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特集


建築家ブルーノ・タウト

建築家ブルーノ・タウト

タウトが設計した日本に現存する唯一の建築物、熱海市にある旧日向別邸第2次世界大戦のさなか、ナチスドイツから亡命のようなかたちで来日し、日本文化に新しい光を当てたドイツ人建築家がいる。ブルーノ・タウトだ。今年、没後70年を迎え、その作品と思想に今また注目が集まっている。

(編集部:高橋萌)

写真:タウトが設計した日本に現存する唯一の建築物、熱海市にある旧日向別邸

ブルーノ・タウト(Bruno Taut)
1880年ケーニヒスブルク生まれ。建築家

1913年に「鉄の記念塔」、翌年に「ガラスの家」を発表し国際的評価を得る。24年以降、ベルリン住宅供給公社(GEHAG)の建築家として集合住宅の設計に携わる。30年にベルリン・シャルロッテンブルク工科大学の教授に就任するも、ナチスからの迫害を逃れるため33年に日本へ移住。高崎の少林山達磨寺洗心亭に住み日本文化に関する著作を発表する。36年トルコへ渡り、38年12月24日、イスタンブールの自宅で死去。

タウト建築を守る日本人

お茶の水女子大学名誉教授
田中辰明さん

ブルーノ・タウトの建築物を追い続けて30年以上になるという田中教授に、タウトの歩んできた道、そしてタウト建築の今後について語っていただきました。

プロフィール
田中辰明さん田中辰明(Tatsuaki Tanaka)
1940年東京都生まれ。
お茶の水女子大学名誉教授、1級建築士


株式会社大林組に入社後、早稲田大学にて工学博士取得。その間1971年にベルリン工科大学へ客員研究員として派遣され、タウトの集合住宅と出会う。以後たびたびドイツを訪問し、タウト作品を追い続けている。2006年10月ドイツ技術者協会(VDI)よりヘルマン・リーチェル栄誉メダル受賞。

ブルーノ・タウトとは

ブルーノ・タウトは「鉄のモニュメント」「ガラスの家」などを発表し、表現主義の建築家として認められます。しかしドイツが第1次世界大戦で敗戦、戦勝国から払いきれない賠償金を突きつけられます。ドイツは工業化を促進し賠償金を払うべくベルリンなど大都市に大きな工場を沢山造ります。そして地方から労働者が大都市に集まります。労働者は低賃金で働かされ、その住宅は監獄のようであったと記録されています。ブルーノ・タウトはこれではいけないと考え、ベルリンの住宅供給公社(GEHAG)の主任技師となり労働者の健康を考えた集合住宅(隣棟間隔をあけ、松や白樺を中心とした緑化を行い、芝生を植えた)を多数設計、建設しました。これらは日本の住宅公団のモデルにもなっています。

そして今年2008年7月にベルリンのタウトの作品である4つの住宅団地がユネスコの世界文化遺産に指定されました。タウトの設計した団地にはタウトの顕彰碑がよくあります。住民がタウトに感謝を示したからです。世界に有名建築家は多数いますが、タウトのように住民から敬愛された建築家は少ないでしょう。タウトは労働者の味方になり、社会主義建築家として認められます。そしてモスクワにまで行って仕事をしてしまい、台頭してきたナチス政権ににらまれ、身の危険を感じ「日本インターナショナル建築会」からの招きにより来日します。

日本人が忘れていた、日本の美しさを再発見

タウトが日本に亡命してきた当時、日本はドイツのナチス政権と組んでいた訳ですから、希望していた東京帝国大学教授など公職に付くこともできませんでした。やむなくスポンサーとなった群馬県高崎の井上工業の勧めで高崎市少林山達磨寺の「洗心亭」という粗末な小住宅に住みました。設計活動も出来なかったものですから「建築家の休日」と称し、文筆活動に力を入れます。1933年5月から離日する1936年まで毎日日記を書き、これは「日本―タウトの日記」として篠田英雄により翻訳され、岩波書店から出版されました。その他「日本美の再発見」「日本文化私観」などを著し、日本人の気づかなかった日本文化の素晴らしさを世界に紹介しました。特に当時の日本人が価値を見出していなかった桂離宮を、アテネのパルテノン神殿と並ぶ世界の2大建築物と激賞しています。

「今こそ、タウトに恩返しをする時」と言う田中教授が計画する今後のプロ ジェクトについて伺いました。

ドイツでも見直され始めたタウト作品

タウトの設計には「集合住宅だから同じ事の繰り返しで、建築家としてはたいしたことはない」と辛口の批評をする人もいます。今、やっと世界文化遺産に指定されたことで、評価されたといってよいでしょう。タウトは集合住宅の設計は多く行いましたが、独立住宅の設計は少ないのです。現在ダーレヴィッツ(Dahlewitz)に残る旧宅はタウトが大変に力を入れて設計したものです。この住宅の為に「Ein Wohnhaus」(ある住宅)という本を出版したくらいです。タウトは日本で熱海に日向別邸という別荘を設計し、これが現存しています。この居間とダーレヴィッツの住宅の居間は彩色、形態がそっくりです。タウトは日本文化を愛していましたが、在日中はユダヤ人説が流されたり、特高警察に付けられたり、失意のうちに日本を去りトルコに渡ります。そして設計活動に精を出し、過労により亡くなります。

タウトが暮らした住宅の
保存・修復プロジェクトをスタート

世界文化遺産に指定されたことで、ドイツの新聞もタウトの事を大きく報じ、有名になりました。それまではタウトの事を知らない人が多かったのです。私もタウトの集合住宅の写真撮影をし、住人から「何をしているのだ!」と叱られたことがあります。「タウトの作品だから撮影しているのだ」と答えても「タウトって何だ!」という次第で、住人ですら知らないということに驚きました。旧宅は現在、住人の個人の所有です。しかしその方も高齢化し今まで個人の出費で修理保存を行ってきましたが、旧東ドイツの年金生活者ということもあり、修理保存に困窮しています。旧宅はブランデンブルク州にありますが、州都はポツダムで公的資金はポツダムの観光資源となる城などの修復に当てられ個人所有の住宅には回ってきません。そもそもドイツ鉄道(DB)のダーレヴィッツの駅舎ですらまだ破れたガラス窓にはベニヤ板が貼り付けた状態です。今こそ日本からタウトへ、少し恩返しをしても良いのではないかと考えています。

ブルーノ・タウト自邸改修工事プロジェクトへご協力ください

ブルーノ・タウトの住んだ家を修復するためには最低500万円の工事費、そして修復を行った後の保存、管理に必要な経費を含め800万円の寄付金が必要だということです。ドイツではベルリン工科大学やタウト研究グループが協力体制にあり、現地ではチャリティーコンサートも開かれています。タウトを中心とした独日交流が広がっている、この活動に興味をお持ちになった方は下記の連絡先までお問い合わせください。

田中辰明 /  Tatsuaki Tanaka
〒167-0041 東京都杉並区善福寺3丁目16-6
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フォト・ギャラリー
ブルーノ・タウト

