたコミックやスケッチ80点以上が収められている『Männer & Frauen passen einfach nicht zusammen』発行元:Diogenes 男性と女性の日常風景を描いたコミックやスケッチ80点以上が収められている
『Männer & Frauen passen einfach nicht zusammen』
発行元:Diogenes

ユーモアに隠れた社会的メッセージ

ロリオが政治的な立場を明確にすることはなかったが、ドイツ人の日常を切り取ったスケッチでは、社会的なメッセージを読み取ることもできる。例えば、1978年のテレビ番組「 Weihnachtenbei Hoppenstedt」(ホッペンシュテット家のクリスマス)では、家族が大量のクリスマスプレゼントを開封していく様子が描かれている。それが「gemütlich」(居心地がいい)な状態であると何度も強調されるのだが、それがどうもわざとらしく聞こえる。子どもの贈り物の中には、「Atomkraftwerk」(原子力発電所)のおもちゃが潜んでおり、今見ると思わずギョッとしてしまう。そんな要所要所にちりばめられた皮肉からも、ロリオが比較的早い段階で消費社会や環境問題について疑問を投げかけていたことも伝わってくる。

またロリオの作品には、知的なユーモアやドイツにおけるマナー、正しい文法など、ドイツ語を学ぶのに必要なエッセンスが詰まっており、ドイツ語教師からも好まれているという。ゲーテ・インスティトゥートを通じて全世界で紹介されており、語学学校でロリオを知ったという人は少なくないかもしれない。

ロリオは生前のインタビューで、ドイツではユーモアが生活に根ざしてこなかったことを指摘している。例えば、英国ではコメディアンは悲劇作家と同様に評価されてきたのに対し、ドイツでは常に悲劇が優位に立っていた。そんな歴史的背景があるなか、本来ドイツ人が持っていたユーモアを引き出したのが、ロリオなのだ。「誰かが何かを真剣にやろうとしてそれに失敗する時、ユーモアが生まれるのです」。ユーモアについて、生前にそう語っていたロリオ。ドイツのクラシックコメディを確立し、その後のドイツ人コメディアンにも大きな影響を与えてきた。没後10年もこうして私たちに笑いを届けてくれるロリオは、これからもドイツが誇る「ユーモリスト」であり続けるだろう。

昨年ロリオ公式サイトに、「コロナ危機の日常で楽をするために」と題したシリーズで、コロナ時代に合わせてセレクトされたコミックの一部が公開された。そのほか多くの作品が公開されているので、www.loriot.deをのぞいてみて!

ロリオ公式サイト:www.loriot.de

最終更新 Mittwoch, 11 August 2021 16:07
 

知っておきたいコロナ禍のドイツQ&A

いつまで続く? これからどうなる? 知っておきたいコロナ禍のドイツQ&A

コロナ禍の生活ルールや法律は国や地域によってさまざまで、状況によっても変化していく。そんなコロナ禍のドイツ生活で何に気を付けたらいいか、知っておくべきポイントをQ&A形式で解説する。(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

知っておきたいコロナ禍のドイツQ&A

※情報は2021年7月現在のものです。
※新型コロナウイルス感染拡大防止の規制は、感染状況によって日々変動します。最新情報はお住まいの地域の自治体ホームページ等からご確認ください。
参考:Zusammen gegen Corona「Ein neuer Alltag」、SWR「Corona - von A wie "Aerosole" bis Z wie "Zweite Welle"」、Deutsche Welle「Coronavirus: Wann ist die Pandemie vorbei?」、WDR「Club-Öffnungen ab September: Feiern mit Maske und Abstand?i」、Die Bundesregierung「Keine Homeoffice-Pflicht mehr ab 1. Juli」、vorwärts「Hubertus Heil fordert Homeoffice-Recht auch nach Corona」、連邦政府ウェブサイト「Regelungen während der Corona-Pandemie Informationen für Reisende」

Q1. 今さら聞けない「AHA」って??

コロナ禍が始まってから日本では「三密」などの言葉が広まったが、ここドイツでは、連邦政府がコロナ感染対策キャンペーンとして「AHA」という略語を使い、日常生活の中での感染に注意を呼びかけている。

「A=Abstand」(他人から1.5メートル以上のソーシャルディスタンスを保つこと)、「H=Hygine」(くしゃみや咳をする時はひじの裏に、定期的な手洗いうがいをするなど、衛生に気を付けること)、「A=Alltag mit Maske」(日常的にマスクを着用すること)の三つの頭文字を取ったもので、これに加えて室内では「Lüften」(定期的な換気)、屋外では「App」(コロナアプリの使用)を推奨。日常的なマスクの着用や手洗いうがいなどは今やすっかり日常の一部となったが、引き続き意識的な感染対策が必要とされている。

