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ジャパンダイジェスト
Fr. 05. Jun. 2020

第二次世界大戦の終結から75年 ドイツ人は「過去」から 何を学ぶのか?

今年の5月8日、欧州における第二次世界大戦の終結から75年を迎える。ナチスによる残虐な犯罪をはじめとしたドイツの負の歴史については、現在も世界中で学ばれている。一方、ここドイツではその歴史経験をどのように語り、次の世代へどのように伝えてきたのだろうか。この75年という節目に、ドイツにおける歴史教育や記憶文化について取り上げながら、ドイツ人の「過去」との向き合い方、そして、「過去」を現代にどのように活かしているのかを探る。

虐殺されたシンティ・ロマのための記念碑ベルリンにつくられた「虐殺されたシンティ・ロマのための記念碑」

ナチスの犯罪とは?

第二次世界大戦以前から、ナチスはユダヤ人に対して人種差別的な思想を持ち、ユダヤ人を迫害する政策を次々と打ち出していた。1942年には「ユダヤ人問題の最終的解決」と題した政策で、欧州におけるユダヤ人の絶滅計画を立て、それを実行。これがいわゆるホロコースト(ギリシャ語で「焼かれたいけにえ」の意)といわれる大量殺戮だ。ユダヤ人はゲットーへの強制移住にはじまり、次々と強制収容所に移送され、人体実験や過酷な労働を強いられた。また、子どもや高齢者、病気の者は労働不可能とみなされ、約300万人がガス室で殺害されたという。1931~1945年の間に殺害された欧州のユダヤ人は、およそ570万人(諸説あり)。もともと900万人いたという欧州のユダヤ人の3人に2人が犠牲となった。

ナチスの犠牲者は、ユダヤ人だけではない。シンティ・ロマや障がい者もユダヤ人と同じく「劣った民族」として迫害の対象となった。さらに、捕虜となったソ連軍の兵士たちは放置され、飢餓や病気などで200~300万人が死亡したといわれる。また、数百万人単位の非ユダヤ系ポーランド市民やソビエト市民が強制労働させられ、殺害された。ほかにも、共産主義者、エホバの証人、同性愛者なども強制収容所に移送され、その多くが命を落としている。

ホロコーストをはじめとするナチスによる残虐な犯罪は、第二次世界大戦が終わってからの軍事裁判や生存者の証言によって徐々に明らかにされてきた。そして、戦後復興とともに、ドイツ人も少しずつ自国の過去に向き合っていくことになるのだった。

参考:Bundeszentrale für politische Bildung 公式サイト、United States Holocaust Memorial Museum 公式サイト

国別ホロコースト犠牲者(ユダヤ人)

ポーランド 300万人
ソヴィエト連邦 100万人
ルーマニア 35万人
ハンガリー 27万人
チェコスロヴァキア 26万3000人
ドイツ 16万5000人
リトアニア 16万人
オランダ 10万2000人
フランス 7万5000人
ラトビア 6万7000人
オーストリア 6万5500人
ユーゴスラビア 6万5000人
ギリシャ 5万9000人
ベルギー 2万8500人
イタリア 7000人
ルクセンブルク 1200人
エストニア 1000人
ノルウェー 758人
デンマーク 116人
アルバニア 100人
合計 570万人
*最大610万人とする研究もある

*ナチスによる迫害の歴史 Quelle:Arbeitskreis Zukunft braucht Erinnerung「Opferzahlen des Holocaust」

ナチスによる迫害の歴史

1933年 1月 ヒトラー(1889-1945)が政権を獲得
10月 国際連盟を脱退
1938年 3月 オーストリアを併合
11月 「水晶の夜」※ユダヤ人排斥事件
1939年 9月 ポーランドに侵攻=第二次世界大戦勃発
1940年 2月 ユダヤ人の強制移送が始まる
4月 デンマーク、ノルウェーに侵攻
5月 ルクセンブルク、オランダ、ベルギーに侵攻
9月 イタリアと日本と三国同盟を結ぶ
1941年 2月 ブルガリアに侵攻
4月 ユーゴスラビア、ギリシャに侵攻
10月 ユダヤ人のゲットー強制移住
1942年 1月 「ユダヤ人問題の最終的解決」
東欧からドイツへ、強制労働者の移送開始
1944年 8月 ワルシャワ蜂起
1945年 1月 アウシュビッツ=ビルケナウ絶滅強制収容所が解放される
4月 ヒトラーが自殺
5月 ナチスドイツが降伏=欧州における第二次世界大戦終結

