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特集


ウィーンやザルツブルクだけじゃない音楽の都
オーストリアで楽しむ
野外コンサート

音楽の都オーストリア。その名を聞いて思い浮かぶのは、ウィーンの国立歌劇場やザルツブルク音楽祭だろう。しかし、この国の音楽はホールの中だけにとどまらない。中世の城の敷地内にある野外ステージ、湖上に浮かぶ舞台、ローマ時代の採石場を舞台にしたオペラなどさまざまな顔がある。本特集ではニュースダイジェスト編集部員が、ウィーン近郊のニーダーエスタライヒ州からブルゲンラント州を縦断し、知られざるオーストリアの音楽文化を体験。コンサート・ホールとは一味違う、この国の夏の楽しみ方をご紹介する。 (文:英国ニュースダイジェスト、取材協力: オーストリア大使館観光部)

オーストリアの地図

オーストリアの地図

首都ウィーンを取り囲むように広がるのが、オーストリア最大の州・ニーダーエスタライヒ州。「低地オーストリア」を意味し、国内では比較的標高の低い地域が広がる。一方、ブルゲンラント州はその東に位置し、ハンガリーと国境を接するオーストリア最東端の州。広大な平原やブドウ畑、湿地や湖沼地帯が広がる。どちらの州もウィーンから鉄道で約30分~1時間半とアクセスしやすい。

アクセス:フランクフルト、ベルリン、デュッセルドルフ、ミュンヘンなど主要都市からウィーンへの直行便フライトが運航。鉄道ではミュンヘンから約4時間でウィーンに到着し、両州へアクセスできる。

ニーダーエスタライヒ州
お城の敷地内で開かれる
グラーフェネック音楽祭

2026年8月14日(金)~9月6日(日)
www.grafenegg.com

ウィーンのフランツ・ジョセフ(Franz Josefs)駅から約1時間。ニーダーエスタライヒ州の北西の町グラーフェネック(Grafenegg)に、歴史的なグラーフェネック城❶❷がある。15世紀に築城された後、幾度かの変遷を経て現在は英国チューダー様式の意匠を取り入れた優美なネオゴシック建築として知られる。敷地内の広大な庭園には現代的だが自然と調和した野外ステージ「雲の塔」(Wolkenturm)❸があり、夏の間はコンサートが開かれる。中でも毎年8~9月に開催されるグラーフェネック音楽祭は、ザルツブルク音楽祭に次ぐ質の高い演奏で国内の音楽ファンを魅了。今年は第20回を迎え、芸術監督を務めてきたピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダーが退任する節目の年でもある。

グラーフェネック❶ 音楽祭の舞台としても知られる古城、グラーフェネック

城の内部城の内部❷ 光の入り方が印象的な城の内部

ピクニック❸ 会場の外ではピクニックもできる

取材では、夏の訪れを告げる「真夏の夜のガラ・コンサート」❹を鑑賞。演奏はニーダーエスタライヒ州を本拠とするトーンキュンストラー管弦楽団が担当し、フランス出身の指揮者ファビアン・ガベルがタクトを振った。地元の人々が体を揺らしながら気軽に音楽を楽しむ姿に、クラシック・コンサートにありがちな堅苦しさはない。

真夏の夜のガラ・コンサート❹ 真夏の夜のガラ・コンサート

ベートーヴェン没後200周年にあたる来年、2月13日にはグラフェネックにて名誉指揮者の佐渡裕さんがトーンキュンストラ―管弦楽団を指揮する。

グラーフェネック城の敷地内にはミシュランのビブグルマンに選出された「モルヴァルド・グラーフェネック・レストラン」(Mörwald Grafenegg Restaurant)があるほか、16棟のコテージ❺も用意されている。コンサートの後に慌ただしく帰るのではなく、テラスでワインを片手にプライベートな夜を過ごし、そのまま宿泊できる空間だ。翌朝は、32ヘクタールの敷地内をのんびりと散策。芝生で思い思いに過ごす人々の姿も印象的で、肩ひじ張らずに欧州の夏を満喫できる。コンサート開催日ならウィーンから片道50分のシャトルバスも運行され、音楽と建築、ワイン、グルメを一度に楽しめるのが魅力だ。

緑が見える大きな窓のある部屋❺ ゆっくり滞在できるコテージ。早朝には窓の外に野ウサギの姿も

ブルゲンラント州
湖の風に吹かれながら
メルビッシュ湖上音楽祭

2026年7月16日(木)〜8月22日(土)
www.seefestspiele-moerbisch.at

ブルゲンラント州の魅力は、ハンガリー国境近くの町、メルビッシュのノイジードラー湖(Neusiedler See)にある。ヨシ原に囲まれた浅い湖❻で、ウィーンから車で約1時間と、手軽に行けることから「ウィーンっ子の海」とも呼ばれる。豊かな自然が広がり、ラムサール条約の登録湿地にも数えられている。その水上に、欧州最大級の野外舞台が現れるのが、メルビッシュ湖上音楽祭(Seefestspiele Mörbisch)だ。

周囲にはヨシの草原が続く❻ 周囲にはヨシの草原が続く

毎年夏、湖面に張り出した特設ステージでオペレッタやミュージカルが上演される。これまでにも「ウエストサイド・ストーリー」「王様と私」といった作品がかけられてきたが、今年の演目は日本でもたびたび上演されているミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」(La Cage aux Folles)❼。ゲイのカップルを主人公に、あるがままの姿を受け入れることの素晴らしさをコメディー・タッチで描いた作品だ。取材では、芸術監督で主演の一人でもあるアルフォンス・ハイダー氏の案内で、バックステージツアーに参加した❽。同氏は本作のテーマについて、「寛容、平等、そして自由への賛歌」であると語る。同性愛嫌悪や排除の動きが再び勢いを増す今の世界で、オープンであること、自分らしくあることの力を示す物語だという。象徴的なテーマ曲は「私は私」(I Am What I Am)。

La Cage aux Folles❼ ミュージカル「ラ・カージュ・オ・フォール」(La Cage aux Folles)

取材陣を案内するアルフォンス・ハイダー氏(写真右)❽ 取材陣を案内するアルフォンス・ハイダー氏(写真右)

南仏リヴィエラのナイトクラブが舞台❾のため、幅60メートル、総延長1000メートルの大階段、中央には直径10メートルの回り舞台が設置されている。手動で動かす金色のケージや、鮮やかなムービング・ライトも配置され、舞台に躍動感が生み出されるデザインだ。湖面に浮かぶ巨大な舞台装置と6000人規模の客席が一体となるスケール感が、この湖上音楽祭の最大の魅力の一つといえる。また、客席上部まで上がると、湖の向こうにはハンガリーの景色が広がる❿。湖一つ隔てて隣国と向き合うこの眺めは、八つの国と国境を接するオーストリアならではのものだ。

ぶ巨大な舞台装置❾ 湖ぶ巨大な舞台装置

湖の向こう岸はハンガリー湖の向こう岸はハンガリー❿ 湖の向こう岸はハンガリー湖の向こう岸はハンガリー

ブルゲンラント州
圧巻の舞台セット
ザンクト・マルガレーテン音楽祭

2026年7月15日(水)〜8月22日(土)
www.operimsteinbruch.at

ブルゲンラント州の二つめの音楽祭は、ウィーンから70キロほど離れたザンクト・マルガレーテンの採石場(Oper im Steinbruch Sankt Margarethen)⓫が舞台だ。ローマ時代から切り出されてきた石灰岩の岩壁を、そのまま天然の音響装置に見立てた野外オペラが、毎年夏に上演される。きっかけは1991年、この地で開かれたロシア民謡合唱団のコンサートだったという。教会音楽にも通じる歌声が岩壁に響き渡る様子に感銘を受けた地元関係者が、本格的なオペラ上演を思いついたのが始まり。96年、ヴェルディの「ナブッコ」で始まったこのオペラ祭は、初年度は観客数1万1000人だったが、2025年には8万人を超える規模に成長した。

採石場という立地をぞんぶんに活用した会場⓫ 採石場という立地をぞんぶんに活用した会場

今年の演目はプッチーニの「トスカ」⓬。実際に足を運んで驚いたのは、舞台セットの規模だ⓭。岩壁を背景に組み上げられたセットは、コンサート・ホールでは決して見られないスケール感で、オペラに詳しくなくても、その迫力だけで十分に楽しめる。ローマのサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂、ファルネーゼ宮殿、サンタンジェロ城などが再現され、芸術監督のダニエル・セラフィン氏の話を聞いていると、玄人がじっくり音楽に向き合う場というより、誰もが気軽に「すごい」を体験できる、間口の広いエンターテインメントを目指しているようだ。ちなみに、セラフィン氏は、先に挙げたメルビッシュ湖上音楽祭の芸術監督を長年務めたハラルト・セラフィン氏の息子でもあり、2019年にこの採石場オペラの芸術監督に就任している。メルビッシュ湖上音楽祭同様、夏の野外で涼しく音楽鑑賞するにはぴったりの場所だ。

プッチーニの「トスカ」⓬ プッチーニの「トスカ」

舞台セット⓭ 舞台セット

観客席は4670席観客席は4670席

舞台セットローマのバロック様式をイメージしたステージ・デザイン

舞台衣装第1幕のクライマックス、「テ・デウム」のシーンで使われるコスチューム

舞台衣装出番を静かに待つ仮面たち。大聖堂を舞台にした第1幕のフィナーレに登場する

また、この採石場から切り出された石は、ウィーンのシュテファン大聖堂やリンク通りの建物にも使われてきた。運営は、ハプスブルク家に仕えた名門貴族の流れを継ぐエスターハージー財団。同財団はワイン醸造も手がけており、幕間に振る舞われるワインも名物の一つ。

