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ドイツのビート・ムーヴメントの渦中に生きた人 ウルフ・クリューガー

音楽史におけるビート・ムーヴメントとは何だったのだろう?ビートと呼ばれる音楽は、1950年代に、主に黒人ミュージシャンを中心に形作られたアメリカの大衆音楽ロックンロールのリズムを踏襲し、ロンドンとリバプールの労働者層の青少年たちが始めたものだ。そのビートが60年代、北ドイツで想像を絶する人気を博していた。ビートルズの登場はそのハイライト。ドイツにおけるビート・ムーヴメントの真っただ中で生きたウルフ・クリューガー氏に当時のことを語ってもらった。(インタビュー・構成:岩本順子)

Ulf Krüger ウルフ・クリューガー
(「K & K Center of Beat」経営者)

1947年生まれ。元ミュージシャン。様々なバンド活動を経て、60年代に「ウィリアム・ソーントン& ザ・シカゴ・ セクト(William Thornton & The Chicago Sect)」で活躍。全国的な人気バンドとなったライネマン(Leinemann) の設立メンバーでもある。引退後は音楽プロデューサーに転身。自ら手掛けたヒット曲に、パソ・ドブレ(Paso Doble)の「コンピューターリーベ(Computerliebe)」などがある。その後、音楽・写真関連のエージェント「K & K Center of Beat」を立ち上げ、ビートルズのハンブルク時代の活動を知ることができる様々な資料や写真、グローセ・フライハイト(Große Freiheit)と呼ばれる歓楽街で1962年から8年間にわたって営業していた「スタークラブ(Star Club)」の関連資料などを管理するほか、これらの資料を活用した展覧会などの企画活動も行っている。今年4月までは、資料の一部を販売するショップも運営していた。著書に、ハンブルク時代のビートルズ関連情報をポケットサイズの辞典にまとめた『Beatles in Hamburg』(Ellert&Richter Verlag)がある。
K&K Center of Beat のウェブサイト: www.center-of-beat.com

"スキッフルの王者" ロニー・ドネガンのように なりたいと思っていたんだ

少年時代、どのような音楽と出会われましたか?

僕は戦後、ハンブルクとハノーファーの中間にあるウェルツェン(Uelzen)という町で生まれ育った。子どもの頃に聞いたのは典型的な戦後音楽、つまり行進曲と流行歌だった。でも、姉がトラディショナル・ジャズを聞いていたから、それを一緒に聞いたりしていたんだ。あと、元々英国占領軍が設立したラジオ局 NWDR(Nordwestdeutscher Rundfunk)※1 が毎週水曜の夜に英米の音楽を流していので、それにも熱中したよ。DJもイギリス人で、当時イギリス音楽が聴ける唯一の番組だったんだ。

ある日、そのラジオ番組からイギリスのミュージシャン、ロニー・ドネガン(Lonnie Donegan)の曲が流れてきた。衝撃的だったよ。その時、自分も「スキッフル(Skiffle)※2 の王者」と呼ばれたバンジョー弾きのロニーのようになると決意したんだ。11歳の時だった。

13歳でバンドを結成。14歳の時にお小遣いをはたいてバンジョーを買い、スキッフルばかりプレーしていたそうですね。

僕がバンドでスキッフルを始めた頃にはもう、ハンブルクではスキッフル・ブームは終わっていて、ビート音楽が流行っていた。でも、ウェルツェンにいた僕はそんなこと知りもしなかったから、ずっとスキッフルばかりやっていたんだ。でもね、あんな田舎町にもやがてビートバンドが現れるようになった。そんな時、あるアマチュアバンドがギタリストを募集していたので、応募してみた。ロニーの物まねをしたら、ギターで採用されたんだ。

でもその後、ドラマーになるんですよね。

ちょうどバンドのドラマーが兵役に行くことになってね。僕は彼のドラムを借り、実家の地下室の野菜置き場で1週間ほど必死で練習してドラマーになったわけ。当時の僕たちの音楽なんて単純だった。だからできたことさ。それに僕はギターがあまり上手くなかったから、ドラムは楽しかったよ。それ以後、ずっとドラムやパーカッションばかり担当した。

ウェルツェン時代
ウェルツェン時代。ランダルス(Randalls)というバンドに属していた17歳(1964)の頃(左端)

父親は、「警察に見つかるまでやればいい」って言ってくれた

13歳から始めたバンド活動。ご両親や学校の先生に反対されませんでしたか?