日本の古民家を蘇らせるドイツ人

建築デザイナー
カール・ベンクスさん

日本の伝統を守る「現代のブルーノ・タウト」とも称されるドイツ人。崩れかけた古民家でも骨組みを生かしつつ、今の時代の生活に合った家に再生しているカール・ベンクスさんの話をご紹介します。

プロフィール
カール・ベンクスカール・ベンクス(Karl Bengs)
1942年ベルリン生まれ。建築デザイナー


現在、新潟県十日町市の集落「竹所」在住。自宅(双鶴庵)である古民家の移築再生を手掛けたことをきっかけに、日本で古民家再生プロジェクトに挑む建築デザイナー。再生した古民家は30軒以上に及ぶ。2001年、新潟県「にいがた木の住まいコンクール」入賞、07年、第2回安吾賞新潟市特別賞受賞。
カールベンクス&アソシエイト有限会社 www.k-bengs.com

「日本の設計士は幸せだ。腕のいい職人がいるから」

ブルーノ・タウトの遺した言葉です。講演会ではよくタウトの言葉を引用します。タウトが褒める日本の建築物の美しさや、技術の高さは実際に自分の目で見て実感しました。本当に日本の大工さんや職人さんは良い仕事をします。

昔の日本の木造建築ではボルトを使わずに木を組んでいた、この技術の高さはすごいですよね、感動しました。日本の木造建築に魅了されて日本に渡った外国人は実は多いんです。古民家の再生をしていると古い技術を学ぶことができます。曲がった材料を使っていたり、生きている木材の変化を計算に入れて設計していたり、驚きの連続です。

タウトが、今の日本を見たらがっかりするんじゃないでしょうか。古い建物が本当に少なくなってしまっているので。

日本人は宝石を捨てて、砂利を買っている

画家をしていた父の書棚には浮世絵や日本文化について書かれた古い本があり、小さいころから日本文化を知るチャンスがありました。タウトが書いた本もその中から見つけました。つまり、不思議なことにブルーノ・タウトの影響で今、日本で仕事をしているということです。

しかし、古い家に強く惹かれていく中で、なぜ日本人は大切な文化を捨ててしまうんだろうという疑問がわいてきました。古い家をどんどん壊して、新しい家を建てている。このことに関して私はよく「日本人は宝石を捨てて、砂利を買っている」と表現します。本来、日本の木造建築は何百年も風雪に耐えられるほど頑丈に作られています。古くなっても骨組みは再利用できるので、ゴミはほとんど出ません。新しく建てられた家は見た目はきれいかもしれないけど、これからが大変ですよ。20~30年でだめになってしまうし、その後は大量のゴミが残る。

でも、これから変わっていくんじゃないでしょうか。私が賞をいただいたことからもわかるように、考え方や価値観が少しずつ変わってきているように思います。でも急がないと間に合いません。一度失ってしまったら取り返しがつかない文化です。職人が減っている、家を守る人が高齢化している、重要な文化が瀕死の危機に面しているのです。

古民家に暮らす魅力

木造建築は長持ちしない、住みにくい、地震に弱いと思われがちですが、その逆です。ちょっと曲がっても修理すれば直るし、地震のときも倒れなかった。もちろん、頑丈な家であり続けるためにはメンテナンスが必要です。

私が手がけた家には窓や屋根、ペアガラスなど部分的にドイツのものを使用しています。また、隙間風が入らないように壁を厚くしたり、屋根にも断熱材を入れたり、床暖房を付け足したりと、現代風の基礎を作って立て直しています。今の技術を利用すれば古民家も快適な住居に生まれ変わることができるのです。

私が日本に家を建てた理由は、まず、場所が気に入ったからです。そして、今にも倒れそうな民家、その中に入って立派な骨組みを見たときに、これは再生できると思ったんです。自然に囲まれた環境の中、田んぼの仕事を手伝ったりするのも楽しいし、私が思い描いていた理想の生活がここにあります。

古民家
一見、再生不可能に見えるが骨組みは立派だったという
双鶴庵
生まれ変わった古民家は「双鶴庵」と呼ばれている
内装
ドイツの様式と日本の造りが調和する内装は、
暮らしやすさを求めて出た答え

最終更新 Donnerstag, 29 August 2019 15:31
 

ドイツ国際平和村と世界ウルルン滞在記

子どもたちは希望の種 ドイツ国際平和村と世界ウルルン滞在記

子供爆弾や地雷に怯えないで生活ができること
家族が戦争に巻き込まれる心配をせずに暮らせること 

そんな人生を当然のように享受できるのは幸せなことです。

世界は、今だあまりに混沌としていて
同じ時代に生まれたのに、ただ生まれてきた国が違っただけで、
まったく違う状況に置かれてしまった子どもたちがいます。
戦争、政治不安、経済不況、そこから派生するあらゆる問題が
子どもたちにのしかかっています。

戦争が起こったとき、
一番被害に遭っているのは、常に弱者・・・・・・
生活に窮している市民であり、保護を必要とする子どもであり、
そしてまだ生まれる前の赤ん坊でさえあるのです。

今も、世界のあちこちで爆弾テロが起こり、紛争が起こり、
人と人とが殺し合いをしています。
暴力と破壊が止むことはないのでしょうか。

子供たち

しかし「平和な世界を!」、
それを途方もない夢物語だとあきらめない、
平和を願い続けることを
あきらめない人たちと出会いました。
ドイツで、または日本で、
この果てしない夢を追い続け、
平和の「種」 を蒔き続ける人たちがいます。

子どもの笑顔が溢れる世界を
子どもが夢を追い続けられる世界を築くために

(編集部:高橋萌)

ウルルン取材班に密着!

1999年以降、「世界ウルルン滞在記」はドイツ国際平和村を追い続けてきました。放送のたびに大きな感動と、問題意識を呼び起こしてきたドイツ国際平和村シリーズはなんと7回目(8月17日(日)放送終了)を迎えました。

今回のテーマは「種を蒔く」。子どもたちが母国に帰ったときに役立てられるよう、畑仕事を教えます。子どもたちが平和という花を母国に咲かせる種となるようにとの願いを込めて。

活動するのは、この人、東ちづるさん。
5年ぶり、6回目となったドイツ国際平和村への訪問を通して感じたこと、平和村への想い、また、長年続けているボランティア活動の本質などについて語っていただきました。

東ちづるさん

東ちづる プロフィール
1960年広島県生まれ。女優

女優として活躍する傍ら、骨髄バンクやあしなが育英会などのボランティア活動を続けている。ドイツ国際平和村への支援は、平和村の子どもたちの写真などの巡回展や絵本の読み聞かせ会などを全国各地で開催。平和村関連の著書に「わたしたちを忘れないでドイツ平和村より」絵本「マリアンナとパルーシャ」などがある。

