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特集


おすすめコンベンション6選付き ドイツのアニメ・漫画ブームを
ひも解く

近年ドイツでも日本のアニメ・漫画が以前よりもずっと身近になってきた。特にコロナ・パンデミックによるステイホームを機にアニメを見る人が増えたと同時に、ドイツ国内でも漫画の売上は右肩上がりで、ますます人気が高まっている。本特集では、そんなドイツのアニメ・漫画ブームの歴史をひも解くとともに、ドイツ国内でアニメ・漫画の世界をもっと楽しむことができる選りすぐりのコンベンションをご紹介!
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:松澤淳「ドイツにおけるアニメの受容-1970年代のテレビシリーズから考える-」(明治大学教養論集刊行会)、細川裕史「ドイツにおける日本マンガの受容について」、 J-BIG「漫画の人気は上昇中、ドイツでも大きな可能性を秘めている」、Carlsen「Meilensteine der Carlsen Manga!-Geschichte」、Laura Byell; Karishma Schumacher「Die deutsche Cosplayszene」、日本経済新聞「コスプレじゃ物足りない 日本アニメ演劇、ドイツで進化」、tagesschau「Erfolg der Manga: Japanische Comics erobern den Buchmarkt」、buchreport「Manga: Der anhaltende Boom」、iammangaka.com

Prolog

欧州で最も日本のアニメ・漫画を愛してやまない国……それは残念ながらドイツではなく、フランスである。もともと「バンド・デシネ」と呼ばれるコミック文化があった同国は、早くから日本の漫画を受け入れ、今や日本に次ぐ世界第2位の漫画市場だ。欧州最大の日本文化イベント「ジャパンエキスポ」の開催地でもあり、欧州のアニメ・漫画文化をリードしてきた。隣国ドイツはそんなフランスの影響も多かれ少なかれ受けていると思われるが、独自の歴史をたどって今日のアニメ・漫画ブームを迎えることになる。

Folge 1
1970年代に日本アニメが進出
初の放映作品は3話で打ち切りに!?

西ドイツで初めて日本のアニメが放送されたのは1971年のこと。記念すべき最初の放映作品はARD(ドイツ公共放送協会)が放送した、カーレースアニメの金字塔「マッハGoGoGo」(Speed Racer)だった。すでに放送していた米国では大変な人気で、ドイツでもヒット間違いなし……のはずだったが、そうはいかなかった。同作に含まれていた暴力表現(車が炎に包まれて人が死ぬなど)に対して視聴者から厳しい批判の声があったのだ。シュピーゲル誌やヴェルト紙などのメディアからもこてんぱんに批判され、「マッハGoGoGo」は3話で打ち切りとなってしまう。ARDはそれ以降、日本の独自のシナリオによるアニメの放送を躊躇したのだろう、1990年代まで例外を除いて日本アニメはほとんど放映されなかった。

そのころZDF(ドイツ第2テレビ)では、限られた予算で新しいスタイルの子ども番組について模索していた。経費節約のため複数の国による共同制作の案が持ち上がり、各国の言語や文化の障壁を比較的簡単に越えられるものとして、アニメを制作することが決まる。そうして注目されたのが、すでにアニメ制作で定評のあった日本だった。

しかしARDの「マッハGoGoGo」の一件もあったため、日本に制作を全面的に依頼することは避けられていた。最終的にZDFとオーストリアのテレビ局、そして日本のアニメスタジオの3カ国共同制作が決まり、ドイツが中心となって考えたコンセプトとストーリーを日本でアニメーション化するという形に落ち着いた。そうして1974年に誕生したのが、アニメシリーズ「小さなバイキングビッケ」(Wickie und die starken Männer)だ。1976年には「みつばちマーヤの冒険」(Die Biene Maja)を放送。欧州の児童文学を原作としながら、日本の優れた技術によってアニメ化したことで大当たりし、両作とも特に批判を受けることなく最後まで放映された。その後も同じ手法でさまざまなアニメが日本で制作されることになる。

みつばちマーヤの冒険「みつばちマーヤの冒険」は日本では1975~76年、ドイツでは1976~77年に放映された

そして1977年、ZDFはアニメ「アルプスの少女ハイジ」(Heidi)のライセンスを購入し、放送をスタートさせた。ビッケ、マーヤと共に、ハイジは今もなおドイツで人気を誇り、何度も再放送され、リメイクもされている。これらのアニメを見て育ったドイツ人のなかには、ビッケもマーヤもハイジも、全て自国のアニメだと思っている人も少なくない。実際に、これらの作品のクレジットからは日本に関するものが取り除かれていた。その背景には、「マッハGoGoGo」の一件による日本アニメへのマイナスイメージがあり、「意図的に日本のものだと分からなくさせた」という当時のドイツ側の思惑があったとも考えられる。1980年代にはコストの都合で日本制作であることが分かるクレジットが記載されるようになったが、ドイツで純粋な日本のアニメが知られるようになったのはもう少し先である。

アルプスの少女ハイジ「アルプスの少女ハイジ」は、スタジオジブリ作品でおなじみの高畑勲監督、宮崎駿監督が制作に携わったことでも知られる不朽の名作

Folge 2
右綴じは「必ず失敗する」
一足遅くやってきた漫画ブーム

日本のアニメが比較的早い段階でドイツ市場に参入した一方、日本の漫画はまだまだ時間が必要だった。最初にドイツ語に翻訳されたといわれている漫画は、1982年にロヴォールト社から出版された『はだしのゲン』(Barfuß durch Hiroshima)。しかし、ドイツでは思うように受け入れられず、1巻のみの発売で終わっている(現在はカールセン社から全巻発売)。そもそもドイツでは、漫画(コミック)は子ども向けのものであるという偏見があった。本来、日本の漫画の多くは子どもから大人まで読めることが魅力の一つだが、ドイツでは子ども向けのものというレッテルが売れにくさの障壁となっていたのかもしれない。

転機は1991年。ドイツにおける大手漫画出版社の一つとして知られるカールセン社から、同社初のドイツ語訳漫画として『AKIRA』が刊行された。同作のアニメ映画上映もあったことから話題となったが、出版された『AKIRA』は欧州のコミックスタイルに合わせて全編カラー、日本語オリジナルの絵を反転させた左綴じだった。モノクロでは漫画は売れないとされていた時代に、日本特有の右綴じはもってのほかで「必ず失敗する」と言われていたという。

この右綴じの壁を打ち破った作品が『ドラゴンボール』(Dragon Ball)だった。そのきっかけは至って単純で、ライセンス購入の条件として、右綴じとすることが決められていたのである。カールセン社と並ぶ大手漫画出版社のエグモント社はこれを拒否。しかしカールセン社はこの条件を受け入れ、1997年にドイツで初めて右綴じスタイルの漫画として『ドラゴンボール』を出版した。まさかこの条件を受け入れる出版社はないだろうと考えていた日本のエージェントも、この決断には驚いたという。また、印刷の方向が間違っているとして、同社に漫画を送り返してくるドイツの書店もあったとか。ところが、ドイツの読者たちは思っていたよりずっと柔軟だった。「右綴じは必ず失敗する」というジンクスは見事に破られ、『ドラゴンボール』は大成功を収めたのである。現在では、ドイツで出版されている漫画は、原則的に日本と同様に右綴じとなっている。

Dragon Ball 1Dragon Ball 1
Akira Toriyama
発行元:Carlsen Verlag
発行日:1997年9月22日
定価:7.00€(税込)

その後、カールセン社は次々と日本の漫画を翻訳して出版。『ドラゴンボール』の出版を断念したエグモント社も、1997年に『美少女戦士セーラームーン』(Sailor Moon)を発売してヒットし、ドイツに漫画ブームが到来した。さらに2001年には、カールセン社から日本の少年漫画誌をモデルとした月刊「BANZAI!」が刊行される。『NARUTO』や『HUNTER×HUNTER』など日本でもおなじみの作品がドイツの漫画ファンに届けられた。残念ながら2005年で休刊となったが、2003年にスタートした少女漫画誌「DAISUKI」は、2012年まで続いた。

「BANZAI!」250ページ以上のボリュームで刊行されていた月刊「BANZAI!」。日本の漫画誌のように付録のある号も

Folge 3
本格的なアニメブームの到来
コスプレ文化が花開く

1970年代以降もZDFは日本制作のアニメを放映していたが、「世界名作劇場」の作品が中心で依然子ども向けであった。しかし1993年に民間放送RTL2が開局すると、さまざまな日本のアニメが放映されるようになる。同局はドイツの無料放送で最も多くの日本アニメを放映したテレビ局として知られる。なかでも、1997年に放送がスタートした「美少女戦士セーラームーン」が大ヒット。1999年には「ドラゴンボール」や「ポケットモンスター」(Pokémon)の放送がスタートした。その後も「ONE PIECE」や「NARUTO」など、次々と人気作品がドイツ全土で放送され、多くの子どもたちがこれらのアニメを見て育った。

一方、セーラームーンのヒットにより、ドイツでもコスプレ文化が花開くことになる。1998年には、「Neo Moon Project」と呼ばれるセーラームーンに特化したイベントが開催され、セーラームーンのコスチュームに身を包んだファンたちが集まった。翌年には、ドイツ初のアニメ・漫画コンベンションである「AnimagiC」がコブレンツで開かれる。同コンベンションは、1994年に同人誌としてスタートしたアニメ専門誌「AnimaniA」が主催。AnimaniAは現在も月刊誌として発行が続けられており、多くのアニメファンに読まれている。AnimagiCではコスプレイヤーが集まっただけでなく、関連書籍やフィギュア、ビデオ、CDなどの販売が行われた。当時のファンたちにとって夢のような空間だったに違いない。