ブルゲンラント州
クラシックだけじゃない
ノヴァ・ロック・フェスティバル

www.novarock.at

ノヴァ・ロック・フェスティバル(Nova Rock Festival)⓮は、ブルゲンラント州の東部に位置するニッケルスドルフ(Nickelsdorf)で、毎年6月に開催されている野外フェス。2005年のスタート以来、ハード・ロックやヘヴィ・メタル、パンク・ロックがメインだが、親子で来ている観客も多く、オーストリアで愛されているフェスの一つであることが伺える。地元の食材やメニューにこだわった屋台が立ち並ぶほか、バンジーやローラー・ディスコを始めとしたアトラクションも数多く、移動式遊園地、バーベキュー・エリア、ノイジードラー湖畔にある美しい町ポダースドルフ(Podersdorf am See)へのシャトルバスなどが出ている。フェスの合間に湖で泳いでリフレッシュすることも可能だ。

Nova Rock Festival⓮ 暗くなればなるほど盛り上がる会場

Nova Rock Festival

今年のヘッドライナーは、北欧のメタル・バンド、ヴォルビート(Vol beat )、英国のベテランであるザ・キュア(The Cure)とアイアン・メイデン(Iron Maiden)、同じく英国からオルタナティブ・メタルのブリング・ミー・ザ・ホライズン(BMTH)が出演した。2027年は、6月10日(木)〜12日(土)に開催予定。出演者の詳細は、順次ウェブサイトで発表されるので確認しよう。

Nova Rock Festival米バンドのジ・オフスプリングが登場

コウノトリの飛来地 ルスト

ルスト地図

ノイジードラー湖の西岸、メルビッシュから北へ車で15分ほどの場所に、ルスト(Rust)という小さな町がある。人口はわずか2000人足らず。かつてハプスブルク帝国最大の地主といわれたハンガリー貴族エスターハージー家が治め、同家のもとでワイン醸造が盛んに行われてきた。ウィーンからは電車とバスを乗り継いで約40分〜1時間半ほどで到着できる。

歩いてすぐに回れるほどのコンパクトな旧市街には、グレーをまぶしたパステル・カラーの壁に、切妻屋根を載せた家々が軒を連ねる⓯。ハンガリー風といわれる家々が立ち並ぶ旧市街には、ワインを楽しめるレストランや直売店⓰が点在し、町全体がワイナリーのような雰囲気。昼食には、ミシュラン・ビブグルマンの食堂「キルヒェンヴィルト・ルスト」(Kirchenwirt Rust)⓱へ。地元産の赤ワインが名物なので、ぜひ一杯試してみていただきたい。

コンパクトな旧市街⓯ コンパクトな旧市街

ワインの直売⓰ ワインの直売 ⓱ キルヒェンヴィルト・ルスト(右写真)

白アスパラガス白アスパラガス(シュパーゲル)の旬は4~6月中旬

もう一つの名物は屋根の上の住人、コウノトリ⓲だ。春になると、煙突や煙突近くの台座に次々と巣がかけられる。2024年には86羽のヒナがここで誕生し、130羽近いコウノトリがルストの旧市街の屋根の上を飛び交ったという。童話の世界のようにかわいらしい街並みと、空を見上げれば必ず一羽は目に入るコウノトリ。ワインと鳥、両方を楽しみに、気軽に立ち寄ってみたい町だ。

コウノトリ⓲ 屋根の上の住人、コウノトリ

 

その目に映る世界とは 子どもたちのドイツ

公園を走り回る、果物や生野菜をポリポリ食べる、大人にもはっきり意見を言う、時にはデモに参加する。そうした子どもたちの姿が、ドイツの日常の中にある。 しかし、彼らが日々何を感じているのか、その内側を私たちはどれだけ知っているだろうか。本特集では、「子ども」の定義や歴史をはじめ、彼らへのインタビュー、そして子どもがつくる街「ミニ・ミュンヘン」などから、その存在をひも解く。それは翻って、私たち大人、そしてドイツという国を見つめ直すことにもなるかもしれない。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

女の子がホースでお花畑に水を撒いている

その権利・責任はいつから? 子どもから大人への道のり

ドイツでは、18歳が成年年齢。しかし突然「大人」になるのではなく、段階的に社会の一員としての権利と責任を手にしていく。飲酒、結婚、選挙権など、ドイツの法律が示す大人と子どもの境界線を眺めてみよう。

参考:Familieninfo「Was dürfen Kinder in welchem Alter?」、Kindersache「Taschengeldparagraph」、Trennung.de「Wer entscheidet über Religion des Kindes?」

7歳

お小遣いでの買い物

自分のお小遣いの範囲で買い物することが法的に認められる。親の許可なしにアイスやお菓子、少額のおもちゃなどを買えるが、高額なゲーム機やスマートフォンなどは購入できない。

10〜12歳

宗教への意見

10歳からは、親が子どもの宗教を変更しようとする際、必ず子どもの意見を聴かなければならない。さらに12歳からは本人の同意なしに、親の意思だけで宗教を変更させることはできなくなる。

13歳

軽作業が可能に

親の同意があれば、「軽作業」(新聞配達、庭仕事など)が可能に。ただし、1日2時間まで、かつ学校に支障がない時間帯に限られる。なお13歳未満でも、映画や演劇への出演は例外的に許可される。

14歳

精神的・法的に大きな節目

❶ 宗教の自己決定
親の同意なしに、自らの信仰を自由に決定できる権利を持つようになる。

❷ 少年法の適用
犯罪を犯せば少年法に基づき罰せられる可能性がある。

❸ 性交同意年齢、および法的な性別・名前の自己決定
性的行為に対して同意する能力があるとみなされる(日本は16歳)。また、親権者の同意があれば(診断書不要)、法的性別および名前の変更が可能に。

❹ 法的な呼称の変更
Jugendschutzgesetz( 青少年保護法)上、14〜17歳は「Kind」(子ども)ではなく「Jugendliche」(青少年)と呼ばれる。

❺ 飲酒の第1段階
保護者が同伴し承諾がある場合に限り、公共の場でビールやワインを飲むことができる。

15歳

本格的な就労が可能に

1日8時間、週40時間まで働ける(ただし夜勤や危険作業は禁止)。また、多くの若者がアウスビルドゥング(職業訓練)を開始する年齢でもある。

16歳

政治と自由の拡大

❶ 地方選挙権
多くの州で、市町村議会選挙や州議会選挙の選挙権が与えられる。一部の地方では、選挙への立候補も可能に。

❷ 飲酒の第2段階
保護者の同伴がなくても、自らビールやワインを購入・飲酒できるようになる。

❸ 身分証の所持義務
公的な身分証明書の所持が義務付けられる。国家が一人の市民として個別に管理・認識するという境界線だ。

❹ 深夜の娯楽
ダンスホールやクラブへの出入りが、保護者なしでも24時まで許可される。

17歳

本条件付きで車を運転

普通自動車の免許試験を受けることができ、合格すれば運転が可能に。ただし18歳になるまでは、経験豊富な成人の同乗が義務。

18歳

成人になり全ての制限が解除

❶ 法律行為の完全な自由
親の同意なしで、アパートの賃貸やクレジットカードの契約ができる。

❷ 国政選挙権・被選挙権
連邦議会選挙の投票、および選挙への出馬も可能に。

❸ 飲酒の第3段階
蒸留酒を含む、全てのアルコール類の購入・飲酒が解禁。

❹ 単独での運転
正式な運転免許証が付与され、同乗者なしでも車を運転できるようになる。

❺ 結婚
ドイツでは2017年の法改正により、例外なく18歳以上でなければ結婚できない。

〜20歳

少年法の保護が継続

18〜20歳は「Heranwachsende」(成長期にある者)として、法律上は成人だが、犯行時の精神的な成熟度が「青少年に近い」と判断された場合、成人刑法ではなく少年法が適用されることになっている。厳しい刑罰を与えることよりも、教育的な働きかけによって再犯を防ぐことが目的とされている。

〜25歳

自立を社会が支える

児童手当「Kindergeld」(2026年7月現在、月額259ユーロ)は、子どもが大学などの高等教育を受けている場合、最長で25歳になるまで親が受け取ることができる。この制度により、親が引き続き子どもをサポートし、若者は経済的な不安を抑えて自分の専門性を高めることに専念できる。

中世に「子ども」は存在しなかった!?ドイツと子どもを巡る歴史

子どもたちは、その時代その時代で違う姿を見せていた……というよりも、大人から時代ごとに異なるまなざしを向けられてきた、と言った方が正しいかもしれない。ドイツの歴史を軸に、この国における子ども観の変化を追う。

参考:フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』、元森絵里子『はじめての子ども論』、マルギッタ・ロックシュタイン『遊びが子どもを育てるフレーベルの〈幼稚園〉と〈教育遊具〉』、bpb.de「Verbot von Kinderarbeit」「Bevölkerung mit Migrationshintergrund」、川﨑 聡史「西ドイツにおける自主管理型保育施設「キンダーラーデン」―68年運動後の新しい幼児保育の思想と実践に関する考察―」、柏木恭典「ドイツにおける「アウシュヴィッツ以後の教育」の理論と実践」

中世の「小さな大人」から近代の「子ども」へ

今日、子どもは「保護すべき特別な存在」として当然視されているが、20世紀のフランスの歴史家フィリップ・アリエスは、1960年に出版した『〈子供〉の誕生』(みすず書房)で、中世ヨーロッパには子どもを特別視する感覚がなく、子どもは「小さな大人」として扱われていたと主張した。絵画では子どもが大人と同じプロポーションで描かれ、7歳を過ぎれば大人と同じ服を着ていたという。しかし13世紀以降、ドイツを含む西欧で天使や幼子イエスが子どもらしい姿で描かれ始め、17世紀には上流階級の子ども向けに専用の服装が登場した。

