Hanacell
マーティン・パウレクン牧師
マーティン・パウレクン牧師

すべての人々に開かれた教会を目指す

ザンクト・パウリ地区はハンブルクの
政治的問題の震源地。
そこには大きなチャンスがある。

今回の仕事人
Martin Paulekun
プロテスタント牧師。1993年よりハンブルク、ザンクト・パウリ教会の主任牧師。自由な発想で、教会をすべての人に開かれた魅力的な場にしようと試みる。2013年にランペドゥーザ難民を約1年にわたってサポートした功績が評価され、2014年に、ジークハルト・ヴィルム牧師とともにヘルムート・フレンツ賞を受賞した。

インフォメーション
St.Pauli Kirche
Pinnasberg 80, 20359 Hamburg
www.stpaulikirche.de

兵役代替役務時代に生まれた神学への興味

マーティン・パウレクン(60)はノルトライン=ヴェストファーレン州ヴェルドール生まれ。機械エンジニアだった父の影響で、幼い頃からエンジニア志望だった。エンジニアは当時の花形職。ギムナジウム終了後は憧れのアーヘン工科大学の機械工学科に入学申請を出したが、認められなかった。

その後、兵役を拒否。代替役務として、プロテスタント系寄宿舎の管理人の仕事に就いていたときに神学への興味が湧いた。ハンブルクをはじめ、5つの大学の神学部に入学申請をすると、いずれの大学からも許可が下りた。結局ハンブルク大学を選んだのは、幼い頃に観光で来た思い出があったからだ。入学当初は機械工学部への転部も考えたが、神学が面白くなり、学部にとどまることにした。

近年、神学部志望者は激減しているが、1970年代は環境保護運動や平和運動、反核運動が最高潮に達した時代で、神学部は人気学部となり、平和運動に積極的な学生の多くが神学を専攻した。彼が入学した1977年には、約90人の同期生がおり、どの教授のゼミも満員。講義室は学生で溢れ返っていたという。

ヴィカリアート期間中に牧師となることを決意

神学生ばかりでアパートをシェアして暮らし、広告代理店でアルバイトをしながら大学に通った。所定の単位を取得し、理論の試験にパスした後は、広告代理店、映画製作会社などで働きながら、どのような職業に就きたいかを考え続けたが、答えは見つからなかった。せっかくだから学業をきちんと終え、牧師資格を取得しようと思い、ヴィカリアート(Vikariat) と呼ばれる実習を行った。実習先の教会では青少年活動を担当したが、その仕事が面白く、牧師になろうと決意。88年にすべての教育課程を終え、晴れてハンブルクのドゥルスベルク地区の教会に就任した。

5年が経った頃、偶然にザンクト・パウリ教会の牧師の募集広告を見つけ、応募することにした。ハンブルクの心臓部で働くということは、とても特別なことだからだ。

ドラッグディーラーのたまり場から文化の発信地へ

1993年に就任したとき、ザンクト・パウリ教会の庭は、ドラッグディーラーと中毒者のたまり場だった。初めての日曜礼拝にやって来たのは2人だけ。このままでは人が集まらないと思い、まず実行したのは「ドラッグの売買を禁じる」と書いた看板を立てること。庭には花を植え、壊れた門を修理し、夜間は門に鍵をかけた。それだけで環境がずいぶん良くなった。

90年代の終わりには、教会特有の5 ~ 6メートルある立派な木製ベンチを思い切って処分し、椅子を導入した。教会をイべントに活用してもらい、使用料収入を得て、財政を改善しようと思ったのだ。しかし、19世紀に建てられた教会は文化財に指定されており、ベンチも文化財の一部。反対意見も多く、複雑な手続きを経る必要があった。しかし一旦ベンチを取り払うと、教会という建物があらゆる催し物に対応できることが分かった。ドイツ最大のクラブ・フェスティバル「レーパーバーン・フェスティバル」には初回から場所を提供し、文学フェスティバル「ハーバーフロント」にも会場提供している。思い切って座席を取り払ったことで、これまで教会に足を運んだことのなかった人たちが集まって来た。

パウレクン牧師は、教会を現代のカルチャーシーンに開放しただけではない。かつて広告マンだった彼の発想は柔軟で、教会ならではの商品開発にも取り組んでいる。その例が、教会の庭に養蜂箱を設置し、養蜂家に依頼して生産している教会ブランドの蜂蜜と、モーゼル地方にぶどう畑を借りて生産している、オリジナルワインだ。

パウレクン牧師とヴィルム牧師
ザンクト・パウリ教会を率いる2人。パウレクン牧師とヴィルム牧師

ランペドゥーザ難民をいち早く受け入れた教会

今年に入ってから、主にシリアからの難民が欧州へ押し寄せているが、ハンブルクでは、2013年春に、イタリア・ランペドゥーザ島沖で保護され、ハンブルグに来た難民300人の滞在権をめぐる抗議運動が市民の関心事となっていた。彼らは西アフリカ諸国出身で、リビアで働いていたが、内戦後カダフィ派であるとの疑いをかけられ、イタリアへ逃れた。母国を追われたわけではない彼らの事情は複雑で、ハンブルク市との交渉は難航。そうこうするうちに、野宿をしていた難民たちが、教会の庭にテントを張っても良いかと訪ねて来た。その数は約200人に膨れ上がった。ザンクト・パウリ教会は彼らに教会堂を開放。その後、コンテナハウスを設置し、他地区と分担して、1年にわたって約70人を受け入れ、全員の住居が決まるまで、ボランティアとともにサポートした。現在、彼らのほとんとが労働許可を得て職業に就いているが、正式な滞在許可は下りず、送還猶予段階だ。

「聖書はまさに難民の物語だが、現在の難民問題に対して、教会は行政の信頼を得て活動できる。それは教会のチャンスだ。ミサには数十人しか集まらないが、ランペドゥーザ難民を受け入れたときは、180人のボランティアが駆けつけ、教会の枠を越えて協力してくれた。それは素晴らしい経験だった」、そうパウレクン牧師は言う。2014年2月、パウレクン牧師と同僚のジークハルト・ヴィルム牧師は、ランペドゥーザ難民への対応が評価され、ヘルムート・フレンツ賞を受賞した。現在彼らは、シリア難民のサポート対策として、中心街で余っているボランティアに、不足している郊外で活躍してもらえるよう、送迎手段の整備を計画中だ。

「ザンクト・パウリ地区はハンブルク市の政治的問題の震源地であり、様々な議論が発生する場所だ。その渦中にあるザンクト・パウリ教会は、それらの議論を大きなチャンスとして生かすことができる。ここではやる気を出せば、本当にたくさんのことができる。」パウレクン牧師は教会のさらなる可能性を確信している。

 

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岩本順子(いわもとじゅんこ) 翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に「おいしいワインが出来た!」(講談社文庫)、「ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像」(新宿書房)他。www.junkoiwamoto.com
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