セーラームーンのコスプレセーラームーンのコスプレは今でも男女問わず人気が高い。写真は2022年にエアランゲンで開かれたComic-Salonのコスプレイヤーたち

その後も、2002年に始まった「Connichi」、国内最大で知られる「DoKomi」などをはじめとする、大小さまざまな規模のアニメ・漫画コンベンションやコスプレ大会などが行われるようになった。ちなみにドイツのコスプレ文化の一つの特徴として、コスプレイヤーによる二次創作劇「ショーアクト」(Showact)がある。コスプレイヤーたちが自らオリジナルの脚本や衣装を用意して披露する演劇やミュージカルで、ドイツのアニメ・漫画コンベンションに欠かせないものだ。今日では、日本アニメ専門のショーアクト集団がドイツ国内に100以上あるという。

Folge 4
コロナ禍で再びブーム!
コミックの3冊に2冊は漫画の時代

アニメ専門のクランチロールをはじめ、ネットフリックスなどの動画配信サイトが普及したことで、ここ10年でアニメはさらに身近になった。RTL2の黄金期であった1990~2000年代、ドイツでは年に数本のアニメシリーズしか見られなかったのが、現在は数多くのアニメ作品をいつでも合法的に視聴することができる。さらに、コロナ・パンデミックのロックダウンでステイホームを余儀なくされたことが、世界中でアニメ需要を押し上げたのは言うまでもないだろう。最近では、日本の新作アニメがドイツ語を含む多言語で同時配信されることも増えてきている。

コロナ・パンデミックは、漫画の売上にも大きな影響を与えた。2023年時点で、ドイツで販売されるコミックの3冊に2冊は日本スタイルの漫画だという。 buchreportによると、ドイツ市場における2021年の漫画の売上は前年比75%という記録的数字を打ち出している。ドイツ国内のメディア分析を行っているMedia Controlによれば、2017年には年間945冊の漫画が出版されたのに対し、2022年にはそれが1390冊に増加。実際に、カールセン社の漫画の売り上げもコロナ禍からの3年間で2倍以上になっているといい、ほかの出版社も同様の傾向がみられる。なお、カールセン社の読者層は13~40歳が中心で、『ドラゴンボール』や『美少女戦士セーラームーン』で育った世代が含まれているほか、この数年でそれらの「古典漫画」を初めて知った若い読者も増えているという。

同時に、アニメ・漫画コンベンションの数や規模も年々拡大している。デュッセルドルフで開催される「DoKomi」は、2023年に開催期間をそれまでの2日間から3日間に拡大し、2024年には過去最高記録となる計18万人が来場した。

今ドイツで人気の漫画

2024年の売り上げ上位25位までに入っていた作品
カッコ内は日本語タイトル

  • Jujutsu Kaisen(呪術廻戦)
  • Naruto(NARUTO - ナルト-)
  • Solo Leveling (俺だけレベルアップな件)
  • Dragon Ball (ドラゴンボール)
  • One Piece (ONE PIECE)
  • Chainsaw Man (チェンソーマン)
  • Spy x Family (SPY×FAMILY)
  • Die Tagebücher der Apothekerin (薬屋のひとりごと)
  • Demon Slayer (鬼滅の刃)
  • Berserk (ベルセルク)

出典:ドイツ図書流通連盟(2024年1月1日~12月10日)
※売り上げ順(複数巻ランクインしていた作品も含む)
※「俺だけレベルアップな件」は韓国の漫画作品

Folge 5
より多くの人に届けるために
ドイツのアニメ・漫画の未来は?

さらに漫画文化を広げようと、ドイツ語圏では「MANGA DAY」と呼ばれるプロジェクトが行われている。これは大手のカールセン社やエグモント社をはじめとした漫画を刊行する出版社が垣根を越えて企画したもので、ドイツ、オーストリア、リヒテンシュタイン、スイスの書店や図書館で、試し読み用の無料コミックを配布するという試みだ。第3回を迎えた2024年は9月21日に開催され、およそ1300のスポットで30種類のサンプル漫画を配布。まだ漫画を知らない人が漫画に触れる機会になっているといい、漫画からアニメにハマる人も間違いなくいるはずだ。

MANGA DAY2023年に開催されたMANGA DAYのポスター

2023年に実施されたMANGA DAYでは、出版社altraverseから初お披露目となったドイツ語漫画『Children of Grimm』が配布リストに加えられていた。二人の若手作家による日本スタイルの漫画で、同作品は当時未完成だったが、人々の反応を見る目的も兼ねてMANGA DAYで配布。同社のヨアヒム・カプス氏は、長年にわたってドイツにおける漫画ブームを支えてきた人物で、同作品の立役者でもある。きっと好感触を得られたのだろう。2024年12月には、『Children of Grimm』の第1巻が出版されている。

日本のアニメ・漫画に影響を受け、ドイツで漫画家を目指す人も少なくない。漫画ブームが到来して間もない2001年には、すでにカールセン社からドイツ語話者による漫画が出版されている。ドイツ初の女性漫画家として知られるクリスティーナ・プラカ氏も、2002年に同社の月刊「DAISUKI」で連載デビュー。現在は、漫画家を目指す人々へのコース「i am mangaka!」を開講している。同コースはオンラインで受講可能で、ドイツ全土に多くの受講者がいる。ほかにも多くのワークショップやコンペティションなどが、出版社やコンベンション主催で存在する。今もドイツ各地の漫画家の卵たちが、デビューの日を夢見ながら日々机に向かっている。

MANGA DAYChildren of Grimm, Band 01 Aljoscha Jelinek / Blackii
発行元:altraverse
発行日:2024年12月16日
定価:10.00€(税込)

Epilog

ここ数年のアニメ・漫画ブームを受けて、カールセン社の漫画部門で編集長を務めるカイ=シュテファン・シュヴァルツ氏は、将来的にドイツ生まれの漫画作品がもっと増える見込みがあると考えているという。ドイツの漫画が日本語に翻訳される日もそう遠くないかもしれない。ドイツではすでにブームの段階を越えて、アニメ・漫画がメインストリームとして認識されつつあるともいえる。一方でドイツの2024年の漫画総売上は約1億ユーロと予想されているが、フランスの3億8100万ユーロ(2022年)にはほど遠い。まだまだ伸びしろのあるドイツで、さらにアニメ・漫画の文化が広まっていくことに期待したい。


2025年に行ってみたい
ドイツのアニメ・漫画
コンベンション6選

昨今のアニメ・漫画ブームにより、コンベンションもますます人気に。数あるコンベンションの中から、ドイツのアニメ・漫画ファンが「一度は行ってみたい!」と思うものをピックアップ。実際に足を運んで、ブームを体感しよう!

ブックメッセの中で開催! Manga-Comic-Convention
漫画・コミックコンベンション

Manga-Comic-Convention

「Manga-Comic-Convention」(MCC)は、フランクフルトと並んで有名なライプツィヒ・ブックメッセ内で2014年から開催。4日間で28万人近くが訪れる同メッセでMCCをお目当てに来場する人はおよそ40%(約10万人)、MCC来場者の5人に2人はコスプレで訪れる。レベルの高いコスプレ大会のほか、国内外のゲストとの交流、新人アーティスト横丁などのほか、2025年はインディーズ系の漫画ブースが特別に設置される。公式キャラクターのMacoco(写真)は、オリジナルグッズ化もされているので、お土産にいかが?

日程 2025年3月27日(木)~30日(日)
会場 Leipziger Messe(ライプツィヒ)
www.manga-comic-con.de

ドイツ最大のアニメと日本エキスポ DoKomi
ドコミ

DoKomi

ドイツ最大のアニメ・漫画コンベンション「DoKomi」は、2009年にアニメ好きの若者たちが始めたエキスポ。第1回目は1800人規模だったが、現在はその100倍の18万人の来場者を誇る。「Doitsu Komikku Maketto」の略称で、日本の「コミケ」へのオマージュになっている。ドイツ初のメイドカフェやコスプレ舞踏会を企画するなど、常に新しいものに挑戦することがドコミのモットーだ。総面積20万平方メートルの会場は、1日では回り切れないくらい多くの出展者とイベントでにぎわう。チケットは毎年完売するほど人気なので、早めの予約がベター!

日程 2025年6月6日(金)~8日(日)
会場 Messe Düsseldorf(デュッセルドルフ)
www.dokomi.de

ライン=マイン地域のファンたちに! Wie.MAI.KAI
ヴィー・マイ・カイ

Wie.MAI.KAI ヴィー・マイ・カイ

2007年にライン=マイン地域のアニメ・漫画ファンたちによって始まった「Wie.MAI.KAI」(WieはWiesbaden、MAIはMainz、KAIは日本語の会)。2009年からは同名の非営利団体として活動しており、コンベンションのほかにコスプレイベントなども開催する。会場はフランクフルトとマインツの中間に位置するフレールスハイム。来場者は2日間でおよそ3000人と比較的小規模だが、ワークショップ、カラオケボックス、メイドカフェ、ショーアクト、コスプレ舞踏会、日本伝統文化や日本食の紹介など、盛りだくさんの内容になっている。

日程 2025年6月21日(土)~22日(日)
会場 Stadthalle Flörsheim(フレールスハイム)
www.wiemaikai.de

テーマパークを会場にコスプレ撮影 Anime Messe Babelsberg
アニメメッセ・バーベルスベルク

Anime Messe Babelsberg

「Anime Messe」は2016年にベルリンで始まったコンベンションで、2022年からはブランデンブルク州バーベルスベルクで開催されている。その特徴はなんといっても、テーマパーク「Filmpark Babelsberg」が会場になっていること。撮影にぴったりな中世や西部劇の街並みなどのセットが並び、コスプレイヤーたちにとっては夢のような場所だ。2024年は3日間で2万2000人が来場。土曜夜には花火大会が行われ、日本の夏も体験できる。12月5~7日にはカッセルで「Anime Festival Kassel」も開催されるので、こちらもチェック。

日程 2025年7月4日(金)~6日(日)
会場 Metropolis-Halle / Filmpark Babelsberg(バーベルスベルク)
www.animemesse.de

ドイツ最古のアニメ・漫画コンベンション AnimagiC
アニマジック

AnimagiC

1999年に始まった「AnimagiC」は、アニメ雑誌「AnimaniA」が主催するドイツ最古のアニメ・漫画コンベンション。25年にわたってドイツのアニメ・漫画ファンのための交流の場として愛され続け、2024年は3日間で3万5000人が来場した。長年ドイツのアニメ界を引っ張ってきたアニマジックの特徴の一つといえば、ドイツ国内外からの豪華ゲスト。2024年は漫画家の伊藤潤二さんやアニメ「名探偵コナン」でおなじみの声優・山口勝平さんをはじめ、人気アニメの監督など多数登壇。2025年のゲストも続々発表される予定なので、お楽しみに!

