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グリム童話でめぐるドイツ・メルヘン街道

おとぎ話のルーツを探るグリム童話でめぐるドイツ・メルヘン街道

ハーナウを出発して、北のブレーメンまで続く全長約600キロの街道がある。この「ドイツ・メルヘン街道」をたどると、グリム童話やグリム兄弟にゆかりのあるさまざまな場所を訪れることができる。本特集では、「グリム兄弟の足跡を訪ねる旅」、「物語の舞台を訪れる旅」と題して、テーマごとに街をご紹介。奥深いグリムの世界をさらに知って、物語を体感しに出かけよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

参考:Die Brüder Grimm-Gesellschaft e.V.、Brothers Grimm Haus、Deutsche Märchenstraße e.V.

グリム童話でめぐるドイツ・メルヘン街道

グリム兄弟

グリム兄弟

ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム

ヤーコプ・グリム(1785-1863)とヴィルヘルム・グリム(1786-1859)は、世界中で親しまれているグリム童話を兄弟で編さんした言語学者・民俗学者。童話以外にも『ドイツ伝説集』や『ドイツ語辞典』の編さんに携わり、ドイツ学の発展に貢献した。上の写真は1847年に撮影されたダゲレオタイプ(銀板写真)をもとに、1900年頃に再現された写真で、立っているのが兄のヤーコプ。

グリム兄弟の足跡を訪ねる旅

グリム兄弟の足跡を訪ねる旅

生涯さまざまな街で過ごしたヤーコプ&ヴィルヘルム・グリムの兄弟。二人が生まれ育ち、学んだ場所をその人生とともにたどってみよう。

❶ハーナウから❷シュタイナウへ

1785年、ヤーコプ・グリムはハーナウで生まれた。翌年の86年に弟のヴィルヘルムが生まれ、二人はまるで双子のように育つ。兄が6歳、弟が5歳のときに一家は東へ20キロほど離れたシュタイナウへ引っ越した。なだらかな丘が続く牧歌的な環境で幼年時代を過ごし、雄大な自然のなかで二人の感性が磨かれていく。

必見ポイント

グリム兄弟像/ハーナウ

ハーナウは第二次世界大戦の被害が激しく、残念ながら兄弟の生家は残っていない。マルクト広場の市庁舎前には、腰に手を当てて立つ兄ヤーコプとその横に座る弟ヴィルヘルムの銅像がある。

グリム兄弟像/ハーナウ

Am Markt, 63450 Hanau

グリム兄弟の家(博物館)/シュタイナウ

シュタイナウは、「グリム兄弟通り」と呼ばれるメインストリートの両側に木組みの家が立ち並ぶ小さな街。一家が過ごした家は当時のまま残っており、現在は「グリム兄弟の家」という博物館になっている。すぐ近くのシュタイナウ城でもグリム兄弟に関する展示が見られる。

グリム兄弟の家(博物館)/シュタイナウ

Brüder Grimm-Haus
Brüder Grimm-Str. 80, 36396 Steinau an der Straße
www.brueder-grimm-haus.de

❸マーブルクで昔話の魅力を発見

1796年、父親の突然の死によって二人はカッセルの伯母に引き取られることに。やがて青年となったグリム兄弟は、そろってマーブルク大学の法学部へ入学した。そこで師事したザヴィニー教授から、法律と同じように昔話も人々の間で生まれ受け継がれてきたことを教えられる。古い民話や伝説に興味を持った二人は、昔話を知っている人を訪ねてまわり、聞き取った話を少しずつまとめる活動を始めた。

必見ポイント

下宿先/マーブルク

巡礼地である聖エリザベート教会が有名なマーブルク。立派な木組みの家が並ぶマルクト広場の近くに兄弟が下宿していた家が保存されている。建物内の見学はできないが、記念プレートが立てられている。

下宿先/マーブルク

Grimm-Dich-Pfad Station 15
Barfüßerstr.35, 35037 Marburg

❹カッセルで誕生した『子どもと家庭の童話集』

 1805年、大学を卒業した二人はカッセルに戻る。19世紀初頭、カッセルはフランス軍に占領され、ナポレオンの弟ジェロームがカッセルを含むヘッセンを支配していた。フランス語が得意だったヤーコプはジェロームに雇われて、ヴィルヘルムスヘーエ城で宮廷司書官を任せられたという。一方で1812年、兄弟がコツコツと聞き取りをしていた民話が『子どもと家庭の童話集』(いわゆる「グリム童話」)という形でまとめられ、世に送り出された。

必見ポイント

ヴィルヘルムスヘーエ城公園/カッセル

ヤーコプが働いていたヴィルヘルムスヘーエの丘にある城は、現在美術館&博物館に。城を含めたヴィルヘルムスヘーエ丘は世界文化遺産に登録されている。

ヴィルヘルムスヘーエ城公園/カッセル

Bergpark Wilhelmshöhe
Schlosspark 1, 34131 Kassel

グリム兄弟博物館/カッセル

カッセル市内にあるこの博物館では、グリム兄弟の直筆メモが記された『子どもと家庭の童話集』が展示されている。これは2005年にユネスコによって世界記憶遺産に登録されており、一見の価値あり。

グリム兄弟博物館/カッセル

GRIMMWELT Kassel
Weinbergstraße 21, 34117 Kassel
www.grimmwelt.de

❺ゲッティンゲンの大学から追放処分に

ドイツ語学研究を続けていたヤーコプとヴィルヘルムは、1829年にゲッティンゲン大学から教授として招かれ、ハノーファー王国へ移った。大学の講義は法律や神話、言語、文学の歴史など多岐にわたり、さまざまな書物を出版。順調に生活を送っていたが、1837年に国王の憲法違反に対して教授たち7人で抗議文を提出したため、7人の教授全員が追放となる。

必見ポイント

グリム童話の噴水/ゲッティンゲン

第二次世界大戦の被害が激しかったゲッティンゲンには、、古い建物は残念ながらほとんど残っていないが、マルクト広場には1901年に造られたグリム童話「ガチョウ番の娘」の噴水がある。

グリム童話の噴水/ゲッティンゲン

Markt 9, 37073 Göttingen

❻ベルリンで王室学士院会員に

ゲッティンゲンを追われた兄弟は一時カッセルへ戻るが、すぐにベルリンから声が掛かった。プロイセン王国のベルリン大学が二人を教授として迎えたのだ。二人はそろって王室学士院会員となり、ベルリンで安定した日々を過ごした。1854年に刊行された『ドイツ語辞典』第1巻のほか、数多くの学術論文や評論集を刊行。そして弟ヴィルヘルムは1859年に、兄ヤーコプは1863年に世を去った。

グリム童話は主にヴィルヘルムが加筆し、1857年に第7版を出してこれが決定版となった。兄弟の最も偉大な功績であるドイツ語辞典は二人の生前には完成されず、ヤーコプはアルファベットの第6字「F」を手がけていた最中に亡くなった。この大事業は後継者たちによって作業が続けられ、兄弟の死からおよそ100年後の1961年に完成した。

必見ポイント

旧聖マティウス教会墓地/ベルリン

グリム兄弟はベルリンの旧聖マティウス教会墓地に眠っている。この墓地には病理学者のルドルフ・フィルヒョウ(1821-1902)、ミュージシャンのリオ・ライザー(1950-1996)、アフリカ系ドイツ人詩人のメイ・アイム(1960-1996)など偉人が多く埋葬されている。

Alter St. Matthäus-Kirchhof Großgörschenstraße 12-14, 10829 Berlin
www.zwoelf-apostel-berlin.de

物語の舞台を訪れる旅

「むかしむかし、あるところに......」で始まる童話では、明確な時代も場所も語られていないものが多い。しかしグリム童話のなかには、地域独特の風習やモチーフにしているものがあり、ルーツといわれる場所が存在する。グリム兄弟が集めた童話と伝説の舞台とされる、メルヘン街道の街を訪ねてみよう。

物語の舞台を訪れる旅

「赤ずきん」の帽子は実はこんな形❶シュヴァルム地方

ヘッセン州シュヴァルム地方の伝統衣装は、色彩が重要な役割を担っている。未婚者は赤、既婚者は緑、青、紫を身に着ける。中世から、若い未婚の娘はコップを逆さにしたような赤い帽子をかぶっていたことから、この地方は「赤ずきん」の故郷と呼ばれている。

シュヴァルム地方の伝統衣装はスカートを何枚も重ねる。身に着けるまで1時間ほどかかるというシュヴァルム地方の伝統衣装はスカートを何枚も重ねる。身に着けるまで1時間ほどかかるという

「赤ずきんの里」と呼ばれるメルヘン街道のアルスフェルトには赤い帽子を頭に載せた少女の噴水がある「赤ずきんの里」と呼ばれるメルヘン街道のアルスフェルトには赤い帽子を頭に載せた少女の噴水がある

今でも祭りの時には赤い帽子を頭に載せた女の子たちが大勢集まってくる。観光地として知られるアルスフェルトという小さな街には、かわいらしい木組みの家が並び、赤ずきんの石像が立つ泉がある。

アルスフェルトの市庁舎も木組みの建物アルスフェルトの市庁舎も木組みの建物

「白雪姫」は実在していた?❷バート・ヴィルドゥンゲン

ヘッセン州バート・ヴィルドゥンゲンは、16世紀の城主ヴァルデック伯爵の娘と白雪姫の境遇が似ていること、近郊の村に「こびと」が住んでいたとされることから「白雪姫」のルーツといわれている。伯爵の妻は娘を産むとすぐに亡くなり、二人目の妻がやってきた。娘が成長して美しくなると継母は嫉妬し、若い姫を無理やり遠くベルギーに住む城主に嫁がせたのだ。彼女は21歳で亡くなったのだが、死亡の原因はヒ素中毒で、白雪姫が毒リンゴを食べさせられたように毒殺されたといわれている。

村の入口付近では白雪姫と7人のこびとの石像がお出迎え村の入口付近では白雪姫と7人のこびとの石像がお出迎え

一方、近郊の村では銅の採掘に子どもを働かせていた。作業着を頭からすっぽり被る姿がこびとのように見えたため、こびと伝説が広がったという。この二つの出来事がもとになって、「白雪姫」の話が生まれたとされている。

ベルクフライハイト地区にある資料館「白雪姫の家」では、こびとたちの暮らしを体験することができるベルクフライハイト地区にある資料館「白雪姫の家」では、こびとたちの暮らしを体験することができる

「ホレおばさん」が住んでいた沼は今も山中に❸バート・ゾーデン・アレンドルフ

継母からいじめられていた娘が、落としてしまった糸巻きを拾うため、井戸に飛び込み意識を失ってしまう。再び目を覚ますと、娘は見慣れない草原におり、そこでホレおばさんに仕えることに。娘は家事を手伝い熱心に羽布団をふるった。すると世界には雪が降るのだった……。この「ホレおばさん」の話は、グリム童話集にもドイツ伝説集にも載っており、マイスナー山地が出どころとされている。この地方の中心であるバート・ゾーデン・アレンドルフで毎年4月に開催される祭りでは、ホレおばさんにふんした夫人が登場。街から10キロほど離れたマイスナーの山の中には、古くからホレおばさんが住んでいると伝えられている沼「Frau-Holle-Teich」もある。また、ドイツでちらちらと初雪が降ると、「ホレおばさんが布団をたたいている」と言うことも。

「ホレおばさん」が住むマイスナー山地で祭になると現れるフラウ・ホレ「ホレおばさん」が住むマイスナー山地で祭になると現れるフラウ・ホレ

130人の子どもが消えた!?❹ハーメルン

ネズミ捕り男の伝説でおなじみのハーメルン。ネズミによる被害に困っていたこの街に、ネズミ捕りの男が現れた。街の人は報酬を払う約束をしてネズミ退治を頼んだところ、男は笛を吹いてネズミを川へおびき出して溺死させたという。簡単に退治できたことで街の人が報酬の支払いを拒むと、今度は笛で街中の子どもたちを連れだして去っていった。街から消えた子どもは130人にも及ぶ。このネズミ捕り男の話について、グリム兄弟の「ドイツ伝説集」には1284年の出来事と書かれている。毎年5~9月の日曜日正午からネズミ捕り男の野外劇が行われている。

夏限定だがマルクト広場では野外劇が行われ、世界各国から観光客が訪れる夏限定だがマルクト広場では野外劇が行われ、世界各国から観光客が訪れる

あの音楽隊が目指した街❺ブレーメン

厄介払いになった年老いたロバ、イヌ、ネコ、おんどりがブレーメンを目指す「ブレーメンの音楽隊」。旅の途中で泥棒の屋敷に侵入し、泥棒を追い出すことに成功した4匹はその後も仲良くその屋敷で暮らした。結局のところ、ブレーメンには到着していないが、童話の中でも珍しく地名が出てくるブレーメンには、市庁舎の西壁脇に銅像が立っている。ロバの上にイヌ、ネコ、おんどりが乗った銅像は記念撮影スポットとして観光客に人気。銅像のロバの前足に触ると願いがかなうといわれており、多くの人が触るため前足だけ金色に輝いている。

1953年から設置されているこの銅像は、造形作家ゲルハルト・マルクスによる作品1953年から設置されているこの銅像は、造形作家ゲルハルト・マルクスによる作品

グリム童話の特徴

場所や年代は書かれてない

グリム兄弟の代表的な著作には、「グリム童話」と「ドイツ伝説集」の二つがある。グリム童話はいつのことなのか、どこの話なのか分からないことが特徴だ。登場人物もほとんどが「女」や「男」であり名前はない。「ブレーメンの音楽隊」は街の名がタイトルになっている唯一の話。

しかし4匹の動物たちはブレーメンを目指していただけで目的地にはたどり着いておらず、結局どこを舞台にした話なのかは分からない。それに対しドイツ伝説集では必ず場所が明記され、主人公の名前や年代が書かれている話もある。

実は残酷な話が多い

人殺しや首切りなどが頻繁に行われ、目玉をくり抜かれることもあるグリム童話。こうした残酷な行いは物語の中だけの話に思われるが、中世では実際に行われていた。ほかにも、家計の負担を軽くするために子どもを捨てることや、近親相姦などは頻繁にあったといわれる。

