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Mo. 23. Okt. 2017

第8代ドイツ連邦共和国首相アンゲラ·メルケル

ドイツの、いや世界のリーダーとして君臨する、ドイツ初の女性首相アンゲラ・メルケル。首相の座に就いて10周年を祝った昨年は米タイムズ紙の「今年の顔」にも選ばれ、2017年に予定されているドイツ総選挙で4選を果たし、いよいよこの国の国母としてその地位を不動のものとするか!?との見方もあったが、難民政策をめぐり、世論は紛糾。メルケル批判が声高に聞こえてくる2016年。混乱する欧州の中心で指揮をとるメルケル首相の政策の裏には、どんな想いがあるのだろう?その素顔とは? 今、改めて彼女の半生を振り返ってみよう!(編集部:高橋 萌)

アンゲラ・メルケル首相 徹底解剖!

アンゲラ・メルケル首相 徹底解剖!

名前
Dr.Angela Dorothea Merkel / アンゲラ・ドロシア・メルケル メルケルは元夫の姓、旧姓はカスナー

生誕
1954年7月17日、ハンブルク生まれ。現在61歳

職業
第8代ドイツ連邦共和国首相、キリスト教民主同盟(CDU)党首

月収
規定のある首相としての給与、約2万2000ユーロ(税抜き前)


首相候補に名が上がった2003年から、ドイツ一有名な美容師ウド・ヴァルツがヘアースタイルを担当し、格段に洗練された髪型に。メルケル自身は、「大事なことは12時間後も、髪型が乱れていないこと」「重要なのは見た目より政策」と言っている


母国語であるドイツ語のほか、英語とフランス語、ロシア語を流暢に話す。困ったときは、への字に口を結ぶ


ボリュームのあるネックレスをしていることが多い。2013年の総選挙時のテレビ討論会で身につけていたドイツカラー黒/赤/黄のネックレスは、「Merkel Kette メルケルの鎖」、「Deutschlandketteドイツの鎖」と呼ばれ、メルケルが愛国心を表したのではないかと話題になった。しかし、その実、黒/黄/赤の並び順がベルギーの国旗だった

メルケル首相オペラ鑑賞
「セクシー」とは縁のなさそうなメルケルだったが、2008年4月、ノルウェー・オスロでのオペラ鑑賞の際、胸の大きく開いたドレスで世界を驚かせたことがあった


「メルケルのひし形(Merkel-Raute)」と呼ばれる、お腹の前で両手をひし形に組むポーズが、お決まりのポーズ。そのほか、キューピーさんのように両手を地面と水平に開くポーズもよく見受けられる

メルケルのひし形

ファッション
メルケルのファッションについては、彼女が政治家として出世するにつれて、メディアから辛口な批評を受ける機会が多くなったため、スタイリスト・チームが組まれ、現在のスタイルが確立された。公の場で着用するジャケットのカラーバリエーションは豊富で、「白い壁の前では濃い色のジャケットを、理由が思い当たらないときは気分で」決めるそうだ。休日は、「ジーパンに、着心地の良いトレーナーが一番」とコメントしている。年に一度「女性であることを楽しむ」のは、バイロイト音楽祭でのドレスアップ

頭脳
明晰、学校の成績は常にトップクラス。高校も大学も最高評価で卒業。政治家としては異色の研究者からの転身で、物理学の博士号を取得している

趣味
家では好んでキッチンに立ち、じゃがいもスープのような鍋料理やローラーデン(薄切り牛肉のロール煮)が得意だとコメントしている。ケーキも焼くが、ケーキ職人を父に持つ夫ザウワー氏は、「ケーキのシュトロイゼル(甘いそぼろ)がたっぷり乗っていないとだめ」なのだとか。ガーデニングをする静かな時間を大切にしており、その時間で英気を養っている。サッカー観戦については、欧州選手権やワールド・カップで、「12人目のドイツ代表」と呼ばれるほど熱心に応援していた

家族
プロテスタントの牧師であった父ホルスト・カスナー(2011年他界)と、ラテン語と英語の教師であった母ヘルリント(87歳)の第一子としてアンゲラは生まれた。3歳年下の弟マルクス、10歳年下の妹イレーネがいる。「ムッティー(お母さん)」とも呼ばれるが、子供はいない

愛称
アンジー(Angie)、ムッティー(Mutti)、欧州連合(EU)ではその慎重な姿勢から「マダム・ノン」との異名も

休暇の過ごし方
自然の中で休暇を過ごすことを好み、登山やトレッキング、スキーを楽しむ。オペラ鑑賞は、夫と共通の趣味。日常のオフの姿も度々目撃されており、首相となった今もスーパーマーケットで自ら買い物をすることがある

