Hanacell

ベートーヴェン『第九』アジア初演100周年
音楽が繋ぐ
日本とドイツの絆

徳島オーケストラ 徳島オーケストラのメンバー

1918年6月1日、鳴門市・大麻町(当時の板東町)にあった板東俘虜収容所でベートーヴェン交響曲第9番(通称『第九』)が、アジアで初めて全曲演奏された。現在も鳴門市では毎年6月1日を祝して演奏会を開催。その活動は日本のみに留まることなく、「『第九』里帰り公演」としてドイツでも行われた。今年、100周年を迎える『第九』アジア初演から、国境を越えて紡がれる日独の交流を探る。
(取材協力・資料提供:鳴門市ドイツ館、鳴門市役所『第九』ブランド化推進室/執筆:編集部)

『第九』初演の歴史を紐解く
板東俘虜収容所の奇跡

鳴門市とドイツの交流の起源は1917年までさかのぼる。1914年に始まった第一次世界大戦で英国と同盟を組んでいた日本がドイツに宣戦布告し、ドイツ兵が東アジアの拠点としていた中国・青島を攻略した「青島の戦い」により、約4700名ものドイツ人捕虜が日本各地の収容所に送られた。そのうちおよそ1000人が徳島県板東町にあった板東俘虜収容所に収容されることになる。

世界大戦当時、敵勢である外国人たちに対し劣悪な住環境で過酷な労働を強いるような強制収容所があった中、板東俘虜収容所は規則の範囲でドイツ人捕虜たちに自由を与え、地元民との交流も許した模範的な収容所だった。

徳島オーケストラ野外音楽堂で演奏する徳島オーケストラ

このような配慮には、板東俘虜収容所の所長を務めていた松江豊寿の存在が大きかった。彼の父親は明治維新の反乱軍であった会津藩の出身であったことから、松江所長本人も汚名を受けながら苦しい生活を送っていたというバックグラウンドを持っていたため、敗者が味わう屈辱を痛いほど理解していたのだ。そのため、施設が閉鎖されるまでの間、徹底した人道的管理の下、ドイツ兵捕虜に自由を与え、住環境の改善に尽力した。
(※板東俘虜収容所の詳しい歴史については、こちらをご覧ください)

ヘルマン・ハンゼンの略歴
1886年
11月26日
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州、グリュックスブルクで生まれる。ドイツ最北の町、フレンスブルクで育ち、シュテッティン(現在はポーランドの都市)で音楽を学ぶ
1904年
5月
18歳の時に海軍に入隊
1909年
10月
23歳の時に負傷のため一時軍を離れ、12月に原隊復帰
1914年
11月
28歳で青島「膠州海軍砲兵大隊(MAK)第3中隊」に所属、一等音楽兵曹として音楽隊の指揮を執る。その後、徳島県・板東で俘虜生活を送る中「徳島オーケストラ(後に「MAK オーケストラ」と改称)」の指揮を執る。
1918年
6月1日
32歳の時に板東俘虜収容所でアジア初となる『第九』の演奏を行った際の指揮者を務める
1919年
8月
故郷であるシュレスヴィヒ=ホルシュタインの帰属を決定する住民投票のため33歳の時にドイツに帰国
1920年 帰国後の34歳の時に市の広報係、秘書官、参事などを務める。
1925年 39歳の時に声楽クラブ「フェニックス」に参加し、この年の指揮者に選ばれる。
1927年
3月13日
病気のため死去。享年40歳。墓には楽器が刻印された(現存はしない)

*上記の略歴は、プスト博士の調査によってフレンスブルク市や教会の文書で明らかになったもの

文化活動を通じて育まれる日独の絆

松江所長の自由を重んじる方針に加え、徳島が四国88カ所霊場を巡る「遍路」の文化が根付く土地柄もあり、住民たちは「お接待」といわれるおもてなしの心を大切にする風習があったことから、地元の人々はドイツ人捕虜たちを「ドイツさん」と親しみを込めて接し、多くの場面で交流を図っていたという。畜産や製パンの技術指導、スポーツや芸術の指導など、捕虜たちは自国の技術や文化を板東町の人々に伝えた。

また、板東俘虜収容所内での活動としては、所内新聞「ディ・バラッケ」の定期発行、菓子店や商店街を営むなどの商業活動、日本ではまだ珍しかった鉄棒や鞍馬、組体操といった競技を取り入れたスポーツ活動、オーケストラや合唱団を結成し演奏会を開いたり、地元民向けの音楽教室を開くなどの音楽活動に精を出していた。

