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バウハウス創立100周年 ドイツ・デザインの歴史を紐解く

第一次世界大戦終戦から間もない1919年。ヴァイマル共和政期のドイツで、芸術の総合的教育機関「バウハウス」が誕生した。性別や年齢に関係なくアートやデザインを学べる場として、ここには世界各国から芸術家の卵や著名な講師陣が集まった。後に多くのアーティストを輩出するバウハウスを取り巻く環境や人々から、その歴史を紐解く。(Text:編集部)

バウハウスの立役者、ミースとグロピウス

20世紀を代表する近代建築の四大巨匠といえば、ル・コルビュジエにフランク・ロイド・ライト、そしてドイツ出身のミース・ファン・デル・ローエとヴァルター・グロピウスだ。彼らは建築家として活躍し、バウハウスの校長を務め、米国に移住するなど、時代に翻弄されながらも多くの功績を残した。今年没後50年を迎えた2人の人生を辿る。

ミース・ファン・デル・ローエ

シンプルと機能性を世界に広めた建築家 ミース・ファン・デル・ローエ
Mies van der Rohe

名言

Less is more.
(より少ないことは、より豊かである。)

生年月日

1886年3月27日 ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州アーヘン生まれ
1969年8月17日 米国イリノイ州シカゴ没

バウハウスで校長を務めた年月

1930〜1932年(バウハウス・デッサウ)
1932〜1933年(バウハウス・ベルリン)

代表作

● ヴァイセンホーフ・ジードルンク(ドイツ・シュトゥットガルト)
● バルセロナ万博 ドイツ館(スペイン・バルセロナ)
● ファンズワース邸(米国・シカゴ)
● トゥーゲントハット邸(チェコ・ブルノ)
● 新ナショナルギャラリー(ドイツ・ベルリン)
など

生い立ち・キャリア

5人兄弟の末っ子として生まれたミースは、地元の工業学校に進学し、製図工の職業訓練を受ける。1906年に設計事務所に所属し、翌年には建築家ペーター・ベーレンスのもとで本格的に建築について学ぶ。1913年にリヒターフェルドに自身の建築事務所を設立。1927年にはペーター・ベーレンス、ヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエ、ブルーノ・タウトらとともにシュトゥットガルトに集合住宅ヴァイセンホーフ・ジードルンクを設計した。1929年に建設した、バルセロナ・パビリオンは、モダニズム建築の最高峰として高い評価を受ける。バウハウス後期の1930年から閉校まで校長を務めた。

バウハウス閉校後

1937年に祖国であるドイツを離れた後、米国のイリノイ工科大学にて建築学科長に就任する。米国へ移住後は、シカゴを中心に活動。イリノイ工科大学のホールのような学校関係の建物、ファンズワース邸に代表される住居、シーグラム・ビルディングのようなオフィスビルの設計に携わった。そんな彼のスタイルは後の米国で文化教育機関から大企業までが取り入れる代表的な建築様式となる。また、内部空間を事前に限定せず自由に使えるように配慮したユニバーサル・スペースという理念も世に広めた。

ヴァルター・グロピウス

教育者としてもアート界に貢献した建築家 ヴァルター・グロピウス
Walter Gropius

名言

The Bauhaus fights imitation, inferior craftsmanship and artistic dilettantism.
(バウハウスは模倣、粗悪な職人技、芸術を道楽にする人々と戦う。)

生年月日

1883年5月18日ドイツ・ベルリン生まれ
1969年7月5日米国マサチューセッツ州ボストン没

バウハウスで校長を務めた年月

1919(設立)〜1925年(バウハウス・ヴァイマル)
1925〜1928年(バウハウス・デッサウ)

代表作

● ファグスの靴型工場(ドイツ・アルフェルト)
● バウハウス・デッサウ校舎(ドイツ・デッサウ)
● ベルリンのモダニズム集合住宅(ドイツ・ベルリン)
など
※上記すべて世界文化遺産に登録

