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どうなる? EUの未来 - 英国EU離脱後のドイツと欧州

どうなる? EUの未来 英国EU離脱後の
ドイツと欧州

2020年1月31日午後11時、ついに英国がEU離脱(ブレグジット)を達成した。ブレグジット後、ドイツおよび欧州の状況は具体的にどのように変わっていくのだろうか。また、ドイツに住む私たちにはこれからどんな影響があるのだろうか。欧州統合の歩みとブレグジットに至る経緯を改めて振り返ることで、ブレグジット後のドイツと欧州の未来を見据えてみよう。(Text:編集部)

そもそもブレグジットとは?

「英国または英国の(BritainまたはBritish)」と「退出する(Exit)」を掛け合わせた造語で、「英国の欧州連合(EU)からの離脱」とそれを取り巻く諸問題を指す。EU域内からの移民の増加に加え、世界金融危機などを契機に、2013年ごろから英国民の中で反EU感情が強まっていった。2016年に行われたEU残留か離脱かを問う国民投票では、僅差で離脱派が勝利。しかし離脱が実現されないまま国論が二分され、議会も混乱を極めた。2019年の英国選挙では離脱を公約に掲げる保守党が圧勝し、2020年1月31日についに離脱が達成。今後は関税ルールなどをはじめとする交渉が英EU間で進められる。

欧州諸国メディアが報じたブレグジット

1月31日、多くの欧州諸国メディアでも英国のEU離脱が報じられた。英国内の反応が離脱派と残留派に二分されるのに対し、欧州ではブレグジットへの怒りや悲しみ、そしてEUの未来について語られている。

参考:BBC「Brexit: Sadness and relief - European papers' view」、The Guardian「'Britain is retrenched on its island': Europe's papers react to Brexit day」

ブレグジットへの怒りと悲しみ

「何も変わらず、すべてが変わった日」
- Le Monde(フランス)

「真夜中の泥棒のように、金曜日の夜に英国はEUを去る。EUが歴史上初めて加盟国を失ったことは、誰にとっても悲劇的な敗北だ」
- De Morgen(ベルギー)

「私たちは笑うべき? それとも泣くべき?」
- Heti Vilaggazdasag(ハンガリー)

「これは欧州統合というアイデアの敗北。特にEUを欧州和平のためのプロジェクトと考えていた人にとって」
- Aftenposten(ノルウェー)

英国はどこへ向かう?

「ブレグジット後に、英国の政治が自国の本当の大きさに正直になれるかどうかだ」
- Die Welt(ドイツ)

「(ジョンソン首相は)とてつもなく大きな課題に直面している。それは、ブレグジットを『解放』と考える人々と、『悲劇』あるいは『歴史的な失敗』と考える人々とに二分された国の統一を回復することだ」
- El País(スペイン)

「英国には、未来への素晴らしいアイデアはない……。これまでのところ、私たちが見たのは考えの浅い現実逃避とつまらない問題だった」
- Süddeutsche Zeitung(ドイツ)

本当の交渉はこれから

「(EU本部のある)ブリュッセルにとって最大の懸念は、海岸から迫ってくる競争相手(英国)だ」
- Handelsblatt(ドイツ)

「今から数カ月後に、『合意なしの離脱』のリスクが再び現れる可能性も十分ある」
- Gazeta Wyborcza(ポーランド)

「本当に難しいパートは、ここから始まる」
- Dagens Nyheter(スウェーデン)

自己反省的な見解も

「国連安全保障理事会の常任理事国かつ主要なパートナーが去り、(残された27のEU加盟国は)ますます予測不可能なこの世界を(不安げに)見ている」
- Le Figaro(フランス)

「EUは自身の姿を鏡で見直すべき。そして英国をはじめとする多数の欧州の国々が経験している『嫌悪』について、そろそろ疑問を持ってもいいころだ」
- RTL Z(オランダ)

「(将来的に)英国がEUに再び加入するならば、EUは現在とは全く違う組織になるだろう。それは悪いことだろうか?」
- Der Standard(オーストリア)

「これまでのところ、EU離脱はEUにとって良い面もあった。(英国が去った後の)27カ国は団結している…(中略)…しかし、EUプロジェクトは新たな推進力が必要。動き出さなければならない」
- NRC Handelsblad(オランダ)

EUとBREXITをもっと知るためのQ&A

なぜ英国は欧州連合(EU)を離脱したかったのか、ブレグジットという選択肢は正しかったのだろうか……EUの歴史や存在意義を知ることで、その答えが見つかるかもしれない。そして、ブレグジット後のEUはどこへ向かっていくのか、EU情勢に詳しい栗田路子さんに話を聞いた。

お話を聞いた人

栗田路子さん Michiko Kurita ベルギー在住ライター、コンサルタント。上智大学卒業後、米国とベルギーの経営大学院にてMBA取得。EUやベルギーの政治・社会事情を発信している。EU Mag(駐日EU代表部公式ウェブマガジン)などで執筆中。

EU地図

EUへの加盟年と脱退年

1952年

ベルギー、ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダが加盟

1973年

デンマーク、アイルランド、英国が加盟

1981年

ギリシャが加盟

1986年

スペイン、ポルトガルが加盟

1995年

オーストリア、フィンランド、スウェーデンが加盟

2004年

チェコ、エストニア、キプロス、ラトビア、リトアニア、ハンガリー、マルタ、ポーランド、スロヴェニア、スロヴァキアが加盟

2007年

ブルガリア、ルーマニアが加盟

2013年

クロアチアが加盟

2020年

英国が脱退

Q1そもそもEUは、なぜできたの?

