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Di. 24. Mai. 2016

ヴァイオリニスト樫本大進インタビュー樫本大進

約束の時間、樫本大進はベルリン・フィルハーモニーの楽屋口に現れた。
舞台裏の食堂に連れられて行くと、メンバーが次々に彼に話し掛ける。
2010年からこの名門オーケストラの第1コンサートマスターを務める彼は、
流麗な英語とドイツ語でテンポ良く応対する。
樫本は日本人だが、音楽と人間の土台を築いたのは紛れもなくドイツにおいて。
これまで住んだ3つの都市で、彼はどのような出会いを経て、何を学んできたのか。
サイモン・ラトル指揮公演のリハーサル初日という慌ただしい中、
インタビューは始まった。
(取材・文:中村真人)

Daishin Kashimoto
1979年、ロンドン生まれ。恵藤久美子の下で3歳よりヴァイオリンを習う。5歳で父親の赴任に伴いニューヨークへ。7歳でジュリアード音楽院プレカレッジに入学、田中直子に師事。11歳のときに名教授ザハール・ブロンに招かれ、リューベックに留学。20歳よりフライブルク音楽院でライナー・クスマウルに師事。90年、第4回バッハ・ジュニア音楽コンクールでの第1位獲得を皮切りに、96年のフリッツ・クライスラー、ロン=ティボーの両国際音楽コンクールでの1位ほか、5つの権威ある国際コンクールにて優勝した。2010年、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターに就任。使用楽器は1674年製アンドレア・グヮルネリ。最新録音に、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集(Warner Classics)がある(ピアノはコンスタンチン・リフシッツ)。

リューベックのブロン先生

初めてドイツに来られたのはいつですか?

日本の幼稚園に通った後、父の赴任先のニューヨークで6年間暮らしたのですが、9歳と10歳の夏、親に連れられて欧州に来ました。僕が欧州で見聞を広められるようにと、いろいろな国を訪れ、様々な先生のマスタークラスに通ったのです。そんな中、1人の先生が「俺のところについて来い」と言ってくださいました。それがリューベックに住むザハール・ブロン先生でした。僕が11歳のときです。

父は仕事があったので、母と単身でドイツ生活を始めましたが、母は最初、気が進まなかったようです。父の元を離れ、ドイツ語も分からなければ、当時は英語も通じないような北ドイツの片田舎に突然移住したわけですから、怖いですよね。しかも、1990年の東西統一直後で、何がどうなるか分からない状況でした。  

リューベックに移り住んだのは11月の終わりです。寒いし、月を見ながら学校へ行くなんていうことは、それまでなかったので、寂しい感じがしました。ただ逆に、夏になれば夜遅くまで明るいし、気持ち良かったのですが。

Daishin Kashimoto

若い頃にドイツらしい小さな町で過ごしたことは、
音楽をやる上で良かった

リューベックというと、トーマス・マンの小説に出てくるような、どんよりした空の下に広がる古い街並みが思い浮かびます。

そうですね。教会がいっぱいあって、バッハがオルガンを弾いた教会もありますし、米国から来たので余計に歴史を感じましたね。もちろん米国にも教会はありますが、リューベックには1300年頃に造られた古い教会が残っている。米建国は1776年ですから、「その400年前にこの教会はすでに存在したのか。自分の楽器が造られる300年も前からこの教会は建っていたのか」と思うと、歴史の重みを感じました。

11歳の頃からそういうことを感じながら、ドイツの音楽に親しんできたのですか?

練習中に特別そのようなことを感じていたわけではありませんが、今になって思うのは、若い頃にドイツの空気を、ベルリンのような国際的な大都市ではなく、ドイツらしい小さな町で味わえたことは、音楽をする上で良かったと思います。

現地のギムナジウムにも通いました。ドイツ語が分からなかったので、最初の3カ月程、宿題が免除されたんです(笑)。最初は授業の内容が全く分かりませんでしたが、クラスに1人、英語が話せる子がいて、その子が通訳してくれました。でも子どもなので、3カ月も経つと、皆とドイツ語で普通に会話できるようになりました。

約10年に及んだリューベック時代の中で、忘れられない出来事は?