生い立ち・キャリア

建築家の息子として生まれたグロピウスは、父親と同じ道を歩むべくミュンヘンとベルリンの工科大学で建築を学ぶ。大学卒業後の1907年に、ベルリンの建築家ペーター・ベーレンスに師事し、ベーレンスから多大な影響を受ける。1910年に彼の元を離れてからは、ドイツ工作連盟に加わるなど、建築やアートを促進する活動に積極的に参加。1911年、後に初期モダニズム建築を代表する作品として注目を集めるファグスの靴型工場を手がける。1915年にドイツ工作連盟で慕っていたアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからヴァイマルの工芸学校を託され、1919年にバウハウスを創設、初代校長に就任する。バウハウスに関する作品も多数残しており、バウハウス校長室のインテリア(1923年)やデッサウの校舎(1926年)を手がけた。

バウハウス閉校後

1934年にミースよりも一足先に祖国であるドイツを離れ、英国に3年間暮らす。その後、ハーバード大学から招かれる形で1937年に米国に渡り、ハーバード大学デザイン大学院で教鞭を執るように。晩年はマサチューセッツ工科大学の客員委員として活躍。1946年には若き建築家たちをサポートする建築家共同設計体(TAC)を設立し、若手の育成にも尽力した。

近代建築家は家具のデザインもお好き⁉

モダニズム建築家たちは、家具のデザインにも携わっていた。バルセロナ万博ドイツ館を手がけたミースは、この建物に合う椅子として、「バルセロナチェア」をデザインしている。「造形活動の最終的な目的は建築である」という言葉を残したグロピウスも、「アームチェアD51」など椅子を手がけている。彼らだけでなく、ル・コルビュジエ、イサム・ノグチ、アルヴァ・アアルトなど世界各国を代表する著名な建築が家具をデザインするのが一般的だった。

ミースとグロピウスを繋いだ建築家

ミースとグロピウスは、1907年に奇しくも同じ建築家のもとで働いていた。それがドイツのモダニズム建築や工業建築の分野で多くの建築家に影響を与えた、ペーター・ベーレンスだ。ベーレンスは、電機メーカーAEGのデザイン顧問を担当し、同社タービン工場の設計を手がけた人物。インダストリアルデザイナーとしても活躍し、ガス給湯器や照明器具などもデザインした。多才だった彼の元には、近代建築の巨匠の1人、ル・コルビュジエも師事している。

バウハウスで才能を開花させた女性たち

女性参政権の獲得が実現したばかりの1919年に設立されたバウハウス。男女平等の兆しが見えてきたこの時代に、芸術の世界で生きる女性たちを取り巻く環境はどのようなものだったのか。バウハウスに関わりのある女性アーティストの活躍に焦点を当てながら考察する。

フリードル・ディッカー

Friedl Dicker
フリードル・ディッカー

1889年オーストリア・ウィーン生まれ。1919〜1923年まで学生として在籍。入学前はヨハネス・イッテンが設立したウィーンの芸術学校で学ぶ。バウハウスでは、製本やリソグラフィーのワークショップに参加。パウル・クレーの作品に影響を受け、彼の講義には毎回出席していたという。バウハウス卒業後、1925年に故郷ウィーンへ戻り製本や織物のスタジオを開設。1931年からは幼稚園の先生として子どもたちに芸術を教えるように。しかし、ユダヤ系だった彼女はナチスの迫害により、1944年アウシュビッツ強制収容所で亡くなった。

マリアンヌ・ブラント

Marianne Brandt
マリアンヌ・ブラント

1893年ケムニッツ生まれ。1923〜1928年にかけて学生として在籍。卒業後は1929年まで金属工房の所長代理を務める。1911年にヴァイマルの私立美術学校で彫刻や絵画を学んだ後、バウハウスに入学。金属工房に所属し、1926年にはデッサウ校舎の最初の照明器具の設計に携わる。バウハウスを離れた後は、カールスルーエのダマーストック住宅団地のインテリアデザインなどを手がけた。

