ジャパンダイジェスト

ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

23. ブッサルト1 ゼクトブームの波に乗る

Deutsche Sekt-Geschichte

1836年にザクセン地方レスニッツで創業した「スパークリングワイン工場」は「ゼクトケラーライ・ブッサルト」の前身で、ケスラー・ゼクトに次いで古いゼクトメーカーといわれる。現在はシュロス・ ヴァッカーバート醸造所が、その伝統を継承している

スパークリングワイン工場(Fabrik Moussierender Weine)。

3人の裕福なライプツィヒの商人、ルートヴィヒ・ピルグリム、ゲオルグ・シュヴァルツ、フランツ=カール=フリードリヒ・ジックマンが共同で興した醸造所は、当初、本当にこのような単純明快な名前の工場だった。

3人はそれぞれにエルベ川畔の醸造所のオーナーでもあった。ジックマンは政治家としても活躍していた。ピルグリムの妻エリーゼとシュヴァルツの妻エミリーは姉妹同士。シュヴァルツはロシア皇帝と交友関係があり、このコネクションが、後にゼクトの販路を広げた。

ピルグリム家の邸宅には、著名な芸術家、政治家、企業家らが度々訪れていたという。のちにジャーナリストのモリッツ=エドゥアルド・リリエが、作家のジャン・パウルやルードヴィヒ・ティーク、作曲家のカール=マリア・フォン・ヴェーバーらがピルグリム家に出入りしていた、と書きとめているそうだ。

情報交換の場として機能したピルグリム家のサロンでは、あらゆることが話題になった。当時ドイツとフランスで大流行していたスパークリングワインについても当然のように話がはずんだ。

フランス、シャンパーニュ地方では、17世紀末からスパークリングワインが造られていた。フランスには遅れをとったものの、ドイツでも1826年に「ケスラー・ゼクト」と「グリューンベルガー・ゼクト」が産声を上げていた。ピルグリム邸の近隣の醸造所もゼクト造りに挑戦し始めていた。

1827年、ザクセン地方の営林部長で同地のワイン醸造協会の会長、ヘニング=アウグスト=ルードヴィヒ=マティアス・エーレンライヒ・フォン・ブレドフがゼクト造りに成功し、販売を開始した。ビジネスは好調だったようで、ピルグリムやシュヴァルツは度々彼と意見交換を行っていたという。

商才に長けたピルグリムらが、その後まもなく、当時のトレンドの最先端を行く商品だったゼクトの生産に着手したのは当然の成り行きだったといえるだろう。

ゼクトの醸造には、ベースワインや二次発酵中のボトルを長期にわたって寝かせるための大きなセラーが必要だ。ピルグリムらはシャンパーニュの醸造所を参考に、最新のセラーの建設にも取り掛かっていた。しかし、だいたいの構造が出来上がったところで、建築物が無残にも崩壊するという災難に見舞われた。設計に不備があったのである。

参考資料/Peter Ufer“ PerlenderGenuss Sektgeschichten ausSachsen“

1900年当時のゼクトケラーライ・ブッサルト1900年当時のゼクトケラーライ・ブッサルト

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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