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ヘンドリック・トーマ ソムリエからワインエンターテイナーへ

2009年夏にスタートし、好評を博しているインターネット・ワイン情報番組「TVINO(ティーヴィノ)」。ハンブルク近郊トルネッシュのワイン商社、Hawesko社のオンラインショップが提供するこの番組のパーソナリティーを務めているのが、マスター・ソムリエ(Master Sommelier)のヘンドリック・トーマ(Hendrik Thoma)だ。中でも醸造家やワイン関係者をゲストに迎えてのトークショーは、肩肘張らず、視聴者もおしゃべりに同席しているような気分にさせてくれる。20余年のソムリエ経験を活かしつつ、ワインジャーナリスト、そしてエンターテイナーとして活躍の幅を広げ始めた彼に、ソムリエになった経緯やドイツワインの可能性などについて聞いた。(インタビュー・構成:岩本 順子)


© tvino.de
ヘンドリック・トーマ Hendrik Thoma
1967年ノルトライン=ヴェストファーレン州ギュータースロー生まれ。ドイツおよび米国で料理人修業を経た後、ハイデルベルク・ホテル専門学校のソムリエコースを終了。ハンブルクのレストラン、ルイ・C・ヤコブ(ミシュラン1つ星)にて長年シェフ・ソムリエを勤め、その間にマスター・ソムリエ資格を取得した。現在は独立し、ジャーナリズム、プレセンテーション、コンサルタント分野で活躍中。
www.hendrikthoma.de
www.tvino.de

初めて飲んだワインは、マテウス・ロゼのはず

あなたのご両親は、ワインがお好きでしたか?

僕の出身地は非常にプロテスタント色の濃い地域で、ワインは特別な日の飲み物。伝統的にビール、コルンなどのシュナップス、ブランデーが飲まれている地方なんだ。僕の両親は標準的なドイツ人で、特にワインに興味を持っているわけではなかった。そんな彼らが、たまに食事時に飲んでいたワインがポルトガル産のマテウス・ロゼ(Mateus Rosé)だった。これが僕が初めて飲んだワインのはずだよ。当時はこのワインのように、甘口が主流だったんだ。ドイツ人は昔から輸入ワインが好きだった。エキゾチックで旅情を誘われるワインがね。そういえば、僕の父は時々ボルドーの赤を買って来て、自慢していたことがあったな。そうそう、彼が南アフリカ・ステレンボッシュ(Stellenbosch)地方にあるブラーウクリッペン(Blaauwklippen)醸造所のカベルネソーヴィニヨンを買って来た時のことはよく覚えているよ。

すると、ワインに興味を持たれたのはやはり、ご両親の影響でしょうか?

両親ではなく、彼らの友人の影響だったと思う。父母の友人に、大変なワイン好きがいて、彼の家には膨大なワインのコレクションがあったんだ。彼は、僕がワインに興味を持ち始めていることに気付いて、気前良くボトルを開けてくれたものだった。

あとは、実家の近くのワインショップでアルバイトをしたことをきっかけに、ワイン好きになったっていうのもある。仕事の後でオーナーやスタッフと試飲を繰り返し、多くのことを学んだよ。でも、ワインへの本格的な興味が沸いたのは、もっと後になってからだったんだ。

食への関心は、どなたの影響ですか?

これは祖母の影響だと思う。父母がいつも忙しかったので、僕はよく祖母のところに遊びに行っていたんだけど、そこで彼女が作る美味しい料理を食べるのが楽しみだった。プフェッファーポットハスト(Pfefferpotthast)や牛舌の煮込みなどの伝統料理で、祖母のキッチンでは手伝いもしたよ。

2009年のTVINOの番組風景。ゲストはピーター・ゲイゴ氏
2009年11月26、27日にアップロードされたTVINOの番組風景。
この時のゲストはピーター・ゲイゴ(Peter Gago) 氏。
英国生まれ、オーストラリアのペンフォールド社のワインメーカー。
ライターでもある © tvino.de