知ってしまった。だから始めました

私は10年前にドイツ国際平和村(以下、平和村)を知ってしまった、という言い方がふさわしいかもしれません。そこで出会った子どもたちが置かれている状況を知り、そこから人生が変わりました。日本で暮らしていても子どもたちのことが気になって仕方がない。私にできることは、ひとりでも多くの人に現状を伝え、募金をつのること。

平和村に来ると、今の戦争がわかる

平和村に来ている子どもたちの怪我や病気の変化に驚きました。今回は特に、奇形や障害、ガンや白血病、腫瘍の子どもが増えていることにショックを受けました。どの子も、原因不明・先天性とあります。化学兵器が新しい生命に影響を与えている。ニュースでは伝わらない今の戦争を、子どもたちの体がSOSを訴えているんです。

目標は平和村がなくなること

一日も早く平和村が役割を終える日が来てほしい。いつになったらこの活動を止められるんだろうっていう想いは正直あります。でも、子どもたちが母国に帰り、戦争を否定し、平和を創る大人になる、そして、いつか平和な世界がくると信じています。

「相互感動」がもたらすボランティアの醍醐味

ボランティア活動をしていると、「エライですね」と言われることも。日本ではまだ特別なことなのかもしれません。でも、本来は自発的な行為なので、本人がやりたいからやっているというシンプルなもの。ボランティアをする側と受ける側は、お互いに救われ、癒され、育まれていく、という対等な関係です。一緒に喜び、悔しがる。この「相互感動」がホスピタリティの原点だと思います。私の大切な居場所・仲間ですね。

ディレクターの河原剛さん「子どもたちは平和の種なんだよ」
そう言って、大きな体ともっと大きな心を持ったドイツ国際平和村担当ディレクターの河原剛さんは熱い眼差しを子どもに向ける。平和村を10年追い続けたディレクターには、強い願いがある。子どもたちが、母国で繰り返される憎しみの連鎖を断ち切る役目を果たすこと。平和村では、肌の色が黒くても、白くても、生まれた場所が違っても同じごはんを食べ、一緒に遊ぶ。そういう経験をした子どもが母国に帰ることは、大きなチャンス。違う国の人、違う民族の人は敵ではないって知っている。だから、子どもは母国で、平和の種を蒔いていく使者になることができるはず、と語る。
カメラマンの小松正一さん「最初はカメラを回し続けることができなかった」
初めて平和村に来たとき、顔面にやけどを負った男の子が食堂に座っていて、その子の顔をカメラで捉えたが10秒もカメラを向けていられなかった。今では、平気になっちゃって、それはそれでおかしなことなんだよな。子どもを映し続けるカメラマンの小松正一さんは、カメラを通して子どもと向き合ってきた10年をそう振り返る。

ドイツ国際平和村とは

ドイツ国際平和村は、1967年にノルトライン=ヴェストファーレン州、オーバーハウゼン市の市民が立ち上げた人道支援団体。戦争で被害にあった国や危機的な状況にある国への支援を40年以上続けており、活動資金はそのほとんどを寄付に頼っています。

主な活動は、母国では治療が困難な怪我や病気を負った子どもたちに、ヨーロッパで治療するチャンスを提供すること。そして、紛争地域や危機的状況にある地域の自立を促すための海外プロジェクトなどです。治療のためにドイツにやってくる子どもたちの母国は、アンゴラ、アフガニスタン、グルジア、ウズベキスタンなどです。親から離れてのこの治療生活は半年~数年に及ぶことも。2007年には、1年間で合計15カ国から1186人の子どもたちを援助しました。

ヒロシマ通り
子どもたちは「ヒロシマ通り」に住んでいます
● ドイツ国際平和村
FRIEDENSDORF INTERNARIONAL

Lanterstraße 21, 46539 Dinslaken
www.friedensdorf.de

 

● 連絡先(日本語)
e-mail: このメールアドレスは、スパムロボットから保護されています。アドレスを確認するにはJavaScriptを有効にしてください
TEL: 0206-44974126

ドイツ国際平和村を支える 日本からの支援

ウルルンの放送、そして東さんの紹介で始まったという通販雑誌「通販生活」(カタログハウス)での連載をきっかけに、平和村の存在は多くの日本人に知られるようになりました。日本からの募金は現在、全体の25~30%を占め、日本から来たボランティアはこれまでに合計130人を超えたそうです。今も常時15人前後の日本人が子どもの世話、キッチン、リハビリセンターなどの部署で働いています。

くりかぼちゃでパーティー
畑に「くりかぼちゃ」の種を蒔いて、その後くりかぼちゃのパンケーキをみんなで食べました。子どもたちも日本人ボランティア、取材班のスタッフもみんな大満足!!

マリオン・モイリッヒさん

それは、いつ果たせるかわからない夢物語のような話だけれど、 平和村のスタッフは本気でその夢を目標としている。

当初、「ウルルンで平和村」の企画はボツに

マリオン・モイリッヒさん私が初めてドイツ国際平和村を知ったのは、かれこれ15年前になります。その時はNHKのボランティアをテーマにしたドキュメンタリーでした。その後、世界ウルルン滞在記という番組が、平和村を取り上げるのにぴったりの番組だと考えて、提案させていただいたんです。でも、戦争の話だし、子どもたちの傷跡は生々しく、エンターテイメント番組としてはテーマが重すぎると反対にあいました。でも、ディレクターの河原さんが説得を続け、ようやくGOサインがでました。

東ちづるさんを指名してのスタート

GOサインが出たときの条件は、東ちづるさんをリポーターにするというものでした。ウルルンでは、若手のタレントが多く出演しているのですが、平和村をテーマに扱うのなら、ボランティア経験も豊富な東さんが適任と、この企画のスタートと同時に決まっていました。

日本からの支援の波がドイツへ

ウルルンで平和村を取り上げたことは、結果的に大成功でした。視聴率はウルルン史上初、20%を超え、寄付金もたくさん集まりました。それだけではありません。日本からの支援の勢いがドイツの企業を動かすなど、大きな相乗効果があったんです。今の平和村があるのは、ウルルンでの放送と、それに突き動かされた日本の方々の頑張りのおかげだと思います。

現地に行って見てきたもの

私は、アンゴラとアフガニスタン、そしてグルジアでの取材に同行し、子どもたちの母国を見てきました。忘れられないのは10年以上前、まだ平和条約締結前のアンゴラの病院での風景。衛生状態は劣悪、救急車にはタイヤがない、レントゲンにはフィルムがないといった感じで病院としての機能を果たしていない。そこに、畑仕事の最中に地雷を踏み、両足を失くした女の子が血まみれで運ばれてきました。果たして麻酔なしでの手術が始まり……その時の女の子の叫び声は本当に悲痛なものでした。

またアフガニスタンでは、ひげを生やし、民族衣装を着て堂々と振舞っているアフガニスタン男性が、治療を終えて帰国した我が子との再会の時、子どもをきつく抱きしめてわんわん泣いている光景に出会い、胸が締め付けられました。この瞬間を見た時、ドイツ国際平和村があって本当に良かったと思いました。

