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科学の進歩は何をもたらすか?ドイツで活躍した科学者たち

アインシュタイン、レントゲン、コッホなど、後世に名の残る科学者たちを数多く世に送り出してきたドイツ。彼らが世界を変える大発見や、世の中を便利にする技術を生み出してきた一方で、科学技術が戦争に利用されるということが歴史上繰り返されてきた。本特集では、近代以降ドイツで活躍した天才科学者や、世に知られることのなかった女性科学者たちの姿を通して、科学の発展が人類にもたらす光と影について考えたい。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、Illustration:©️Kanako Amano)

ドイツで活躍した科学者たち

ドイツの科学界を支えた科学アカデミーの歴史

全ての科学者の憧れといっても過言ではないノーベル賞。1901年に設立されて以来、化学・物理学・医学の分野で80人以上のドイツ人にノーベル賞が授与されてきた。そんな受賞者たちを多く輩出してきた機関の一つが、プロイセン科学アカデミー(現ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー)だ。300年以上の歴史を持ち、ドイツの科学界の発展に貢献してきた同アカデミーの歴史をひも解く。

ライプニッツが見出したアカデミーの必要性

ライプニッツの肖像(1695年)ライプニッツの肖像(1695年)

プロイセン科学アカデミーの立役者となったのは、G.W.ライプニッツだ。ライプニッツは、1646年にライプツィヒに生まれ、数学や物理学をはじめ、形而上学や倫理学、政治学、歴史学など、あらゆる分野で活躍した人物。同時代の著名な知識人ほぼ全員と交流があったといわれるくらい活動的で、マインツ選帝侯やハノーファー選帝侯のもとで活躍した。

ライプニッツはマインツ選帝侯の外交官として働いていたころ、パリやロンドンのアカデミーの会員となった。啓蒙思想を掲げる君主の庇護のもと、研究活動に専念する他国の科学者や哲学者と交流するなかで、ドイツでもアカデミーをつくることを展望するように。そんなライプニッツは当時、次のように述べている。

「ドイツの実際生活は依然として元のままで、発明は人間生活の幸福や豊かさに有用化されていない。そのためには、ドイツ人は、隣国のようにアカデミーを設置する必要がある。アカデミーをつくれば、経験を伝えあい協同精神を目覚めさせ、発明家たちの経験や発明を有用化させることができる」

そして1700年、ライプニッツはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世からベルリンに招かれ、アカデミーの必要性を訴えた。その意義を認めた選帝侯は「ブランデンブルク科学会」を設立し、初代会長にライプニッツを任命。その後、プロイセン王国が成立し、何度か名称を変えたのち、「プロイセン科学アカデミー」と呼ばれるようになる。

20世紀のドイツ科学の象徴に

プロイセン王国は神聖ローマ帝国の中にありながら、徐々に中欧での強権体制を形成していった。そして19世紀初頭にはナポレオンの侵攻により、国家体制の再構築が行われることになる。こうした国の変革はもちろん、プロイセン科学アカデミーにも影響が及ぶ。アカデミー会員だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトの主導でベルリン大学(現フンボルト大学)が創設され、研究施設は大学に移されたのだ。そのため、アカデミーは会員の研究成果の発表をはじめ、討論会や会議を開くことで、科学の進歩で重要な役割を果たすようになる。

プロイセン科学アカデミーは、1901年から始まったノーベル賞の受賞者を多数輩出したことで、世界的にも注目されるようになった。第1回ノーベル賞では、アカデミー会員のヴィルヘルム・コンラート・レントゲンが物理学賞、エミール・アドルフ・フォン・ベーリングが医学賞、ファント・ホッフ(オランダ人)が化学賞をそれぞれ受賞。その後、毎年のように会員から受賞者を出し続け、そのなかにはロベルト・コッホマックス・プランクアルベルト・アインシュタインといった科学者たちも含まれる。こうしてプロイセン科学アカデミーは、20世紀のドイツ科学の興隆を象徴する存在となったのだった。

アカデミーの負の歴史、そして未来へ

しかし、1933年にナチスが政権を取ってから、ユダヤ人の排斥が始まった。国家の科学介入によって、アインシュタインはアカデミーからの脱退を表明。ドイツ科学の栄光を築いた多くのユダヤ人が国を去った結果、ナチス政権下のドイツは科学の発展の可能性を狭めることになった。第二次世界大戦が終わると、ナチ同調者が追放され、アカデミーの組織は根本的に再編されることになる。アカデミーは追放した会員のうち、生存していた5人に対して復帰を提案しているが、そのうちの一人であるアインシュタインだけはその申し出を断ったという。