日程 2025年8月1日(金)~3日(日)
会場 Rosengarten(マンハイム)
https://animagic.de

ファンによるファンのための祭典 Connichi
コンニチ

Connichi コンニチ

2002年に初開催された「Connichi」は、ドイツ最大のアニメファン団体「Animexx e.V.」のボランティアによって運営されるアニメ・漫画コンベンション。「ファンからファンへ」をモットーにしており、2014年にはドイツで日本文化を伝えることに貢献したとして外務大臣表彰を受賞している。豪華ゲストの登壇やショーアクトはもちろん、日本のお祭りの屋台をイメージした「Matsuri」エリアも人気だ。2023年からはヴィースバーデンに会場を変更。2024年には3日間で3万8000人が来場し、ますます盛り上がりを見せている。

日程 2025年9月5日(金)~7日(日)
会場 RheinMain CongressCenter(ヴィースバーデン)
www.connichi.de

最終更新 Dienstag, 28 Januar 2025 12:18
 

130周年を迎えた欧州映画の過去•現在•未来

映画誕生から130年。リュミエール兄弟が世界に初めて映像を映し出してから、映画は人々の夢や現実を映す強力なメディアとなってきた。特に欧州映画は、芸術性と社会的メッセージを両立させ、世界の映画史に多大な影響を与えている。この記事では、130年にわたる映画史を英独仏作品の視点から振り返りつつ、現代におけるその意義と、未来に向けた進化の可能性を探る。
(文・取材: 英国・ドイツニュースダイジェスト編集部)

1895-1920s
映画産業の創成期から黄金の20年代まで

映画の歴史的な始まりは、1891年に米国のトーマス・エジソンによって発明された映写機「キネトスコープ」とされている。これは箱型ののぞき窓から一人で映像を観ることができる機械だった。その後、1895年にフランスのリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」は、スクリーンへと動画を投影する形のもの。一度に多くの人が鑑賞できるようになり、世界初の商業的な映画上映を行ったことから、現代につながる映画の起源とされている。

「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟トーマス・エジソンと並ぶ映画発明者であり、
「映画の父」とされるオーギュスト(左)とルイのリュミエール兄弟

初めての上映が行われたのはパリのグラン・カフェで、リュミエール兄弟による「ラ・シオタ駅への列車の到着」「工場の出口」など、ワンショットで撮影された50秒ほどのショート・フィルムが公開された。映画を観た観客たちが画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から逃げ出したという逸話も残っている。

映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、その翌年には各国でも上映されるようになった。作品にも徐々に筋書きや演出などが加えられるようになり、1902年に公開された「月世界旅行」は、世界で初めてのストーリーラインを持ち、複数のシーンで構成された映画だった。さらにカメラの動きや編集技術が発展することで、より複雑で面白い映画が作られるように。1920年にドイツで公開された「カリガリ博士」がシュルレアリスムにも大きな影響を与えたほか、監督・俳優として名をはせたチャールズ・チャップリンが誕生したのもこの年代である。

月世界旅行 監督・主演: ジョルジュ・メリエス月世界旅行 Le Voyage dans la Lune
1902年/16分/サイレント
監督・主演: ジョルジュ・メリエス
世界初のSF映画。天文学者たちがカプセル型の宇宙船で月に向かう

大きな画期となったのが、1927年に米国で世界初のトーキー映画として製作された「ジャズ・シンガー」だ。トーキー映画の登場によって、登場人物の声やセリフ、音楽が折り合わさり、物語の伝え方も大きく変化していく。1929年にはディズニー制作のアニメーション「蒸気船ウィリー」、シュルレアリスムの傑作と称される「アンダルシアの犬」が公開。欧米を中心とした映画文化が一気に花開いていった。

参考: MoMA「History and development of film」、フランスニュースダイジェスト1019号「映画誕120周年 リュミエール家の軌跡をたどる」

英国 1920s-
英国とハリウッドの切れない関係

巨大な米国映画産業の流入

1910年ごろまでにロンドンを中心に30を超える映画スタジオが設立されており、国内外で英国映画の市場は拡大を続けていた。ところが、より収入が見込める長編映画産業が米国で発展したことで、1920年代の英国でも米国の作品が多数上映されるようになる。国内の映画産業の未来を危惧した英政府は、市場を守るための数々の策を打った。そのうちの一つが質の高い映画製作を推奨した1938年の映画法で、米国はそれをうまく利用して英国に自国の映画スタジオを多数設立することに成功。1930年代にスタジオを作ったワーナー・ブラザーズなど、米大手スタジオが英国で活性化するきっかけの一つになった。

1950年、政府は映画のチケット価格の一定割合に自主的に課税するイーディ税を導入。米国の映画でも英国で製作すれば製作資金を政府から受け取ることができたため、ハリウッドのスタジオは英国での映画作りをさらに進めるようになり、ユニバーサル、パラマウントなど米大手の製作会社も英国に参入した。両国の公用語が英語であるため、黎明期から英国の映画産業は米国とどうしても切れない関係になっている。

英国と米国の才能の行き来

米国の映画が英国で製作されたように、より大きな市場を求めて英国人の監督が米国に拠点を移したり、英米の共同作品が両映画市場でヒットしたりと、英国は米国の映画産業にも多大な影響を与えてきた。

特に知られているのは、英米で50本以上の長編映画を監督したアルフレッド・ヒッチコック。製図工、広告デザイナー、ライターとしてキャリアをスタートさせたのち、ロンドンでの映画業界で働き始めたヒッチコックは、暗い題材や最後のどんでん返しなどを巧みに取り入れ、国内外でたちまち売れっ子の監督になった。1939年には家族と共に米ハリウッドへ移住。数々のヒット作の中には、同名小説を原作とした「サイコ」があり、映画内で使われた音楽は今でもホラーの演出として頻繁に使用されている。

サイコ Psychoサイコ Psycho
1960年/109分/英語
監督: アルフレッド・ヒッチコック
主演: ジャネット・リー
「サイコ」のカチンコを持つアルフレッド・ヒッチコック

デヴィッド・リーンがメガホンを取り、第30回アカデミー賞で作品賞を含む7部門を受賞した、タイのクウェー橋を舞台にした戦争映画「戦場にかける橋」は英米合作映画として知られている作品の一つ。俳優で映画監督でもある早川雪洲も出演し、日本軍の捕虜になった英軍兵と日本人大佐との交流を描き、人間の尊厳と戦争の凄惨せいさんさを描いている。

サイコ Psycho戦場にかける橋 The Bridge on The River Kwai
1957年/161分/英語、日本語、タイ語
監督: デヴィッド・リーン
主演: ウィリアム・ホールデン

サイコ Psycho「戦場にかける橋」で
クウェー川鉄橋の前に立つニコルソン大佐(アレック・ギネス)と
斉藤大佐(早川雪洲)。
クライマックスの橋の爆破シーンは特に有名

同じく英米共同出資で作られた作品で有名なのは、ロンドン生まれのキャロル・リードが監督したミステリー映画「第三の男」。米国人の作家が友人の依頼を引き受けるためにオーストリアのウィーンを訪れたが、友人が亡くなったことを知り、その死に関与していた3番目の男の正体を探る。リード監督は、デヴィッド・リーンと共に英映画産業を活性化させた。

サイコ Psycho第三の男 The Third Man
1949年/105分/英語、ドイツ語
監督: キャロル・リード
主演: ジョゼフ・コットン

参考: https://publications.parliament.uk

ドイツ 1930s-40s
ナチス・ドイツとプロパガンダ映画

映画界にも政治が積極的に介入

「黄金の20年代」と呼ばれたワイマール共和国の時代が終わり、ナチスが政権を握った1933年のドイツ。宣伝相となったヨーゼフ・ゲッベルスは、映画にも政治が介入していくことを宣言する。翌年に映画法が施行されると、検閲が強化され、作品にはそれぞれ「政治的に価値がある」「国民を啓蒙する価値がある」など格付けが行われた。映画会社は国家が管理するUfa-Film GmbH(UFI)に統合。ユダヤ人は解雇され、映画界から完全に排除された。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

ナチス政権下では1000本以上の長編が製作されたが、政権が直接関与していたり、ナチスの価値観を具体的に体現していたりするような真のプロパガンダ映画は、そのうち10分の1程度。それらは今日でも危険とみなされ、公開が禁じられている。それ以外は現在でも鑑賞することができるが、ナチスのイデオロギーに基づいて理想化された完璧な社会のイメージや、敵の過激な描写などが含まれている。例えばアーリア人が優れた人種であることを意図するセリフがあったり、兵士がエキストラとして動員されていたりするため、芸術的に評価されていたとしても、ナチ時代に製作された作品であることを意識して観る必要がある。

ナチ政権下で映画を作った人々

レニ・リーフェンシュタールは、1933~35年にナチ党大会の記録映画を3本製作した人物で、1936年に開催されたベルリン・オリンピックの記録映画「オリンピア」を撮影した。「民族の祭典」と「美の祭典」の2部構成で、スローモーションなどの新しい技術や美しい構図、特殊なアングルを導入。スポーツを芸術と捉え、その後数十年間のスポーツ報道に影響を与えたといわれる。しかし、本作のアスリートは理想像や人種的な優越性を誇示するものとして解釈され、さらには平和の祭典を利用してアドルフ・ヒトラーとナチス・ドイツを肯定的に描いたことで、史上最も有名なプロパガンダ映画の一つとなった。リーフェンシュタールは2003年に亡くなるまで、作品は非政治的であり、自分はナチ党員ではなかったことを主張したが、本作にナチスが介入していたことに変わりはない。

