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フランツ・カフカ没後100周年 カフカ的に生きたカフカの人生

朝目覚めたら巨大な毒虫になっていた……の冒頭で知られる小説『変身』の作者フランツ・カフカ。プラハに生まれ、ドイツ語で数々の文学作品を残したカフカは世界的な作家だが、実はあり得ないほどネガティブ思考で、常に絶望しながら生きていた。不条理文学の代表といわれるカフカのそうした側面は、「カフカ的」という言葉に今日も残っている。本特集では、没後100年を迎える6月に向けて、カフカの人生を紐解く。
(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、イラスト:Kanako Amano)

フランツ・カフカ

フランツ・カフカ Franz Kafka
1883-1924

プラハ生まれのユダヤ系ドイツ作家。大学で法学を学んだあと、労働者傷害保険協会に勤め、結核のため40年という短い人生を送った。サラリーマンとして働いた経験が、官僚機構の冷酷で奇怪な物語を生み出す土壌となったといわれる。生前の発表作品は極めて少ないが、カフカの代表作である『変身』『審判』『城』などをはじめ、不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品を残した。実存主義文学の先駆者といわれ、サルトルやカミュ、大江健三郎などが続いたほか、村上春樹にも大きな影響を与えている。

現代にも残る 「カフカ的」の意味とは?

収入が安定していないためアパートが見つからない、でもアパートがないので仕事が見つからない……そんな堂々巡りで個人ではどうすることもできない状況を「kafkaesk」(カフカエスク、カフカ的)と表現することができる。この言葉は、カフカの作風を決定づけた『審判』で主人公Kが理由も分からないまま裁判にかけられるという、官僚的な社会構造から逃れられない不条理から生まれたといわれる。「カフカ的」という言葉は1950年代にモダニズムへの反動として使われ、世界的に大流行した。ドイツ語辞書Dudenには1973年から掲載され、現在ではカフカの作風そのものを指すこともあるが、「不条理な」「暗い」「脅迫的な」「絶望的な」「疎外感のある」などさまざまな意味で用いられている。「カフカ的」を後世に残したカフカ自身も、実に「カフカ的な人生」を送ったといえるかもしれない。次ページからは、そんなカフカの人生を振り返る。

参考:フランツ・カフカページ(S. FISCHER Verlag GmbH)、「Das kafkaeske Jahrhundert」(Bayerischer Rundfunk)

現代人も共感できる!? カフカの言葉でたどる40年の人生

やりたくない仕事をしなければならない、親に認められない、結婚したくてもできない……そんな悩みを抱えている人はきっと多いのではないだろうか。カフカもそうした悩みを生涯かけて持ち続けながら、その短い人生をなんとか生き抜いた。そんなカフカの人生や彼が残した言葉は絶望的な反面、不思議と共感できる部分もあるかも?

参考:フランツ・カフカページ(S. FISCHER Verlag GmbH)、「Franz Kafka - ein literarisches Rätsel」(Deutsche Welle)、『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)、『マンガで読む絶望名人カフカの人生論 』(飛鳥新社)
※カフカの言葉は『絶望名人カフカの人生論』から引用したもので、必ずしも時系列ではありません。

カフカ

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまづくこと、これはできます。
いちばんうまんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
― フェリーツェへの手紙 ―

1プラハのユダヤ家庭に生まれたカフカ

1883年7月3日、フランツ・カフカは、ユダヤ人のヘルマン・カフカとユーリエの第一子として、プラハに生まれる。両親は、アクセサリーや高級リネンを取り扱う装飾品店を経営していた。当時プラハはオーストリア=ハンガリー帝国に属し、住民の10人に1人がドイツ語を母語としていたといい、カフカ家でもドイツ語が話されていた。2人の弟を早くに亡くしているが、その後3人の妹が誕生する。

5歳頃のカフカ5歳頃のカフカ

2劣等生として苦しんだ学校時代

カフカはドイツ語で授業を行う小学校とギムナジウムに通っていた。カフカは勤勉で成績は平均以上だったが、思春期に入るころには言語科目以外は平均以下に。特に数学が苦手だったが、アビトゥーアでは「befriedigend」(良)を取っており、決して成績が悪かったわけではない。それでも、カフカは自分が無能な「劣等生」であると思い込んでいた。きっと落第するだろうという自分の予想が外れても、成功がかえって不安と心配を増大させるだけで、失敗にしか注目できなかったのである。少年時代からすでに絶望する人生が始まっていたようだ。一方で、ギムナジウム1年生のときに「作家になりたい」と話していたという学生時代の友人の証言も残っている。実際、カフカは10代に入ると日記に小説を書いたり、家族のために妹たちとちょっとした劇を創作したりしていたという。

