Hanacell

3.11 あの日を忘れない
シュピールベルク夫妻東日本大震災1周年
特別インタビュー

観測史上最大級の地震と巨大な津波が東日本を襲った昨年3月11日、津波に流されながらも奇跡的に生還したドイツ人がいた。デュッセルドルフ在住のユルゲン・シュピールベルクさん(73)一家だ。あれから1年。自身の命を繋いでくれた救助の連鎖に対する感謝を込め、被災地復興支援を続けるユルゲンさんに、被災当時を振り返り、心境の変化を語っていただいた。

シュピールベルクさんの被災体験

日本学の修士号を取得したばかりの娘ヨハンナさん(34)、妻のアンゲラさん(68)と共に日本縦断旅行をしていたユルゲンさんは、3月10日に宮城県松島に宿泊し、翌日、一旦東京へ戻るために乗り込んだ仙台行きの電車の中、多賀城市の手前へ来た時に大きな揺れに襲われた。電車を降り、タクシーで仙台駅へと向かう途中、道沿いの川から水が引いていくのが見えた。その直後、タクシーが水の上に浮き始め、一気に水に覆われた。幸運にもタクシーは比較的流れの緩やかな脇道へと流され、運転手と共に窓から脱出。高台にあった民家のバルコニーに泳ぎ着き、そこにいた男性が水の中から3人を救い出した。後から知ったその男性の名は、庄司武志さん。

庄司さんと共に民家の中に入ると、老夫婦がいた。暗く凍えるような寒さの中、庄司さんはシュピールベルクさん一家と老夫婦を励まし、落ち着かせた。12時間後、ようやく水が引き、救助隊が来て多賀城市の避難所に指定されていた東北学院大学構内のチャペルへ。そこで、多くの日本人から温かい食事や毛布を差し出された。

通信網が完全に遮断され、ドイツに連絡を取るのは至難の業だったが、避難所の人に携帯電話を借りてドイツにいる息子につながった。息子を通してドイツ大使館に居場所を知らせ、救助を求めたものの、一向に連絡が来ず不安が募っていた5日目、避難所のリーダー、小湊忠さん(多賀城市職員)が仙台へ向かうという女性2人の乗る車を手配してくれ、同市の国際交流センターへ行くことに。出発する際、小湊さんはシュピールベルクさんにこっそりとガソリン代を持たせてくれた。

国際交流センターには多くの国籍の救援チームがいたが、ドイツチームの姿はなく、自分たちを迎えに来てくれていると期待していた 3人は意気消沈。しかし、センター長の羽賀友信さんが、新潟方面に出てから東京に戻ることを提案してくれ、一行は新潟県村上市にいる羽賀さんの友人、松本興太さんの元へ。松本さん宅で1泊した後、新潟経由で長岡から新幹線に乗って東京へ辿り着いた。息子が手配していた復路の飛行機でドイツに到着したのは、3月17日だった。


── 地震が発生してからドイツへ帰国するまでの間、どんなことを考えていましたか?

ドイツにいる子どもや孫のことを考えていました。そして、いかに東京を経由してドイツへ戻るかということも。避難所では常にラジオや新聞を通して、日本で起きていたことをある程度は理解していたつもりですが、私と妻は日本語が分からないため、大災害の規模をすべて把握することはできませんでした。そんな中、自身も甚大な被害を受けて苦しんでいるにもかかわらず、状況を的確に判断し、無私無欲で私たちに援助を施してくれた日本人の皆さんに、感謝の気持ちでいっぱいでした。

── ドイツに到着したときは、どんな気持ちでしたか?

息子と義理の息子がデュッセルドルフ空港で出迎えてくれたのですが、ドイツでは福島の原発事故と、当地への放射線の影響に重大な注意が払われていたので、翌日、市内の放射線研究所で被ばく検査を受けました。しかし、幸運にも被ばくはしておらず、その後は孫と再会して思いっきり抱きしめることができました。

── 昨年12月、ドイツのテレビ番組内で被災時に救助してくれた人たちと再会されたそうですね。その際、どんなことを話されましたか?

羽賀さんと庄司さんに再会し、改めて被災時の援助に対する感謝の気持ちを伝えました。2人とは、その後のそれぞれの体験談などを語り合いましたが、被災体験そのものについては話題にしませんでした。

── 被災から1年、考え方や気持ちに変化はありますか?

大災害を実際に体験したことによって、自然は人間によって支配できるというそれまでの概念が覆されました。従来の楽観主義が、批判的な視点によって研ぎ澄まされたような思いです。計り知れない世界、宇宙を前にしては、人間がいかにちっぽけで無意味な存在であるかという意識が、私の中で以前より強まったかもしれません。

── 震災を機に、日本や日本人に対するイメージは変わりましたか?

日本での経験を経て、互いのために助け合う、他人に対しても緊急時には心を開いて人間らしく接するという日本人の精神は、素晴らしいと思いました。日本縦断旅行を完結させることはできませんでしたが、その分、震災を通して日本人をより良く、深く理解できたと思います。

── 助けてくれた日本人への恩返しとして、復興支援活動を行っているそうですね。

帰国後すぐ、私たち家族と私が所属するロータリークラブ・ヴィッテンは多賀城市に2万ユーロを寄付しました。しかし、震災犠牲者の遺族の中には多くの子どもたちも含まれており、彼らは地震や津波の恐ろしい思い出を抱えながら生きています。彼らには将来の展望が必要で、普通の生活を取り戻さなければなりません。日本のあしなが育英会は1995年の阪神・淡路大震災後、孤児院を設立しましたが、それと同様の建物を今、同団体は仙台をはじめとする東北の被災地に建設しようとしています。私たち家族とロータリークラブ・ヴィッテンは同計画の支援を決め、これまでにほかのロータリークラブや個人から5万ユーロ以上の募金を集めました。今後はロータリークラブ・ドイツの力も借り、計10万ユーロを集めることを目標としています。

── 今後、再び日本へ渡航する予定は?

今年の年末にでも、ぜひ行きたいと思っていますが、来年になるかもしれません。震災の時に私たちを助けてくれた方々にお会いしたいし、始めたばかりだった日本旅行の続きがしたいですね。

── 被災者の1人として、ドイツ人、日本人に伝えたいことはありますか?

どんなに将来を予見し、用意周到に振舞っていても、人間は繰り返し自然災害に驚愕させられ、打ち負かされます。自然災害に対しては、万全の技術を持ってしても太刀打ちできません。だからこそ、お互いに思いやる心や助け合う用意、そして個性を主張し、自由を手に入れようと努力する際は決して利己主義に陥らないこと、何をするときも常に人間らしさと共感の精神を忘れないことが大切なのだと思います。

日本から離れた地で震災の状況を見守った人、被災者、復興支援に携わってきた人。来る3月11日を、皆それぞれが特別な気持ちで迎えることだろう。ただ1つ、共通している想いは「あの日を忘れない」ということ。1人ひとりの心に刻まれた記憶は、その想いと共に未来へと受け継がれていくはずだ。


 
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