オリンピア Olympiaオリンピア Olympia
1938年/第1部126分 第2部100分/ドイツ語
監督: レニ・リーフェンシュタール

オリンピア Olympia「オリンピア」の撮影をするリーフェンシュタール(写真右)。
撮影へのこだわりのあまり、何度も再撮したという逸話も残っている

また、1937年には初の日独共同製作映画「新しき土」が作られている。共同製作の構想は日独双方の政府に受け入れられ、ゲッペルスは製作費の半分を支出。ドイツ留学を終えた輝雄がドイツ人の恋人ゲルダと許いいなづけ嫁の光子との間で揺れ、伝統と現代的な価値観による葛藤を描く。ゲルダは完璧なアーリア人として描かれ、満州の描写は日本向けのプロパガンダとして捉えられる。共同監督と脚本を務めたアーノルド・ファンクはかつて山岳映画のパイオニアとして名をはせた人物。その後新作を撮影したものの、ナチスの意図を反映して完成させた作品に納得しなかったという。戦後は森林官として働き、1974年にひっそりと亡くなった。

新しき土 Die Tochter des Samurai新しき土 Die Tochter des Samurai
1937年/125分/ドイツ語、日本語
監督: アーノルド・ファンク、伊丹万作
主演: 原節子、小杉勇

「新しき土」「新しき土」には当時10代だった原節子が出演。
本作はドイツ版と日本版で若干内容が異なる

参考: filmportal.de、Die WELT「Zwei Völker ohne Raum」

フランス 1950s-60s
戦後の映画界を革新したヌーベル・ヴァーグ

映画改革運動を開始した若手批評家たち

フランスで1950年代末に興隆したヌーベル・ヴァーグ(新しい波の意)は、戦後のフランスという特殊な社会文化的背景の中に根を下ろした。当時のフランス映画は文芸作品の脚色を重視し、凝ったセリフや硬すぎる言い回しが飛び交う「良質な伝統」作品だった。ヌーベル・ヴァーグはそれをきっぱりと否定し、映画監督は小説家や画家のようにカメラで作家として自己表現できるものだと「作家主義」を主張した。これを率いた若手監督の代表はフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・シャブロル、エリック・ロメール、ジャック・リヴェット。撮影の経験はほとんどなく、リソースも少ないこれらの監督は、もともとは「カイエ・デュ・シネマ」という雑誌に批評家として寄稿していたため「カイエ派」と呼ばれている。

カイエ派の映画製作者たちは、現実とスクリーンに映し出されるものとのギャップにうんざりしていた。従来の映画のように「物語が過不足なく描かれているのか」という演出は重視せず、目の前に映る景色を記録に残すことに重きを置き、現実が映り込んでいく映画を撮るようになる。俳優たちは無名で、多くは若く平凡なキャラクターを演じる。台詞は単純で、しばしば偶然性と即興性を重視した。

例えば、ゴダール作の「勝手にしやがれ」では主役のベルモンドはパリの若者言葉を使い、ヒロインのセバーグは米国訛りのフランス語を訂正せずにそのまま生かす。技術の進歩により、軽量カメラと高感度フィルムが登場した時期でもあったため、大掛かりな装置は必要とせず、街頭で撮影することが可能だった。その上、パリの街中で車椅子にカメラマンを乗せて引っ張って撮影するなど、低予算かつ大胆な手法で見事な映像を作り上げた。「美しきセルジュ」を撮ったシャブロルは、自然光を捉えるのに長けたカメラマンを雇い、スタジオの照明では出せないような物事の微妙な輪郭や質感、老朽化と美しさの両方を浮かび上がらせる光を映し出した。こうして現実をかつてないほど身近に、そして物語を自然に表現できるようになったのだ。その後も「良質な伝統」に反抗しながら、各監督は独自のスタイルを開発していく。

ゴダール軽量カメラを持ち撮影するゴダール。ゴダールは伝統的な映画の形式を完全に打ち破る革新的なスタイルでその名を知らしめた

オリンピア Olympia勝手にしやがれ À bout de souffle
1960年/90分/フランス語
監督: ジャン=リュック・ゴダール
主演: ジャン=ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ

国境を越えて世界へ波及

ヌーヴェル・ヴァーグは1960年代末には求心力を失っていくが、フランス映画とその製作者たちが伝えるメッセージは国境を越えて広がっていった。 東欧では、ポーランド人のアンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキー、チェコ人のヴェラ・ヒティロヴァ、ラテンアメリカではブラジルの映画運動「シネマ・ノーヴォ」、そして日本の「日本ヌーヴェル・ヴァーグ」など各国に影響を与え、自国の映画の規範を破ることをためらわない新しい監督たちが出現していった。

オリンピア Olympia美しきセルジュ Le Beau Serge
1958年/98分/フランス語
監督: クロード・シャブロル
主演: ジャン=クロード・ブリアリ、ベルナデット・ラフォン

参考: 中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)、National Audiovisual Institute(INA)「François Truffaut parle de la Nouvelle Vague」、La BnF「La Nouvelle Vague au cinéma」

ドイツ 1950s-80s
東ドイツ唯一の映画製作会社DEFA

ナチスと決別した国営映画会社

第二次世界大戦後、西側連合国はナチスとメディアの深い結びつきからドイツでの新作映画製作に反対していた。一方で、ソ連は映画製作のため独ソ合資会社の設立を許可し、終戦の翌年にDEFA(Deutsche Film-AG)が誕生する。東西ドイツ分断後の1953年に国有企業になると、東ドイツでの映画製作は全てDEFAで行わなければならなくなった。DEFAではドイツが再統一されるまでに、長編映画700本、短編映画450本、アニメーション950本、ドキュメンタリー2000本、ニュース映画など2500本が製作された。

DEFAは設立1年目に3本の映画を製作し、そのうち1本はドイツの戦争犯罪を描いたものだった。その後も反ファシズムは、DEFA作品にとって重要なテーマの一つで在り続ける。そのなかで最も知られている作品が、映画「嘘つきヤコブ」だ。第二次世界大戦中、ポーランドのユダヤ人ゲットーに暮らすヤコブは、ゲシュタポに出頭した際にラジオでソ連軍が進軍していることを知る。その後ゲットーに戻ったヤコブはみんなにニュースを伝え、自分はラジオを持っていると嘘をつき、その後も人々に希望を与えるために嘘をつき続ける。本作は、DEFAの長編作品として唯一アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、1999年にハリウッドでリメイクもされている。

噓つきヤコブ Jakob der Lügner噓つきヤコブ Jakob der Lügner
1974年/100分/ドイツ語
監督: フランク・バイヤー
主演: ヴラスティミル・ブロツキー

噓つきヤコブ Jakob der Lügnerヤコブを演じたヴラスティミル・ブロツキー(左)はチェコの俳優。
1975年のベルリン国際映画祭では、その演技が評価されて銀熊賞を受賞した

社会主義体制で生まれた希望の作品

国庫からの資金で製作されたDEFAの映画は、誰にでも理解できること、曖昧にしないこと、文化政策の影響を受けてはならないとされていた。一方で国の厳しい体制のもと、社会主義体制に都合の悪い作品が上映禁止となることも。それは、東ドイツを指導した社会主義統一党(SED)が映画を芸術ではなく、政治的な手段として見ていたことを意味する。

映画「パウルとパウラの伝説」も、公開が危ぶまれた作品の一つだった。純愛ではなく、それぞれ家庭のある二人の恋愛を描いているからだ。公務員で既婚者のパウルとシングルマザーのパウラが関係を持つことは、個人の感情を優先するというエゴイズムであり、集団に重きを置く社会主義体制への隠れた批判であると捉えられた。SEDの政治家たちは公開を阻止しようとしたが、当時書記長だったエーリッヒ・ホーネッカーは、国際的な東ドイツの新しいイメージにふさわしいとして、特に若者に見せることを希望。公開は許可され、300万人を動員する大ヒット作品となった。

パウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paularパウルとパウラの伝説 Die Legende von Paul und Paular
1973年/106分/ドイツ語
監督: ハイナー・カーロウ
主演: アンゲリカ・ドムレーゼ、ヴィンフリート・グラットツェーダー

DEFAの多くの作品には、東ドイツの人々の日常の姿とともに、夢や葛藤、希望がありのままに映し出されており、今日でも評価されている。DEFAはドイツ再統一によって終わりを迎えたが、作品はDEFA財団によって文化遺産として保存され、現在もYouTubeなどで観ることができる。

参考: DEFA-Stiftung、SWR「Film „Die Legende von Paul und Paula“: Wie ein harmloser DDR-Liebesfilm die SED nervös machte」、Goethe-Institut「ベルリンの壁崩壊30年 東ドイツの映画と歴史」

英国 1960s-
労働者階級を描くキッチンシンク・リアリズム

英国人のリアルな日常

英国の労働者階級と映画の関係は、社会的、文化的な観点から重要なテーマ。1960年代に起きた「キッチンシンク・リアリズム」は、労働者階級の日常生活をリアルに描いた映画や演劇のムーブメントだった。そこでは貧困、失業、社会的抑圧、家族関係といったテーマが労働者階級の視点で率直に描かれている。この流れはサッチャー政権下の1970~80年代に社会的リアリズムとして発展し現在に至る。1960年代には白人労働者家庭の物語だったキッチンシンク・リアリズムは、やがて次第に人種問題や移民問題、そして同性愛などに切り込み、さまざまな社会的弱者を主人公にした作品を包括していく。