子どもへのまなざしが歴史的・近代的なものだというアリエスの主張は、近代的子ども観の誕生を示すものとして世界的に受け入れられていった。この説はその後、上流階級の絵画や日記という限られた史料に依存しすぎていたとして批判されているが、17世紀以降に子ども期を保護し、教育すべき特別な時期とする社会システムが誕生したこと、それこそがアリエスの発見だった。

ピーテル・ブリューゲルの「子供の遊戯」1560年に描かれた、ピーテル・ブリューゲルの「子供の遊戯」(部分、ウィーン美術史美術館蔵 / Google Art Projectより)。この絵の子どもたちは、今日の私たちが想像するような子どもらしい体つきではない

「キンダーガルテン」の誕生と義務教育の普及

産業革命により都市化が進んだ19世紀、ドイツで「子ども」を再定義する動きが生まれた。1840年、教育者のフリードリヒ・フレーベルがバート・ブランケンブルクに世界初の「キンダーガルテン」(幼稚園)を創設。この名称は「子どもの庭」を意味し、子どもが自然の中で自由に育つべきだという理念を表している。フレーベルは子どもを「植物」に例え、成長環境を整える教師や親を「庭師」とし、「遊び」を教育の中心に据えた。

一方、産業化は子どもを工場労働にさらした。プロイセンは1839年に児童労働保護法を制定し、9歳未満の児童は工場、鉱山、製錬所、または選鉱所で働くことが禁止された。さらに18世紀以降に各州で法制化されていた義務教育も、19世紀を通じて実効化が進み、子どもは「労働力」ではなく「社会が育てるべき存在」として位置づけられ始めた。

ヨハン・シュペル「Kindergarten」ドイツの画家・ヨハン・シュペルによる絵画
「Kindergarten」(1885)

ナチス期の「国家の道具」としての子ども

1933年、ナチス政権が誕生すると、子どもは「国家の未来」として徹底的に管理されるようになった。1936年にヒトラーユーゲント法が制定され、1939年には10〜18歳の全ての子どもに青少年組織「ヒトラーユーゲント」への加入が完全に義務化。子どもたちには、軍事訓練や人種思想の教育が徹底的に行われた。

さらにナチスは、「生命の泉」(Lebensborn)計画を通じて、青い目に金髪という身体的特徴を持つ「アーリア人種」の出生を奨励。未婚の母を支援し、SS(ナチス親衛隊)隊員との子どもを国家が育成する施設を設置した。また、占領地から「アーリア的」特徴を持つ子どもを誘拐し、ドイツ人家庭で養育するドイツ化を行った。

この時代には、親の権利は国家の利益の前に無力化され、子どもは完全に「国家のもの」とされたのだ。戦後、これらの子どもたちは「ヒトラーの子ども」と呼ばれ、アイデンティティや差別に苦しんだ。この暗黒の歴史が、戦後ドイツの子どもの権利議論の強力な反動となる。

古い白黒写真:複数のドイツ人看護師が赤ちゃんを乳母車に乗せて外を散歩している風景1945年、「生命の泉」計画のもと、赤ちゃんを外に連れ出して新鮮な空気を吸わせるドイツ人看護師たち

権威主義からの脱却と子どもの解放

第二次世界大戦後、西ドイツでは脱ナチス化教育が進められ、権威主義の否定が最優先課題となった。哲学者テオドーア・アドルノは1966年の講演「アウシュヴィッツ以後の教育」で、ファシズムを克服するには自ら反省し、自分で決定し、人に同調しない力が必要であり、そのためには幼年期初期の教育、そして教育による啓蒙が重要であると説いた。

さらに1968年の学生運動は、西ドイツ社会全体に権威主義への抵抗を呼び起こし、子ども観にも変化をもたらす。活動家たちは「キンダーラーデン」と呼ばれる自治的な保育施設を造り、子どもの自主性を最大限尊重した。また、1972年には教師による体罰が禁止され、1980年には民法上の「親権」(elterliche Gewalt)という用語が、「親の配慮」(elterliche Sorge)へと変更されるなど、子どもは「親の所有物」ではなく、「独立した人格」として扱われるべきだという思想が、社会に浸透していった。

古い白黒写真:子どもたちと学生がテーブルについて何かを食べている1971年、ボーフムにつくられた反権威主義を掲げる自治保育施設「キンダーラーデン」にて、同じテーブルを囲む学生と子どもたち

多文化社会と子どもの権利の行方

1990年のドイツ再統一後、子どもの権利は法的に整備されていった。1992年には国際連合の「子どもの権利条約」を批准(当初は留保付き、2010年に完全適用)。国内では2000年に家庭内を含め、子どもへの暴力的なしつけが明確に否定され、2011年には保育施設や児童遊園などから出る子どもの声や音が「騒音」から除外された。これは、子どもが子どもらしくいられる社会を保障しようとする姿勢でもある。

また2015年の難民受け入れ以降、多文化社会としての課題がいっそう可視化した。ドイツ語習得への壁、戦争や移動のトラウマ、経済的な困窮や社会的孤立など、移民・難民の子どもたちに対する支援は引き続き急務となっている。

さらに、「子どもの権利」を巡る新たな議論も続いている。現行の基本法第6条では、「子の養育および教育は、親の当然の権利であり、かつ親に第一に課せられた義務である」と定めており、子どもは親の権利の対象として描かれる側面が強い。それに対し、子どもを「独立した基本権を持つ主体」として明記すべきだという議論が繰り返されてきた。2021年には基本法改正案が議論されたが、保守派と革新派の間で合意に至らず実現しなかった。

「小さな大人」から「保護すべき存在」になり、戦時下には「国家の道具」として利用され、そして「独立した権利主体」へ。気候危機や戦争、人工知能(AI)の普及などによって激動の時代を迎える今、ドイツの子ども観は今なお変化の途上にある。

学校のクラスルーム、2人の女の子が本を見ている。うしろには男の子2024年には5歳未満の42.6%が移民背景を持つまでになり、「多様性」が子ども社会の日常となった

集団主義と手厚い支援の間で
東ドイツの子どもたち

東ドイツ(DDR)では、多くの子どもが社会主義少年団「ピオニール」に加入し、集団主義と労働者階級の価値観を学んだ。子どもは社会主義国家の未来の担い手とされ、個人の自由よりも集団への貢献が重視された。また、東ドイツは女性の就労率が高く、そのため保育所なども高度に発達していた。

さらに、社会主義体制下では親の所得格差が小さく、居住区も職域に基づいた配置が多かったため、近隣住民同士の結びつきが強く、地域全体で子どもを見守る互助的な雰囲気があったともいわれる。そのため孤立する子どもが少なかったともいわれるが、これは同時に国家による監視体制の一部でもあった。集団主義か、社会的支援かという評価は分かれるが、東ドイツもまた、そこにあるべき子ども像を持っていたのだ。

制服を着て整列している東ドイツの子どもたち1976年、ドイツ社会主義統一党傘下の青年組織「自由ドイツ青年団」の第10回大会の開会式に参加するピオニールの子どもたち

その姿が時代を映す 物語に登場する「ドイツの子ども」

厳しいしつけの対象から、戦争の犠牲者、大人を救ったり導いたりする存在まで、物語に登場する子どもたちはさまざまな形で描かれてきた。ドイツで有名な物語の中から、5人(組)の「子ども」をご紹介する。

大人にしつけられるべき「子ども」 マックスとモーリッツ

『Max und Moritz』
『Max und Moritz』
著者:ヴィルヘルム・ブッシュ
出版社:Schwager & Steinlein Verlag

画家・詩人のヴィルヘルム・ブッシュが1865年に発表した絵本『Max und Moritz』(未邦訳)に登場する、いたずら好きの少年、マックスとモーリッツ。二人は村中で悪さを働き、仕立て屋を川に落とし、叔父のベッドに袋いっぱいのコガネムシを入れる。しかし最後には粉挽き機で粉々にされ、アヒルのエサにされてしまうという衝撃的な結末を迎えるのだ。19世紀ドイツのしつけの厳格さがブラックユーモアと共に描かれている。

戦争の犠牲になった「子ども」 フリードリヒ

『あのころはフリードリヒがいた』
『あのころはフリードリヒがいた』
著者:ハンス・ペーター・リヒター
訳者:上田真而子
出版社:岩波書店

作家のハンス・ペーター・リヒターがヒトラー時代の経験をもとに執筆し、1961年に発表した『あのころはフリードリヒがいた』(岩波書店、原題『Damals war es Friedrich』)。ユダヤ人の少年フリードリヒとドイツ人の「僕」は、同じアパートに住む親友。しかしナチスが政権を握ると、フリードリヒの人生は破壊されていく。学校から追い出され、父は職を失い、母は殺され、家を奪われ、最後は空襲のさなか防空壕へ入れてもらえず命を落とす。

家族を救う「子ども」 ロッテとルイーゼ

ロッテとルイーゼ
1950年に西ドイツで発表された映画「Das doppelte Lottchen」(写真)で、ロッテとルイーゼを演じた二人。本作には、ケストナー本人も出演した

作家のエーリッヒ・ケストナーが、1949年に発表した『ふたりのロッテ』(岩波書店、原題『Das doppelteLottchen』)。サマーキャンプで偶然出会った、顔がそっくりな二人の少女、ロッテとルイーゼ。実は、両親の離婚によって離れ離れになった一卵性双生児の姉妹だった。二人はお互いに入れ替わり、別れた両親を再び結びつけようと計画。二人の少女が家族を救うために奮闘する。