中岡麻記さん「ドイツ国際平和村の願い、
それはいつの日か 平和村が必要なくなること」

ドイツ国際平和村職員の中岡麻記さんは、2000年に第3回放送のためカメラを回していたウルルン取材班と、ボランティアの一員として出会った。しかし、その後ウルルン効果で多数の問い合わせがドイツ国際平和村に殺到した時、ドイツ人の中に対応できる職員がいなかったため、日本に特化した部署を新設、当時ほかに2人いたボランティアとともに常勤の職員として雇われることに。ここにもまた、ウルルンと平和村によって人生が変わってしまった人がいる。
平和村の存在には、その活動自体の必要性のほかにムーブメントを起こす役割もあると中岡さんは考えている。ここにいる子どもや他の海外プロジェクトを通して見えてくる現実に、より多くの人が関心をもつこと。そして、自分にできることからやろうと思えたなら、世界は少しずつ良い方向に変わっていくんじゃないか。小さな平和が大きな平和を作っていくんじゃないかと話す。
平和村の目指すところは、世界が平和村の存在を必要としない状態になること。これは、戦争がなくなることだけではなく、平和村の援助を必要とする子どもがいなくなること。すべての人が、生きていくために必要な最低限の公正さと健康を享受できる世界になること。それは、いつ果たせるかわからない夢物語のような話だけれど、平和村のスタッフは本気でその夢を目標として掲げている。

私たちに何ができるだろう

テレビで見た。ニュースで報道していたから知っている。
歴史の授業で勉強したから知っている。
そんな風に思っていたけれど。
それは大きな勘違いだったと気づかされた。
知っていたのは、そういう出来事があったということだけ。
その現場で実際に苦しんでいる人の声は聞こえてこない。
その現場の痛みは感じられない。

ここにいる子どもたちは戦場を知っている子どもたち。
平和とは何か、学び始めたばかりの子どもたち。

子どもたちの目は想像を絶する悲惨な光景にさらされてきた。
それにもかかわらず、子どもたちは普段、
本当に澄んだ輝きをもった目をしている。
しかし、一旦話が母国での生活、家族のことに向かうと、
その瞳に影が落ちる。

ドイツ国際平和村、
そこはドイツで一番戦場に近い場所かもしれない。
それと同時に、平和への希望と願いが息づく場所でもある。

まずは、世界に溢れる問題に目を向けるところから始めよう。
そして、自分のやれる範囲で行動を起こしてみよう。

そんな風に考える機会をくれたドイツ国際平和村と
世界ウルルン滞在記に感謝します。

イベント情報

DORFFEST in FRIEDENSDORF INTERNATIONAL
9月13日(土)10:00~18:00

ドイツ国際平和村では年に数回、施設を一般公開しています。ドルフフェストは中でも一番大きなお祭り。フリーマーケットや食べ物の屋台が立ち並ぶほか、今や平和村のイベントでは恒例となっている「ふるさと2000」による盆踊りの披露や、日本人メゾソプラノ歌手とコーラス隊によるコンサート、日本人漫画家 「プリン&海こんぶ」の2人によるマンガ・ワークショップも予定されており、子どもたちと一緒に丸一日楽しめるプログラムとなっています。

この日は12:00から日本語での施設案内、活動紹介も予定されているため、ドイツ国際平和村をもっと知りたいという人は是非参加してみては。

 寄付金口座

● ドイツ国内から
Stadtsparkasse Oberhausen 102400 (BLZ 365 500 00)
IBAN: DE59 3655 0000 0000 1024 00 / SWIFT-BIC: WELADED1OBH
Postbank Essen 1218-434 (BLZ 360 100 43)
IBAN: DE12 3601 0043 0001 2184 34 / SWIFT-BIC: PBNKDEFF

● 日本から
三菱東京UFJ 銀行 本店 普通口座
口座番号:0152887
口座名:ドイツ平和村
または AktionFriedensdorf e.V
最終更新 Donnerstag, 29 August 2019 15:53
 

野外イベントで夏を盛り上げよう!

野外イベントで夏を盛り上げよう!

皆さん、夏を満喫していますか~?!
休暇中というあなたも、これから休暇に入るというあなたも、ドイツの短い夏を存分に謳歌しましょう。もちろん、長い休暇を利用して熱い太陽が照りつける南の国を旅行するのも素敵だけれど、ドイツにだって夏ならではのイベントが目白押しです。
今回の特集では4つのタイプ別に、オススメの野外イベントをご紹介します。まずは、下の「オススメの夏の過ごし方診断」にチャレンジ!!自分に合った夏の楽しみ方を探してみて!!
(編集部:高橋萌)

オススメの夏の過ごし方診断

Aタイプ夕日に目を細めながら、
ビーチ・クラブで「乾杯!」タイプ

ドイツの北部は、北海とバルト海に面している。とはいえ、ドイツの大部分の人にとって海は遠い異国の話。だけど、夏にはやはり、こんがり焼けた肌と白い砂浜がよく似合う。

Sky Beach
シュトゥットガルトとケルンにあるスカイ・ビーチは街の中心部から近く、気軽に海辺の気分を味わえる。夜はムード満点の音楽が雰囲気を盛り上げる。
場所:Sky Beach Köln / Königstr. 6, 70173 Stuttgart
www.skybeach.de

ビーチHamburg del mar
子どもと一緒に楽しめるビーチ・クラブ。3.300㎡の広さを誇り、200ものデッキチェアが並ぶ。美味しい料理をいただきながら、極上のひと時を。
場所:Van-der-Smissen-Str. 4 Hamburg
www.hamburg-del-mar.de

Bundespressestrand
ベルリンの新しい中央駅と官庁街のちょうど真中に位置するビーチ・クラブ。ここでは、ビーチバレーボール大会やフラフープ大会などのイベントが開かれるほか、結婚式を挙げるカップルもいる。
場所:Kapelleßufer 1, Berlin
www.derbundespressestrand.de

Bタイプ野外スクリーンで映画鑑賞
星空をバックに映画を満喫タイプ

広場や街角に巨大スクリーンが出現。日が沈むのをビール片手にのんびり待って、星空の下で話題の映画を鑑賞すれば、夏の夜はさぞかし心地よく更けていくことでしょう。

Open-Air-Kino im Schanzenpark
上映中~8月31日(日)

芝生が広がる公園で上映される。いま話題の映画からアニメのヒット作、地元ハンブルク色の強い映画まで、多彩な映画が楽しめる。
チケット:7ユーロ(割引6ユーロ)
場所:Im Sternschanzenpark, 20357 Hamburg
www.hamburg.de

Kino am Pool 2008
7月30日(水)~8月22日(金)

仕事の後プールで泳ぎ、美味しい食事をいただく。そして最後は映画鑑賞で締めくくる。そんなステキな一夜を過ごせるのが、この企画「プールで映画」。雨天中止のため、チケット販売は20:30以降となっていて、前売り券は販売していない。
芝生席:6ユーロ
デッキチェア:8ユーロ
場所:Traubestr.3, 80805 München
www.kinoampool.de