東西分断に伴い、旧東ドイツ(DDR)ではDDR科学アカデミー、西ドイツ(BRD)ではBRD科学アカデミー会議という名称で、それぞれ活動が続けられた。東西統一後はDDR科学アカデミーが解体され、1992年にベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーとして新たなスタートを切ることになった。

ベルリンのジャンダルメンマルクトに位置するベルリン・ブランデンブルク科学アカデミーベルリンのジャンダルメンマルクトに位置するベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー

この300年間に国内外の全科学分野から3500人以上が選出され、現在はおよそ400人が会員として所属する。研究の大部分は、連邦および州からの資金提供を受けている。また、2000年には国立科学アカデミー・レオポルディーナと共に、「Die Junge Akademie」(若手アカデミー)を設立。これは、優れた若手科学者を育成するためのプログラムで、若手育成のための国際的なロールモデルとなった。現在も創始者ライプニッツの理念「Theoria cum praxi」(理論と実践)に基づき、科学と一般の人々の懸け橋を担っている。

参考:Berlin-Brandenburgische Akademie der Wissenschaften ホームページ、木本忠昭「ベルリン科学アカデミー ドイツの科学アカデミー、その(2)」、Tagesspiegel「NS-Zeit: Akademie der Wissenschaften Berlin arbeitet Geschichte auf」

ドイツを代表する世界を変えた6人の天才科学者

近代以降、数多くの優秀な科学者を輩出してきたドイツ。そのなかでも特に著名な科学者6名の功績について、その人生と共に紹介する。

貧しい家庭から生まれた「数学の王子」1. カール・フリードリヒ・ガウスCarl Friedrich Gauss(1777-1855)

カール・フリードリヒ・ガウス

ブラウンシュヴァイクの貧しいれんが職人の家に生まれたガウスは、幼少期から数学と言語学で才能を発揮。例えば子ども時代に学校で、「1から100まで全ての数を順次加えるといくつになるか」という問題に、101の集まり(1+100、2+99、3+98...)が50個なので「50x101=5050」と瞬時に計算したという。才能を見出されたガウスは、ブラウンシュヴァイク公フェルディナンドから経済的支援を受けて、ゲッティンゲン大学へ進学。19歳のときに定規とコンパスによる正十七角形の作図に成功したほか、代数学の基本定理の証明、非ユークリット幾何学、曲面論など数々の研究成果を上げた。

近代の数学と科学の多くの分野で顕著な影響を与えたことから、「数学の王子」と呼ばれるガウスだが、研究の成果を得ることに最大の喜びを感じていたため、他人からの評価を必要とせず、自身の成果全てを公表したわけではなかったという。また1820年にハノーファー王国からブラウンシュヴァイクの領土調査を依頼されたことから、ガウスは小さな面積でも正確に地図上に位置づけることができる座標系を開発。同市内のガウスベルクパークには、いくつかの測量石が残っており、ガウスがかつて市の防御の要であったこの高台を利用して、測量システムをテストした様子を物語っている。

参考:ndr.de「Gauß: Das Genie vom Zehn-Mark-Schein」、braunschweig.de「Gaußbergpark」

平和を愛した物理学者2. アルベルト・アインシュタインArbert Einstein(1879-1955)

アルベルト・アインシュタイン

ウルムのユダヤ人家庭に生まれたアインシュタインは、子どもの才能を伸ばしたいという両親のもと、のびのび育てられた。15歳でスイスに移住し、スイス連邦工科大学を卒業。その後は特許庁に勤めながら研究を続け、1905年に「特殊相対性理論」を発表し、物理学に革命をもたらした。1914年にマックス・プランクの誘いによりベルリンのプロイセン科学アカデミーの会員となる。「一般相対性理論」をはじめとした研究成果を上げ、1921年にノーベル物理学賞が授与された。しかし、ナチスが政権を取った1933年にアカデミーを追放され、米国に亡命。第二次世界大戦後は原子力の平和利用を訴え、1955年に76歳で亡くなった。

1927年に行われた、物理学に関する会議である「ソルベー会議」。最前列の左から二番目にプランク、5番目にアインシュタインが写っている1927年に行われた、物理学に関する会議である「ソルベー会議」。最前列の左から二番目にプランク、5番目にアインシュタインが写っている