馬鹿だという評判は、みんなからそう信じられ、
証拠まで取りそろえられていた。
これには腹が立ち、泣きもした。
自信を失い、将来にも絶望した。
そのときのぼくは、
舞台の上で立ちすくんでしまった俳優のようだった。
ー 断片 ー

3生涯の親友マックス・ブロートとの出会い

1901年にプラハのドイツ大学へ進学したカフカは、法律の勉強を始める。さらに美術史、哲学、ドイツ学も学んだ。1906年にカフカは法学で博士号を取得し、プラハ地方裁判所および刑事裁判所で1年間の司法研修を行った。大学時代には、同じく法学を学んでいたマックス・ブロート(1884-1968)と出会う。生涯の友人となるブロートは作家として活動しており、大学時代からすでに文壇で認められる存在だった。しかし、作家として成功する友人がそばにいても、いつも絶望的なカフカは野心を抱くことはなかった。1904年頃には、現存する最も初期の作品『闘争の記述』の初稿を執筆したが、後に自分の芸術的意図にそぐわない初期の作品のほとんどを破棄している。

マックス・ブロートマックス・ブロートは、カフカ没後にカフカの作品を世に広めた人物として知られている。
生前に7冊しか本を出版しなかったカフカと違い、
ブロートは83冊出版したが、ほとんどが現存していない

ぼくの仕事が長くかかること、
またその特別な性質からして、
文学では食べてゆけないでしょう。
ー 日記 ー

4保険会社勤めのサラリーマン生活

1907年になると、プラハの民間保険会社アッシクラツィオーニ・ジェネラリで臨時社員として働き始める。翌年には労働者傷害保険協会に転職。このサラリーマン生活について、カフカは「パンのための職業」と表現していた。あくまで生活のための仕事であり、文学の邪魔になるとして、カフカは心底仕事を嫌っていたのである。そんなカフカがダメ社員だったかというとそうではなかったようだ。遅刻はよくしていたものの、真面目な仕事ぶりは上司からも評価されていたという。出世に興味のなかったカフカだったが、見習いから正式な書記官、書記官主任、秘書官、秘書官主任と出世コースをたどっている。

もう五年間、オフィス生活に耐えてきました。
最初の年は、民間の保険会社で、特別にひどいものでした。
朝八時から、夜七時、七時半、八時、八時半
……まったく!
ー フェリーツェへの手紙 ー

5カフカは本当に病弱だったのか?

1911年に、カフカは肺の病気で療養所に滞在している。カフカといえば、病弱なイメージを思い浮かべる人も少なくないだろう。しかし、実際はただ細身で背が高かっただけで、病気になるまではむしろ健康的だったという。同時代のドイツ語作家のなかでもスポーツマンとして知られ、水泳を得意とし、手漕ぎボートを所持していたこともあったほど。これもまたカフカの絶望的な思い込みによって、自分自身をやせすぎていて病弱だと考えていたのである。さらにカフカは極端に食事制限をしていた。その理由は、不用意に体内に物を入れることを拒否していたから。そんなカフカの食事は基本的にベジタリアンで、野菜、果物、ナッツ類、ミルク、ヨーグルト、ライ麦パンなどを食べていたという。これも全て健康のために……。

1910年頃のカフカ1910年頃のカフカ

こんな身体では何ひとつ成功しない。
細くて虚弱なくせに、背が高すぎるのだ。
温かな体温と情熱をたくわえる脂肪がちっともない。
ー 日記 ー

6フェリーツェ・バウアーとの二度の婚約

後に放棄することになった『失踪者』の執筆に取り掛かっていた1912年、カフカはブロートのアパートでフェリーツェ・バウアー(1887-1960)と初めて出会う。その後すぐに二人は文通を開始する。しかし、カフカはフェリーツェの印象を日記にこうつづっていた。「女中かと思った」「間延びして、骨ばった、しまりのない顔」など、悪口の数々。ところがそのすぐ後ろに「もうぼくは揺るぎない決断を下していた」と書いてあり、つまりはひとめぼれであったことが明かされている。カフカからフェリーツェに宛てられたラブレターは、なんと500通以上。1914年に二人は婚約するが、同年に破棄。3年後に二度目の婚約をするも、同年に再び解消している。婚約も婚約破棄もカフカからの申し出だった。結婚願望があったものの、いざ結婚するとなると不安な気持ちが増して逃げ出したくなってしまうのだ。結局カフカは生涯独身のままだった。また、『変身』や『審判』はこの時期に書かれたものである。