上記の活動の中でも特に活発だったのが、音楽活動だった。以前、音楽隊に所属していた捕虜たちを中心に結成されたのが、パウル・エンゲル率いるエンゲル・オーケストラと、ヘルマン・ハンゼンが指揮を執る徳島オーケストラだった。彼らは週に1度のペースで定期演奏会を開き、ここで生活をしていた約2年10カ月の間に100回以上、約300もの楽曲を演奏したという。定期的に開催される演奏会は、ドイツ人捕虜たちにとって心のよりどころでもあったようだ。

ヘルマン・ハンゼン左)『第九』アジア初演プログラム 右)若き日のヘルマン・ハンゼン

1918年6月1日、『第九』初演を迎えて

このように精力的な音楽活動を続ける中、定期演奏会の一環として1918年6月1日に行われたのがベートーヴェン『第九』のアジア初となる全曲演奏会だった。板東俘虜収容所には男性しかいなかったため、本来であれば女性パートであるソプラノ部分を男性用に編曲したり、収容所にない楽器をオルガンで代用して演奏するなど、工夫を重ねての試みとなった。

講堂『第九』が演奏された講堂

演奏は収容所内で行われたため、板東町の人々が実際に演奏を聴くことはできなかったが、西洋音楽の発展に貢献した徳川頼貞が初演から2カ月後に第一楽章の演奏を収容所で聴き、感銘を受けたことを自身の著書「薈庭楽話(わいていがくわ)」で明かしたことから、1940年代頃に『第九』の初演について多くの人に広く知られるようになった。

世界中で争いが起こっている中、「alle Menschen werden Brüder(すべての人々は兄弟になる)」という歌詞の一説に代表されるような平和や愛という普遍的なテーマを含む『第九』が選ばれたことは異例のこと。しかし、板東俘虜収容所での生活環境や地元の人々とのふれあいによって国境を越えた繋がりを感じずにはいられない出来事ではないだろうか。

また、演奏会のプログラムには、ベートーヴェンやヨハン・シュトラウスが作曲した楽曲が多く含まれており、ベートーヴェンの音楽の精神性と、シュトラウスの音楽の娯楽性がドイツ人捕虜たちにとって必要なものだったのではないかと考えられている。

脈々と受け継がれる現在の『第九』の姿

100年の時を経た現在も鳴門市で行われている『第九』の演奏会。毎年行われるようになったのは、1982年5月15日の鳴門市制施行35周年・鳴門市文化会館落成式記念行事として、第1回目のベートーヴェン『第九』交響曲演奏会が開催されたことがきっかけだった。この演奏会後、市民からの「あの感動をもう一度」という声にこたえる形で演奏の継続が決定。以降、板東俘虜収容所で行われた『第九』のアジア初演の日にちなんで、6月1日を「『第九』の日」とし、毎年6月の第一日曜日に演奏会を行っている。また、ドイツでも定期的に「『第九』里帰り公演」が行われ、ドイツ兵捕虜の子孫も演奏会に駆けつけるなど、日本のみならずドイツでもその歴史が語り継がれている。

第36回『第九』定期演奏会の様子第36回『第九』定期演奏会の様子

2018年の100周年コンサート、
次世代へと想いを伝える

初演から100周年を迎えた2018年は記念として、「よみがえる『第九』」と名付け再演される。初演当時の様子を再現するため、当時と同じ時刻に開演し、合唱団は男性のみで構成される予定だ。オーケストラ・合唱共に1918年と同じ人数で演奏され、まさに当時の様子が現在によみがえる演奏となる。

そのほかにもジュニアオーケストラが中心となる「子どもと大人のベートーヴェン『第九』交響曲第4楽章演奏会」など、次世代を担う子供たちによる演奏会や、今年で37回目を迎える『第九』の定期演奏会は、開催日を2日間に拡大し、延べ1200名もの合唱団が日本全国だけでなく、ドイツ、中国やアメリカなど世界各国から集う。また、ドイツ兵捕虜の子孫を含む国内外からのゲストが鳴門市にやってくる予定。