大人を導く「子ども」 モモ

モモ
1986年に西ドイツ・イタリアで制作された映画「Momo」。映画の冒頭には、原作の「あとがき」に登場する謎めいた旅人の役で、エンデ本人も出演している

児童文学作家のミヒャエル・エンデが1973年に発表した『モモ』(岩波書店、原題『Momo』)。街外れの円形劇場に住み着いた不思議な少女モモには、人の話を心から聞く才能がある。モモは人々から時間を盗む「灰色の男たち」に立ち向かい、効率ばかりを追い求めるようになった大人たちを救い出す。子どもの方が物事の本質を見抜き、大人を導くという構図が描かれている。

多様な背景を持つ「子ども」 マイクとチック

マイクとチック
本作は2016年に映画化され、日本では『50年後のボクたちは』のタイトルで公開された。監督は、「ソウル・キッチン」などで知られる名匠ファティ・アキン

2013年に48歳で早世した作家ヴォルフガング・ヘルンドルフによる児童小説『14歳、ぼくらの疾走:マイクとチック』(小峰書店、原題『Tschick』)。マイクは学校では冴えない存在。そこに転校してきたのが、ロシア系移民の少年チックだった。二人は盗んだ車で夏のドイツを駆け抜ける。短い旅の間、彼らは学校や家庭という「社会のルール」から離れ、やがて国籍や出自を超えた友情が生まれる。


ドイツで暮らす子ども15人に聞いた子どもなんでもアンケート

子どもたちは、日々どんなことを考えながら生きているのだろうか?ドイツで暮らす6〜18歳の子どもたちに、将来の夢をはじめ、子どもが大人に求めること、社会問題への意見まで、幅広く質問を投げかけてみた。

※アンケートに協力してくれた子どもたち(Freddi、ボボ、さら、なな、羽惺、Akim、はると、Kenji、Hannah、A、Mo、Nina、B、K.B.、Oz)とその保護者の皆さまに、この場を借りてお礼申し上げます。 
※回答はあくまで個人の意見です。

何をしているときが一番幸せ?

  • おいしい料理が自分で作れたとき(Akim/10歳)
  • ベッドの上でスマホを見ているとき(K.B./17歳)
  • ソファーの上にいるときが幸せ!(さら/9歳)
  • 友だちと遊んでいるとき(はると/11歳)
  • 家族と休暇に行くとき(A/12歳;
  • バスケットボール(ボボ/9歳)
  • サッカー(Freddi/6歳)
  • 絵を描いているとき(Oz/18歳)
  • マインクラフト(なな/9歳)
  • 乗馬をしているとき(Mo/14歳)

最近の一番の悩みは?

  • どうすればテストの結果がもっとよくなるか(はると/11歳)
  • うまくやらなきゃというプレッシャー(Oz/18歳)
  • 自分で立てた目標を達成できないとき(Nina/14歳)
  • 留年すること(Hannah/12歳)
  • 友だちができない(Kenji/12歳)
  • 死ぬことが怖い(ボボ/9歳)
  • トランプ大統領(B/14歳)
  • 特にない。だけど、クラスでのもめ事がなくなればいいなと思っている(羽惺/9歳)
  • 太ってしまうこと(Mo/14歳)

ドイツの子どもが好きなもの、最近流行っているものといえば?

  • 誕生日パーティー(Akim/10歳)
  • Zocken(PCゲームやビデオゲームをすること)(B/14歳)
  • マインクラフトとポケモンカードは人気(Oz/18歳)
  • 木で何か作ること(なな/9歳)
  • 友だちとサッカーをするのが最高に楽しい!(Freddi/6歳)
  • LEGAMIという文具メーカーが出しているLöschbare Gelstifte(こすると消えるフリクションペン)(羽惺/9歳)
  • K-Pop(なな/9歳)
  • 676767676767*(Akim/10歳)
    *小中学生やZ世代の間で大流行しているネットミーム。言葉自体に明確な意味はないが、「シックス・セブン」と叫んで盛り上がったりする

ドイツの子どもが嫌いなものといえば?

  • 学校が8時に始まるから、早く起きなきゃいけないこと。日本は9時からでしょ?(Akim/10歳)
  • 宿題やテスト。1週間にテストが三つあって、さらに宿題がある時とか (はると/11歳)
  • 写真に写りたくないと言っても写らされること、髪を洗うこと(Freddi/6歳)
  • 早く寝なきゃいけないこと、一人で遊ぶこと(Oz/18歳)
  • ブロッコリーと、女の子はあんまり算数が好きじゃない子が多い気がするな。どっちも私は好きだけど(なな/9歳)
  • ローゼンコール(芽キャベツ)(羽惺/9歳)
  • 日本の料理はあまり人気がない気がする。僕のクラスでは、僕以外におにぎりが好きな子が一人だけしかいない(ボボ/9歳)

将来は何になりたい?

  • パイロット(はると/11歳)
  • 俳優(Kenji/12歳)
  • スタイリスト (Nina/14歳)
  • 具体的な希望はないけれど、安定していて働きやすい職場がいい(A/12歳)
  • いろいろある。マンガ家、AI研究者、科学者(さら/9歳)
  • サッカー選手か、何かの研究者になろうかな(Freddi/6歳)
  • ITの専門家(Oz/18歳)
  • アーティスト(なな/9歳)
  • 車のデザイナー(羽惺/9歳)
  • まだわからない(Mo/14歳)

大人と子どもの違いは何だと思う?

  • 大人は仕事など、やることがいっぱいある。ビールが飲める (はると/11歳)
  • 経験や知識の多さや、世界の見方。大人は、違う人の目線からものを見られる(K.B./17歳)
  • 大人はいつも厳しいけど、子どもは実際のところ何にもこだわっていない(Kenji/12歳)
  • 子どもはもっと楽しく生きられる。大人は冷静(ボボ/9歳) 
  • 大人の方が責任がある(Nina/14歳)
  • なぜか子どもの方がするどい!?(さら/9歳)
  • 大人になるということは、成人して、いろいろなことができるようになること。子どもは(いい意味で)まだ「管理」されている(Hannah/12歳)
  • 大人は子どものことを決めていい(Freddi/6歳)
  • 大人は大きい。大人はいろいろなことをやっていい。大人はときどきベイビーみたい(なな/9歳)

もし1日だけ大人になれたら何をしたい?

  • 飛行機を操縦したり、車や電車も運転してみたい。旅に行ってみたい(はると/11歳)
  • お酒を飲む(ボボ/9歳)
  • ホームパーティーに行きたい(Nina/14歳)
  • 子どものことについて(大人がやっているように)決める(Freddi/6歳)
  • 絶対バイクに乗りたい!(Kenji/12歳)
  • カウチポテトになる(一日中ソファでごろごろしてゲームをしたりテレビを見たりする)(なな/9歳)
  • 車の運転をしたい(運転免許取得のため貯金をしている)(羽惺/9歳)

大人にこうしてほしいと思うことは?

  • 宿題を減らしてほしい(なくしてほしいとは思わない) (はると/11歳)
  • 特にない。(ビールを)飲み過ぎなければだけど(Kenji/12歳)
  • 子どもには小さい頃から、大人が怒る理由を教えてあげてほしい。僕は小さい頃から親に「怒ることは愛している証拠だ」「心配してるから怒ってる」って言われてきて、思春期にそのことを思い出して救われた(K.B./17歳)
  • もっとドイツ国内や外国の政治に気を配ってほしい(B/14歳)
  • 大人は自分たちの未来だけでなく、子どもの未来にもっと目を向けるべき (Nina/14歳)
  • もっとかまってほしい☆(さら/9歳)
  • 大人はそれほど多くのことを変えたり、違うやり方をしたりする必要はないと思う。少なくとも私の両親に関しては(Hannah/12歳)
  • 性別による役割を押し付けないで、子ども一人ひとりに合わせた教育や接し方をしてほしい(Oz/18歳)
  • 子どもにあまり厳しくしないで。大人は子どもたちの生活について、全てを知っているわけではない。子どもたちにも、他人に話したくない悩みもある。だから、あまりプレッシャーをかけない方がいいと思う(Mo/14歳)

子どものイラスト

これどう思う? 社会に対する子どもたちの声

子どものSNS利用禁止

ドイツでもソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)利用による子どもの心理問題が深刻化している。今年6月、ドイツ政府が任命した専門家委員会は、13歳未満の子ども自身によるSNS アカウントの運用を禁止するとともに、プラットフォーム事業者に厳格な子ども保護策を義務付け、さらに「デジタル・ネグレクト」を防ぐため親の義務を導入することを検討すべきだと提言。与党キリスト教民主同盟(CDU)と社会民主党(SPD)はすでに利用制限への支持を表明しており、今後さらに議論が活発化されると思われる。オーストラリアでは昨年12月、世界で初めて16歳未満のSNS利用を禁止する法律を施行したが、年齢確認の抜け穴などの課題も指摘されている。

参考:Deutschlandfunk「Verbieten oder nicht verbieten – das ist hier die Frage」

賛成

  • 変なものを見ちゃったり、やばいボタンを押しちゃったりするから (はると/11歳)
  • 僕は昔はずっと本を読んでいたけど、スマホを持ってからは年に4回くらいしか読まなくなった。だから、ほかの子には同じ間違いをしてほしくない(K.B./17歳)
  • ソーシャルメディアは集中力を損なうだけでなく、過激で政治的な色合いが強いし、誤った情報も溢れている。子どもは、まだそれらを正しく判断することができないと思う(Oz/18歳)
  • 子どもたちには、まだ一定のコントロールが必要だと思う(A/12歳)