『子どもと家庭の童話』の初版では残酷な描写はそのままだったが、子どもが読むものとしてふさわしくない箇所については、第2版では削除されたり書き換えられたりした。

同じことを3回繰り返す

同じことを3回繰り返すのもグリム童話の特徴である。例えば三人兄弟がいて、長男が失敗し、次男が同じことをして失敗し、今度は三男が挑戦してやっと成功するのは定番。また同じ呪文が3回繰り返されることもある。

人間は知っていることを耳にするとき心地良さを感じるというが、子どもたちは「あ、また始まるぞ!」と期待に胸を膨らませるのだ。そんな効果を狙った繰り返し話法も、グリム童話が親しまれた理由の一つなのだろう。

意外と知らないグリム童話

グリム童話は全部で200話もあるのをご存知だろうか。誰でも知っている有名な話はほんの10話ほどで、「こんな話もあったのか!」と知られていない童話がたくさんある。あまり知られていない、面白い話をいくつか紹介しよう。

糸くり三人女

糸くり三人女

あるところに怠け者の娘がいた。母親は糸を紡がせようとしたが、泣いて嫌がった。そこへ妃が通りかかると、母親はとっさに「娘は糸を紡ぐのが大好きだが、貧しくて家には亜麻がないので泣いている」と口をすべらせた。妃は娘を城へ連れて行き、山ほどある亜麻の糸を与え、それを紡ぎ終わったら王子と結婚させることを約束する。そして一生かけても紡ぎ終えないと泣き叫ぶ娘のもとを、3人の女が通りかかった。1人目は片足が大きくて幅広い女、2人目は手の親指が大きくて平な女、3人目は下唇が顎までべろんと垂れ下がっている女。三人は「自分たちを親戚として結婚式に招待するなら手伝ってやろう」と提案する……。

解説

「糸紡ぎ」はギリシア神話にも登場し、人間の生死をめぐる運命の象徴として描かれている。この物語では家事としての「紡ぎ」と、秘めた夢を形にしていく「紡ぎ」を対比させているようだ。つまり他人(ここでは母親)からの要求から解放され、自分の意思に従って自分の人生を生きることができるのかという問題を提起している。怠け者の娘がハッピーエンドを迎えるという物語はめずらしいが、どんな人も差別せずに温かく接する娘だからこそ王子と結婚できた、とも読み取れる。

死神の名付け親

死神の名付け親

貧しい家に男の子が生まれた。名付け親を探していた父親は死神と出会い、「あんたは人を分け隔てなく扱う」と名付け親を頼むことに。その子は大人になると医者になり、死神は名付けた子を助けるようになった。死神が病人の足元に居れば病気が治り、枕元に居ればその病人は死に至るため、医者はそれを利用して次々と重症患者を治していったのだ。ある日、病床の王様のもとへ行くと、枕元に死神がいた。そこで医者はベッドごと持ち上げて頭と足を逆にすることで、死神が王の足元にいるようにし、見事に治してみせた。そんな医者に対し、死神は「今度だましたらお前の命はない」と警告するが……。

解説

これは、日本の古典落語「死神」の基となったグリム童話だ。落語では「生」と「お金」という人間の根源的な欲望への執着を説いているのに対し、グリム童話では合理的な思考で自然(死神)をだまそうとする人間の巧妙な試みは、結局のところ失敗に終わることが描かれている。治療行為でもほかの仕事でも、この医者のように「頭と足を逆」にする、つまり考え方を180度変えることで新しい視点が見つかることはあるだろう。ただし、自然の警告を無視する者は、その責任を追わねばならないのである。

お月さま

お月さま

月のない国では夜は暗く、国民は寂しい時間を過ごしていた。この国からやって来た4人の旅人が、ある日ナラの木に引っ掛かっている月を見つけ、それを国に持ち帰った。人々は夜が明るくなって喜んだのだった。やがて4人は年老いて1人に死期が近づくと、「月の4分の1は自分のものだから棺おけに入れてくれ」と頼んだ。2人目も同じことを言った。しかしそのたびに月が欠けてしまい、4人目が死ぬと国は昔のように暗くなった。一方、地下の世界は月が埋められたために明るくなり、死人たちが動き出した。そしてどんちゃん騒ぎしていることを天国のペテロさまに知られてしまう……。

解説

木に引っ掛かっていた月を持ち帰る、というロマンに満ちた話。マタイによる福音書16章ではイエスが聖ペテロに「天国の鍵」を授けたというシーンがあることから、聖ペテロは天国の門番役として知られる。中世では死後に天国に行けるか行けないかを知りたい気持ちが強くあったのだろう。そのため、聖ペテロはこの話以外にも「天国へ行った仕立て屋」や「うかれ大将」などさまざまなグリム童話に登場する。またカール・オルフのオペラ「月」の原作になった童話としても知られている。

寿命

寿命

神様が生き物に寿命を定めようとした。最初にやって来たロバに30年を与えると、ロバは「そんなに長く働くのはつらいから短くしてくれ」と頼む。神様は気の毒に思って18年に減らした。次に来た犬に30年を与えると、犬も長すぎると言うので12年に減らした。その次にサルが来た。サルも30年は長いと言い、10年に減らした。そして人間が来た。人間は「30年では短い」と言った。ロバの18年を足すことにすると、それでも足りないという。神様はイヌの12年とサルの10年も足して、人間の寿命を70年にした。そんなわけで人間は人生の後半はロバのように働き、イヌのようにほえつき、最後はサルのように滑稽なことをするようになった……。

解説

グリム童話の中には、現代にも通じる人間の性さがが見受けられる。特に年配者や年老いた動物が厄介者にされた物語は複数ある。グリム兄弟が生きた19世紀の平均寿命は、男性が35.6歳、女性が38.4歳だった。そのため30歳までは人生を謳おうか歌し、その後は苦労が続く設定になっているのかもしれない。しかし19世紀以降、乳幼児の死亡率は低下し、結核などの感染症も徐々に減少。ワクチンや抗生物質など医学の進歩によって、今や人間の寿命は当時の倍になっている。不老不死の研究もされている現代も、人間ができる限り長く生きたいという気持ちはずっと変わっていないのかもしれない。

最終更新 Mittwoch, 09 November 2022 18:03
 

この秋試したい進化し続けるドイツワイン

この秋試したいおすすめワインも紹介!進化し続けるドイツワイン

伝統的なワインから、世界各地のいいとこ取りのワインまで楽しむことができるドイツは、言わずと知れたワイン大国。ブドウの収穫時期を迎えるこの季節、長らくドイツワインを取材されてきたライターの岩本順子さんをナビゲーターに、奥深いドイツワインの世界へとご案内しよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部、監修:岩本順子)

ドイツの世界遺産 - ケルン大聖堂

お話を聞いた方

岩本順子さん

翻訳者、ライター。ハンブルク在住。ドイツとブラジルを往復しながら、主に両国の食生活、ワイン造り、生活習慣などを取材中。著書に『おいしいワインが出来た!』(講談社文庫)、『ドイツワイン、偉大なる造り手たちの肖像』(新宿書房)ほか。本誌では連載「ドイツワインナビゲーター」(2007~2020年)でおなじみ。
www.junkoiwamoto.com

なぜドイツはワイン大国なのか?

自国だけでなく世界中のワインを楽しむのがドイツ流

ワイン生産量ではドイツは世界第9位であり、イタリアやフランスの6分の1程度。しかし消費量では、米国、フランス、イタリアに次いで第4位、さらに輸入量ではトップを誇っており、ワイン大国といわれるゆえんはここにある。自国のワインだけでなく、世界中のワインを楽しむのがドイツ流なのだ。

ドイツに暮らす人々は日常的にさまざまな国のワインをたしなんでいるといえるが、それは醸造家たちも同じ。というのも、ドイツ人醸造家たちの多くは、国外のワイナリーで研修したり、働いたりした経験がある。フランス(特にブルゴーニュ、シャンパーニュ、ボルドー)、イタリア、スペイン、オーストリア、米国、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどが人気産地で、なかには数カ国で修行するという人も。こうして世界各地のワインについて学んできた醸造家たちが、ドイツに戻ってそれぞれ理想のワイン造りに取り組んでいる。

醸造家たちの探究心でますます進化するドイツワイン

一方で、ドイツにも世界が認める伝統的なワインが存在する。例えば白品種「リースリング」から造られるワインは、比較的冷涼なドイツでこそ高品質のものができる。辛口から甘口、ライトなものからリッチなものまで、あらゆるスタイルのワインを生産できるリースリングには世界中に愛好家がいる。

ドイツワインを代表する白品種「リースリング」ドイツワインを代表する白品種「リースリング」

そうした偉大なワインを生み出していながら、ドイツの醸造家の探究心はとどまることを知らない。シャンパーニュにならった伝統製法のゼクトをはじめ、ブルゴーニュスタイルのシュペートブルグンダー(フランス語で「ピノ・ノワール」)やシャルドネ、ボルドースタイルの赤ワインなど、さまざまな品種やスタイルで新たなワインが生み出されてきた。

伝統を大切にしつつ、ほかの国のスタイル、優れた手法や技術など、良いところをどんどん取り入れるオープンマインドな姿勢は、まさにドイツワインらしさといえるだろう。そんな常に進化を続けるドイツワインについて、三つの特徴をあげて解説する。

ドイツワインの3つの特徴

特徴❶
ライトで低アルコール、料理の引き立て役

近年、地球温暖化の影響で「ドイツはもはや冷涼地域ではない」といわれることが多いものの、ドイツは今でもブドウ栽培の北限。南方の産地に比べると、ライトで低アルコールのワインに仕上がるのが特徴だ。新鮮な食材を生かすライトな食事がトレンドとなっている昨今、特にドイツの白ワインやロゼワインが注目されている。ドイツワインは辛口が主流で、軽やかで品が良く、それほど自己主張が強くないため、さまざまな料理を引き立てる存在ともいえる。

特徴❷
世界的に人気のあるフランス品種を多く栽培

現在のドイツは、フランスの代表的なワイン産地であるブルゴーニュ地方に似た気候ともいわれ、最も恵まれた産地の一つだ。ドイツにとってフランスは隣国であり、気候が似てきているだけでなく、土壌にも類似性がみられるため、フランス品種を取り入れやすい状態。そういった背景から、ドイツでもフランス品種の栽培が盛んになってきている。フランス品種は世界的に広く栽培されており、そのスタイルや技術は世界のお手本。ドイツでも高品質で人気の高いフランス品種がそろうようになり、とりわけ赤ワインの質が高まっている。

特徴❸
生産者団体「VDP」流の3段階の格付け

ドイツワインを購入する際に一つの指標となるのが、生産者団体「VDP」(ドイツ・ プレディカーツワイン生産者協会)が採用し、全地域で広まった3段階の格付けだ。ピラミッドの上に行くほど、ワインが生まれる土壌の個性が明確に表現され、高品質であることを示す。

VDPの3段階の格付け
  • ラーゲンワイン(Lagenwein)
  • オルツヴァイン(Ortswein)
  • グーツヴァイン(Gutswein)
  • 各醸造所の優良畑のブドウを使用。畑名がブランドとして機能する「畑名ワイン」。
  • 醸造所の持つ一市町村内の畑(複数可)のブドウを使用。ブランド名に村の名を示す「村名ワイン」。
  • 通常、複数の畑のブドウを使用。 醸造所の個性を表わす「エステートワイン」には独自のブランド名が付くことも。

現在、VDPの会員(約200)以外の醸造所の多くも自社ワインを自主的にこの3段階に分類し始めている。また、ワイン選びに迷ったら、VDP会員の醸造所のものを選べば、確実に高品質のワインに出会える。目印はワシにブドウのマーク!

VDP会員の醸造所のマークVDP会員の醸造所のマーク

今注目のおすすめドイツワイン10選

伝統を守りつつも新たな挑戦を続ける醸造家たちが多くそろうドイツ。今注目の醸造所のワインを中心に、ドイツ各地のワイン産地から計10本を岩本さんにピックアップしていただいた。普段の食卓だけでなく、 ちょっとした贈り物のヒントにもどうぞ。(文:岩本順子)

ドイツワインの産地MAP

1. プファルツ地方

2019 ブラン・ド・ブラン、ブリュット・ナチュール2019 Blanc de Blancs, Brut Nature

2019 Blanc de Blancs, Brut Nature

醸造所:Sekthaus Krack(ゼクトハウス・クラック)
www.krack-sekt.de
11.5%vol.
18.00€

1本目のゼクトは、伝統ある醸造所が集中するダイデスハイムで、2015年に創業したゼクト醸造所のもの。クラック家の3代目クリスチャン&アンナ夫妻、双子の弟アクセルとフェリックスが、チームプレーでハイレベルの伝統製法のゼクトを生み出している。二次発酵後の瓶内熟成は2~3年の長期におよぶ。ヴァイスブルグンダー(ピノ・ブラン)100%の「ブラン・ド・ブラン」は瓶内熟成20カ月。

味わいはブリュット・ナチュール。青リンゴや熟したリンゴなどさまざまな種類のリンゴの爽やかな風味に、ナッツやブリオッシュの風味が加わる。テクスチュアは極めてソフト。あらゆる食事を引き立てるピュアな味わいのヴィンツァーゼクトだ。ドイツはヴァイスブルグンダーの生産量が世界第1位。同品種からこのような注目すべきワインがいくつも生産されている。

2. ラインヘッセン地方北西部

2021 ペット・ナット2021 Pet Nat

2021 Pet Nat

醸造所:Weingut Riffel(リッフェル醸造所)
www.weingut-riffel.de
11.5%vol.
18.90€

ライン川とナーエ川が合流する美景の街ビンゲンで、エリック&カロリン夫妻が率いるリッフェル醸造所からは、ペットナットをご紹介。ペットナットは16世紀に南仏で考案された、最もナチュラルなスパークリングワイン製法。リッフェル家のペットナットはヴァイスブルグンダーとショイレーベのブレンド。ブドウはレス土とロームの混合土壌の畑、ロシュベルクのもので、新酒を思わせるフルーティでフローラルな風味。ほのかにパイナップルの風味も立ち現れる。

同醸造所では2009年からビオ、2012年からはビオディナミ農法(有機農法の一種)を実践。ビオ醸造家団体エコヴィン会員だ。リースリング、ブルゴーニュ系品種を主体にテロワール(造り手を含めての畑の個性)を忠実に表現するワインを生産する一方、オレンジワインやペットナットにも挑戦している。