A 一国の暴走を防ぐため、資源を共同で管理するところから始まった。

隣国同士で戦争を繰り返してきた欧州。なぜ争いが起きるのかというと、国力のベースとなる資源を奪い合ってきたからだ。1920年代にはすでに欧州統合の構想はあったものの、具体的に始動したのは第二次世界大戦後。1950年にフランスの外相シューマンが「シューマン宣言」を発表し、石炭と鉄鋼を共同管理するために超国家的機構の創設が提唱された。そして1952年、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6カ国により「欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)」が発足されたのだった。

その後、1958年には「欧州経済共同体(EEC)」と「欧州原子力共同体(Euratom)」が発足し、1965年にこれまでの3つの共同体が「欧州共同体(EC)」として統合。経済分野とエネルギー源管理で密接な協力関係となり、英国をはじめとした欧州諸国も少しずつECに加盟していった。1993年に現在の「欧州連合(EU)」に発展。その後も加盟国は増え続け、2013年に28カ国(英国含む)の超国家組織へと成長した。

Q2EU市民はどんな恩恵を受けているの?

A 経済分野だけでなく、感じれられる恩恵は個々によってさまざま。

EUを語るとき、EU域内の物・人・金・サービスの移動の自由が挙げられることが多い。その昔、ベルギーからドイツに行くのには国境検査を受けなければならなかったが、現在は通関も入国管理もなしで行き来ができる。これは、移動の自由で守られているおかげだ。ほかにも、EU市民が直接感じられるメリットとして、EU域内の送金には手数料がかからなかったり、EU域内では国内と同料金で電話やデータ通信をすることが可能。しかし、これは実感できるメリットのほんの一部に過ぎず、実際はEU市民はさまざまな分野でEUの恩恵を受けている。

教育分野では、市民がEU域内外で自由に学べるような留学制度や移動費助成制度がある。さらに、研究開発助成制度は多年次で複数加盟国チームに支給されるため、各国のブレーンが共同で研究開発を進めることができる。また、安全性が懸念される農薬や遺伝子組み換え種子の使用、そうした農作物の輸入をEU法で禁止。農薬や遺伝子組み換えは農作物の大量生産を可能にするためコスト面では経済的かもしれないが、EUが重視するのは目先の損得ではなく、「安全性に不安があるものを食べたくない」と主張するEU市民の基本的な権利。一般的に、即効性のある実利主義的な関税同盟や単一市場など経済分野ばかりがEUのメリットかのように取り上げられるが、それは一面でしかない。ビジネスマン、学生、子どものいる人……など、感じられる恩恵は個々によって違うのだ。

Q3なぜ英国はEUを離脱したかったのか?

A EUが何でも決めてしまい、自己決定権がないから。でも実際には……

英国のEU離脱派がよく批判していたのは、予算や政策などもEUがすべて決めてしまい、自己決定権がないこと。自国の得意な産業に合わせた独自の通商政策ができないことも、英国経済に不利という認識だ。また、分かりやすい例では移民問題が挙げられる。移民増加に伴い、国内の雇用が奪われ、福祉を圧迫しているというのが彼らの主張。しかし、実際には英国政府も英国市民もEUの立法プロセスに直接または間接的に関わっており、大半のEU法では具体的な措置や管理の裁量は各国に任されている。また、英国市民が問題視した移民の多くは、ポーランドやリトアニアからのEU市民。本来は欧州在住の英国市民と同じように権利が保障されるべきだ。特に日本では、これらの移民が2015年の難民危機と関係があるように語られることもあるが、実は全く別次元の問題である。

EUには、アキ・コミュノテール(フランス語で「共同体に蓄積されたもの」の意)という、EUの法体系を指す言葉がある。新規加盟するには、すでに蓄積されてきた法令を受容することが条件であることを意味しており、1973年に英国がECに加盟した際もすでにこの原則は存在していた。つまり、これまで決められてきたことに対して文句を言ったり、自国に都合の良い政策だけに加わるような「いいとこ取り」は許されていない。もともとEUは一国の暴走を防ぐために始まった共同体だったが、ブレグジットはEU市民の目にどのように映ったのだろうか。

Q41月31日午後11時に英国がEUを離脱し、何が変わったのか?

A移行期間に入っただけで、市民レベルではほとんど何も変わっていない。

移行期間(2020年12月末まで、詳しくはP12)が終了するまでは、引き続きEU法が英国に適用されるため、EUや英国在住の一般市民の生活はこれまでと何も変わらない。一方、英国は今後EUの意思決定に参加しないため、EUの英国代表は主要機関から撤退。例えば、欧州議会では英国選出議員の73議席が空席となったため、そのうち27議席は14カ国に振り分けられた。500ページ以上にわたる離脱協定の中で、特に大事なポイントは以下の3つだ。

離脱協定の3つのポイント

1. 市民の権利
引越しや就職、結婚などは「ライフチョイス」として、誰にとっても人生の大事な決断だ。そうした権利を守ることは、離脱協定の最優先事項。よって、離脱前からすでにEUに在住する英国市民、英国に在住するEU市民は現在の居住地から追い出されることはなく、引き続き同じ権利が保障される。

2. お金の精算
英国がEU加盟国として誓約した分担金を支払うことをが定められている。欧州中央銀行の資本金は返金されるが、欧州投資銀行などではプロジェクトごとに投資しているため、最終的な返金はプロジェクト終了まで待たなければならない。

3. アイルランド国境
英国議会が最後までもめていた項目が、アイルランドの国境問題。アイルランド島には、EUに属するアイルランド共和国と英国に属する北アイルランドが共存しているため、ブレグジットは両国間の物理的国境の復活を意味する。かつて両国市民の人権を脅かした国境問題の再燃を避けるため、北アイルランドを英国の経済特区的な扱いとし、EUの関税同盟に残留させることを決定。しかし、北アイルランドからEU基準に適合しない製品がEUに流入しかねないとの懸念が残る。

栗田さんのEU未来予想!?