反対

  • 今からSNSを禁止にするにはもう遅いんじゃない?(B/14歳)
  • 別に子どもだって使ってもいいと思う。インスタとかHiveとか。TikTokは知らないな(なな/9歳)
  • 禁止することには反対だけど、画面を見ている時間を制限するとか、何かしらの対策は必要だと思う(Mo/14歳)
  • 毎日1時間だけとか制限を設ければ使ってもいい(ボボ/9歳)
  • 自分自身で使い方を決められるようにするべき。子どもに良くない面もあるけど、SNSとうまく付き合っている子もいる(Hannah/12歳)

戦争

Shell青少年調査(2024年)によると、ドイツの青少年における欧州での戦争への恐怖が急増している。81%が欧州での戦争を最大の懸念としており、2019年の46%から大幅に増加。ロシアのウクライナ侵攻について60%が非難しているほか、ドイツのウクライナへの軍事支援については約半数が支持、4分の1が反対している。

参考:tagesschau「Angst vor Krieg nimmt unter Jugendlichen zu」

みんなの声

  • 心配だし、戦争をやっている大人は本当にバカだ(A/12歳)
  • 一度始まったら後戻りはできないし、子どもは何もできない(B/14歳)
  • 戦争は、どんな形であっても間違ってると思う(Nina/14歳)
  • 気にしない、いつかスイスに引っ越すつもりだから(Akim/10歳)
  • 戦争は残酷だし、もちろんその可能性を恐れている。でも、だからといって全てを諦めて無力感に絶望するのではなく、それでも人生を生き抜くべきだと思う(Oz/18歳)
  • 戦争がなくなってほしい。どうして男は戦争に行かないといけないの?(羽惺/9歳)

ベジタリアン・ヴィーガンの食事

iconkids & youthが2022年に実施した調査によると、ドイツの子どもの63%が肉食で、「肉をおいしく食べ、今後も減らすつもりはない」と回答した。一方、ベジタリアン・ヴィーガンは5%、ペスカタリアン(魚は食べる)は3%、29%がフレキシタリアン(肉をあまり食べない、または減らしたい)だった。ベジタリアンを選択する理由は、動物福祉(55%)、同情心(54%)、環境への配慮(52%)など多様だ。

参考:tagesschau「Angst vor Krieg nimmt unter Jugendlichen zu」 und nur 5% Vegetarier」

みんなの声

  • ベジタリアンやヴィーガンの人が、肉や魚を食べることを批判したりしない限りは、問題ないと思う(Hannah/12歳)
  • 私はベジタリアンだけど、最近はヴィーガン食を取ることが増えてる。工場畜産には根本的に反対で、畜産方法の改善だけでなく、動物や消費に対する社会的な意識改革も必要だと思う(Oz/18歳)
  • お肉を食べない人がいてもいいと思うけど、全員が食べなくなったら地球上が動物だらけになるかな?(Freddi/6歳)
  • 幼稚園のときにちょっとだけベジタリアンをやってみたことがる(なな/9歳)
  • お肉が多すぎるのは好きじゃないから、時々はヴィーガン食にする(羽惺/9歳)
 

子どもがつくる「遊びの都市」 ミニ・ミュンヘンに魅せられて

2年に一度、3週間だけミュンヘンに現れる子どもの街「ミニ・ミュンヘン」。子どもたちは労働や納税をしながら、自由な発想と遊びでこの街を営む。基本的に大人は入れないが、実は舞台裏を支える大人スタッフの多くは、かつてのミニ・ミュンヘン市民だ。ミニ・ミュンヘンが子どもたち、そしてこの街を巣立った大人たちをも魅了し続ける理由とは。本イベントのプレス担当者であるイネス・バイヤーさんに聞いた。 (文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

子どもたちが舞台裏で遊ぶ様子

「ミニ・ミュンヘン」とは?

7〜15歳までの子どもがつくる「遊びの都市」(Spielstadt)で、2年に一度、8月の夏休み期間に3週間だけ存在する。初開催は1979年。この取り組みは今ではドイツだけでなく世界各地に広がっており、日本でも横浜市の「ミニ・ヨコハマシティ」などがある。

第23回となる今年は、8月3日(月)〜21日(金)に開催予定で、ミュンヘン市北部の「ショーパラスト」とその周辺施設を含む約3ヘクタールが会場となる。期間中は毎週月曜〜金曜の10〜17時に開かれており、1日約1700人、期間を通して合計約2万5000人以上の子どもたちが訪れる。詳細は公式ウェブサイト(www.mini-muenchen.info)をチェック!

「次の停車駅は、ミニ・ミュンヘン!」

8月のミュンヘン、地下鉄U6線に乗っていると、いつもとは違うアナウンスが流れてくる。「次の停車駅は、ミニ・ミュンヘン!」。フリュットマニング駅で数百人の子どもたちが下車し、会場の「ショーパラスト」へと駆けていく。7〜15歳までの子どもたちが市民となり、独自通貨「ミミュ」(MiMü)を稼ぎ、選挙で市長を選び、時にはデモを起こす……。そんな小さな都市が、2年に一度、3週間だけこの場所に出現する。大人はシティーツアーに参加するか、16時30分以降の子どものお迎えでしか入ることができない。

「最終日、帰りの地下鉄の中で泣いている子どもたちを見かけたことがあります。『あぁ、ミニ・ミュンヘンが終わってしまった。あと2年待たなきゃいけないなんて』と。それを聞いて、私もうれしくて泣きそうになりましたよ」。そう語るのは、ミニ・ミュンヘンのプレス担当者、イネス・バイヤーさんだ。これほどまでに子どもたちを惹きつける都市は、いかにして生まれたのだろうか。

子どもたちの長蛇の列会場のショーパラスト前には、開場前から子どもたちの長蛇の列ができる

ミニ・ミュンヘンの歴史は1969年、ミュンヘンとニュルンベルクのアーティストと教育者からなるグループ「KEKS」が立ち上がったことにさかのぼる。一見するとドイツ語で「クッキー」を意味するこの名前には、Kは「Kunst」(芸術)、Eは「Erziehung」(教育)、Kは「Kybernetik」(サイバネティクス)、Sは「Soziologie」(社会学)という意味が込められている。「KEKSのメンバーは、子どもたちには自分の世界を自立的に探求する力があると信じていました。そして公共空間を子どもたちのための実験の場にすべきだと考え、公園や博物館などでプロジェクトを始めます」とイネスさんは説明する。その活動が広がり、「Kultur & Spielraum e.V.」(文化と遊び空間協会)が誕生し、1979年に初のミニ・ミュンヘンが開催された。以来45年以上、ミュンヘン市のバックアップを受けながら2年に一度の開催が続いている。

古い白黒写真、ミニ・ミュンヘンの様子。ドイツ語のバナー、たくさんの人で賑わっている1979年に行われた第1回目のミニ・ミュンヘンの様子

子どもを「専門家」として見る

45年以上の歴史を持ちながら、ミニ・ミュンヘンの基本的なコンセプトは初回からほとんど変わっていない。「まるで本物の都市であるかのように行動する」、それだけがシンプルな大前提だ。市民権を得るには一定の労働と大学で講義を受けることが必要で、働けば時給5ミミュが支払われ、そのうち1ミミュを税金として納める。60以上の仕事があり、新聞記者、建築家、花屋、タクシー運転手、料理人、アーティスト、公務員……果ては市長になることも、銀行強盗になることもできる。ただし銀行強盗は裁判にかけられることも。そして、こうしたルールは全て補足・変更することができるが、そのためには子どもたち自身が市民集会を開き、多数決で決める必要があるという。

いくつかのルールこそ存在するものの、それらは子どもたちの行動を制限するようなものではない。その背景には、ミニ・ミュンヘン独自の「子ども像」がある。イネスさんは、過去の出版物から一節を読み上げてくれた。「『私たちにとって、ミニ・ミュンヘンにおける子どもは、自分自身の事柄、自分の願望、自分の関心に関する専門家です。私たちは、彼らを会話や交渉のパートナーとして真剣に受け止めます。そして彼らは時に、最後の言葉を言う権利も持つべきです』。つまり、単に『子どもたちに少しやらせてみよう』というのではなく、彼らには本当に決断を下す権利があるのです。そしてそれが時にひどい結果を生んだとしても、私たちは彼らを守ります」。

そうした変わらない軸がある一方で、ミニ・ミュンヘンは現実社会や政治の動きに敏感に反応する。例えば、数年前には気候保護センターが設立され、そこで働く子どもたちは気候危機に関する研究を行いながら、ミニ・ミュンヘン内の気温や水質を計測し、ゴミの分別を管理することで、街をより持続可能な都市へと変えようとしている。2024年の前回開催では「材料倉庫」が新設され、それまで大人がやっていた資材の提供を、子どもたち自身が担うようになった。子どもたちはオンラインカタログの作成から注文の梱包・配達、クレーム対応まで手がけたほか、プライム料金やブラックフライデーの導入なども行ったという。今年はさらに大規模なリサイクルの循環が導入される予定で、廃棄物処理局が回収した資材を材料倉庫で再販・再利用するという。

本物の道具が本物の信頼を生む

ミニ・ミュンヘンの中では、子どもたちはノコギリや工具で木製の家具を作り、コンロと油を使って調理をする。そうした多少危険を伴う作業であっても、子どもたちは自分で行うことができる。「もし子どもたちにプラスチックのノコギリやゴムハンマーを渡したとしたら、何も良いことがありません。本物でないとき、つまり自分たちが真剣に受け止められていないとき、子どもたちはすぐに気づきます。だから大前提として、私たちは子どもたちを信頼しています。『大人から信頼されている』と感じられるとき、子どもたちは自分の創造性をより強く発揮して、多くの学びと喜び、自信を持てるようになると思います」。

