Hanacell

特別寄稿・ドイツ再統一25周年
歴史学からとらえる
「ドイツ再統一」経済史研究者の視点から

1989年11月9日の「ベルリンの壁崩壊」のニュース。当時、大学で経済学を研究していた私は、言葉にならない焦燥感に駆り立てられ、その現場をこの目で一目見ようとベルリンへと向かったのでした。ドイツは再統一を果たし、25年を経て経済史学の教鞭を執る立場となった今、こうした大事件を正しく後世に伝える方法は何かを考えています。
(大阪大学大学院経済学研究科教授 鴋澤 歩)

Ayumu Banzawa 鴋澤 歩 Ayumu Banzawa
大阪大学大学院経済学研究科教授。1966年生。専門分野 は経済史・経営史。工業化期 ドイツにおける鉄道業の展開を多角的に調査。著書『ドイツ工業化における鉄道業』(有斐閣、2006年、第50回日経経済図書文化賞)、『西洋経済史』(共著、有斐閣アルマ、2010年)、『ドイツ現代史探訪―社会・政治・経済―』(編著、大阪大学出版会、2011年)

世代間の歴史的実感の差

現在、京阪神のいくつかの大学で経済史学の講義を受け持っています。講義の題目に「西洋」や「外国」 などの言葉が付くことが多いということは、研究者としての専攻に近いところを教えることができているわけで、これは最近の大学教員としては恵まれているほうです。例えば「西洋経済史」という科目を受け持つわけですが、中世から始めて、1セメスター(半年間の学期)計15回の授業進行が順調に進めば、学期の終わり頃には現代史、つまり20世紀西洋(欧州、米国)史を取り扱うことになります。

ご多分に漏れず、40代も終わりの年齢になると、教室で接する学生たちとの世代差による感覚のズレに気づかされることが増えてきました。もっとも、授業中にスマートフォンでLINEを、というようなことは、単純にマナーの問題です。私語や「内職」の小道具が変わっただけのことですから、それほど当方もショックを受けることはありません。

深甚な衝撃を与えてくれるのは、やはり彼らとの時間の感覚の差異、さらに大げさにいえば、現代史をめぐる歴史的実感の隔たりです。

要するに、「ああ、この18歳から20代前半の大学生や大学院生は、"ベルリンの壁崩壊"や"ドイツ再統一"をリアルタイムでは知らないのだ」ということです。今20歳の学生が生まれたのは……と指を折って数えるまでもないこの当然の事実に気づくと、いつも驚きを禁じ得ません。

ドイツ再統一までの
近代ドイツ史年表

1866 普墺戦争
1867 北ドイツ連邦成立
1870/
1871
普仏戦争、
ドイツ帝国成立
1888 ヴィルヘルム2世即位
1890 ビスマルク帝国宰相辞任
1914~
1918
第1次世界大戦勃発
1933 ヒトラー内閣成立
1938 「水晶の夜」事件
1939〜
1945
第2次世界大戦勃発
1949 アデナウアー内閣成立
1961 ベルリンの壁構築
1963 エアハルト内閣成立
1972 ミュンヘン・
オリンピック開催
1989 ベルリンの壁崩壊
1990 東西ドイツ再統一

「近現代経済史」という授業の憂うつ

20世紀経済史について、講義の場で語るべきトピックは豊富です。「20世紀」といっても、もちろん1901年1月1日から話が始まるわけではありません。まずは、「短い20世紀(1914~91年)」という、英国の歴史家エリック・ホブズボームが提唱した歴史区分を、ここで学生諸君に覚えてもらうことになります。1914年、第1次世界大戦の勃発によって、18世紀末以降、「革命の時代」「資本の時代」「帝国の時代」を通じて確立した欧州の市民社会が崩落し、いわゆる「長い19世紀(1789~1914年)」が終わります。この後、ホブズボームいうところの「極端な時代」、つまり、世界戦争と革命と大恐慌の時代がやってきました。経済史が取り扱うのは、世界大戦=総力戦を支えるための統制経済体制の出現、社会主義革命とソビエト連邦・計画経済のインパクト、世界大不況と様々な全体主義の台頭、第2次世界大戦という再びの破局、冷戦体制下の西側における復興と高成長……、といったところでしょう。

そして、こうした「短い20世紀」の終焉について教室で話すとき、1991年のソビエト連邦の崩壊にせよ、それに先立つ1990年のドイツ再統一にせよ、それらがつい最近の出来事であることを、私はまるで疑っていません。「皆さん、ご存じの……」と、自然に言ってしまいますし、決して「ご存じ」ではないと分かっていても、「あの」とか「例の」などという口調になってしまうのです。

そういうときは決まって、困惑したような、白けたような気配が伝わってくるのが分かります。学生にしてみれば、「このおじさんは何を大昔のことを、さも見てきたかのようにしゃべるのだろう? まあ、アナタは知っているかもしれないけれど、こっちは生まれる前のことでねえ……」でしょう。