1歳から19歳ぐらいまで、最も人間性が作り上げられていく時期に滞在したので、良い意味でも悪い意味でも、様々な経験をしました。ヴァイオリンをやめたいと思った時期もありますし、普通に友達と遊んだり、自転車で走り回ったり……。初めてドイツで大晦日の花火を見たときは、家族全員で「戦争が始まった!」とびっくりしました(笑)。

当時は、1日どのくらいヴァイオリンを練習されていましたか?

学校がお昼に終わり、家で昼食をとって、その後練習です。初めの頃は真面目に5、6時間弾いていましたよ。家では夜10時ぐらいまで練習できたので、そこから宿題をし始め、朝は7時に家を出る。一度、眠くてたまらなくなり、学校から帰って昼寝をして、起きたら次の朝だったことがありました。レッスンもありましたし、当時から睡眠時間は少なかったですね。でも、これは反抗期が始まる前の話です(笑)。

ブロン先生の元へは、どのくらいの頻度で行かれていましたか。

ほぼ毎日通っていました。先生がどこかへ行くときに「一緒について来い」と言われることもありました。ロシア人の先生でしたが、レッスンはドイツ語。周りにロシア人の生徒もたくさんいたので、私も少しロシア語が分かるようになりました。

当時、日本語を話す相手は、母と音大の学生さん数人ぐらい。ちょうど思春期だったので、母ともそれほど会話がなく、日本語のレベルは自分でも「まずい」と思っていました。日本で演奏活動を始めた頃は、インタビューを受けるのも怖くてたまらなかったです。後から日本人の友達が増え、妻も日本人なので、日本語を使う機会が増えて上達してきましたが……。恥ずかしいことですよ、日本人なのに。

リューベックの歯科医の家にホームステイをされていたこともあったそうですね。

母がリューベックを不在にした際、そしてフライブルクに移る前の約1年間、そこにホームステイをさせていただきました。もともとは、僕のドイツ語の先生の掛かり付けの歯科医だった方です。自分と年が近い息子さんが2人いらっしゃって、現在は息子さんが医院を継いでいます。今でも時々連絡を取っていて、何かあると診てもらうこともあります。一番信頼できますからね。子どもの頃から一緒だったし、僕は1人っ子なので、友達というより兄弟のような存在です。


フライブルクのクスマウル先生

リューベックからフライブルクへ移ろうと思った理由は何ですか。

ブロン先生には9年間お世話になりました。大人になるまで指導していただいた後、何か違うものを経験したい、周りの環境を完全に変えてみたいという気持ちが強くなりました。そんな折、フライブルク音大のライナー・クスマウル教授に出会い、先生をすぐに気に入ってしまったんです。

あえて自分の道を歩かせ、
見守ってくれたクスマウル先生

クスマウル先生との出会いについて教えてください。

当時、マネジメントが同じだったクリスティアン・テツラフのヴァイオリンが大好きで、一度彼を訪ねて演奏を聴いてもらいました。彼はどこでも教えていないので、誰かほかの先生を紹介してほしいと頼んだら、クスマウル先生を紹介してくれたんです。でも、後で聞いたら、クスマウル先生はクリスティアンのことを個人的には知らなかった(笑)。直接は知らないけれど、この人が良いのではと、クリスティアンはぱっと思い付いたようです。だから、彼のおかげでフライブルクへ行ったようなもので、今ベルリンにいるのもある意味その延長ですね。もっとも、クスマウル先生はベルリン・フィルのポジションを僕に勧めるようなことは一度もなかったですが。

2人の先生のタイプは全然違いました。丁寧に育ててくれたブロン先生に対し、クスマウル先生はどちらかというと「自分で考えて、自分の道を行きなさい」というタイプ。見守りながらも、道から外れ過ぎてしまうと直してくれるという感じで、先生の方針の違いに最初は戸惑いもありました。また、「今日は何を弾く?」という話になったとき、チャイコフスキーの協奏曲を出すと、正直なクスマウル先生は、「それは俺よりお前の方が上手いじゃないか。それよりモーツァルトを弾け」と言うような方でした。もちろん素晴らしいことを言ってくださるのですが。

クスマウル先生には、バッハとモーツァルトをたくさん見ていただきました。技術的なことよりも、基本的に音楽的なアドバイスをしてくださいました。ご自身の人生経験をレッスン中にもたくさん話してくださって、それを聞くのが一番楽しかったですね。先生はソリストとしてすべてのコンチェルトを弾いているし、室内楽の分野でも、ピアノ・トリオを何十年もやっていた。その上、早い時期から教授職を務め、ベルリン・フィルのコンサートマスターとしてオーケストラのことも知っている。ヴァイオリニストとしてできることをすべてやってきた先生なので、様々な経験を聞けたのは大きかったです。

フライブルクの町の魅力は?