EUはブレグジットから何を学んだのか

EU加盟国に限りませんが、世界がブレグジットから学んだことは、国の命運を左右するような重要案件をたった1度の国民投票で決めてはならない、ということでしょう。例えば、投票を3択にする、予備選をして決勝投票をするなど、各国の国民投票のあり方をどうしていくのか、それぞれが肝に銘じたと思います。

各々が意見を持つことは民主主義の基本ですが、同時にその脆弱さでも。昨今、ブレグジットに代表されるように右派ポピュリズムが世界で蔓延していますが、その思想を否定することはできません。ならば、人々がメディアリテラシーを身に付け、かしこくなるしかないのです。

例えば、EUの教育政策に「エラスムス」という、若者を留学や研修でEU圏内を移動させるプログラムがあります。エラスムスを利用した人はこの30年で300万人以上。若いときに客観的な視点で自国を見つめ考えることは、何事にも代えがたい経験になるはずです。時間はかかりますが、ほかのEU市民を仲間だと思える経験をした人を増やすことは、EUの多国籍枠組みを受け入れることにつながると信じています。

昨年の欧州議会選挙では、選挙期間中にフェイクニュースやディスインフォメーションが有権者を操作しないよう、EUと加盟国の情報機関が徹底チェックしました。その結果、米大統領選挙時のような個人データの大量操作や出所不明な怪しい情報の大量拡散も起こりませんでした。市民の意思決定の際に意図的な情報操作が行われないよう、今やこうした影の努力は不可欠なのです。

新体制のグリーンディールに期待

昨年欧州委員会のトップとなったドイツ人のフォンデアライエン氏は、初の女性委員長として注目されています。同氏が率いる新欧州委員会は6つの優先課題を挙げ、特に力を入れているのが「欧州グリーンディール」という環境政策。2030年までに温室効果ガスを55%削減することを目指すため、今後10年で1兆ユーロを投じる計画です。産業界からは、厳しい政策内容のために EUの産業を減速させるとの声も上がっています。

しかし今だからこそ、EUが環境政策に力を入れることをアピールする意味があると思います。環境問題にここまで取り組む国や地域はほかにないので、EUはこの分野で世界をリードしていける可能性があり、環境のための抗議運動Fridays for Futureで立ち上がった若者たちへの応答でも。また、EUはこの20年で風力発電や太陽光発電に力を入れてきたので、すでに先行利益も出ています。道は険しいかもしれませんが、今後さらに投資することで、世界に先駆けた産業構造革新が進むと信じたいです。

ブレグジットを受けて、EUの未来についてさまざまな議論がなされています。その1つの道が、軌道修正をしながら新しいEUを目指していくというもの。大きな政府と小さな政府の理論と同じなのですが、これまで通り全加盟国で同じ政策をやる、国によっては産業政策だけ参加する、地域開発政策からは抜けるなど、フレキシブルなやり方です。例えば、EU全体で夏冬の時間変更を一斉に行わないことが決められ、今後どうするのかは加盟国の裁量に委ねられました。さまざまなシナリオを議論することは、前ユンケル委員長の置き土産。今後、EU全体で意識的に話し合われるべきでしょう。今日、多国籍枠組みの中から出ることが主権回復のシンボルのような風潮がありますが、それに対してEUがどう対応できるのか、EUの未来に期待したいと思います。

最終更新 Dienstag, 25 Februar 2020 12:06
 

ドイツ・EUへの影響は?移行期間の英欧貿易交渉 - 熊谷徹

どうなる? EUの未来 英国EU離脱後の
ドイツと欧州

ドイツ・EUへの影響は?
難航が予想される移行期間の英欧貿易交渉

2020年1月31日午後11時、英国が欧州連合(EU)を離脱した。今、メルケル政権やドイツの企業経営者たちは、安堵と失望が入り混じった気持ちを抱いている。残り11カ月を切った移行期間で、ドイツおよびEUの未来はどのように左右されるのだろうか。

熊谷徹 Toru Kumagai 1959年東京生まれ。1990年からフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン在住。再統一後のドイツ、欧州の政治経済、安全保障問題など、幅広い分野で執筆している。本誌では毎号「独断時評」(P5)を連載中。www.tkumagai.de

ブレグジットはEUにとって大きな損失

EU側の安堵の理由は、彼らが最も恐れていた合意なしのEU離脱、いわゆる「ハード・ブレグジット」が少なくとも2020年末までは避けられたからである。一時は1月31日に英国がEUと合意できないままEUを離脱し、欧州経済が混乱するという懸念が浮上していた。

だが英国は結局、EUとの合意に基づく秩序立った離脱の道を選択。当面は合意なしの離脱による欧州経済の混乱を回避できた。EU加盟国の首脳たちは、口々に「英国はEUを去ったが、欧州を去るわけではない。これからも良きパートナーであり続けよう」と述べている。

それでもブレグジット後の欧州大陸の雰囲気は沈鬱だ。EUは68年間の歴史の中で、ブレグジットによって初めて加盟国を失った。英国は、EUで最も重要な国の1つだった。ブレグジットによってEUの人口は約5億1200万人から約6665万人減り、GDPも約2兆4237億ユーロ(291兆円・1ユーロ=120円換算)減少。EUの人口は約13%、GDPは一挙に約15%減ったことになる。英国のGDPは、28の加盟国の中でドイツに次いで2番目に大きかった。

ドイツの経済学者ハンス・ヴェルナー・ズィン教授は、「英国のGDPは、EU加盟国のうちGDPが最も小さい20カ国分の経済規模に相当する。つまりブレグジットはEUの小国20カ国が1度にEUを離脱したのと同じインパクトを持っている」と述べている。

焦点はEU・英国間の貿易交渉

さて英国はEU離脱を実現したものの、両者が通商や安全保障などに関してどのような「二国間関係」を結ぶかについては、まだ決まっていない。英国とEUは、2020年2月1日から12月31日までの11カ月の移行期間に、新たな自由貿易協定などを締結しなくてはならない。この移行期間中には、離脱前と同じ条件が適用される。例えば英国企業は、関税を払うことなくEU加盟国に製品を輸出することができる。

英国のボリス・ジョンソン首相は「新しい協定を2020年末までに締結する」として、交渉期間を2021年1月以降に延ばすことを法律で禁じた。EU側に圧力をかけるためである。

EU側は自由貿易協定に関する交渉には、少なくとも3年はかかると見ている。例えば2017年にEUとカナダの間で発効した自由貿易協定(CETA)の交渉には、7年もかかった。CETAの協定書は、約1600ページに達する膨大なものだ。このためEUでは「わずか11カ月間で自由貿易協定を締結するのは不可能。仮に成立したとしても、最低限必要な条件だけを盛り込んだ内容の薄いものになるだろう」という見方が強い。さらに言えば、貿易交渉は移行期間中に話し合わなければならない項目の1つに過ぎない。