3. ナーエ地方

2020 ナーエシュタイナー® リースリング トロッケン2020 Nahesteiner® Riesling trocken

2020 Nahesteiner® Riesling trocken

醸造所:Schlossgut Die(l シュロスグート・ディール)
https://diel.eu
12%vol.
10.80€

それぞれの畑の個性を生かして造られるディール家のリースリングは、世界中に愛好家を持つ。土壌の見本帳といわれるほど土壌が多彩なナーエ地方を代表するこの醸造所を2019年から率いるのは女性醸造家である7代目のカロリンとフランス出身の夫シルヴァン。カロリンはドイツのほか、ボルドー、ブルゴーニュ、シャンパーニュ、南アフリカ、ニュージーランドなどで経験を積んだ世界的視野を持つ醸造家。2020年に「ファルスタッフ」誌の最優秀醸造家に選ばれた。

「ナーエシュタイナー®」というブランド名でリリースしているのは、ディール家の所有畑のテロワールを表現したエステートワイン。かんきつ類やモモ、リンゴのほか、濡れた岩石を連想させる清らかな風味も。果実味は控えめで品が良く、魚介から家禽類、仔牛肉まで幅広い食材と調和する。

4. モーゼル地方

2021年産 フォム・シーファー リースリング ファインヘルプ2021 Vom Schiefer Riesling feinherb

2021 Vom Schiefer Riesling feinherb

醸造所:Ansgar Clüsserath(アンスガー・クリュセラート)
www.ansgarcluesserath.de
10%vol.
10.00€

美しく蛇行するモーゼル川に抱かれたトリッテンハイムの醸造所。創業は1670年。クリュセラート家の畑では、樹齢100年におよぶリースリングが大切に育てられている。醸造所を率いるエヴァは、ラインヘッセン地方の名門ヴィットマン醸造所のフィリップ・ヴィットマンの妻として、2地域を行き来しながらワインを造り続けている。彼女の舞台は、モーゼル地方のワイン史を彩る偉大な畑の数々。地域特有のフーダー樽(1000リットル)で醸造している。

「フォム・シーファー」は「スレートから」という意味。トリッテンハイムのスレート岩を主体とする土壌の複数の畑のリースリングから造られる。ほのかな花の香り、ライムや桃の風味。果実味と酸味の絶妙なバランス、控えめで品の良い甘み、柔らかなテクスチャーと引き締まった味わいが魅力的だ。

5. ザクセン地方

2021 ゴールドリースリング マイセナー・クラウゼンベルク2021 Goldriesling Meissener Klausenberg

2021 Goldriesling Meissener Klausenberg

醸造所:Weingut Schuh (シュー醸造所)
https://weingut-schuh.de
11.5%vol.
11.90€

旧東独、マイセン近郊ゾルネヴィッツのシュー醸造所からは、ゴールドリースリングをご紹介。東西ドイツが再統一した1990年にヴァルター・シューが創業し、2016年からは次世代のマティアスとカタリーナ兄妹が醸造所を率いる。マティアスはボルドーとニュージーランドで経験を積んだ。所有畑は全て急斜面。マイセンにある花こう岩土壌のクラウゼンベルクはシュー家の単独所有畑だ。ゴールドリースリングは19世紀末にフランス、アルザス地方で交配されたリースリング系品種。その後ザクセン地方にもたらされ、現在では同地方の固有品種として知られる。

クラウゼンベルクの高台で栽培されているゴールドリースリングはフレッシュなハーブ、洋梨、熟したリンゴの風味。しっとりとしたかんきつ系の味わいで、和洋折衷の日本の食卓にすんなりとなじむ。

6. バーデン地方

2021 ブラン・ド・ノワール2021 Blanc de Noirs

2021 Blanc de Noirs

醸造所:Weingut Kress(クレス醸造所)
www.weingut-kress.de
12.5%vol.
12.50€

バーデン地方は、重厚感のある赤で知られるが、白の醸造法で造る「ブラン・ド・ノワール」も人気だ。ご紹介するのは、1999年創業のクレス醸造所のもの。オーナーのトーマス・クレスは、2013年にボーデン湖畔ユーバーリンゲンの旧聖霊施療院醸造所も引き継ぎ、醸造所を拡充。現在は、長男ヨハネス、長女ヴィオラも醸造所に勤務している。畑は400~500メートルの高台にあり、ドイツで最も標高が高い。土壌は氷河の末端部に形成されたエンドモレーン(終堆石)。

「ブラン・ド・ノワール」は、所有畑ゴールドバッハの樹齢25〜 50年のシュペートブルグンダーから造られる。レッドカラントやグースベリー、ブルーベリーの風味が清々しく、透明感と軽やかさがある。赤ワインの風味の要素が控えめに表現され、軽快な食事に合う。

7. フランケン地方

2021 ジルヴァーナー アルテ・レーベン トロッケン2021 Silvaner Alte Reben trocken

2021 Silvaner Alte Reben trocken

醸造所:Weingut Leipold(ライポルト醸造所)
www.weingut-leipold.de
13%vol.
11.00€

マイン川流域、オーバーフォルカッハにあるライポルト醸造所では、11代目のパウル&インゲ夫妻が1984年以後、ワインに専念することを決意。次世代のペーター&アナレーナ夫妻もワイン造りに加わっている。ジルヴァーナー、リースリングなどが栽培されている単一畑ランズクネヒトは貝殻石灰岩とコイパーの混合土壌。固有品種ジルヴァーナーに注力し、土壌別のジルヴァーナーやアウスレーゼ、ベーレンアウスレーゼなどの甘口も生産している。

「アルテ・レーベン」は「古木」の意。樹齢35年のジルヴァーナーから得られたブドウを使用し、フーダー樽(1250リットル)で醸造。草原のような爽快な風味とかんきつ系の風味が重なる。料理の味を引き立てる抑制された味わいに、ふと日本酒を連想する。このワインは地域特有のボトル、ボックスボイテルでリリースしている。

8. ラインヘッセン地方南部

2021 ロゼ2021 Rosé

2021 Rosé

醸造所:Bianka und Daniel(ビアンカ&ダニエル)
www.biankaunddaniel.de
11.5%vol.
15.50€

こちらのロゼは、ラインヘッセンの丘陵地域にあるフレアスハイム=ダールスハイムで、ダニエル&ビアンカ・シュミット夫妻が運営する醸造所のもの。ダニエルの実家は醸造所だが、2012年にハンガリー出身の醸造家ビアンカとナチュラルワインを造り始め、独自ブランドを展開。ビオディナミ農法を実践し、デメター認証も取得した。ワインは全てラントヴァインとしてリリースしている。ビアンカが力を入れているロゼは、メルロ、レンベルガー、シュペートブルグンダーのブレンドで、セニエ法を採用。除梗 じょこう 後、最初に得られる10%の果汁がロゼ、残りは赤ワインになる。

大型の木樽(2400リットル)で1年にわたり熟成。濾過 ろか は行わない。濃い色合い、野イチゴなどの赤いベリー、熟したイチジクやプラム、ナッツの風味。滋味深く、しょうゆ味や味噌味にも調和する。

9. ヴュルテンベルク地方

2021 トロリンガー アルテ・レーベン2021 Trolliger Alte Reben

2021 Trolliger Alte Reben

醸造所:Weingut Karl Haidle(カール・ハイドレ醸造所)
https://weingut-karl-haidle.de
9.5%vol.
9.90€

近年注目のレムスタール地域のカール・ハイドレ醸造所からは、ヴュルテンベルクを代表する赤、トロリンガーをおすすめしたい。創業は1949年、現在3代目のモリッツ・ハイドレがワイン造りに取り組む。カーデザイナー志望で、ヒップホップ音楽とグラフィティアートに夢中だったが、ワイン造りの面白さにも開眼した。なかでもリースリングに注力し、手仕事の確かさが感じられるワインを生産。2020年にビオディナミ農法に移行、デメター認証を取得した。

通常、トロリンガーは軽い味わいだが、モリッツは主にギプスコイパー(石こう質泥土岩)土壌で育つ樹齢30年以上の古木のブドウから、凝縮感のあるワインを生産。地元のオークを使った特注の大樽(2800、3800リットル)で醸造。ベリー類とプラムやかんきつ系の風味。ロゼ感覚で味わえる。

10. アール地方

2021 シーファー ピノ・ノワール2021 Schiefer Pinot Noir

2021 Schiefer Pinot Noir

醸造所:Marc Josten(マーク・ヨステン)
www.marcjosten.de
12.5%vol.
12.90€

最後は、マーク&アニカ・ヨステン夫妻が2018年に起業した醸造所、マーク・ヨステンからの1本。マークは2011年から友人のトルステン・クラインと共に醸造所を運営、キャリアを積んでからの独立だ。拠点のアール地方とミッテルライン地方に畑を所有している。ヴァルポルツハイムの醸造所は 2021年の大洪水で樽や機材が破損したが、圧搾機は無事で、2021年ヴィンテージを守ることができた。主にマイショスのスレート岩土壌の畑、ラーヒャーベルクの樹齢15~25年のピノ・ノワールを使用。トノー(500リットル)の古樽で半年熟成させる。

スレート岩土壌のピノ・ノワールは石灰岩土壌のものとは異なるほのかな鉱物的風味が魅力。ブラックカラントなどのベリー類の風味とドライハーブの風味が重なる、ほっそりとしたエレガントな赤だ。

ワイン×和食ペアリングを楽しむヒント

引き続き岩本さんに、さらにおいしくワインをいただくための和食とのペアリングの楽しみ方をお教えいただいた。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

楽しみ方1一皿一皿に合うワインを見つける

洋食のコース料理のように、それぞれの料理に合うワインを選ぼう。ポイントは、さっぱりした料理に軽めのワイン、こってりした料理には重めのワインを合わせること。同じ品種でもアルコール度数が高いもの、オーク樽の樽香が強調されているもの、ブドウの由来が限定されているもの(一つの畑や小さな区画から造られているもの)は、凝縮感があり「重め」であることを覚えておくと◎。

組み合わせ例

軽めの料理

生牡蠣、タコのマリネ、南蛮漬けゼクト、ペットナット、ゴールドリースリングなど
マグロの刺身ジルヴァーナー、トロリンガー

重めの料理

天ぷら、揚げ出し豆腐、焼き鳥リースリング
和牛のたたき、焼肉シュペートブルグンダー

楽しみ方2複数の料理に合う1本を選ぶ

和食はさまざまな料理が一度に並ぶため、複数の料理に合う1本を用意するのが理想的。複数の品種のコンビネーションで造るブレンドワインも普段の食卓に向いていて、単一品種のワインよりも料理に合わせやすい場合があるので、ぜひ試してみて。

組み合わせ例

白ワインゼクト、ミュラー=トゥルガウ、オクセロワ、グートエーデル(シャスラ)、ジルヴァーナー、リースリング、シャルドネ、グラウブルグンダーなど
赤ワイントロリンガー、フリューブルグンダー(ピノ・マドレーヌ)、シュペートブルグンダー(ピノ・ノワール)、レンベルガー(ブラウフレンキッシュ)など
ブレンドミュラー=トゥルガウ&リースリング、ヴァイスブルグンダー&シャルドネなど

楽しみ方3食べ方に合わせてワインを選ぶ

同じ料理でも、食べ方や使う調味料によって合うワインが違ってくることがある。ペアリングがうまくいかないなというときは、いろいろな組み合わせを楽しんでみよう。

組み合わせ例

天ぷら 薄味の関西出汁なら軽めの白、濃い味の関東出汁やソースなら重めの白や赤も
麺類 濃いつゆで食べる蕎麦、パスタ風にアレンジした蕎麦や焼うどんには白のほか、軽めの赤も
味噌 白味噌や酢味噌和えは白、合わせ味噌、赤味噌を使ったコクのある料理なら赤も
海鮮 寿司や刺身、海鮮丼には軽めの白、マグロの漬け丼などはロゼや赤も
揚げ物 レモンをしぼると白ワイン向き、濃厚なソースなら赤ワイン向き

最終更新 Donnerstag, 31 Oktober 2024 11:26
 
2022年版

一生に一度は行きたいドイツの世界遺産

世界的に価値があると考えられる建築物や自然保護区などを、人類共通の遺産として保護するユネスコの世界遺産。ドイツは、イタリアと中国に次ぐ世界第3位の世界遺産大国であり、ケルン大聖堂やバウハウスのモダン建築をはじめ、ドイツが工業国となった歴史を物語る産業遺産など、幅広い年代とジャンルの世界遺産が存在している。本特集ではドイツの世界遺産の特徴をはじめ、訪れる際のお役立ち情報など、その魅力をたっぷりご紹介しよう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ドイツの世界遺産 - ケルン大聖堂

ドイツの世界遺産事情

そもそも世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて登録された遺跡や景観、自然のこと。2022年8月現在、世界194カ国が同条約に批准している。発端となったのは1960年代、エジプトのナイル川にダムの建設計画が持ち上がり、それによってアブシンベル神殿をはじめとするヌビア遺跡群が水没の危機に瀕したこと。ユネスコを中心に遺跡の移設・保護キャンペーンが行われ、遺跡はダム建設の影響を受けない高い場所に移設された。その後、世界的に価値のある遺跡や建築物、自然を、一国だけでなく人類全体の遺産として保護するための国際的な枠組みとして機能している。世界遺産の種類は、以下の三つに分類される。

❶ 文化遺産
歴史的に価値のある遺跡や建造物、記念物が対象。ドイツでは、ケルン大聖堂⑲をはじめとした48件が登録されている。

❷ 自然遺産
美しい景観、生態系、地層、地形、絶滅危惧種の生息地が対象。ドイツには、メッセル採掘場の化石発掘現場⑰など3件がある。

❸ 複合遺産
文化遺産、自然遺産の両方を兼ね備えたものが対象で、ペルーのマチュピチュ遺跡などが有名。現在ドイツでは、このカテゴリーに分類されるものはない。

2022年の世界遺産の総数は1154件で、その内訳は文化遺産897件、自然遺産218件、複合遺産39件。一方で世界遺産に登録されながらも、地域紛争や自然災害、都市・観光開発などによって危機に面している場所は「危機遺産」(現在52件)と呼ばれ、保存修復の状況が改善されない場合は登録を抹消されることも(これまでに3件)。

