独断時評


原子炉トラブルとドイツ人の環境意識

原子炉トラブルとドイツ人の環境意識 日本では、新潟県中越地方を中心に襲った大地震のために、柏崎刈羽原子力発電所で想定を上回る被害が発生し、専門家を驚かせている。一方ドイツでも、原子力発電所をめぐるトラブルが、社会に大きな議論を巻き起こした。6月28日に、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州のクリュンメル原子力発電所で、変圧器がショートを起こして火災が発生した。国際エネルギー機関(IAEA)が定めている原子炉事故の評価基準によると、このトラブルの危険度は最低レベルのゼロであり、火災そのものは重大な事故ではなかった。

しかし、原子炉の運転を担当している、ドイツで3番目に大きい電力会社、ヴァッテンフォール・ヨーロッパは、監督官庁やマスコミに対する情報公開で、大きなミスを犯した。例えば火災が発生した時、運転員は原子炉の緊急停止を行う必要はなかったのに、チームリーダーの指示を誤って理解した運転員が、原子炉を緊急停止させていた。ヴァッテンフォール・ヨーロッパは、この事実を隠していたが、環境団体が作業ミスについて公表したために、コントロール室でのコミュニケーションが十分でなかったことを、 渋々認めざるを得なかった。

また、「火災の煙がコントロール室に入り込んだ」という情報があったため、同州の原子力監督官庁は当時原子炉の運転を担当していた作業員から事情聴取をしようとした。だがヴァッテンフォール・ヨーロッパは、「プライバシーの保護」を理由に作業員の名前を伝えることを拒否した。このため検察庁が強権を発動して、運転員らから事情を聴くという異例の事態となった。火災そのものは小さかったのだが、ヴァッテンフォール・ヨーロッパが積極的に情報を公開せず、小出しにしたためにマスコミや監督官庁は「何かあるのではないか」という疑問を抱いたのである。環境団体からは、「ヴァッテンフォール・ヨーロッ パから原子炉の運転許可を剥奪せよ」という声すら上がった。

この結果、同社のクラウス・ラウシャー社長は、企業のイメージに傷をつけた責任を取って、7月18日に辞任した。発電所でのトラブルで、大手電力会社の社長が更迭されるというのは、極めて異例である。メルケル首相が同社の広報姿勢に強い不信感を表明しただけでなく、親会社であるスウェーデンのヴァッテンフォール社の社長もドイツの子会社のトラブル対応が後手に回っていたことを批判していた。

ドイツ市民は、元々環境意識が高い。さらに、チェルノブイリ事故で国土が放射能で汚染されるという事態を経験したために原子力発電への不信感が根強い。したがって、原子炉をめぐるトラブルは、たとえ小さいものでも、マスコミや監督官庁から厳しい監視の目にさらされる。

ヴァッテンフォール・ヨーロッパは、そうした国民感情に十分配慮しなかったために、世論の集中砲火を浴びたのだ。ドイツ人の先鋭な環境意識は、時に企業のトップを転落させるほどの激しさを持って噴出することがある。我々は、そのことを忘れるべきではない。

3 August 2007 Nr. 674

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:29
 

外国人を社会に溶け込ませるには?

外国人を社会に溶け込ませるには? 「ドイツ社会に溶け込もうとする気がなく、この国に6、7年住んでもドイツ語を一言も話せないような外国人が、どんどんこの国にやって来ることには、反対だ」。ショイブレ内務相が、ZDFテレビとのインタビューの中で今年7月に語った言葉だ。戦後、旧西ドイツでは、労働力不足を補うために、トルコなどから多数の移民を受け入れたが、外国人を社会に溶け込ませる努力が十分に行われてこなかった。ショイブレ氏の衝撃的な発言には、社会に溶け込むこ とを拒否する外国人に対する政府のいらだちが浮き彫りにされている。

ドイツには1500万人の外国人が住んでいるが、フランスや英国など他のヨーロッパ諸国に比べて、外国人が社会に十分溶け込んでいるとは言いがたい。特に教育の場や、雇用の面でドイツ人と外国人の間には目に見えない深い溝がある。外国人の失業率は、今年6月の時点で19.8%。これは、国全体の失業率(8.8%)の2倍を上回る数字だ。

メルケル首相が今年7月中旬にベルリンで「外国人融合サミット」を開き、外国人組織や地方自治体の代表とともに、どうすれば外国人を社会に溶け込ませることができるかについて話し合った背景には、融合が進まない現状に対する政府の危機感がある。政府は外国人がドイツ社会を理解し、溶け込むためには言語に精通することが第1歩だと考えている。このため外国人に対するドイツ語教育を、現在よりも充実させることをめざしている。