僕が音楽を始めた頃のドイツ社会では、単なる「世代の断絶」どころか、「世界観の断絶」が支配していた。もちろんアメリカにも世代の断絶はあり、そこでは僕たちの親世代はロックンロールを嫌っていたんだろうけど、アメリカの親はナチスじゃない。でも僕らの親はナチス世代。悪気はなくてもナチス的思考が頭のどこかに残っていたんだろうね。ジャズのレコードをかけていると、母親に「ネガー(黒人)の音楽なんか聞いて!」と叱られたものだよ。僕の父親はウェルツェン市長だったんだけど、「息子もちゃんと教育できない人に、市長が務まるのか」って周囲から責められたそうだ。

そんな中、僕は15歳の頃から地元のナイトクラブで演奏していた。母親は嫌がったけれど、父親は「警察に見つかるまでやればいい。見つかったら18歳になるまで待てばいいさ」って見逃してくれたんだ。幸い警察には見つからず、ずっと演奏を続けることができた。教師たちは、諦めていたね。

15歳でナイトクラブ・デビューしたんですね!

60年代のドイツでは、どんな小さな村にもクラブがあって、ビートバンドはひっぱりだこだった。僕たちのようなアマチュアバンドでも、週4日クラブで演奏していたほどさ。ドイツ全土で大変な数のバンドの需要があって、膨大な数のイギリスのバンドとドイツのバンドが活動していた。都会でも田舎でも、若者たちは皆、毎週末クラブに通って最新のビート音楽に酔いしれていたんだ。

僕はこのビートバンドでの活動を通して、徐々にビートにのめりこんでいった。うちのバンドリーダーは元船乗りでハンブルクのことを良く知っていたから、「ハンブルクのザンクト・パウリ地区にはクラブがたくさんあって、トニー・シェリダン(Tony Sheridan)っていうすごいミュージシャンがいるよ」とか、いろんな情報をくれたんだ。でも、情報だけで、見たことがなかったから、当時は彼がどんなにすごいのか知りようがなかったけどね。

でも後日、ハンブルクでトニーの演奏を見る機会があったんだ。素晴らしかったよ。キングサイズ・テイラー&ザ・ドミノーズ(Kingsize Taylor & The Dominoes)も良かったなあ。このバンドもハンブルクのスターだった。ゲリー&ザ・ペースメーカーズ(Gerry & The Pacemakers)やビートルズ(Beatles)はレコードで知った。そして、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)の登場!これには打ちのめされたね。

さらに、ビートルズとローリング・ストーンズを通してリトル・リチャード(Little Richard)、ファッツ・ドミノ(Fats Domino)といった黒人音楽を知った。ラリー・ウィリアムス(Larry Williams)の「Bad Boy」なんて、ビートルズのオリジナル曲だと勘違いしていたくらいだからね。

ウィリアム・ソートン&ザ・シカゴ・セクト時代
ウィリアム・ソートン&ザ・シカゴ・セクト時代(手前)

ビートは、エクシスとロッカーの2つの階級の壁を取っ払ってくれたんだよ

ビート旋風はドイツに何をもたらしたのでしょうか?

ビート音楽がやってくる前の北ドイツの若者たちは、「EXIS(エクシス)」と呼ばれるフランスの実存主義者を気取った、ジャズを好む知識階級の若者グループと、「Rocker(ロッカー)」と呼ばれるアグレッシブでロックを好む労働者階級の若者グループとに分裂し、よく衝突していたんだ。ハンブルクでは、エクシスの集まるジャズコンサートの会場の外でロッカーが待ち伏せていて、コンサートが終了してエクシスが外に出て来た途端に、エクシス対ロッカーの大喧嘩が始まったもんだよ。