ドイツでは、ドレスデンのエルベ渓谷に橋がかけられたことが原因で2009年に登録を抹消された。また2003年からは、伝統舞踊や音楽、演劇、工芸技術や祭礼など、人々の営みの中で受け継がれている「無形文化遺産」の登録も行っている。

バラエティーに富んだドイツの世界遺産

ドイツでは現在、51件の世界遺産が登録されている。その特徴は、数千万年前の化石採掘場から、中世の城や街並み、そして炭鉱や製鉄所など20世紀以降の工業遺産やモダン建築まで、幅広い年代とジャンルにわたっていること。

またドイツには、ローマ帝国の国境線⑧やワッデン海㉞など、数カ国にまたがる「トランスバウンダリーサイト」(国境を超える遺産)というジャンルの世界遺産も多い。これは人為的な国境にとらわれない自然遺産や、かつて一つの民族・文化圏であった地域の文化遺産などを、数カ国が共同で保護する世界遺産のことで、大陸国ならではの特徴といえるだろう。

アーヘン大聖堂❶はドイツで最初の世界遺産にして、1972年のユネスコ世界遺産の第一期に登録された12件のうちの一つアーヘン大聖堂①はドイツで最初の世界遺産にして、1972年のユネスコ世界遺産の第一期に登録された12件のうちの一つ

コロナ禍と戦争に翻弄された世界遺産委員会

世界遺産委員会は、毎年7月前後に参加国の持ち回りで開催されており、そこで世界遺産への新規登録や、十分に保全されていない遺産の登録抹消について協議される。しかし2020年はコロナ禍によって延期になり、翌年の2021年に2年分の審議が行われることに。ドイツでは2年分を合わせて5件が新たに登録され、世界遺産数で第3位となった。

続く2022年、ロシアのウクライナ侵攻により、またもやイレギュラーな対応が必要に。というのも、2022年の世界遺産委員会の議長国はロシアで、開催・中止などの決定権はロシアにあったのだ。ロシアは侵攻の正当性を主張し、欧米諸国はロシアが議長国を務めるのであれば会議をボイコットすると表明。ロシアを世界遺産委員会から締め出そうとする欧米に反発する国もあり、最終的には無期限延期の措置が取られた。

2022年の世界遺産委員会では、ドイツからは「エアフルトのユダヤの中世遺産」が登録候補に上がり、全体では31件を審議予定だった。しかし、22年8月時点では開催のめどは立っていない。オリンピックのような国際的なイベントと同じく、世界平和を促進するための活動でもあるユネスコの世界遺産。激しく移り変わる世界情勢の中で、有形・無形にかかわらず、変わらぬ姿勢で人類共通の遺産を保護していくことがますます求められるだろう。

ドイツで必ず行くべき世界遺産9選

ドイツに51カ所ある多種多様な世界遺産。ここでは自他共に認める世界遺産マニアのSさんに、ドイツで必見の世界遺産をナビゲートいただく。世界遺産の訪問はもちろん、現地の見どころやグルメ情報もぜひチェックしてみて。

案内人

世界遺産マニア Sさん
デュッセルドルフ在住のサラリーマン。メジャーどころからマイナーで地味な世界遺産まで、不思議な達成感を味わえることから世界遺産巡りがやめられなくなってしまった旅中毒者。22年8月、在独7年目にしてドイツの世界遺産全51件を制覇した。

ハンザ同盟都市リューベック⑨

ハンザ同盟都市リューベック ❾

1143年にホルシュタイン伯アドルフによって建設されたリューベック。13〜14世紀にかけて北海・バルト海を中心とする貿易を独占し、繁栄を極めたことから「ハンザの女王」とも呼ばれた。旧市街の入り口にあるホルステン門は、都市の要ようさい塞として1478年に建てられた、リューベックの象徴ともいえる建造物。また市内には五つのゴシック様式の教会があり、それらの七つの塔が美しい街のシルエットを形作っている。

おすすめポイント

リューベックの素晴らしいところは、どの季節に行っても美しいこと。夏はバカンスに訪れる人でにぎわい、冬は市庁舎広場で大規模なクリスマスマーケットが開催されるなど、さまざまな表情を楽しめる街だと思います。もちろん、北ドイツならではの魚介料理も忘れずに!

ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群⑩

ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群 ❿

18世紀、プロイセン王のフリードリヒ2世が、ポツダムの地に夏の離宮としてサンスーシ宮殿の建設を命じたことを皮切りに、ポツダムとベルリンには歴代のプロイセン王による宮殿と庭園が数多く建設された。プロイセン王国の歴史を現代へと継承する貴重な建造物として、サンスーシ宮殿のほかにシャルロッテンホーフ宮殿、ツェツィーリエンホーフ宮殿、ザクロウ地区の救世主教会、バーベルスベルク宮殿、孔くじゃく雀島など多くの建造物や場所が登録されている。

おすすめポイント

ドイツ国内の世界遺産でも特に人気が高いサンスーシ宮殿。「夏の離宮」というだけあって、特に夏は緑豊かな階段状のブドウ畑と優雅な宮殿が織りなす景色が美しいです。個人的には、暖かい季節の訪問をおすすめします!

ヴァイマル、デッサウおよびベルナウのバウハウスとその関連遺産群⑱

ヴァイマル、デッサウおよびベルナウのバウハウスとその関連遺産群 ⓲

1919年、建築家のヴァルター・グロピウスによってヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合教育の学校「バウハウス」。シンプルで美しいデザインと機能性を追求したデッサウの校舎は、ドイツのモダニズム建築の礎でもある。バウハウス・デッサウ校をはじめ、ヴァイマルにあるバウハウス大学や実験住宅「ハウス・アム・ホルン」など、その思想を体現する建築物や関連施設が世界遺産に登録されている。

おすすめポイント

世界遺産といえば、大聖堂やお城などのイメージが強いですが、実はモダニズム建築の登録にも力を入れていて、バウハウスはそのパイオニア的存在。一見普通の校舎ですが、100年前に建てられたと思うと驚きです。ちなみに格子窓は、日本の障子を参考にしているそう。

ケルン大聖堂⑲

ケルン大聖堂 ⓳

ゴシック様式の建築物の中で、世界最大規模を誇るケルン大聖堂。600年もの長い歳月をかけて1880年に完成されたこの大聖堂は、大きくそびえる2本の塔が圧倒的な印象を与える。2004年にはケルン市の再開発を理由にユネスコから世界遺産登録抹消の警告を受けたものの、2006年に解除され、現在でも世界各国から多くの人々が訪れるドイツを代表する名所として威厳を保ち続けている。外観はもちろんのこと、美しいステンドグラスや装飾品を収める内部も必見。

おすすめポイント

ケルン中央駅に着いた瞬間に大迫力で出迎えてくれるケルン大聖堂は、街のシンボル的存在。大聖堂の周りにはケルンの地ビール「ケルシュ」の醸造所も点在しているので、ビール好きなら周辺を散策しながらはしご酒を楽しめます。私が特に好きなのは、Mühlen Kölschです。

ヴァルトブルク城㉓

ヴァルトブルク城 ㉓

ドイツには数多くの城が残るが、そのなかでも国内で初めてユネスコ世界遺産に登録されたのがこのヴァルトブルク城。伝説によると1067年に要塞として建設され、テューリンゲン州の都市アイゼナハを見守るように堂々と山の上に立つ。ハンガリー王女で後に聖人となった聖エリザベートがかつて暮らしたことや、宗教改革によって帝国を追放されたマルティン・ルターが、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を受けて隠れ住み、ここで聖書をドイツ語に翻訳したことでも知られる。

おすすめポイント

お城の敷地内に木組の家があり、一つの街のようになっているのが面白いです。お城の中には、金色のモザイクが美しい聖エリザベートの間や、ルターが聖書を翻訳した部屋も。アイゼナハの街中には、学生時代にルターが住んだ木組の家なども残っているので、ぜひ街も散策してみてください。

エッセンのツォルフェアアイン炭鉱業遺産群㉖

エッセンのツォルフェアアイン炭鉱業遺産群 ㉖

石油の普及により衰退していった炭鉱は、その昔、人々の生活を支える重要な役割を果たし、近代産業の発展に大きな影響を与えた。ツォルフェアアインは、そんなドイツの歴史を垣間見ることができる、「世界で最も美しい炭鉱」と呼ばれる炭鉱跡。巨大な第12採掘坑は、バウハウス様式によってデザインされたもので、その均整のとれた美しさと大きさは見る者を魅了する。近接した場所には、2010年にプリツカー賞を受賞した日本人の建築ユニットSANAA(サナア)が手がけたデザイン学校の校舎も。

おすすめポイント

ノルトライン=ヴェストファーレン州が工業地帯として栄えたことを示す、ドイツを代表する世界遺産の一つ。緑に囲まれた広大な敷地内を歩き回るのも良し、ツアーに参加するのも良し。さびた茶色の炭鉱はどの角度からも迫力満点で、写真好きの人にはたまりません。

ライン渓谷中流上部㉘

ライン渓谷中流上部 ㉘

ワインの名産地としても有名なライン川渓谷には、雄大な景色をバックに、美しい城や街並みが数多くある。なかでも最も有名なザンクト・ゴアールスハウゼン近くに位置する一枚岩ローレライは、19世紀のロマン派の詩人や画家をとりこにするほどだった。ほかにも盗賊の巣窟となったライヒェンシュタイン城、作家のヴィクトル・ユーゴーが絶賛したといわれるシェ-ンブルク城、多くの観光客でにぎわう小さな街リューデスハイムなどがこの地域に集中している。

おすすめポイント

実は私が中学生の時に家族旅行で初めて行ったドイツの世界遺産で、個人的にも思い入れがあります。車でドライブしながら城や街を訪ねるのはもちろん、コブレンツからマインツにかけてライン川をくだる遊覧船の上で、気持ちの良い風に吹かれながらビールを飲んだら最高です。

バイロイト辺境伯歌劇場㊲

バイロイト辺境伯歌劇場 ㊲

欧州の中でも現存する数少ない18世紀の劇場であるバイロイト辺境伯歌劇場。この地に繁栄をもたらしたブランデンブルク= バイロイト辺境伯の妃、ヴィルヘルミーネ・フォン・プロセインが音楽をこよなく愛していたことから、本人たっての希望で建てられたという。歌劇場のファサード部分のデザインは、北イタリアの様式がモデルになっている。内部にはゴールドを基調とした豪華絢けんらん爛な装飾の数々が施され、見るものを圧倒する。

おすすめポイント

かつてワーグナーやリストも居を構えた音楽の街バイロイト。小さな街ですが、繁華街も活気があって開けた雰囲気が魅力的です。地元のバイロイター醸造所が造るヘレスビールは、きれいな金色でおいしいので、ぜひバイエルンの料理と一緒にどうぞ。

シュヴァーベンジュラの洞窟群と氷河期芸術㊷

シュヴァーベンジュラの洞窟群と氷河期芸術 ㊷

ドイツ南部に残る六つの洞窟とそこで発見された先史時代(約3万3000~4万3000年前)の芸術作品を含めたもの。これらの洞窟からは、象牙や骨を使った装飾品や楽器をはじめ、人類が作った世界最古の創作物として知られるライオンマンなど、この地での暮らしや芸術活動の貴重な証拠が見つかっている。2008年に発見されたホーレ・フェルスのヴィーナス像は、人間をモチーフとした造形美術として最も古いとされる。

おすすめポイント

私が行ったのは、ホーレ・フェルスという最大の洞窟。中にはコウモリをはじめとするさまざまな動物が生息しているそうです。春〜秋には毎週土曜日に洞窟内のツアーも実施しているので、それに参加するのもいいですよ。ウルムから近郊電車で30分くらいと、意外とアクセスが良好です。

ちょっとニッチなおすすめ世界遺産5選

それほど有名ではないけれど、実はとんでもない魅力を持っていたり、味わい深い感動をくれたりする世界遺産がドイツにはまだまだたくさんある。引き続きSさんにご案内いただきながら、ちょっぴりニッチな世界遺産も巡ってみよう。

シュパイアー大聖堂②

シュパイアー大聖堂 ❷

ライン川のほとりにたたずむシュパイアー大聖堂は、世界最大のロマネスク様式の建築としても有名。神聖ローマ皇帝コンラート2世が、1030年に自らの墓所として建設を命じたという。後の神聖ローマ皇帝やドイツの王、その妻たちも埋葬されており、彼らが眠る地下聖堂はドイツ最大にして最も美しいといわれる。戦争による度重なる破壊に遭いながらも、その都度修復や再建がなされ、建設当時の様式がよく保存されていることから1981年に世界遺産に登録された。

おすすめポイント

ケルン大聖堂などに比べるとシンプルですが、赤と白の砂岩が交互に配置された柱の模様が特徴的でかっこいい。2021年に新たに登録されたユダヤ人共同体遺跡群㊿も同じ街のすぐ近くにあるので、ぜひ両方合わせて行ってみてください。この街のクリスマスマーケットも有名ですよ。

ランメルスベルク鉱山、歴史都市ゴスラーとオーバーハルツ水利管理システム⑫

ランメルスベルク鉱山、歴史都市ゴスラーとオーバーハルツ水利管理システム ⓬

ドイツ中央部のハルツ山地に位置する古都ゴスラー。南東に位置するランメルスベルク鉱山では968〜1988年まで約1000年にもわたって銀やすず、鉛などの採掘が行われていた。ハインリヒ2世がこの地の銀を使って銀貨を造ったことでゴスラーの街は栄え、旧市街にはロマネスク様式の皇帝居城や教会、木組の家などが当時の様子を残している。発展を支えた鉱山に加え、その採掘にかかるエネルギー供給資源となっていた水管理システムが世界遺産に登録されている。

おすすめポイント

鉱山の中は、黄色い列車に乗って見学することができます。ゴスラーのドイツらしくてかわいらしい街並みから、少し離れたところには鉱山があるというギャップが珍しくて面白い。毎年4月末には「ヴァルプルギスの夜」という魔女の祭りが行われるので、その時期に合わせて行くのも◎。

