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So. 20. Aug. 2017

そのとき時代が変わった - 敗戦からベルリンの崩壊まで



ベルリンの壁崩壊 Der Fall der Berliner Mauer

1989年11月9日
出国規制緩和に関する政令を作成したゲルハルト・ラウター内務省旅券局長、記者会見で決議されたばかりの政令を読み上げたギュンター・シャボウスキー政治局広報官、東西ベルリン間に設けられた国境通過地点の1つ、ボルンホルマー通りで自ら遮断機を上げたハラルト・イェーガー国家保安省中佐。この日、互いに面識のない彼ら3人のうち、1人でも別の行動に出ていたら、ベルリンの壁は開かなかっただろう。

西ベルリンに足を踏み出して泣き出す市民、壁をよじ登る若者たち。これらのシーンは皆さんもよくご存知のはずなので、本稿では、東西統一へとつながるこの歴史的な出来事の主役を、それと知らずに演じた彼ら3人を中心に、経過を追ってみようと思う。

この年の夏、支配政党ドイツ社会主義統一党(SED)の腐敗に絶望した市民が東欧の西ドイツ大使館に駆け込み亡命を始め、一方で民主化を求める市民デモが何十万人の規模へと拡大していたことはすでにお話しした。しかし、市民の反乱は10月18日に古老ホーネッカーが失脚しても治まらず、11月7日、東ドイツ人の流入に頭を痛めるチェコスロバキアから、国境での武器使用もありうるとの警告が出る。8日、エゴン・クレンツ新国家評議会議長・SED書記長は出国規制の緩和による対策を考え、内務省に政令案の作成を指示した。

11月9日

9時 内務省旅券局長ラウターのオフィス
ラウターとほかの内務官僚、国家保安省員2人の計4人で政令案の作成を開始。ラウター、国家の威信が失墜した今、必要なのは明瞭なシグナルだと考え、「個人旅行は理由と親戚関係の条件を付けずに申請でき、許可はすぐに出される」と書いた。

10時 党中央委員会(ZK)総会
デモ対策などで2日目の協議スタート。

12時 内務省ラウターのオフィス
政令案完成。翌日10日発効、4時発表として、コピーを党中央委員会と閣僚評議会に送る。

14時40分 閣僚評議会会館
クレンツと西ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州ラウ首相が会談。クレンツ、「関係改善により、壁を不要のものに」と提案。本音は財政破たんを回避するため、西ドイツマルクと引き換えに壁開放を計算。

16時 党中央委員会総会
クレンツ、旅行許可の新政令を提出。委員約200人はチェコとの国境問題にからめて理解。ディッケル内相がZKの政治局(実質政府)広報室から発表することを求め、クレンツはこれを了解。

17時45分 党中央委員会政治局広報室
まだ総会中で閣僚全員が政令決議に署名を終えていないにもかかわらず、クレンツがシャボウスキーのもとへ出向いてきて決議書を手渡し、発表を指示。翌日発効であることは2頁目の最後に書かれていたが、その説明はなし。そして前日広報官に選ばれたばかりのシャボウスキーは、総会にも政治局にも顔を出していないために詳細を知らなかったが、確認を怠った。

「東ドイツ、西へ国境開放」
11月9日夜、「東ドイツ、西へ国境開放」の報道が流れた後、
チェックポイント・チャーリーに詰め掛けた大勢の西ドイツ市民
© Lutz Schmidt/AP/Press Association Images

18時53分 記者センター
8分掛かった発表後、「発効はいつから?」と問われたシャボウスキーは、混乱した表情で決議書をぱらぱらとめくり、「私の認識では即刻です」と返答。さらに「西ベルリンへも?」と問われて「はい」。これで東西ベルリン間の壁を越えることも可能に。

19時30分
東ドイツのニュース、「個人の外国旅行は特別な理由なく申請できる」と報道。

20時
西ドイツ第一公共放送ARD、「東ドイツ、西への国境開放。壁も」と報道。

20時30分 東西ベルリン間国境通過地点ボルンホルマー通り
イェーガー警備隊長、遠巻きに集まってきた100人ほどの市民に、「まずビザを取る」と説明。すると市民、「シャボウスキーは即刻と言った」と反論。

