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太田雄貴選手 - 勝負魂と創造力で
日本のフェンシング界をけん引する先駆者

太田雄貴選手インタビュー 勝負魂と創造力で日本のフェンシング界をけん引する先駆者

北京五輪で個人銀メダル、ロンドン五輪では団体を銀メダルに導き、日本を世界の舞台に押し上げた先駆者。今週末ボンで開催されるワールドカップ最終戦に 今年のリオ五輪の団体出場権を賭けて挑む。
取材・文: 小川由紀子

Yuki Ota
1985年生まれ、滋賀県出身。小学校3年生でフェンシングを始め、小・中学校で全国大会優勝、インターハイ三連覇、歴代最年少の17歳才で全日本選手権優勝。2004年のアテネ大会で五輪初出場し、08年の北京大会でフルーレ個人銀メダル獲得。12年のロンドン五輪ではフルーレ団体の準決勝で逆転の末ドイツを下し、日本に銀メダルをもたらした。昨年7月の世界選手権で個人優勝を果たし、世界の頂点に立つ。東京五輪招致活動にも貢献。フェンシングの普及、発展に尽力すべくSUPER FENCING プロジェクトを企画、運営している。 http://super-fencing.com

ボンでの大会で日本の五輪団体出場が決まりますね

個人戦の出場は決まっていますが、ロンドン五輪後に一度フェンシングをやめて、現役に復帰したとき、団体戦で(リオ五輪に)行きたいという思いがすごく強かったんです。たくさんの人と共有できる、という団体戦じゃないと感じられない喜びがあるので。日本が出場できるかは、ボン大会で中国が世界ランク4位に入れるかにかかっていますが、僕らができることは、全力を尽くして目の前の選手に勝つことだけ。実際、状況はかなり悪いです。でも可能性が1%でもある限り信じてがんばろうと思います。なので皆さん、ルールが分からなくてもいいので、精一杯声を出して応援していただけるとうれしいです。

ロンドン五輪の団体では土壇場の逆転で銀メダルを

団体戦の喜びを感じた瞬間でしたね。個人戦は勝っても負けても自分だけですが、団体戦は複数の人の人生を背負う。僕はメダルを取った大会と取らなかった大会の両方を経験していて、アテネで初めて出場したときはメダルが取れなかった。柔道の野村さんや水泳の北島さんが金メダリストになる中で、「オリンピックは出るだけでは話にならない」と思いました。そこで、北京でメダルを取ると、取れなかった他競技の選手たちが僕を見て「悔しい」と言ったんです。ロンドンの準決勝は、勝てばメダル決定という試合で最後に逆転し、チームメイトを生涯、メダリストにすることができた。あの試合は運の要素も強かったんですが、運を引き寄せるのは経験の中でしか起こらないことです。過去に一度大きな誤審をされたことがあって、そのときはあまりにも悔しかったけれど文句は言わなかった。いつか必ずどこかで返ってくると思っていましたから。

運はついてない日に渡して、たまに返してもらう。取ってばかりだと運の総量も空っぽになってしまいます。

2015年7月、世界選手権の個人決勝、太田雄貴(左)対アレクサンダー・マシアラス(米国)
2015年7月、世界選手権の個人決勝、太田雄貴(左)対アレクサンダー・マシアラス(米国)

北京五輪を機に日本のフェンシング界は変わりました

そうですね。それまでは誰も僕のことを知らなかったですし、フェンシングを魚釣り(フィッシング)と間違われ「ブラックバス?」なんて聞かれることも(笑)。今でこそ笑い話ですけど、思春期の頃の話なのでかなり落ち込みました。「これからの人生、これに賭けるぞ!」と本気で決めた競技をバカにされた気分になるわけです。でも、そういうことを思っていても仕方ない、今ある状況の中で最善を尽くして、周囲を驚かせることをできたらいいなと考えていました。北京で銀メダルを取ったときは、まさにそれが形になった瞬間でした。それはフェンシングが日本で次のステージの産声をあげた日とも言える。ただ、そこからすくすくと成長していくためには、結果という栄養素をずっと与え続けないといけないし、戦略を練って競技を普及させていくことや、育成といった枠組みを作ることも必要になる。誰もやる人がいなかったので僕がそれをやることになるんですが、それってすごく成長の機会が多い。未開の地があるのでチャンスもある。20年、30年後のフェンシング界がすごく楽しみですね。