フェルクリンゲン製鉄所⑯

フェルクリンゲン製鉄所 ⓰

産業遺産として世界で初めて世界遺産に登録され、また現在でも鉄鋼業全盛期の当時の様子が完全な状態で保存されている。第二次世界大戦中には、約7万人もの強制労働者や戦争捕虜が労働を強いられたという負の歴史も。大迫力の製鉄所内はツアーはもちろん、歩いて回るのも楽しい。コンサートや美術展などの文化的な催しも行われており、産業発展を支えた製鉄所の歴史に触れることができると同時に、役割を終えた施設の多様な姿を見ることができる。

おすすめポイント

個人的に、一番推したい世界遺産です! 19世紀後半のビスマルクの時代に、国力が増強していく過程で建てられた製鉄所で、今のドイツの工業大国のイメージのもとになっているのではないかと思うくらい本当に圧巻。夜には製鉄所がライトアップされて幻想的な雰囲気になります。

メッセル採掘場の化石発掘現場⑰

メッセル採掘場の化石発掘現場 ⓱

ヘッセン州の村メッセルの化石採掘場では、3600万~5700万年前の新生代・始新世前期の化石が4万点以上発見されている。もともとこの一帯が亜熱帯の湖だったと考えられており、水辺の動植物や昆虫、魚類や両生類などを中心にクオリティーの高い状態で化石となって保存されていた。ビジターセンターでは、メッセル採掘場の歴史や地層について、映像や実際のサンプルの展示を通して分かりやすく解説。採掘場でのツアーもあり、実際に地層や化石に触れることもできる。

おすすめポイント

ドイツには自然遺産が三つありますが、ほかの二つは他国と共同で登録しているトランスバウンダリーサイトなので、メッセル採掘場はドイツ単独のものとしては唯一の自然遺産。観光地らしい雰囲気はありませんが、それも含めて世界遺産の幅広さを知ることができるので、あえておすすめします。

ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献㊶

ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献 ㊶

ロイド・ライトやミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の巨匠」と称される、建築家のル・コルビュジエ(1887-1965)。スイスで生まれ、フランスで活動したコルビュジエは、「近代建築の五原則」を定式化し、20世紀の近代建築文化に大きな影響を与えた。特にコルビュジエの思想を顕著に表す建築作品として、フランスを中心にスイス、ドイツ、ベルギー、日本、インド、アルゼンチンの7カ国にある17の建築物が世界遺産に登録されている。

おすすめポイント

複数の大陸にまたがる「トランスコンチネンタルサイト」の世界遺産であり、ドイツと日本の唯一共通する遺産として挙げました。ドイツでは、1927年にシュトゥットガルトの住宅展に出展された「ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅」が、日本では東京・上野にある「国立西洋美術館」が登録されています。

足を運ぶからこそ見えてくる世界遺産をもっと楽しむ方法

ここまでドイツの世界遺産の魅力を教えてくれた世界遺産マニアのSさん。今までに旅した国は71カ国514都市で、全ての世界遺産では1154件中215件を訪れたという。そんなSさんに、世界遺産を訪れる醍だい醐ごみ味を聞いた。(写真提供:Sさん)

なぜ世界遺産マニアに?

高校生のころ、唯一勉強したといっても過言ではないくらい世界史が好きでした。世界史の教材の「資料集」を眺めるなかで、実際にそこへ行ってみたいというところから旅好きになりました。そしてドイツへ渡ることを決めた後に、たまたま世界遺産検定の本を手に取って。ドイツには意外とたくさん世界遺産があることを知り、渡独後はさまざまな場所を回ってみることに。30カ所くらい行くとだんだん「全クリア」が見えてきて、これは全て行かねばと思って今に至ります。

世界遺産を訪れたら、その土地の地ビールも要チェック!世界遺産を訪れたら、その土地の地ビールも要チェック!

マニア流世界遺産の周り方

ドイツには世界遺産が51カ所もあるので、いろいろな世界遺産をはしごできるというメリットがあります。例えばフェルクリンゲン製鉄所⑯から北上したところには、トリーアのローマ遺産群⑦がありますよ。また、バウハウス・デッサウ校⑱があるザクセン=アンハルト州は、小さな州なのに7カ所も世界遺産が集まっていて、デッサウ・ヴェルリッツの庭園王国㉔やルター記念建造物群⑳などを一緒に回ることができますよ。英仏蘭などほかの西欧諸国は、海外領土にも世界遺産があるので全クリアはなかなかハードルが高いですが、ドイツは全て陸路で周れるというのもポイントです。

Sさんがこれまでで最も感動したドイツの世界遺産は、フェルクリンゲン製鉄所⓰Sさんがこれまでで最も感動したドイツの世界遺産は、フェルクリンゲン製鉄所⑯

前情報は調べる派?それとも、あえて調べない?

がっつり調べる派です(笑)。もちろんフレッシュな感動を楽しむためにあえて調べないという人もいますが、その街や建物がどういう場所なのかをある程度知ってから行くと、見え方も変わってくるかなと。何も知らなければ「おぉーすごい」で終わっていたものが、どういう歴史や意味があるのかを頭に入れておけば、実際にその場所へ行った時の感動はより高まると思います。

世界遺産をはじめとする欧州の観光地で、Sさんは必ずお土産として遺産がデザインされた「0ユーロ札」や5セントメダルを購入しているそう

世界遺産をはじめとする欧州の観光地で、Sさんは必ずお土産として遺産がデザインされた「0ユーロ札」や5セントメダルを購入しているそう

世界遺産をはじめとする欧州の観光地で、Sさんは必ずお土産として遺産がデザインされた「0ユーロ札」や5セントメダルを購入しているそう

足を運び続けたからこそ分かる世界遺産の魅力

世界遺産は、その場所に普遍的な価値があると判断して、それを後世に残すために登録しているもの。だからパッと見て「すごい!」と思うような世界遺産も多いですが、小さかったり地味だったりして、「これが世界遺産なのか?」っていうものもいっぱいあるんですよね。そんなとき、「なぜここを後世に残そうとするのだろう?」という視点から見てみることは、世界を考え直すきっかけにもなりますし、それこそが世界遺産へ行くことの醍醐味だと思っています。歴史が創った壮大な遺産はもちろん、一見地味で小さな場所も含めて、ぜひドイツの世界遺産めぐりを楽しんでみてください。

ヘーゼヴューとダーネヴィルケの考古学的境界線群㊸。ちょっぴり地味な世界遺産も、訪れて見るとなかなか味わい深いというヘーゼヴューとダーネヴィルケの考古学的境界線群㊸。ちょっぴり地味な世界遺産も、訪れて見るとなかなか味わい深いという

ドイツの世界遺産ランキング

世界遺産の国別ランキング

1位 イタリア 58件
2位 中国 56件
3位 ドイツ 51件
4位 スペイン 49件
4位 フランス 49件
6位 インド 40件
出典:UNESCO「World Heritage List Statistics」

ドイツの世界遺産・地域別ランキング

1位 バイエルン州 10件
2位 ザクセン=アンハルト州
バーデン=ヴュルテンベルク州
ヘッセン州
7件
3位 ノルトライン=ヴェストファーレン州 6件
出典:Anzahl der Denkmäler in der UNESCO Liste des Welterbes* in Deutschland nach Bundesländernb

ドイツの世界遺産・人気ランキング

1位 ケルン大聖堂⑲
2位 サンスーシ公園
(ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群⑩)
3位 ペルガモン美術館
(ベルリンのムゼウムスインゼル㉒)
4位 サンスーシ宮殿
(ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群⑩)
5位 エッセンのツォルフェアアイン炭鉱業遺産群㉖
出典:Reisetipps「Die beliebtesten UNESCO-Welterbestätten in Deutschland」

ドイツの世界遺産全51カ所リスト(2022年8月現在)

ドイツの世界遺産マップ

白丸数字:文化遺産
黒丸数字:自然遺産
★…ドイツで必ず行くべき世界遺産
☆…ちょっとニッチなおすすめ世界遺産

  1. アーヘン大聖堂(1978年)
  2. シュパイアー大聖堂(1981年)☆
  3. ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場(1981年)
  4. ヴィースの巡礼教会(1983年)
  5. ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト(1984年)
  6. ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル教会(1985年)
  7. トリーアのローマ遺跡群、聖ペテロ大聖堂及び聖母マリア教会(1986年)
  8. ローマ帝国の国境線(1987年、2005年・2008年拡張)
  9. ハンザ同盟都市リューベック(1987年)★
  10. ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(1990年、1992年・1999年拡張)★
  11. ロルシュの大修道院とアルテンミュンスター(1991年)
  12. ランメルスベルク鉱山、歴史都市ゴスラーとオーバーハルツ水利管理システム(1992年、2010年拡大)☆
  13. バンベルク市街(1993年)
  14. マウルブロン修道院の建造物群(1993年)
  15. クヴェートリンブルクの聖堂参事会教会、城と旧市街(1994年)
  16. フェルクリンゲン製鉄所(1994年)☆
  17. メッセル採掘場の化石発掘現場(1995年)☆
  18. ヴァイマル、デッサウおよびベルナウのバウハウスとその関連遺産群(1996年、2017年拡張)★
  19. ケルン大聖堂(1996年)★
  20. アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群(1996年)
  21. 古典主義の都ヴァイマル(1998年)
  22. ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)(1999年)
  23. ヴァルトブルク城(1999年)★
  24. デッサウ・ヴェルリッツの庭園王国(2000年)
  25. 僧院の島ライヒェナウ(2000年)
  26. エッセンのツォルフェアアイン炭鉱業遺産群(2001年)★
  27. シュトラールズント歴史地区とヴィスマール歴史地区(2002年)
  28. ライン渓谷中流上部(2002年)★
  29. ムスカウ公園(2004年)
  30. ブレーメンのマルクト広場の市庁舎とローラント像(2004年)
  31. レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ (2006年)
  32. カルパティア山脈のブナ原生林とドイツの古代ブナ林群 (2007年・2011年拡張)
  33. ベルリンのモダニズム集合住宅群(2008年)
  34. ワッデン海(2009年・2014年拡張)
  35. アルフェルトのファグス工場(2011年)
  36. アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群(2011年)
  37. バイロイト辺境伯歌劇場 (2012年)★
  38. ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ(2013年)
  39. コルヴァイのカロリング期ヴェストヴェルクとキヴィタス(2014年)
  40. ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街(2015年)
  41. ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献(2016年)☆
  42. シュヴァーベンジュラの洞窟群と氷河期芸術(2017年)★
  43. ヘーゼビューとダーネヴィルケの境界遺跡群(2018年)
  44. ナウムブルク大聖堂(2018年)
  45. エルツ山地(クルスナホリ)鉱業地域(2019年)
  46. アウクスブルクの水管理システム(2019年)
  47. ヨーロッパの大温泉保養都市群(2021年)
  48. ダルムシュタットのマチルダの丘(2021年)
  49. ローマ帝国の国境線-下ゲルマニア・リメス(2021年)
  50. シュパイアー、ヴォルムス、マインツのユダヤ人共同体遺跡群(2021年)
  51. ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス(2021年)
最終更新 Mittwoch, 07 September 2022 09:32
 

グーテンベルクからデジタル印刷まで ドイツの印刷文化を訪ねて

グーテンベルクからデジタル印刷までドイツの印刷文化を訪ねて

羅針盤・火薬と並び、ルネサンスの三大発明とされる「活版印刷機」。ドイツ生まれのこの機械は、ルターの宗教改革を成功へ導き、フランクフルトやライプツィヒを国際的な出版の中心地に押し上げるなど、歴史とも深く結びついている。デジタル技術が進歩する今なお、活版による美しい印刷物が愛される理由とは?ドイツで現在も生き続ける印刷文化に会いに行こう。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

ドイツの印刷文化を訪ねて

ドイツの印刷・出版の歴史

参考:mdr.de「Wiegendrucke, Börsenverein und "Leipzig liest"」、mdr.de「BUCHSTADT-CHRONIK」、ardalpha.de「Der geheimnisvolle Erfinder des Buchdrucks」、Universität Leipzig「Buchdruck und Verlagstätigkeit in Leipzig」、Stadt Leipzig「Erste Tageszeitung kamaus Leipzig」、保井亜弓「武器としての版画ー印刷革命とプロパガンダ」、Harry Oelke「Reformation as a Media Event」

世界を変えた発明
グーテンベルクの活版印刷

活版印刷は、実は11世紀半ばごろの中国ではすでに発明されていた。しかし、漢字はアルファベットに比べてはるかに文字数が多く作りも細かいため、それほど普及しなかった。そんななか、フランクフルト近郊の街マインツの貴族だったヨハネス・グーテンベルクは、1450年ごろに世界で初めて活版印刷の実用化に成功。当時の欧州では、写本か木版印刷が主流だったため「本」は希少なものだった。

ヨハネス・グーテンベルク(1398ごろ-1468)ヨハネス・グーテンベルク(1398ごろ-1468)

金属加工職人でもあったグーテンベルクは、まず文字の原型を彫り、その型に調合した鉛合金を流して活字を鋳造する方法を発明。低品質の紙や羊皮紙にも印刷できるように油性インクを作り、さらにインクを付けた活字をしっかり紙に押し付けるために、ブドウ搾り機を応用したプレス機も開発した。このようにさまざまな技術を組み合わせることで、グーテンベルクは本(印刷物)の大量生産を可能にしたのだ。その後、活版印刷はすぐに欧州各地に広がり、マインツやフランクフルトをはじめ、ケルンやアウクスブルク、ニュルンベルク、エアフルト、そしてライプツィヒが続いた。

グーテンベルクが初めて印刷した『42行聖書』。聖書のテキストを活版印刷によって黒一色で刷り、色文字や飾り文字などは後から手描きで追加されているグーテンベルクが初めて印刷した『42行聖書』。聖書のテキストを活版印刷によって黒一色で刷り、色文字や飾り文字などは後から手描きで追加されている

活版印刷とは?

文字や記号を1文字だけ彫り込んだはんこのようなものを「活字」といい、それらを組み合わせた「版」(=活字組版)を使った印刷方法を「活版印刷」という。例えば「ドイツ」という単語を印刷する場合は、「ド」「イ」「ツ」という三つの活字を順番に並べて印刷用の版を作る。印刷が完了したら、組んだ版を再び解体して保管し、繰り返し使うことができる。

活版印刷とは?