1985年の作品「マイ・ビューティフル・ランドレッド」は、パキスタンからの移民を親に持つロンドン生まれの青年オマールと、幼なじみで今は移民を狙う右翼団体に属するジョニーの恋愛を、ときにコミカルに追ったドラマ。母国の伝統と英国社会での生活の間で揺れる移民2世の立場をはじめ、労働者階級から中産階級への上昇を目指す移民と、失業して将来に希望を見いだせない労働者階級の白人の格差、そして英国に根付く人種差別と同性愛への嫌悪などが複雑に絡み合う。ベテラン俳優ダニエル・デイ=ルイスの出世作としても知られる。

マイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundretteマイ・ビューティフル・ランドレット My Beautiful Laundrette
1985年/97分/英語
監督: スティーヴン・フリアーズ
主演: ダニエル・デイ=ルイス

その約10年後に作られたマイク・リー監督の「秘密と嘘」は家族の複雑な人間関係を通じて、アイデンティティー、家族の絆、自己受容を探る物語。1990年代の英国社会における人種的、社会的な緊張感を浮き彫りにしているものの、過度に政治的な視点ではなく、個人的な関係性を通して描いているところが特徴だ。眼科医として働く黒人女性のホーテンスは、生みの親が白人であることを知る。未婚の母、私生児、父親の異なる姉妹、不妊といった事情をのみ込みつつ暮らす、ありふれた労働者階級の家庭の姿はとてもリアルで、本作は第49回カンヌ映画祭のパルム・ドール賞を受賞した。本作で脚本は一切使用せず、セリフは現場で役者とともに即興的に作り上げられた。

秘密と嘘 Secrets and Lies秘密と嘘 Secrets and Lies
1996年/142分/英語
監督: マイク・リー
主演: ブレンダ・ブレッシン、ティモシー・スポール、マリアンヌ・ジャン=バプティスト

不平等な世の中を可視化する

1960年代後半から活躍を続ける社会派、ケン・ローチ監督の作品「わたしは、ダニエル・ブレイク」は現代英国の福祉制度がもたらす問題を鋭く批判したドラマ。心臓病で働けないにもかかわらず、福祉制度の複雑な手続きにより生活保護を受けられず、支援を求めて苦しむ中年男性のダニエル、そしてシングルマザーのケイティを主人公に、社会に見捨てられた状況でも人間としての尊厳を保とうと奮闘する人間の姿を描く。低賃金労働、住居問題、失業が人々にどのような影響を与えるか、実直な人間が生きられない社会とは何なのか、現代の資本主義社会におけるシステムの問題を直球で批判する。第69回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得した。

わたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brakeわたしは、ダニエル・ブレイク I, Daniel Brake
2016年/100分/英語
監督: ケン・ローチ
主演: デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ

フランス 1960s-現在
フランス映画を発展させた「国際共同製作」

映画振興を統括する機関「CNC」

第二次世界大戦の後、フランスは危機的状況にあった映画業界を立て直す目的で1946年に国立映画センター(現・国立映画映像アニメーションセンター、CNC)を設立した。同国の映画産業の運営と振興を統括する機関として現在も活動を行っている。現在、CNCが中心となって積極的に支援している事業の一つが国際共同製作である。2023年の国際共同製作作品数は120作品で、CNCが助成した全映画の40.3%を占める。これらの映画は38のパートナー国と製作された。

CNC1946年10月25日に設立されたCNCは公的行政機関であり、
映画をはじめ、オーディオビジュアル、マルチ・メディア、ビデオ・ゲームも統括する組織

フランスが国際共同製作に乗り出したのは1960年代から。積極的に他国政府と2カ国で共同製作する協定を結び始めた。現在では世界で一番多い61カ国と締結。同様の制度は世界中にあるが、英国12カ国、ドイツ21カ国と比べて圧倒的に締結数が多いことが分かる。この協定では複数国から資金調達ができるほか、双方の国で国産映画とみなされるため、助成金はもちろん、研修制度、調査・統計、映像教育政策など、さまざまな分野で協力できるという利点がある。

欧州評議会でも欧州連合(EU)内の国際共同製作に積極的に取り組んでいる。1991年には欧州映画製作条約を結び、加盟国を含む3カ国以上によって製作するガイドラインが整った。事実、フランスが最も共同製作を行っているのは欧州諸国である。また共同製作は、ハリウッドや国内製作が支配的である欧州大陸内での映画の流通を改善する方法としても注目されている。

国籍問わず才能がある監督を支援

今日のグローバリゼーションによって薄れてしまう地域特有の文化を守る目的として、フランスでは1984年に開発途上国に向けた制度「ル・フォン・シュッド」を創立している(2012年に世界中の映画製作者を支援する「シネマ・ドゥ・モンド」に変更)。この目的はフランスの技術を提供するとともに、徐々に頭角を現している監督を支援すること。これまでにアルゼンチンのルクレシア・マルテル監督による「沼地という名の町」、アフガニスタン・フランスの二重国籍を有するアティーク・ラヒーミー監督の「灰と土」、グルジアのギオルギ・オヴァシュヴィリ監督による「The Other Bank」、パレスチナのエリア・スレイマン監督の「D.I.」など、今や世界的に知られている監督を輩出している。

沼地という名の町 La Ciénaga沼地という名の町 La Ciénaga
2001年/103分/スペイン語
監督: ルクレシア・マルテル
主演: マルティン・アジェミアン、ディエゴ・バエナス

The Other BankThe Other Bank
2009年/90分/グルジア語
監督: ギオルギ・オヴァシュヴィリ
主演: テド・ベカウリ、タマー・メスキー

D.I. Divine InterventionD.I. Divine Intervention
2002年/92分/アラビア語
監督: エリア・スレイマン
主演: エリア・スレイマン、マナル・ハーデル

フランスはこれらの活動を通して世界における自国の文化的存在感を示しながら、才能のある監督と早くから結びつき、産業面でも文化面でも映画業界の活性化につなげている。このように多種多様な国と積極的に共同製作を行う基盤があるため、フランス映画の製作過程には各国の文化的要素が自然に組み込まれていき、自国映画の発展に貢献している。

参考: Centre national du cinéma et de l'image animée、Council of Europe、Romain Lecler「Une diversité sur mesure」、Presses Universitaires de France

最終更新 Dienstag, 28 Januar 2025 11:21
 

130周年を迎えた欧州映画の過去•現在•未来 英独インタビュー

誕生から130年という歴史の中で、映画は社会の変化とともに進化した。映画や映画館は今後どこへ向かうのか。ここでは、映画産業を内側から支える英独のお2人に話を伺った。

英国
映画館は作品を通じて
観客と新しい視点を分かち合う場所

ロンドンのインディペンデント系映画館「ガーデン・シネマ」。キュレーターであるジョージ・クロスウェイトさんが語る、映画館が今の社会で果たす役割とは。

ジョージ・クロスウェイト George Crosthwait
ジョージ・クロスウェイト

キングス・カレッジ・ロンドンのフィルム・スタディーズ修士課程で教鞭を取る。2017年にはロンドンで「Japanese Avant-garde and Experimental Film Festival」を企画。20年から「ガーデン・シネマ」キュレーター。

オーナーの思いから誕生した映画館

外観も内部もアール・デコ調のガーデン・シネマは、世界中のクラシックな名作や新作映画を上映するインディペンデント系映画館として、2022年3月にオープンしました。この映画館は、オーナーであるマイケル・チェンバース氏のこだわりから生まれたといってもいいでしょう。現在83歳の同氏は、かつてこのビルの上階で法律事務所を経営し、地下に映画館を建設しました。少年時代に通っていたアール・デコ調の映画館を再現したいという思いがあったのだそうです。また、このビルにはメディア関連の企業やロンドン・フィルム・スクールの一部も移転してきており、発展途上ではあるものの、映画業界のハブとしての役割を果たしつつあるのは喜ばしいことです。

The Garden Cinemaガーデン・シネマ

パンデミックで再認識した映画館の在り方

ガーデン・シネマも新型コロナによるパンデミックの影響を大きく受けました。開業予定だった20年3月は、英国の最初のロックダウンの直前であり、実際にオープンできたのは2年後です。その間に自宅でのエンターテインメントが主流となり、ストリーミング視聴が定着しました。そのため多くの映画館が閉鎖され、今もこの業界は非常に困難な状況にあります。また一方で、映画館という場所が提供する「体験」を一層大切にする観客が増えてきました。映画館での共同体験や特別な空間が、単なる鑑賞を超えた価値を持つようになったといえます。

The Garden Cinema地下に二つのスクリーンと、バー・エリアがある

ガーデン・シネマでは新作だけでなく、クラシック映画やキュレーションされた特集を積極的に上映しています。自宅で何万本もの映画をストリーミング視聴できる、選択肢があまりに多い現代において、「慎重に選ばれ、提示される」感覚が、人々にとって魅力的なものとなっていると感じます。プログラムの内容を信頼し、ここに来ることで何を観れば良いかという指針を得ることができるからです。この映画館全体が設計から上映作品、提供するイベントまで、全てが人々をつなげることを目的としています。映画を観た後、ロビーで知らない人とその映画について話し始めることもあるでしょう。それは単なる鑑賞体験にとどまらず、コミュニティーを築き、既存のロンドンの映画文化に新たな場所を提供する試みなのです。

The Garden Cinema2025年には地上階に三つ目のスクリーンがオープン予定

インディペンデント系映画館の未来

あるシーズンでは非常にニッチな作品を取り上げる一方で、昨年のアル・パチーノ特集のように、観客に親しみやすいものも提供するなど、年間を通じてバランスの取れたプログラムを目指しています。社会動向については、それが意識的であれ無意識的であれ、必然的にプログラムに影響を与えると感じていますが、政治的なトレンドを追い過ぎることは避けたいと思っています。そうすると、企画自体がその時代に限定されたものになり、時間が経つと古臭く感じられる可能性があるからです。結局のところ、最高の映画は時代を超えて鑑賞する価値があり、社会の大きな変化を乗り越えて存続します。それが映画の素晴らしさだと思います。そして、時には昔の映画が再び現代の文脈で関連性を持つこともあります。インディペンデント系映画館の未来は挑戦に満ちています。ガーデン・シネマやほかの独自のプログラムを上映する映画館は、過去の名作を中心としたプログラムで成功を収めているので、インディペンデント系映画館の未来は「過去」にあるともいえるかもしれません。同じ新作映画が上映される大手チェーンとは異なる、独自のビジネス・モデルを持った映画館が増加するのは、業界にとっても非常に健全な流れだと思います。