とはいえ、リスクヘッジは徹底している。ミニ・ミュンヘンを支えるスタッフは、教育者、アーティスト、職人、および各分野の専門家など、その道のエキスパートたちだ。木工エリアには本物の大工職人、レストランには本物の料理人というように、各エリアに熟練のスタッフが配置され、道具の使い方や安全な扱い方を丁寧に教えながらも、子どもたちの自由を最大限に保つ。ここでの大人の役割は明確だ。「大人は、子どもたちの作り手や担当者ではなく、アシスタントです。物事がどのように機能するかを見せますが、やるのも決めるのも子どもたちなのです」。

この哲学の真価が、思わぬ形で証明されたことがある。2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、数千人の子どもを一会場に集めることは不可能になった。そこでミニ・ミュンヘンは、市内を4地区に分けた40拠点でのサテライト開催に踏み切った。

「とはいえ実際に始まるまで、このサテライト開催がちゃんと機能するのかとても不安でした。でも、子どもたちは初日から、一部の大人よりもずっと早く、この仕組みがどのように機能するかを理解したのです。子どもたちの信じられない賢さ、柔軟性、勇気に、あらためて感動しました」と、イネスさんは振り返る。街中に散らばった拠点と拠点をつなぐため、子どもたちはコールセンターやフードデリバリーサービスを開設。さらに、サテライト開催による影響で中央からの物資の供給が遅れると、業を煮やした子どもたちが独立運動を起こすなど、コロナ禍ならではのドラマも生まれた(ちなみに独立宣言は翌週には覆された)。

コロナ禍のミニ・ミニミュンヘンの様子2020年のコロナ禍でのミニ・ミニミュンヘンは、マスク着用、ソーシャルディスタンスを守りながら行われた

自由の中で出会う仲間たち

イネスさんによれば、ミニ・ミュンヘンに初めて来る子どもたちの多くにとって、ここでの体験は全く新しいものだという。「ミニ・ミュンヘンの外では、子どもたちはよく『これしてもいい?』と尋ねます。彼らは、大人に許可を求めることに慣れているのです。『トイレに行ってもいい?』『いつそこに行ける?』『ここで遊んでもいい?』といった具合です。一方、ミニ・ミュンヘンでは、彼らは非常に自主的に行動しています」。

ミニ・ミュンヘンの入口で子どもたちが最初に知ることは、「自分はここに入ることができる。でも、お父さんもお母さんも入れない」ということだ。中に入ると、そこにいるのはほとんどが子どもで、大人はスタッフとしてそこにいるだけ。その体験を通して、自分の行動には結果が伴うこと、自分が発言していいこと、自分が要求していいことを、子どもたちは自然に学んでいく。全く知らない子ども同士が出会い、チームになり、その友情がときに何年も続くのだ。

そしてミニ・ミュンヘンは、全ての子どもたちに開かれた街であることを常に意識してきた。第2・第3言語を話す子どもたちは翻訳者や多言語観光案内人として活躍でき、日本やトルコ、スペインなど世界各地の姉妹プロジェクトからのゲストも毎年訪れる。聴覚障害者協会と連携した手話コースも提供されており、特別なサポートが必要な場合は同伴者の帯同も可能だ。

子どもだったあの日から大人になった今も

ここで一つの事実に目を向けると、ミニ・ミュンヘンという場所の本質が見えてくる。毎回200人程度のスタッフがこのプロジェクトに関わるが、その多くはかつて子どもとしてミニ・ミュンヘンを体験した元市民たちだ。さらに16歳になった元市民はボランティアとして参加できるようになる。彼らはミニ・ミュンヘンのことを身をもって理解しており、子どもたちがどのように自由であるべきか、どのように子どもたちを守るか、どんなコミュニケーションを取るべきかを知っている。そうした人の循環と経験の蓄積が、45年以上もの間ミニ・ミュンヘンを支えてきた。

そして驚くことに、一部のスタッフは普段は会社員をしており、年次有給休暇を3週間取ってこのイベントに参加するという。大人になった元ミニ・ミュンヘン市民たちは、何を求めてこの場所にまた戻ってくるのだろうか。「ミニ・ミュンヘンはある種のコミュニティーなんです。例えば、ある人が偶然レストランで出会った人と会話をする。『ミニ・ミュンヘンって知ってる?』『うん、昔参加していたよ』『私も! 』『本当に! ?』と、その会話だけで、彼らは即座にチームになれるのです。参加者同士の間には、信じられないほど強い絆があると思います」とイネスさんは語る。

たくさんの子どもたちが旗などを持ってパレード2024年の最終日のパレードの様子

子どもとして参加し、ボランティアになり、スタッフになる。あるいは今度は自分の子どもがミニ・ミュンヘン市民になる。ミニ・ミュンヘンの中では、実は子どもと大人はシームレスにつながっているのだ。そして大人たちは、子どもたちからたくさんの贈り物をもらう。イネスさん自身、前回のミニ・ミュンヘンでは本業のジャーナリストとして新聞編集局で子どもたちをサポートしたが、そのときのことをこう振り返る。

「例えば、私が子どもたちに『今日はこの記事を書きましょう』と言うことはありません。子どもたちはアイデアを持っていて、その発想はとにかく自由なんです。3週間が終わると、私たち大人の頭の中もまるで一新されたようになります。『ルールを守らなければ』『あれをしなければ』といったものが取り除かれて、子どものころに持っていたような創造性が戻ってくるような感覚がある。大人たちは再び遊びの喜びを見つけ、子どもたちを新たな目で見ることができます。信じられないほど面白く、力強く、熱狂的で、創造的な存在として。そしてこの情熱が私たちにも乗り移って、大人もまた自由になれるのです」。

ミニ・ミュンヘンの施設・職業を覗いてみよう!

ミニ・ミュンヘンの職業安定所

ミニ・ミュンヘンの職業安定所。1日の始まりには仕事の配分が各エリアで分散して行われるが、後で来た場合や仕事を変えたい場合はここに行く

ミニ・ミュンヘンの嗅覚研究室

嗅覚研究室は、銀行や新聞編集局の匂いなど、ミニ・ミュンヘンのさまざまな香りを研究する施設。独自の香水の開発も行っている

ミニ・ミュンヘンのすべてのエリアに停車するバス

ミニ・ミュンヘンには全てのエリアに停車するバス路線がある。運行間隔はそのときによる。最大8人まで同時乗車が可能

子どもたちで賑わうガーデニングセンター

ガーデニングセンターでは、各施設の緑化のための花やハーブなどを販売している

テレビ局「MüTiVi」

テレビ局「MüTiVi」は毎日、ミニ・ミュンヘンのその日の出来事を振り返るライブ番組を制作。ほかにも推理ドラマやホームドラマなども制作され、映画館で上映される

建設局は、新しく建てられる全ての建設プロジェクトを実行する

建設局は、新しく建てられる全ての建設プロジェクトを実行する。中央の看板には「KEINE ELTERN!!!」(親禁止!!!)と書かれている

 

その一口に歴史がある欧州で味わうB級グルメ

フィッシュ・アンド・チップス、カリーヴルスト、ファラフェル……。欧州の街角で食べるその味は、なぜその土地に生まれ、なぜ今も愛されるのか。本特集では、産業革命をはじめ、二度の世界大戦や東西分断、移民労働者など、「B級グルメ」の源流をたどる。さらに旅先で頬張りたい欧州の名物B級グルメを、その味が生まれた歴史や背景、発祥地をめぐる論争と合わせてご紹介。次の旅行がもっとおいしくなること間違いなし! (文:英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

欧州の「B級グルメ」はこうして生まれた

参考:Demographia / Old Bailey Online、BBC「Eating on the hoof: London's long history of street food」、Henry Mayhew, 「London Labour and the London Poor」、LeMO「Leben in Trümmern」、DW「Von der Currywurst zum Insektenburger」

産業革命と路上食文化の誕生

手軽で安くて、どこか懐かしい。世界中で愛される欧州の「B級グルメ」の原点をたどると、19世紀の産業革命に行き着く。工場労働者が都市に押し寄せたこの時代、労働者たちは昼食のために家へ戻る余裕などなかった。ヴィクトリア時代のロンドンでは、人口がわずか60年ほどで3倍に膨れ上がり、路上には数万人の行商人や露天商がひしめいた。エンドウ豆のスープ、温かいウナギ料理、ミートパイ。こうした腹にたまる一皿が、工場と寝床を往復する労働者たちの命綱となったのだ。産業革命は蒸気機関だけでなく、「路上で食べる文化」をも生み出したのである。

赤みを帯びた古いロンドン写真。貝売りのストールに集まる人たち1877年、ロンドンの貝売り。牡蠣やツブ貝などの貝類は、安くて栄養のある庶民の味として人気を集めた

20世紀に入ると、前世紀に芽生えた路上食文化は都市の風景に根を下ろしていく。英国ではフィッシュ・アンド・チップスの店が1930年代には3万5000軒に達した。ウィーンでは、オーストリア=ハンガリー帝国時代に復員兵士たちが移動式の調理台でソーセージを売り始めたのをきっかけに、ソーセージスタンドの文化が街角に広がっていった。しかし二度の世界大戦中は、各国で食料配給制が敷かれ、市民の食卓は厳しく統制された。