スイスの首都ベルンには、アインシュタインの銅像やミュージアムがあるほか、特殊相対性理論を完成させた際に住んでいた家(Einstein Haus)が残っている。またベルリン時代にポツダム郊外のカプート村に建てられた別荘(Einsteinhaus in Caputh)が、現在も見学可能だ。一人の時間も大切にしていた彼は、寒い時期を除いてほとんどこの家で暮らしていた。一方で、科学者、活動家、哲学者、ジャーナリスト、芸術家など、さまざまな分野の友人たちを招き、宗教や政治の問題、とりわけ戦争や人種差別について語り合ったという。

参考:planetwissen「Persönlichkeiten Albert Einstein」、LeMO - Living Museum Online「Albert Einstein 1879-1955」

ナチスに抵抗しドイツの科学を守った3. マックス・プランクMax Karl Ernst Ludwig Planck(1858-1947)

マックス・プランク

キール出身の理論物理学者であり、量子論の創始者の一人。プランクが9歳のときに一家でミュンヘンに移住し、ミュンヘン大学やベルリン大学で学んだ。1895年ごろから黒体放射に関する研究を始め、1900年に放射に関する法則(プランクの法則)を導き出す。これらの功績により、1918年にノーベル物理学賞を受賞した。その後、1930年にはカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長となるが、ナチス政権の台頭により、シュレディンガーやアインシュタインなど親交のあったユダヤ人科学者らが追放される。プランクも辞職を考えたが、政府によって後任に好ましくない者が就くよりも、若いドイツの科学者を導くことを優先すべきと考え、残ることにした。

プランク自身はナチス政権への協力を拒否し続けた。1943年のベルリン空襲で住居が全焼し、さらにヒトラー暗殺計画に加担した疑いで息子を逮捕・処刑されるなど、老齢のプランクは心身共に疲弊した。戦後、カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会は再建されることになったが、占領軍がその名を使うことを禁じたため、マックス・プランク学術振興協会へと改名されたのだった。90歳を超えたプランクは1947年9月にキール市から名誉市民の称号を与えられ、その翌月にゲッティンゲンにて死去した。

参考:ndr.de「Max Planck: Mit Quantentheorie zum Nobelpreis」

細菌学の第一人者4. ロベルト・コッホMax Robert Koch(1843-1910)

ロベルト・コッホ

ハルツ地方のクラウスタールという村に生まれたコッホは、ゲッティンゲン大学で自然科学を学び、その後医学の道へと進んだ。医師として働くと同時に研究も行い、1876年に炭疽菌を発見し、細菌が感染症の原因であることを初めて証明した。1880年にベルリンの帝国衛生局の医官に任命され、1882年には結核菌、1884年にはコレラ菌を発見。1891年には、新設された王立プロイセン感染症研究所(現ロベルト・コッホ研究所)の所長になった。1905年に結核研究の功績が認められ、ノーベル医学・生理学賞を受賞。晩年は研究だけでなくプライベートでも世界中を旅しており、かつて自分の研究室で働いていた北里柴三郎を訪ねて日本に滞在したこともある。そして1910年、バーデンバーデンで療養中に、66歳でその生涯を終えた。

ロベルト・コッホ研究所内のミュージアムでの展示ロベルト・コッホ研究所内のミュージアムでの展示

コロナ禍では、ベルリンのロベルト・コッホ研究所(RKI)はドイツ政府の公衆衛生研究機関として、新型コロナウイルス感染症に関する知見から、最新情報の提供、勧告などを行ってきた。RKI内にはミュージアムがあり、感染症や予防に関する展示が観られるほか、コッホが眠る霊廟の見学も可能。ちなみに、東京都港区には北里がコッホを追悼して建てた神社があり、現在は「コッホ・北里神社」という名で二人が祀られている。

参考:RKIホームページ

正体不明の光線「X線」を発見5. ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンWilhelm Conrad Röntgen(1845-1923)

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン

レントゲンはライン地方の都市レムシャイトで誕生し、3歳のとき一家でオランダに移住。1869年、チューリッヒ工科大学で博士号を取得し、彼の成長に大きな影響を与えた同大学の物理学の教授、アウグスト・クントの助手としてヴュルツブルクへ赴任した。その後、物理学の講師や教授として招聘を受けて移動しながら研究を続けた。