ルターの宗教革命を後押し!
ドイツの印刷・出版業界が開花

グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、神学者マルティン・ルター(1483-1546)による宗教改革の追い風となったことでも有名だ。ルターは1517年、カトリック教会の腐敗を批判すべく、ヴィッテンベルク城教会の門戸に「95カ条の提題」を張り出した。これはラテン語で書かれていたが、彼の言葉はすぐにドイツ語に翻訳され、1517年末までにライプツィヒ、ニュルンベルク、バーゼルで出版された。

1520年ごろ、画家クラーナハ(1472-1553)が描いたルターの銅版画。ルターの人物画もまた、活版印刷によって多くの人に知れ渡った1520年ごろ、画家クラーナハ(1472-1553)が描いたルターの銅版画。ルターの人物画もまた、活版印刷によって多くの人に知れ渡った

ルターはその後、ライプツィヒの熟練出版社メルヒオール・ロッターと提携。1518年から21年までに、ルターの著作のうち100冊以上がライプツィヒで出版された。しかし1522年にカール5世がルターの帝国追放を宣言すると、ザクセンでも1519〜1539年にかけて宗教改革に関係する著作の印刷と取引が禁止に。一方でザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を受けたルターは、潜伏先のヴァルトブルク城で聖書のドイツ語翻訳を進める。この聖書は、改稿を繰り返しながらルターの存命中に10万部以上が出版され、当時としては破格の大ベストセラーとなった。

ルターが翻訳し、1522年に出版したドイツ語版の新約聖書ルターが翻訳し、1522年に出版したドイツ語版の新約聖書

「本の街」の座を競い合った
フランクフルトとライプツィヒ

現在、ドイツの二大出版都市であるフランクフルトとライプツィヒ。両都市では毎年大規模なブックメッセが開催されているが、歴史的には500年以上も書籍の中心地として競い合ってきた。フランクフルトでは活版印刷機の発明からほどなくして、地元の書籍商人たちがメッセを開くようになり、早くも欧州の文学都市としての地位を確立。しかし宗教改革の影響を受け、神聖ローマ帝国はフランクフルトに検閲機関(Kaiserliche Bücherkommission)を置くことに。同機関は、帝国が崩壊する1806年まで存在し、印刷・出版業界の取り締まりが行われていた。

ライプツィヒで1650年に刊行された 世界初の日刊新聞「Einkommende Zeitungen」ライプツィヒで1650年に刊行された 世界初の日刊新聞「Einkommende Zeitungen」

フランクフルトでは特にカトリックに反する書籍に対する検閲が厳しく、それを嫌った出版業者の多くはライプツィヒへと移った。ザクセン選帝侯の図書委員会は、印刷の特権を統制するだけで内容の統制は行わなかったためだ。こうして1632年には、ライプツィヒ・ブックメッセの出品タイトル数が初めてフランクフルトを追い抜く。三十年戦争終結から2年後の1650年には、ライプツィヒで世界初の日刊新聞が発行されるなど、ドイツの印刷・出版の中心地の座を手に入れたのだった。

印刷所では、女性たちも重要な働き手だった印刷所では、女性たちも重要な働き手だった

近代の書籍取引の立役者
フィリップ・エラスムス・ライヒ

ドイツで近代的な書籍取引を推し進めたのが、ライプツィヒの出版業者フィリップ・エラスムス・ライヒだ。1745年に出版社ヴァイトマンシェ・ブッフハンドルングに入社したライヒは、作家や出版社の権利を保護するための法的条件の整備や、海賊版印刷の取り締まり、書籍の取引を物々交換から貨幣ベースへと変えていった。

またライヒは印刷物の品質やデザインに投資し、改良・増補した新版を数多く出版。ライヒが活躍したのとほぼ同時期の1764年には、書籍用に美しい銅版画の需要が高まったことから、ライプツィヒで「デッサン・絵画・建築アカデミー」(現ライプツィヒ版画・製本芸術大学)が設立された。

フィリップ・エラスムス・ライヒ(1717-1787)フィリップ・エラスムス・ライヒ(1717-1787)

二度の世界大戦と冷戦に苦しんだ
ライプツィヒの印刷・出版業界

グーテンベルクの発明から450年がたった1900年、ライプツィヒには出版社・書店848社、楽譜店113社、古書店44社、製本所201社、印刷所189社など、出版に関わる約1500社が集まっていた。1914年には、本の芸術性を世界に向けて紹介するため、ライプツィヒで「国際書籍商・グラフィック展」(Bugra)を初めて開催。世界22カ国から出展者が集まったが、第一次世界大戦の勃発によって早くも終焉(しゅうえん)を迎えた。

ライプツィヒ中心部に1898〜1901年にかけて建てられたドイツ書籍商会館(Deutsches Buchgewerbehaus)もまた、1943年の空襲で大きく損壊した-1787)ライプツィヒ中心部に1898〜1901年にかけて建てられたドイツ書籍商会館(Deutsches Buchgewerbehaus)もまた、1943年の空襲で大きく損壊した-1787)

そしてナチスが政権を握った1933年、ドイツ書籍商協会は抵抗することなく、ユダヤ人作家の書籍取扱停止や、ユダヤ人会員の排除を進めてしまう。こうした政治的・人種的迫害により、1938年までに5000社あったドイツの出版社は3500社に減少。さらに1943年12月3日、ライプツィヒの出版・印刷会社が集まる地区Graphisches Viertelが英国軍の爆撃を受け、約1000社が壊滅的な被害を受けた。そこから立ち直ることができないまま、ライプツィヒは冷戦時代に旧東ドイツ(DDR)へ組み込まれることに。多くの出版社が西側へと移り、ライプツィヒに残った38社(DDR全体で78社)は強制国有化された。西側のフランクフルトは期せずして、約200年ぶりにライプツィヒに代わり、ドイツにおける書籍取引の中心へと返り咲いたのだった。

1914年にライプツィヒで開催された国際書籍商・グラフィック展(Bugra)のポスター。同展は、デッサン・絵画・建築アカデミーの創立150周年を機に開催され、グラフィックアートの展示にも力を入れていた1914年にライプツィヒで開催された国際書籍商・グラフィック展(Bugra)のポスター。同展は、デッサン・絵画・建築アカデミーの創立150周年を機に開催され、グラフィックアートの展示にも力を入れていた

急速に変化した印刷技術と
変わらない活版印刷の美しさ

ベルリンの壁が崩壊し、1991年に再統一されたドイツ。ライプツィヒは本の街として再出発すべく、同年にブックメッセと合わせて文学フェスティバル「ライプツィヒ・リースト」を開催。1963年から実施されていた「世界で最も美しい本コンクール」も、1991年からブックメッセに組み込まれ、印刷・出版文化の復興に努めた。そして現在では、春にライプツィヒ、秋にフランクフルトのブックメッセが恒例となり、この時期には世界中から多くの人が集まっている。

印刷・出版業界が激動の歴史を経験した一方で、グーテンベルクの活版印刷技術は、細かな改良こそあったものの、1930年ごろまで基本的な構造は変わらなかった。しかし20世紀後半には活字鋳造の機械化が一般的になり、さらに写真技術を応用した写真植字機やオフセット印刷機も登場。やがてパソコン上で文字組みからデザインまで全てを行えるようになり、熟練の職人によるさまざまな工程が不要になった。さらにインターネットや電子書籍が普及した今、印刷・出版業界は再び大きな変革期を迎えている。

1985年、アップル社が開発したプリンターとMac専用ソフトを組み合わせることで、デザインから印刷まで全てを行うデスクトップパブリッシング(DTP)が可能になった1985年、アップル社が開発したプリンターとMac専用ソフトを組み合わせることで、デザインから印刷まで全てを行うデスクトップパブリッシング(DTP)が可能になった

そんななか活版印刷は、デジタル印刷にはない 「文字」の存在感やへこみ、風合いや質感など、世界中のアーティストやデザイナーにとって今なお魅力的な存在だ。また現在では、デジタルデータから版を作成できるなど、活版印刷の表現の幅も広がっている。こだわり抜いて作られた活版印刷の美しさは、これからも変わらぬ存在感を発揮し続けるのだろうか。その答えを探しに、以下ではライプツィヒ印刷博物館を訪ねる。

ライプツィヒ印刷博物館では、館内の印刷機を使ってアーティストの作品制作を行うレジデンスプログラムも実施しているライプツィヒ印刷博物館では、館内の印刷機を使ってアーティストの作品制作を行うレジデンスプログラムも実施している

熟練の印刷職人に聞いた伝統的な印刷技術を守り続ける理由

パソコン1台で誰もが手軽に印刷やデザインをできるようになり、手工業による印刷職人の仕事はどんどん減少した。そんななかライプツィヒ印刷博物館では、熟練の職人たちが古い印刷機を丁寧にメンテナンスして動かし続けている。ここで働くトマス・クルツさんに、旧東ドイツ時代の印刷職人としての生活や、現在の博物館での仕事、そして伝統的な印刷技術を受け継ぐ意義を聞いた。(写真:ドイツニュースダイジェスト編集部)

お話を聞いた人

Thomas Kurz

ライプツィヒ印刷博物館職員
トマス・クルツさん

博物館では、精工に造られた印刷機をクルツさんをはじめとする職員が日々手入れする博物館では、精工に造られた印刷機をクルツさんをはじめとする職員が日々手入れする

クルツさんはライプツィヒ印刷博物館で、どんな仕事をしていますか?

印刷機械の掃除やメンテナンスをはじめ、印刷博物館で開催する展覧会のポスターや案内状の印刷、博物館のショップで販売する紙のプロダクトの制作などです。ほかには、来館者に機械を動かして見せたり、子ども向けの見学ツアーを開催したり、文字組みと印刷のワークショップの講師も行っています。

また印刷博物館では、ここにある機械を使ってグラフィックアーティストの作品制作にも協力しており、その際に技術的なアドバイスや作品づくりの補助をすることもあります。

クルツさんが制作した、3500個の「k」の活字を組み合わせた包装紙。印刷博物館のショップで販売しているクルツさんが制作した、3500個の「k」の活字を組み合わせた包装紙。印刷博物館のショップで販売している

そもそも印刷に関わる仕事に就いたきっかけは?

私はザクセン州エルツ地方にあるザイフェンという村の出身で、1910年に曽祖父がこの地域で印刷工場を創業し、父もその経営をしていました。そのため若い頃の私にとって、印刷職人になるのは自然なことだったように思います。

1982〜1984年まで、ケムニッツからほど近い街で植字工(Setzer)の修行をしました。植字工とは、活字のパーツを一つひとつ集め、単語や行など印刷物のテキストを組んでいく役割。この技術の習得には通常2〜4年かかります。修行後は実家の工場で働き、1991年に父から家業を引き継ぐことに。この印刷工場は2008年12月まで稼働していました。

ザイフェンの印刷工場では、どんな印刷物を制作していましたか?

始業は毎朝7時。活字の鋳造をはじめ、文字組み、注文された商品の印刷、完成したものをお客様に届けるのが日課でした。エルツ地方にあるホテルや観光施設の印刷物、教会の会報や感謝状、それにグリーティングカードの制作なども請け負っていました。

ちなみにザイフェンは、くるみ割り人形をはじめとする木工のおもちゃの産地として有名で、おもちゃの箱に貼るラベルや、おもちゃの取扱説明書などもうちの工場で印刷していましたよ。

旧東(DDR)ドイツ時代に大変だったことは?

DDR時代、印刷物は全て行政の承認が必要でした。さらに、請求書に記載された「印刷承認番号」(Druckgenehmigungsnummer)を完成した印刷物にもプリントしなければいけません。また教会の会報などに印刷される内容や催し物については、事前に検閲が入り、承認が降りた後は絶対に内容を変更することができませんでした。あとは、希望通りの紙が割り当てられるまでにとても時間がかかるので、お客さんは注文してから印刷物が届くまで3週間くらい待つ必要がありました。

ベルリンの壁が崩壊した後、仕事や生活に変化がありましたか?

DDR時代はなかなか新しい機械を購入できませんでしたが、再統一後の1991年に初めてパソコンとオフセット印刷機を買いました。当時で言うと、一戸建ての家を購入するのと同じくらいお金がかかりましたね。それまでは8ページの教会の会報を作るのに1日がかりでしたが、新しい機械だとずっと速く、ずっとカラフルに印刷物を作れるようになったのです。

経営者としては、DDR時代よりも自由度が高まったと感じました。しかし90年代末には自宅用のパソコンやプリンターが普及し、印刷業界も斜陽に。妻がライプツィヒ出身だったこともあり、2008年に引っ越すことにしました。そして運良く、印刷博物館での仕事が決まったのです。業務内容は多岐にわたりますが、博物館での今の仕事がとても気に入っています。

印刷物の需要が減りつつある今、伝統的な印刷技術を後世に伝える意味とは?

この博物館の最大の特徴は、ほとんど全ての機械が、その時代の無言の証人としてではなく、実際に動く様子を来館者に見てもらえることです。機械を見て説明を読むだけでは、その機械がなぜ造られ、どのような仕組みで動くかを知ることはできません。特に、子どもたちにこれらの印刷機を知ってもらうことはとても重要です。そうでなければ、いずれこの技術は忘れ去られ、印刷の歴史の美しさも忘れ去られてしまうのではないでしょうか。

グーテンベルクが活版印刷を発明したことで、より実用的に、より速く情報を拡散することができるようになりました。そしてパソコンやスマートフォンが登場し、そのスピードがさらに速まっています。そう考えると、デジタルが活版印刷に取って変わるのは当たり前の流れかもしれません。確かに今の時代、活版印刷は時間がかかりすぎる。しかし、デジタルの情報がすぐに流れていってしまうのに比べて、すごく時間をかけて作ったものは、相対的に長くこの世界に残るのではないかと思います。

「Museum für Druckkunst Leipzig」(ライプツィヒ印刷博物館)という文字を組んでいくクルツさん。活字を拾い上げるスピードがとにかく速い!

クルツさんが案内する印刷博物館の見学ツアー

インタビューの後、博物館にあるさまざまな機械を動かして印刷技術の面白さを教えてくれたクルツさん。ここでは、そのほんの一部をご紹介する。気になる方は、ぜひ実物を体験しにライプツィヒ印刷博物館へ!