21時 ボルンホルマー通り
車と人々の列が何キロも伸び、「あちらへ行きたい!」と叫ぶ声。

21時50分 同
イェーガー、上官と相談して特に性急な市民を西へ出す“通気法”に変える。その際、パスポートに「不法出国につき再入国不可」のスタンプを押す。

22時30分
観劇から自宅に帰ったラウター、息子から壁開放を知らされ、驚いて内務省へ。

23時10分 ボルンホルマー通り
西側散歩から戻ってきた女性市民、再入国不可のスタンプが押されていたため、子どもがアパートで寝ていると言って泣き出す。イェーガー、全員を再入国させるよう部下に指示。

23時30分 同
遮断機の前に2万人が詰め掛け、「開けろ!」と合唱。開けるか軍隊を呼ぶか。誰も答えられない。イェーガー、自分の判断で遮断機を上げる。

23時40分 内務省
ボルンホルマー通りの事態を知らされたラウター、ほかの通過地点6カ所も開放するよう、国家保安省担当官に指示。こうしてベルリンの壁は開いた。この夜、国に中央司令塔は存在していなかったことがお分かり頂けただろう。壁を無血で開かせたのは当局のミスと個人の決断だった。翌日の朝9時、政治局で壁の話題を持ち出した者はいない。そして、前夜は呆然と眺めるしかなかったコール西ドイツ首相、ブッシュ米大統領、ゴルバチョフ・ソ連書記長が現実の政治の舞台に再登場する。この日から東西ドイツは統一に向かって疾走を始めるのである。

ベルリンの壁崩壊
11日10日、ベルリンの壁崩壊を祝うためにブランデンブルク門周辺に集まった人々
© AP/Press Association Images

21 Oktober 2011 Nr. 890

 

「われわれこそが人民だ!」 Wir sind das Volk!

1989年10月9日
1989年秋、東ドイツ国民は45年間抑えられてきた鬱積を爆発させた。各地でSED(ドイツ社会主義統一党)独裁に終止符を求めるデモが発生し、権力者を脅かす勢いになる。

少人数の抗議行動はすでに年頭から始まってはいた。ライプツィヒで市民500人が言論・集会・報道の自由を求めて集まり、警察に蹴散らされたのは、独立社会主義の革命家ローザ・ルクセンブルクとその盟友カール・リープクネヒトが70年前に虐殺された1月15日。レーニン批判でSEDから忌避されている彼らの追悼日に、独裁政権への批判をぶつけたのだ。

大多数の市民は、5月7日の地方選挙で集計がごまかされたことから、腐敗に我慢できなくなっていた。東ベルリンで毎月7日にデモが行われ、今までSEDを支持してきた人々までが抗議集会で発言。その一方で、将来を悲観する若く優秀な就労世代が、ハンガリーからオーストリアへと不法に越境し、あるいはプラハとワルシャワの西ドイツ大使館に駆け込んで西へと脱出。東ドイツの屋台骨は今にも崩れ落ちそうだった。

左派知識人による新フォーラム設立

この西側への大脱出に異議を唱える形で誕生したのが「新フォーラム」である。発足地は東ベルリンの故ロベルト・ハーヴェマン(反体制化学者)未亡人宅。発起人は女流画家ベアベル・ボーライや女医エリカ・ドレースのほか、文学者、物理学者、音楽家、平和環境保護アクティビスト、プロテスタント教会の聖職者など30人。彼らは9月12日の宣言で「民主的な社会主義を樹立するために国を立て直そう」と呼び掛け、自分たちは「西へ逃げないし、ドイツ統一を望まないし、資本主義を拒否する」と強調した。

彼ら左派知識人が出したこのアピールは、今振り返るとかなり理想主義的で、大衆の思惑とはずいぶん違って見えてしまうが、それは彼らが権力から嫌われつつも優遇されてきた特権グループだったからだ。しかし、世論からは賞賛と庇護を受けており、当時西のメディアを通じてこの宣言が伝わると、多くの有識者が共感。10万人以上の署名を集め、各地の民主化運動で精神的な支柱になっていくのである。

1989年10月9日夜の月曜デモ
東ドイツ史上最大規模となる7万人が参加した1989年10月9日夜の月曜デモ
©AP/Press Association Images

月曜デモの始まり

さて、東ドイツの民主革命を代表する都市といえばライプツィヒである。同市の聖ニコライ教会では1982年9月20日からクリスティアン・フューラー牧師により、毎週月曜日に「東西の軍拡競争に反対する平和の祈り」が捧げられていた。