ヴュルツブルク大学で真空放電の研究をしていた1895年11月、そばに置いてあった蛍光板が発光していることに気づく。当時はまだその性質が不明で、レントゲンはこの未知の光を「X線」と名づけた。この光線を利用した「レントゲン」こそ、現在でも医療や工業界で欠かせない画像撮影技術である。この発見によってレントゲンは1901年に第1回ノーベル物理学賞を授与された。ほかの研究でも名誉ある賞を受賞したレントゲンだが、その性格は驚くほど控えめだったという。1900年から20年間、ミュンヘン大学で教えていたレントゲンは、1923年2月10日に同地で息を引き取った。レントゲンの功績を称え、レムシャイトにはレントゲンの生家が残されている。2006年にリニューアルされたレントゲン博物館では、医学、科学、技術というテーマに沿ってさまざまな実験をすることができる。

参考:www.nobelprize.org「Wilhelm Conrad Röntgen」、西尾 成子「ノーベル賞受賞者たち(1)レントゲン」

空を飛ぶ夢を追い続けた6. オットー・リリエンタールOtto Lilienthal(1848-1896)

オットー・リリエンタール

ベルリンから150キロほどの小さな都市アンクラムに生まれる。ハンググライダーによる人間飛行を成功させた最初の人物であり、パイオニアの一人とみなされている。幼い頃から弟のグスタフと共に航空技術に興味を持ったリリエンタールは、13〜14歳のころに初めて飛行に挑戦。翼の形に裁断した布を木の骨組みに縫い付け、これに乗って丘を駆け下ったが、あえなく失敗に終わった。その後、2年間ポツダムの工業学校で設計技師になるための職業訓練を受け、1867〜1870年までベルリン工学アカデミーで力学を学ぶ。普仏戦争に従軍した後、1894年にベルリンのリヒターフェルデのレンガ工場跡地に高さ15メートルの人口の丘を造り、さまざまな滑空機を制作して2000回にも及ぶ滑空試験を重ねた。

1893 年にリリエンタールが行ったベルリンでの飛行実験の様子1893 年にリリエンタールが行ったベルリンでの飛行実験の様子

リリエンタールは滑空実験だけでなく、発明家として煙管ボイラー用の小型蒸気機関などを考案。生涯に25の特許を取得し、これらの発明によって得た利益を飛行実験の資金としていた。1896年、滑空試験中に突風に見舞われて15メートルの高さから墜落。頸椎を損傷し、48歳の若さで亡くなった。リリエンタールが飛行実験を行っていたフリーゲベルク(飛行の丘)の周辺は、現在「リリエンタール公園」として整備され、記念碑が立てられているほか、市民の憩いの場になっている。

参考:www.otto-lilienthal.de「OTTO LILIENTHAL - DER ERSTE FLIEGER」、www.visitberlin.de「Fliegeberg」

男性社会との静かなる闘いを続けた知られざるドイツの女性科学者たち

物理学で博士号を取得したメルケル元首相をはじめ、今でこそ女性科学者の活躍が世に知られるようになったが、歴史上のほとんどの間、「科学の世界=男性の世界」であった。表舞台で活躍することが許されなかった女性科学者たちの人生をひも解くと、男性中心の世の中で闘う苦しみと、それでも持ち続けた研究への情熱が見えてくる。

女性科学者が活躍したのは20世紀以降

アカデミーの門戸が開かれた17世紀、実際に科学分野で教育を受けた女性はいたが、表舞台で活躍することは長い間許されなかった。やがて20世紀後半になると、欧州各地の科学アカデミーでようやく女性会員数が増え始める。科学アカデミーで最初に会員になった女性を国別に見てみると、英国の王立協会では1945年にマージョリー・スティーブンソンとキャスリーン・ロンズデール、ドイツのプロイセン科学アカデミーでは1949年にリーゼ・マイトナーが加わった。フランスの科学アカデミーに至っては、史上初めてノーベル賞を2度受賞したマリ・キュリーでさえ会員になることはできず、女性の正会員は1979年まで認められなかった。

米スタンフォード大学のシービンガー教授によると、17世紀末のドイツには欧州の中でも比較的多くの女性天文学者がいたといい、その理由としてドイツの職人制度を挙げている。というのも、ドイツでは女性でも徒弟として、または婚姻によってギルドに入ることができたのだ。しかし、男性は師匠から師匠へ渡り歩くことも可能だったが、女性は自分の家でできる修業のみが許されるなど、その地位は従属的なものだった。

参考文献:Londa Schiebinger「The History of Science Society-Maria Winkelmann at the Berlin Academy: A Turning Point for Women in Science pp. 174-200」 (The University of Chicago Press)、Arbeitskreis Chancengleichheit in der Chemie「Chemikerinnen – es gab und es gibt sie」、Technische Universität Braunschweig「Wer war Agnes Pockels?」

