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ロンドンのゲストハウス
Sa. 24. Aug. 2019
外林 秀人 工学博士 外林 秀人  そとばやし・ひでと
工学博士

1929年長崎市生まれ。16歳の時に広島で被爆。京都大学工学部を経て、マックス・プランク研究所教授、ベルリン工科大学非常勤教授(高分子物理化学)を歴任。1994年定年退職、ベルリン在住。

ポツダム会談の会期中の1945年7月25日、トルーマン米大統領は、当時滞在していたポツダム市郊外のグリープニッツ湖畔の邸宅で、日本への原爆投下命令を下したと言われている。あれから65年が経った今年7月25日、歴史的な邸宅の前の「ヒロシマ広場」にて、新しい記念碑の除幕式が行われた。この「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の中心メンバーの1人として記念碑設立に尽力してきたのが、外林さんである。

外林さんは、1957年にフンボルト財団の奨学生として海を渡って以来、科学者としてほぼ途切れることなくベルリンに住んでいる。壁の建設、東西冷戦の実情、そして壁の崩壊に至るまで、直に体験してきたベルリンの昔の話からインタビューは始まった。途中ふと、こんな話になった。

これだけ長く住んでいますから、やはりベルリンが好きなのでしょうね。フリッツ・ハーバー研究室の雰囲気も大好きで、昔からの伝統があり、やりたいことが自由にできる最高の環境でした。もう1 つ、ベルリンに長く住んでいる理由は、ベルリンほど原子爆弾に対して安全な場所は世界になかったからです。アメリカもソ連もここには決して原爆を落とせなかったでしょう。ソ連が西ベルリンに攻めて来るなんて言われていましたが、進撃にだって時間は掛かる。一番恐いのは原爆ですよ。ここにいれば二度と原爆には遭遇しないだろうと信じていましたから。

外林さんはヒロシマの被爆者である。16歳の時、広島高等師範学校の化学の授業中に爆風を受けた。爆心地から南にわずか1.7 キロの距離だった。奇跡的に生き延びたものの、原爆で母親、そして多くの親戚や知人を亡くしている。この体験を、外林さんは数年前まで公にすることはなかった。半世紀以上もの間、被爆体験を胸の奥に秘めてきた背景は何だったのだろうか。

「見ません、聞きません、しゃべりません」という猿のことわざではないですが、言い出すと思い出すし、思い出すと嫌になる。別にそれで何か得があるわけでもない。もちろん原爆について何かを伝えなければという思いはあります。ただ、被爆者ということで疎外される現実があるのです。例えば、今回のヒロシマ広場の原爆記念碑に広島と長崎からの被爆石が埋め込まれましたが、「被爆した石というと、ドイツ人が嫌がるからあえて書かない方が良いのではないか」という反応がありました。冗談ではないと。被爆者の悲劇が疎外されている。「触らない方が良いだろう。何が起こるかわからないから」ということですが、こういったことは被爆者に対しても当てはまります。科学的には全く意味のないことですが、かといって科学的には意味がないと言って削るわけにもいかないんです。実際わからないですから。被爆した人に何らかの影響が出るのは、10年後なのか20 年後なのか、あるいは次の世代なのか。恐いのはそこです。原爆というのは実験なんです。そして、その実験はまだ完了していない。

例えば、私の弟に息子と娘がいるのですが、「縁談に影響するから、(被爆のことは)あまり大っぴらに話さないでほしい」と言われたことがあります。エイズのように、いろいろな噂が流れ、それが疎外につながっていく。また、私は亡くなった母の慰霊を広島の国立の記念碑に登録したかったのですが、それも「ちょっと待ってほしい」と周りから止められました。自分の親族が原爆の被害者だということを知られるのを嫌がるのですね。被爆者への疎外というのは、広島の中でも外でも、いまだに根強くあるんです。そういうことがあるから私も口を控えて、人が嫌がることを敢えてやる必要もないだろうと思っていました。

転機は2006年に訪れた。愛知万博の最終日に、『ドイツの原子力物語』(総合工学出版社)の共著者である科学者の外山茂樹氏、そして仁科浩二郎氏に後押しされ、3人で講演会を名古屋で行った。日本で被爆体験を語った最初の機会だったという。

反響は大きく、同じことをドイツでもやったらどうかということになったんです。特にその後押しをしたのが、私の妹でした。終戦の年、当時10歳以下だった妹は広島の郊外に強制疎開しており、母がその様子を定期的に見に行っていました。子どもたちにとっては母親と一緒に寝るのが楽しみだったのですね。8月の初頭、恋しがる妹の希望で、母は滞在を少し延ばしました。ところが、そのために、8月6日が勤労奉仕(空襲の際、火の回りを遅らせるために、建物を壊して道路を拡張する作業。町内ごとに分担が決まっていた)の分担の日に当たってしまった・・・・・・。もし母がそのまま帰って、前の日に勤労奉仕をしていたら、助かっていたかもしれない。妹はそのことに対して責任を感じていて、原爆の反対運動に対して熱心でした。それだけに、私が名古屋で話したことも喜んでくれて、「お兄さん、しっかりね」とドイツでの講演も応援してくれたのです。