東京五輪、現役選手として出場は……

僕は経験を重んずることはスポーツ界にはまったく必要ないと思っていて、同じくらい強いなら若い選手を出してよりたくさんの経験をしてほしい。僕は今回で4回目の五輪。最後にもう一度勝負できることをとても嬉しく思います。最高に楽しい選手生活の集大成となりそうです。

アジア人で背の低い僕が勝つことで、ちびっ子の選手が応援してくれたり、正々堂々と戦うところを評価してもらえるのは、日本人のあるべき姿をフェンシングで体現できるという自信にもなります。実際、勝ち続けるためには毎日が戦いです。優勝したからこれでいい、ということはなく、翌日から対戦相手は僕を見て研究してくるだろうと推測を立てて次の一手、二手を準備しておかなければならない。ブランクはありましたが、計10年間世界ランクで上位にいることができています。そのための努力は惜しみません。

フェンシングを始めたのはお父さんの勧めで?

親が言うから「仕方なくやる」という子どもでした(笑)。でも僕は勝つことが好きでした。末っ子だったので負けず嫌いでしたし、負けないためならいくらでも練習をした。それで勝つと親や周りが褒めてくれて、勝つという喜びが自分の人生観になった。練習ではまったく勝てない子に試合では負けないんです。このとき、「本番に強い」「フェンシングに向いている」という二つ(の意識)が自分の中に入った。勘違いかもしれないけど、スタートはそれでよかったと思います。ただ、勝ち負けだけに評価基準を置いていると、あるとき限界が来ます。昨年くらいからですね、自分の価値観が大きく変わったのは。自分やコーチの理想とするフェンシング像を越えることが目標になりました。勝ち負けよりも理想型の実現に重きを置いていますが、理想とするフェンシングが体現できれば勝てるとは思っています。

2009年にフランスのチームに所属したのは?

北京五輪でメダルを取ったあと、ちょっと日本を離れたかったのもあって。それで自分のことを誰も知らないフランスに行き、「競技を楽しむ」ということをもう一度思い出すことができました。

フランスの選手たちは、チャラチャラ遊んでいても練習時間の集中力では日本では得難いものがあったり、逆にこんなに? っていうくらい抜きどころが多かったり。

でもこれをうまく融合させられれば、フランスよりも上に行ける、良いとこ取りをしよう、と。その辺りから考え方が変わりました。大事なのは結果を出すことで、「自分はこれだけやったのだから評価されるべき」というような考えは彼らにはなかった。練習をたくさんやったことが自信になる部分もあるけれど、勝つためだけの練習ができれば一番効率がいい。それを意識している人と、していない人で差が出るんだと思います。

現役引退後のプランは?

どうしたらフェンシング界に必要な予算をもってこられるかなどといった、国とのパイプになるところで活躍することが、メダリストにできることではないかとも思うので、自分が必要とされ、力を発揮できる立場に就きたいと思います。あと、ビジネスには興味があります。起業家や経済界の友人が多く、彼らから教わることは大変刺激的です。とは言ってもキャリアを変えることは未知なる大きな挑戦。ひとまずリオ五輪が終わるまでは競技に集中して、終えてから次のことを考える時間を持ちたいです。

自分にしかできないことを知っているのは強みですね

みんな持っているはずで、でも自分自身を見ることが難しいだけではないでしょうか。こちら(海外)に住んでいる皆さんは、日本から飛び出す決意をされたこと自体、素晴らしいことだと思います。その後、現地の人と比べて自分はどうだろうと意識しながら、たくさんの人と触れ合うほど、さらに自分の強みが分かるのでは。僕もこう見えて人見知りなので、本当はパーティーに出席することも得意ではないです。でも、行って全員とコミュニケートできれば、また同じメンバーで会うときは居心地がいいはずです。「居心地のいい場所を世界中に作る」ということが僕のこの先のテーマです。

フェンシング・ワールドカップ 男子フルーレ
Herrenflorett Weltcup – 44. Löwe von Bonn

2016年2月5日(金)~7日(日)入場料:6ユーロ
Hardtberghalle, Gaußstr. 1, 53125 Bonn
個人戦は5・6日、決勝は6日16:30〜 / 団体戦は7日8:00〜、決勝は14:30〜
 
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