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ドイツゼクト物語 - シャンパンとの接点を探して 岩本順子

7. ケスラー・ゼクト 1

Deutsche Sekt-Geschichte

エスリンゲンのケスラー・ゼクト社は、現存するドイツ最古のゼクト醸造所だ。創業者は誰もが知っているシャンパン・メゾン、ヴーヴ・クリコ社で活躍したドイツ人。激動の時代にドイツとフランスを行き来した彼の生涯を追ってみたい。

シュトゥットガルトから南東へ15 キロ、ネッカー川のほとりに、エスリンゲンという美しい古都がある。中世期にベルギーやイタリアに繋がる商業路の中継地として発展した。市の中心部に、現在も営業しているドイツ最古のゼクト醸造所、G.C. ケスラー社の本社がある。創業は1826年だ。

最近入手した文献には、ドイツ最古のゼクト醸造所は、1824年にライプツィヒ近郊のナウムブルクに開業したW.F.ビュルガー&ゾーン社だとあった。同社は20世紀初頭にゼクトの生産を中止、ドイツ統一後に廃業した。2002年からは同じ場所でナウムブルガー・ゼクト&ワイン・マヌファクトゥア社が開業している。

G.C. ケスラー社は、昨年創業190周年を祝ったばかりだ。創業者はゲオルク=クリスチャン・フォン・ケスラー(1787-1842)。彼は1807年から1826年まで19年にわたって、シャンパン造りの中心地ランスのメゾン、ヴーヴ・クリコ・フォルノー社(1772年創業)に勤めた。経理担当から共同経営者へと出世したが、心機一転、1826年にドイツに戻り、自らの「シャンパン工場」を立ち上げることにした。ケスラーがランスへ移住したのは、ナポレオン戦争(1803-1815)の最中だ。混乱の時代、彼はなぜ、どうやってフランスへ渡り、なぜまたドイツに戻ってきたのだろう?

ケスラーの出身地は伝統的なワインの産地ハイルブロン。父親はオルガニストでありながら市議会議員となった教養豊かな人物だった。仕立職人の娘だった母親はケスラーが11 歳の時に亡くなった。

ケスラーが14歳でギムナジウムを中退した時、父親は彫金師の修業をすすめたが、彼には夢があった。ヨーロッパの大国、フランスへ行くという夢だ。

フランスへの憧れは、どのようにして生じたのだろう? 歴史家のルルフ・ナイゲンフィントは、フランス軍が1799年から1801年まで、ケスラーの故郷ハイルブロンを占領したことが影響しているのではないかという。ケスラーが12歳から14歳の時だ。彼は回顧録に、実家が度々フランス軍の宿泊所になっていたこと、フランスの軍人が非常に品が良かったこと、軍人達がフランス語を教えてくれたことなどを綴っている。やがて彼は、軍人達から通訳として重宝されるほどフランス語が上達する。占領という状況は、このような美談ばかりで語れないはずだが、ケスラーはいっぱしの「フランコフィーレ(フランスびいき)」となり、フランス行きを目標に見習い仕事を始めた。

参考資料/Rulf Neigenfind „ Die zwei Leben des Georg christian Kessler“ 2009/12

看板
エスリンゲンのケスラー・ゼクト社本社

 
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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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