だがトルコ人宗教施設同盟(DITIB)など、主要なトルコ人の組織は、このサミットをボイコットした。彼らはドイツ政府が移民に関する基準を厳しくしようとしていることに抗議しているのだ。具体的には、将来ドイツに移住したいと考える外国人は、基本的なドイツ語の知識を持ち、最低200語から300語の語彙がなくてはならない。また、ドイツ在住のトルコ人男性と結婚するためにドイツ移住を希望するトルコ人女性は、最低18歳に達していなくてはならない。家族の圧力によって、18歳未満の女性が結婚させられることを防ぐためである。

トルコ人の間からは、この措置について「EUに加盟していない国の市民を差別するものだ」として強い批判の声が上がっている。私はトルコ人の団体がサミットをボイコットしたことを非常に残念に思う。彼らが差別されたと感じ、怒る気持ちはわかるが、トルコ人たちは、その怒りを公の議論の場で政府に対してぶつけるべきだった。ヨーロッパでは、議論を避けても事態は改善しない。サミットのような話し合いの場を利用して、ドイツ政府の措置が差別的だという意見を明確な論理に従ってプレゼンテーションすることが重要である。

ケルンのモスク建設や、アルカイダによる無差別テロの防止策などをめぐり、ドイツではイスラム教徒と非イスラム教徒の間で、意見の対立が深まっている。外国人を社会に溶け込ませ、この国の価値観を共有する外国人を増やすことは、政府にとって極めて重要な課題である。

27 Juli 2007 Nr. 673

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:29
 

日独新聞考

日独新聞考

日本とドイツの間で最も違うものの一つは、新聞の内容だろう。それは、日独間の報道に対する基本的な考え方の違いも象徴している。

日本の報道の基本は、事実を正確かつ速く伝えることである。私もNHK記者だった頃は、「自分で評論をすることは避け、事実を人々に伝えることだけに力点を置くように」と指導された。事実についてコメントをするのは記者の仕事ではなく、読者や視聴者が自分で行うべきだというのだ。つまり日本の報道では、客観性と中立性を何よりも重視している。このため、新聞記事は短くなる傾向がある。

かたやドイツの新聞やテレビは、全く逆である。当然何が起きたかについても報道されるが、記者たちが重視しているのは、起きた事件などの背景の解説と、事件をどう解釈するかについての評論や分析である。したがって、ドイツの新聞は日本の新聞に比べて主観的な色彩が強く、記事もはるかに長くなる傾向がある。1人の記者がページの半分を埋めるような長い記事を書くのは、日常茶飯事だ。日本の記者がしのぎを削る第1報の特ダネ競争は、「通信社に任せておけばよい」ということで、余り重視されていない。また大半の記事は署名入りなので、ジャーナリストの説明責任もはっきりしている。

日独の報道姿勢のどちらが優れているかを決めつけることはできない。これはそれぞれの国民性、好みを反映しているからだ。個人主義が強いドイツでは、読者も、ジャーナリストがある出来事をどう解釈するか、どう評論するかを期待している。特にグローバル化が進み、複雑化した現代社会では、読者は客観的な事実を提供されただけでは自分で判断できない場合も多い。

問題は、特定の新聞だけを読んでいると、見方が偏る恐れがあるということだ。なぜならドイツの新聞は、不偏不党ではなく政治路線がはっきりしているからだ。FAZだけを読んでいると、どうしても右派寄り、Die ZeitやFrankfurter Rundschauを読んでいると、左派的なフィルターで世の中を見ることになってしまう。つまり読者が自分の考え方や思想をはっきりさせることが、新聞を読む上でも重要なのである。読者も、新聞を読むために時間を取ることを要求される。日本のように忙しすぎる社会では、無理な注文かもしれない。

私の個人的な感想を申し上げれば、17年もドイツやフランス、米国の新聞を読んでいると、社会や歴史、政治の舞台裏をちらりと垣間見せてくれるのは、欧米の新聞の長い記事だという気がする。たとえば、ある時FAZが「1952年に発覚したアデナウアー暗殺未遂事件の指令を出したのは、後にイスラエルの首相になるメナハム・ベギンだった疑いがある」という長大な記事を載せたことがあったが、まるで1冊の本でも読んでいるかのように面白かった。日本の新聞でも、1ページを丸ごと使ったこんな記事を読んでみたい。

20 Juli 2007 Nr. 672

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:29
 

ジーメンスは復活できるか

ジーメンスは復活できるか

「ジーメンスの社長であることは、ドイツ経済界で最も素晴らしい仕事だ」。15年にわたって欧州最大の電機メーカー、ジーメンスの社長と監査役会長を務めた、ハインリヒ・フォン・ピーラー氏の言葉である。

彼は、伝統企業ジーメンスの収益性を高めるために「10項目プラン」を打ち出して、不採算部門を排除、企業のエネルギーを高収益部門に集約した。「ミスター・ジーメンス」と言われた彼は、コール、シュレーダー、メルケルの歴代首相の経済問題に関するアドバイザーに任命されたほか、連邦大統領候補としても名前を挙げられていた。まさにドイツ経済界の顔であった。

