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アンネ・フランク生誕90年
アンネの日記に隠された未来へのメッセージ

アンネ・フランク

世界中で読み継がれる『アンネの日記』の著者で知られるアンネ・フランク。もしも彼女が第二次世界大戦を生き延びていたら、 2019年6月に90歳の誕生日を迎えていたかもしれない。しかし、アンネはナチス・ドイツによるホロコーストの犠牲となり、享年15歳という若さでこの世を去った。日記には彼女の身に起きた悲劇だけではなく、生きる歓びと差別に抵抗する強い意志がつづられている。この生誕90年を機にアンネという少女を知り、彼女が日記に込めた平和への思いを読み解いてみよう。(Text:編集部)

参考:Anne Frank House公式ホームページ、『アンネの日記』(文春文庫)、『Alles über Anne』(Carlsen Verlag)

歴史とともに振り返る
アンネが生きた15年

1ドイツ系ユダヤ人としてフランクフルトに生まれる

12世紀以降にユダヤ人が居住するようになったフランクフルトは、欧州最大の財閥であるロスチャイルド家の発祥の地であり、ユダヤ人にとって欧州で最も重要な都市として知られている。そんな街に、アンネ・フランクは生まれた。1929年6月12日、裕福なドイツ系ユダヤ人家庭の二女として誕生したアンネには、3歳年上のマルゴット(愛称マルゴー)がいる。

左)父:オットー・フランク(1889-1980)*1936年撮影
中央)母:エーディト・フランク(1900-1945)*1935年撮影
右)姉:マルゴット・フランク (1926-1945)*1941年撮影

2迫害を逃れてアムステルダムへ移住する

アンネ誕生当時のドイツは失業率が高く、人々は貧しい生活を余儀なくされていた。その裏でアドルフ・ヒトラー率いるナチスはドイツが抱える問題の責任をユダヤ人になすりつけることで、その勢力を拡大していった。やがて1933年1月にナチスが政権を握ると、他都市同様にフランクフルトでもユダヤ人の迫害が始まる。それを受けて、アンネの父オットーと母エーディトは、一家でオランダ・アムステルダムへ亡命することを決意したのだった。

1934年にアムステルダムに移り住んだアンネ。好奇心旺盛だった彼女はモンテッソーリスクール※に通い、すぐにオランダ語を覚えて友だちをつくり、現地の生活に馴染んだという。一方、オットーはジャムに使用するペクチンと香辛料の取引会社を設立し、家族を養うために必死に働いて収入を得た。

※カリキュラムはなく、個々の感性や自発性を尊重し、段階に合った環境を整えて人間形成を促す「モンテッソーリ教育」を行う学校

アムステルダムに来た頃のアンネアムステルダムに来た頃のアンネ *1934年撮影

3戦争勃発後、ユダヤ人学校に行き始める

1939年9月にナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。翌年5月にはオランダにも侵攻し、わずか5日間で陥落。やがてユダヤ人は公園や映画館などへの出入りが禁止されたり、子どもたちはユダヤ人学校に行かなければならなくなるなど、ドイツ軍はユダヤ人の生活を困難にする法律や条例を徐々に導入していった。なお、オットーは家族を守るため米国やキューバにビザを申請していたが、いずれも失敗に終わっている。

1942年6月、13歳の誕生日を迎えたアンネが父から贈られたのは、赤と白のチェック柄のサイン帳。これがまさに『アンネの日記』としてのちに出版される日記帳だ。しかし、日記を書き始めてまもない同年7月、マルゴーに労働キャンプへの召集令状が届く。これを機に、フランク一家は潜伏生活に入った。

42年にわたる隠れ家生活を日記につづる

隠れ家はオットーの会社の後ろにある別館で、アンネたち以外にファン・ペルス一家3人(日記ではファン・ダーン一家)と歯医者のフリッツ・プフェファー(日記ではアルベルト・デュッセル)が身を潜めていた。生活物資は、協力者だった会社の社員たちが危険をおかして調達した。約2年間にわたる8人の共同生活については、アンネの日記に詳細に記録されている。

しかし、1944年8月4日、隠れ家の住人全員と協力者2人がゲシュタポとオランダ人警察に逮捕される。密告説が有力だが、最近ではたまたま見つかったという説もあり、現在まで真相は分かっていない。アンネが最後に日記を書いたのは、逮捕3日前の8月1日だった。