Marianne Brandt

グンタ・シュテルツル

Gunta Stölzl
グンタ・シュテルツル

1897年スイス・チューリヒ生まれ。1919〜1925年まで学生として在籍し、1925〜1931年まで織物工房のマイスターとして活躍。バウハウス入学前はミュンヘンでアートを学ぶ。1919〜1929年までガラスペイントや壁塗装のワークショップに、1921〜1925年にかけて織物のワークショップで学ぶ。マルセル・ブロイヤーが設計したデッサウ校の家具のテキスタイルカバーをデザイン。バウハウスを離れた後はスイスで暮らし、手織り会社を立ち上げる。1968年にはバウハウス50周年展覧会にも参加した。

Gunta Stölzl

ロッテ・ベーゼ

Lotte Beese
ロッテ・ベーゼ

1903年ドイツ領シレジア(現ポーランド・ロキトキ)生まれ。1928〜1932年までバウハウスの学生として在籍。デッサウ校で建築を学んだ最初の女性でもある。ハンス・マイヤーのもとで知識と技術を積んだ彼女は、建築に加えて都市計画の基礎も学んだ。1929年、ベルリンに移りマイヤーの事務所で働きながら、ドイツ労働組合総同盟の国立大学建築計画を共同で担当する。1935年、パートナーのマート・スタムとともにアムステルダムへ移住し、自身の建築事務所を設立。都市開発にも関わる建築家として活躍した。

アルマ・ブッシャー

Alma Buscher
アルマ・ブッシャー

1899年クロイツタール生まれ。1922〜1927年まで学生として在籍。彼女が考案したおもちゃ「Kleines Schiffbauspiel(小さな船の創造ゲーム)」は、現在でも愛され続けている作品だ。ベルリンの芸術系研修機関で学んだ後、バウハウスに入学。ワシリー・カンディンスキーやパウル・クレーなどの授業に参加した後、1923年から木工を学ぶ。 同年に開催された展示会で、子ども部屋の家具や「Kleines Schiffbauspiel」を含めた子ども用おもちゃのデザインを発表した。

リリー・ライヒ

Lilly Reich
リリー・ライヒ

1885年ベルリン生まれ。1932〜1933年まで建築部門のディレクター、製織工房長を務める。1908年工業刺繍の技術を学んだ後、ウィーンのヨゼフ・ホフマンの工房で働き始める。1911年にベルリンに戻り、翌年ドイツ工作連盟のメンバーに加入。1920年には女性初の理事となる。1926年にミース・ファン・デル・ローエと出会い、1928年にシュトゥットガルトで開催されたドイツ工作連盟による展覧会のプロジェクトを協働。このプロジェクトの成功により、1929年のバルセロナ万博ドイツ・パビリオンの芸術監督に任命された。

アニ・アルバース

Anni Albers
アニ・アルバース

1899年ベルリン生まれ。1922〜1928年まで学生として在籍し、1928〜1929年、1930〜1931年まで織物工房の所長代理を務める。最初は画家志望だったが、テキスタイルデザインの才能を開花し、織物の多様な可能性を探求する。バウハウスを離れた後、1933年に米国へ渡り、製織のパターンやテクニックを研究。1949年、ニューヨーク近代美術館で個展を開催した最初の女性テキスタイルアーティストとなる。

Anni Albers

バウハウスで学ぶ女性たちを取り巻く環境

初代校長、ヴァルター・グロピウスが掲げた「年齢、性別に関係なく、誰もがバウハウスで学ぶ権利を要する」というマニュフェストは、高い志を持つ若者たちにとって革新的だった。バウハウスは女性にもアートの可能性を切り開くチャンスを与えてくれる場所になるはずだったが、現実はそう簡単ではなかった。女性の入学希望者が半数を超えると、グロピウスは評判を損なうのではという危機感を抱いたという。多くの女性たちが自ら望んだ学科に参加することが難しく、織物を学ぶコースへの所属となった。閉校までに460人以上の女性が在籍していたが、評価されたのはほんの一握り。バウハウスには女性が過小評価されていたという影の部分が存在していたのも事実だ。

参考資料:deut schland.de„Gelernt haben wir nix“,Da s Er st e「Fr auen am Bauhaus – Die unt er schä t zt en Meist erinnen」,100 jahr e bauhaus

 
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