FREILUFTKINO FRIEDRICHSHAIN
上映中~9月21日(日)

快適なベンチ型の座席にゆったり座って鑑賞するも良し。テーブル席に腰を掛け、食べながら鑑賞するも良し。
チケット:6ユーロ
場所:Platz der Vereinten Nationen 1, 10249 Berlin
www.freiluftkino-berlin.de

Frankenheim Kino
上映中~8月24日(日)

ライン川沿いに巨大スクリーンが登場。デュッセルドルフの地ビール、アルトビアを飲みながら最新作をチェック。ビジネスシートでは、高級レストランの料理を堪能できる。
チケット:12ユーロ(前売り10ユーロ)、
65ユーロ(ビジネスシート)
場所:An der Düsseldorfer Rheinterrasse
www.frankenheimkino.de

Cタイプ自然の音響に包まれて、
野外コンサートにうっとりタイプ

夏休みシーズンは、コンサートホールも劇場もお休み。だからこそ、野外劇場でクラシック音楽や演劇を楽しむチャンス。虫や風の音、太陽の光など、自然の演出を感じられるのも野外劇場ならではの醍醐味。

Open Air Klassik Sommer in der Kulturbrauerei
8月20日(水)~24日(日)

オーケストラの奏でる壮大で優雅な音楽が夏の空に吸い込まれ、花火がそこにさらなる彩りを添える。ベルリン交響楽団をはじめ、ドイツ屈指のオーケストラによる演奏を聴くことができる。
チケット:23ユーロ~28ユーロ
場所:Schönhauser Allee 36, 10435 Berlin
電話:030-44315151
www.klassik-open-air.de

Open Air Klassik 2008 auf der Burg Monschau
8月1日(金)~10日(日)

古城を舞台に、蝶々婦人など人気のオペラを観劇できる。子ども用に白雪姫も上演。オペラバージョンで楽しむことができる。
チケット:36ユーロ~72ユーロ
場所:Auf der Burg Monschau
電話:02472-804828
www.monschau-klassik.de

THEATERFESTIVAL BAROCK AM MAIN
7月30日(水)~8月31日(日)

バロック音楽とともに、人生の悲喜こもごもを演じる。舞台となるのは宮庭。まさに中世にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるだろう。
チケット:22~25ユーロ
場所:Bolongarogarten Frankfurt am Main
電話:069-33999933
www.barock-am-main.de

Dタイプ野外ライブで
ノリノリタイプ

ロック、パンク、レゲエにテクノと、様々なジャンルの野外フェスティバルが8月に集中している。目当てのアーティストが参加する日を狙って行ってもいいが、他のオーディエンスとの交流も楽しみの一つ。キャンプ道具を持ち込み、泊りがけでどっぷり音楽に浸かってみては。

Area4 FestivalAREA4 FESTIVAL 2008
8月29日(金)~31日(日)

新しいアルバムを出したばか りのDie Ärzteほか、人気の ロックバンドが多数参加する。ロック好きなら、車にテントを積んで行く価値あり。
チケット:89ユーロ(3日間有効)
場所:Flugplatz Borkenberge, Leversum 86, 59348 Lüdinghausen
電話:01805-853653
www.area4.de

CHIEMSEE REGGAE SUMMER
8月22日(金)~24日(日)

40以上ものバンドが参加するレゲエのビッグイベント。夏らしいホットなサウンド、ラテンのリズムに体をゆだねよう。今回の注目アーティストはサッカー欧州選手権のテーマソングも歌っていたShaggy。
チケット:79ユーロ(3日間有効)、49ユーロ(1日券)
場所:Chiemsee, 83236 Übersee
電話:08621-646464
www.chiemsee-reggae.de

Summer Spirit Festival 2008
8月29日(金)~31日(日)

記念すべき10回目を迎えたサマー・スピリット・フェスティバル。毎年、世界各国から名だたるDJが参加しているが、今年も期待を裏切らない豪華なメンバーがフェスティバルを盛り上げる。
チケット:47ユーロ(2日間有効)、37ユーロ(1日券)
場所:Ehemaliger Militärflugplatz, 14913 Niedergörsdorf
www.summer-spirit.de

野外イベントを楽しむための必需品

基本編

  • 帽子・サングラス
  • 日焼け止めクリーム
  • タオル
  • ティッシュペーパー/ウェットティッシュ
  • レジャーシート
  • 虫除けスプレー
  • ドイツニュースダイジェスト (1冊持っていれば、話のネタになるし、 うちわのように扇ぐこともできる。)

お泊まり編

  • テント
  • 寝袋・シュラフ
  • 銀マット
  • カギ(防犯用として、一応)
  • 防水スプレー
  • 軍手
  • 新聞紙(テントの下に敷くとよし)
  • 折りたたみ椅子
  • コップ
  • ゴミ袋
  • レインコート、防寒着
  • 長靴
  • 懐中電灯

女子は何かと荷物が多いんです編

  • メイク落としシート
  • 洗顔料
  • 生理用品
  • 基礎化粧品
  • メイクアップ用品
  • リップクリーム
  • 日焼け止め(汗に強いタイプ)
  • 薄手のストール (防寒にも日よけにもなる)
最終更新 Donnerstag, 29 August 2019 16:48
 

ドルトムントで踊りまくろう!LOVEPARADE 2008

ドルトムントで踊りまくろう!LOVEPARADE2008

世界一の規模を誇る熱~いレイブ、世界中から人が集まり、来場者数は100万人以上にも膨れ上るという。7月19日はドルトムントの町全体がテクノのビートに包まれて一大パーティー会場に!さぁ、老いも若きも、じりじり燃える太陽の下、Love&Peaceの精神を胸に踊りあかそう!!
(編集部:高橋萌) Love Parade

7月19日(土)14:00~24:00
場所:Bundesstraße 1 / Westfalenhallen
www.loveparade.com

1989年にベルリンで始まったラブパレード、2007~11年の5年間はMetropole Ruhrが舞台に選ばれ、昨年はエッセン、今年はドルトムントと、毎年ロケーションを変えながら展開していく。
(写真:昨年120万人を迎えたエッセンでのラブパレードの様子)

Highway To Love!