アンネたちが潜伏した離れ家へ続く隠し扉アンネたちが潜伏した離れ家へ続く隠し扉

アンネの部屋アンネの部屋の壁には、映画スターの写真などが貼られたまま

アンネ・フランクの家 
Anne Frank House

アンネの部屋

戦争を生き延びたオットーが、アムステルダムの隠れ家を改装して1960年に設立した博物館。2018年にリニューアルオープンし、新たにオーディオガイドが導入されるなど、さらにアンネの人生やホロコーストについて学べる施設となった。要オンライン予約。
Westermarkt 20, 1016 DK Amsterdam
www.annefrank.org

5アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所へ移送される

隠れ家の住人たちは、オランダ国内にあったヴェステルボルク通過収容所を経由し、3日かけてポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所へと列車で移送された。約1000人が家畜用車両に詰め込まれ、移送期間中は水も食料もほとんど与えられず、小さな桶がトイレ代わりという環境だった。

到着後、労働可能か選別され、アンネは母と姉とともに女性収容施設に送られた。同乗していた約350人がガス室で殺害され、男性収容施設に送られたオットーとはこれが最期の別れとなった。日記には母との関係が悪かったことが明かされているが、強制収容所ではエーディトは食料を娘たちに分け与え、常に一緒にいたという。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館
Auschwitz-Birkenau State Museum

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館

ガス室で大量殺りくが行われた、ナチス・ドイツ軍による最大の強制収容所で、現在は博物館となっている。1944年1月にソ連軍が施設に残っていた約7500人を解放し、そのうちの1人がオットーだった。時期により開館時間が異なる。ツアーガイドあり。
ul. Wieźniów Oświęcimia 20, 32-603 Oświęcim Poland
http://auschwitz.org

6ベルゲン=ベルゼン強制収容所で最期を迎える

1944年11月、アンネはマルゴーとともに再び移送され、ドイツのベルゲン=ベルゼン強制収容所に連行される。一方、エーディトはアウシュビッツに残り、翌年1月に飢えで亡くなった。ベルゲン=ベルゼンの衛生状態は劣悪で、収容者に食料はほとんど与えられず、疫病が蔓延していた。

やがてアンネとマルゴーは発疹チフスにかかり、1945年2月に先にマルゴーが、そしてその数日後にアンネが息を引き取った。正確な日にちや埋葬された場所は分かっておらず、ベルゲン=ベルゼンの敷地内のどこかにほかの犠牲者とともに眠っている。英国軍がベルゲン=ベルゼン強制収容所を解放した、わずか2カ月前のことだった。アンネのようにホロコーストの犠牲となった子どもの数は150万人と言われ、彼女の体験はその1つに過ぎない。

アンネとマルゴーの墓石2015年にベルゲン=ベルゼンに建てられたアンネとマルゴーの墓石

アンネの年表
1929年6月 アンネ、フランクフルトで生まれる
1933年1月 ナチス政権誕生
1934年2月 アンネ、アムステルダムへ移住する
1939年9月 第二次世界大戦勃発
1942年6月 アンネ、日記を書き始める
1942年7月 隠れ家生活が始まる
1944年8月 隠れ家の住人全員が逮捕される
1945年2月 アンネ、ベルゲン=ベルゼンで亡くなる
1945年5月 欧州における第二次世界大戦が終わる
1947年6月 父オットーがアンネの日記を出版する

日記からひも解く
素顔のアンネ

日記を読んでいると、アンネは想像力豊かで意志が強く、思春期らしい悩みを抱えたティーンエイジャーだったことが、手に取るように分かる。そして、アンネは自分の将来に希望を持ち、差別のない世界を夢見ていたこともつづられている。ここでは、日記から見えてくるアンネの素顔に迫る。

アンネの日記

執筆者:アンネ・フランク
執筆期間:1942年6月12日~1944年8月1日
初版出版:1947年6月(オランダ語)

あなたになら、
これまでだれにも打ち明けられなかったことを、
なにもかもお話しできそうです。
どうかわたしのために、
大きな心の支えと慰めになってくださいね。

1942年6月12日 アンネ・フランク『アンネの日記』(文藝春秋)より引用

アンネが心を許したたった1人の相手

「キティー」という架空の人物に宛てた手紙形式の日記。ドイツ占領下のオランダにおいて隠れ家に身を潜めた生活がどのようなものだったのかが、記録されている。戦争の裏で、思春期のアンネが家族や住人と衝突したり、ときには将来の夢を語り、恋をして何も手につかなくなり……。そして、反ユダヤ主義や戦争について自分の言葉で批判し、自分が1人の少女であること認めてほしいと語った彼女の強いメッセージは、世代を超えて多くの人々の心に届いている。