僕はエクシスとロッカーの中間だった。ウェルツェンにいた頃は、短髪、グレーのズボンにグレーのセーター、茶色のコートという格好で、ジャズが好きな、小さなエクシスだったんだ。でも、その後は長髪にしてロッカー気取り。このエクシスとロッカーがビート音楽の登場によって混ざり合ったんだ。ビート音楽が2 つの階級の壁を取っ払ってくれたんだよ。

僕はビート音楽を、イギリスでスキッフルから発展した音楽と定義付けている。イギリスでは多くのミュージシャンがスキッフルの能力でロックンロールを真似しようとした。ロニー・ドネガンみたいにね。一方、あの頃のアメリカのロックは素晴らしかったよ。才能あるジャズミュージシャンがロックのバックバンドで演奏していたしね。でも、スキッフルの連中は技術が追いつかず、アグレッシブになるだけ。彼らが単純な技法で複雑な曲を演奏しようとしたら、ビートになったというわけなんだ。

スタークラブは当時、世界の音楽の中心地だった

その後はストレートにプロのミュージシャンに?

アビトゥアの試験を終えた翌日から、本格的にミュージシャンへの道を歩み始めたんだ。1966年、19歳だった。兵役を済ませ、美大に在籍はしたけど、音楽からは離れなかった。60年代末までは「ウィリアム・ソー ントン& ザ・シカゴ・セクト(William Thornton & The Chicago Sect)」というバンドでビート音楽を演奏し、68年にスタークラブに出演するチャンスに恵まれたんだ。

ドイツ人にとって、スタークラブで演奏することは栄誉だった。当時のハンブルクは世界の音楽の中心地、いや、スタークラブが世界の音楽の中心地だった。イギリスのビートバンドのほとんどがハンブルクに来ていたしね。長髪の痩せたイギリス人がギターケースを抱えてハンブルクの街中をうろついていたんだ。何千というミュージシャン、何百というバンドがやって来た。そして、ビート音楽は北ドイツでエレガントなスタイルに昇華されてイギリスに逆輸入され、世界中に旋風を巻き起こした。つまりハンブルクはビートの発祥地、ビート・シティだったのさ。

ハンブルクの50年代、60年代があれほど華やかだったのは、当時ハンブルク港に寄港した船が、何週間も停泊していたことも関係している。現在、コンテナ船などは数時間寄港しただけで出て行ってしまうけれど、かつての船乗りたちは長い寄港中にハイレベルの娯楽を求めた。需要があったってことだね。

それから、ハンブルクに駐屯していた占領軍がイギリス軍だったということも、ビート音楽の流行と関係があると思う。ドイツのロックンロールがライン・マイン地方に駐屯していたアメリカ軍の影響で発生したようにね。ライン・マイン地方では、アメリカからミュージシャンを呼ぶと高くつくので、イギリスから呼んだんだけど、そうしてドイツにやって来たイギリス人やドイツ人が、ロックのイミテーションを始めたんだ。

スタークラブはその名の通り、「スター」を欲しがり、ドイツ最高のクラブであろうとした。最初はレーパーバーンのスター、トニー・シェリダンを、その後はビー トルズやロイ・ヤング(Roy Young)を呼んだ。やがてそれだけでは飽き足らずに、もっと多くの大物を呼 び寄せようとしたんだ。リトル・リチャード、ジェリー・ リー・ルイス(Jerry Lee Lewis)、ファッツ・ドミノ、ゲリー&ザ・ペースメーカーズ等々。当時、ヨーロッ パで唯一、レイ・チャールズ(Ray Charles)が演奏したのもスタークラブだった。ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)やクリーム(Cream)もやって来たよ。

1970年、スタークラブは店じまいしますね。

僕が出演した頃には、スタークラブの人気はすでに下降線を辿っていて、ビート音楽も流行らなくなっていたんだ。原因は、ビートルズを含むスーパースターの誕生とディスコの出現。誰もが近所のクラブではなく、コンサート会場に行くようになってしまったんだ。昔は、最新の音楽はダンスクラブで聴くものだった。ビートルズだってそうやってスタートしたんだ。でも、ビートルズがスターになると、コンサートホールがダンスクラブに成り代わった。ディスコではソウル音楽が流れていたけれど、それはもうライブ演奏ではなく、レコードでの話だった。バンドブームは坂道を転げ落ちて行くばかりだったね。ちょうどそんな時期に、僕は自分の原点に戻り、小さなスキッフルバンドを立ち上げたんだ。