鳴門市では板東俘虜収容所の史実を通して歴史的背景や友愛の心を理解し、この地が『第九』のアジア初演の地であることに誇りを持ち郷土を感じられるよう、若い世代にも受け継いでいく。――こうして100年前に始まった日独の絆は、いま、次世代へと繋がれていく。

『第九』にまつわる日・独の物語

ベートーヴェン最後の交響曲であり、世界平和への願いや博愛の精神が込められた第4楽章「歓喜の歌」に代表される『第九』。1824年の発表から200年近くの時を経た現在もなお、多くの人々に愛され続けている。世界中の誰もが知っているこの『第九』によって紡がれる4つの物語を紹介しよう。

story1.
年末コンサートの定番となった『第九』

ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団年末に『第九』を演奏するライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団

日本では冬の風物詩として、年末コンサートの定番プログラムである『第九』。その始まりは諸説あるが、戦後間もない1940年後半に日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が、12月に演奏したことで、年末の『第九』演奏会が一般的に認知されるようになった。混乱が続く世界情勢の中、当時喜びや博愛精神に満ちあふれたこの楽曲を聴いた人々から好評だったため、それ以降、年末に『第九』を演奏する習慣が根付いたといわれている。

年末に『第九』を演奏するのは日本以外には少なく、欧州ではメンデルの『メサイア』が定番だ。ただ、ドイツのライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団では、 第一次世界大戦が終結した1918年の年末に平和への願いを込めて『第九』を演奏して以来、大晦日にこの楽曲を演奏することが定番となっている。

story2.
欧州連合のシンボルとなった『第九』

ヘルベルト・フォン・カラヤン編曲を担当したヘルベルト・フォン・カラヤン(中央)

欧州連合(EU)のシンボルには、サークル状に黄金の星が12個あしらわれた欧州旗、ヨーロッパの平和と統合を祝う5月9日のヨーロッパの日、「多様性の中の統合(United in diversity)」を掲げたモットーなどがある。そしてまた世界的な平和への願いを込めたベートーヴェン『第九』の4楽章「歓喜の歌」が欧州市民のアンセムとなっている。

1972年にオーストリアの指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンによって編曲された「歓喜の歌」が、欧州評議会によって「欧州の歌」として発表され、1985年にミラノで開かれた欧州理事会(EU首脳会議)において「EUの歌」として承認された。「EUの歌」は加盟国の国歌ではなく、あくまでもEUの基本的な価値をたたえる曲という位置付けになった。

story3.
長野オリンピックで世界へと繋いだ『第九』

長野オリンピック開会式の一幕長野オリンピック開会式の一幕

いまからちょうど20年前の1998年に長野県で開催された冬季オリンピックの開会式のフィナーレを飾った『第九』。長野を中心にベルリン、中国、シドニー、ニューヨーク、ケープタウンの5つの拠点で同時に第4楽章「歓喜の歌」を合唱するという史上初となる一大プロジェクトが行われた。当日は日本国内外で活躍する小澤征爾氏が長野県市民文化館でオーケストラ、コーラス、ソリストを前に指揮を執り、その映像と音声を衛生中継で5大陸に送るという試みだった。それに合わせて計1000名もが合唱する迫力のステージは、冬季オリンピックが近づくたびに現在でも語り継がれている。

時差や気象状況による衛生中継の切断など、多くの不安を抱えながらも成功したこの演奏は、世界に日本の技術の進歩を発信するのにも一役買った。

story4.
ベルリンの壁崩壊と自由と祈りを込めた『第九』

レナード・バーンスタイン氏1989年のクリスマス演奏会で中心となったレナード・バーンスタイン氏(左)

1989年11月10日、冷戦の終わりを告げる歴史的な出来事であるベルリンの壁崩壊を祝すため、同年のクリスマスに著名な指揮者である米国出身のレナード・バーンスタインを筆頭に著名な音楽家たちがベルリンに集結した。オーケストラを構成したのは、ドイツのバイエルン放送交響楽団やレニングラード・キーロフ劇場、シュターツカペレ・ドレスデンを始め、ニューヨークフィルハーモニー、ロンドン交響楽団やパリ管弦楽など海外からもメンバーが集まった。第二次世界大戦時にドイツと敵国として戦ったイギリスとフランスからもオーケストラが加わるなど、世界平和の実現に向けた第一歩となった。

このコンサートでは第4楽章の歌詞にある「Freude(喜び)」を「Freiheit(自由)」に変えてうたわれた。

 
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