英国の「いいとこ取り」を警戒するEU

交渉の中で英国政府は、自国企業ができるだけ容易にEU市場で製品を売れるような環境、さらに外国企業が英国にこれまで以上に投資するような環境づくりを目指すだろう。そのためには、英国の製品にEUの関税がかからないことが重要だ。EUは加盟国ではない国に対しても、例外的に関税を免除することがある。スイスやノルウェーはその例だ。だがその場合の条件は、相手国がEU市民の移住や就職の自由などの原則を受け入れること。ブレグジットに至った最大の理由の1つであるこれらの原則を、ジョンソン政権が受け入れるかどうかは、はなはだ疑問だ。

つまり英国政府は、EUとの交渉の中で、今後EU市民の移住や就職の自由を制限する一方で、自国企業がEU共通市場にこれまで同様にアクセスできるという、自国に有利な条件を要求するかもしれない。

だがEUは、英国に対して「いいとこ取り」は許さない方針だ。ウルズラ・フォンデアライエン欧州委員長は、1月31日にドイツの日刊紙に寄稿し「英国が移行期間の後に、今と同じく無制限にEU市場にアクセスすることはあり得ない」と釘を刺している。

EUには、「非加盟国には、加盟国と同じ待遇を与えてはならない」という原則がある。この原則を緩和すると、英国のようにEUを離脱して、EUへの拠出金を払わずにEUと同じ貿易条件を得ようとする国が現われる危険があるからだ。

英国は「欧州のシンガポール」になるか?

もう1つEUが恐れているのは、英国が製品の安全性や環境保護、労働条件、補助金などに関する規則をEUのルールよりも緩和して、外国企業の投資を呼び込もうとすることだ。EUにとって、英国と自由貿易協定を結ぶための前提は、英国がEUと同じ環境保護や製品の安全性、個人情報の保護などに関する基準、つまり「レベル・プレイング・フィールド」の原則を守ること。EUは英国に対して「これまでと同様の規則を守り、公正な競争を行おう」と呼びかけている。

ベルギーの元首相で現在は欧州議会議員のヒ―・フェルホフスタット氏は「将来英国がEUの環境基準や補助金、賃金ルールから逸脱し、外国企業の投資を呼び寄せるためにシンガポールのような国になることは許さない」と語っている。確かに、英国が外国企業にEUよりも潤沢な補助金を出したり、最低賃金を大幅に低くしたりした場合、アジアや米国の企業がEUを素通りして英国に投資する可能性がある。EUが最も恐れているのは、そうした事態である。

妥協を拒否するジョンソン首相

これに対し、ジョンソン首相はブレグジット後に英国の競争力を高めるために、EUの原則から逸脱した基準を導入する方針を示唆している。彼は2月3日に行った演説の中で、「われわれが目指しているのは、法的な自治性を確保することだ。したがって英国は、EUが押しつける基準に唯々諾々と従うつもりは全くない」と述べ、EUの要求をはねつけた。

もちろんジョンソン首相の強硬な姿勢は、貿易交渉を英国のペースで行うための一手段。彼は「交渉が今年末までに終わらなかったら、EUと英国の間にはWTO(世界貿易機関)の原則に基づく関税が導入される」というシナリオをちらつかせることで、EU側を譲歩に追い込もうとしているのだ。そのため12月末が近づくにつれて、ジョンソン首相が態度を軟化させる可能性は残っている。

ブレグジット後の英国とEUの関係が決まるのは、まさにこれからだ。欧州で活動する日本企業も、今から約10カ月間の交渉の行方を注意深く見守っていく必要がある。

EU離脱後の移行期間

 
2020年1月31日 離脱
2020年3月3日 EUとのFTAに関する交渉が開始
2020年6月30日 移行期間延長の同意期限
延長する場合はこの日までに英EU間での同意が必要。
延長期間は最高2年
2020年12月31日 移行期間終了
EUとの交渉は合意に至ったか
YES NO
2021年1月1日EUとの新しい関係が
スタート
2021年1月1日EUとの協定なしに
移行期間が終了

(参考:BBC)

最終更新 Dienstag, 25 Februar 2020 12:06
 

ベルリン国際映画祭:史上初のダブル受賞!映画「37セカンズ」HIKARI監督インタビュー

ベルリン国際映画祭70年史 社会とともに歩み続けるベルリナーレ

今年で第70回を迎える、ベルリン国際映画祭(ベルリナーレ)。社会派の作品が多く集まることで知られるこの映画祭では、これまでドイツや世界が直面する問題をさまざまな視点で切り取り、社会に対して問いを投げかけてきた。映画という「社会の鏡」を通して、私たちは未来に何を見出すことができるだろうか?ベルリナーレ70年の歩みを歴史とともに振り返ってみよう。(Text:編集部)

ベルリン国際映画祭で史上初のダブル受賞! 映画「37セカンズ」
HIKARI監督インタビュー

昨年のベルリン国際映画祭で史上初のダブル受賞を果たした映画「37セカンズ」が、ドイツをはじめ欧米で1月31日(金)からNetflixで配信、日本では2月7日(金)から劇場公開される。脚本・監督を務めたのは、米国・ロサンゼルスを拠点に活動するHIKARIさん。彼女が作品へ込める思い、そして映画を撮る理由を聞いた。

37セカンズ

HIKARIHIKARI 大阪市出身。脚本家、映画監督。幼少のころからミュージカルやオペラなどで舞台に立ち、18歳で単身渡米。女優、カメラマン、アーティストとして活躍後、南カリフォルニア大学院(USC)映画芸術学部にて映画・テレビ制作を学ぶ。現在はロサンゼルスを拠点に、精力的に活動している。https://www.hikarifilms.com

「障がい者の映画」ではなく「私の物語」

2019年2月。ベルリナーレのパノラマ部門に「37セカンズ」(作品紹介はP12)が出品され、ベルリンに滞在していたHIKARI監督。そこに、本作が「パノラマ観客賞」と「国際アートシアター連盟賞」を受賞したとの連絡があった。