そして86年からは、人権擁護活動で当局から敵視されていたクリストフ・ヴォンネンベルガー牧師が平和の祈りを担当。活動は兵役拒否者の保護や環境保護などへと拡大し、数々の反体制グループが教会に集まる。祈りの後で参列者が市内を初めて行進したのは、89年9月4日。こうして月曜デモは始まった。

一方、ドレスデンでは10月3日に市民が中央駅に詰め掛け、警察と衝突する。西ドイツ行きの特別列車が同駅に一時停止していることを市民が聞きつけて、それに便乗しようとしたからだった。

乗客はプラハの西ドイツ大使館経由で西に亡命する東ドイツ人である。本稿の第37回でも触れたが、逃げ出した自国民を「国に一旦戻して出国させる」ことは東ドイツに残された最後のプライドだったのかもしれない。西ドイツ政府はそのために東の面子を立て、東ドイツを通過する特別ダイヤで亡命者の移送を実行。その結果がこれだった。

平和裏に遂行されたデモ行進

そして東ドイツ建国40周年となる10月7日。賓客のソ連ゴルバチョフ書記長から「遅れてくる者は人生によって罰せられます」(第38回参照)と警告されても、ホーネッカー国家評議会議長にはまだ現実が見えていない。ライプツィヒの月曜デモ参加者は9月25日の5000人から10月2日には2万人に増え、9日のデモはさらに膨らむと予想された。ホーネッカーは国家保安省に対し、銃弾を撃ち込んででも行進を制圧するようにとの指令を出した。

ライプツィヒが第二の天安門にならなかったのは、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者クルト・マズーアら人望ある市民3人が当局に非暴力を訴え、一方で国家評議会のエゴン・クレンツ副議長が指令に従わない知恵を持ち合わせていたからだった。この夜の参加者は7万人。彼らは蝋燭に火を灯し、「我々こそが人民だ!(Wir sinddas Volk!)」「我々はここに残る!(Wir bleiben hier!)」と言って市内を練り歩く。西のメディアがその様子を発信した。

ホーネッカーが突然辞職したのは10月18日。長年の同僚に見限られて退陣に追い込まれたという。議長の後任には前述のエゴン・クレンツが座った。しかし、その任期は長くない。ベルリンの壁が落ちるのはもうすぐである。

23 September 2011 Nr. 886

 

東ドイツ建国40周年とゴルバチョフ Michail Gorbatschow zum 40. Jahrestag der DDR-Staatsgründung

1989年10月7日
1989年10月7日は東ドイツの建国40周年記念日。式典に招かれたソビエト連邦最高指導者のゴルバチョフ共産党書記長は、何度も同じ意味合いのメッセージを発信した。

ソ連のペレストロイカ(世直し)とグラスノスチ(情報公開)を契機に東欧諸国で民主革命が進行していたこの時期、東ドイツでは、地方選挙での独裁政党SED(ドイツ社会主義統一党)による集計ごまかしをきっかけに市民が抗議行動を起こし、一方で毎日2000人を超える若い就労世代がハンガリーやチェコスロヴァキアを通じて西ドイツへと大量流出(第37回参照)する、逃散革命とも呼べる事態になっていた。

建国40周年を祝える状況とは、とても言いがたい。しかし、1971年以来SEDの頂点に立つエーリッヒ・ホーネッカー書記長には、現実が見えていないようだった。東ドイツ訪問でゴルバチョフはどんなメッセージを発するのか。各国の報道陣が東ベルリンの要所に陣取り、彼の発言を固唾を呑んで待ち構えていた。

世界が待ち望んだ明快なメッセージ

ゴルバチョフは1989年10月5日に東ベルリンのシェーネフェルト空港に降り立ち、翌6日にウンター・デン・リンデン大通りにあるノイエ・ヴァッヘ、ファシズムと軍国主義の犠牲者のための追悼所(当時)に献花。7日の建国記念式典ではホーネッカー書記長と並んで軍事パレードを陪観した後、午後に首脳会談を行い、夜の晩餐会で献杯のグラスを上げる。

メディアに突然、「Those who are late, will be punished by life itself / Wer zu spät kommt, den bestraft das Leben」というゴルバチョフの言葉が現れたのはその日の夜。公共放送ARDのニュースでは、ノイエ・ヴァッヘでの献花後に自ら西の記者団に近付いてきて話すゴルバチョフと、軍事パレードに並んで儀礼する両書記長の姿にかぶってこのメッセージが流れ、晩餐会会場近くで「ゴルビー!」とファンコールを叫ぶデモ隊のカットが入った。

