Hanacell

表現の自由とドイツ

今年9月9日、ポツダムのサンスーシ宮殿でメルケル首相は1人のデンマーク人を表彰した。彼の名はクルト・ヴェスタゴー。2005年にイスラム教の預言者ムハンマドのターバンが爆弾になっている風刺画を描いたために、世界中のイスラム教徒から抗議の的となった。一部のイスラム諸国では、この絵がきっかけとなって暴動まで起きた。

過激なイスラム教徒は彼の命を狙っており、ヴェスタゴー氏はボディガードなしには街を歩けない。昨年12月には、デンマークの自宅に斧とナイフを持ったソマリア人が乱入して彼を殺そうとした。ヴェスタゴー氏はアパートに設置してある緊急避難所(パニック・ルーム)に逃げ込んで警察に通報したために、間一髪のところで助かった。

ポツダムの式典会場でも、ドイツ政府は周辺の建物の屋上に狙撃兵を配置し、警察犬を使って爆発物を探させるなど厳重な警戒態勢を敷いた。

メルケル首相がヴェスタゴー氏にメディア賞を授与した理由は、彼がテロや殺人予告にもかかわらず、表現の自由の重要性を訴え続けているからだ。首相は「自由を守るために必要なもの、それは勇気です」と言って、このイラストレーターを称えた。また彼女は「ヨーロッパは、このような作品を描いて自由に発表できる場所であり続けなくてはなりません」と述べ、暴力によって表現の自由を弾圧しようとする動きに警鐘を発した。

ヴェスタゴー氏の絵を掲載したデンマークの新聞に対して、イスラム諸国の政府などからは「イスラム教徒を挑発する行為だ」という批判の声が高まった。メルケル首相は彼を表彰することによって、この風刺画家を弁護するとともに、表現の自由を尊重するという態度を明らかにした。その意味では過激なイスラム教徒に対する「宣戦布告」とも言え、メルケル首相にとってはリスクを伴う行為である。

イスラム教徒と表現の自由をめぐっては、世界中で論争が絶えない。インド生まれで英国在住の作家サルマン・ラシュディーは、1988年に「悪魔の詩」を書いたために今なおイスラム過激派から命を狙われている。1991年には、この本を日本語に翻訳した日本人研究者が筑波大学の事務所内で殺害されたが、犯人はまだ捕まっていない。オランダではイスラム教について批判的な映画を製作した映画監督が、路上で刺殺された。米国ではムハンマドの風刺画を新聞に発表したイラストレーターが、やはり殺人予告を受けたために今年夏から住居を去り、偽名などを使って潜伏生活を余儀なくされている。

表現の自由は、欧米とイスラム諸国の間の「文化の衝突」の争点の1つである。ヨーロッパや米国では、画家、作家を問わずすべての人間にとって、表現と言論の自由は民主主義の基本として重視されている。

これに対し、イスラム諸国やアジアの一部の国々では、「宗教を侮辱したり、政府を批判したりする芸術や言論は、社会に害をもたらすものであり、表現の自由という大義名分の下に守るべきではない」という意見が主流となっている。

もちろん欧米にも例外はある。たとえばドイツでは、ナチスを賛美したり強制収容所でのユダヤ人虐殺を否定したりする言論は、民主主義体制を脅かすものとして法律で禁止されている。つまり欧米でも表現の自由は絶対的なものではなく、政府や社会の物差しで決められる相対的なものである。欧米諸国とイスラム諸国が文化摩擦を減らすためには、表現の自由をめぐって率直に意見を交換し、和解の道を探る必要があるのではないだろうか。メルケル首相がヴェスタゴー氏を表彰したことは、議論を始めるための第一歩として重要な意味を持っている。

8 Oktober 2010 Nr. 837

 
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熊谷徹
1959年東京生まれ、早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。神戸放送局、報道局国際部、ワシントン特派員を経て、1990年からフリージャーナリストとしてドイツ在住。主な著書に『なぜメルケルは「転向」したのか―ドイツ原子力四〇年戦争』ほか多数。
www.facebook.com/toru.kumagai.92
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