加齢とともに時間の経過が早く感じられるというのには医学的根拠があるそうですが、しかし25年など、あっという間とは言わないまでも、それほど昔のことではありますまい、と言いたくはなります。25、6年前、私は大学院の1年生でしたが、本質的には今とあまり変わらない生活をしていました。学生時代と変わらず、いまだに坂の上の同じ大学に毎日通っているのがそもそもおかしいのかもしれませんし、院生室で隣の机に座っていた同期の院生が現在の職場の同僚、というような極めて狭い世間に生きているのも我ながらどうかとは思いますが、そのせいか頭の中身も、残念ながらそれほど進歩したわけではないようです。だからでしょうか、四半世紀の隔たりをそれほど実感できないのが、正直なところです。

「壁崩壊」直後のベルリンへ

1990年10月3日に行われた統一記念式典にて国旗掲揚
1990年10月3日に行われた
統一記念式典にて国旗掲揚

それに何より、私は確かに「ベルリンの壁崩壊」や「ドイツ再統一」を、少なくともそのほんの一局面だけは、この目で見ることができた気がするのです。

1989年の日本時間で11月10日の午前中、テレビのニュースであの(と、ここでもつい書いてしまいましたが)、壁崩壊の夜の光景を目にして仰天し、いろいろと考えた末に、何とかしてベルリンに行かなければならないという考えに、その日のうちに取りつかれていました。そして年が明けた2月には、私は生まれて初めて、滑稽にもこれが最後の渡独かもしれないと一種悲壮な思いすら持ってドイツの土地を踏み、当時の西ベルリンから「壁」をくぐって東ベルリンへも入りました。

「壁」の構造物そのものは、すでに物理的な破壊が かなり進んでいましたが、コンクリートの壁に大きく開いた穴の赤茶色い鉄骨の隙間から、東独の国境警備隊員たちが苦笑に近い表情でこちらを見ていたのですから、なお「壁」は残っていたといえます。「壁」の上に立って見知らぬ見物人同士が互いに写真を撮り合い、それは大したツーリストぶりではありました が、一定額の東ドイツマルクとの換金の義務を果たして国境を通過するという経験には、まだ何かしらの緊張感は残っていました。一見ご大層な東独の貨幣を換金所で受け取ったとき、その軽さにひどく驚きました。軽金属製貨幣の頼りなさは、今も掌にあります。

年寄りの思い出話でしかないこんな私事を授業でしゃべったりはしませんが、どんな重要事件でも、四半世紀前の出来事をついこのあいだ経験したことのように説明すると、小さなディスコミュニケーションが教室に生じるのでした。しかし、これは仕方のないことです。

それこそ、実際若い学生だった1989~90年頃の私の前で、先生が25、6年前の、例えば中ソ論争だの部分的核実験停止条約締結だの、いよいよ仕上げ段階に入っていた所得倍増計画だの、あるいは68年のピークに向かって高揚と膨張を続けていた学生運動だのの話を、「あの」「君たちもよく知っている」ことのようにしゃべっていたら、それは違和感を覚えたに違いありません。何しろ、私は生まれてもいなかったのですから。東京オリンピックや東海道新幹線開通(ともに1964年)には、何の記憶の持ちようもないのです。

先行する世代が、自分たちの経験を絶対視して後続の世代にそれを押し付けることは、何にせよ感心できないことですし、教師は特に避けるべきことでしょう。我が国の教室では、これまでそれが必ずしも守られていなかった、むしろその逆ですらあったことを考え、今日のその結果をみると、これは確かだと思えます。

ブランデンブルク門
(上)「壁」建設直前のブランデンブルク門前(1961年)
(下)「壁」崩壊直後のブランデンブルク門前の様子(1989年)

「再統一」以前のドイツ史

およそ25年前の、さらにその25年前の歴史について振り返ってみましたから、この試みをドイツに当てはめて続けてみましょう。1989年の25年前、1964年のドイツは、ルートヴィヒ・エアハルトが西独の首相でした。「経済の奇跡」のスタートを演出した経済相だったエアハルトは、63年にようやく初代首相コンラート・アデナウアーの後を襲ったばかり。「社会的市場経済」というそのモットーは、東側・社会主義体制への鋭い対抗意識に裏打ちされています。63年には、当時の米大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問しています。「Ich bin ein Berliner! (私は1人のベルリン市民だ)」* で有名な (という言い方も、いまどきの教室では良くないのかもしれませんが)訪問です。「壁」はまだ61年にできたばかりで、冷戦下の西ベルリン市民は米国に見捨てられる恐怖を、このケネディの演説で拭わなければならなかったのでした。

さらにその25年前は1939年。ドイツはナチス体制下にありました。89年の「壁」崩壊が始まった11月9日は、38年においては「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人大迫害事件の初日でした。39年9月、アドルフ・ヒトラーはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦の火蓋を切ります。