ホーネッカーとゴルバチョフ
東ドイツ建国40周年式典で語らうホーネッカー(右)とゴルバチョフ
©Elke Bruhn-Hoffmann/AP/Press Association Images

「遅れて来る者は人生によって罰せられます」。これこそ、世界が待ち望むメッセージだった。間接法ばかりの外交世界にあって明快な直説法。ホーネッカーに向けたとはっきり分かる爆弾発言。西のテレビからこれを聞いた東ドイツ国民は、民主化運動にソ連軍は介入しないというシグナルを読み、勇気を得る。メッセージの効果は絶大だった。

世直しの必要性を訴え続けたゴルバチョフ

ところが興味深いことに、この歴史的な名言はどのドキュメントでも言葉通りには出てこないのである。ゴルバチョフは到着したシェーネフェルト飛行場で、さらにノイエ・ヴァッヘでも待ち受ける報道陣に自ら近付いて世直しの必要性を語ったが、そのときのドイツ語訳は「Ich glaube, Gefahren warten nur auf jene, die nicht auf das Leben reagieren(人生に反応しない者には困難が待ち受けています)」。

意味するところは似ていても表現が違う。4年後に出たゴルバチョフの回想録によると、彼は7日午後のホーネッカーとの首脳会談で「(ソ連にも同様の問題はあり……チャンスを逃さないことが大事です)。遅れると人生が我々をすぐさま罰します」と言って辞任を勧め、それをドイツ語の通訳者は一言一句違わずに、「Wenn wir zurückbleiben, bestraft uns das Leben sofort」と訳したそうだ。

名文句の作者は広報官

これで内容は一致したが、まだ句が違う。ではいつ誰があの、まるでキャッチフレーズのような名文句を作り、メディアに伝えたのだろうか。

両首脳が会談を終え、晩餐会を控えた夜6時。ソ連外務省のゲンナジ・ゲラシモフ広報官が非公式記者会見を開き、ソ連最高責任者の見解を伝えた。このときに初めて「Those who are late, will be punished by life itself」という英語フレーズが使われ、米国のAP通信が6時半に、ドイツのDPA通信がその3分後にこのメッセージを配信。「Wer zu spät kommt, den bestraft das Leben」とドイツ語に訳したのはDPAの記者だった。

名文句のコピーライターはこのゲラシモフだったのである。彼は、東欧各国の自主路線を容認するゴルバチョフの新外交に、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」にちなんでシナトラ・ドクトリンと名付けた人でもあり、外交におけるPR効果をよく知る人だった。

こうして世界は一夜にしてゴルバチョフの意図を知り、後ろ盾を失ったホーネッカーは10日後に議長を解任される。しかし、民衆の抗議を前にしては、焼け石に水でしかなかった。

19 August 2011 Nr. 881

 

西ドイツ大使館への駆け込みと汎ヨーロッパ・ピクニック Flucht in die Botschaft und das Paneuropäische Picknick

1989年8月~9月
東ドイツでは、1989年5月7日の地方選挙で支配政党SED(ドイツ社会主義統一党)が行った不正(前36回参照)をきっかけに、20~40歳の就労世代が国を見限り始めた。

SED政権は政治犯や不愉快な著名人を西の外貨と引き換えに追放し、高齢者に名目上は温情、内実は公費負担の軽減を兼ねて西への移住を認めてきたが、就労世代には出入りを厳しく制限していた。出国は認可制で、特に西への出国ビザは逃亡を防ぐため、夫婦や家族に同時には出さない。西の親戚を訪ねてもほとんどが帰ってきたのは、そのためだった。

それでも1989年に出国申請が急増したのは、出られるチャンスはもうないかもしれないとの不安が市民間に広がったからだという。計画経済の失敗から食品と生活物資は底をつき、家電の修理を頼めば数カ月、車の購入には16年も待たねばならない。

「展望がない」「ソ連で世直し、ポーランドで政治制度の民主化が始まり、ハンガリーがオーストリアとの国境に巡らした鉄条網の解体を始めていても、我が国は変わらない」。これが若い夫婦や家族を脱出に走らせた動機だった。

駆け込み者の急増による大使館閉鎖

彼らは東ベルリンの西ドイツ大使館、あるいは取得が比較的簡単な「ビザなし協定国への出国許可書」をもらってポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアへと入り、そこの西ドイツ大使館に駆け込んだ。これ自体は珍しいことではなく、すでに東西間で対応マニュアルができていた。帰宅するよう説得しても拒否する大使館占拠者には、東ドイツ政府代理を介して犯罪の有無を審査し、合格ならば、帰国することを条件に東の政府が「刑の免除」と「近日中の出国許可」を保証する。これで彼らはいったん国に帰り、東ドイツ政府の面子が立つわけだ。