今年のモットーは「Highway To Love」。まさに前代未聞、都市機能の心臓部であるハイウェイを通行止めにして、フロートが進み、パフォーマンスが繰り広げられる。終着地はWestfalenhallenに設置された野外ステージだ。インターナショナルなカリスマDJたちによるライブが夜中まで続く。ちなみに、フロート(Float)とは、パレード用の車のこと。大音量のスピーカー、DJとダンサーを乗せて町を走行する。企業やクラブ、自治体がフロートを提供、今回参加するフロートは15カ国から40台と、過去最多の数字だ。

MUSIK

レイブ(RAVE)とはもともと、電子音で奏でるテクノで踊る野外イベントのことをいう。ラブパレードでは、ひと言テクノといっても、トランス、ハウス、ミニマルテクノ、ドラムンベースなどジャンルは様々。その他、最近のヒットチャートを賑わせたダンスミュージックを取り入れるフロートもあり、音楽の幅は年々広がっている。

DJ

参加が決定しているのはUnderworld、Märtini Brös、Dubfire、Audion、Westbam、Paul van Dyk、Armin van Buuren、Ritchie Hawtin、 Carl Craig、DJ Hell、M.A.N.D.Y. 、Anja Schneider、Mobyほか、超一流のDJばかり。 250人以上のDJがイベントの音楽を支える。

Love-Weekend

7月17日(木)~20日(日)

ラブパレードが開かれる週は、木曜日から日曜日まで市内各地のクラブなどで関連イベントが行われる。

イベントの場所や時間など、詳細は下記URLを参照してください。
http://www.loveparade.dortmund.de

マップ

Love Parade

注意!

存分に楽しむために、ちょっと気をつけて

世界各地から相当な人数が集まるイベント、そして身も心も音楽に委ねてしまえるイベントだからこそ、自らの身を守る心構えが必要だ。また、ラブパレードが過去3年間に渡って中止されていたという事実、この背景にはゴミ問題や参加者のモラルに関わる問題があったことを忘れてはいけない。今後もラブパレードが世界一盛り上がるイベントであり続けるために、最低限これだけは守ろう!! そして気持ちよくイベントに参加しよう!

1. ドラッグは買わない・売らない・使用しない
ドラッグは音楽との相性が良いとされ、「エクスタシー」などが広まった時代もある。しかし、決して手を出さないように。ドラッグの代償は時にあまりにも高く、自分の命ということにもなりかねない。

2. ガラス瓶を路上に叩きつけて割らない
会場周辺の屋台で売られている飲み物の容器は全て、リサイクル可能なプラスチック容器に入っている。また、アルコール飲料のアルコール分は5%以下に規制されている。

3. 電柱や木、看板によじ登ってはいけません!
毎年、看板などの上で踊り狂う参加者が後を絶たないというラブパレード。公共物を破損したり、怪我に発展する危険行為なので絶対X。気持ちが高ぶったからといって高いところを目指してはいけません。地に足をつけてイベントを楽しみましょう。

4. 体調が悪いときは「ラブ・ガード隊」に助けてもらおう
ラブパレードでは、ラブ・ガード隊がイベントの安全を守っている。彼らは参加者の健康と衛生を守るため、救急セットを装備し、コンドームを配りながら会場内で活動している。

5. スリに注意
人が集まるところに行くときの鉄則。イベントを最後まで楽しむために、スリにはくれぐれも注意が必要。

ラブパレードの精神

いったい、そもそも何でこんな巨大イベントが行われることになったのか。その背景には音楽が持つ強いメッセージ性と影響力がある。

第1回目のラブパレードは、1989年ベルリンでDr.Motteが開催。参加者150人という小規模なテクノパーティーの様相で、平和を求める政治的なデモ活動としての色彩が強かった。しかしその後、参加者は劇的に増え続け、100万人規模のパーティに発展する。

人々を惹きつけたこのイベントの軸には常に、愛とリスペクト、寛容と連帯の精神があり、これらの思想から、1960年代にアメリカで広がったヒッピー・カルチャーの再来と呼ばれたこともあった。

もちろん、今では商業的なイベントの一つになっていることは否めないけれども、愛と平和のイベントという根底にある哲学が消えることはない。音楽を通じて、国境も世代の壁も全てを超えて一緒に踊る行為に、人は意味を見出す。

その証に、同じ名前を冠したイベントがイギリスやメキシコ、オーストリア、イスラエルなどでも開催されている。ラブパレード、歌詞を持たないダンスミュージックのイベントが架け橋となって人と人とを繋ぐ世界がここにある。

最終更新 Donnerstag, 29 August 2019 16:09
 

ドイツ亡命文学の逸品を読もう

ドイツ亡命文学の逸品を読もう

ゲーテやグリム兄弟、ヘッセやノーベル賞作家のギュンター・グラスなど、世界的に有名なドイツ文学者は多い。これをオーストリア、スイスのドイツ語圏、あるいは昔のオーストリア・ハンガリー帝国にまで押し広めれば、ムージルやブロッホ、「ハイジ」の著者シュピーリ、リルケといった文学史上欠くことができない作家がずらりと並ぶ。しかしドイツ文学の中には、ナチス政権という体制に抗い、アメリカやフランスなどに亡命を果たし、彼の地で活躍した作家たちもまた少なくない。ドイツ語圏の外に出たドイツ文学。世界に流通するWeltliteratur(世界文学)。そんな 歴史の濁流の中で現れた作家たちの作品に触れてみよう。

( Texte by Masato Enya )

どうしてドイツの外に?

ドイツを後にして外国へ向かった作家たちの中には、もちろん未知の国への芸術的・文学的憧れからこの国を離れた者もいる。しかし、どうしてもドイツの亡命作家・知識人とナチス政権を切り離して考えることは出来ない。

世界恐慌による社会不安が渦巻く1930年代、ナチスは民衆を惹きつけ33年に一党独裁を確立。34年には総統に就任したヒトラーの下、いわゆるドイツ第三帝国が成立した。圧倒的な力を持ったナチスは、その人種論に基づきユダヤ人迫害を行い、その結果として多くのユダヤ系知識人や自由主義者が亡命を余儀なくされることになった。こうしてアインシュタインや作家ハインリヒ・マンはアメリカへ向かい、また哲学者ベンヤミンはパリへと向かうことになるのであった。美貌の女優マレーネ・ディートリッヒがアメリカへと移り住んだのも、ヒトラーからのナチス協力の要請を断ったことがその背景にある。

中央・東ヨーロッパへのナチスの勢力拡大は、ドイツのみならずオーストリアやポーランド、チェコスロバキアなどからも亡命者を生むことになり、またその後のソ連軍による「解放」は、パリのセーヌ川に身を投げた詩人パウル・ツェランのような新たな亡命者を誕生させることにもなった。こうして、ドイツ文学の偉大な作品が国を離れた亡命作家の手によってドイツ語で書かれるという一時代が、歴史の巨大な力によって生み出されたのである。

魔の山
魔の山(上)(下)巻 
(岩波文庫)

生きることとは何かを問う
ノーベル賞受賞作家

トーマス・マン
(Thomas Mann 1875-1955)

1929年、「ブッデンブロークの人びと(Buddenbrooks - Verfall einer Familie)」を主な対象としてノーベル賞を受賞したマンは、間違いなく20世紀のドイツ文学を代表する一人だ。第1次大戦中、帝政ドイツを支持していた彼は、後に民主主義擁護の立場を取り始め、 ヒトラーが政権を取った33年、講演旅行に発ったその足で亡命を果たした。スイスに逃れた後アメリカへ渡り、44年にはアメリカの市民権を獲得している。

マンといえば、ルキノ・ヴィスコンティ監督が71年に映画化した 名作「ベニスに死す(Der Tod in Venedig)」の原作家。ベネチアで出会った少年に理想の美を見出し、その少年を捜し求めて街をさまよう老年の作家の物語を映像化したヴィスコンティの作品にのめり込んだ人も、あるいはまたスクリーンに現れた美少年ビョルン・アンドレセンや渋いダーク・ボガード、イタリア美女のシルヴァーナ・マンガーノに惚れ込んだ人も少なくないのでは?