ドイツの現代史教育が迎えた
5つのターニングポイント

戦後から今日に至るまで、ドイツではナチスについての批判的な歴史教育が徹底的に行われてきた。ここではドイツの中等教育で歴史がどのように教えられてきたか、その変遷をたどる。終戦から75年経った今、過去から生じる責任を誰がどのように引き受けていくのか。時代や社会の激しい変化に遭遇しながらも、過去について「考えること」を諦めないドイツの姿を見つめてみよう。

参考資料:http://bibliothek.gei.de、Zeit Online「Was geht mich das noch?」、川喜田敦子「ドイツにおける現代史教育」、ラインハルト・リュールップ「ナチズムの過 去と民主的な社会」、サーラ・スヴェン「戦後ドイツと日本の教育における教科書」、近藤孝弘「欧州統合と歴史教育」、テオドール・アドルノ「アウシュヴィッツ以後の教育」

ドイツの歴史教育の特徴

ドイツの歴史教育の特徴

  • ギムナジウムの場合、歴史教育は1年目*(日本の小学5年生)に開始し、卒業までの8年間で現代史までを学ぶ。 *各州により若干異なる
  • 教科書はドイツ史が中心で、外国の歴史はドイツにとって重要とみなされるもののみ(ギリシャ・ローマ、フランス革命、アメリカ独立など)。
  • 一つひとつの事項が、写真や資料を用いて非常に詳しく述べられている。ある教科書の例では、フランス革命44ページ、産業革命に42ページ、ナチス時代68ページなど。
  • ナチス時代については、「ファシズム」概念からナチス政権成立までの経緯、反ユダヤ主義などのイデオロギーを詳細に解説。当時の人々の生活やジェンダー観についての項目もある。
  • 教科書はあくまで補助的な役割で、授業では自主性を重んじ、思考力や判断力を養うことに力点が置かれている。調べ学習や施設見学なども多い。

1ドイツ現代史教育の黎明期
終戦~西ドイツ創設まで

第二次世界大戦の終戦後、ドイツでは学校で歴史の授業を行うことが一旦連合国によって禁止された。その後、1947年までに学校での歴史教育が再開。連合国側が戦後ドイツの統治について定めたポツダム協定をもとに、「ドイツの教育はチズムや軍国主義の教義が完全に払拭され、民主主義理念の成果ある発展が可能となるように規制されねばならない」ことが歴史教育でも基本方針とされた。

しかしナチスの過去はドイツにとってあまりにも近すぎる歴史であり、連合国による「非ナチ化」政策に対し、国内では強い反発があったという。そのような理由もあって、西ドイツ創設期の歴史授業では、第二次世界大戦の内容に触れる場合でも時系列的な説明にとどまり、ユダヤ人をはじめとするホロコーストについてはほとんど言及されなかった。

またこの時期の教師、親、子どもたちは、ナチスを歴史の授業で扱うことに大きな戸惑いや抵抗、拒否反応を示していたといわれている。そのため仮に歴史の教科書にナチス時代のことが記述されていたとしても、実際の授業はそれ以前の第一次世界大戦やワイマール共和国期までで終えることが多かった。一方で、ドイツ人の間でも少しずつ、ドイツの歴史においてナチスをどう受け止めるべきかという議論が活発化していく。

2過去を正面から受け止める
1950年代後半~70年代

そんななか、ドイツの現代史教育を変える決定的な事件が起きる。1959年12月~1960年1月にかけて、西ドイツ全土のユダヤ人墓地が一斉に荒らされたのだ。犯行件数は470件を超え、墓荒らしに加担した大多数は青少年。西ドイツ社会に大きな衝撃をもたらすとともに、若年層の歴史についての知識不足が問題視された。