アンネの日記

『アンネの日記 増補新訂版』
著:アンネ・フランク
訳:深町眞理子
発行元:文藝春秋
2003年4月刊行

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日記にまつわるエピソード

アンネは日記を出版するつもりだった

1944年春、あるラジオ放送を聞いたアンネは、戦後に自分の日記をもとに『後ろの家(隠れ家)』というタイトルで戦争体験記を出版することを決意する。その放送では、ロンドンのオランダ亡命政権の文部大臣が、戦争が終わったらドイツ占領下におけるオランダ国民の苦しみを記した手記などを集めて公開したいと述べたのだった。そこで、アンネはこれまでの日記を加筆修正して清書を始め、出版を意識して登場人物には仮名を用いた。

隠れ家の協力者に守り抜かれた日記

アンネたちの逮捕後、隠れ家の物品が持ち出される前に、逮捕を逃れた協力者のミープ・ヒースとベップ・フォスキュイルが日記を隠すことに成功。ミープは日記に目を通さず、戦後にオットーに引き渡した。そしてオットーは、亡き娘のために出版を決意。当時は性にまつわるテーマをありのままに記述することが一般的ではなかったこと、また母親やほかの住人に対するアンネの表現が率直すぎたことから、文を削り表現を変えるなどの編集が施された。

隠されたページに「性的なジョーク」?

1942年9月28日に書かれた2ページは、内容を見られないようにするためか茶色の紙が貼られ、長らく未公開のままだった。しかし、デジタル画像解析技術の進歩によって解読に成功し、昨年初めて公開された。その中身は性的なジョークや性教育に関するもので、例えば「ドイツ軍の少女たちはなんでオランダにいるんでしょうか? それは兵士のマットレスになるため」などといった内容。アンネが一般的な思春期の女の子だったことがよく分かる。

参考:Yahoo! ニュース「『アンネの日記』隠していて読めなかったページをデジタル画像解析で解読:微笑ましい性的ジョークが公開」(2018年5月17日)
https://news.yahoo.co.jp/byline/satohitoshi/20180517-00085326/

作家になることを夢見たアンネ

書くことに夢中で、またそれが隠れ家生活の慰めとなっていたアンネは、ジャーナリストとなり、やがて作家になるという夢があることを、1944年5月11日の日記でも明言している。そんな彼女による小説とエッセイが1冊の本にまとめられている。瑞々しい感性と想像力から紡がれた言葉は、日記をより一層理解する手助けにもなるだろう。日本語版『アンネの童話』(右)は、絵本『ぐりとぐら』の作者・中川李枝子さんが訳を、国内外で人気の酒井駒子さんが絵を担当している。

アンネの童話

『アンネの童話』
著:アンネ・フランク
訳:中川李枝子
絵:酒井駒子
発行元:文藝春秋
2017年12月刊行

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『アンネの日記』とそれから

15年という短い生涯だったにもかかわらず、死後もなお、その文才と人柄で多くの人々を魅了し、平和のためにできることは何かを問いかけているアンネ。最後に『アンネの日記』を読んで作家を志したという2人の作家のエッセイと、アンネをより深く知るための2冊を紹介するとともに、彼女の思いを伝え続けるアンネ・フランクの家の取り組みについて考察する。

アンネをめぐる旅に出かける

仏で映画化された『薬指の標本』の原作者である小川洋子さん。彼女が作家を目指すきっかけとなったのが『アンネの日記』。本作は、その日記を書いたアンネ・フランクの人生を追う紀行文だ。日記を初めて読んだ10代の頃は同世代の友人のような親しみをアンネに感じ、自身が歳を重ねるごとにアンネの母親に心情を重ねてみたり。隠れ家の協力者だったミープ・ヒース氏と対面した場面では、「この時代に生まれていたら果たして彼女のように誰かを助ける覚悟ができていたか」と自身に問う。激動の時代を生きた人々の心情、そして自分の想いを丁寧に紡いだ1作。