カフカとフェリーツェ左)1917年7月に撮影されたカフカとフェリーツェ
右)1916年に出版された『変身』

ぼくは彼女なしで生きることはできない。
……しかしぼくは……
彼女とともに生きることもできないだろう。
ー 日記 ー

734歳で結核と診断される

婚約を解消した2カ月後、カフカは初めて喀血した。結核と診断され、ボヘミア北部の農村で暮らす妹のオットラ(1892-1943)の元で過ごすことになる。オットラは一番下の妹でカフカとは一番親しく、シオニズムに関心を持っていた。後にオットラは第二次世界大戦中に娘たちとアウシュヴィッツ強制収容所へ送られ、殺害されている。また、カフカはこの頃から格言ともいえる言葉を書き残すようになった。常に「死にたい」と思っていたカフカだが、実際に自殺を試みたことはない。同時に、この時点から作家としてのキャリアをより強く追求することを決心し、個人の自信喪失や健康問題も作品に反映されるようになった。

死にたいという願望がある。
そういうとき、この人生は耐えがたく、
別の人生は手が届かないようにみえる。
ー 罪、苦悩、希望、真実の道についての考察 ー

8人生を狂わせた父への恨み

1919年、ユーリエ・ヴォリツェクと婚約したカフカだったが、ユーリエは性関係のうわさが絶えず、両親から猛反対を受ける。両親との壮絶な闘いのあと、カフカは父ヘルマンに宛てて長い手紙を書いている。自分がいかにして父親のせいでダメな人間になったか、100ページ以上にわたって父への恨みをつづっており、自分自身を正当化しようとしたのだ。ヘルマンは裸一貫で財を成した人物で、自分には学が無かったため、子どもたちには教育を受けさせようと、特に長子のカフカには厳しく当たってきた。自分以上に成功すること願っていたヘルマンの期待とは裏腹に、文学を愛し、お金儲けや出世に興味のない息子。カフカ親子のしがらみはついに解消されることはなかった。

ぼくはお父さんの前に出たが最後、
まるで自信というものをなくしていました。
その代わり、とめどなく罪の意識がこみあげてきました。
ー 父への手紙 ー

9最後の恋人ドーラとの共同生活

1920年、ジャーナリストで翻訳家だったミレナ・イェセンスカーと文通を始める。すでに結婚していたミレナと不倫関係となるも、関係は長くは続かなかった。そして1923年、カフカは療養のために訪れていたバルト海のミューリッツで、最後の恋人となるドーラ・ディアマントと出会う。ドーラは25歳で、ユダヤ教のハシディズム信奉者だった父のもとで育ったが、自身はシオニズム運動に傾倒していた。幼稚園教師として働き、後に舞台俳優としても活躍する。そんなドーラの影響で、カフカはヘブライ文学を学ぶようになった。ベルリンで共同生活をしていた間、恐怖にさいなまれながら新生活を振り返る物語『小さな女』や、自伝的な物語の断片『建物』を書く。しかしカフカの病状が急速に悪化。オーストリアのオルトマンにある療養所に移り、ドーラが世話をした。最後は食べることや話すこともできなくなり、筆談でコミュニケーションを取っていたという。そして、1924年6月3日正午頃、カフカは40歳という若さで息を引き取った。

プラハにあるカフカの墓プラハにあるカフカの墓

10守られなかったカフカの遺言

カフカは自分の原稿について「遺稿はすべて焼き捨てるように」と遺言を残して亡くなった。作品のほとんどが未完成で、世に出ることを望まなかったのである。しかし、20年にわたってカフカに寄り添った親友ブロートはその遺言を守らず、遺稿を保存し、出版している。ブロートは学生時代にカフカの原稿を初めて読んだとき、その文学的な重要性について確信を持っていたという。その後、カフカが文学活動を続けるように、出版社の紹介など献身的にサポートしてきた。ブロートを裏切り者として非難する声もあるが、カフカはブロートが原稿を焼かないと分かっていたはずだとする意見もある。真意は分からないが、今日カフカの作品を読むことができるのはブロートのおかげなのだ。