ウィリアム・ソートン&ザ・シカゴ・セクト時代
ウィリアム・ソートン&ザ・シカゴ・セクト時代(1967)

ウィリアム・ソートン&ザ・シカゴ・セクト時代
スタークラブの設立者ホルスト・ファッシャー(左)。一番右はキングサイズ・テイラー。2009年4月、スタークラブの記念碑前にて

少年時代のヒーローと一緒にレコーディングができるなんて、夢にも思わなかったよ

1969年に結成された「ライネマン(Leinemann)」 ですね。

ライネマンは、すごくアナクロニスティックな音楽を演奏していた5人組のバンド。最初の頃は古い歌のアレンジで、70年代に入ってからオリジナルを発表し始めた。僕は当時、ドラムを手放していたので、洗濯板でパーカッションを担当したよ。

このバンドが成功したのは、あらゆる世代に好まれる音楽を演奏したからだと思う。ラグタイム ※3 からジャズ、ロックまで何もかもをごちゃまぜにして、スキッフルの手法でコメディアンみたいに愉快なトークも交えて演奏したからね。そして76年、なんと僕たちはスキッフルの元祖ロニー・ドネガンと 一緒にレコーディングしたんだ! まさか少年時代のヒーローと一緒に音楽活動ができるようになるとは夢にも思わなかったよ。

ロニー・ドネガン
ロニー・ドネガン(左)と

しかし、ライネマンは1977年に一旦解散、ご自身は音楽プロデューサーに転身しますね。

時代はジャズロック、そしてハードロックが主流になり、その流れについていけなくなっていたしね。でも、解散の直接の原因は、うちのピアニストがウド・リンデンベルク(Udo Lindenberg)と一緒に仕事をし始めたからだった。

でもね、僕はライネマン時代からほかのミュージシャンのための歌詞を書いたり、プロデュースを行ったりしていたんだ。独立してからは、サウンドエンジニアとしての職人仕事に徹した。商業的に成り立つ音楽だけを目指し、個人の好みは主張せずにどんな仕事でも請け負ったよ。だからこの業界で生き延びることができたんだと思う。

ウド・リンデンベルクをどう評価なさいますか。

戦後のドイツで、音楽を始めたミュージシャンたちは皆、最初は英語で歌っていた。ライネマンも初めは英語で歌っていたんだよ。ドイツ人なのにドイツ語で歌う勇気が持てない、英語でしか歌えないという状況は非条理だった。でもあの頃はまだ、ナチスの過去があまりにも近すぎたんだ。

そんなドイツのロック界で、ドイツ語で歌い始めた最初の歌手がウド・リンデンベルクだったと思うよ。ウドがドイツ語で作詞し、歌う。それだけで革新的なことだったんだ。それで僕たちライネマンも、徐々にドイツ語に移行。でも、ドイツの音楽界に本当の革命をもたらしたのは、80年代に登場したトリオ(Trio)というバンドだった。

トリオ以前のドイツ音楽は、イギリスやアメリカの音楽の単なるコピーだった。そこから離れ、独自のドイツ的サウンドを生み出したのがトリオなんだ。トリオの存在は、僕たちに自信を与えてくれた。彼らがいたからこそ、その後の世代は抵抗なくドイツ語で歌えるようになったんだ。

だから、トリオはドイツ音楽における最も重要なバンドの1つ。そのリーダー、シュテファン・レムラーは、英米に染まっていない音楽を目指していた。アメリカ人が「こんなの聞いたことないぜ」と驚くような音楽をね。トリオはドイツを揺るがした。ドイツ人を勇気付け、この国の音楽シーンすべてに影響を与えた。そのトリオを発掘し、プロデュースしたのがクラウス・フォアマン ※4 だったのさ。