AHA 出典:連邦保健省ウェブサイト

またパンデミック以降、さまざまなコロナ用語が飛び交うようになった。ライプニッツドイツ語研究所(IDS)によると、2020年は1200語のドイツ語が新たに誕生したという。日常生活で必要なコロナ用語を改めてチェックしよう。

覚えておくべきコロナ用語

Antigen-Test 抗原検査
Desinfektion 消毒液
FFP-Maske FFP(Filtering Face Piece)マスク
※粉塵やエアロゾルをろ過するマスク
Impfstoff ワクチン
Inzidenz 7日間指数
※7日間の10万人当たりの新規感染者数
PCR-Test PCR検査
R-Wert R値(実効再生産数)
※感染者1人当たりが新規感染させる人数

Q2. 完全なロックダウン解除はいつ?

満員のバーやコンサートを満喫し、マスクをしなくてもいい日常は、一体いつになったら戻ってくるのだろうか。その指標の一つとなるのが、クラブやディスコだ。ニーダーザクセン州、ブランデンブルク州、ザクセン=アンハルト州は6月初旬、それぞれ一定の制限の下で、ドイツで最初にクラブとディスコを再開。またノルトライン=ヴェストファーレン州でも6月25日から、直近5日間のコロナ感染率が35未満の場合に限り、屋外エリアのあるクラブやディスコの営業が許可された。ただし、入場者数が100名以下に限定され、陰性証明やワクチン証明の提出が必須。さらに8月27日からは、屋内でも楽しめるようになる見通しだという。

しかし、デルタ株をはじめとする変異種の感染率が増加するなど、まだまだパンデミックの終わりは見えない状態だ。また歴史学者の間では、ウイルスを抑え込むことで「医学的に」パンデミックが終わるというよりも、人々がさまざまな制約に疲れ、ウイルスと共に生きるようになることで「社会的に」パンデミックが終息するという意見もある。

Q3. ホームオフィスはいつまで続く?

リモートワーク後進国だったドイツだが、コロナ禍では2人に1人が在宅勤務に切り替わった。また感染拡大に伴い、コロナ禍の感染保護法では、雇用主は可能な限りホームオフィスを実施することが義務付けられた。7月1日からはホームオフィスの法的義務は解除されたが、感染防止のために自主的なホームオフィスの実施の許可、週2回のコロナ検査の提供は引き続き雇用主の義務とされている。そんななかリモートワークの利便性を知り、ライフワークバランスコロナ禍の生活ルールや法律は国や地域によってさまざまで、状況によっても変化していく。そんなコロナ禍のドイツ生活で何に気を付けたらいいか、知っておくべきポイントをQ&A形式で解説する。(文: ドイツニュースダイジェスト編集部)

これまでドイツでは、リモートワークを行うかどうかの決定権は雇用主にあった。ハイル連邦労働大臣(社会民主党・SPD)は昨年4月にリモートワークの権利の法制化を提唱し、10月には年に最低24日間のリモートワークに対する法的権利を盛り込んだ「モバイル労働法」の草案を提出。パンデミックにかかわらず、企業の生産性を高め、私生活と仕事の両立性を向上させるために、リモートワークの法的な基盤を整えることを目的としているという。今後もリモートワークが働き方の選択肢の一つとして定着していきそうだ。

Q4. 2021年夏の旅行は、どこに行ける?

2021年夏の旅行は、どこに行ける?

ドイツ国内では7日間指数が100以下の場合、宿泊を含む観光が許可されている(2021年7月7日現在)。ただし、感染拡大防止規則は各州で定められているため、旅行前に目的地の情報をチェックしよう。また7月1日から、欧州連合(EU)でコロナワクチンのデジタル接種証明書の共通運用が本格的にスタート。QRコード化された接種証明書を提示するだけで、EU域内の行き来が可能になった。

ただし、過去10日間にリスク地域(7日間指数が50以上)にいた人は、ドイツ入国に際してデジタル登録が必須となり、10日間以上の自己隔離が求められる。ワクチン接種済みか回復者、または48時間以内の抗原検査(または72時間以内のPCR検査)で陰性であることを証明すれば、隔離は免除となる。さらに、7日間指数が200以上のリスク地域(Hochinzidenzgebiet)とウイルス変異株地域(Virusvariantengebiet )には、観光目的の渡航警告が発令されている。リスク地域は常に変動するため、ロベルト・コッホ研究所のウェブサイトなどから確認しよう。

ロベルト・コッホ研究所:www.rki.de

最終更新 Donnerstag, 22 Juli 2021 09:18
 

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