第二次世界大戦が終わると、欧州各地の軽食文化は新たな局面を迎える。とりわけ荒廃が激しかったドイツでは、がれきの合間に即席の食事処が立ち並んだ。設備投資がほとんどいらないこうした屋台や小店は、荒廃した街が再び動き出すための燃料のようなものだった。やがて各国で経済が上向き始めると食肉消費が伸び、ベルギーとフランスを発祥とするフライドポテトが肉料理の付け合わせとしても定着し、その文化が周辺諸国にも広がっていく。

戦後のベルリンで温かい食事を求めて集まる人々戦後のベルリンで温かい食事を求めて集まる人々。荒廃した都市では、移動販売や簡易食堂が人々の空腹を満たす貴重な存在だった

鉄のカーテンの向こう側で愛されたグルメ

冷戦時代に突入すると、西側で軽食文化が花開く一方、東側では事情がまるで違った。共産主義体制のもと、ポーランドでは国家が食の生産から流通までを握り、民間の外食産業はほとんど芽吹く余地がなかった。人々は市場の片隅や個人的なつてを頼りに食をやりくりし、国営の軽食スタンドが暮らしを支える数少ないよりどころだった。

ハンガリーは「グヤーシュ共産主義」(ハンガリーの代表的な煮込み料理になぞらえた呼称)と呼ばれる比較的穏やかな体制のもと、小さな食の商いが部分的に許されたものの、日常の食卓を担ったのは国営のセルフサービス食堂や缶詰・冷凍食品であり、街角で自由に食を商う風景は限られていた。

チェコスロバキアでも選択肢は乏しく、ヴァーツラフ広場に並ぶソーセージスタンドのような軽食売り場や国営の大衆食堂が、庶民にとって数少ない外食の場だった。だからこそ、制約のなかで生まれた味には独特の強さがある。フランスから持ち込んだバゲット技術で即席のピザトーストを作り上げたポーランドのザピエカンカ、中世から続くパン窯の伝統を揚げ物に転じて夏の湖畔の名物にしたハンガリーのラーンゴシュ。乏しい食材と限られた自由のなかで磨かれたこれらの一品は、体制が変わった今もなお東欧の街角で愛され続けている。

ポーランドの伝統的なミルク・バーで行列する人々ポーランドに残る伝統的なミルクバー。共産主義時代、安価な大衆食堂は欠かせない食の場だった

移民の波と異国の味

一方、同じ時代の西側では、まったく別の力がB級グルメの地図を塗り替えようとしていた。戦後復興から高度成長へと向かう欧州に、決定的な彩りを加えたのが移民の波だった。1960年代以降、ドイツにはトルコ人労働者が渡り、1970年代にはベルリンの路上でドネルケバブのサンドイッチが売られ始めた。英国にはインドや西インド諸島からカレーやジャークチキンが、フランスには北アフリカからクスクスやメルゲーズが持ち込まれた。異国の味は各地の屋台の風景を変え、やがて街に根付いていった。

そして現在、健康志向やヴィーガン需要の高まりを受けて、ファラフェルやベジケバブが台頭し、欧州のB級グルメは変化し続けている。安さと手軽さの裏には、労働、統制、戦後復興、移民という歴史の地層が何重にも折り重なっている。街角の味とは、いつの時代もその社会の姿を映す鏡なのかもしれない。

旅先で味わいたい!欧州のB級グルメ図鑑

編集部が厳選した欧州9 カ国のB 級グルメを、その特徴や背景とともにご紹介。路上や市場のカウンターで手渡される一皿こそが、旅の記憶に深く刻まれることも。高級レストランでは出会えない、その土地ならではの味を楽しんで!

参考:National Federation of Fish Friers、BBC「Why are Cornish pasties still so popular?」、So Dutchie「Why do Dutch people eat raw herring… and love it?」、Belga News Agency「Belgian inventions: Frites」、berlin.de「Döner Kebab ist eine Berliner Erfindung」、OÖNachrichten「Wir sind die Erfinder der Original-Käsekrainer」、Culture. pl「Polish Food 101 – Zapiekanka」、Radio Prague International「Utopenec: a Czech pub classic」、HungaryToday「Lángos – The Most Ancient of Hungarian Foods」、Tasting Table「This Spanish Seafood Sandwich」

UK英国 Fish and Chips
フィッシュ&チップス

フィッシュ&チップス

サクサクの衣をまとった白身魚と太めのチップス(フライドポテト)に、塩とモルトビネガーをたっぷり振って食す英国の国民食。19世紀、鉄道網の発達で新鮮な魚が内陸にも届くようになり、産業都市の労働者の間で爆発的に広まった。第2次世界大戦中も配給制の対象外だったため、人々の空腹を満たし続けた。フィッシュ・アンド・チップスの店は今も全英に約1万500軒を数え、その数は英国最大のチェーン店であるグレッグスと比べても約4倍、マクドナルドの約7倍に上る。

UK英国 Cornish Pasty
コーニッシュ・パスティ

コーニッシュ・パスティ

肉とジャガイモ、タマネギ、スウィード(カブの近縁種)をパイ生地で半月形に包んで焼き上げるコーンウォール地方の名物。もとは14世紀に上流階級が食べていたが、18世紀頃から労働者の食卓にも広まり、とりわけ19世紀のスズ鉱山の隆盛とともに坑夫たちの弁当として定着した。素手で持てるよう縁を厚く編み込み、ヒ素で汚れた手が食材に触れないよう持ち手として使ってそのまま捨てたという伝承が残っている。2011年には欧州連合(EU)の地理的表示保護(PGI)を取得。

スペイン国旗スペイン Bocadillo de Calamares
ボカディージョ・デ・カラマレス

ボカディージョ・デ・カラマレス

カリッと揚げたイカのリングをバゲットに挟んだだけの、潔いほどシンプルなマドリード名物。内陸の都市マドリードでイカのフライが一般的になったのは、沿岸部から安価なイカが大量に流通するようになったことが背景にある。マヨール広場周辺のバルに入り、カウンターで注文すれば数分で出てくる気軽さも魅力。レモンをひと絞りするだけで、衣のサクサク感とイカの弾力がパンの柔らかさと絶妙に調和する。昼下がりの生ビールとの相性は抜群だ。

ハンガリー国旗ハンガリーLángos
ラーンゴシュ

ラーンゴシュ

イースト入りの生地を揚げたハンガリーの伝統的なストリートフード。名前はハンガリー語で「炎」を意味する「ラーング」に由来し、かつてはパン窯の火でフラットブレッドとして焼き上げていた。現代ではサワークリームとすりおろしチーズをたっぷり載せて、揚げたてを食べるスタイルが定番。ブダペストの中央市場や夏のバラトン湖畔の屋台で最も頻繁に出会える。表面はカリッと、中はもちっとした食感で、酸味の効いたクリームとチーズの塩気が絶妙に重なる一枚だ。

フランス国旗フランスFalafel
ファラフェル

ファラフェル

ひよこ豆をすりつぶしてスパイスを加え、カリッと揚げた中東生まれの一品。パリでは、マレ地区のユダヤ人街リュ・デ・ロジエがファラフェルの聖地として知られる。1979年創業の「ラス・デュ・ファラフェル」をはじめとする名店が軒を連ね、行列が絶えない。ピタパンに揚げたてのファラフェル、ナス、キャベツ、フムスを詰め込んだサンドイッチを、通りに立ったまま食べるのがパリ流だ。北アフリカや中東からの移民が育んだこの味は、今やパリを代表するストリートフードの一つ。

ドイツ国旗ドイツCurrywurst
カリーヴルスト

カリーヴルスト

ぶつ切りにした焼きソーセージに甘辛いトマトベースのソースをたっぷりかけ、カレー粉をまぶして紙皿で提供するカリーヴルスト。復興期の労働者たちの間で広まり、いまやドイツ全土で年間8億本以上が消費される国民食である。本場ベルリンでは皮なし(ohne Darm)タイプを小さな木のフォークで突き刺し、カレー粉の山を崩しながらいただく。考案者ヘルタ・ホイヴァーは1959年にソースを「Chillup」として商標登録しているが、発祥の地をめぐっては別の物語もある。

ドイツ国旗ドイツDöner Kebab
ドネルケバブ

ドネルケバブ

1972年、トルコからの労働者であるカディル・ヌルマンが、ベルリン動物園駅前の屋台で回転グリルの肉をパンに挟んで売り出したのが、ドイツ式ドネルケバブの原型とされる。故国の味を手軽に再現したいという移民労働者の思いから生まれ、今やドイツ最大級のファストフードに成長。たっぷりの野菜、ヨーグルトソース、そして薄切り肉がフラットブレッドからはみ出すボリューム感がたまらない。深夜の駅前やクラブ帰りにかぶりつくのが、ドイツのナイトライフの定番だ。

オーストリア国旗オーストリアKäsekrainer
ケーゼクライナー

ケーゼクライナー

豚肉のソーセージの中にエメンタールチーズの角切りを忍ばせ、グリルで焼き上げるウィーンの名物。1960年代後半にオーバーエスターライヒ州の料理人らが考案したとされる。かぶりつくと、中からとろりと溶けたチーズが溢れ出す。購入する場所はウィーン市内の路上に点在するソーセージスタンド。この屋台文化自体が2024年にオーストリア・ユネスコ委員会の国内無形文化遺産目録に登録された。溶けたチーズの熱さに顔をしかめながらも、かぶりつく手が止まらない。

オランダ国旗オランダHaring
ハーリング

ハーリング

塩漬けのニシンを街角の屋台でそのまま頬張る、オランダを代表するストリートフード。14世紀に内臓処理と塩蔵の技法が広まり、漁師のウィレム・ボイケルスゾーンが考案したといわれている。保存性を増したニシンは、黄金時代のオランダを支える交易品となった。尾をつまんで頭上に掲げ、上を向いてそのまま口に運ぶのが伝統的な食べ方だが、実際には刻みタマネギとピクルスを添えた一口大の切り身を爪楊枝で食べるのが一般的。白パンに挟んだ「ブローチェ・ハーリング」も人気だ。