1989年8月19日、ハンガリーから国境を越えてオーストリア・メアビッシュへと向かう東ドイツ国民
1989年8月19日、ハンガリーから国境を越えてオーストリア・
メアビッシュへと向かう東ドイツ国民
©Votava/AP/Press Association Images

しかし、1989年の夏はあまりに数が多すぎた。例えば8月のある週に西ドイツ大使館に駆け込んだ東ドイツ国民は、東ベルリンで131人、プラハ140人、ワルシャワ10人、ブダペスト187人。しかも今回、東ドイツは「刑の免除」だけを保証するという。

出国ビザ交付の保証がないなら誰も帰らない。そこにまた別の一団が駆け込んでくる。各地の西ドイツ大使館は建物を閉鎖し、彼らの世話に追われることになった。

流血なき約700人の越境

同じ頃、オーストリアと国境を接するハンガリー西部にも東ドイツ国民があふれ始めていた。彼らは鉄のカーテンが開いたことで自分たちもオーストリアへ行けるだろうと期待してやって来たが、通行許可がないため叶わず、そのまま観光地に留まっていたのである。

そこで、ハンガリーの民主勢力と国際汎ヨーロッパ連合の会長オットー・フォン・ハプスブルク(オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝の長男)が協力。ハンガリー内務省の暗黙の了解を取り付け、国境沿いの町ショプロンで野外平和集会「汎ヨーロッパ・ピクニック」を開くことにする。これを利用して東ドイツ国民を越境させてしまおうというのである。

8月19日午後3時、オーストリアから視察団が来ると言われてゲートの錠を開けておいたハンガリー国境警備隊は、国道側から突然現れた約700人の集団に肝をつぶした。

「服装から東ドイツ国民であることは分かったが、多勢に無勢。無視することにして、部下にも撃たないように言いました」と、当時の警備隊隊長は語っている。

流血騒ぎにならなかったのは幸運としか言いようがない。封鎖地帯の森を何キロも歩く中で集団パニックになっていたら、警備隊長の首が飛ぶだけではすまない。

この後、ハンガリー政府は東ドイツ政府から激しい抗議を受けたが、在留東ドイツ国民の強制送還を要求されて反発。9月11日に国境をすべて開放してしまうのである。

“出国”が可能になった日

一方、8月23日に閉鎖したプラハの西ドイツ大使館には、その後も塀をよじ登っての駆け込みが続き、9月にはその数が4000人になっていた。庭や駐車場はテントで埋まり、劣悪な衛生状態と寒さの中で病人が出始める。

ハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー外相(自由民主党= FDP)が大使館のバルコニーに立ち、彼らに決定を伝えたのは9月30日18時58分。「同胞の皆さん、ドイツ連邦共和国への“出国”が本日可能になりました」。

大きな歓声が上がり、“出国”という言葉はほとんど聞き取れない。プラハから東ドイツを経由して西ドイツへと入る列車を仕立てて自国民を出国させることに、東ドイツ政府が同意したのである。あくまでも「出国させる」ことにこだわる東の顔を立てた結果だった。

こうしてほかの西ドイツ大使館からも難民が西へと送り出され、東ドイツ国民の出国は集団脱走の様相を呈してくる。すでに出国申請者は推定100万人。東はそのうち空になるとのジョークが囁かれ始めた。

15 Juli 2011 Nr. 876

 

東ドイツ、いつもと違う地方選挙 Die ganz andere Kommunalwahl in der DDR

1989年5月7日
「ドイツ民主共和国の国民、友人、同士諸君。建国40年目の地方選挙は、統一名簿の候補者に素晴らしい結果をもたらしました」と、エゴン・クレンツ選挙管理委員会委員長は1989年5月7日夜のニュース番組Aktuelle Kameraで報告した。

SEDの正統性を証明するための選挙

1980年代後半、東ドイツの国民は、ソ連のゴルバチョフ共産党書記長が進めるペレストロイカ(世直し改革)とグラスノスチ(情報公開)に強い共感を示したが、特権と腐敗におぼれたエーリッヒ・ホーネッカー国家評議会議長と支配政党SED(ドイツ社会主義統一党)は、現実を見ることさえできなくなっていたようだ。87年4月、クルト・ハーガー政治局長は西ドイツ・シュテルン誌のインタビュアーに対して、「隣の家が内装を張り替えたから、我が家もそうすべきだと思うのですか?」とまで言う。