マンの代表作に、ここでは24年に出版された「魔の山( Der Zauberberg)」を挙げておこう。スイスのサナトリウムを舞台に、人々の生き方を深い考察に基づいて描いた長編小説で、主人公は結核を患ったハンス・カストルプ。病は人間を尊厳から遠ざけるものか、それとも人間とはそもそも病気であるのか。生と死を巡る考え方が議論を生み続ける。そうした中、病気を理由に療養地で惰眠のような生活を送るハンスに戦争という現実が突きつけられる。マンが実際に生きていた時代を背景に人間の生き方に迫ったこの作品、未読なら手にとって読んでみても悪くないだろう。

肝っ玉おっ母とその子どもたち
肝っ玉おっ母とその子どもたち (岩波文庫)

重いテーマに苦いユーモアで
迫った劇作家

ベルトルト・ブレヒト
(Bertolt Brecht 1898-1956)

ブレヒトといえば、作曲家クルト・ワイルが音楽を担当した劇「三文オペラ(Die Dreigroschenoper)」がとりわけ有名だろう。ジャズや古典オペラの技法を取り入れた音楽と辛辣な社会風刺で作られたこの音楽劇は、1928年の初演から1年間のロングランを果たし、今でも世界中で上演され続けている作品だ。

彼が反ヒトラーの立場からドイツを去りデンマークへと向かったのは、他の多くの亡命者と同じく33年。その後スウェーデンなどに移り住みながら、41年にはアメリカのカリフォルニアに移住を果たす。ちなみに、この亡命中に大部分を執筆していたにもかかわらず、彼の死後にしか刊行されなかった「亡命者の対話(Flu.. chtlingsgespra..che)」は、ファシズムが吹き荒れる世界をユーモラスで軽妙な対話を通して描いた傑作でお薦めだ。

アメリカでは、ウィーン生まれのユダヤ人映画監督フリッツ・ラングとの出会いがあった。「メトロポリス」や「M」で有名なこの監督も、ナチス政権下から逃げるようにアメリカに亡命を果たしていた一人だ。こうしてドイツ語圏の劇作家と映画監督とがアメリカで巡り会い、映画「死刑執行人もまた死す」が作られたのである。

彼の代表作の一つである「肝っ玉おっ母とその子どもたち(Mutter Courage und ihre Kinder)」も良作だ。30年戦争中のドイツとポーランドを背景に、3人の子供を引き連れ、幌車を引き、日用品や食料を売り歩く肝っ玉おっ母を主人公にした物語。子どもをも奪い、人々に重く圧し掛かる戦争と、その中で肝を据えて生きていかねばならない庶民の底力を描いたこの作品は、舞台で上演されることもある。観劇に足を運ぶのも良いだろう。

ドイツ、冬物語 (岩波文庫/ 現在絶版)
ドイツ、冬物語(岩波文庫/ 現在絶版)

自由思想のフランスに
憧れた詩人

ハインリッヒ・ハイネ
(Heinrich Heine 1797-1856)

デュッセルドルフ市庁舎近くには、詩人ハイネの家があった。ハイネの詩を基に、ドイツの民謡作曲家フリードリヒ・ジルヒャーがメロディーをつけた「ローレライ」は、ライン河畔の岩上に立ち、美しい歌声で船乗りを死に誘う妖精の伝説を歌った名作。作曲家シューベルトやシューマンが曲をつけたことでも有名な詩集「歌の本(Buch der Lieder)」(1827)を紡ぎ出したことでも知られている、この叙情的な詩人もドイツを後にした一人だ。

彼の作品は、後にナチス政権下で焚書(ふんしょ)の扱いを受けることになるが、19世紀の詩人である彼のパリへの移住にヒトラーは関係ない。

彼を異国の地へと突き動かしたのは、ドイツの専制制度への批判とナポレオンへの傾倒、フランス革命の民主主義思想など、より自由な政治的・文学的な場を求める魂であった。実はこの未来の大詩人がまだ少年だった頃、デュッセルドルフの街はフランス革命軍の駐留地で、この環境が後の自由思想の土台を築いたのだ。

1831年、新聞社の特派員としてパリに移り住んだ彼は、息を引き取るまで生涯をその地で過ごすことになった。そこでは、フランスの作曲家ベルリオーズやポーランドからパリに移り住んでいたショパン、作家のバルザックやジョルジュ・サンドと親しく付き合うことになる。晩年は脊髄の病を患い、寝たままでの創作を続けることになるが、その中には長編詩「ドイツ、冬物語(Deutschland. Ein Winterma.. rchen)」もあった。その詩の中には、亡命先から祖国への望郷の念をつづったものも含まれている。フランスの自由思想に憧れて国境を越えたハイネは、博愛の精神を持ちつつも、ドイツへの愛を失っていたわけではない。

bベンヤミン・コレクション
ベンヤミン・コレクション! 近代の意味(ちくま学芸文庫)
「パリ19世紀の首都」や 「複製技術自体の芸術」 などが収められている

20世紀最大の
哲学者のひとり

ヴァルター・ベンヤミン
(Walter Benjamin 1892-1940)

ナチス政権の成立によって亡命したユダヤ系知識人の代表の一人とも言えるベンヤミン。ベルリン大学や、スイス・ベルン大学で学び、フランクフルト学派の社会研究所で研究員として研究活動を行ったこともある。亡命以前にはベルトルト・ブレヒトと出会い、彼の作品を高く評価して分析している。ドイツロマン主義やゲーテといったテーマは、一見するとドイツ文学論を書いているようにも思えるが、ベンヤミンの射程はドイツのみに留まらない。彼は、近代資本主義社会を深く分析している。例えば、写真や映画といった技術の発展によって生産可能になった芸術を論じた「複製技術時代の芸術(Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit)」は、間違いなく芸術作品の見方に新しい視点 を呼び起こしてくれるだろう。

その彼が亡命先に選んだのは、ドイツを離れた2年後の1935年に「19世紀の首都(Paris, die Hauptstadt des XIX Jahrhunderts)」と彼が呼ぶことになるパリである。ベンヤミンを語る上でパリは切り離せない。その顕著な例が、彼の代表作「パサージュ論」であろう。パリには現在でもパサージュと呼ばれるガラス屋根で覆われたアーケードの商店街が残っているが、ベンヤミンはこの「家屋でもあり街路でもある」場所に引きつけられ、未完に終わった「パサージュ論」という膨大な草稿の束を終生書き連ねていく。そこでは、ショーウインドーに飾られた商品や鉄骨建築、万博博覧会や娼婦を通して、商品社会が隆盛を極めるパリが哲学者の目によって描き出されている。