地味な理系女子がドイツ初の女性首相になるまで アンゲラと7人の男達

昔、東ドイツ(DDR)があった頃、テンプリンという町に一人の賢い少女がおりました。彼女の名は、アンゲラ・ドロシア・カスナー。目立たない外見や物言いからは想像できないほどの激しい情熱と行動力を内に秘めた彼女は、やがて一国の元首にまで登りつめますが、幼少時代の仲間たちは、そんな彼女の未来像を誰一人として予想していませんでした。彼女は、「見くびられる」ことに慣れているようにも見えますし、またそれを戦術にしているようにも見えます。ここでは、アンゲラに影響を与えた人物を7人ピックアップし、彼女の半生を振り返ってみましょう。では、アンゲラのシンデレラ・ストーリーのはじまり、はじまり。

1 西から東への移住を決意した牧師の父
ホルスト・カスナー Horst Kasner
(1926-2011)

ホルスト・カスナー
プロテスタント神学者の父を持つアンゲラも、
宗派はプロテスタント

警察官の息子としてベルリンで生まれ、ベルリンで育ったプロテスタント神学者である。西ドイツのハンブルクから東ドイツ(DDR)に移住したのは1954年、長女アンゲラが生まれた数週間後。同年、5月までに東ドイツから西ドイツへ移住した人の数、約18万人。1949年から壁の建設が始まる61年までの12年間で、約250万人が東から西へ流出。その流れに逆行する形で、DDRにおける牧師不足を補うために、クヴィツォウ(現ベルレンブルク)という村に派遣された。1957年、アンゲラが2歳の頃、ベルリン近郊のテンプリンに居を移す。影響力のある牧師として名の通った人物で、同地ではたくさんの教え子を抱えていた。

DDR時代の彼には、通り名があった「rote Kasner(赤色のカスナー)」。彼は、積極的に社会主義の中で、その役割を果たそうとした。もちろん、家族のためであったことは疑いようがない。

アンゲラは、子供の頃のことをこう回想する「私は、子供にしては完璧主義すぎるきらいがあったようだけれど、それは父の影響ね」「いつも、規則正しくあるようにと言い聞かせられたわ」「父と私が似ているのは、基本的には物分かりのよい顔をして話を聞いているけど、ひとたび意見が対立すると曲げないところ」。アンゲラの学校での成績は優秀で、アビトゥーア(大学入学資格)は「平均1」の最高評価、大学の卒論も「Sehr gut(とても良い)」。才女ぶりを発揮していたが、体育と美術・工作は苦手で、周囲には目立たない性格だと思われていた。

しかし、14歳のアンゲラは反抗期にあったようで、父の望む共産主義への忠誠を誓う儀式「Jugendweihe」への参加を拒否している。1960年代、ホルストはドイツの再統一に反対の立場をとっていたが、彼の元同僚いわく、「彼は心から社会主義に染まってはいなかった。DDRを批判したりはしなかったけど」と、強かにこの時代を生き抜いたことを伺わせる。

首相となった娘について、父はあまり多くを語っていないが、もちろん誇らしく思っていたに違いない。しかしCDUの政策や思想とは相容れないと、距離を置いていたことが知られている。

2 普通の女性の幸せを求めた研究者時代
ウルリッヒ・メルケル Ulrich Merkel

アンゲラ・カスナーから、「アンゲラ・メルケル」になったのは、学友だったウルリッヒ・メルケルと学生結婚をした1977年。彼らはライプツィヒのカール・マル クス大学で知り合い、共に物理学を学んだ。この結婚についてアンゲラは、「当時は、そのくらいの年齢で結婚することはめずらしいことじゃなかったから」と、23歳での最初の結婚を「若気の至り」とドライに振り返る。しかし、対するウルリッヒは、「彼女のやさしさや自然体の魅力に引かれ、3年間付き合って、彼女とならと思って結婚を決意したんだ」と反論する。雑誌FOCUS(2004年)のインタビューでは、別れのシーンも語られた。

結婚から3年が経ったある日、「彼女は自分の荷物をまとめて出て行った。突然のことでショックだったよ」。今では、別れの原因は、簡単に言えば性格や人生に対する考え方の不一致とみて、「彼女は常々、ずっと研究者として働く将来は考えられないとこぼしていた」し、「彼女が勝ち取った今の人生は、自分には合わない」と言いきる。短い結婚生活を終え、他人になってからの時間の方が長い今、ポスターの中で微笑むアンゲラを見ても、「元妻というより、ドイツの首相だ」と思う。

ウルリッヒとの結婚の翌年、ベルリンの科学アカデミー付属物理化学中央研究所にただ一人の女性学術助手として就職。ここで離婚後の1986年、博士号を取得。1990年にドイツが再統一されるプロセスの中で同研究所が解体されるまで所属していた。