ライプツィヒ印刷博物館

ライプツィヒ印刷博物館

書籍印刷と出版の伝統を持つライプツィヒで、1994年にオープンした印刷技術・文化の博物館。四つのフロアに約90台の印刷機が設置され、数世紀にわたる印刷とメディアの歴史をじかに体験することができる。もとは1919年に創業した旅行関係の出版社Dr. Karl Meyer GmbHの建物で、1953〜1991年まで旧東ドイツ政府に強制国有化されていた。博物館では、職員による機械のデモンストレーションをはじめ、活版印刷を自分で体験できるコーナー、リトグラフやレタープレスなどのワークショップにも参加可能。3階のギャラリーでは、シーズンごとに印刷をテーマにした企画展が開催されている。ミュージアムショップでは、博物館の機械を使って作ったノートや本、活字なども購入できるのでぜひチェックしてみて。

Museum für Druckkunst Leipzig
Nonnenstr. 38, 04229 Leipzig
www.druckkunst-museum.de

Columbia Pressコロンビア印刷機

製造元:Clymer Et Dixon(ロンドン、1842年製)

19世紀初頭に英国のゲオルク・クライマーが設計した活版印刷のプレス機で、機械の総重量は3トンほど。膝の関節のようなレバーの機構を取り入れたことで、グーテンベルクの時代と比べて、より均等に圧力をかけることができるようになった。まずは組んだ版を台に置いてインクを付け、その上に紙を載せる。その後、レバーを手前に引くことで上から圧力をかけて印刷する仕組みだ。この機械を使って、旧東ドイツ時代のメッセのマスコットキャラクター、「メッセメンヒェン」のイラストをプリントしてもらった。

コロンビア印刷機

Linotype"Rossia N7"ライノタイプ「ロシア N7」

製造元:Werk für Polygraphische Maschinen(レニングラード、1967年製)

活字を一文字ずつ鋳造するのではなく、横一行を丸ごと鋳造できる機械「ライノタイプ」。こちらはロシア製で、ライプツィヒの新聞社が実際に使用していたものだという。旧東ドイツ時代は、文字組みや版の鋳造にロシア製の機械が主に使われていた。キーボードの文字を打つと、真鍮(しんちゅう)製の文字の型がセットされ、そこに鉛を流し込んで版を作るところまでが自動で行われる。クルツさんの粋な計らいにより、実際に「News Digest」という版をこの機械で鋳造してもらうことに。マシンのダイナミックな動きと、金属がぶつかる時に奏でられる美しい音色、そして出来上がった版は感動ものだった。

ライノタイプ「ロシア N7」

Handgießinstrument手動の活字鋳造器具

製造元:不明(20世紀中頃製)

グーテンベルクによって、15世紀半ばに開発された手動の活字鋳造の器具。19世紀半ばに自動化されるまでは、この方法で活字を作っていた。鉛合金を火で熱して溶かし、十分な柔らかさになったら杓子(しゃくし)を使って、器具に挟まれた鋳型に直接流し込む。すると合金がすぐに固まって活字が出来上がる。活字の鋳造には、鉛に少量のスズとアンチモンを加えた合金を使用しており、この配合はグーテンベルクの時代からほとんど変わっていない。ちなみに熟練の職人であれば、これを使って1時間に100個程度の活字を鋳造することができるという。

手動の活字鋳造器具

ドイツの印刷よもやま話

学問と音楽の街ならではの出版社ブライトコプフ社とレクラム社

ライプツィヒといえば、学問と音楽の街でもある。ライプツィヒ大学では文豪ゲーテや哲学者ニーチェ、メルケル元首相が学び、音楽ではバッハやシューマン、ワーグナーらにゆかりが深い。こうした文化の醸成にも、ライプツィヒの印刷・出版業界が重要な役割を果たしていた。

まず有名なのが、現存する世界最古の楽譜出版社ブライトコプフ。可動式活字による楽譜の印刷を発明したヨハン・ゴットロブ・ブライトコプフが1719年にライプツィヒで創業し、ハイドンやベートーヴェン、ブラームスなどの楽譜をリアルタイムで出版していた。当時はブライトコプフ社を中心に、世界で出版される楽譜の半分以上がライプツィヒで印刷され、ドイツの楽譜彫刻家の9割がライプツィヒに仕事場を構えていた。

楽譜彫刻家が彫った版で印刷した楽譜楽譜彫刻家が彫った版で印刷した楽譜

黄色いカバーの「レクラム文庫」でおなじみのレクラム社も、ドイツの学問を支えてきた出版社の一つ。貸本業者のアントン・フィリップ・レクラムが1828年に創業し、1867年創刊のレクラム文庫は、日本の岩波文庫のモデルになったといわれる。文芸・哲学・自然科学・社会科学など、安価で誰でも手に取れる文庫本シリーズは、ドイツ語圏の人々にとって重要な知識のよりどころとなってきた。なお第二次世界大戦後は、本社は西ドイツのシュトゥットガルト、さらに近郊のディッツィンゲンに移っている。

ドイツの本屋でよく見かける「レクラム文庫」のコーナードイツの本屋でよく見かける「レクラム文庫」のコーナー

ドイツで20世紀まで使われた中世生まれの書体「フラクトゥーア」

ドイツの古い本や看板などで、インクのペンで手書きをしたような独特の書体を見たことがあるかもしれない。この書体は、写本やカリグラフィーの書体をもとにした活字体「ブラックレター」の一種で、16世紀初頭に誕生した「フラクトゥーア」(Fraktur)という。多くの欧州諸国では早い段階で衰退したが、ドイツ語圏ではフラクトゥーアが20世紀まで使われ続けていた。

20世紀にはナチスが、ほかの西洋諸国と差別化するため、伝統的なフラクトゥーアを正式なドイツ語の書体に制定。1936年には60%の出版物がこの書体で印刷され、学校でもこの筆記体のみが教えられた。ところが1941年、ナチスは一転してフラクトゥーアの使用を禁止。理由は諸説あるが、戦時下にドイツが占領した地域では多くの人がフラクトゥーアを読めなかったことや、接収した他国の印刷所の多くがフラクトゥーアの活字を持っていなかったからともいわれている。

フラクトゥーアは現代のアルファベットと似て非なるため、慣れていないと判読が難しいフラクトゥーアは現代のアルファベットと似て非なるため、慣れていないと判読が難しい

戦後すぐは、多くのドイツの印刷業社が資金不足で新しい活字を買えず、フラクトゥーアの活字を使って印刷物を制作していた。やがて経済復興に伴い、ナチスや帝政時代を思い起こさせるフラクトゥーアは新聞や書籍から姿を消していったという。現在は、ドイツの伝統を表すフォントとして新聞のタイトルやレストランのメニュー、食品ラベルなどに使われることも多い。

最終更新 Donnerstag, 08 September 2022 11:24
 

ドクメンタ15を観に行こう!

5年に一度の現代アートの祭典ドクメンタ15を観に行こう!

ドイツ中部の都市カッセルで、5年に一度100日間にわたって開催される大規模な現代アート展「ドクメンタ」。15回目となる今回は、ドクメンタ史上初めてアジア出身のアート・コレクティブが芸術監督に選ばれ、これまでにない芸術祭の形で注目を集めている。特集では、そんなドクメンタ15を楽しむためのさまざまなヒントをお届けする。(文:ドイツニュースダイジェスト編集部)

Documenta 15

「アートではなく友だちをつくろう」現代美術展のイメージを覆すドクメンタ15

ドクメンタとは?

もとはナチス政権によって「退廃芸術」の烙らくいん印を押されたモダンアートの回復と、第二次世界大戦の被害を大きく受けた復興を目的に始まった。第一回目は1955年にカッセルの芸術家で教育者のアーノルド・ボーデの主導で開催されたが、1975年のドクメンタ5以降はその都度異なる芸術監督を選出。その時代に問いを投げかけるような強いテーマ性を持った国際現代アート展となっている。

ドクメンタ15の芸術監督「ルアンルパ」

ドクメンタ15の芸術監督「ルアンルパ」

ドクメンタ15には、インドネシアのアート・コレクティブの「ルアンルパ」が芸術監督に選ばれた。東アジア出身者で、かつグループが選ばれるのはドクメンタ史上初だ。ルアンルパは2000年、表現の自由と集会の自由が厳しく制限されていたスハルト政権末期に美術学校で学んでいた学生たちが結成。アートスペースの運営をはじめ、展覧会やワークショップなどを通して、インドネシアの都市生活や文化的課題にアプローチしてきた。

2020年には、ドクメンタ15のためにルアンルパのメンバーのうち2人がカッセルに移住。彼らが掲げるモットー「Make friends, not art」(アートではなく友だちをつくろう)のもと、地元カッセルとの親交を深めてきた。またドクメンタ15には、アート界のスターではなく、主にグローバル・サウス(アフリカ、アジア、南米など、資本主義のグローバル化によって負の影響を受ける人々や場所)のアーティストやコレクティブを67組招待。その多くがカッセルに長期滞在し、展示やパフォーマンスだけでなく、庭の手入れや食事会、カラオケの夕べ、美術館内のスケートボード場や野外サウナなど、想像力に溢れた場所を創り出している。アーティスト同士の交流やカッセルでのプロジェクトは、ドクメンタ15の閉幕後も続いていく予定だ。

反ユダヤ思想をめぐる論争も

オープニング直後の6月21日、反ユダヤ主義と批判された作品が布で覆い隠されるという異例の措置が取られた(写真下)。問題となったのは、インドネシアのタリン・パディが2002年に発表した垂れ幕の作品「People’s Justice」(人民の正義)。インドネシア軍事政権下での困難を他国の戦争や暴力と結びつけて批判的に表現した本作には、イスラエルの国家情報機関のメンバーや、SS(ナチス親衛隊)の帽子を被った人物などが描かれていた。

「People’s Justice」(人民の正義)「People’s Justice」(人民の正義)

ルアンルパやタリン・パディは声明を出し、反ユダヤ主義との関係を否定した上で、作品によって傷ついた人々への謝罪を述べた。作品はその後撤去され、ほかの出展作も改めて審査されるという。また今後、連邦政府からドクメンタに資金提供すべきでないとの意見や、それに対して「芸術の自由」の侵害ではないかという懸念も。6月29日には「芸術における反ユダヤ主義」と題したパネルディスカッションも行われたが、それ以降も一部アーティストが展示を自主的に取りやめるなど、論争の着地点は見えていない。

しかし、こうした混乱の影にドクメンタ15のエネルギーに満ちた空間が覆い隠されてはならない。非欧米圏を中心とするアーティストたちの視点を通して、西欧中心では見えにくい差別や社会問題に光を当てること、そして新たな世界の捉え方を提示することこそが、ドクメンタ15が目指すところなのだから。整然と並べられた作品を鑑賞するだけではなく、世界各地のコレクティブは、あらゆる体験を通して人々と語り合うよう来場者をいざなっている。

参考:www.documenta-fifteen.de 、The New York Times「Documenta was a whole vibe. Then a scandal killed the buzz.」、Süddeutsche Zeitung「Antisemitismus-Eklat im Mittelpunkt: documenta geht weiter」

ドクメンタ15をひもとくキーワード

ドクメンタ15では、コンセプトやアートに取り組む姿勢を表す、さまざまな言語のキーワードを掲げている。それは「英語が世界共通語」という西欧中心の考え方から距離を置き、ほかの文化圏の価値観から学ぼうとする姿勢でもある。ここではその一部を解説する。

KEY1ルンブン Lumbung

インドネシア語で共有の米倉のこと。同国では、農家が収穫して余った米をルンブンに貯蔵し、共同体で分け合うという。ルアンルパは、この言葉をドクメンタ15の中心的なコンセプトとし、さまざまな資源やエネルギー、資金、アイデア、知識などを共有し、分け合うことをテーマとした。ドクメンタ15の参加アーティストやコレクティブは、ルンブン・メンバーおよびルンブン・アーティストと呼ばれる。

KEY2マジェリス Majilis

アラビア語で、共同体の重要な問題を決定するための集会を指す。ドクメンタが始まる前からドクメンタチームや参加アーティストを集めたマジェリスや、小さなグループに分かれてのミニマジェリスが何度も開かれ、アイデア交換や重要な決定を行うほか、参加者同士の交流を深めた。

KEY3ノンクロン Nongkrong

インドネシア語のスラングで、仲間とぐだぐだおしゃべりしたり、お酒を飲んだりすること。インドネシアには昔から根付いている習慣で、ぶらぶらと時間を過ごすなかで自然な交流が生まれるという。ルアンルパはドクメンタ15の楽しみ方として、来場者にもこの方法を勧めている。

ドクメンタ15の必見会場6選

ドクメンタ15では、中心部のミッテ地区や緑豊かなフルダ地区をはじめ、ノルトシュタット地区、工業地域のベッテンハウゼン地区など、市内に点在する計32カ所で展示が行われている。そのなかでも、特におすすめの会場と作品をピックアップ。

INFORMATION
開催期間:2022年6月18日(土)〜9月25日(日)
開催時間:10:00〜20:00
チケット:1日券27ユーロ(19ユーロ)、2日券45ユーロ(32ユーロ)、夜間入場券12ユーロ(8ユーロ)、ファミリー券60ユーロ、全期間券129ユーロ(104ユーロ)
※かっこ内は割引価格
www.documenta-fifteen.de

ドクメンタ15 MAP

ルルハウス1. ruruHaus

ruruHaus MAP

ドクメンタ15の「リビングルーム」とされているruruHausは、もとは1950年にオープンしたデパートだった場所。ドクメンタ15のオープン前から、ここでアーティストたちによる会議や食事会などが行われ、期間中も展示はもちろん、シンポジウムやワークショップ、ディスカッションなどさまざまなイベントが催される。ドクメンタの案内所をはじめ、書店やカフェ、スマートフォンなどの充電ステーションも完備されているので休憩場所として利用するのも◎。

Obere Königsstr. 43, 34117
www.ruruhaus.de

フリデリチアヌム2. Friederichianum

Friederichianum

Friederichianum

Friederichianum

ドクメンタのメイン会場の一つ。ドクメンタ15では、フリデリチアヌムに「Fridskul」(Fridericianum als Schule、学校としてのフリデリチアヌム)という新たな名前を付け、さまざまな教育の可能性を探るという。作品の展示だけでなく、アーティストたちの居住・作業スペースやキッチン、図書館、子ども向けのワークショップスペースや託児所などもあり、「学びの場」として機能する。アジアやアフリカ各国のコレクティブによる、さまざまな国の芸術的・政治的活動を記録したアーカイブを観ることができるほか、アボリジニの主権を守るために闘う人々のイメージが鮮やかな色彩で描かれた、リチャード・ベルの絵画作品も必見。