アンネ・フランクの記憶

『アンネ・フランクの記憶』
著:小川洋子
発行元:角川文庫
1998年11月刊行

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アンネとの不思議な縁を感じて

幼い頃、偶然手にした『アンネの日記』に影響を受けた筆者。それから時が経ち2009年の父親の誕生日にまたしても偶然、戦時中に父が書いた日記を発見する。著者・小林さんの父とアンネ・フランクは同じ年に生まれたという縁もあり、アンネが辿った人生を巡る旅に出ることを決意。アンネが亡くなったベルゲン=ベルゼンからスタートし、生家があるフランクフルトで旅を終える。道中で出会った人々との会話や思い出、自身の心情が綴られた本作では、小林さんと彼女の父、そしてアンネ、生きた時代や場所が異なる3者の想いが交錯する。

親愛なるキティーたちへ

『親愛なるキティーたちへ』
著:小林エリカ
発行元:リトル・モア
2011年6月刊行

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原作と一緒に読みたいコミック版アンネ

アニメーション映画「戦場でワルツを」の映画監督アリ・フォルマンさんとコミック作家のデイヴィッド・ポロンスキーさんの2人のイスラエル人による、グラフィック小説版『アンネの日記』。フォルマンさんの両親はアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の生存者で、このテーマには特別な思い入れがある。400ページの原作を160ページのコミックにまとめ、ホロコーストの記憶が薄れつつある現代、特に若い世代に歴史を伝える方法として注目を浴びている1冊。残念ながら日本語版は出版されていないが、ドイツ語のほかに英語などに翻訳されている。

コミック版アンネ

『Das Tagebuch der Anne Frank』
著:Ari Folman、David Polonsky
発行元:S.FISCHER
2017年12月刊行

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もっとアンネを知りたい人のために

アンネ・フランクの家が編集を担当し、『親愛なるキティーたちへ』の著者、小林エリカさんが日本語訳を手がけた本書。子どもから大人まで幅広い層が親しめるよう、写真をたくさん織り交ぜながら展開。アンネが生きた時代の背景や隠れ家での生活、なぜユダヤ人は迫害されなくてはならなかったのかなど、さまざまな側面から分かりやすくまとめられた1冊だ。今もなお多くの人に読まれ、語り継がれる日記の内容を軸に1人の少女の誕生から死、その後の世界を辿る。ドイツ語版のタイトルは『Alles über Anne』。ぜひ、併せてチェックしてみて。

アンネのこと、すべて

『アンネのこと、すべて』
編:アンネ・フランク・ハウス
訳:小林エリカ
監修:石岡史子
発行元:ポプラ社
2018年11月刊行

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アンネの思いを次世代に
どう伝えていくか?

ドイツには「Erinnerungskultur(記憶文化)」という言葉がある。これは、ナチズムの犯罪を次世代の意識にとどめようとするもので、その中核を担うのが当時を生きていた人々の証言だ。例えば、ベルリンにある「虐殺されたヨーロッパ・ユダヤ人のための記念碑」は、ホロコーストの犠牲となった600万人のユダヤ人を追悼するためにつくられた、記憶文化だ。アンネが潜伏した隠れ家(アンネ・フランクの家)もまた、ドイツではないものの、記憶文化の1つとして認識されている。

アンネ・フランクの家では、第二次世界大戦とホロコーストで何が起こったのか、それがどのように起こりうるのか、また現代を生きる私たちにとって何を意味するのかを、来館者に示すことを使命とする。同館を訪れる人の大半は、25歳未満の若者。昨年リニューアルオープンした理由は、戦争体験者と接触の少ない若い世代により多くの情報を提供したいとの考えから、と同館のロナルド・レオポルド館長は語っている。オーディオガイドの導入や教育エリアを新設するなど、若い世代がより学びやすい場所となったが、メインの展示である隠れ家自体には手を加えず、空っぽの状態のままだ。レオポルド館長は「その空虚さがアンネ・フランクの家の最も重要な特徴だと思う」とも述べている。訪問を通じて何かを学び感じとった人々が、自分の身の回りの差別や反ユダヤ主義と闘うことが、運営者たちの何よりの願いなのである。

ホロコーストから生還した人々の数は年々減少している。今後彼らがいなくなった世界で、どのように歴史を次世代に語り継いでいけばいいのか。『アンネの日記』やアンネ・フランクの家を通じ、アンネの思いを未来へつないでいくことは、その1つの方法なのだろう。

参考:ドイツの実情「国家と政治 生きた記憶文化」、AP NEWS「Anne Frank House renovated to tell story to new generation」(2018年11月22日)

 
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