3 アンゲラの政治家としての第一歩を後押し
ローター・デメジエール Lothar de Maizière (1940年3月2日 – 75歳)

ローター・デメジエール
2006年、元ソ連大統領ゴルバチョフ(左)と共に
ワイツゼッカー元大統領(右)から欧州文化賞を受賞した
デメジエール(中央)

1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した。一人の物理学者が政治に開眼するのに、滅び行く祖国と新しい国家体制の構築を目の当たりにした経験は、十分過ぎる理由となったことだろう。

壁が崩壊した年の12月にアンゲラは新政党「Demokratischer Aufbruch(デモクラシーの勃興=DA)」へ入党。情勢は混乱を極めていたし、党の指針や政策はまだ定まっていなかったが、やりがいを感じた。東ドイツ市民が、新しい時代の到来に夢と希望を抱いていた時代だ。

1990年2月、ローター・デメジエールが、東部CDUとDA、ドイツ社会同盟(DSU)の保守政党連合「ドイツ連合(Allianz für Deutschland)」を発足。3月には、DDRで初となる普通選挙に臨んだ。DAは惨敗したが、ドイツ連合としては大きく躍進し、デメジエールは東ドイツ(DDR)市民に選ばれた最初で最後の首相となる。彼は、アンゲラを新政権の政府副報道官に抜擢した。新政権の最初で最後の仕事は、ドイツ再統一を実現することであった。

ちなみに、メルケル政権の発足当初から内閣に名を連ねるトーマス・デメジエールは、ローターの従弟である。

4 「コールのお嬢さん」となったアンゲラ、異例の出世
ヘルムート・コール Hermut Kohl
(1930年4月3日 – 85歳)

アンゲラ(前)とコール
1991年4月、連邦女性・青少年大臣に任命された
当時のアンゲラ(前)とコール

1990年10月、36歳のアンゲラは、ヘルムート・コールと初めて顔を合わせた。DAの解党を経て、正式にCDUに入党したアンゲラに対し、当時すでに首相として3期目、ドイツの悲願であった再統一という偉業の実現を目前に捉えていた60歳の豪腕政治家コールは、何を感じたのだろう? 東ドイツ出身、女性政治家で、しかも若い。統一ドイツの新しい顔として、ふさわしいマスコットと考えたのか、それとも、政治家としての才覚を見抜いていたのか。

世間一般には、前者だと受け止められていた。そのため、メクレンブルク=フォアポンメルン州のCDU候補として国政に出馬し、初当選を果たしたメルケルが、1991年に連邦女性・青少年大臣に任命されるという異例の人事にも、「コールのお嬢さん(Kohls Mädchen)」という二つ名がつくだけで、大きな混乱は起きなかった。94年からは連邦環境・自然保護・原子力安全大臣を任されたが、人々はまだ「東から来た灰色のネズミ(graue Maus aus dem Osten)」と、アンゲラを色物扱いしていたようだ。

1998年の連邦議会選挙で大敗し、16年間に及んだコール政権は終焉を迎えた。その翌年には不正献金問題が発覚し、スキャンダルに見舞われた恩師をアンゲラは新聞の署名記事で公然と批判する。その判断が、アンゲラのキャリアを後押しした。地に落ちた党のイメージを変えるのに適任と、2000年にCDU初の女性党首となった。

現在では、アンゲラ・メルケルを発掘し、ドイツ史上初の女性首相を生み出したことは、東西ドイツ統一と並ぶコールの重要な功績の一つに数えられている。

5 首相の座を争ったライバル、ドイツ経済の土台を作った
ゲアハルト・シュレーダー Gerhard Schröder
(1944年4月7日 – 71歳)

アンゲラとシュレーダー
2005年の政権交代で、アンゲラに首相の座を
譲った当時のシュレーダー

戦争で父を亡くし、戦後の西ドイツで貧困から立ち上がったゲルハルト・シュレーダー(ドイツ社会民主党=SPD)は、アンゲラとはまったく正反対のイメージの政治家だった。彼は、自身の野心を隠さず、高級な背広に葉巻というスタイルでメディアを賑わせた。

1998年、コール率いるCDUを破り、連邦議会選挙の勝者として首相の座に就いた彼は、同盟90/緑の党と連立政権を樹立する。ドイツの脱原発が初めて国会で議論され、痛みを伴う財政改革に着手。CDUでは、アンゲラがエドムント・シュトイバーに首相候補を譲った2002年の総選挙では、なんとか支持を得て2期目を務めたが、2005年7月、国内の失業者が500万人を越え、戦後最多を記録した年、内閣信任案を与党に否決させ、連邦議会を解散。急きょ行われた9月18日の総選挙で、アンゲラを首相候補に掲げたCDUに4議席及ばず敗れた。39年ぶりとなるCDUとSPDによる大連立政権の誕生と、ドイツ初の女性首相の選出までには、長い長い協議が繰り返されたが、11月、51歳のアンゲラは歴代最年少、DDR出身者として初めて首相に就任した。 