これらの犯行に対し、1960年1月30日にドイツ教育制度審議会が「反セム主義的暴行事件に関する声明」を発表。戦後教育が十分に行われていない現状を厳しく批判し、若者たちの民主主義的な態度を育成するために、ナチスの過去に関する教育を充実させるべきと、初めて明確に打ち出した。さらに、1961年にイスラエルで行われたアイヒマン裁判*や、1960~70年代にかけて連邦議会で議論された「ナチ犯罪に対する時効廃止」などの影響もあり、歴史の教科書も次々と大幅な改定が行われることに。

例えば、西ドイツの代表的な歴史教科書の「Europa weitet sich zur Welt」では、1952年版ではユダヤ人迫害について触れられているのはわずか2行。その後、同じ出版社が1967年に出した「Europa und die Welt」という新版の教科書では、「ユダヤ人迫害」という独立した節が立てられ、5ページにわたって詳しい説明がされ、第二次世界大戦中のユダヤ人迫害については、別の項目の中でさらに詳しく触れられるようになった。

アイヒマン裁判アイヒマン裁判……ナチスのユダヤ人虐殺の責任者アドルフ・アイヒマン(1906-1962)が1960年5月、逃亡先のアルゼンチンで捕らえられ、翌年4月から行われた裁判。この裁判を傍聴していたドイツ出身のユダヤ人哲学者のハンナ・アーレント(1906-1975)は、アイヒマンはただ命令に従っていただけの「普通の平凡な人間」であり、悪の本質は「人間の思考停止」にあると分析した

3「ナチスの犯罪」から「ドイツ人の責任」へ
1980年代~2000年ごろ

教科書の改定などにより、ナチスの過去を子どもたちに詳細に教えるという点では、一定の成果を出すことができた。しかし世代交代や社会情勢の変化によって、1970年代後半にはヒトラーブームや青少年のネオナチ化が再び活発に。その原因は、「ヒトラーを知らない世代」の子どもたちは、授業でナチスの過去を歴史的な事実として知ることはできても、自分たちの実感として学び、考えることができていなかったからだと考えられている。

というのも、1970年代までの教科書はホロコーストに関する説明自体は大幅に増えたものの、虐殺はあくまで「ナチス」の独断であったかのような説明が多く、一般のドイツ人がどのようにナチスに協力したかについては触れられることがなかった。実際、当時の教科書の文章では、虐殺の行為主体は「ヒトラー」「ナチス」「親衛隊(SS)」であるか、もしくは「多くのユダヤ人が絶滅収容所で命を失った」のように、受動表現や無生物主語の文型が多かったという。

「何のためにナチスの過去を学ぶのか?」。終戦から30年以上が経って再びこの問いを突きつけられたドイツは、「一般のドイツ人(=自分たち)の責任」について教育するという道を選んだ。教科書は、ヒトラーやナチ党幹部の動向だけではなく、ナチス支配下の人々の生活や態度にも言及するよう大幅に変更。それまで政治史や外交史が中心だった教科書には、新たに日常史や地域史という視点が加えられ、より生徒たち個人の経験に引きつけた内容になった。そしてこの時点から、一般の人々がホロコーストに協力したこと、知っていたのに何もしなかったこと、さらには知ろうとしなかったことまで含めて、世代を超えて「ドイツ人の責任」を問い続ける姿勢が確立された。

メリル・ストリープ主演「ホロコースト」1979年に西ドイツで初めて放映された、米国のテレビドラマ「ホロコースト−戦争と家族−」。当時の西ドイツメディアでは、ドイツ市民が何の抵抗もなくナチスに協力する姿がこれほどはっきりと描かれたことはなかった

4移民国家ドイツで、ナチスをどう教えるか?
1990年代~現在

ナチスの過去と徹底的に向き合ってきたドイツだが、近年ドイツが移民社会・多文化社会となったことで、いわゆる「ドイツ人」的な歴史認識を共有することが難しくなってきた。それまでの教育は、政治的な立場は多様であっても、文化的には単一の人々を前提としていたからだ。

これまでの現代史教育では「加害者vs被害者」という二項対立を軸に、「加害者(=ドイツ)の責任」を自覚させることに焦点を当ててきた。しかし移民を背景に持つ子どもたちは、ナチス支配の犠牲者の子孫でもなければ、加害者、協力者、傍観者の子孫でもない。また、ある教育現場では、この「加害者vs被害者」という構図が「ドイツ人vs外国人」という学校内での対立を必要以上に強めてしまったというケースも。そのような状況は、子どもたちに過度なショックやストレスを与えることになってしまう。