ベルギー国旗ベルギーFrites
フリッツ

フリッツ

「フレンチフライ」の名で世界に知られるが、発祥を巡ってベルギーは強い自負を持つ。17世紀、ムーズ川流域で冬場に小魚が獲れず、代わりにジャガイモを揚げたのが始まりとされる。低温でじっくり火を通し、高温で二度目を揚げて外はカリッ、中はホクホクに仕上げるのがベルギー流。街角の「フリチュール」と呼ばれる専門屋台でコーン型の紙袋に盛られ、マヨネーズなどの多彩なディップとともに供される。2014年、このフリッツ屋台文化はベルギー国内の無形文化遺産に。

ポーランド国旗ポーランドZapiekanka
ザピエカンカ

ザピエカンカ

バゲットを縦半分に割り、マッシュルームとチーズを載せて焼き上げ、ケチャップをたっぷりかける「ポーランド式ピザトースト」。1970年代、ギェレク政権下でフランスからバゲット製造のライセンスが導入されたことで広まった。とろけたチーズとマッシュルームの旨み、甘酸っぱいケチャップがたまらない。限られた食材で満足感を生んだ社会主義時代の庶民の知恵が詰まった一品で、クラクフ・カジミエシュ地区ノヴィ広場の丸い建物に並ぶ屋台群はその聖地となっている。

B級グルメ「発祥地論争」は終わらない

B級グルメには、しばしば「うちが元祖だ」という発祥地論争がつきまとう。記録が乏しいからこそ土地の誇りと物語が絡み合い、真相はいっそう味わい深くなる。

英国のフィッシュ・アンド・チップスは、そもそも別々の文化から生まれた二つの食べ物だ。フライドフィッシュは16世紀にユダヤ系移民がロンドンに持ち込み、チップスは産業革命期の北イングランドで労働者の腹を満たしていた。この二つを一皿に合わせたのは誰かというと、1860年頃にロンドンのイーストエンドで店を開いたジョセフ・マリンと、1863年にランカシャーのモスリーで売り始めたジョン・リーズの二人が名乗りを上げているが、決定的な証拠はいまだない。

ドイツのカリーヴルストはさらに入り組んでいる。1949年にベルリンの屋台でヘルタ・ホイヴァーがカレー粉入りソースを考案したとされるが、ハンブルクの作家ウーヴェ・ティムは「1947年に子どもの頃、ハンブルクで食べた」と主張し、自身の小説にも登場させた。さらにルール地方も炭鉱労働者のソウルフードだと譲らない。ベルリンには記念プレートが、ハンブルクには架空の発明者を称える銘板が、ルール地方には地元愛を歌った一曲があり、この論争の決着は見えそうにない。とはいえ、こうした正解のない論争が続くのは、それだけ多くの街がこの味を愛している証拠にほかならないだろう。

 

企画展「Unter Tage fern der Heimat
- 故郷から遠く離れた炭鉱で」
ルール地方の炭鉱にいた日本人たち

2026年5月末から、ルール地方における日本人炭鉱労働者に焦点を当てた企画展がデュッセルドルフで開催されている。しかし第二次世界大戦後、ルール地方の炭鉱でおよそ400人の日本人が働いていたことはあまり知られていないかもしれない。なぜ彼らはドイツの炭鉱にいたのか、その歴史を少し覗いてみたい。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、協力:Keyworker Oberkasselplus、竹の会)

参考:『Japanische Bergleute im Ruhrgebiet』(Klartext Verlag)、デュッセルドルフ日本商工会議所「160年の経済パートナー 日独経済産業交流の変遷と展望」

ルール地方の炭鉱にいた日本人たち

なぜ日本からドイツの炭鉱へ?

ルール地方は、ドイツ北西部のライン川流域に広がる欧州最大の工業地帯。19世紀以降にルール炭田の開発が進み、工業の中心地となった。しかし第二次世界大戦後、西ドイツは労働力不足に悩まされ、ルール地方の炭鉱労働のような危険を伴う仕事は特にその傾向が強かった。その一つの解決策として、西ドイツはイタリアやトルコと政府間協定を締結し、ガストアルバイター(外国人労働者)を導入。その流れのなかで、1956年に日独政府間でも「ルール炭鉱鉱業における日本人炭鉱労働者の期限付き就労に関する計画」が締結されたのだった。

具体的には、日本の炭鉱で3年以上坑内労働を経験した21~30歳までの500人以内の炭鉱労働者を、3年間ルール地方の炭鉱に派遣することになった。その目的とは、炭鉱における最新技術を習得すること、日独の親交を深めること。そして、1957~1965年の期間に計436人の日本人労働者がドイツの三つの炭鉱に派遣された。

プログラムが開始された当初、ドイツ側はあくまで労働者不足を補うことを目的としていたため、日本人炭鉱労働者たちは期待していたような研修を受けることができなかったという。しかしその後の交渉によって、ドイツ語の授業期間の延長、技術習得のための定期的な異動、資格取得の機会などが認められるようになる。

一方で、当時の日本はエネルギー転換期にあり、石炭から石油や原子力への移行が進められ、石炭業界は衰退へ向かっていた。そのため、派遣目的も当初の「技術習得」から「炭鉱離職者のための雇用措置」へと変更される。引き続き1500人以上の炭鉱労働者が日本から派遣される計画だったが、1962年の第5陣の派遣を最後に予定よりも早くプログラムは終了することになった。

ドイツ人たちに交じって働く日本人炭鉱労働者ドイツ人たちに交じって働く日本人炭鉱労働者

ドイツに残った日本人

プログラム終了後、ほとんどの人は日本へ帰国し、日本では日本人の元炭鉱労働者による「グリュック・アウフ会」が創立された。一方、そのままドイツで就職や進学をして現地に残った日本人はおよそ30人。多くがドイツ人と結婚して家庭を築いた。そのなかの一人が、 執行 ( しぎょう ) 龍美さんだ。

20歳だった執行さんは日本の炭鉱で働いた際、ドイツ派遣の募集について知った。身長165㎝以上の健康な若者で、未婚であることも応募条件だった。厳しい選考を通過した執行さんは、1960年にプロペラ機でいくつもの経由地を経てデュッセルドルフに到着し、デュースブルクの炭鉱に配属された。

研修後、地下1500メートルの採掘に従事した執行さん。暗く気温28度という環境のなか、重い防護服を着ての作業は過酷なものだった。また、ドイツ人の同僚が事故死するという悲劇も経験。一方で寮生活は快適で、自由時間には居酒屋やダンスホールで過ごしたという。そこで執行さんは人生の伴侶となるドイツ人女性と出会う。契約終了後に結婚してドイツの炭鉱に残り、53歳まで働いた。

現在もクーレヴェで静かに老後を送る執行さん。「ほかの日本人炭鉱労働者たちと土曜夜に飲みながら、日本の軍歌を歌ったりしましたね」と当時を懐かしむ。3日間休むとクビになるという厳しい労働条件だったと話し、執行さんが見せてくれた当時の明細書にはたった1日だけ有休を取得した記録が。前日に飲み過ぎたため医者に行き、就労不能証明書を発行してもらったのだと執行さんは笑う。

現在も定期的に日本へ一時帰国しているが、長くドイツに住んでいるため、日本語よりもドイツ語で話す方が慣れてしまったという。80代後半になり、一緒にドイツへ来た元炭鉱労働者の仲間たちが一人ひとり旅立っていくなか、執行さんのような歴史の証人はますます貴重な存在になっている。

歴史を語り継ぐために

今回の企画展は、デュッセルドルフの市民団体「Keyworker Oberkasselplus」が主催する。リタイアしたドイツ人が主要メンバーで、これまでも地域に密着した芸術文化や社会問題に関するプロジェクトの数々を実施してきた。しかしなぜ日本人炭鉱労働者を取り上げることになったのだろうか。

きっかけは、中心メンバーの一人アネッテ・クロッツさんが日本人炭鉱労働者についてまとめられた書籍『Japanische Bergleute im Ruhrgebiet』を読んだことだった。その後、2024年にケルン日本文化会館で開催された企画展「ルール炭田の日本人」にも足を運んだ。「驚いたことに、周りの日本人のほとんどがこの歴史について知らなかったんです。私たちがデュッセルドルフの日本人グループ『竹の会』と交流を続けてきたこともあり、日独交流の一環として展示を企画することにしました」とクロッツさんは話す。

企画展は、竹の会が拠点とする福祉施設「ディアコニー」で開催されている。ルール地方の日本人炭鉱労働者の歴史や当事者の証言を日独両言語でパネル展示するほか、事前に開催された版画ワークショップで参加者が日本人炭鉱労働者をテーマに彫った作品も。

執行さんも企画展の協力者の一人だ。「孫に『おじいちゃん、石炭って何?』と聞かれて、驚いたことがありました。今回のように取り上げてもらえることはうれしいです」と執行さん。私たち在独邦人の先駆者でもある彼らの歴史を語り継いでいくため、そしてクロッツさんたちの思いに日本人として応えられるよう、ぜひ企画展へ足を運んでみてほしい。

INFO

企画展「Unter Tage fern der Heimat - 故郷から遠く離れた炭鉱で」

企画展「Unter Tage fern der Heimat
- 故郷から遠く離れた炭鉱で」

2026年5月30日(土)~7月11日(土)
Diakonie, Gemünderstraße 5, 40547 Düsseldorf
※平日12:00~14:30開館
※週末に見学希望の場合は担当者まで要連絡

TEL: 01741920737
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