ぼくの本があなたの親愛なる手にあることは、
ぼくにとって、とても幸福なことです。
フランツ・カフカ

カフカの迷言(!?)をもっと知りたい人のために

プラハにあるカフカの墓
『絶望名人カフカの人生論』 フランツ・カフカ 著、頭木弘樹 編訳
新潮文庫

カフカの日記やノート、手紙に残された自虐や愚痴の数々を集めた本。絶望的すぎる言葉ばかりだが、思わず笑ってしまったり、逆に元気をもらったり、不思議な魅力に溢れている。電子版もあり。
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新作公開やイベントも目白押し! 小説以外でも楽しめるカフカ・イヤー

カフカの没後100年を記念して、ドイツでもさまざまなイベントが開催されるとともに、 カフカに関連する映画やゲームなどが公開されている。カフカの魅力をもっと知りたいけれど、本を一から読むのはちょっと……という人も、ぜひこの機会に文学作品や人生観に気軽に触れてみて。

映画 「幸せな人間」として描かれるカフカ Die Herrlichkeit des Lebens

Die Herrlichkeit des Lebens

今年3月に公開されたばかりの、カフカの晩年を描いた最新ドイツ映画。原作は、2011年に出版されたミヒャエル・クンプフミュラーの同名小説。1923年、カフカはバルト海沿岸でドーラ・ディアマントに出会い、たちまち恋に落ちる。すでに結核を患っていたフランツは、ドーラと一緒に暮らすためベルリンでアパートを借りることに。しかし経済的な困窮により、その幸せは長くは続かなかった......。一般的に描かれるような気難しいカフカとは違い、重い病気と経済的な不安を抱えながらも「幸せな人間」としてのカフカを描き出している。ワイマール共和国のインフレと政治の衰退、そしてカフカの最期。歴史的な出来事と個人的な物語が織り合わさった、美しく感動的な映画だ。

公開年:2024年
監督脚本:ゲオルク・マース、ジュディス・カウフマン
上映時間:99分 言語:ドイツ語

ゲーム カフカ文学の世界をバーチャルで! Playing KAFKA

Playing KAFKA

カフカ文学の世界にバーチャルで没入することができるコンピューターゲーム。ゲーテ・インスティトゥートとゲームスタジオのCharles Gamesが共同で開発した。カフカ小説のような不思議な世界を舞台に、登場人物と対話し、インタラクティブなパズルを解くことで作品について学び、その世界観を味わうことができる。これまでにカフカの作品『審判』(1925年)、『父への手紙』(1919年)、『城』(1926年)を題材にしたモジュールがリリースされた。プレイヤーが物語に積極的に参加できる仕組みで、現代におけるカフカ作品の意義を考えさせられる。現在、PCおよびモバイル版が無料公開中。チェコ語、ドイツ語、英語版を下記ページからダウンロードできる。

www.goethe.de/ins/cz/de/kul/the/plk.html

コミック ユーモラスなタッチで描くカフカの人生 Komplett Kafka

Komplett Kafka『Komplett Kafka』 Nicolas Mahler 著 Suhrkamp Verlag

没後100周年を記念して出版された、ウィーンの漫画家・画家ニコラス・マーラーによるカフカの伝記マンガ。カフカの作品や手紙、日記を引用しながら、独特のウィットに富んだ鋭い語り口でカフカ作品やその人生が紹介されている。ちなみにカフカは、文章を書くのはもちろんのこと、絵を描くことも好きだったということをご存知だろうか。当時、カフカにとって「ほかの何よりも満足感を与える」ものがデッサンだったといい、長年連れ添った婚約者フェリーツェ・バウアー宛の手紙には「私はかつて偉大なデッサン家だった」と半ば誇らしげに書いているほど。もしカフカがこのマーラーの作品を見たら、どういう反応をしただろうか。

イベント ドイツで唯一のカフカ・フェスティバル KAFKA FESTIVAL COTTBUS

KAFKA FESTIVAL COTTBUS

コットブス青少年文化センター「グラッドハウス」では、ドイツで唯一のカフカ・フェスティバルを開催。1年を通して、カフカにインスパイアされた作品の朗読会、映画の上映、ワークショップ、青少年プロジェクトのほか、カフカ作品の演劇の夕べなどが開催される。ハイライトは、6月7日(金)に行われるチェコのバンド「KAFKA BAND」のコンサート。彼らの曲では、歌詞のほとんどがカフカのテキストから引用されており、音楽と文学、ドイツ語とチェコ語、憂鬱とユーモアが混ざり合う。

Jugendkulturzentrum
"Glad-House"
Str. der Jugend 16, 03046 Cottbus
https://kafka-festival-2024.jimdosite.com

 
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