新しい彗星を発見した天文学者マリア・マルガレータ・キルヒMaria Margaretha Kirch(1670-1720)

マリア・マルガレータ・キルヒ

マリア・ヴィンケルマン(旧姓)は、1670年にライプツィヒで誕生。幼いころから天文学に興味を持っていた彼女は、独学で天文学を習得したクリストフ・アーノルドのもとで見習いとして働き、観測や計算方法を学んでいった。そして同じ天文学者であるゴットフリート・キルヒと出会い、結婚。ゴットフリートはベルリンの科学アカデミーの天文台長に就任し、マリアは助手として研究の手伝いをすることに。2人は交代で天体観測を行った。

1702年、マリアはそれまで知られていなかった彗星を発見する。しかしゴットフリートは、マリアとの共同作業の様子を明かすのをためらい、自分の成果として発表。1710年までその事実を公には認めなかった。1710年にゴットフリートが亡くなり、マリアは息子と共に暦の制作を続けることをアカデミーに願い出たが、女性であることから認められなかった。1716年に息子のクリストフリートが夫と同じ科学アカデミーの天文台長に就任し、マリアもアシスタントに。しかしマリアは歓迎されず、やがて退職を余儀なくされる。その後もアカデミー内で研究することは許されず、50歳で亡くなった。

参考:www.britannica.com「Maria Kirch」、Maria Winkelmann「A Turning Point for Women in Science」、Londa Schiebinger「The History of Science Society」

化学の光と影に苦しんだクララ・インマーヴァールClara Immerwahr(1870-1915)

クララ・インマーヴァール

ブレスラウ(現ポーランド・ヴロツワフ)で生まれたクララ・インマーヴァールは、父親の影響で化学に興味を持つように。ブレスラウ大学で化学を学び、1900年にはドイツで女性として初めて物理化学の博士号を取得した。後にドイツの「化学兵器の父」と呼ばれるフリッツ・ハーバーと出会ったのは、大学時代のことだった。

フリッツと結婚後、クララは家庭に入ることを求められた。1902年に息子が生まれると、フリッツは自分の仕事に重きを置き、クララに母親、そして教授の妻としての役割を強いた。フリッツは順調にキャリアを積み、1911年にはベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所の所長に就任。1914年には政治家としての活動もスタートさせた。陸軍省の部長となったフリッツは、第一次世界大戦での毒ガス使用に尽力。クララは同じ科学者としてフリッツを批判したが、夫婦仲は完全に破綻した。1915年4月、フリッツは自らベルギーの西部戦線で塩素ガス使用の指揮を執った。戦地から戻ったフリッツは英雄となったが、その数週間後、クララは夫の愛用している軍用銃で自ら命を絶った。

参考:AKCC「Chemikerinnen - es gab und es gibt sie」、ちくまweb「彼女たちの戦争 第18回:クララ・イマーヴァール」

キッチンが最初の実験室アグネス・ポッケルスAgnes Luise Wilhelmine Pockels(1862-1935)

アグネス・ポッケルス

1862年、アグネス・ポッケルスはオーストリア支配下にあったイタリアのヴェネツィアで生まれる。父はオーストリア軍に所属していたが、マラリアにかかって早期退職を余儀なくされ、1871年に一家でニーダーザクセン州ブランズウィックに移住した。アグネスは、子どもの頃から科学に興味を持っていたが、当時は女性が大学に入ることは許されていなかった。病弱な両親の世話をしながら、彼女は弟の教科書を見て独学で科学の知識を得ていった。

アグネスは皿洗いの最中、固体表面に接触した水の異常な挙動に気づく。これが今日、「表面張力」と呼ばれているものだ。この現象を調べるため、彼女は1882年に液体の表面張力を測定する方法を開発した。そして英国の物理学者ジョン・ウィリアム・ストラットの協力を得て、権威ある雑誌「Nature」に最初の論文を発表。やがてブラウンシュバイク工科大学で研究をすることが許された。アグネスが世間に認められたのは、70歳を過ぎてからである。1931年、アンリ・ドヴォーと共にコロイド学会からローラ・レナード賞を受賞。翌年には、ブラウンシュヴァイク工科大学から名誉博士号を授与された。

参考:Gesellschaft Deutscher Chemiker「Agnes Pockels (1862-1935): Von der Hausfrau zur Ehrendoktorin」、Technische Universität Braunschweig「Wer war Agnes Pockels?」
 
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