それだけに、フォン・ピーラー氏が今年春に通信部門の汚職疑惑など、一連のスキャンダルの影響で監査役会長の座を退いたことは、財界・政界関係者に強い衝撃を与えた。彼自身が汚職や背任に直接関わっていたわけではないが、通信部門が4億ユーロもの贈賄資金をプールしていたヤミ口座は、フォン・ピーラー氏が社長に就任した1992年以降に開設されている。そうした人物が、不祥事を解明するべき監査役会のトップとして君臨し続けるのは、やはり不自然である。また、全金属労組IGメタルに対抗して経営寄りの従業員組織を支援するために、会社の資金が不法に使われた事件では、現職の財務担当役員が検察庁に逮捕されるという、同社の歴史でも珍しい事態となった。

これだけ不祥事が山積したら、企業は新しい血を入れて経営体質を刷新しなくてはならない。その意味では、フォン・ピーラー氏の辞任はむしろ遅すぎたと言うべきかもしれない。「自分がいなければジーメンスは機能しない」というミスター・ジーメンスの思い込みが原因だろう。どんなに優秀な経営者も代替可能だということはビジネス界の常識だ。

ジーメンスの危機を一段と深くしたのは、2年前に就任したばかりの若き貴公子、クラウス・クラインフェルト社長も辞任する意向を発表したことである。フォン・ピーラー氏が企業を去ることで、クラインフェルト氏の社内の立場が強化されると思われていただけに、この決定は意外である。だが、米国の証券取引委員会(SEC)も同社の一連のスキャンダルについて捜査を始めていることから、監査役会のメンバーは、「旧体制で高い地位にあったクラインフェルト氏に続投させることは、米国の株主から訴えられる危険を高める」と判断したのだろう。

名門企業のトップが、業績悪化ではなくコンプライアンス(法令順守)がらみで相次いで引責辞任をするというのは嘆かわしいことだ。今月1日に新社長に就任したペーター・レッシャー氏は、旧体制の膿を出し切り、コンプライアンス監視体制を充実させなければ、深く傷ついた企業イメージを刷新することはできないだろう。

13 Juli 2007 Nr. 671

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:32
 

ドイツ人と動物

ドイツ人と動物

ドイツにお住まいの皆さんの中には、「この国では日本に比べて、動物に関するニュースが多いなあ」 と思っておられる方も多いのではないだろうか。ドイツは世界でも有数の動物愛護大国である。

ベルリン動物園の人気者クヌートが初めて報道陣に公開された日には、500人ものジャーナリスト、100チームのテレビカメラ・クルーが詰めかけた。確かに可愛い白クマの赤ちゃんだったが、「他に伝えることはないのか?」と感じるくらいの、激しい報道合戦が展開された。

皆さんもご存知のように、日本とは違って犬を連れて地下鉄やバスに乗れるだけでなく、レストランや喫茶店にまで犬とともに入ることができる。昼間に犬の面倒を見る人がいない場合、社員がペットを会社に連れてくることを許している企業すらある。 日本に比べて動物を友人とみなし、「動物の権利」 を尊重する傾向が強いのだ。

犬の学校で訓練を受け、きちんとしつけられている犬は道でヒモを付けずに、歩くことを許されている。飼い主が赤信号で立ち止まると、犬も歩みを止める。ヒモも付けずに、食料品店の前で、飼い主が出てくるのを辛抱強く待っている犬もよく見かける。まるで人間のようだ。義務をきちんと守る場合には、かわりに自由を与える。実にドイツ的なメンタリティーである。

「鶏を狭いケージに押し込むのは、非人間的だ」として、鶏舎の経営者を訴えた市民もいる。牛や羊などの家畜をトラックで輸送する時にも、定期的に休ませ、水を与えなくてはならない。動物の虐待に関するニュースは日本以上に大きく取り上げられる。まるで人間が虐待されているかのように真剣に怒る人は少なくない。ドイツ人が日本の捕鯨について批判的であることも、この動物愛護精神と関係がある。

ある動物愛護団体が、ルーマニアで虐待されていた犬をドイツに引き取ったという話もある。身寄りのない動物の収容施設(Tierheim)にいる動物の引き取り手を探すテレビ番組は、人気の的である。

なぜドイツ人は、ここまで動物を愛するのだろうか?その理由の1つには、ドイツ人の間で、自然と環境を大切にする心が強いということがある。この国の人々が環境保護にかける情熱は、ご存知の通り。さらに、ドイツ社会の個人主義も影響しているのではないか。つまり日本に比べて、家族の絆や会社でのチーム精神が弱く、人間関係が希薄であるために口ごたえしない動物に心の安らぎを求める人も多いのかもしれない。ミュンヘンのような大都市では、住民のほぼ半分が独り暮らしである。仕事の後、疲れて帰っても、家族が誰も待っていないアパートは寂しいが、犬や猫がいれば、少しは心が和む。

これからも、動物たちはドイツのニュースの中で、重要な役割を演じ続けるに違いない。

6 Juli 2007 Nr. 670

最終更新 Donnerstag, 25 August 2011 10:32
 

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