The Garden Cinema

The Garden Cinema
39-41 Parker Street, Covent Garden
London WC2B 5PQ
Tel: +44 20 3369 5000
Holborn駅
www.thegardencinema.co.uk

ドイツ
過去を紡いで映画の未来が生まれる

1984年にドイツ初の映画博物館としてオープンしたドイツ映画協会&映画博物館(DFF)。あらゆる映画遺産を収集・保存し、未来へとつなぐDFFの使命について、同館ディレクターのクリスティーネ・コプフさんに聞いた。

クリスティーネ・コプフ Christine Kopf
クリスティーネ・コプフ

ドイツ映画協会&映画博物館(DFF)のディレクター。映画学、文学、メディア学、民俗学を学ぶ。映画祭をはじめ、映画にまつわる展覧会や上映プログラムのキュレーションなどを20年以上にわたり手掛けている

気付いたときには多くが失われている

私たちドイツ映画協会&映画博物館(DFF)は、ドイツ連邦映画文化館やドイツ・キネマテーク財団と共に、ドイツの映画遺産を保存し、維持し、アクセスできるようにするための中央映画図書館のような役割を担ってきました。昨今では、アナログ作品のデジタル化にも取り組んでいます。

DFFDFFの常設展示では、時代を追うごとに変化する映画の技術を追体験することができる

当館には、数え切れないほどの映画史上の重要な展示物、カメラや映写機などの機材、衣装や小道具、あるいは制作文書、脚本、写真、スケッチなどが保存されています。しかし何よりもまず、映画そのものを保存することが重要です。なぜならその多くは、最初に映画遺産の保存が考えられたときには、すでに取り返しのつかないほど失われていました。こうした活動は、映画というメディアや映画産業の発展に直接的な役割を果たしてきたとはいえません。しかし、DFFのような映画遺産機関は、映画史や映画製作に関する情報、数字、データなどの提供を通じて、映画産業と密接に絡み合っています。

映画史を体感する常設展、映画史を問う特別展

DFFの常設展示では、映画史への感覚的なアプローチを提供しています。第1部「Filmisches Sehen」(映画のヴィジョン)では、18~19世紀の多種多様な映像メディアと映画の発明がテーマ。映画的知覚がどのように機能し、どのような伝統に基づいているのかについて、古い幻灯機から映写機などを実際に動かしながら学べます。第2部「Filmisches Erzählen」(映画のストーリーテリング)では、映像、音響、演技など、映画がどのようにその効果を展開していくかを理解することができます。

DFF

特別展では、映画に関する美学的・歴史的問題を取り上げてきました。2025年2月23日(日)まで開催の「NEUE STIMMEN. DEUTSCHES KINO SEIT 2000」(新しい声 - 2000年以降のドイツ映画)展では、多様性とアイデンティティーの問題を特徴とする近年のドイツ映画に光を当てています。博物館の地下には映画館があり、日替わりでドイツをはじめとするさまざまな国の映画を上映しています。博物館から映画館、保存・研究活動からアウトリーチまで、こうした活動を一つ屋根の下で行っているのは、今のところドイツでは当館だけであると自負しています。

映画の存在感はますます増していく

映画の歴史はまだ浅く、130年の間に映画は信じられないほど変化し、発展してきました。そのため映画の未来を予想するのは容易ではありません。確かなことは、私たちの日常生活の中で、映画というメディアの存在感が拡大し続けていくだろうということです。映画館やストリーミング・サービスだけでなく、広告スペース、スマートフォン、ソーシャル・メディアなど、私たちはあらゆる場所で映画と出会っています。映画鑑賞がパーソナル化する一方で、他者と共に体験する場所としての映画館がこれからも残り続けるだろうということも、映画を愛する専門家の一人として確信しています。

DFF

映画は文化的資産であり、ほかの芸術と同様に、思考プロセスや議論のきっかけを作ってきました。また鑑賞者の美的感覚を喜ばせ、社会的交流の重要な基礎を築き、人々の視点や世界を広げるという点において、重要な役割を担っています。そうした映画遺産を保存し、いつでも誰もが参照できる状態にしておくことは、歴史を検証するのと同じくらい重要なことです。私たちが歴史に関わるとき、私たちよりも前にそこにいた人々から学びます。そうしてまた新しい映画の歴史が生まれるのです。

DFF

DFF – Deutsches Filminstitut & Filmmuseum e.V.
Schaumainkai 41,
60596 Frankfurt am Main
Tel: 069 961 220 – 220
Schweizer Platz駅
www.dff.film
最終更新 Dienstag, 28 Januar 2025 11:22
 

屋内ゲレンデから世界最大のスキーリゾートまで ドイツ&欧州でスキーを楽しむ!

暗くて寒いドイツの冬。家の中でぬくぬくまったりするのもいいけれど、ウィンタースポーツが盛んな国にいるなら、この季節は雪の世界に足を運ばなきゃ損!本特集では、そんな冬のスポーツの本場であるドイツや欧州でスキーを楽しむ魅力やヒントを、在独スキーインストラクターの中川有武さんに伺った。経験のない人も上級者も、この冬は広大な欧州のゲレンデを滑りに行こう!
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

スキー

お話を聞いた人 中川有武さん 中川有武さん Aritake Nakagawa オーストリア州検定スキー教師(Arlberg AlpinおよびAlpenpark Neuss スキースクール所属)、デザイナー(TAPA creatives代表)。1996年からケルン在住。毎年12月から4月まではアールベルクのスキースクールに勤務し、毎日ゲレンデを滑っている。

スキーインストラクター直伝 欧州の大自然を滑る魅力

オーストリアスキーに魅せられて

物心ついたころには、もうスキーをしていました。小学校中学年くらいから冬休みは姉と二人で子ども向けのスキースクールに行くようになって。中学生のころには、長野県の奥志賀高原にある杉山スキー&スノースポーツスクールに毎シーズン行くようになり、さらにスキーの技術を学びました。そこでたまたま教わったのがオーストリアスキーだったんです。

杉山進先生は日本人で初めてオーストリアでスキーを学んだ方で、元オリンピック選手。オーストリアのアールベルクのサンクト・クリストフにスキーアカデミーがあるのですが、そこからオーストリア人の先生にワンシーズン来てもらったり、日本の先生がアカデミーに送り込まれたりといった交流がありました。

スキーはもともと雪の山野を移動する手段。ノルウェー軍が国民の救出活動のためにスキー部隊を持っていたことが現在のスキーの起源といわれています。それから、山を下るいわゆる「アルペンスキー」が広まったのがオーストリアで、サンクト・クリストフで生まれました。オーストリアスキーの特徴を一概に言えるわけではないのですが、教え方や滑り方に明確なメソッドがあります。そんな経験があって、オーストリアのスキーはすごいな、一度は本場で滑ってみたいなという思いがありました。

アールベルクのゲレンデを豪快に下る中川さんアールベルクのゲレンデを豪快に下る中川さん

スキーインストラクターの資格取得

大学に上がるに当たってスキーを職業にすることも考えたのですが、当時興味のあったデザインの道に進むことに。デザインの勉強のためにドイツに来て、大学を卒業してからもそのままドイツでずっとデザインの仕事をしていました。転機は4年前のコロナ・パンデミックの時。自分の人生がいつ終わるか分からないから、やりたいことをやろうと思ったんですね。それまでずっと遊びでスキーはしていたのですが、やっぱりスキーの方に職を転換しようと思い立って。それからオーストリアでスキーインストラクターの資格を取るためにアウスビルドゥング(職業訓練)を始めて、今に至ります。

オーストリアのスキーインストラクター制度には、最初にAnwärter( 候補者)、Landesskilehrer( 州検定スキー教師)、staatliche Skilehrer( 国家検定スキー教師)、Skifüher(スキーガイド)の四つのレベルがあります。スキースクールで働くには最低でもAnwärterでなければならず、資格のレベルによって給与が変わります。私はLandesskilehrerを取得済みで、国家検定を受けるかはまだ検討中です。

ヴェルビエの壮大な景色ヴェルビエの壮大な景色

広大で変化に富んだコースが魅力

欧州のスキーの特徴といえば、スキー場の大きさ。もちろん大中小と程度の差はあるのですが、日本と全然違います。日本一大きい志賀高原スキー場の総滑走距離は80キロほどですが、例えば私が勤めているアールベルクは300キロ、広いところでは600キロあります。それだけ広いので、初心者から上級者向けまでコースがそろっているのが魅力の一つだと思います。それから、滑走エリア以外も自己責任で入ることができるのは日本との違いです。

私自身、自分のレベルをどんどん上げていくことによって、いろいろな斜面を滑れるようになることに喜びを感じます。一方で自然を相手にするので、サーフィンなんかも同じ感覚かもしれませんが、自分がどこまで対応できるのか挑戦したり、自分の不甲斐なさを感じたりすることも。雪やゲレンデの状況を見て、今の技術では滑れないからもっとうまくなろう、こんな滑り方を学んでみようと思える。自然と直接対峙するスポーツというところに、魅力を感じるのかもしれません。

それから欧州のスキー場にはスキー以外のアクティビティ、例えば室内テニスコートやスケートリンクがあったり、レストランやショッピング施設がそろっていたり、とにかく娯楽が豊富。なかにはただゴンドラに乗って、山小屋やレストランで日向ぼっこを楽しむ方もいます。小さな子どもからお年寄りまで楽しめることはスキーというスポーツの魅力だと思うので、家族や友人と一緒にぜひスキー場に足を運んでほしいですね。