産業は疲弊し、都会では洗濯物を外に干すこともできないほどに環境汚染が進み、いたるところに諜報機関シュタージの監視の目が光っている。国民が無力感と同時に怒りを覚えるのは当然である。しかし、「我が社会主義路線に改正は要らない」と力説するSEDは、在住外国人に参政権を与えてお茶を濁し、89年5月7日に地方選挙を行って現体制の正統性をアピールすることにする。そのためには前回の選挙同様、高い支持率を得なければならない。集計の不正はこうしてプログラムされた。

一党独裁国家のパフォーマンス

ここで東ドイツの選挙制度について触れておこう。東ドイツは中央集権化を図って1952年に15の地域(東ベルリン+ 14県=Bezirk)に再編され、行政の各段階に 人民代表機関(議会)を置いていた。国会にあたるのは人民議会で、改選は5年ごと。県議会、郡議会、市町村議会への選出は地方選挙としてまとまり、同じく5年ごとである。

地方選挙翌日の1989年5月8日
地方選挙翌日の1989年5月8日、
ライプツィヒでは数千人の市民が自由を求めるデモを行った
©AP/Press Association Images

しかし、選挙そのものが一党独裁国家のパフォーマンスだった。SED以外に存在するドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)、ドイツ自由民主党(LDPD)、ドイツ国民民主党(NDPD)、ドイツ民主農民党(DBD)、自由ドイツ労働組合連盟(FDGB)などは飾り物的な衛星政党であり、全体をまとめる「ドイツ民主共和国国民戦線(Nationale Front der DDR)」が中央選挙管理委員会を組織して、候補者の統一名簿(Einheitsliste)を作る。各党の候補者数と比率は、必ずSEDが最大勢力になるよう一定に保たれていた。

そして有権者は、その名簿全体に対して賛否を表明することしかできない。賛成の場合はそのまま無記名で投票箱へ入れ、反対の場合はその欄に印をつける必要があるため、カーテン・ボックスに入らなければならない。これでは誰が反対者かは一目瞭然。しかし選挙を棄権することも、選挙委員会が自宅までチェックに来るので難しい。その結果、投票率は常に99%に近く、賛成票もほぼ同数だった。

不正への抗議~民主革命へ

しかし、今回はそんな高い数字が出るはずはないと、一般市民も反対派も、そして政治の当事者でさえもが思っていたそうだ。今までの選挙とは異なることが起きていたからだ。教会に庇護された反体制活動グループやエコロジー・グループなどが共同戦線を張り、投票所で開票に立ち会ったのである。

例えば東ベルリン・ヴァイセンゼー地区では、68の投票所のうち、67カ所で各々3人の市民が開票を見守った。開票が終ったのは夜7時半。有効票のうち90%が賛成、10%が反対だった。一方、SED党員だった当時の東ベルリン・トゥレプトウ区長ギュンター・ポラウケ氏は、20年後にtaz紙でこう振り返る。

「投票率99%、支持率95%ぐらいだろうと予想していたら、集計を2度やり直しても支持率は90%止まり。選挙管理委員会に報告したらよく考えろと言われ、翌日ま で悩んで結局は95%でごまかしたのです」

ところが選挙当日の深夜に、エゴン・クレンツ選挙管理委員長がテレビで行った報告は「投票率98.77%、うち反対票は1.15%」。最終投票率は後に98.85%へと引 き上げられ、ホーネッカー国家主席は「これで、我が地方政治は市民から承認されました」と言う。

東ベルリンの市民団体がこの結果に意義を申し立てたのは5月12日。彼らは以後、毎月7日にアレキサンダー・プラッツで抗議デモを始める。国民の大量脱出、ライプツィヒ市民の月曜デモ、ホーネッカーの失脚、ベルリンの壁崩壊へと続く東ドイツ民主革命の第一歩は、こうして踏み出された。

17 Juni 2011 Nr. 872

 
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高橋容子 ドイツニュースダイジェスト創刊時からの常連ライター。日本で文芸映像翻訳を手がけ、渡欧。英・独・豪と移り、現在はスペインのバスク州暮らし。 www.geocities.jp/takahashi_mormann
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