Friedrichsplatz 18, 34117

ドクメンタハレ3. Documenta Halle

Documenta Halle

Documenta Halle

Documenta Halle

ドクメンタハレへの入り口は、さびたトタン屋根でできた構造物になっている。これはナイロビのコレクティブWajukuu Art Projektによるもので、ここをくぐると彼らのインスタレーションがナイロビのストリートノイズと共に現れる。キューバ出身のタニア・ブルゲラを中心とするINSTARは、一党独裁が続くキューバ政府から厳しい検閲を受けたアーティストらの作品を展示。ドクメンタという国際展を通して、表現の自由や社会平等を守るための切実な声が世界に届けられる。ほかにもバングラディシュのアーティスト集団Britto Arts Trustによる大壁画をはじめ、タイのコレクティブBaan Noorg Collaborative Arts & Cultureによるスケートボード場では誰でも滑ることができるなど、圧巻の大型作品が並ぶ。

Du-Ry-Str.1, 34117

4. WH22

WH22

会場は19世紀にワインショップ「グンデラッハ」の本社ビルとして建設され、その後はクラブやバーが軒を連ねるナイトライフの中心地だった所。パレスチナのコレクティブThe Question of Fundingは、ガザ地区のアーティスト集団Eltiqaと展覧会を共同で企画。彼らは開催前には反ユダヤ主義の疑惑をかけられたが、実際に展示がスキャンダルになることはなかった。またトリニダード・トバゴのAlice Yardは、100日間のレジデンスプログラムを実施。9人の招聘アーティストがここで生活し、カッセル各地の会場で作品を展開する。

ハーフェン通り765. Hafenstraße 76

Hafenstraße 76

カッセルにはかつて貨物輸送のための港があり、古い産業用の建築が多く残るエリアがある。1907年に建てられたHafenstraße 76の建築もその一つで、9組のアーティストが作品を展示。数あるインスタレーションの中でも注目したいのが、ベルリンのグラフィックアーティスト、Nino Bullingによるドローイング作品だ。シルクに描かれたシンプルな線の中に、クイアの人たちの情緒溢れる愛の物語が広がっている。ベルリンで活動する3人組のコレクティブFehra's Publishing Practicesは、冷戦時代の公文書を訪ねる3人の女性を題材にしたフェミニズムの物語『Borrowed Faces』を、コミカルなフォトノベルで展開する。

Hafenstr. 76, 34121

ヒュブナー社跡地6. Hübner-Areal

Hübner-Areal

ベッテンハウゼン地区は、ドクメンタ15が新たに会場にした工業地域で、この建物はバスや列車などの部品を製造するヒュブナー社がつい最近手放した場所。マリからは世界的に有名なフェスティバルを立ち上げたFondation Festival sur le Nigerが参加し、マリの伝統的な操り人形をはじめ、コンサートや演劇、映画などを展示。会場内に張られたテントには円形のクッションを並べた団だんらん欒空間が広がり、アーティストらや来場者でティータイムを楽しめる。またJatiwangi art Factoryは、屋根瓦や石のインスタレーションを展示するほか、音楽ライブやパフォーマンス、ディスカッションなどを通じて展示ホールを活性化させる。

Agathofstr.15, 34123

知ればもっと世界が広がる注目すべきアーティスト&コレクティブ

ドクメンタ15が世間を驚かせたことの一つは、スターアーティストがほとんど参加しておらず、世界各地でローカルに活動するコレクティブが招待されたことだった。メイン会場以外にも、ぜひドクメンタで観るべきアーティスト&コレクティブをご紹介する。

インドネシアAgus Nur Amal PMTOH

Agus Nur Amal PMTOH

インドネシアのストーリーテラー、Agus Nur Amal PMTOH。ドクメンタ15の記者会見では、自作の段ボール製テレビと一緒に登場。カッセルの子どもたちとのワークショップをもとに作ったフルダ川の未来についての歌を歌い、喝采を浴びた。グリムヴェルトでは、そんな彼の色彩豊かで遊び心いっぱいのインスタレーションが広がり、生き生きとした物語の世界をさらに楽しめる。

展示場所:Grimmwelt Kassel(Weinbergstr. 21, 34117)

ウガンダWakaliga Uganda

Wakaliga Uganda

Wakaliga Ugandaはウガンダの貧民地区を拠点とする映画制作チームで、超低予算(推定200米ドル)で制作されたアクション映画で知られる。ドクメンタハレの一番奥には、自作の映画ポスターがたくさん貼られた暗い廊下が続き、そこを抜けると彼らの長編映画が上映されている。低予算で制作されたとは思えない、華麗なるアクションと驚きのストーリー展開に爆笑・感動必至。

展示場所:Documenta Halle(Du-Ry-Str.1, 34117)

ベトナムNguyen Trinh Thi

Nguyen Trinh Thi

ハノイ出身の映画監督Nguyen Trinh Thiは、フルダ川近くの旧砲塔にインスタレーションを設置。ベトナム北部の収容所を描いた自伝的小説『Chuyen ke nam 2000』の一場面をモチーフに作られた空間で、暗い通路を通り抜けると、円形の部屋の壁に映る影の戯れが目に飛び込んでくる。哀愁を帯びた柔らかなフルートの音色は、北ベトナムの森で吹く風によって奏でられているもの。

展示場所:Rondell(Johann-Heugel-Weg, 34117)

ケニアThe Nest Collective

The Nest Collective

ナイロビのThe Nest Collectiveは、カールスアウエ公園に古着で造られた小屋を立て、中では古着のビジネスに関わる人たちのインタビューが上映されている。映像の中では、欧米のファストファッションへの飢えがいかにアフリカ諸国の犠牲になっているかが印象的に語られる。古着の小屋の周囲には、古い電化製品のゴミの塊も置かれ、先進国での無秩序な消費に対して警鐘を鳴らす。

展示場所:Karlsaue(An der Karlsaue)

ハイチAtis Rezistans|Ghetto Biennale

Atis Rezistans|Ghetto Biennale

ベッテンハウゼン地区にある聖クニグンディス教会は、1927年にコンクリートで建てられ、第二次世界大戦の空襲からも無傷であった建築だ。ハイチのアート集団Atis Rezistansはここで、ハイチのブードゥー教やスピリチュアリティーをテーマにした彫像とサウンド作品を展示。むき出しの教会の魅力と、彼らのインスタレーションが見事に調和する様に、思わず息をのむ。

展示場所:St. Kunigundis(Leipziger Str. 145, 34123)

INTERVIEW

日本からのドクメンタ15参加アーティストCINEMA CARAVAN & 栗林隆

CINEMA CARAVAN & 栗林隆

ドクメンタ15に日本から唯一参加している、CINEMA CARAVAN&栗林隆。ドクメンタの期間中、カッセル各所で地元のハーブを使ったサウナ「元気炉」や映画上映会、DJ、バーなどを展開する。彼らがドクメンタに参加した経緯や、オープニングを迎えた今の思いを聞いた。

PROFILE

栗林さん(左)と志津野さん(中央)栗林さん(左)と志津野さん(中央)

CINEMA CARAVAN
志津野 雷 Rai Shizuno

写真家、CINEMA CARAVAN主宰。「地球と遊ぶ」をコンセプトに、写真家やミュージシャン、大工、料理人らと共に移動映画館プロジェクトを、ホームである逗子海岸映画祭をはじめ、世界のさまざまな場所で実施している。
https://cinema-caravan.com

栗林 隆 Takashi Kuribayashi
日本の美術大学を卒業後、カッセルやデュッセルドルフなどで12年間暮らす。「境界」をテーマに数々の大掛かりなインスタレーションを制作。2005年から逗子、2013年からはインドネシアでも活動。
www.takashikuribayashi.com

これまでの歩みがドクメンタへの道に

CINEMA CARAVANの志津野雷さんと栗林隆さんが出会ったのは2007年、核燃料の再処理工場がある青森県六ヵ所村を旅した時のことだった。そこでの二週間の旅は、今回のドクメンタ参加につながる原点でもあると二人は語る。

志津野:僕をはじめとする逗子のサーファー仲間は、海や自然から恩恵を受けているので、六ヵ所村で出る汚染水に対して疑問を感じていました。再処理工場で何が起こっているのか自分たちの目で確かめたいとの思いから、青森へ向けてキャンプをしながら北上し、それぞれの場所で上映会やトークを開催。隆くんはドイツから日本に帰国して1年くらいのころで、共通の友人を通じてこの旅に参加してくれました。現在に続く仲間たちにも、その時に出会っています。

その後、志津野さんはCINEMA CARAVANを仲間たちと立ち上げ、栗林さんもアーティストとしての活動を続けていた。そして2013年、栗林さんはインドネシアに拠点を構えることになり、現地でドクメンタ15の芸術監督ルアンルパと知り合う。地元コミュニティーとつながりながら活動するルアンルパは、CINEMA CARAVANの活動とも共鳴する部分が多い。そのため栗林さんの紹介で志津野さんもインドネシアへ行ったり、逆にインドネシアのチームを逗子に招待したりと、ゆるやかな交流が続いた。

栗林:ルアンルパがドクメンタ15の芸術監督に決まったという話を聞いたのはコロナ禍中のことで、僕自身はちょうど原発の形を模したサウナ「元気炉」をつくり始めたころでした。西欧中心や資本主義的なアートの在り方が行き詰まりつつある今、アート界のど真ん中の人ではなく、彼らのようなコレクティブが選ばれたことが、すごく誇らしくて痛快で。「僕らもルアンルパを応援しにカッセルへ行こう」と、志津野とも話していました。そうしたら2年後くらいに、ルアンルパのメンバーから直接、「隆とCINEMA CARAVANをドクメンタ15に招待したい」と連絡が来たのです。

「移動式」と「蚊帳」のアイデア

CINEMA CARAVAN & 栗林隆

こうしてドクメンタへの参加が決まり、カッセルでの滞在を重ねながら構想を練っていくが、肝心の展示場所がなかなか見つからなかった。そこで思い付いたのが、自分たちがこれまでやってきたように、場所を選ばない「移動式」のキャラバンを行うことだった。

栗林:移動式にするなら、できるだけ軽く作る必要があります。そこでひらめいたのが「蚊かや帳」を使うこと。「蚊帳の外」という言葉は、日本だけでなくアジア各国にもある表現ですが、ルアンルパのようにアート界の中心から「蚊帳の外」だと思われていた人たちが、今回芸術監督として「蚊帳の中」に入ってきているし、僕らもまたドイツに来れば「蚊帳の外」の人間です。ルアンルパの「Make friends, not art」というモットーのように、今度は僕らが蚊帳を立てて、その中に「蚊帳の外」の人たちをどんどん迎え入れることで、友だちをつくろうということになりました。

オープンの約1カ月前にカッセル入りしてからも、展示場所の決定をはじめ、作業スペースや材料・工具の確保などに苦戦。さらに食当たりになり、3日間寝込むという災難に見舞われた二人……。そんなピンチを救ったのも、かつてドイツで紡いだ縁だった。

栗林:今回のドクメンタで展示の現場監督を務めているのが、なんとかつてカッセルの美大で一緒に学んだ同級生でした。28年ぶりの再会を喜びつつ、現状を伝えたところ、僕たちにの制作に必要なものを全て手配してくれて。あれは本当に助かりました。

志津野:この話もそうですが、今回ひしひしと感じたのは、これまでの僕たちの活動、ドイツ、日本、インドネシアでの小さなコレクティブの物語が、お互いを引き寄せ合ったりつないだりしてくれたということ。過去のさまざまな縁が、僕たちにここまでの道を提示してくれたように思います。

CINEMA CARAVAN & 栗林隆

キャラバンが運んでくる自由気ままな「オアシス」

そうして迎えたオープニングの日、薄い蚊帳(かや)をまとったオープンエアのハーブサウナ「元気炉」や映画上映会、バー、DJ ブースが集まる心地よい空間がカールスアウエ公園に現れた。空が薄暗くなってきたころにぽっと明かりがともり、さまざまな国からのアーティストや来場者、散歩で公園を訪れた市民たちが集まってくる。心地よい音楽や映像が流れ、サウナの中でも知らない人同士が語り合ったりと、自然と人の交流が生まれていた。

栗林:オープンから数日を経て、今回のドクメンタで僕らに託されている部分がなんとなく見えてきました。それは「シリアスにならないこと」(笑)。ドクメンタでは政治的なメッセージや現在起きている論争はもちろん、来場者に考えることを求める作品も多い。それは大切なことですが、一時そういうことを忘れて、心の底から笑ったり話したり感じ合えるような場所って、実はとても重要なのではないかと。

志津野:ドクメンタが激しいメッセージを出せば出すほど、僕たちのこういうポジションが大事になってくる。自分たちがただ気楽に楽しんでる空間が、ドクメンタ15にとってもいい響きになっていると、オープンから数日で手応えを感じています。

キャラバンは移動式のため、最初はカールスアウエ公園で始まり、次はフリードリヒ広場、ハーフェン通り76に移動。そして次にどこへ行くかは、風の赴くままに決めていくという。

栗林:次の移動場所をどこにするかは、今の設営が終わってから考えようかなと。僕たちの作品に遊びに来た人の話を聞くと、「CINEMA CARAVANのサウナ最高だぞ!」といううわさを聞いたという人が多くて。だけどある日突然、その場所がまっさらになって何も無くなっている。「もういなくなっちゃったの?」「あれは何だったの?」と話しながら、次どこに僕らが現れるか、みんながワクワクしながら待っている。その感じがなんだか面白いです。

栗林さんがカッセルで剣道を教えていた教え子とも、28年ぶりに作品の前で偶然再会したという栗林さんがカッセルで剣道を教えていた教え子とも、28年ぶりに作品の前で偶然再会したという

カッセルの街にふと現れる、不思議なエネルギーに満ちた空間。そこで人々が笑い語り合い、そして心を休める様子は、まるで長い旅路の中で出会うオアシスのようだ。ドクメンタ15を訪れる際は、ぜひ彼らが運んでくる温かなひとときを楽しんでほしい。

最終更新 Dienstag, 27 September 2022 10:49
 

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