チェルヴィニアのリフトからの眺めチェルヴィニアのリフトからの眺め

ビギナーから上級者まで楽しめる ドイツ&欧州おすすめスキー場7選

南ドイツやアルプス山脈のある国々を中心に、欧州はスキーのメッカ。スキー好きの中上級者はもちろん、まだスキーをしたことがない人、雄大な冬の大自然を味わいたい人のために、引き続き中川さんにおすすめのスキー場を教えていただいた。

ヨーロッパのおすすめスキー場

ドイツ 初心者の練習にもぴったり! Alpenpark Neuss
アルペンパーク・ノイス

総滑走距離:300メートル
最高標高:110メートル

アルペンパーク・ノイス

ドイツ初の屋内スキー場。傾斜10~18度の緩やかな斜面のほか、上級者やプロ向けの28度の急斜面がある。およそ100メートルの初心者専用のゲレンデが設置されており、初めてスキーやスノーボードをする人が練習のために訪れることも少なくない。屋外のスキー場を訪れる前に、体を慣らしに行くのもおすすめ。レストランや宿泊施設が併設されており、年中スキーはもちろん、さまざまなアクティビティを楽しむことができる。
www.alpenpark-neuss.de

ドイツ 週末でも気軽に行けるスキー場 Winterberg
ヴィンターベルク

総滑走距離:27.5キロ
最高標高:820メートル

ヴィンターベルク

ザウアーラントのヴィンターベルクは、デュッセルドルフやフランクフルトなどから週末に行くことができる距離に位置する。ドイツ国内のスキー場はほとんど南部にあるが、北部で唯一のスキー場となっている。七つの山に34のゲレンデがあり、ナイターでもスキーを楽しむことができる。比較的ビギナー向けの地形で、子ども連れにも人気。最新の降雪機が備わっており、シーズンは毎年12月中旬~3月中旬頃まで。
www.winterberg.de

ドイツ ドイツ最高峰の天然雪100%ゲレンデ Zugspitze
ツークシュピッツェ

総滑走距離:180キロ
最高標高:2962メートル

ツークシュピッツェ

ドイツで最も標高が高いツークシュピッツェにあるスキー場。金色の十字架が立つ山頂からはドイツ、オーストリア、イタリア、スイスの4カ国を望むことができる壮大なパノラマが広がる。天然雪100%の全長20キロのゲレンデが目玉。また、近郊のゲルミッシュ・クラシックスキー場(Garmisch-Classic)には全長40キロのゲレンデがあり、併せて訪れる人も多い。シーズンは12月初旬から5月上旬までと長め。
https://zugspitze.de

オーストリア アルペンスキー発祥の地 Arlberg
アールベルク

総滑走距離:300キロ
最高標高:2811メートル

アールベルク

オーストリア最大のスキー場であるアールベルクは、世界でも5本の指に入るスキーリゾート。1885年にノルウェーから研究目的で持ち込まれたスキー板で娯楽として山を下るようになったことから、アルペンスキーの発祥の地と呼ばれ、古くからスキー客でにぎわう。大きく分けて三つあるスキー場には最新のゴンドラとリフトが整備されており、あらゆるレベルに対応したコースがある。シーズンは12月上旬~4月中旬まで。
www.skiarlberg.at

スイス 広大な山々に囲まれたスキー場 Verbier
ヴェルビエ

総滑走距離:410キロ
最高標高:3330メートル

ヴェルビエ

イタリアとフランスの国境近くに位置するスイス最大のスキーリゾート地。約100基のリフトとゴンドラでつながれた四つの谷の最高地点であるモン・フォートからは、モン・ブランなどの4000メートル級の山々を眺めることができる。スタート地点とゴール地点だけが決められたフリーライドのメッカで、ワールドツアーの開催地としても知られる。山間には屋根に雪が積もった山小屋がいくつも連なり、趣ある風景が印象的だ。
https://verbier4vallees.ch

フランス 世界最大のスキーリゾート Les Trois Vallées
トロワヴァレー

総滑走距離:600キロ
最高標高:3250メートル

トロワヴァレー

その名の通り三つの山が連なり、全600キロに上るゲレンデがある世界最大のスキーリゾート。八つのエリアに分かれており、300以上のコースが整備されている。ゲレンデの50%は初心者向けで、キッズスクールが充実しているほか、ほとんどの宿泊施設には託児所があるため、小さな子どものいる家族でも思いっきり楽しめるのが魅力の一つ。多数の降雪機と標高の高さにより、11月中旬から5月初旬まで良好な条件で滑ることができる。
www.les3vallees.com

イタリア&スイス 欧州最高地点で国境越え Cervenia / Zermatt
チェルヴィニア/ツェルマット

総滑走距離:360キロ
最高標高:3899メートル

チェルヴィニア/ツェルマット

イタリア(チェルヴィニア)とスイス(ツェルマット)の二国にまたがるスキー場。モンテ・チェルヴィーノ(スイス側からはマッターホルン)は欧州で一番標高の高いスキー場として知られ、スキーをしながら国境を越えることができる。二国共通のリストパスを使って、イタリアとスイスそれぞれの雰囲気やグルメが楽しめるのがポイント。その標高の高さからチェルヴィニアでは、10月~5月初旬までリフトが運行されている。
www.cervinia.it

スキーに行く前に持ち物&事前チェックリスト

「この冬はスキーに行くぞ!」と気持ちが高まったところで、 スキーに必要なものや事前のヒントをご紹介。自然を相手にするため、万全の準備をしてスキーに出かけよう。

持ち物リスト

● 自分で用意するもの

これらはレンタルできないため、必ず用意していこう

  • グローブ
  • ゴーグル
  • 帽子
  • スキーウェア
● レンタルできるもの

現地で直接レンタルも可能。事前レンタルで割引があることも

  • スキー板
  • ストック
  • ブーツ
  • ヘルメット
● あると良いもの

標高が高い所では顔や首回りが凍傷になることもあるため、バフは必需品!

  • ウィンター(スキー)
  • クリーム ( 日焼け止め&防寒)
  • サングラス
  • バフ(ネックウォーマー)
  • バックパック
  • 水筒

そのほかのヒント

1週間の滞在がスタンダード

長期休暇を取ることが一般的な欧州では、スキー場へは土曜に来て土曜に帰る1週間の滞在が基本。それに合わせてスキースクールも日曜〜金曜にレッスンを開講していることが多い。それ以外はプライベートレッスンになるため、レッスン料が割高になる。

インストラクターはガイド的な存在

日本ではスキーインストラクターが細かく技術を教えてくれることが多いが、欧州のインストラクターはレベルに合わせていろいろな場所に連れて行ってくれるガイド的な存在。初心者の人は、事前に屋内スキー場などで基本の滑り方や止まり方を学んでおくとより楽しめる。

ホテルは夏休み明けの予約がベスト

宿泊施設の予約が始まるのは夏休み明け。常連客の予約が優先されるため、キャンセル待ちとなることも。特に年末年始、カーニバル時期は混むため、早めの計画がおすすめ。多くの宿泊施設では1年先の予約が可能で、一度宿泊すれば翌年の予約が取りやすくなる。

スキー場のホテル予約

ご当地グルメのほか自炊も人気!

チーズフォンデュやカイザーシュマーレン、タルティフレットなど、その土地ならではの冬のグルメが楽しめるのもスキー場の楽しみの一つ。大きいリゾート地には星付きのレストランもあるが、キッチン付きアパートで自炊をしたり、お惣菜を買って食べたりするのも人気だ。

冬のグルメ

夜まで楽しむ「アプレースキー」

Après-Ski(アプレースキー)とは、フランス語で「スキーの後」という意味。スキーを楽しんだ後に、山小屋で音楽をガンガン流してお酒を飲んではしゃぐのは、欧州のスキー文化の一つ。飲み過ぎには気をつけて、スキー休暇を楽しみつくそう!

雪不足でスキー場が閉鎖?

昨今、気候変動による雪不足でスキー場を閉鎖せざるを得ない状況が目立ってきている。毎年アールベルクでスキーシーズンを過ごす中川さんに、現場の状況を伺った。

氷河に関していうと、例えば2~3年行っていなかったところで「こんなに減っちゃったんだ」と思うことがありますね。一方で、雪が年々減っているという感覚は実はあまりなくて、今年は雪が少ない・多いという感じで波を感じます。同時に雪の降るシーズンが後ろ倒しになっていて、シーズンが始まっているのに雪がなかったり、イースターの時期なのに雪がどかどか降ったり。もしくはシーズンの初めにものすごく雪が降って、その後ずっと降らないことも。現地の人たちとも、雪不足というよりも「今年はどうなるかね?」と話しているような状況です。

やはり標高が低いところにあるスキー場はもろに影響を受けていて、シーズンを通してオープンできなかったり、インストラクターの仕事がなくなったりということが起きています。実際に私の友人で標高の低いところでインストラクターをしている方は、途中全く仕事がなく、失業手当を申請するなど結構大変な思いをしたようです。

人工降雪機はどこの施設も持っていますが、気温が低くないとすぐに溶けてしまうので、気温が低いときにバンバン雪を作っておくというような状況です。また雪が降ったとしても、雪崩の危険性があります。ドカッと降っても、暖かくて定着しないと雪崩が起こりやすくなります。これまでは雪崩が起こる場所はある程度予測できていたのですが、最近ではゲレンデに流れ込んでくることも。対策として、ゲレンデにわざわざ雪崩が溜まるような場所を作っているところもあります。スキー場の運営側も試行錯誤しながら、環境を整備したりコントロールしたりすることが必要になってきていると感じています。

最終更新 Donnerstag, 12 Dezember 2024 10:07
 

寒い季節を温かく彩る ドイツのクリスマス飾り

いよいよ始まるドイツのクリスマスシーズン。ドイツ各地でクリスマスマーケットが開かれ、クリスマスツリーやアドヴェントカレンダーなど、家も街もさまざまな装飾で温かく彩られる。実はそれらのクリスマス飾りの多くが、ドイツの発祥であることをご存知だろうか。本特集では、そうしたドイツの代表的なクリスマス装飾とともに、ドイツ各地のクリスマスマーケットで手に入るアイテムをご紹介する。
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ドイツ