旧カイザー・ヴィルヘルム化学研究所の建物。
当時のままの外観を保っている

2007年にベルリンの日独センターで講演を行って以来、ドイツはもちろん、ヨーロッパの諸都市で原爆の体験を語り続けてきた。そこで集まった募金は、記念碑設立の資金に回された。現地の人々の反応はどうだったのだろうか。

反応はとても良いです。私が原爆を受けた時と同じ、15、6歳ぐらいの若い皆さんの前で話す機会もありますが、後でいただいた手紙を読むと、アメリカを憎むとか、責任者は誰々だとか、そういうことではなくて、「人間が、こんなことをして良いのですか?」という純真な反応を示してくれます。



ノルウェー在住の彫刻家・藤原信氏が制作した記念碑には、
「1945年7月25日に大統領の同意の下、原爆投下命令が下された」
などの碑文が日英独の3カ国語で記されている

今回のポツダムの原爆記念碑に関して、現地在住のアメリカ人による投稿が地元紙に掲載された。「この記念碑を作ることによって日本人は被害者の立場に立ち、戦争責任から目を反らそうとしている」という趣旨の投稿に対して紙面上で議論が交わされ、ちょっとした話題となった。

広島と長崎に原爆が落とされて、被害を受けたのはもちろん日本人です。でも私は、原爆というのは神が人類全体に対して行った行為だと思っています。私がいろいろ意見を言っているのも、日本人としてではなく、こういう悲劇は二度と人類に起きてはいけないという意味で、多くの人間の1人としてお話ししています。核の危険性が増す中で、ボタン1 つ押せば原子爆弾は飛ぶんですから。すると、相手も自動的にボタンを押すでしょう。それによって人類は滅亡するんです。最後なんです。人類全体の問題として私は話をしているのに、議論の程度が低くなると、誰々が殺した、だからこちらも誰々を殺した、ということになってしまう。原爆の悲劇はわれわれだけでいい。その望みをこれからの人々に託したいという思いから、私は今いろいろな場所でお話ししているのです。


ホテル・ヒルトン内のカフェで2 時間にわたり、
ご自身の体験をお話ししてくれた外林博士

外林さんが長年勤めたマックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所は、奇しくも核をめぐるもう1 つの原点の場所と向かい合っていた。問われる政治家と科学者のモラル。

私のダーレムの研究所の近くに、旧カイザー・ヴィルヘルム化学研究所があって、1938 年にオットー・ハーン、フリッツ・ストラスマン、リーゼ・マイトナーたちはそこでウランの核分裂を発見しました。原子核のエネルギー利用が人間の手に渡ったのです。その7年後の1945 年7月16 日、トルーマンがポツダム滞在中、原爆完成の報告を受け、25日に原爆投下の命令が出されました。そこから言えるのは、科学者の彼らは、原爆のことなどもちろん頭になく、ただ科学的な好奇心から研究を突き進めたわけです。ところが7 年経って、その成果が爆弾という形になって現れてしまった。ここです。面白いと思ったら何をやっても良いのだろうか? 例えば、アインシュタインは最初原爆開発の提案をしましたが、その破壊力に恐ろしくなり、実際の開発には関わりませんでしたよね。そういう人間的なところがある。ところが、原爆は実際に生まれ、実行へと移されてしまった。私はここに科学者と政治家の道徳や倫理の不足を感じます。

それゆえ、私はこの記念碑の最後の文章にこう付け加えたかったのです。「われわれはよく考えなければならない。政治的、科学的な好奇心には限界がないのか? そこに道徳的、倫理的な障害物があるべきではないだろうか?」と。ベルリンのダーレムで核分裂が発見され、紆余曲折を経て7 年後、ポツダムのこの館での命令によって原爆投下が実行に移された。両者は20 キロと離れていません。原子爆弾の歴史でこれほど意義のある場所はないと思うのです。私が提案した一節は、ポツダムの州議会での議論の末、残念ながら削除されてしまいましたが、この記念碑はそのような問いかけ、思索の場所になればと願っています。


原爆記念碑と、後ろに写っているのがトルーマン・ハウス

倫理なき科学の進歩、そして原子力エネルギーの利用にも警告を唱える一方、核廃絶を目指すオバマ大統領の存在や、この夏米国駐日大使が広島の追悼式典に初めて参列したことなどは、希望と感じている。最後にこんなことを語ってくれた。

この前、完成した原爆記念碑を改めて1人で見に行ったのですが、ノルウェーから運ばれて来た大きな石が、太陽を浴びてぴかぴか光っていたのです。私にはその光がどこか精霊のように見えてきました。ひょっとしたらほかにもいらっしゃるのかもしれませんが、このベルリン・ブランデンブルク周辺の被爆者といえば、長い間私1 人でした。でも、この慰霊碑ができてからは、何となくたくさんの慰霊が来てくれたような気がするんです。ずっと1 人で叫んでいたのが、今は多くの人が後ろに付いて立ってくれている。とても心強い思いがします。

インタビュー・構成:中村 真人

 
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