「いやー、驚きましたね。これは、ほんまに私の人生変わるな、と。あれだけ飛び上がったことはないってくらい大喜びしました。それと同時に、この作品を受け入れてくれる人がいた、ということが本当にうれしくて。感謝しかなかったですね」

史上初のダブル受賞を成し遂げ、もともと5回の上映予定だったところ、最終的には9回上映された。チケットも毎回ソールドアウトに。上映後のQ&Aでは観客からさまざまな質問や感想を受けたが、そのなかで1番多かったのが「障がい者の映画だと思って構えてきたけど、全然違った」というコメントだった。

「ベルリナーレは社会的な問題を扱う映画祭ですし、本作は『障がい者』が主役の物語。いろんな意味で身構えている人が多かったと思います。でも、いざ映画が始まってみたら、みんな大笑いしていて。主人公・ユマはたまたま車イスに乗っているというだけで、私が描いたのは、ある1人の女性の冒険と成長。観客の方々はそのことを自然に受け止めてくれました」

上映中はところどころで大爆笑が起こるとともに、感動して涙を流す人も。ユマが精一杯自分の人生を歩もうとする姿は、「障がい者」という他者ではなく、多くの人の目に「自分の物語」として映ったのだ。

37セカンズベルリナーレを訪れたHIKARI監督(赤い服の方)とキャスト・スタッフの方々

やりたいことを全部やったら映画監督に

子どものころから「何かを表現したい、人を笑かしたい」という意思が強かったというHIKARI監督。高校3年生のときに女優を目指して単身渡米し、女優やカメラマン、音楽など、多彩なキャリアを積んだ。とにかく自分の勘を信じて、やりたいと思うことをやり続けてきたというHIKARI監督だったが、大学院の卒業制作である短編映画「Tsuyako」が数々の世界映画祭に招待されたことをきっかけに、「映画監督」としての人生に大きく舵を切ることに。

「『Tsuyako』は戦後間もない日本を舞台に、レズビアンの女性の恋愛を描いたもの。ある映画祭でこの作品を観た50代のイタリア人男性は、『僕はこれから母に、(自分がゲイであることを)カミングアウトしようと思う。ありがとう』と私に伝えてくれて。あぁ、この人は50年以上も待ってたんや。私の映画がこの人の人生をこれから変えていくんだ……と思ったときに、私がやるべきことはこれかもしれないと感じました」

そんなHIKARI監督が「37セカンズ」の着想を得たのは2015年ごろ。米国を訪れていた熊篠慶彦(くましのよしひこ)さん*1らとともにセックス・セラピストの女性医師へインタビューしたのがきっかけだ。インタビューを通して、女性は下半身不随でも自然分娩できることなどを知り、人間の身体や脳の働き、そして生まれてくる命の素晴らしさに感銘を受けたという。そこから、障がいのある女性やその家族などにインタビューを行ったり、自ら車イスをレンタルし、その生活を体感したりしながら、アイデアを膨らませていった。

*1 特定非営利活動法人ノアール理事長。出生時より脳性麻痺による四肢の痙性麻痺がある。障がい者の性に関する支援活動を精力的に行っている

映画に介在するリアル

それから3年ほど経ち、HIKARI監督はついにユマ役の佳山明(かやまめい)さんと出会う。当初はヒロインに健常者の俳優の起用を考えていたが、健常者が障がい者の役を演じることに疑問を抱き、一般オーディションを開催。100人近いヒロイン候補と面談し、その最後に現れたのが佳山さんだった。彼女がオーディションで冒頭のセリフを発した瞬間、HIKARI監督は「この子だ」と直感した。

「もともとは下半身不随の女の子が主人公で、物語としてもラブストーリーや性体験がメインでした。でも、明ちゃんは一見高校生かと思うほど見た目が若く、全然そういうものと結びつかない。すでに構想したストーリーのなかに無理やり彼女を入れ込むのではなく、彼女が生きるリアルを映像にしたいと思ったんです」

この出会いによって、脚本を大幅に修正。主人公の設定も、佳山さんと同じ脳性麻痺に変えた。タイトルの「37セカンズ」は、佳山さん自身の体験がもとになっている。また、熊篠さんが自身をモデルにした役で出演するなど、登場人物たちのリアルが幾重にも交差している。そうすることで現実とファンタジーの溝が埋められ、それぞれのシーンが有機的に繋がっていった。

37セカンズ

「見えない壁」を壊すこと

本作の特徴は、車イスの高さからのカメラワーク。観客は、ユマが普段見ている目線(=世界)を体感できる。さらにHIKARI監督は、ユマを美しく撮ることにこだわった。

「日本では障がい者と健常者の間に、どうしても隔たりのようなものがあると感じます。障がい者の人が静かに大人しく生きなきゃならない雰囲気を、周囲が作り出している。ユマの心の成長を美しく捉えることで、健常者と障がい者の間にある『見えない壁』を壊したかったんです」

HIKARI監督の本作への思いが実を結び、「37セカンズ」はベルリナーレでの受賞を皮切りに各国の映画祭で絶賛。現在、彼女のもとにはハリウッドからさまざまなオファーが舞い込んでいる。

「すでにいくつか走り出している作品がありますが、自分が監督・脚本をする作品では、ポジティブに生きようと思ってもらえるようなメッセージを込めたい。たくさん笑って、みんながハッピーに生きていける社会のための足掛かりになるような作品をつくっていきたいです」

そう語るHIKARI監督の笑顔は、明るいエネルギーと優しさに満ちていた。「恐れ」や「不安」のなかで立ち止まってしまいそうなとき、彼女の作品は私たちの手をぐっと引いて、一歩踏み出す勇気をくれるだろう。

37セカンズ

最終更新 Dienstag, 11 Februar 2020 02:58
 

ベートーヴェン生誕250周年記念 - 私たちが知らないベートーヴェンの素顔

ベートーヴェン生誕250周年記念 私たちが知らない
ベートーヴェンの素顔

2020年はベートーヴェンが誕生して250周年という記念年。ドイツのみならず世界中でこのベートーヴェンイヤーをお祝いしようと、すでに昨年から各地でコンサートやイベントが開催されている。この貴重な節目に、より多くの読者の方にベートーヴェンの魅力をお伝えすべく、ベートーヴェンの素顔に迫った。ベートーヴェンが作曲した9つの交響曲にちなみ、9つの逸話をご紹介するほか、影響を受けた人々の言葉を取り上げながら、ベートーヴェンがいかに神格化されてきたかを探る。(Text:編集部)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven
1770~1827

