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ロンドンのゲストハウス
Do. 17. Okt. 2019

ナチス絶対悪の社会

日本では時々、「ヒトラーは失業を減らしたり、高速道路(アウトバーン)を建設したりしたのだから、良いこともした」と本気で語る人がいる。ドイツでは、こうした意見は全く受け入れられない。ドイツは言論の自由を保障している社会だが、ナチスを賞賛する意見はタブーである。

この国では、ナチスの思想は絶対に擁護してはならないという考え方が主流になっている。「アウシュヴィッツのユダヤ人大虐殺はなかった」とか「殺された人の数はもっと少なかった」という主張を雑誌などに発表することも、犯罪行為とみなされる。なにしろ、日本では書店で堂々と売られているヒトラーの「我が闘争」すら、ドイツでは発禁になっているのだ。ナチスの時代を批判的に分析する歴史家などの研究者だけが、この本を読めることになっている。

今年夏にロンドンで開かれたオリンピックでは、旧東ドイツ・ロストック出身の23歳の女性選手が、「ボーイフレンドがネオナチ政党NPDの党員である」という事実が発覚したために、選手村を去って帰国した。本人がナチスの思想に染まっていたわけではないのだが、極右関係者と付き合っていたことが、五輪出場選手という輝かしいキャリアを台無しにした。

今日のドイツで、ネオナチと呼ばれる勢力は人口の1%にも満たない。日本人の中には、「ドイツの過去との接し方は大げさだ」と思われる人もいるかもしれないが、私は決して大げさだとは思わない。

その理由は、ナチスの外国人排斥の思想が今も一部の国民の間に生きているからだ。もちろんそうした思想は、ドイツ社会のメインストリームではない。しかし外国人にとって、潜在的な危険性を秘めていることは間違いない。1992年には極右が2285件もの暴力事件を起こしたほか、17人の外国人やドイツ人を殺害している。旧東ドイツのネオナチ組織NSU(国家社会主義・地下組織)は、11年間にわたってミュンヘンなど各地で外国人とドイツ人警察官10人を射殺した。警察は「トルコ人の犯罪組織の内輪もめだろう」と判断し、ネオナチによるテロだということに全く気付かなかった。ここには「左に厳しく、右に甘い」警察の体質が現れている。

メクレンブルク=フォアポンメルン州では、NPDが堂々と議席を持っている。同州には、有権者の4人に1人がネオナチ政党を支持している選挙区もある。ドイツ政府がナチス排撃の手を緩めないのは、このように極右支持者の残滓が残っているからだ。もしも政府が少しでもネオナチに甘い顔を見せたら、周辺諸国やイスラエルから徹底的に批判されるだろう。

イスラエルやポーランドなど、かつてナチスの被害を受けた国々は、ドイツの学校の歴史の授業の中で子どもたちがナチス時代について正しい内容を学んでいるか、厳しく監視している。今日のドイツ社会の主流派にとって、ナチスの思想を批判することは国是であり、一種のアイデンティティーにすらなっているのだ。

ひるがえって、ドイツと同じ敗戦国である日本では、ナチスの問題について大きな温度差がある。今年の夏、ある映画が日本で話題になった。「第2次世界大戦で敗北したナチスが、実は月に撤退しており、宇宙船に乗って地球を侵略する」という荒唐無稽なSFである。この映画を日本に配給した会社が、前売り券を予約した人に、宇宙服を着たキューピーの人形を景品としてプレゼントしたが、この人形がナチスの鉤十字(ハーケンクロイツ)の旗を持っていたのである。

ドイツでは、鉤十字や親衛隊SSの紋章を公衆の面前にさらしたり、右手を高く掲げるナチス式敬礼を行ったりすることは犯罪行為であり、「国民扇動罪」で処罰される。したがってこの国で、映画の景品に鉤十字を付けた人形を使うことは考えられない。ドイツの企業もこの点には、細心の注意を払っている。たとえば第2次世界大戦中にナチス・ドイツ軍が使った戦闘機には、垂直尾翼に鉤十字が描かれていた。ドイツでは、このような戦闘機のプラモデルの箱絵では、鉤十字が消されている。

ナチスは約600万人のユダヤ人を殺害し、多くの国民に奴隷労働を強制した犯罪組織である。イスラエルなどには、今も当時の悪夢から逃れられない人々がいる。被害者にとって、鉤十字はナチスの暴虐のシンボルである。

日本はナチスによる犯罪の犠牲になってはいない。温度差が生じるのは、そのためだろうか。だが当時の文書を読むと、ナチスがアジア人を蔑視していたことがわかる。したがって、もしも当時ナチスが欧米を完全に支配していたら、我々日本人も遅かれ早かれナチスによって弾圧されていただろう。

日本はドイツから約1万キロ離れているとはいえ、被害者の心情を考えれば、もう少し配慮があってもよかったのではないだろうか。我々日本人も、「歴史リスク」を軽視するようなことは避けなくてはならない。

19 Oktober 2012 Nr. 940

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局勤務中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン市に在住。過去との対決、統一後のドイツの変化、欧州の政治・経済統合、安全保障問題を中心に取材、執筆を続けている。著書に「ドイツの憂鬱」、「新生ドイツの挑戦」(丸善ライブラリー)、「ドイツ病に学べ」、「住まなきゃわからないドイツ」、「びっくり先進国ドイツ」(新潮社)など。
http://www.tkumagai.de
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