そのため今日では「責任」に加え、「相互理解」や「対話」が歴史授業の新たなキーワードに。当時の加害者と犠牲者の視点を対比して学ぶだけでなく、生徒たちがホロコーストに対する考えを共有し合うことで、お互いの考え方やアイデンティティーを理解しようというのだ。特に移民家庭の若者たちにとって、ドイツがナチスの過去とどう向き合うかを知ることは、ドイツ社会そのものを知るための重要なきっかけとなる。それは取りも直さず、多様な集団が一つの国で共生していくために重要な視点といえるだろう。

西ドイツの教育1960年の時点では、西ドイツの子どものうち両親または片親が外国人である割合はわずか1.3%だったが、1997年には20%に。
2020年現在、ドイツ全人口のおよそ25%が移民を背景に持つ

5欧州レベルでの「ナチスの過去」への取り組み
1970年代~現在

欧州統合の進展により、ナチスの過去に関する歴史教育はドイツという枠組みを超え、欧州史全体に関わる問題として捉え直そうとする機運が高まっていく。例えばドイツとポーランドは1972年に共同の教科書委員会を設立。旧交戦国同士であった両国の関係史を、お互いに受け入れられる形で教えるための話し合いを続けてきた。

また、歴史上何度も戦争を繰り返してきたドイツとフランスは、平和的な関係を築くためのプロジェクトとして2006年に『ドイツ・フランス共通歴史教科書』を発行。一国単位での歴史解釈を超えた取り組みとして注目されるとともに、将来的に欧州という枠組みでホロコースト教育を実現するための礎になった。

これらの活動の目的は、ホロコーストの記憶を国際社会で維持することで、大量虐殺や人種主義、外国人嫌悪などに対して共同で立ち向かうこと。欧州各地での極右政党の台頭や、自国第一主義の風潮が広がる昨今、ホロコースト教育はドイツだけでなく欧州でも、人権教育の一環として必要性が高まっているのだ。

ドイツ・フランス共通歴史教科書
ドイツ・フランス共通歴史教科書
ドイツ・フランス共通歴史教科書
『ドイツ・フランス共通歴史教科書【近現代史】』は日本語版も出版されている
発行元:明石書店、2016年2月発行 ISBN 978-4-75034-306-8

道行く人の意識に歴史を刻む
ドイツの記憶する文化

「記憶文化」とは何か

虐殺されたヨーロッパ・ユダヤ人のための記念碑虐殺されたヨーロッパ・ユダヤ人のための記念碑

「記憶文化(Erinnerungskultur)」という言葉を聞いたことはあるだろうか。戦後に誕生した比較的新しいドイツ語で、特にナチスによる犯罪を未来の世代の意識の中にとどめようとするものやことを指す。もともとは当時を知る人々の証言によって、歴史や記憶が伝えられてきたが、その世代の数が少なくなるにつれて、過去に関して記録するという試みがますます活発になった。その結果、ドイツ各地には非常に多くの追悼施設や記念碑がある。

よく記憶文化の例として挙げられるのが、2005年にベルリンのブランデンブ ルク門の横につくられた「虐殺されたヨーロッパ・ユダヤ人のための記念碑」だ。およそ2700個もの大きな石碑が立ち並ぶ巨大なモニュメントで、ホロコーストの犠牲となったユダヤ人を悼むための場所である。ほかにもナチスによる犯罪の現場、ナチス政権の政策決定の場、抵抗の場、市民が犠牲となった場所などが「記憶する場所(Erinnerungsort)」として残されている。そこにはモニュメントだけでなく、博物館や記念館、看板などが設置され、記憶文化はさまざまな形で街中に存在しているのだ。

参考:ドイツの実情「国家と政治 生きた記憶文化」(FAZIT Communication GmbH・ドイツ外務省)、姫岡とし子「ドイツの歴史教育とホロコーストの記憶文化」

記憶する場所を表す言葉

Denkmal / Ehrenmal
原料は主に石、鉄、青銅などの耐久性のある素材。基本的には20世紀以前の人物像や戦勝記念碑など、国の誇りや人物の功績をたたえてつくられたもの。