最初はソムリエではなく、料理人を目指したそうですね。

僕は勉強が苦手で、学校を卒業するとすぐ料理人の道に進んだ。最初はギュータースローのパークホテル(Parkhotel)で修業し、皿洗いから調理、サービスに至るレストラン業務を一通り学んだ。でも、このままギュータースローに留まっていては将来性がないと思い、料理人修業と兵役を終えると、ハンブルクのラントハウス・シェラー(Landhaus Sherrer)で働き始めた。ここは当時、ミシュラン2つ星のレストランだったんだよ(現在は1つ星)。

米国の名ソムリエ、 ラリー・ストーンが手本なんだ

当時、ラントハウス・シェラーにソムリエ職の人はおられましたか?

シェラーには素晴しいワインカルテがあったけれど、ソムリエに相当するケルナー(給仕)はいなかった。もちろん、これは今日の視点からの見解であって、決して批判しているわけじゃない。でも、1980年代後半のドイツでは、一流レストランであっても、ワインについての専門的な知識を提供できるスタッフはほとんどいなかったんだ。先駆者となったのが、かつてヴィースバーデンのレストラン、エンテ(Ente)にいたラルフ・フレンツェル(Ralf Frenzel)、そして1988 年に「ゴーミヨ・ドイツワインガイド」の創刊号で最優秀ソムリエに選ばれたパウラ・ボッシュ(Paula Bosch)といったソムリエたち。マルクス・デル・モネゴ(Markus del Monego)がソムリエ世界チャンピオンを受賞し、この職業が広く知られるようになったのは、それから10年後の1998年だった。

あなたが料理人からソムリエに転身したきっかけは?

1990 年にラントハウス・シェラーの調理スタッフの職を辞めて米国へ渡り、カリフォルニア州ナパ地方・ルサーフォード(Rutherford)のリゾートホテル、オーベルジュ・デュ・ソレイユ(Auberge du Soleil)のレストランで2年間働いたんだ。そのレストランのシェフ、ウド・ネクトニーズ(Udo Nechutnys)は、フランス・リヨンの著名レストラン、ポール・ボキューズ(Paul Bocuse)などで修業を積み、1970年代にナパ地方にやって来たドイツ人で、現地のあらゆるワイナリーやレストランと繋がりを持っていた。また、僕のルームメイトがニューヨーク出身の料理人で、当時ケイン・セラーというワイナリー(Cain Cellers Vineyard & Winery)のレストランで働いていてね。そのワイナリーで僕は再びワインに出会ったんだ。やがて、僕はそこでワイン造りのアシスタントをするようになり、いつの間にかレストランでよりもワイナリーで働く時間の方が長くなってしまったんだ。

また、オーベルジュ・デュ・ソレイユでも、徐々にソムリエ的な仕事を任されるようになり、米国で活躍するソムリエたちと知り合うようになった。あの頃の僕にとっての一大事件は、マスター・ソムリエのラリー・ストーン(Larry Stone) と出会ったこと。彼がルビコン・エステート(Rubicon Estate) のマネジャーをしていた頃だね。ラリーは多くの若手を育てた米国で最も重要なソムリエ。とても大らかな人柄で、僕のお手本なんだ。

探し求めていたものは、米国にあったというわけですね!

そう。ドイツへ戻ってから、僕はラインガウ地方のワイナリー、ヨハネスホーフ(Johanneshof)でしばらく働いていたんだけど、その時にはもうソムリエになろうと決意していた。その後、ハイデルベルクのホテル専門学校にソムリエ科があることを知って、2年生に飛び入り入学。コース終了後、ソムリエとしてスタートを切ったんだ。

ソムリエとしての最初の勤務先はどこですか?