ハイドン、モーツァルトと並び、ウィーン古典派を代表する作曲家。宮廷音楽家ではなく、貴族から援助を受けてフリーランスとして活躍。聴覚を失うなどの苦難を克服し、傑作を数多く残した。その後現代に至るまで、多くの音楽家に影響を与え続けている。

ベートーヴェンの人生

*グレーの文字は世の中の動き

1770 12月16日ごろ、ボンに生まれる
1778 ケルンでコンサートデビューする
1786 ウィーンへ旅行し、モーツァルトのレッスンを受ける
1789 フランス革命が勃発する
1792 ウィーンへ移り、ハイドンの弟子になる
1794 フランス軍がボンを占領する
1796 プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンへ演奏旅行
1799 フランス新政府樹立(フランス革命の終焉)
1802 ハイリゲンシュタットの遺書を書く
1804 ナポレオンが皇帝に即位する
1805 フランス軍がウィーンを占領する
1812 「不滅の恋人」に宛てた手紙を書く
1814 ウィーン会議が開かれる
1818 難聴のため完全に筆談となる
1824 交響曲第9番が初演される
1827 3月26日、ウィーンで亡くなる

ベートーヴェンの人生を知る9つのエピソード

神童、天才音楽家、苦悩の人……ベートーヴェンにどのようなイメージを抱いているだろうか。ここでは、ベートーヴェンの素顔に迫るため、彼の人生にまつわる9つの逸話を紹介する。これまで知らなかったベートーヴェンの一面が発見できるかも?

参考:Beethoven-Haus Bonn「Beethoven für Kinder」、ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)illustrations ©Sayuri Nakamura

1スパルタで酒癖の悪い父親に
育てられた「神童」

1770年12月16日ごろ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはボンの宮廷音楽家のヨハンと宮廷料理人の娘のマリア・マグダレーナの間に生まれた。幼い頃よりスパルタな父親から音楽教育を受けていたベートーヴェンは、楽器と一緒に部屋に閉じ込められたり、夜遅くまで練習させられたこともしばしば。また、ピアノのほかにオルガン、ヴァイオリン、ヴィオラなども演奏できたという。コンサートデビューしたのは実際には7歳のときだったが、父は息子をより「神童」に見立てるため6歳と年齢を偽わり、ベートーヴェン自身もそう信じていたという逸話も。父親はパーティー好きの浪費家で、酒癖も悪かった。一方、優しかった母親はベートーヴェンが16歳のときに死去。母親の死後、家族を支えたのはベートーヴェンだった。

ベートーヴェンハウス故郷ボンの生家
Beethoven-Haus Bonn
ベートーヴェンハウス

ベートーヴェンの故郷ボンに残っている生家が、現在は博物館として公開されいてる。実際に使用していた楽器や楽譜が展示されているほか、音楽ホールも設備。生誕250周年を機に、昨年12月に新しいエリアがオープンしたばかりだ。

10:00~18:00 
※閉館日はウェブサイト要確認
入場料:9ユーロ ※各種割引あり
Bonngasse 20, 53111 Bonn
0228-98175-25
https://www.beethoven.de

2自由と平等を愛した
本の虫

ベートーヴェンは学校に行く時間がほとんどなく、子ども時代をほぼ音楽だけに捧げていた。しかし、音楽以外にもさまざまなことに興味を持ち、1789年からボン大学の哲学科の講義を受けたり、友人たちとボンの書店に通い、政治や芸術の本を読んだという。フランス革命(1789-1799)の起こったこの時代に、ベートーヴェンは自由と平等に価値を見出したといわれる。1792年にウィーンに移った後も本に囲まれた生活を送り、生涯にわたってさまざまな分野で知見を広めた。ある日の日記には「5時半から朝食までの時間はいつも勉強」と書き残している。

3隠し子の噂も?
恋多きベートーヴェン

生涯独身だったことで知られるベートーヴェンだが、実はずっと家族をもつことを夢見ており、女性関係についてはさまざまな逸話が残っている。30歳のときに恋をしたジュリエッタ・グイチャルディは、ピアノ曲「月光ソナタ(ピアノソナタ第14番)」(1801年)を捧げたことで有名だ。また最も知られている「エリーゼのために」(1810年)の「エリーゼ」は、39歳のときに婚約したテレーゼ・マルファッティではないかといわれる。そして、ベートーヴェンは「不滅の恋人(Unsterbliche Geliebte)」に宛てた手紙を書いており、その人物は一体誰なのか、ベートーヴェン最大の謎の1つである。ピアノを教えていたヨゼフィーネ・ブルンスヴィックという説が最も有力で、彼女との間には隠し子がいたという噂も……。いずれにしても、現在に至るまで真相は分かっていない。

「月光ソナタ」の譜面「月光ソナタ」の譜面

431歳、ハイリゲンシュタットで
遺書を書く

1802年、ウィーン近郊のハイリゲンシュタットに住んでいたとき、かの有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれた。ベートーヴェンが31歳のときである。すでに患っていた難聴が回復する見込みはなく、挙句の果てに最愛のジェリエッタ(前述)が別の男性と結婚したことで絶望のどん底に突き落とされ、ベートーヴェンは死を覚悟したのだった。遺書は2人の弟に宛てたもので「私の死後に読み、私の意志通り取り計らってくれ」と記されていた。しかし、ベートーヴェンは遺書をポストに投函することはなく、死後に机の引き出しの中から見つかっている。遺書には、自分の才能を十分に発揮する機会がなかったことを悔やみ、死がもう少し遅く訪れることを望んでいる旨も書かれており、結局は生き続けたいという気持ちが勝ったようだ。

ハイリゲンシュタットの遺書1802年に書かれたハイリゲンシュタットの遺書

遺書が書かれた家
Beethoven Museum
ベートーヴェン博物館

ベートーヴェン博物館

1802年に遺書を書いた家が博物館として保存されている。2017年のリニューアルオープンで展示面積が2倍以上に拡張され、さらに見応えのある展示に。ワイン産地として有名なこのエリアにある、「ベートーヴェンの散歩道」を散策するのもおすすめ。

火曜~日曜・祝日 10:00~13:00、14:00~18:00 ※閉館日はウェブサイト要確認
入場料:7ユーロ(割引5ユーロ)、19歳以下無料
Probusgasse 6, 1190 Wien
+43 (0)664 889 50 801
https://www.wienmuseum.at

5「超」が付くほどの
かんしゃく持ち?

