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米国のネット支配に対抗できるか?

私は24年前からミュンヘンに住み、日本とドイツ社会の両方を眺めているが、時折、両国の国民の反応に大きな違いが表れることに気付く。米諜報機関・国家安全保障局(NSA)の元職員エドワード・スノーデン氏が2013年に暴露した、同局による電子盗聴問題もその1つだ。

米メリーランド州, 陸軍基地, NSA本部
米メリーランド州の陸軍基地内にあるNSA本部

日本よりも強いドイツの関心

スノーデン事件は、間違いなく諜報の歴史に残る出来事だ。米国のグローバルなスパイ活動が、元職員によって詳細に明らかにされたのは初めてのことだからである。日本では一部の新聞が報道したり、スノーデンを最初にインタビューした記者の本が翻訳・刊行されたりしているが、政界や経済界を巻き込んでの大議論にはなっていない。どちらかといえば、国民の大半は無関心である。これに対してドイツでは、NSA問題が政界、経済界、言論界に大きな議論を巻き起こしている。その理由の1つは、NSAがメルケル首相(キリスト教民主同盟=CDU)の携帯電話を盗聴していたことが、報道機関によって暴露されたことだ。米国政府も過去に傍受を行ったことを否定しなかった。

この事実は、メルケル首相だけでなく国民をも激怒させ、米独関係は急速に冷え込んだ。連邦議会は今年3月に「NSA問題調査委員会」を設置し、一部の議員はスノーデン氏の証言を要請している。連邦検察庁もメルケル首相の携帯電話の盗聴事件に関して、スパイ活動の疑いで捜査を開始した。しかし、連邦議会の調査委員会や連邦検察庁は米国の協力をほとんど得られないだろう。NSAの業務内容はトップシークレットに属するため、米政府関係者は口を閉ざすはずだ。

米国はスパイ活動を止めない

ドイツ政府の一部には「米国との間に、相互にスパイ活動を行わないという“ノー・スパイ合意”を結ぶべきだ」という意見もあったが、これは外交・諜報の世界の現実を無視した、あまりにも楽観的な主張だ。「外交の世界に国益はあるが、友情はない」という警句がある。この言葉が示すように、国際社会を左右するのは国益だけだ。友好国の首脳の本音を、盗聴などのスパイ活動によって探るのは諜報の世界の常識であり、米国がドイツの要請に基づいてスパイ活動を止めることはあり得ない。

検察庁にとっても、同盟国の政府が容疑者である事件の捜査は困難だ。NSAはメルケル首相だけでなく、ドイツだけでも毎日何百万人もの市民の通話を傍受し、電話番号やメール内容を記録している。彼らは特定の容疑者だけをピックアップして盗聴するのではなく、大量の通信データを地引網のような傍受システムでキャッチし、巨大なサーバーに保存する。このこと自体、すでに憲法が保障する通信の秘密を侵す行為だ。

ビジネス界と諜報機関の協力?

ドイツでは、20世紀前半にナチスが市民権や表現の自由を抑圧し、密告者を使って国内にも諜報網を張り巡らせていた。密かに英国放送協会(BBC)の海外向けラジオ放送などを聞いていた国民は密告され、刑事訴追された。また東ドイツでは、社会主義政権の国家保安省(シュタージ)が何万人もの密告者を動員して、政府に対して批判的な意見を持つ国民を監視していた。こうした苦い経験から、ドイツ人は今日でも、個人情報が諜報機関などにキャッチされ、それが蓄積されるということに敏感なのである。

もう1つ、ドイツ市民を戦慄させた事実がある。インターネット・ビジネスの世界では、グーグル、アマゾン、ウィキペディア、アップルなど米企業が主導権を握り、他国に大きく水を開けている。スノーデン氏は、「これらの企業が過去においてNSAに協力し、顧客データなどへのアクセスを許可していた」と主張している(企業側は否定)。ご存知のように、これらの企業のサーバーは初歩的な人工知能を使って消費者がインターネットでどのようなページを閲覧したかを把握し、消費者の関心に基づいて広告を表示したり、商品を推薦したりする。これらの個人情報が、民間企業から諜報機関に提供されるとしたら、恐るべきことだ。

人工知能がミスを犯すこともあり得る。例えばシリアやイランの古代遺跡に関心がある日本人が、そうした場所に関するウェブサイトを頻繁に見ていることがNSAにキャッチされ、「テロ組織に関係のある人物」という疑いを掛けられる危険性もある。

注目すべき欧州裁の判決

先日、惜しくも死去したフランクフルター・アルゲマイネ紙(FAZ)の共同発行人フランク・シルマッハー氏は、「産業界と諜報機関の協力による、個人の自由の制限」に強い懸念を抱き、1年前からFAZの文化面で政治家、企業家、学者に寄稿を求め、個人データ収集問題について議論を行わせていた。こうした世論の影響を受けて、欧州裁判所は今年5月にグーグルに対し、市民が申請した場合には機微な個人情報を削除することを命じた。グーグルが裁判所から情報の一部を取り除くよう命令され、実行するのは初めてのことである。「ネットの世界にも法治主義を通用させるべきだ」という司法界の強力なメッセージであり、大きく評価したい。

アジア諸国の政府や言論界は、この問題についてあまりにも無関心だ。米国のインターネット支配に唯一対抗できる勢力があるとすれば、それは欧州である。今後の議論の行方に注目していきたい。

19 September 2014 Nr.986

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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