良いところですよ。町の雰囲気も人も、リューベックとは全然違います。大学の町なので、若い人がとても多い。最後の時期、町のど真ん中にあるアパートの上の階に住んでいたのですが、窓から町の向こうに山が見えるんです。(平地の)ベルリンではまずないことですよね。音大の裏にぶどう畑があるなど、自然が目に見えるところにあって、それが気持ち良かったです。近くの湖に行ってお茶をしたり、スキーをしたり。フランスが近くて、ワインも美味しいですし……。引退後、フライブルクに移住するドイツ人が多いそうですが、その気持ちがよく分かりますね。

そして、ベルリンへ

小澤さんが、自分のことを思って
わざと冷たくしていたと知り、感動した

約10年間住んだフライブルクから、いよいよベルリンへ。ベルリン・フィルのコンサートマスターのオーディションを受けたのは、ガイ・ブラウンシュタインさん(元ベルリン・フィル第1コンサートマスター)のアドバイスがきっかけだったそうですね。

ガイのことは12歳くらいの頃から知っていて、世界にはすごい人がいるものだと思っていました。その後、室内楽でも一緒に弾いていましたが、あるとき彼が、「安永徹さん(元ベルリン・フィル第1コンサートマスター)がもうすぐ辞めるようだから準備しておけ」と言ったんです。自分はオーケストラをやったことがないのに、何を言っているんだろうと思いました。でも、そのうち何度も電話が掛かってきて、「オーディションの申し込みをしたか? 早く送れ。キャンセルはいつでもできるから」と言う。彼がいなければ、ここに来ようなんて思わなかったですね。自分がオーケストラに入れるなんていう感覚はなく、経験もゼロでしたから。

実は、ベルリン・フィルのオーディションは2回受けていて、1回目は2次で誰も採用されずに終わったんです。そんなときにゲスト・コンサートマスターとして呼んでいただき、小澤征爾さんの指揮でメンデルスゾーンのオラトリオ「エリア」を弾きました。僕はとても感動して、絶対にやりたい仕事だと思いました。正直、1回目のオーディションでは本当にそれをやりたいのか、自分にできるのか分からない状態でしたが、小澤さんとの共演を機に、2回目のオーディションには強い気持ちで臨み、通りました。

小澤さんと共演した際、何か話をされましたか。

それが、あまりお話しできなかったんです。協奏曲で共演するなど、昔から知っていたのに、小澤さんは「お疲れ様!」と言ってすぐに帰ってしまい、あまりお話ししてくださらなかった。嫌われたんじゃないかと思って落ち込みましたよ。でも、後でヴィオラ奏者の川本嘉子さんと電話で話した際にたまたま聞いたのですが、小澤さんはあえて僕に冷たくしていたようなのです。リハーサル中、小澤さんはぱっと見て僕がベルリン・フィルに入ることに興味があるかもしれないと思ったとか。そのとき、「オーケストラのメンバー全員が自分(小澤さん)のことを好きなわけじゃない。もし僕のことを嫌いな人がいたとして、その人に大進と仲良くしているところを見られたら、彼にとって不利になる」と思って、わざと冷たくしたのだそうです。「そこまで考えてくださっていたのか」と感動して泣いてしまいました。小澤さんとは、ぜひまた共演したいです。

Daishin Kashimoto
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ベートーヴェンの協奏曲は、
自分の中でイメージが出来上がっていないと弾けない