さらにその25年前は1914年。第1次世界大戦が勃発した年です。クリスマスの頃には勲章の1つも下げて帰国できるはずだった兵士たちは、誰も予期しなかった長期戦と大量殺戮に投げ込まれることになりました。15年初頭には、銃後での食糧配給制度が始まります。

それから25年をさかのぼると、ドイツ帝国のビスマルク時代が終焉を迎えていました。「第2次産業革命」の時代で、1889年にダイムラーが自動車を製造しました。新帝ヴィルヘルム2世との衝突により、オットー・フォン・ビスマルクが自身で作り上げた帝国の宰相を辞任したのは、1890年のことです。その25年前といえば1860年代の半ば。「ドイツ」という統一国家はまだなく、「ドイツ連邦」の各邦君主たちが集まる連邦議会の議長国オーストリア帝国と、ドイツ関税同盟の議長国プロイセン王国とが、「ドイツ」の主導権をめぐって角逐しているところでした。1866年の普墺戦争で、ようやく統一の主導権がビ スマルク首相率いるプロイセン王国の手に落ちます。

さらにその25年前といえば……もう良いでしょうね。こうしてみると、近現代のドイツ史の展開が極 めて急激だったことが改めてよく分かります。「一身にして二生を経るが如く」という福沢諭吉の言葉がありますが、再統一の1990年に70代半ば以上だった人々は、帝政、ワイマール共和制、ナチス期、東西のいずれかの体制、統一ドイツと、いわば"五生"を経験したことになります。

*第35代米合衆国大統領ジョン・F・ケネディが、冷戦時代、東西に分裂されていた旧西ベルリンで行った演説の一節。ベルリン市民に勇気と希望を与えた。

ポツダム広場
ポツダム広場にある壁の展示(筆者撮影)

「希望」を伝えるには

気づかされるのは、およそ25年ごとに起こった出来事と比べて、ドイツ再統一を生んだ「ベルリンの壁崩壊」が、激烈ではあっても血なまぐささの薄い、端的にいって、はるかにまともな出来事だったということです。戦争によって失われた何ものかが回復されたというだけではなく、そこには何か新しい、より良いものが近づいてくる予感が感じられました。いっそのこと、それをもう一度、希望と呼んでもいい。私も含めた無数の能天気なツーリストまでをも世界中から惹きつけたのは、その希望の匂いだったのではないかと思われます。目の前の出来事が、自由や人権といった言葉を輝かせてくれる。そんなことが、ドイツ史に限らず、私たちの現代史にそう多くあったでしょうか。

この「希望」そのものが、後の世代にも伝えられるかどうかは疑わしいことです。実感や記憶は掛け替えのないものですが、それらを伝承することは、おそらく思うようにはできないことなのでしょう。また、25年の歳月のうちに、「希望」がある意味では色褪せたことも、残念ながら私たちは知っています。

ただ、それでも、そこに確かに希望があったことは、伝えられるべきでしょう。そうでなければ「壁」崩壊も結局は、過去の無数の事実の1つ、1回きりの片々たる事件に過ぎないものになってしまいます。

歴史を伝えるには、話者の実体験やその場の感情を語り伝えることによってだけでは、やはり不十分であると思えます。それらが偏りや変形を免れないからだけではなく、事件の経緯を明らかにし、その含意をより広い文脈に位置付けること、すなわち、歴史的事件の意味まで理解するためには、生々しいその形のままでは、かえって役に立たない恐れがあるからです。ここにこそ、歴史学の出番があるのかもしれません。こんな風に思うのは我田引水というものでしょうが、かつて感じられた「希望」の意味を、"歴史"として距離を置くことで個々人が理解することは、将来に再び見出すべき希望の在り処を探るために、とても必要なことだと思えます。

そのとき、四半世紀、さらにそれ以上という時間の経過には、かえってメリットが生じることが期待できるのではないでしょうか。すなわち、揺らぎやすい記憶や同時代感覚をも、より確たる記録"史料"に昇華させ、理解の材料に変えられるかもしれません。歴史学の方法とは、これだといえます。もっとも、そのためには、四半世紀はどうも十分に長い時間とはいえないようです。日本をはじめ東アジアの戦後70年ですら、どうやらそのようなのですから。

しかし、もしもあと10年も同じように教壇に立っていられるならば、私も「ドイツ再統一」について、 きちんと歴史の中に位置付けて、伝えることができるかもしれません。その間に、「壁」や「再統一」、それを取り巻く私たちの時代については、この歴史学の方法がより正確な知識をより多く与えてくれるに違いありません。そのときには、教室での世代のギャップや違和感も、すでに感じる必要はなくなっているのではないかと思えます。これは希望的観測、ないしは私の教師根性というものかもしれませんが……。

 
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