一方、シュレーダーは2005年11月29日に議員職も辞職し政界から離れている。そのシュレーダーについて、アンゲラはその翌日、「シュレーダー首相に個人的に感謝したい。彼が、アゲンダ2010によって、勇気を持って閉ざされた扉を開き、我々の社会システムを今の時代に即したものにしてくれたことを」と、異例の謝意を述べている。彼女には、その時点で分かっていたのだ、シュレーダーが嫌われ役を買って断行した労働市場改革「アゲンダ2010」が、もうすぐ実を結ぶことを。

6 コールの後継者に一番近かった男、CDUの永遠のナンバー2
ヴォルフガング・ショイブレ Wolfgang Schäuble
(1942年9月18日 – 73歳)

ヴォルフガング・ショイブレ
第1次メルケル政権で内務大臣、
第2・3次では財務大臣

アンゲラのシンデレラ・ストーリーを、一番間近で見てきたのは、車椅子の重鎮ヴォルフガング・ショイブレかもしれない。フライブルク出身の法学博士、弁護士としての経験もある切れ者。CDUに入党したのは1965年、アンゲラがまだ11歳の頃。23歳だった彼は、党内での下積みを経て、30歳にして連邦議会に初当選。大臣の座についたのは42歳、第2次コール政権下で国務大臣を務めた。第3次コール政権が成立した1989年4月からは内務大臣に転じ、東西ドイツ再統一条約交渉の西ドイツ代表として参加した場で、アンゲラと出会う。

東西統一の立役者の一人に名を連ね、政治家としての人気を確立したショイブレはしかし、統一直後の連邦議会選中に、一人の男の銃弾に倒れる。背後から受けた銃撃により下半身麻痺が残り、以降は車椅子で活動することとなった。

この銃弾は、強靭な精神力を持つ彼の政治活動を阻害するものではなく、彼はコール首相の後継者として、首相の座まであと一歩と迫っていた。1997年には、いよいよコールがショイブレを次期党首に指名。ところが翌年、政権交代が起きて首相の夢は遠ざかった。さらにコール首相同様、ショイブレにも不正献金スキャンダルが沸き起こり、謝罪。大統領候補にも名が上がったが、このイメージを引きずって立ち消える。

14年ぶりに内務大臣に復帰したのは、政治家に転身してたったの16年で首相の座についたメルケル政権下だった。財務大臣を務める現在、アンゲラとの確執もたびたびささやかれるが、それは本物か、演出か。難民問題に揺れる今、アンゲラの後継者として、「ショイブレ首相」の可能性も再び注目されている。

7 プライベートを守るファースト・ハズバンド
ヨアヒム・ザウワー Joachim Sauer
(1949年 – 66歳)

ヨアヒム・ザウワー Joachim Sauer
2015年6月、ベルリンのベルビュー宮殿で
英国のエリザベス女王を迎え、
公式晩餐会に出席したアンゲラと、ザウワー(右)

現夫であるヨアヒム・ザウワーは、ノーベル賞の候補者としても名前が上がるほど著名な量子化学者で、ベルリン・フンボルト大学で化学理論を教える教授。プライベートについては秘密主義を通しており、アンゲラとの結婚の前に、離婚暦があり、前妻との子供が二人いることのほかは、謎につつまれている。

自身も多忙であるため、外交の場で姿を見せる機会も少ない。アンゲラいわく、「出席するかどうかを決めるのは彼」。しかし、ファースト・ハズバンドとしての役割は十分に果たしており、2007年にドイツが主催国だったG7先進国首脳会議では、首脳陣の夫人やパートナー達を唯一の男性としてしっかりもてなした。

5歳年上のザウアーと結婚したのは1998年のこと、以来、二人のプライベートの住居では、「政治に関係することは禁止」されていて、アンゲラの同僚が私宅を訪れることはまずない。彼女が数少ないプライベートの時間を心静かに過ごせることは、アンゲラの強さの秘密かもしれない。アンゲラは彼のことを「アヒム」と呼び、「fast lebenswichtig(自分のライフラインに近い)」と語る。

一方、「世界で最も影響力のある女性100人」で5年連続1位、10年以上国家元首を務める妻を誇りに思うか? との質問にザウワーは、「えぇ、そうだと言えるでしょうね」と控えめに微笑む。

「めでたし、めでたし」となるのはまだ早い。
アンゲラ・メルケルはまさに今正念場に立たされている。
そして、政治家アンゲラ・メルケルの功績が歴史に評価されるのは、
もっとずっと先の話かもしれない。

 
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