彼の人生の幕切れは、あまりにも悲しく不幸だ。40年、大戦勃発後のドイツ軍のパリ侵攻の際に、アメリカへ亡命を図ったが失敗。スペインに入ろうとするが、それも失敗に終わり、フランス国境に近い町で服毒自殺によってその生涯を閉じたのである。

パリに残るハイネ、ベンヤミンの面影

ハイネ霊廟ハイネ霊廟
ハイネはパリの北に位置するモンマルトルの墓地に眠っている。
ハイネ臨終の地ハイネ最後の家
シャンゼリゼ大通りのすぐ近く、マティニョン通り3番地にあるハイネ臨終の地。
ハイネプレートハイネプレート
ハイネ臨終の地に掲げられたプレート。「詩人アンリ・エーヌ(Henri Heine・ハイネのフランス語名)1797年デュッセルドルフに生まれ、1856年2月17日ここに死す」と書かれている。
パサージュパサージュ
ベンヤミンが語ったパサージュ。パリには今もパサージュが20カ所ほど残る。写真はその一つで、パサージュ・ジュフロワ。

ドイツ人ではないけれど、ドイツ語で執筆してドイツ文学の一翼を担いつつ、その境界を越えていく作家たちがいる。
そんな作家の作品も読んでみよう。

エクソフォニー (岩波書店)
エクソフォニー
(岩波書店)

多言語の中で書く
日本・ドイツ語作家

多和田 葉子
(Yoko Tawada 1960-)

多和田葉子がドイツ文学の作家なのか、それとも日本文学の作家なのかと問うこと自体、ナンセンスなことかもしれない。1982年からハンブルクに住み、ドイツ語と日本語の2カ国語で執筆を行う彼女の視点は、ドイツ・日本という国の境界を越えていくというより、二つの境界線上に留まることに向けられているからだ。彼女が受賞した文学賞を見ても、その二重性がわかる。例えば93年には「犬婿入り」で芥川賞を受賞しているし、96年にはドイツ語での文学活動に対して、バイエルン州芸術アカデミーからシャミソー賞を与えられているのだ。

代表作の一つ「犬婿入り」は、町の学習塾で教師をする主人公の元へ、突如、犬男の「太郎さん」が押しかけてくる物語。独特のリズムで語られるストーリーは、奇想天外で読者を引き込む。単行本に同時収録されている「ペルソナ」はドイツに留学している姉弟の道子と和男を主人公に、人種や文化、言語の問題を横たえつつ、深い問題にまで切り込んでいく物語に仕上がっている。二作品合わせて彼女の作品の幅の広さと、その文体を楽しむことが出来るだろう。

彼女のエッセイ「エクソフォニー 母語の外に出る旅」はベルリンやパリ、モスクワ、北京と街の名を冠した章が並ぶ第1章と、ドイツ語の表現にまつわるエッセイの第2章から成り、言葉に興味がある人はもちろん、そうでなくとも読んで面白い一冊だ。言葉に対して内・外の両面からアプローチをかけ、そこから日本や現代社会、歴史、文化をめぐる彼女の思考が軽やかに語られる。もし、旅というものが異文化に触れ、自己や他者を見つめ直す機会であるとすれば、この本を通して読者は文字通り「旅」をすることになるだろう。

カフカ 審判
審判 (白水uブックス)

プラハのユダヤ人
ドイツ語作家

フランツ・カフカ
(Franz Kafka 1883-1924)

時にドイツの作家と思われるカフカだが、彼はオーストリア・ハンガリー帝国治下のプラハ生まれだ。労働災害保険局に勤務しながら執筆を行うという二重生活を送っていた彼は、生涯の大半をその街で過ごした。かつて錬金術師たちが住んだという黄金小路のカフカのアトリエは、今ではプラハの観光名所になっている。

20世紀の最も重要な作家の一人に数えられるカフカ。その作品には不安や孤独、不気味さが漂う、いわゆる「カフカ的」世界が繰り広げられる。例えば、「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目を覚ますと、ベッドの中で一匹の巨大な虫に変身していた」という「変身(Die Verwandlung)」はあまりにも有名。

カフカはいくつかの短編を除き、全ての作品を燃やすように遺言を残してこの世を去ったが、託された友人マックス・ブロートはその約束を違えた。その行為が友人への裏切り行為となるかどうかは別の問題として、カフカの作品や書簡は残り、我々が読めるところとなっている。

そんな彼の数ある作品の中から長編「審判(Der Prozess)」を紹介しよう。ヨーゼフ・Kはある朝、突然逮捕される。だが、身柄が拘束されるわけでもなく、今までと同じように生活を送ることが出来る。裁判所から呼び出しを受けても、その裁判所へはなかなかたどり着くことが出来ない。自分の罪状もわからず、弁護も虚しく意味をなさない。

多くの芸術家に影響を与えたこの不思議な小説の面白さは、実際に読んで実感してほしい。この作品はアメリカのオーソン・ウェルズ監督が映画化したことでも有名。また劇作家ハロルド・ピンターが脚本を担当し、「ツインピークス」のカイル・マクラクランや「羊たちの沈黙」のアンソニー・ホプキンスが出演した映画「トライアル」が、この作品を元にしていることも付け加えておこう。

カフカを捉える斬新な視点

カフカ
マイナー文学のために
(法政大学出版局叢書ウニベルシタス)

プラハで、ユダヤ人のカフカがドイツ語で作品を創作すること。そこに注目したのがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析学者のフェリックス・ガタリだ。多くの哲学者や作家、芸術家、そして読者がカフカに魅了され、それぞれのアプローチでカフカに接近してきた。そんな中で、ドゥルーズとガタリが注目したのは、カフカの「書かないことの不可能性」「ドイツ語以外で書くことの不可能性」「ドイツ語で書くことの不可能性」であった。

彼らの原動力となっていた考え方が、「マイナー文学」という位置付けだ。これは有名なメジャー作品とマニアックなマイナー作品という意味ではない。彼らが「マイナーであること、つまり、あらゆる文学に対して革命的であることは、このような文学の栄光である」と肯定するそのマイナー文学というのは、「少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学」のこと。それはカフカに限らず、国民文学の枠や文学における言語の境界が揺らいだ20世紀、21世紀の文学を考える上で重要な視点を打ち出しているが、こういったマイナー文学の定義の中で、ドゥルーズとガタリが第一に考えるのはカフカのことだ。「自分たちの言語から、その言語を深く掘り下げることができ、冷静に、革命的にその言語を展開させることができる」方法としてカフカの執筆活動を見ている。

ドゥルーズとガタリの『カフカ─マイナー文学のために』。もしカフカの作品に魅了されたなら、じっくりと付き合ってみたい本だ。

最終更新 Donnerstag, 29 August 2019 17:05
 

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