コンサートマスターとしての樫本さんも、もうすっかり板に付いてきたという印象です。

ベルリン・フィルの団員としての生活は、もう5シーズン目になりますが、まだ初めての曲が多いんですよ。最初、安永さんと電話でお話ししたとき、「(一通りのレパートリーを弾くのに)少なくとも10年は掛かるんじゃない?」と仰っていて驚きましたが、本当にそのくらい掛かるようですね(笑)。このオーケストラはレパートリーが広いのに、皆曲をよく知っているんですよ。僕はゼロから始めているので、まだこれからです。実は、ベートーヴェンの「英雄」も「運命」も第7番も弾いたことがありません。弾きたい曲がたくさんあります。

樫本さんが20歳だった頃のインタビュー記事を最近拝読し、その中に「ベートーヴェンの協奏曲が大好きだけれど、自分にはまだ弾くことができない」という箇所がありました。最近、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタに集中して取り組まれていましたが、当時と比べて技術面、精神面でどのような変化がありましたか?

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、自分の中でのイメージが出来上がっていないので、弾いている意味があまりないんです。例えば、ブラームスの協奏曲は弾くほどに新しい発見があって、もっと弾きたくなるのですが、ベートーヴェンの曲は経験によって出来上がるというよりは、すでに出来上がっているものがないと難しいですね。ただ最近、ヴァイオリンソナタ全曲を弾いてレコーディングをする機会に恵まれ、少しは自分の中のイメージが熟しているはずなので、また協奏曲に取り組んでみても良いかなと思っています。

オフのときは、どのように過ごされていますか?

基本的に家でのんびり、何もしていないですよ。昔から家でぼーっとするのが好きなタイプなんです。人と会って食事をしたり、ワイワイするのも好きです。普段、ツアーに出ていたりして、自宅で過ごすことがあまりないので、家にいるときは特別なことはしませんね。

ベルリンで好きな場所はありますか?

ヴィクトリア・ルイーゼ広場が大好きで、あそこに住みたいなと昔から思っているんですよ。あとは、ルートヴィヒキルヒ広場とか。ティアガルテンの公園の中にあるカフェも好きです。人と会うときは、そういう場所に行くことが多いですね。ただ、ベルリンは広過ぎて、まだちゃんと把握できていない部分がありますね。東の方へ行ったら、多分迷子になっちゃうと思います(笑)。

樫本さんにとって、ドイツとはどういう国ですか?

音楽や音楽の文化に対して、世界で一番理解がある国だと思います。最近は厳しい事情もありますが、これほどいたる所に劇場やオーケストラがある国って、なかなかないじゃないですか。芸術を大事にしてくれているというのはありがたいことで、住みやすい国ですね。

日本のこと


樫本さんは日本人ですが、音楽的な土台を築かれたのも、現在の拠点があるのもドイツです。逆に日本に対しては、どのような想いをお持ちですか?

日本では、出身や所属を大事にするところがありますよね。僕の場合、日本の音大を出ていないので、どこにも所属できませんが、逆にどこからもダメと言われない立場なので、気楽にいられる感じです。でも、日本へは仕事でしかなかなか行けないですね。

数年前から、兵庫県の赤穂と姫路で毎年開催されるル・ポン国際音楽祭の音楽監督を務めていらっしゃいます。

米国に住んでいた頃、夏休みになると、母の故郷であり、祖父が住んでいた赤穂に遊びに行っていました。子どもの頃から繋がりがある、故郷のような町です。そのような場所で、皆さんに室内楽の素晴らしさに触れていただきたいと願って、自分からアイデアを出しました。

お寺やお城でもコンサートが行われるそうですね。

地元の皆さんにクラシック音楽、それもシンフォニーだけでなく室内楽にも親しんでいただきたい。そのためには、彼らにとってアイデンティティーを感じられる場所でコンサートができたらと思ったのです。

やはり、お寺などで演奏すると、特別な空気が生まれますね。音響や湿気の問題はありますが、この音楽祭ならではの特色を大事にしていきたいと思います。お客さんもそれを楽しみに聴きに来てくださいますし、遠方から来られる方には町の魅力を伝えられますしね。姫路城など、素晴らしいですよ。お城の中庭にステージを作り、背景に姫路城が見えて……。大好きな祖父が住んでいた場所ですし、できればこれからも続けていきたいと思っています。

 
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