ベートーヴェンベートーヴェンはその気難しそうな見た目からも、気性が荒く短気なことで知られている。使用人が少しでも気に入らないことをすると、怒りで本や食べ物を投げつけることもあり、しばしば使用人たちを解雇したという。そんなベートーヴェンの性格がよく分かる有名なエピソードがある。共和主義を目指したナポレオン・ボナパルトをたたえ、ベートーヴェンは交響曲を「ボナパルト」と名付けた。ところが、ナポレオンが皇帝に即位したことを知って激怒し、表紙を破り捨ててしまったのだ。それが「英雄(エロイカ)」と名前を変えた交響曲第3番(1804年)。しかしこれは作り話という説もあり、本当のところは分からない。そんなベートーヴェンだが、意外にも友だちは多かったそう。もちろん、友人たちもベートーヴェンから怒りをぶつけられることがあり、扱い方に困っていたようだ。

6引越しは34年間で
少なくとも52回

ベートーヴェンが生きた時代は、頻繁に引越すことは今日よりも一般的で、住宅は家具付きが基本だった。とはいえ、ウィーンに暮らした34年の間に、分かっているだけでも街中で24軒、夏場を過ごす郊外では29軒の家に移り住んだというのは、異常である。理由は定かではないが、ベートーヴェンは田舎や自然を愛していたため、5~10月はウィーンではなく郊外の村や小さな街に行き、毎年違う家に滞在したという。田舎の美しい風景が描かれた交響曲第6番「田園」(1808年)は、自然豊かなハイリゲンシュタットに住んでいる間に作曲された傑作だ。

ベートーヴェンの肖像画1901年に描かれた、田舎道を散歩するベートーヴェンの肖像画

7病的なほどワインと
コーヒーが好き

ドイツといえばビールだが、ベートーヴェンがよく飲んでいたのはワイン。ベートーヴェンは、ワインの酸味が強かったり甘味が少ないと酢酸鉛を入れていたそう。というのも、本物の砂糖は高価だったのだ。もちろん鉛は体に悪いため、ベートーヴェンの数々の不調はワインの飲み過ぎが原因ではないかともいわれている。また、もう1つお気に入りだった飲み物がコーヒー。こだわりの強かったベートーヴェンは、カップ1杯分のためにご丁寧に豆を60粒数え、専用のコーヒー器具を使って自分自身で入れていた。ところがあるとき、健康のためにコーヒーはドクターストップがかかってしまったという。

8基本的に
いつも不健康

ベートーヴェンが完全に耳が聞こえなくなったのがいつであるのかは分かっていない。難聴の症状が出始めたのは1801年ころといわれており、耳鳴りが絶えず、次第に楽器の音や歌声が聞こえなくなっていった。しかし、ベートーヴェンは1806年までそれを隠し通そうと必死だった。さまざまな治療や当時登場したばかりの補聴器なども試したが、回復することはなくますます悪化してしまう。交響曲第9番(1824年)を作ったときは全く耳は聞こえなかったが、初演では自身が指揮をし、大喝采を浴びたことに気づかなかったという逸話もある。また、聴覚以外にも健康に問題があり、慢性的な頭痛や腹痛、リュウマチなども患っていた。

ベートーヴェンのラッパ型補聴器ベートーヴェンのラッパ型補聴器

9葬式に
2万人が参列

1826年秋、ベートーヴェンは肺炎を患い、肝臓にも問題を抱えていた。肝臓病の原因は、ワインの飲みすぎではないかと指摘されている。やがてお腹に水腫ができ、何度か手術をして水を抜き取ったものの一時的に痛みがなくなっただけで、ベートーヴェンはどんどん衰弱していった。そして、1827年3月26日の午後、ベートーヴェンは56歳で息を引き取った。葬式はその3日後だったにもかかわらず、各人に招待状が送られ、当日は学校も閉鎖された。参列者の数は2万人に上ったといわれており、新聞でも大きく報じられたという。日の目を見ることなく一生を終える作曲家もいるが、ベートーヴェンは同じ時代を生きた人々にとっても偉大な音楽家であり、当時その死がどれほどセンセーショナルな出来事だったかが伝わってくるエピソードだ。

ベートーヴェンのデスマスクベートーヴェンのデスマスク

最終更新 Mittwoch, 15 Dezember 2021 11:16
 

ベートーヴェン生誕250周年記念 - ベートーヴェン神話をつくった人々

ベートーヴェン生誕250周年記念 私たちが知らない
ベートーヴェンの素顔

2020年はベートーヴェンが誕生して250周年という記念年。ドイツのみならず世界中でこのベートーヴェンイヤーをお祝いしようと、すでに昨年から各地でコンサートやイベントが開催されている。この貴重な節目に、より多くの読者の方にベートーヴェンの魅力をお伝えすべく、ベートーヴェンの素顔に迫った。ベートーヴェンが作曲した9つの交響曲にちなみ、9つの逸話をご紹介するほか、影響を受けた人々の言葉を取り上げながら、ベートーヴェンがいかに神格化されてきたかを探る。(Text:編集部)

ベートーヴェン神話を
つくった人々

生誕から250年経つ今なお、多大な影響力をもつベートーヴェン。難聴という絶望の淵から這い上がり、数々の名曲を生み出した「楽聖」の物語は、なぜこれほど世界中に浸透したのだろうか? ベートーヴェンを愛し、恐れ、利用し、そして翻弄された人々の言葉から、ベートーヴェン神話形成の歴史をたどる。
illustrations ©Sayuri Nakamura