まず、ライプツィヒのインターコンチネンタルホテル(現Westin Hotel)で1年半働いた。フランスワインが主体だったけれど、旧東独のザクセンやザーレ地方、世界各地のワインも豊富で、約300 種類が常備されていた。でも、上部の管理が厳しく、なかなか新しいことに挑戦できなかったんだ。そんなある日、オープンしたばかりだったハンブルクのホテルのレストラン、ルイ・C・ヤコブ(Louis.C.Jacob/1995 年オープン)がソムリエを募集していると知り、早速応募して採用された。以来、ずっとハンブルク住まいなんだ。

長年、ルイ・C・ヤコブのシェフソムリエを務められ、まさにヤコブの顔でしたね。

1995年から2008年まで勤務したから、計13年。実に様々な人と知り合い、多くのことを学んだ、充実した期間だったよ。

その13年の間に、レストランを訪れる客のワインの好みやソムリエの作法などに変化、進化はありましたか?

僕が働き始めた頃は、顧客のほとんどがボルドー・ドリンカーだった。誰もが「ワインはボルドーかサンセール(Sancerre)」という古典的嗜好。好みが画一化されていたんだ。1990年代半ばは、年代物のボルドーがまだそれほど高価でなく、専門業者から難なく購入できたしね。また、初期のヤコブには、ドイツワインと言えば、モーゼル地方のワインが少し置いてあるだけだったんだ。そこで僕はまず、ドイツワインの比率を増やした。ボルドーがどんどん高価になっていたので、ボルドー以外のワインを勧められる状況になったんだ。ほかのワインにもチャンスが巡ってきたというわけだね。そうしてドイツワインをはじめ、ポルトガルやスペイン、カリフォルニア産などのワインもよく飲まれるようになった。

顧客との信頼関係が大切

13年間で最も貴重な体験は何でしたか?

同じレストランで長年勤めたので、常連客の好みを熟知することができ、彼らとの間に信頼関係が生まれたことかな。信頼関係があったからこそ、彼らの本来の好みとは違うワイン、たとえばドイツワインを勧めても、それを楽しんでもらうことができたと思う。

僕は人の名前はあまりよく覚えられないんだけど、その人の顔とその人が飲んだワインは、なぜかしっかり覚えられたし、レストランでは顧客情報のカルテを作っていた。顧客が以前、どんなワインを選んだかをちゃんと把握した上で接客していたんだ。顧客にとっても、僕たちがそれを把握していることはいろんな面で有利だしね。

あなたが体得した、あるべきソムリエの姿とは?

ソムリエには、まだよく知られていない優れたワインを広く知ってもらうという役割がある。基本となる古典的なワインは知っておく必要があるけれど、そこで終わってはいけない。客にお勧めを聞かれて、すぐに答えられなければならない。顧客の予算にあったワインを押さえておくことも大切だ。

顧客が限られた予算内で充分楽しめるよう手助けすること、顧客と良い関係を築き、彼らにまた来てもらえるようなサービスをすることも大事だね。ほかには、価格が公正であること、ワインカルテがいつもちょっと流行の先、ほかのレストランの先を行っていることも大事。あと、ソムリエは正確な振る舞いをする必要がある。一番良いのは、正確に振る舞いつつ、リラックスした接客ができること。堅苦しくなっちゃいけない。僕はもともと堅苦しいタイプじゃないけれど、経験を積むごとにそのあたりが磨かれていったと思う。

今日、ミシュランの星を獲得しているレストランへのプレッシャーには大変なものがある。ルイ・C・ヤコブで働いていた当時の僕にとっても、それは大変なストレスだった。完璧さが要求され、失敗は許されない。しかし、食事というのは本来楽しいもの。正確さ以上にハートや情熱の方が重要だと思うんだ。

理想的なワインカルテとは、どんなものでしょう?