Weihnachtsbaum
クリスマスツリー 発祥地:フライブルク

クリスマスツリー

モミの木などの常に緑を保つ常緑植物は、かつてゲルマン民族の間では冬の精霊を追い払い、豊穣を約束するものとして崇拝されていた。1419年にフライブルクのパン職人組合がクリスマスに木を飾り、それがクリスマスツリーの始まりといわれる。1570年ごろにはドイツ北部でも習慣となり、ブレーメンのギルドハウスには、リンゴや木の実、ナツメヤシをつるしたツリーが飾られたという記録が残っている。当初はプロテスタントの家庭にしかなかったが、19世紀になるとカトリック家庭でも飾るように。宗派に関係なくクリスマスに欠かせないものとなった。

Weihnachtskrippe
クリッペ 発祥地:イタリア(ドイツではミュンヘン)

クリッペ

イタリアでは、古くからキリスト降誕の情景「クリッペ」が展示されていた。16世紀、対抗宗教改革の一環としてイタリアのイエズス会士がミュンヘンへやって来た際に、ドイツにクリッペが紹介されたという。1607年には、ミュンヘンの聖ミヒャエル教会にドイツ初のクリッペが設置された。文字を読めない人でもキリスト生誕の物語が分かるような教育的ツールとしても、クリッペはたちまち人気に。その後、教会にクリッペを設置することを禁止された時期もあったが、裕福な家庭や農家にも伝わり、家庭でも置かれるようになった。

Christbaumkugel
ガラスボール発祥地:ラウシャ

ガラスボール

テューリンゲン地方のラウシャでは、16世紀末からガラス製品を造っていた。クリスマスツリーが普及してくると、装飾としてリンゴや砂糖のお菓子がつるされたが、それらは貧しい住民にとって手の届くものではなかった。一方、ガラスの原料は手頃な価格だったため、1847年にガラス職人が色付きのガラス飾りを作ることを思い付く。この新しいツリー飾りは、すぐに小売店のカタログに掲載され、見本市でも紹介された。1880年には米国の実業家が大量に注文して需要が急増し、世界中に広まっていった。

Adventskalender
アドヴェントカレンダー発祥地:ミュンヘン

アドヴェントカレンダー

12月1日からクリスマスまでの日数を数えるためのカレンダー。24個の「窓」が付いており、毎日一つずつ開けるとその中に小さなプレゼントが入っていたり、絵が描かれていたりする。オリジナルで作るという家庭も少なくないが、現在売られているアドヴェントカレンダーを作ったのは、ミュンヘンのリトグラフ会社に勤めていたゲルハルト・ラング。幼いころに彼の母が、キャンディーの入った24個の小箱を毎日一つずつ彼に開けさせていたという思い出から、1908年にリトグラフを使ってアドヴェントカレンダーの製造を開始。1926年には窓の裏にチョコレートを入れたアドヴェントカレンダーも発売し、商業的に大成功を納めた。

Adventskranz
アドヴェントクランツ 発祥地:ハンブルク

アドヴェントクランツ

ハンブルクの神学者ヨハン・ヒンリッヒ・ヴィッヒェルンは、自ら設立した児童養護施設で、クリスマスがいつ来るのかを子どもたちが分かるようにと、1839年に車輪を使ってクリスマス・カレンダーのようなものを作った。車輪には大4本、小20本のろうそくを飾り、 平日は小さなろうそく、アドヴェントの日曜日は大きなろうそくと、毎日新しいろうそくに火を灯した。下の輪っかの部分がモミの木の枝で作られるようになったのは1860年頃で、20世紀初頭までに教会や一般家庭でも飾られるようになっていった。現在では、ろうそくが大4本のみのものが主流。

エルツ地方の手工芸品 発祥地:ザイフェン

くるみ割り人形やクリスマスピラミッドなどの手工芸品は、ドイツのクリスマスに欠かせない装飾の一つ。実はこれらのほとんどが、ザクセン州エルツ山地にあるザイフェンという人口約3000人の小さな村で作られている。もともと炭鉱業で栄えたザイフェンだったが、鉱山の衰退によって職を失った炭鉱夫たちが、それまで趣味で作っていた木工おもちゃを本業に変えたのが始まり。今日でも村人の半分以上が何かしら木工おもちゃに関わる仕事をしている。

Nussknacker
くるみ割り人形

くるみ割り人形

バレエなどでも有名なくるみ割り人形は、もともとは王様や衛兵など、「権力者の口をクルミでふさいでしまおう」という庶民のアイデアから生まれた。よく見るデザインのものは、ハインリヒ・ホフマンの絵本『くるみ割り王とあわれなラインホルト』に登場する「くるみ割り王」がもとになっている。

Engel und Bergmann
天使と炭鉱夫

天使と炭鉱夫

ろうそくを手にした天使と炭鉱夫がセットになったモチーフ。鉱山の中での作業は暗く危険なものであったため、古くからエルツ地方の炭鉱夫にとって「光」はクリスマスを祝う大切なシンボルだった。そこに、彼らを温かく見守る妻を天使に見立てたモチーフが加わり、ペアで飾られるようになった。

Schwibbogen
シュヴィップボーゲン

シュヴィップボーゲン

アーチ型のキャンドルスタンドで、この形は鉱山の入り口を象徴している。炭鉱夫たちが仕事を終えて家族のもとへと安全に帰る道しるべとして、各家庭が窓辺にシュヴィップボーゲンを置き、明かりを灯したという。

Weihnachtspyramide
クリスマスピラミッド

クリスマスピラミッド

ザイフェンの技術が集結した工芸品。数階建てのクリスマスピラミッドの中では、キリスト降誕のシーンや炭鉱夫のパレード、エルツ地方の風景などが再現されている。下で燃えるろうそくの熱によって、羽根車が静かに回転する仕組みになっている。

Räuchermann
煙出し人形

煙出し人形

クリスマスに飾る人形で、1830年ごろに初めて作られた。中にお香をセットすると、口からもくもくと煙を出す仕組み。炭鉱夫をはじめ、牧師やパン屋、おもちゃ屋さんなど、エルツ地方に暮らす人々の生活を表現したさまざまなモチーフがある。

ドイツのクリスマスマーケットで見られる 世界最大のクリスマス飾り

世界最大のピラミッド&キャンドルアーチ

ドレスデン
シュトリーツェルマルクト

2024年11月27日(水)~12月24日(火)
https://striezelmarkt.dresden.de

ドレスデン シュトリーツェルマルクト

1434年から続くドイツ最古のクリスマスマーケットであるドレスデンの「シュトリーツェルマルクト」。その見どころの一つといえば、世界最大のクリスマスピラミッド。サンタや天使たちが飾られたピラミッドの高さは14.62メートルで、ギネスブックにも記録されている。入り口にあるキャンドルアーチも高さ5.85メートル、幅13.03メートルの特大サイズ!

ドレスデン シュトリーツェルマルクト

世界最大のクリスマスツリー

ドルトムント
クリスマスマーケット

2024年11月21日(木)~12月30日(月)
www.weihnachtsstadt-do.de

ドルトムント クリスマスマーケット

世界最大のクリスマスツリーは、ドルトムントのハンザプラッツで行われるクリスマスマーケットで見られる。1996年に初めて設置されて以来、毎年このマーケットを華やかに照らしている。巨大なツリーは1700本のモミの木からできており、高さ45メートルで、重さは90トン。4万8000個のライトに彩られたツリーの頂上には、重さ200キロ(!)の天使が鎮座している。

世界最大のアドヴェントカレンダー

ゲンゲンバッハ
アドヴェンツマルクト

22024年11月29日(土)~12月23日(月)
www.gengenbach.info

ゲンゲンバッハ アドヴェンツマルクト

1996年以来、シュヴァルツヴァルトのゲンゲンバッハにある市庁舎は、毎年クリスマスシーズンになると巨大なアドヴェントカレンダーに変身する。市庁舎の24の窓が、アドヴェント初日から毎日18時になると一つずつ開けられていく。シャガールやウォーホルなどの芸術家から、現代のドイツ人イラストレーターの作品まで、毎年さまざまなコンセプトの絵を毎日楽しめる。

クリスマスマーケットで買いたいグッズ

わら細工のオーナメント

わら細工のオーナメント

ドイツ南部で伝統的に作られていたといわれる、麦わらのオーナメント。ドイツの伝承では、羊飼いの少年が誕生したばかりのイエス・キリストに贈り物をしたいと思い、麦わらで「ベツレヘムの星」を作ったのが始まりといわれる。代表的な星型をはじめ、雪の結晶や天使などがある。

すず細工のオーナメント

すず細工のオーナメント

すずは非常に柔らかく加工がしやすいため、19世紀ごろからツリーの飾りとしても使われるようになった。鋳造したすずのフィギュアには、職人によって繊細な絵付けがされている。こちらは、1796年創業の老舗すず製品工房ヴィルヘルム・シュヴァイツァー社のもの。

限定マグカップ

限定マグカップ

クリスマスマーケットの定番ドリンクといえばグリューワイン。提供されるマグカップは、それぞれのマーケットが毎年オリジナルで制作しており、気に入ったものは返却せずに持ち帰ることができる。各地のマーケットを周ってカップを集めるのも楽しい。

レープクーヘン

レープクーヘン

クリスマス菓子の定番であるレープクーヘン。その発祥の地はニュルンベルクで、シナモンやグローブ、コリアンダーなどの香辛料が効いていて食べ応えも抜群。マーケットでは、アイシングやチョコレートで装飾されたものが並ぶ。日持ちするので、クリスマス飾りとしても◎。

最終更新 Dienstag, 19 November 2024 09:43
 

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