ハンブルク時代のビートルズに影響を与えたドイツ人ミュージシャン&グラフィックデザイナーですね。

クラウス・フォアマンとアストリット・キルヒヘア ※5 は、彼らより少し下の僕たちの世代にとってアイドル的な存在だった。クラウスは当時ロサンゼルスにいて、ドイツに戻ってきたいと言っていたんだ。ちょうどその時、僕は友人に頼まれて、彼のためにタレントスカウトの仕事を見つけた。クラウスは、そのスカウトの仕事をしている間にトリオを発掘したってわけ。そして僕は、クラウスを通してアストリットと知り合ったんだ。

アストリットは著名人だし、経済的な苦労なんてしていないと思っていた。ところが、話を聞くとどうやらそうでもないことが分かったんだ。彼女のあまりにも有名な、ハンブルク時代のビートルズを撮った写真が何度も無断で使用され、著作権料が支払われていなかったことも知ったよ。僕はそれが許せなくて、まず彼女のエージェントになったんだ。

無断で使用された写真のネガのありかを彼女に尋ねたら、もう何年も前にジョージ・ハリスン ※6 に送ったまま戻って来ないと言う。僕は彼女に、ジョージに電話をかけてネガを送り返してもらうように頼むことを薦めたんだ。ジョージはすぐにネガを送り返してくれたよ。そうこうしているうちに、ほかのカメラマンからもエージェントになってくれと頼まれるようになってね。その後は彼女とアート本を出版したり、彼女を通してビートルズの面々とも交流するようになったんだ。

ライネマン時代
ライネマン時代(右端)。
ハンブルクのシュタットパークにて

洗濯板を使っての演奏
ライネマン時代。
洗濯板を使っての演奏(1972)

音楽の街ハンブルクの重要さは、僕たちが後世に伝えていかなくちゃ

ご自身はハンブルク時代のビートルズのクロニスト(年代記作成者)であり、『ビートルズ・イン・ハンブルク(Beatles in Hamburg)』というガイドブックも書かれているほか、ジョン・レノン・タレント・アワードという若手ミュージシャンの育成事業にも携わっていらっしゃいますね。

50~60年代のハンブルクは世界的にも重要な音楽の拠点だった。僕は、その事実が忘れ去られてしまわないよう、過去の資料を集めたり、いろいろな同時代人にインタビューを行ったりして、早い時期から情報をパソコンに打ち込んでいったんだ。リバプールにも何度も通って取材したよ。音楽の街ハンブルクの重要さは、ドイツ人よりアメリカ人やイギリス人の方がよく解っていたね。でも、この事実は、僕たちが後世に伝えていかなくちゃいけないんだ。

それにしても、ウェルツェンの田舎者だった僕が、音楽を通して素晴しい人たちに出会えたこと、ビー トルズと知り合えたことに本当に感謝しているよ。 そして、今まで音楽で食べて来られたことにもね。


  • ※ 1 NWDR:1955年に現在のNDRとWDRに分かれた。
  • ※ 2 スキッフル:アドリブ要素の強い音楽ジャンル。楽器は重要でなく、音を出す楽しみに重点が置かれる。ギターやバンジョーのほか、洗濯板や茶箱、バケツなどを利用し、オリジナルな音楽を創り出す。
  • ※ 3 ラグタイム:19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカで黒人ミュージシャンが編み出した音楽ジャンル。その手法はジャズに受け継がれた。
  • ※ 4 クラウス・フォアマン(Klaus Voormann)(1938~):ミュージシャン、グラフィックデザイナー、イラストレーター。1960年にハンブルクの「カイザーケラー(Kaiserkeller)」というクラブでビートルズと知り合って友人となり、その後ベーシストとしてビートルズの面々と音楽活動を共にした。ビートルズのアルバム「Revolver」(1966)のカバーのイラストは彼によるもの。
  • ※ 5 アストリット・キルヒヘア(Astrid Kirchherr) (1938~):ビートルズの初期の頃の写真を撮っていた女性カメラマン。クラウス・フォアマンの恋人だった時にビートルズと知り合って友人となり、初期ビートルズのファッションスタイルに影響を与えた。5人目のビートルズと呼ばれた、早逝したスチュアート・サトクリフの婚約者だった。
  • ※ 6 ジョージ・ハリスン(George Harrison)(1943~2001):リバプール出身のロックミュージシャン、ギタリスト。ビートルズのメンバー。解散後はソロのミュージシャンとして大活躍した。
 
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