ワインカルテは大きい方が良い。小さなカルテではバラエティーが限られてしまうから、あらゆるワインを載せておく方がレストラン客にとっても選びやすい。でも、あまりにも分厚過ぎるワインカルテも良くないんだ。40、50本くらいのワインが揃っていて、良いソムリエがいれば理想的だね。

ワインと料理の組み合わせ、あるいはワインそのものをどう楽しんでいらっしゃいますか?

たとえばここに素晴しいワインがあるとする。すると、料理がどんなものであっても、そのワインをずっと愛おしみ、楽しみ続けるということがあるね。通常、僕はその時の状況や雰囲気でワインを決めることが多い。季節や天気、気温などを基準にね。料理を伴うなら、せいぜい軽いワインが良いのか、重い方が良いのかを考えるだけ。僕は、それぞれの料理に2種類もワインをサービスするような過剰なことはしたくない。そういう点で、ピノ・ノワールはカメレオンのように、かなりいろんな料理にマッチする。

ワインと料理の世界を平たい板に例えるなら、一方の端に不可能な組み合わせがあり、もう一方の端に最高の組み合わせがある。そして、その間がワインの世界だ。そこには無限の可能性がある。定説的な、凝り固まった考え方をする時代はすでに終わっていると思うよ。

ルイ・C・ヤコブに勤務されていた時に、マスター・ソムリエの資格を取得なさっていますが、ソムリエの仕事と勉強の両立は大変だったのではないでしょうか。

マスター・ソムリエの勉強は確かに大変だった。準備に4年掛かり、資格が取れたのは1999年だった。ザ・コート・オブ・マスター・ソムリエ(The Court of Master Sommeliers)というソムリエ資格を認証する世界機関は、とても英国的な組織だけれど、国際性を志向していて、世界中どこでも働けるワインケルナーを養成することを目的としているんだ

1999 年にゴーミヨの年間ソムリエ優秀賞を受賞なさいましたが、マスター・ソムリエの資格取得と同年だったのですね。

そう、1999 年は僕にとって大きな転機だった。受賞後、テレビ局から声が掛かるようになった。その頃には僕もシェフソムリエとしてスタッフを抱えていたので、時間的に余裕があり、副業も行える状態だったから、VOXやNDR局などの仕事を引き受けた。VOX 局のコッホドゥエル(Kochduell)は、ドイツのテレビ史上初めてソムリエを登場させた料理番組のはずだよ。

TVINOでは、これまでのあらゆる経験を活かせる

そのうちに副業が専業となり、独立されたのですよね。

いや、その前に業務用食材大手メトロ(METRO)から声が掛かったんだ。ワイン商の仕事も面白そうだなと考え、思い切って転職した。長年レストランでばかり働いていたから、ほかの世界ものぞいてみたくなったんだよ。でも、実際に働いてみると、ここは自分の居場所じゃないと感じるようになった。そこで、一通りのことをやってから辞めた。独立したのはそれからだったんだ。

2009年にスタートしたTVINOは好評ですね。

TVINOの仕事は本当に面白く、とても気に入っている。しばらくは、TVINOが僕の仕事の主体になると思う。インターネット上での番組公開はコミュニティーを作れるし、フェイスブックやツイッターなどを駆使しながらワインを自在に紹介できる。このような手段を利用することは効果的な戦略だと思う。それにTVINOでは、僕がこれまでやってきたあらゆる経験を活かすことができる。自分らしさを出せる仕事だと思うよ。

あなたは、これまでドイツワインの紹介に大変尽力されてきました。今、日本ではドイツワインの人気が低迷していますが、ドイツワインを勧めることには特別な困難が伴うと思いますか?

心の広い大らかな人たちになら、フランス人だろうが、アメリカ人だろうが、ドイツワインを勧めることは全然難しくないよ。でも、頑固で心の狭い人たちにドイツワインの良さを伝えるのは難しい。彼らは自分の意見や主張に凝り固まっていて、新たな挑戦をしたがらないから。寛大で素敵な人は、ワインに対してもとてもオープンな考え方をしているよ。

 
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