Gedenkstätte / Mahnmal
20世紀以降に負の歴史を記憶に刻み、犠牲者を悼むためにつくられたもの。ホロコーストや東西分断時代の記憶を伝えるものが多い。

参考:HanisaulLand Politik für dich「Denkmal / Ehrenmal / Mahnmal / Gedenkstätte」、Goethe-Institut「Erinnerungskultur Das Pathos Vermeiden」

小さな声をどう記憶していくか

ドイツの街を歩いていると、ユダヤ人を追悼するモニュメントや施設を目にしたことのある人は多いだろう。最後に、ユダヤ人のほかにナチスの犠牲となった人々の声にどのように耳を傾け、記憶してきたのかを紹介する。

戦後も闘い続けた同性愛者たちの声

同性愛者の追悼

1935年、ナチスは刑法第175条に基づき、同性愛を犯罪として認定した。その後、5万件を超える有罪判決が下され、刑務所行きとなって去勢されたり、そのうち数千人は強制収容所に送られ、ほとんどが命を落としたといわれる。同性愛者の迫害は戦後も続き、刑法第175条は1969年まで変更されることがなかった。そのため、東西分断時代も同性愛者は記憶文化から排除されてきたのだ。

同性愛者のための追悼碑を建てる動きが出てきたのは、1990年代に入ってから。2008年になってやっと「ナチズムにより迫害された同性愛者の追悼碑(Homosexuellen-Denkmal)」が、ベルリンの「虐殺されたヨーロッパ・ユダヤ人のための記念碑」のすぐそばに建てられた。デザインを手がけたのは、ベルリンで共に活躍するノルウェー人のIngar Dragset氏とデンマーク人Michael Elmgreen氏。ユダヤ人のための記念碑のデザインを基調とし、小窓から中をのぞくと、同性愛者がキスをする映像が映し出されているのが見える。

ナチズムにより迫害された同性愛者の追悼碑
Homosexuellen-Denkmal

Tiergarten Ebertstraße, 10117 Berlin
www.stiftung-denkmal.de

尊厳を奪われた女性たちの声

ブランデンブルク州のラーヴェンスブリュックに、ナチス・ドイツ領土内最大の女性強制収容所があった。収容所は段階的に拡張され、6年間で約12万人以上の女性を収容。女性たちは頭部と陰部の毛を剃られた上、囚人番号と囚人服を渡され、女性らしさや人間らしさが奪われたという。強制労働はもちろん、人体実験や強制不妊、拷問、強制売春もあり、射殺やガス室での殺害も行われた。

ラーヴェンスブリュック強制収容所はソ連軍によって解放され、兵舎として利用された。その後、東ドイツが火葬場(クレマトリウム)や独房棟などを保護し、1959年に記念碑を設置した。ドイツ再統一後は、ブランデンブルク州記念碑財団が運営。2013年に、生存者の声などを集めた大規模な展示が公開され、女性強制収容所の歴史を記憶する場所として知られている。

ラーヴェンスブリュック強制収容所跡
Mahn- und Gedenkstätte Ravensbrück

Straße der Nationen, 16798 Fürstenberg/Havel
www.ravensbrueck.de

今なお記念碑のないポーランド人たちの声

ポーランドでは600万人の市民が犠牲になったといわれる。しかしドイツには、ユダヤ人を追悼する記念碑などが存在する一方で、ポーランド人のための記念碑はない。これに対し、ポーランドは長らく不満を抱いていた。

2017年、ベルリンにポーランド人のための追悼碑を建てようとする動きがあった。しかし、ほかにもナチスの犠牲者が存在する国が多数あり、国ごとに記念碑を建てるのは現実的ではないとする声が上がった。また、ベルリンとワルシャワに博物館をつくるべきだとの意見もある。昨年8月には、ポーランドのモラウィエツキ首相がドイツから十分な賠償を得ていないとして、改めて戦争賠償を求める姿勢を見せた。その一方で、同年9月にドイツのシュタインマイヤー大統領がワルシャワで演説し、ポーランド国民に許しを求めたことは記憶に新しい。対ポーランドの戦後処理は、戦後75年経ってもなお議論され続けている。

参考:Deutsche Welle「Polen-Denkmal in Berlin?」

 
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