ある日のベートーヴェンは、私に第1楽章の楽想を説明してみせた。「運命はこのように扉を叩くのだ」

アントン・フェリックス・シンドラー

音楽家・ベートーヴェンの秘書
Anton Felix Schindler
アントン・フェリックス・シンドラー
(1795-1864)

ベートーヴェンの秘書シンドラーが書き残したこのエピソードがもとになり、交響曲第5番は「運命」の俗称で呼ばれるようになった。しかし後に、シンドラーがベートーヴェンの会話帳の改ざんなどに手を染めていたことが発覚。今やすっかり悪者扱いのシンドラーだが、その捏造行為の根底には「ベートーヴェンを社会に向けてどうプロデュースすべきか」という使命感があったのかもしれない。
出典:Anton Schindler『Biographie von Ludwig van Beethoven』(Aschendorff)

交響曲の作曲なんかできやしない!いつも背後から巨人(ベートーヴェン)が行進してくる音を聴きながら、そんな勇気が持てるものか。

ヨハネス・ブラームス

音楽家
Johannes Brahms
ヨハネス・ブラームス
(1833-1897)

ベートーヴェンの死後、「ベートーヴェンの交響曲を受け継ぐ作品」の登場が期待されていた。しかし当時の作曲家らはこの困難に直面し、ブラームスも友人に宛てた手紙でこのような弱音を吐露。最初の交響曲の着想から完成までに、なんと21年の歳月を要した。そうして完成した交響曲第1番は、指揮者のハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)に「ベートーヴェンの交響曲第10番」と評された。
出典:Max Kalbeck『Johannes Brahms』(Severus Verlag)

ドイツ精神が人類を深い屈辱から解放するということが、今こそベートーヴェンの音楽によって証明されるだろう。彼(の音楽)は、すべての人類にとって最も純粋な言葉で我々に語りかける。

リヒャルト・ワーグナー

音楽家・思想家
Richard Wagner
リヒャルト・ワーグナー
(1813-1883)

音楽家としてだけでなく、ベートーヴェン研究も盛んに行ったワーグナーは、ベートーヴェンの生誕100周年行事(1870年)に際して論文を発表した。この論文では、普仏戦争(1870-1871)でのプロイセンの勝利はドイツ精神の勝利であり、そしてベートーヴェンの勝利である、と論を展開。ドイツ音楽とナショナリズムを結び付けたこの思想は、後にナチスによって利用されることになる。
出典:Richard Wagner「Beethoven」

彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、ベートーヴェンは我々の傍へ来る。

ロマン・ロラン

作家・平和主義者
Romain Rolland
ロマン・ロラン
(1866-1944)

ノーベル文学賞作家のロマン・ロランは、ベートーヴェンの音楽を人生の支えとしていた。彼の著書『ベートーヴェンの生涯』では、ベートーヴェンが「魂の救済者」として描かれ、ロランの理想主義的ヒューマニズムが強く投影されている。第一次世界大戦前の混沌とした欧州で反響を呼ぶが、ドイツの音楽家を賛辞したため、当時ドイツと対立していた母国フランスでは非難を受けることに。
出典:ロマン・ロラン(片山敏彦訳)『ベートーヴェンの生涯』(岩波文庫)

「交響曲第9番」とは、まるで死の境界線だ。そこを越えようとする者は、必ず死を迎える。第9番を作曲した人々は、彼岸に近づき過ぎたのだ。

アルノルト・シェーンベルク

音楽家
Arnold Schönberg
アルノルト・シェーンベルク
(1874-1951)

「交響曲第9番を作曲すると死ぬ」というジンクスをご存じだろうか? ベートーヴェンが第10番の作曲途中で死去したことに端を発する。作曲家のマーラーはこの「第九の呪い」を恐れ、9作目にはあえて番号を付けず「大地の歌」としたとされるが、次に作曲した第9番の完成翌年に亡くなった。マーラーの友人で作曲家のシェーンベルクは、マーラーとの思い出を回想してこう記している。
出典:Hans-Jürgen Schaal「Der Mythos der Neunten:Wie Schillers Verse eine Gattung veränderten」

ベートーヴェンはきわめて孤独な人間であった。しかしながら、まさに彼の作品が共同体形成の最大の力を宿している。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラ

指揮者・作曲家
Wilhelm Furtwängler
ヴィルヘルム・フルトヴェングラ
(1886-1954)

20世紀最高の指揮者の1人とされるフルトヴェングラーは、ナチス支配下でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務めた。ナチス政府はプロパガンダとして、ベートーヴェンの音楽とフルトヴェングラーの知名度を巧みに利用。ナチスを嫌い、ドイツ音楽界を守るために自らドイツに残ったフルトヴェングラーだったが、戦後はナチスへの協力を疑われて演奏禁止処分を受けたことも。
出典:中川右介『第九:ベートーヴェン最大の交響曲の神話』(幻冬舎新書)

交響曲第9番の賛歌をヨーロッパの国歌として提案したいのですが、(中略)慎重な判断が必要と考えています。この件に関しまして、ご意見をいただければ幸いです。

リヒャルト・N. "栄次郎" クーデンホーフ=カレルギー伯爵

政治活動家・国際汎ヨーロッパ連合主催者
Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi
リヒャルト・N. "栄次郎" クーデンホーフ=カレルギー伯爵
(1894-1972)

オーストリア人の父と日本人の母の間に生まれたカレルギーは、戦後の欧州連合(EU)設立に大きく貢献した人物。彼は、1949年に設立された欧州評議会に手紙(1955年)で、将来のEU国歌としてベートーヴェンの交響曲第9番の「歓喜の歌」を提案した。今日では「欧州の歌」としてEUの公式行事等で演奏されているが、昨年7月の欧州議会では英ブレグジット党員が演奏時に背を向けたことが話題に。
出典: Richard Coudenhove-Kalergi「UNION PANEUROPÉENNE」(Council of Europe)

最終更新 Montag, 20 Januar 2020 18:02
 

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